2020年1月28日 (火)

60年前の1960年、50年前の1970年、今、何が変わったのか(2)1970年の私

 身辺の資料を整理していると、思いがけないところから、意外なものが見つかり、思わず読み入ってしまい、まるっきり片付かない日があったりする。私が在職していたころ、1970年代の国立国会図書館の組合関係の綴りが出てきた。私は、組合の役員をやったこともないのに、総会資料や機関誌、情宣ビラの一部などが結構まとめて残されていた。私は、レファレンス担当の法律政治関係の課に在籍、かなりの頻度で組合役員を出すような「自由な」雰囲気の職場だった。入館当初、直接の上司が組合の委員長でもあった。印刷カードのかなふりのローマ字が訓令式だったのを、突如ヘボン式への変更を強行しようとした、鈴木隆夫館長の<外遊みやげ>と闘っていて、館長を辞任にまで追い込んだと意気軒高!に思えた組合だった。周辺の課では、課長を除いて全課員が組合員であった。輪番制で職場委員になったこともある。当時は「婦人部」というのがあって、昇格人事における女性や学歴、それに発足当時来の非試験採用職員への差別などがいつも問題になっていた。それに、産休前後8週間要求(当時は6週間)、保育所難問題、女性職員の宿舎入居資格などが、よく取り上げられていた印象が強い。保育所入所難は、現在に至っても解消されていない大問題であるが、当時、職場内保育所設置が問題が浮上すると、「文化の殿堂たる図書館に、オムツがはためくんですかね」という男性職員も現れたりしたのだった。また、婦人部のあっせんで、「ハイム化粧品」が月一で、館内で店開きするのを手伝ったりした。安くて余計な添加物が少ない化粧品ということで、現在、生活クラブ生協でも扱っているので、私も利用することが多い。ただ、当時、池袋の実家の薬屋では、資生堂化粧品のチェーン店となって、その売り上げアップに必死になっていたころで、私も店に立てば、お客さんの花椿会入会を勧めていたりもしていた。また、女子休養室の新設が実現したので、「利用せねば」と昼休み出かけたりしたが、利用者に出くわすことはまれであった。
 そんな組合活動とは、つかず離れずの職員だったが、ある事件によって、組合というものに、一気に不信感を持つようになってしまった。私と同期入館ながら少し若い職員が、1969年11月16日、いわゆる佐藤訪米阻止闘争で逮捕され、12月初旬に起訴、年末に休職処分となる。組合執行部は、「民主勢力の統一と団結を乱す」から支持しない、組合の機関決定によらない行動だからという理由で救援しないことを決めたのである。
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組合の機関誌『スクラム』222号(1970年1月27日)。1969年の年末にでた休職処分について、各職場代表により特別委員会が設置されたことを報じる。それ以前に開かれた評議員会では、その職員の行動は、組合の決定によるものでもなく、運動方針に沿うものでもないが、基本的人権の観点から、判決前の休職処分の不当であることを確認、今後、執行部は、特別委員会の助言による旨が記されている。

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館内の有志「6/15統一行動への参加を呼びかけた会」から出された『窓』、第1号(1969年6月30日)の巻頭には、「窓をあけましょう。このままでは息がつまりそう。」とある。その編集後記では、「逆セクトは望まない。とはいっても相手のあること、どうなるかわからない。『窓』の誌名はいつでも捨てて良いと思っている。窓は壁よりこわれやすいものなのだから。自らに問い自己理解を深め、新しい意識へ、そのための広場としたい」とあった。「6/15統一行動」とは、中核など8派政治組織と15大学全共闘と市民団体が加わり229団体による「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6・15集会実行委員会」が開いた「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6・15統一行動」で日比谷野外音楽堂における5万人の集会で、デモのさなかに吉川勇一ら71名逮捕されている。誌面は、テーマも自在で、広く内外の政治問題から市民運動の在り方、館内の諸問題を語り合う場であったようだ。出入り自由の集いであったが、私は参加せずじまいで、昼休みの会のあと、処分職員救援や組合批判について熱く語る僚の話を聞くことが多かった。

  各職場での討議が重ねられたが、組合の決定に疑問や不信を募らせる職員も多かった。そして、処分職員を支援する会が発足した。組合は、権利の問題として処分の撤回を求め、公平委員会が開催されることになる。請求者職員の代理人として羽仁五郎や吉川勇一、直接の上司らが陳述した。中山伊知郎委員長と使用者側・職員側各二名と中立代表が衆参議院運営委員長(自民党)という構成の公平委員会のもと2回にわたる公開審査がなされた。委員の多数決(4対3)で、休職処分には違憲性、違法性がなく承認するという判定となった。 

 初めて開催された公平委員会となって、その規程にも様々な不備が指摘される中、館当局も組合も請求者側も苦労が多かったようだ。傍聴者数も限られていたが、私も一回だけ傍聴することができた。傍聴席からヤジも飛んだりして、緊張した雰囲気の中で行われていた。記録によれば、請求者の陳述は、1万字を超えるものであった(『十一・一六佐藤訪米阻止闘争と国立国会図書館―公平委員会の記録』記録刊行会 一九七一年4月)。陳述で訴えたのは、自分自身の日常の生活を佐藤訪米阻止に賭けることになったのは、<真理は我らを自由にする>という国立国会図書館法前文の精神を冒涜し続けている図書館の日常、「当局者のみならず、組合さえも、その中で昇任昇格や、手当の増額しか考えず、ベトナムの問題もその手段としか考えていない。そんな状況の中で目をつぶることが出来なかったのです。王子で(1968年、野戦病院設置反対デモの野次馬であったとき)機動隊が平然と『黙れ、朝鮮人』と言ってのけるような現実を聞き流していいのでしょうか」と、その動機を述べていた。さらに、「日米安保条約のもとで参戦の道を歩み、しかもその方向がなお一層進められている私たちのまわりにはさまざまな抑圧された状況が作り出され社会不安がうずまいています」、そうした中での「佐藤訪米」「日米共同声明」の持つ意味は何なのか、と訴えている。アメリカのアジアの軍事的支配によって朝鮮、台湾、ベトナム、ひいては日本自身の平和と安全が確保され、日本への沖縄72年返還によって基地が強化されることを前提にするものであるとも述べている。自分がとった行動は「反戦という目的のため」であるにもかかわらず、「図書館内外にわたって好ましくない影響を与える恐れがあると判断し、それらの支障を未然にふさぐためといった抽象的一般的な推測をもって休職にすることは不当であり検察庁と一体となって政治的弾圧を加えていると断ぜざるを得ません」と述べている。

