2018年5月24日 (木)

ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(6)

歩き疲れた、市内巡り
 

 59日、午後からは、きのうのダッハウに続きKさんの案内で、市内をめぐった。この日の待ち合わせ場所のマリエン広場は、びっくりするほどの賑わいで、新市庁舎の前には、舞台が設置され、周辺で踊る人たちもいる。舞台には”europa tag"との看板があり、EUの旗や風船があちこちで揺れている。いくつかのテントも張られていた。EUの広報活動の一環らしいのだが、そこで配布されていた絵本のようなパンフレットによれば、5月9日は、なんとEUにとって記念すべき日だったのだ。

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足元のプレートをたどってゆくと・・・

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イギリスのチャーチルの欧州合衆国構想を踏まえ1949年欧州評議会が発足、その翌年1950年5月9日にフランスの外相ロベール・シューマンがヨーロッパの石炭と鉄鋼産業を統合する共同体の設立を趣旨とする、シューマン宣言がなされた日だということらしい


 お任せながら、Kさんから提案いただいたのが、以下のようなコースだった。入場した施設での解説には熱が入る。その上、歩いている途中でのさまざまな説明やミュンヘン市民の暮らしぶりに触れての話は、楽しい一方、考えさせられることも多かった。何しろ準備不足がたたって、お話を十分理解できない個所もあったが、私がとくに印象に残ったところをたどっておきたい。
 

アザム教会―シナゴーグ・市立博物館・ヤコブ教会―ヴィクトアリエン市場―ホーフブロイハウス―マックス・ヨーゼフ広場―ミュンヘン州立歌劇場―レジデンツ(クヴィリエ劇場)―オデオン広場・テアティーナ教会―(バス移動)―アルテピナコテーク (太字が入場した場所)

  アザム教会に向かう道すがらは、私たちが昼食をとった百貨店のガレリア・カウトホーフほか、Kさんは、ブランドや買い物情報に疎い私たちに、文具専門店のカウト・ブリンガーですよ、CAKonenは衣料専門店です、などと教えてくれる。

 

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 街角に、新聞の自動販売機をときどき見かける。日本の新聞は、駅などの売店や本屋にもほとんどみかけない。『朝日新聞』を一度だけ買ってみたが、日本からのニュースは精神衛生上よくない?と、知る気にもならなかった

 最初に訪ねたアザム教会は、間口9m、奥行き28mというウナギの寝床のような教会で、建築家であり画家でもあったアザム兄弟が、18世紀の半ば、自分の家の隣に私財を投じて造った教会だそうで、聖人ネポムクをまつっているという。プラハのカレル橋に数ある聖人像のなか、触ると幸運を招くという立像を覚えていませんか、と問われて思い出す。その聖人こそがネポムク、ネポムツキーで、14世紀後半に実在したプラハの司教総代理で、当時暴君だったボヘミア王に抵抗したところ、この橋からモルダウ川に投げ込まれたという。思わぬところでつながる話も興味深い。ヨーロッパでは、橋の守り神として、まつられることが多いそうだ。アザム教会の天井、壁、祭壇など、きらびやかで贅を尽くした感があり、死神と天使まで登場する彫刻も施されている。

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 ユダヤ地区に入り、そこには、「嘆きの壁」を模したような、シナゴーグがあり、ヤコブ教会があり、歴史博物館がある。遠くはないところに、長いガラス張りの建物が見えてきた。むかし、生鮮食品の市場あったところで、現在は、
eatとイタリアをかけて「eatalyというイタリア関連の大型商業施設になっている。素通りに近いが、珍しい食材にも目を瞠る。パスタの種類も半端ではない。施設俯瞰は、ネット上の写真から拝借した。

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かぼちゃの花も食べられるそうだ。詰めものをして、揚げたり、焼いたりして食するらしい

 大きな家具屋さんの脇を通って、王立ビール醸造所が開いたホーフブロイ、ミュンヘンでも有名なビヤホールと聞いていたが、その店の中を、中庭を道路のように通り抜けたのである。

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顔の大きさほどのプレッツェルを民族衣装で売り歩いていた。ホテルの朝食やビヤホールでもよく出されるプレッツェル、あの塩を払って食すというものの、私には塩からすぎて食べられなかった


 レジデンツのクヴィリエ劇場の入り口も分かりにくい。Kさんについてゆくばかりだ。入れば豪華な劇場で、ちょうどリハーサル中でもあった。明日の晩は、レンジデンツでのセレナードコンサートに来るつもりなので、その場所も確認しておきたい、ということで確かめたのだが、これもなかなかわかりにくい。