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1970年9月末に開かれた組合定期総会の議案書の表紙と「起訴休職処分反対の闘い」と題した総括部分である。1.組合としての救援活動は行わない。2.館当局の同君に対するいかなる処分にも断固反対し、これを口実とする組合活動への干渉・攻撃と闘う。3.これを機会に安保廃棄、沖縄即時無条件全面返還を真にかちとるため、どう団結を強め闘うかについて積極的に組合内の合議をおこす」とある。

 1970年6月に、公平委員会は、委員の4体3の多数決で、休職処分には違憲性も違法性もなく手続き上も問題なく、承認するという判定がなされた。9月には、休職処分取消を求めて提訴し、行政訴訟の段階に入った。長い準備手続きを経て。4回の口頭弁論の末、1972年11月に原告の請求はいずれも棄却されるという判決であった。

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館内有志による会やミニコミ誌がいくつか出され、組合の朝ビラ、情宣が盛んに撒かれた時期であった。上段は、処分職員を支援する会が70年2月に創刊した「会報」は、途中で「広場」と名を変えている。行政訴訟で第一審の判決が出た後は、部落問題と図書館、図書館創設当時の副館長だった中井正一論など幅広いテーマが載るようになった。下段は、館内の「(1969年)10・11月闘争救援会」発行のニュース。前年の佐藤訪米阻止運動で捕らえられた人たちの統一公判の要求を続けている中で、日常の私たちからは知り得ない事実を知ることができた。例えば、8号の「監獄法体制の粉砕を」の記事では、新憲法下でも1908年の「監獄法」は基本的人権がいかに無視されているかを知ることになる。その後、今世紀になって何度かの改正、最終的には、2007年、まさに100年を経て「刑事収容施設及び被収容者等の諸郡移管する法律」となったが、現在でも、ゴーン被告や籠池被告の長期拘留など問題は絶えない。

 1970年という年は、いうまでもなく、3月には大阪万博が始まり、赤軍派によるよど号乗っ取り事件が起きている。6月23日、日米安保条約は自動延長されるいたる。企業やそこで働く日本人はエコノミックアニマル、モーレツ社員と揶揄される中、新宿駅地下広場にはフォークゲリラと呼ばれる集会も続くという時代であった。そして11月には、三島由紀夫が市ヶ谷で自衛隊決起を呼びかけ、割腹自殺を図るという事件まで起こる。いわゆる日本経済の高度成長のゆがみは「公害」として、その被害は頂点に達し、不備ながら公害関基本法はじめ関連法が成立するのはこの年の年末であった。

 そして、個人的なことを言えば、1970年のクリスマスの近い朝、明治29年、1896年生まれの父が、他界した。9月の那須高原行きが、父娘の最後の旅だった。

 当時のことは、すでに、次のブログにも綴っているので、重なる部分もあったかもしれない。

今年の615日は、第一歌集『冬の手紙』(1971年)の頃を思い出す2018619日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/06/615-076c.html

 

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2020年1月25日 (土)

60年前の1960年、50年前の1970年、いま何が変わったのか(1)私の1960年

 今年に入って、60年前の1960年が、回顧される特集記事などをときどき見かけるようになった。日米安保条約調印が、60年前の1月18日であったからだ。私は前年の1959年12月に母を亡くしたばかりの大学生だった。調印時の記憶は定かではないのだが、6月19日の自然承認に至るまでの、半年間の記憶は、ところどころ鮮明に思い起こすことができる。これまでも、その頃のことを何回か、このブログでも書いている。年寄りの繰り言になってしまうのだが。

6月15日で、思い起こすこと(2019年6月16日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/06/post-fd0e28.html

 通っていた大学の自治会は、いわゆる全学連反主流派、共産党系に属していた。私は当時の全学連の勢力地図にもあまり関心がないまま、当然のように学内での安保反対の集会や国会周辺への“請願”デモには、ときどき参加していたように思う。勉強したいと思っていた法律関係の科目より、他の教養科目の方が面白く、やたらと聴講していたし、受験時代には我慢していた映画もよく見に行った。最初の夏休みには区役所が開いた映写技術講習会や大学が開いた書道講習に通ったりした。高校で「書」を選択した時の上条信山先生はじめ、豊道春海、熊谷恒子らそうそうたるメンバーの実技に接したりした。映画好きが高じて、1960年4月から、霞町にあったシナリオ研究所の夜間講座に通うというダブルスクールもやっていたので、ともかく忙しかった。自宅通学の私は、当時アルバイトをすることもなかったが、下宿や寮に住む友人たちは、家庭教師などのアルバイトで忙しそうだった。それでも、自宅のある池袋から、地下鉄の丸ノ内線の定期で、昼夜の通学、国会議事堂へも通えたのはありがたかった。友人とあるいは一人で集会やデモに参加すると、衆・参両議院の面会所前の歩道や車道はいつも人や隊列でごった返していた。車道では、全学連主流派の学生たちが勢いよくジグザグデモを繰り返しているのによく出会った。

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道路いっぱいに広がったフランスデモ、見ず知らずの人たちと手をつなぎ、スクラムを組んでいた。

 5月19日夜、衆院安保特別委で、新安保条約・日米協定を自民党が単独採決、19日12時直前に、警官隊を導入して、清瀬一郎衆院議長は会期延長を宣言、十数分後の20日午前0時6分に単独強行採決をしている。アイゼンハワー大統領の訪日予定が6月19日だったから、それまでには、なんとか新安保を承認させる必要があったのだ。

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1960年5月20日午前零時過ぎ清瀬二郎衆議院議長。議会への警官隊導入を最後まで反対したのが、鈴木隆夫衆議院事務総長だったそうだが、のちに、私が就職した国立国会図書館の館長になっていた。しかし、数週間後には辞任、参議院事務総長だった河野義克が着任、衆参の事務総長が交代で館長職に就くという悪弊を知るにいたった。

 6月10日、アメリカ大統領の新聞担当秘書官のハガチーが、アイク訪日の下検分のため来日、羽田空港からの車で移動中、私たち学生のデモ隊がそれを包囲した。車のボンネット上で叫ぶ学生もいた。座って待機していた私たちは、ただあとずさりするだけで、何が起こっているかわからなかったが、やがて、巨大なヘリコプターが爆風を巻き起こして着陸したかと思うと、時を置かずに周辺の草をなぎ倒し飛び立っていった。私たちも一斉に風にあおられて地面に倒れ込んでしまった。一瞬、どうなるかと思ったのだが、私も肘を擦りむいた程度で、済んだのだが、あの一機のヘリが引き起こす爆風の恐ろしさは、今も忘れることができない。

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羽田空港から都心に向かう道路のどのあたりだったのか。ハガチーは、ヘリコプターで「救出」された。

 いわゆる、このハガチー脱出事件について、学生たちの「暴力デモ」は「日本の恥」をさらし、「国際儀礼」に反すると、マスコミは、一方的に非難した。一部の地方紙を除いて、アイク訪日は政治とは無関係の親善を目的とするものだから歓迎すべきとの論が大勢を占めていた。

 自然承認の日とアイク訪問が、数日後に迫っていた6月15日の夜、樺さんの事件は起きた。私が、この報道に接したのは、デモを抜け出してシナリオ研究所の講義に出た後、青山一丁目のたしか「砂場」というおソバ屋さんのテレビであった。帰宅すると、私の整理ダンスは乱れていた。まだ樺さんの身元がわからず、着衣が報じられたときに、父や兄は、やみくもに、ヒックリ返したらしい。あの夜、私はどんな服装だったのか、いまは忘れてしまっているが、家族は、とっさに不安に駆られてそんなことをしたらしい。

 6月15日、学生が南通用門から国会構内に突入した直前、新劇人や文化人によるデモが右翼に襲撃され、負傷者が続出していたにもかかわらず、警官隊が傍観していたことが、学生の突入の引き金になっていたことを報じるテレビやラジオもあった。その衝撃が収まらない中、6月17日には、在京新聞社の七社共同宣言が発表されたときのショックは忘れ難い。政権批判らしきことも少々ちらつかせていた大手マスコミには、もはや完全に裏切られたという思いが強かった。そして、自然承認が迫る6月18日は、やはり、どうしていいかわからないまま、私は、大学の自治会の隊列の中にいた。夕方になって、国会周辺は、人で埋まり、議事堂は完全に包囲されていた。私たちは議事堂からは遠く離れた、皇居前広場近くで、身動きできない状況だったと思う。その数、33万人を超えたと後の報道で知った。夜になって、念のため買って持っていた菓子パンを隣の友人と分け合って食べた記憶がある。その辺に、スーパーやコンビニもない時代だから、ペットボトルもない。のどの渇きも我慢していたし、繰り返されるシュプレヒコールに声をからしていた。夜半近くなると、ただ座っているだけという焦燥感、無力感が募るなか、ドイツのナチス時代、国会議事堂放火事件を丁寧に聞かせてくれる友人もいた。家に門限はなかったが、地下鉄が動いている時間にと12時前に帰宅するのに、隊列から抜けるのが後ろめたかったことを覚えている。そして19日午前0時に新安保条約は自然承認され、アメリカと批准書交換を完了した岸信介首相は6月23日に辞意を表明、7月15日に総辞職している。
 大学では、夏休みを経て、少しは普通の生活に戻ったのではなかったか。私は、大学の短歌研究会に入っていたので、週に1回集まっては、ささやかな歌会、といっても持ち寄った短歌をそれぞれ黒板に書いて、なにやら、批評し合う会を持っていたし、何カ月かに1回は、風前の灯だった都内の大学歌人会の歌会も開かれていた。会場は、大学の持ち回りだったり、新宿や渋谷の喫茶店だったりということもあった。そんな中で、国学院の岸上大作さんにも一度ならず同席しているはずなのだが、年末になって、下宿で自死したという知らせを聞かされたときは、「なぜ」とその衝撃は大きかった。後になって、いろいろな事情が伝わってくることになるのだが、その死は、私には、母の死から一年後、1960年最後の事件として、忘れることができない。Img344
私のアルバムに残る、当時の大学歌人会が阿部正路、清水二三恵の歌集出版記念会として開いた「明日を展く会」(1959年6月27日、「大都会」)の集合写真。会の案内によると、会費200円となっていた。前列右から、林安一、岸上大作、高瀬隆和。二列目には、二人の著者を中央に、藤田武、篠弘、宮城謙一らが並び、後方には、馬場あき子、北沢郁子、ポトナムの先輩の只野幸雄、増田文子の姿も見える。最後の列の中ほどには、私も教育大勢の前川博、森山晴美に挟まれおさまっていた。敬称略)

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『意思表示』(白玉書房 1961年6月20日)には、高瀬隆和編「年譜」、西村尚執筆「後記」がある。オビは無残な姿で本にはさまっている。窪田章一郎、近藤芳美、吉本隆明の推薦文があった。『岸上大作全集』(思潮社 1970年12月5日)は没後10年の命日が発行日になっていた。高瀬編の「年譜」、富士田元彦「解説=六〇年に賭けた詩と死」が付されている。

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1999年10~11月、姫路文学館で開催の「岸上大作展」には、関西の所用のついでもあって、初日の10月8日に出かけている。展示は、充実したものであって、資料的にも力のこもったカタログが出来上がっていた。高瀬隆和さんと文学館のスタッフの苦労を察した。胸が詰まる思いで見入ってしまったのは、国学院に入学後の「出納簿」と母親から届く仕送りの現金封筒の束だった。12円の牛乳と15円食パンで27円の昼食、ハガキ4枚10円切手3枚50円、映画55円、電話10円、バス15円に至るまでの記帳、母へのハガキには、ときには40円のラーメンが食べたくなるとも。
上段はチラシ、中断はカタログの表紙。

 下段は、カタログの巻末近くの61首の挽歌集である。高瀬隆和さんからは事前に挽歌の寄稿依頼があって、私も送っていたのだが、作者のアイウエオ順だから岩田正と岡井隆に挟まれた格好のなんともはずかしい一首。

・議事堂にむかわむ列は異にすもひととき大学歌人会に集いき 内野光子

 さらに展示の中に、「ノート大学歌人会」NO.1(1959年11月28日)があって、岸上大作は「十月の理由」5首を寄せ、私の三首が掲載されている頁も開かれていた。同じ頁に佐佐木幸綱の作品があったからだろう。このガリ版刷の資料は手元にもなかったし、すっかり忘れていた作品だっただけに驚いたのだった。

・貨車の吐く黒き煙は万国旗揺るる屋上庭園越えゆけり

・信号が確かにとぎらす人の列風強き屋上に見下ろせり

 見学当日、会場で、高瀬さんに挨拶と思ったのだが不在であった。後から、丁寧なハガキを頂戴し、恐縮したのだが、そこには以下のような文面も見られた。高瀬さんも鬼籍に入られたので、断りもなく引用させていただき、ごめんなさい。

「先日、馬場あき子さんと電話で話した時、歌壇の右傾化?を嘆かれていました。また非常な危機意識をもっておられました。ものがいいにくくなるような状況が社会全体に広がりつつあるのではと恐ろしくなります」

 また、巻末の高瀬隆和「岸上大作展よせて」によれば、つぎの一首が故郷兵庫県福崎町田原の墓碑に刻まれ、

・意志表示せまり声なきこえを背にただ掌の中にマッチするのみ 

 母校の福崎高校には、つぎの一首を刻む歌碑があるそうだ。

・かがまりてコンロの赤き火をおこす母と二人の夢作るため 

 存命ならば、傘寿を迎えた岸上大作は、どんな歌人になっていただろうか。

 