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中央の2階席は、王の観覧席だったそうだ

 オデオン広場に向かう道では、レジデンツを守る4匹のライオンに出会うが、その2番目のライオンの鼻先をなでると幸運を呼ぶとかで、通りすがりの人々は、みな素直になでてゆく。必ずしも観光客だけでなく地元の人も。ところが、このライオンの向かいの路地の敷石の一部が金色に蛇行している。これがなんと、ナチの親衛隊が市民を選別して、ダッハウ行きを決めると、その道を歩かせたそうだ。Kさんからそんな話を聞きながら、オデオン広場に出て、17世紀半ば建てられたテアティーナ教会に入る。外は黄色の壁の明るいバロック中期の建造だが、中に入ると、そこには重々しい、真黒い祭壇が設けられていた。オデオン広場には、翌日もう一度訪ねることになる。

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2018年5月22日 (火)

ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(5)

59日、朝のキャンパス、英国庭園

 この日は、午後から、Kさんに案内していただくことになっていて、午前中は、そのコースにはないミュンヘン大学と英国庭園へと出かけた。ミュンヘン大学(ルートヴィヒ・マクシミリアン大学と呼ぶらしい)は、かつて見た、実話でもあるレジスタンス映画「白ばらの祈り」の舞台にもなっていた。大学にも英国庭園にも近いUniversitat駅までは、中央駅からはU6でもU3でも行けることがわかった。下車して地上に出て、目の前に大きな門がそびえているのに驚いた。ガイドブックにあった「勝利の門」である。バイエルン解放戦争でのナポレオン軍に勝利した記念という。19世紀初頭のことだ。門のてっぺん、ここにも4匹のライオンが女神を守っている。門をくぐって振り返ると地図にある教会も見える。しかし、この文字のモニュメントは何なのだろう。並木道を進むと学生たちの行き来も多くなり、途中で、路上で店開きするらしい古本屋さんにも出会う。さらに進んで、学生の列に誘われるように、キャンパスの中に入って、学部の図書館を覗いたりする。どこまでキャンパスは続くのか、Uバーンの一駅を歩いたらしい。

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犬の散歩にはよく出会うが、初めてのポインセッター


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ここにも4匹のライオンが女神を守る

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教科書や参考書の古本でも売るのだろうか


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haus1 の図書館らしいが、図書館と名の付く所に入ってみたい・・・

さらに進んで、学生の列に誘われるように、キャンパスの中に入って、学部の図書館を覗いたりする。どこまでキャンパスは続くのか、Uバーンの一駅を歩いたらしい。Lutwig通り渡って、英国庭園への道をたどれば、さらにKonign通りを過ぎて、新緑に包まれた道を進む。 

 サイクリングの人たちがひっきりなしに過ぎてゆく。自転車も悪くないなあ、うらやましいことこの上ない。小さな橋を渡るとそこは芝生の広場であった。周辺には、マロニエをはじめ、さまざまな木の花も咲いている。広場からの道は、幾通りもあって、案内図の前で迷っていると、”May I help you?”とまた声を掛けられる。たった三日目ながら散歩中の人、ジョギングの人、学生らしい人たちから、これまでも何度声をかけられたことか。よほど困っているアジア系のシニア二人連れと思われたのだろうか。皆さんの親切が身にしみる、今回の旅でもあった。ガイドブックでも見かける中国の塔というのがとりあえずの目標だ。何しろこの庭園は375ヘクタールとのこと、115ヘクタールという皇居と比べてもその広さが想像できよう。ちなみに東京ドームは4.67ヘクタールなのだが。

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ここでもマロニエの高木も低木も花盛りであった。足元のこの花は何だろう

 ようやく、中国の塔が見えてきた、周辺のビヤガーデンは、まだ掃除中で、長いテーブルとイスは、モップ?で洗われているさなかだった。イザール河畔まではかなりの距離があるとのこと、売店の人は力説していたので、降りたUの駅まで戻ることにした。

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 Kさんとは、マリエン広場で1時に待ち合わせである。その前に、広場近くのデパート、ガラリエ・カウフホーフのレストランで昼食を済ませておくことになった。

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文房具のコーナーなど廻って最上階へ

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ここのレストランはバイキング方式だったので、メニューと格闘することもなくほっとする。サラダのコーナーとケーキのコーナー

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なんとカラフルなランドセルだろう。日本の小学生は、いまだに革製のカッチリした高価なものだし、中学生は、さまざまなデザインのリュックサックを背負うのが主流になったようだが

 

 

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2018年5月21日 (月)

ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(4)

585時、マリエン広場で

 

 ダッハウ強制収容所からマリエン広場に戻り、Kさんは別れ際に、ランチは青空市場でいかがですか、と勧めてくださった。それから「新市庁舎の仕掛け時計は5時ですよ」とも。マリエン広場の賑わいは、なるほどインターナショナルな気配であったが、新市庁舎は「新」とは思えない風情でそびえていた。日本の明治時代、19世紀後半からルートヴィヒ1世の命で建てられたネオ・ゴッシク様式という。その新市庁舎の地下にあるレストラン、ラートケラーで、かなり遅いランチとなった。店内は、幾つものスペースが迷路のように広がっていた。すこし奥まったところに座り、夫がかねてから調べていた?というメニューと首っ引きで頼んだのが、ご覧のごちそうである。かなりのボリュームだったが、どれもおいしくいただいたものの、ソーセージの盛り合わせを残してしまったのが残念だった。