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2020年1月17日 (金)

きのうは、「歌会始」の日だったのだが

 

 昨日116日の午後は、私たちの短歌教室の歌会であった。参加者の一人が「希望」を詠み込んだ作品を提出、午前中の皇居での「歌会始」のテレビ中継の様子を話し始めて、「そうだ、今日は歌会始だったんだ」と気づき、ウオッチャーとしては抜かりがあった次第。午前中は、テレビをつけることも、もちろん録画をとることもしていなかった。どんな様子だったのか、朝刊によれば、皇族の作品についてのエピソードは宮内庁発表のままだし、特別の話題もない「令和最初の歌会始」のようだった。ただ、皇后が、十七年ぶりの歌会参加であったという。これまでの空白は、たんなる体調の問題だったのか、の疑問も残り、不思議な思いだった。また、5人の選者以外に、召人としての栗木京子の詠進歌が

 

観覧車ゆふべの空をめぐりをりこれからかなふ望み灯して

 

 とある。うーん、これは、なかなかのサービス精神にあふれた作品と思ったのだ。栗木京子の「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」は、現在の中学校の全社の国語教科書に短歌教材として掲載されている一首なのだった。一方で、応募歌数は、今年15324首とのことで、近年2万首前後を推移していたが、1993年の13912首に次ぐ低さである。今後は、皇族方がどうしてもと望むのであれば、国民を巻き込むことなく、宮中での歌会を静かに楽しまれたら、というのが、私のせめてもの「望み」である。そしたら、歌壇も妙な軋轢もなく、少しは風通しがよくなるのではないか。

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朝日新聞デジタルより。左手の中央の天皇夫妻、手前に秋篠宮一家成人4人、奥に女性皇族4人という寂しさだ。右手、前列が選者・召人、後列に入選者が並ぶ。奥の一団が政府関係者、手前の後ろ姿の一団が陪聴者、中央のテーブルには読み手の一団がみえる。 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020年1月16日 (木)

『季論21』46号に寄稿しました高村光太郎についての拙稿が一部閲覧できるようになりました

 昨年10月12日の本ブログでお知らせしましたように、『季論21』(2019年秋号)には、以下を寄稿していました。その一部がネット上で閲覧できるようになりました。「ピックアップ記事」の一つとして、途中までご覧になれます。なお、昨年9月には、当ブログにも「あらためて、高村光太郎を読んでみた1~9」として、以下の拙稿に書ききれなかったことも連載していますので、あわせて、お読みいただければ幸いです。

「「暗愚小傳」は「自省」となり得るのかー中村稔『高村光太郎の戦後』を手掛かりとして

http://www.kiron21.org/pickup.php?112

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季論21


「暗愚小傳」は「自省」となり得るのか

――中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりとして

内野光子



はじめに

中村稔は、二〇一八年に『髙村光太郎論』(青土社)を出版し、二〇一九年にも同社から『髙村光太郎の戦後』を出版した。新著では髙村光太郎と斎藤茂吉の評価を変えたという。髙村光太郎と斎藤茂吉の愛読者は多く、それぞれに、自認する研究者も数多い中で、二冊の大著によって、一九二七年生まれの著者は、どんなメッセージを届けたかったのだろう。

私は、二〇一九年一月に、『斎藤史《朱天》から《うたのゆくへ》の時代――「歌集」未収録作品から何を読みとるのか』(一葉社)を出版した。そこでは、斎藤史が、一九四三年に出版した歌集『朱天』を生前に自ら編集した『斎藤史全歌集』(大和書房 1977年、1997年)に収録する際に、削除と改作をおこなった点に着目、その背景と実態を分析した。さらに、二・二六事件に連座した父の斎藤瀏、処刑された幼馴染の将校にかかわり、昭和天皇へ募らせていた怨念は、大政翼賛へ、さらに晩年の親天皇へと変貌していく様相を、作品や発言からの検証も試みている。

私としては、斎藤茂吉や斎藤史をはじめ多くの歌人たちが、そして、髙村光太郎も、戦時下に依頼されるままに、あれだけの作品を大量生産して、マス・メデイアに重用されていたにもかかわらず、敗戦後、自ら「歌集」や「詩集」を編集する際に、さまざまな「ことわり」をしつつ、戦時下の作品を積み残した経緯がある。

今回は、まず、新著『髙村光太郎の戦後』の光太郎の部分を中心に、中村の光太郎像を検証したい。なお、私自身の関心から、日本文学報国会における髙村光太郎と戦時下の朗読運動渦中の光太郎にも触れることになるだろう。さらに、拙著『斎藤史《朱天》から《うたのゆくへ》の時代』にかかわり、髙村光太郎に、戦中・戦後の作品の削除や隠蔽はなかったのか、についても言及できればと思う。

蟄居山小屋生活の実態

中村の新著、第一章の冒頭では、光太郎の敗戦後の七年にわたる山小屋での蟄居生活、それにいたる経過がたどられる。一九四五年から山小屋を去る一九五二年一〇月まで、光太郎の日記と書簡などを通じて、その暮らしぶり、人の出で入り、執筆・講演などの活動も記録にとどめ、作者、中村の見解も付せられる。

それにしても、光太郎の日記には、地元の人々や知人、出版関係者たちから届けられた食品などが、一品も漏らさないという勢いで、誰から何をどれほどと克明に記録されている。中村も書くように、光太郎は「礼状の名手であった」のである(本書43頁)。

礼状には、贈り主への感謝の気持ちとどれほど役に立っているかなど率直な心情を吐露する内容が多い。戦前からの著名な詩人から、このような手紙をもらったら、舞い上がる人も多かったのではないか。同時に、日記には、到来もののほかに、自分が食したもの、菜園の種まきや収穫、作付け、施肥などの農作業についてもこと細かく記録にとどめている。「食」へのこだわりは執念にも似て、正岡子規の病床日記を思い起こさせる。

書簡の中で興味深かったのは、東京の椛澤ふみ子との文通の多さと両者の間には屈託のない和やかな雰囲気が漂っている点であった。彼女から日常的に届く新聞のバックナンバーの束など、光太郎にとっては、大事な情報源ではなかったのか。たまに、山小屋を訪ねることもあり、「小生の誕生日を祝つて下さる方は今日あなた位のものです」(1947年3月13日、79頁)とも綴る。なお、余談ながら、中村は、一九四八年五月の訪問の記述を受けて、当時二十代の椛澤と光太郎との関係を、父と娘のような清潔な交際だったように見える、と述べている(124頁)。

敗戦後の光太郎を語る吉本隆明は、上記の「食」への執念は「自分と、自然の整序があれば、その両者がスパークするとき美が成り立つという思想」に基づき、「美意識と生理機構の複合物としての食欲であった」(「戦後期」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年、183頁)とも分析しているが、私は、より単純に、光太郎の戦前の暮らしにおける西欧趣向やブランド信仰にも起因する飢餓感と自らの健康・体調への不安からという現実的な背景を思うのだった。

『髙村光太郎の戦後』にみる光太郎の「自省」とは

そうした暮らしの中から、敗戦後初めて刊行された詩集『典型』の冒頭は「雪白く積めり」であった。その静寂な世界は、一見、戦前の饒舌さが後退したかに思えたが、詩の後半に「わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。」「敗れたるもの卻て心平らかにして……」などのフレーズをみると、大げさな身振りは変わっていないとも思った。

「雪白く積めり」

雪白く積めり。/雪林間の路をうづめて平らかなり。 /ふめば膝を沒して更にふかく/その雪うすら日をあび て燐光を發す。(後略)

(「雪白く積めり」1945年12月23日作『展望』1946年3月。『典型』収録)

  中村は、この「雪白く積めり」について、「さすがに高い格調の、精緻な叙景に高村光太郎の資質、非凡さを認めることができるとしても」いったい何を読者に伝えたいのかがわからない失敗作だとも断言している(46~47頁)。

  詩集『典型』に収録の「典型」と題する一篇の冒頭と末尾を記す。みずからの「愚直な」生を振り返るような作品である。中村は、前著の『髙村光太郎論』でも「光太郎の弁解の論理を肯定しないけれどもその思いの切実さを疑わない」としているが、新著ではさらに踏み込んで、最初に「典型」を読んだとき、作者が愚者を演じているようで反感を覚えたが、「弁解が多いにしても、『暗愚小傳』の諸作の結論として虚心にこの詩を読み返して、これが彼の本音だった、と考える。そう考えて読み直すと、深沈として痛切な声調と想念に心を揺すぶられる。この詩は決して貧しい作品ではない。詩人の晩年の代表作にふさわしい感動的な詩である」と絶賛する。さらに「これほど真摯に半生を回顧して、しみじみ私は愚昧の典型だと自省した文学者は他に私は知らない」との評価をする(160~161頁)。

「典型」

今日も愚直な雪がふり/小屋はつんぼのやうに黙りこむ。/小屋にゐるのは一つの典型、/一つの愚劣の典型だ。(中略)

典型を容れる山の小屋、/小屋を埋める愚直な雪、/雪は降らねばならぬやうに降り、/一切をかぶせて降りにふる。

(「典型」1950年2月27日作『改造』1950年4月。『典型』収録)

 しかし、敗戦後、疎開先の花巻から最初に発信された詩は、一九四五年八月一七日の『朝日新聞』に掲載された「一億の號泣」であった。「綸言一たび出でて一億號泣す。/昭和二十年八月十五日正午、/われ岩手花巻町の鎮守/……」で始まり、つぎのような段落がある。これは詩集『典型』に収録されることはなかった。その「序」で、光太郎は「戦時中の詩の延長に過ぎない」作品は省いたとある。こうした作品を指していたのだろう。
「一億の號泣」

(前略)天上はるかに流れ來る/玉音の低きとどろきに五体をうたる。/五体わななきとどめあへず。/玉音ひびき終りて又音なし。/この時無聲の號泣國土に起り、/普天の一億ひとしく/宸極に向つてひれ伏せるを知る。(後略)

(「一億の號泣」1945年8月16日作『朝日新聞』『岩手日報』1945年8月17日)

 

 また、中村が言及する「わが詩をよみて人死に就けり」も光太郎の敗戦後を語るには欠かせない作品であると、私も思う。

「わが詩をよみて人死に就けり」

爆弾は私の内の前後左右に落ちた。

電線に女の大腿がぶらさがつた。

死はいつでもそこにあつた。

死の恐怖から私自身を救ふために

「必死の時」を必死になつて私は書いた。

その詩を戦地の同胞がよんだ。

人はそれをよんで死に立ち向つた。

その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた

潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

 この九行の詩は、制作月日が不明だが、日記の一九四六年五月一一日には、「余の詩をよみて人死に赴けり」を書こうと思う、という記述があるが、この作品も詩集『典型』には収録されなかった。

(以下は本文をお読みください)

 

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2020年1月 5日 (日)

短歌雑誌の行方と保存

  私が会員となっている短歌雑誌『ポトナム』1月号に「歌壇時評」を書きました。いつも同じようなことを言っているような気がするけれど、最近の短歌雑誌・出版事情にも触れました。

**********

  最近の短歌総合雑誌や新聞は、若干様変わりしたのかもしれない。しかし、どれを開いても同じような顔ぶれの歌人たちが並んでいる。各誌でさまざまな特集が組まれても、「人気」歌人というか「有名」歌人たちが入れ替わり立ち替わり登場し、既視感満載で、興味をそがれてしまうことが多い。たしかに、この数年間で、雑誌の表紙や編集(発行)人が変わった。知る限りでも、『短歌研究』が堀山和子から国兼秀二へ、『現代短歌』が道具武志から真野少へ、『短歌往来』が及川隆彦から佐佐木頼綱になった。オーナーや編集人が歌人で、結社人であることもある。それが、メリットになるのかデメリットになるのか、私などにはよくわからない。『現代短歌』は二〇二〇年一月から隔月刊で、週刊誌大になるという。かつての『短歌朝日』(一九九七~二〇〇三年)を想起するが、「批評」を重視するという方針を掲げている。バランスや中立を標榜し、総花的にならないように期待したい。

 こうした雑誌のバックナンバーの保管や整理には、私も困っていて、とりあえず、必要な個所はコピーするが、関心のある特集があれば、雑誌そのものを保存するが、古本屋では二束三文なので、結局、古紙回収に出したりする。断捨離や年金生活者としての不安もあり、購読誌を減らしたり、中断したり、交代したりしている。

 そうはいっても、一九四五年前後からさかのぼって、作品や記事が必要になったときには苦労する。短歌雑誌をそろえて所蔵する図書館は少ない。それでも、国立国会図書館や日本現代詩歌文学館などの資料をずいぶんと利用してきた。立命館大学の白楊荘(小泉苳三)文庫の所蔵がわかっていても、外部からの利用は難しい。上記の図書館や文学館が所蔵していたとしても欠号が多い。結社誌・同人誌となると尚更である。それでも、二〇〇〇年までの主な所蔵雑誌と著作権が切れた図書の国立国会図書館のデジタル化によるデータベースはありがたかった。その対象がまだ限定的であり、欠号も手つかずなので、別の方法で補うことになる。Cinii (サイニー、国立情報学研究所)検索により思わぬ文献に出会うこともある。

 現在『短歌』『短歌研究』では、各年鑑で自誌の年間目次と歌集歌書総覧を掲載する。『短歌研究年鑑』では、結社誌・同人誌のアンケートによる文献リスト「研究評論 今年の収穫」が掲載されるが、書誌的な不備も多く、網羅性がない。短歌雑誌の編集部にはかなりの雑誌や歌集・歌書が届いているはずなので、後世のために、できる限り網羅的な書誌的なデータだけでも作成し、提供してほしい。

 一方、出版不況をよそに、歌集・歌書の自費出版は、盛んなようで、私のところにもわずかながら届く。歌集は、大方、美しい装丁の、余白の多い本である。作品本位で考えるならば、歌がぎっしり詰まった文庫本でも十分だと思っている。これまで文庫版の歌集といえば、再刊や選集がほとんどだが、新しい歌集も気軽に出版できるようになれば、入手もしやすく、著者・読者双方に好都合である。

 本誌『ポトナム』の昨年一一月の歌壇時評(松尾唯花)の指摘にもあるように、現状のままだと、歌集出版は、若い人たちにとっては、覚悟を要し、経費のかかる大事業なっている。いや高齢者とても同様である。このような歌集出版の在り方は、考え直されてもよいのではないか。自費出版とその贈答が繰り返され、たださえ閉鎖的といわれる短歌の世界は、ますます狭まっていくにちがいない。欲しい人が欲しいときに入手できる電子版やオンデマンドという方法もあるが、いま、どれほど浸透し、利用されているのだろうか。(『ポトナム』2020年1月、所収)

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2020年1月 1日 (水)

革たな年となるか

 今日もお訪ねくださり、ありがとうございます。
 ことしもどうぞよろしくお願いいたします。

 中ぐらいところか、まったくめでたくもないないお正月なのだが、”おめでたい”人の顔はいくらでも浮かぶ。国民の幸せと世界の平和を願うというひと、新聞の元旦号や雑誌の新年号に作品やエッセイを寄せるひと・・・。もっとも、新天皇夫妻は、昨年は行事で忙しく、短歌の準備が整わなかったそうだ。これからもお忙しいようなので、天皇が五首、皇后が三首などという悪しき慣例だった元旦の短歌公表は、これを機に辞めたらとも思う。また、退いたはずの平成の天皇夫妻が、明日の一般参賀には臨むという。なんか約束とは違うのではないかしらと。
 大みそかのゴーン逃走劇には、いささか驚いた。メンツの立たない日本の司法ながら、安倍政権の窮余の策の謀略説が流れるほど政治は地に落ちた年の始まりである。

 近くのスーパーが4日まで休みということもあって、生協で、少し買いだめをした。恒例の形ばかりのお節料理を食し、近くの、普段は無人のお社で、ご近所の臨時の神主さんのお祓いを受けた。ひたすら体調維持を願うばかりで、革める気力が欲しいところだが、若い人に、委ねるしかないのだろう。とは言いつつ、相変わらず「注文の多いブログ」になるかもしれない。

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2019年6月、アムステルダム、シンゲルの花市場にて。ここで求めたチューリップの球根を埋めてみたが、花開いてくれるだろうか。

 

 

 

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2019年12月23日 (月)

今朝の毎日新聞で~。

 今日の午前中は、市内の総合病院の初診予約に必死となっていた。「紹介状」なしなので3800円をいただきますとは言われたが、何とか年内に診てもらうことが出来ることになった。そんなことで、遅い朝食後、メールを開くと、昔の職場の友人から、今朝の毎日新聞に、斎藤史の本が紹介されてますよ、とのことだった。あわてて、朝刊を取りに出て、開いてみると、「毎日歌壇」選者四人による「私が選んだ今年の歌集」で、篠弘さんが、何冊かの歌集とともに、「今年も力の入った近代の歌人論が出た」として、古谷智子『片山廣子』(本阿弥書店)と拙著『斎藤史「朱天」から「うたのゆくへ」の時代』(一葉社)が紹介されていたのである。拙著の発行は今年の1月9日、歳晩に、励ましの一言をいただいた思いだった。

他にいただいた紹介や書評は、前の以下の記事に、まとめてみました。みなさま、ありがとうございました。

518日、「斎藤史」について報告することになりました。付・書評・紹介一覧(2019年4月26日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/04/post-d89e33.html

 

 

 

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2019年12月22日 (日)

歌壇、この一年を振り返る季節(2)歌人によるパワハラ?セクハラ?~見え隠れする性差

 歌壇の内情に疎い私には、今年「未来」という短歌結社の選者の一人である加藤治郎の発言やツイートによる発信が物議をかもしていることを最近知った。加藤が、2018年2月から『短歌往来』に「ニューウェーブ歌人メモワール」という1頁ものを連載しているのは承知していた。自分に関する記録はかなり丹念に残している人だな、というのはわかったが、岡井隆との縁から始まり、なんか“きらびやかな”過去を自慢したい年齢になったのかの思いで読んでいた。今も続いている。

 昨年6月、名古屋で「ニューウェーブ30年」というシンポジウムにおいて、「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」という会場からの質問に、パネリストの一人荻原裕幸は回答をスルーし、同じくパネリストの加藤はみずから「加藤、荻原、西田政史、穂村弘の4人だけがニューウェーブだ」と断定したという。
 短歌史における「ニューウェーブ」という定義はあるのかないのか。1980年代、俵万智『サラダ記念日』がベストセラーになったころと前後して、いわゆる「前衛短歌」を継承する一つの潮流として、口語的、風俗的、軽妙でもあり、ときには現代の文明批判?にもなっていると持ち上げられることもあった作品の総称くらいに、私は思っていた。男性4人に限定する意図はどこにあるのだろう。なんか、おもちゃを独占したい子供みたいな、と一笑に付したいところだった。

 ところが、その加藤が、今年の2月「ニューウェーブに女性歌人はいないのか」の題で「水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった。・・・」というツイッター上での発信があったらしい。今は消去されているが、その辺の事情は、高島裕「これ以上ニューウェーブを語らないために」(『未来』2019年2月)、中島裕介「ニューウェーブと『ミューズ』」(『短歌研究』2019年4月)、川野芽生「うつくしい顔」(『現代短歌』2019年4月)で知ることができる。さらに、中島は、自らのツイッターと“note “において、この問題から端を発したもろもろの出来事を追跡、加藤批判を緩めず、糾弾を続けている。加藤も、反省したり、謝ったり、画策したり、反論を繰り返している。その中で、歌壇における女性歌人の位置づけから、短歌結社内の選者による権力によるハラスメントやセクシャル・ハラスメントの問題にもなっている。
 ここでは詳しく述べないが、加藤が選者を務める『未来』(1951年近藤芳美を発行人として創刊、岡井隆の編集復帰で、近藤没後は岡井が理事長を務めている)のホームページ上の理事会報告(11月30日開催)の討議・決定事項の一つに、以下が掲載されていた。
「当会一選者のハラスメントに関わる事案が理事の一人から提議されました。事実確認の方法を模索しているところですが、協議の結果、今後ハラスメントに関する委員会、相談会等を設置するべく検討し、防止に努めることとしました。」

 当日出席の理事は、さいとうなおこ、佐伯裕子、池田はるみ、道浦母都子、山田富士郎、 加藤治郎、大辻隆弘、笹公人、黒瀬珂瀾、中川佐和子 の10人で、欠席が理事長の岡井隆、副理事長の大島史洋、との記録がある。たんなるお家騒動、結社内の内紛としてではなく、真剣に取り組んでほしいと思った。 

 昨年から、今年にかけて、重大な問題提起がなされたにもかかわらず、その後の時評や二つの年鑑の年間回顧などでの言及が見当たらなかった。『短歌研究年鑑』の座談会では、「『ジェンダー』をめぐる問題意識」の小題で、折口信夫や菱川善夫にまでさかのぼりながら、佐佐木幸綱は「ジェンダーという問題意識は新しいから、まだ検証中」だという主旨の発言をし、穂村弘も将来の大きな課題との認識を示すのみで、語りたがらない「判断留保」の感があった。また、『歌壇』2019年12月号の歌壇一年の動向をまとめたとする奥田亡羊「穂村弘と新しい世代」においても、三上春海「『極』/現在」(『現代短歌』〈2019年5月〉)の「運動体」までには至らなかったとする「瀬戸夏子、服部真理子、大森静佳、川野芽生らの〈性〉と〈暴力〉をめぐる積極的な論作」を固有の運動性を有しながらの「流動体」として評価をするにとどまった。

 この間、高松霞「短歌・俳句・連句会での、セクハラ体験談をお寄せください」というサイトまで現れ、第一・第二集が公開されている(https://note.com/kasumitkmt)。併せて以下のネット上「詩客」の時評も参照ください。 

・短歌時評alpha(1) 言葉を読むことと、心を読むことのむずかしさ 玲 はる名(2019-05-03 07:17:15) 

・ 短歌時評alpha(2) 氷山の一角、だからこそ。 濱松 哲朗2019-04-22 03:25:51)

・短歌時評alpha(3) 権威主義的な詩客 中島 裕介(2019-04-22 02:23:43) 

  それにしても、大昔?渦中の加藤治郎と歌会始選者の三枝昂之と私の三人による「時代と短歌~社会詠の意義」と題する座談会の企画があった(『歌壇』1995年10月)。いったい三人は何をしゃべったのか。私といえば、ひがむこともなく?いまだに相変わらず、同じことを言いつづけているんだなと、つくづく思ってしまう昨今である。

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2019年12月18日 (水)

歌壇、この一年を振り返る季節〈1〉短歌と天皇制

   短歌研究社『短歌研究年鑑』(2020年版)とカドカワ『角川短歌年鑑』(令和2年版)が出そろった。2019年の歌壇状況を知る助けにはなるのだが、今年という一年をしっかり振り返ったことになるのかなという違和感があった。その二・三を書きとどめておこうと思う。 

 一つは、くどいかもしれないが、やはり、短歌と天皇制の問題にきちんと向き合ったかという疑問だった。というのは、短歌総合誌では、5月の改元を前に、競うように、「平成」という時代を振り返るという企画が展開された。さらに、平成の天皇夫妻の「おことば」や「短歌」に沿って、その振る舞いを称え、あるいは、歌会始の30年を振り返ったりする特集もあった。新しい元号が発表されると、萬葉集を出典としているとして、歌壇も出版界も少しざわついて、商機とも思ったのか、書店にも雑誌の特集や書籍が並んだ。

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いずれも、2019年5月22日、大手町の丸善にて

 今回の改元が、歌を詠む人たちや短歌の読者・愛好者たちにとっても、天皇制と短歌との関係を考えるチャンスであったはずだが、現実の歌壇は、上記のような状況であった。こうした歌壇に対して、大辻隆弘が『朝日新聞』の「歌壇時評」〈2019年2月17日〉で、歌壇における「天皇制アレルギー」はもはやなくなり、「無反応」であったと、早々とけん制した。しかし、現実には、『短歌研究』総力特集「平成の大御歌と御歌―天皇・皇后両陛下のお歌」について、瀬戸夏子のきびしい批判があったし(『現代短歌』2019年2月)、斎藤寛は「『大御歌』『御歌』の位相―短歌と天皇制再考」(『短歌人』2019年7月)において、「老舗の短歌総合誌は皇室の広報しに転じた」とも断じた。また、高島裕(「時評・両陛下のお歌に思う」『未来』2019年3月)は、「『歌会始』など皇室と和歌との関わりに対する現代歌人の拒否反応に疑問を呈し、この伝統詩型が、祖国への心情や皇室との関わりの中で捉えられることの必然を主張してきた」というスタンスが、従来は、少数意見だったが、このような特集が組まれるということは「短歌と天皇制、短歌と愛国心との関わりをめぐる言説環境が大きく変容したのであろう」としている点で、前記大辻の論調と一にする。さらに、廣野翔一は、やや戸惑いながら、現実としての皇族の短歌を、「歌会始」を受け入れようとするものだった(「時評・平成の終わりに」『短歌』2019年6月)。いずれにしても「無反応」にはならなかったことになる。高島の「少数意見だった」という捉え方には、それこそ疑義があり、以下の当ブログ記事もあわせてお読みいただければと思う。

 無反応ではなかったが、《論争》にならなかった。上記『短歌研究年鑑』の恒例の「歌壇展望特別座談会」(佐佐木幸綱・三枝昂之・栗木京子・小島ゆかり・穂村弘)では言及がなく、「特集展望」(加藤治郎)は、肯定的に紹介するのみだった。『短歌年鑑』では、島田修三が「とにかく、われわれの短歌が新たな時代を生きるために、まず皇室和歌との決別から出発した史実だけはつねに自覚しておいた方がいい」としながら、何がいいたかったのかというと「おそらく元号などを始めとする平成末期から令和の皇室を巻き込んだざわざわとした空気に違和感を感じるということだったし、そこに短歌の影がちらちらするということだったと思う。」と遠慮がちに表明するが、特集などには直接触れない(「どうにもなりません」)。たまたま、私がある短歌雑誌の編集者と電話で話した折、「あの特集には、ほとんどの歌人がおかしいと言ってますよ、思ってますよ」というのだが、それがほんとだとしたら、そのほとんどの歌人たちが表立って声を上げていないことになる。

これからも、この短歌と天皇制の問題は、正面から論議されることが、ますます必要になってくるはずなのだが。

「短歌と天皇制」(217日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(4)「無反応」だったのか (2019年3 5日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/03/217-0117.html

「短歌と天皇制」(217 日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(1)「その反省から出発した戦後短歌」って、ホント?(2019年225日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/210-9ef9.html

「短歌と天皇制」(217日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(2)「戦後短歌は皇室との関係を結ぶことに慎重だった」のか (2019年3 1日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/03/210-80d0.html

「短歌と天皇制」(217日『朝日新聞』の「歌壇時評」)をめぐって(3)「天皇制アレルギー」って?(2019年3 5)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/03/post-d222.html

 

 

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2019年12月10日 (火)

忘れてはならない12月8日

記憶せよ、十二月八日。
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ・サクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは彼らのジャパン、
眇たる東海の國にして
また神の國なる日本(につぽん)なり。
そを治(しろ)しめたまふ明津御神なり。(後略)
―昭和十六年十二月十日―

 「十二月八日」と題する高村光太郎の詩である。初出は、『婦人朝日』1942 年1月号であった。詩集『大いなる日に』(道統社 1942年6月、第二刷3000部、初版1942年4月)に収められているが、「十二月十日」は作詩の月日で、真珠湾攻撃の二日後に作られたことがわかる。

 一昨日12月8日は、「真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦」の日、78年目の日だった。一部のテレビニュースでは、ハワイでの戦没者2400人の追悼式が行われ、生き残りの兵士の参列が数少なくなったと報じていた。日本の新聞では、12月8日の、いわばサイドストーリーのように、「朝日新聞」(12月8日)は「ペリリュー島<最後の生還者>遺言」、『毎日新聞』(12月3日)、『朝日新聞』〈12月8日〉の千葉版では、船橋市の行田の海軍無線電信所の歴史を記した労作「行田無線史」と著者の郷土史家滝口昭二さん(82)の紹介記事が掲載されていた。行田無線電信所から真珠湾攻撃を命じた暗号電文「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」から発信されていたという記事が目についた程度だった。

1971-2 
『読売新聞』(2018年8月7日)より、18年7月撮影の行田無線電信所跡の現在。上の奥の楕円形のグランドは中山競馬場。私たち家族は、名古屋から千葉に転居した時、この円形の電信所跡の左上の扇形部分に建ち並ぶ公務員宿舎に半年ほど暮らしていた、懐かしい場所。
1971-1
1971年当時は無線塔がたっていたらしい (船橋市資料視聴覚センター)

 

 日本でも、太平洋戦争開戦の日は、忘れてはならない大事な日であるはずだ。この日を境に、日本軍はアジア解放のためにと標榜しながら、戦局は拡大し、日本軍の兵士はもちろんアジア各地で多くの犠牲者を出し続けた。各地での敗退が続くなか、政府は、メディアや文化人を総動員して、国民の戦意を高揚、多くの犠牲を強いた。そんな中で、高村光太郎も、従軍作家や従軍画家に先んじるかのように、戦争詩を発表し続けた。

五月二十九日の事

もとより武士(もののふ)のあはれを知らぬ彼らの眼には
ただ日本軍全滅すとのみ映じたのだ。
皇軍二千餘人悉く北洋の孤島に戦死す。
この悲愴の事実に直面して
その神の如き武人の心にわれら哭く(後略)

 光太郎自身の詞書によれば「昭和十八年六月一日作。五月卅日十七時の大本営発表によりのアツツ島守備部隊の全員玉砕を知る。(後略)」とあり、6月3日夜のNHKラジオ放送の特集番組「アツツ島の勇士に感謝し戦争完遂を誓ふ」において、朗読され、後の詩集『記録』I(龍星閣1944年3月初版 10,000部)に収められている。

 すでに1944年から始まっていた東京空襲、1945年3月10日に続く4月13・14日の大規模空襲で、光太郎自身のアトリエも焼失するのだ、その間の4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸した即日4月1日に作った詩を4月2日の『朝日新聞』に発表している。この即応性と器用さが多くのメディアに重用され、政府のプロパガンダに徹したのである。

 さらに、1945年8月15日の敗戦の玉音放送を、疎開先で聞いた光太郎は、8月16日午前中に作り、翌日の『朝日新聞』に「一億の號泣」を発表しているのである。まさに、この早業に脱帽するばかりである。

一億の號泣

綸言一たび出でて一億號泣す。
昭和二十年八月十五日正午、
われ岩手花巻町の鎮守
鳥(と)谷崎(やがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ來(きた)る
玉音(ぎょくいん)の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無聲の號泣國土に起り
普天の一億ひとしく
究極に向つてひれ伏せるを知る(後略)

(1945年8月16日作『朝日新聞』『岩手日報』1945年8月17日)

 その後、疎開先から東京に戻ることなく山小屋生活を続け、「暗愚小傳」という20篇の詩作品を発表(『展望』1947年7月)し、「わが詩をよみて人死に就けり」と題する詩を書き、戦時下の活動を「自省」したという。しかし、光太郎の晩年の詩を通読して思うのは、いわゆる新聞の元旦号、雑誌の新年号を飾る「新しい年を祝う」「めでたい」作品が並ぶことだった。そしてそこに散見する「原子力の未来への期待」であったのだ。1955年1月1日『読売新聞』に発表された「新しい天の火」では、つぎのように歌い上げる。

新しい天の火

(前略)
ノアの洪水に生き残つた人間の末よ、
人類は原子力による自滅を脱し、
むしろ原子力による万物生々に向へ。
新年初頭の雲間にひかる
この原始爆発大火団の万能を捕へよ。
その光いまこのドームに注ぐ。
新しい天の火の如きもの
この議事堂を打て。
清められた新しき力ここにとどろけ。

1956年1月1日『読売新聞』に発表された最晩年の作品「生命の大河」には、こんな一連がある。

科学は後退をゆるさない。
科学は危険に突入する。
科学は危険をのりこえる。
放射能の故にうしろを向かない。
放射能の克服と
放射能の善用とに
科学は万全をかける。
原子力の解放は
やがて人類の一切を変へ
想像しがたい生活図の世紀が来る。

 

 この発表の直前12月16日には原子力基本法など関連三法が成立し、まさに新年の1月1日に施行、発足した原子力委員会の初代委員長が読売新聞の正力松太郎であったのである。この間の事情は、当ブログの以下を参照いただけたらと思う。

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(8)晩年の「新しい天の火」
(2019年9月25日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/09/post-1f9939.html

 12月8日から、つい話は飛んでしまったが、高村光太郎の『智恵子抄』と表裏一帯をなす戦争詩を知ることによって、文芸の国家権力からの自立の重要さを知ることにもなるのではないか、の思いに至るのだった。

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