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新市庁舎地下のレストラン、ラートケラーの入口

 

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テーブルからもはみ出しそうな。手前がシュニッツェル、レモンは包んであるので絞りやすい。盛り合わせの右肩のカップには、味のない大根の千切り?とからしマヨネーズ?手前のグラスにはサラミと筒状に包まれたバターが立っている。もう一皿はホワイトアスパラガスの束?にポテトの付け合わせでした

 広場を囲むように、新市庁舎を左に、正面にアーチのある旧市庁舎(庁舎内におもちゃ博物館がある由)と聖霊教会、右にミュンヘンでもっとも古いペーター教会ということになる。中央の高い聖マリア像はバイエルンの守護神としてライオンや怪獣に守られているようだ。

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 旧市庁舎の脇の花屋さんもみごとな花ばかりだったが、お勧めの青空市、ヴィクトアリエンマルクトに入ると目をみはるばかりの物量と豊かさである。あれもこれも、珍しく、買って帰りたくなるものばかりだったが、ともかく、今晩ホテルでと、イチゴ、プラム、葡萄を買い込んだ。

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トウガラシやニンニクまではわかるが・・・、乾物屋さん?


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生活と密着しているハーブなのだろう。その種類と量が半端ではない。ダッハウ強制収容所でもハーブの畑があって、そこでの労働も強いられたという

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見慣れた果物も多かった.。イチゴは、日本で2パックくらいあって、600円くらいだったか

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ジャガイモだけでもこの種類!

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市場か中央のポールは、3年に一度ほど絵柄を変えるそうで、この5月に新しくなったばかりだそうだ。いわれや物語が込められているとも

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ミュンヘンは、どこでも、ちょうどマロニエの花盛りで、この木陰でのビヤガーデンは大賑わいであった

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ピクルスの種類にも驚きながら・・・


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そしてチーズも

 市場をひと巡りした後は、ペーター教会、少し離れた二つのドームを持つフラウエン教会、ちょうど工事中であったが、見て回って、5時少し前にマリエン広場に戻った。大変な人出、ドイツでは一番という仕掛け時計がお目当てだ。私たちも少し疲れたね、と時計塔の真ん前のカフェで、5時を待った。5時ちょうどに鐘は鳴ったのだが、人形がなかなか動き出さない。みんなカメラを構えて見上げていた。そして動き出したときは、どこからもなく「オー」という声が上がった。まだ、陽は高いが、Uバーンでホテルに帰った。市場で、買ったイチゴは新鮮でおいしく、二人でかなりを平らげた。

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2018年5月20日 (日)

ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(3)

Img407_3「見取り図」再掲

ゲオルク・エルザ―の独房に遭う

 展示室③を出ると、1997年に設置されたという、ダッハウの犠牲者慰霊碑④が目に入る。高圧電流の通る有刺鉄線を越えようとして、命果てた人々を表現したという。

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 収容者の点呼がなされた広場⑤の先のポプラの並木道路⑨の左右には合わせて30棟近い収容棟が並んでいたが、今は、左右一棟づつ再建され、当時の様子を再現している。

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この広場が、点呼の場所であった

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三段ベッド、トイレ、洗面所、ロッカーなどが並ぶ中を若い見学者が続く。所々で案内人の説明を聞いているグループに出会う


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1939年11月、ミュンヘンのビアホールBurgerbraukellerでのヒトラーの演説をねらって、たった一人でヒトラーの暗殺を計画、未遂に終わり、逮捕された家具職人ゲオルグ・エルザ―の独房である。「13分間の誤算」という映画にもなって、このブログでも紹介したことがあるエルザ―は、当局からは単独犯とは信じられず、きびしい追及が続けられていた。ベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所を経て、ここダッハウに収容され、いわば解放直前の1945年4月9日に銃殺されている

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並木道路を奥に進み、再建バラックを振り返る

「想像してみよ、その死を」と問いかけられて

 半日のダッハウ強制収容所の見学ツアーは、火葬場⑪の際に立つ碑の警告を胸に終わることになる。Kさんとは、マリエン広場まで戻り、別れた。時間は予定よりもはるかに越えてしまったのだが、明日も、午後の半日、市内を案内していただくことになった。

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死者が出ると、火葬場があるエリアへと、この水路⑧を渡って、バラック”X”へ。収容所当初はミュンヘン市内の火葬場に運ばれたが、死者が続出すると、このエリアに火葬場を設置した 

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 「火葬場 考えて見よ、ここで、どんなふうに死んでいったのか」と

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シャワー室⑩を模したガス室 、この収容所では使用されなかったと言われるが

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ガス室前で、説明を聴く若い見学者たち 

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ユダヤ人は、土葬が常で、火葬は禁忌であったという

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 かつては、聖職者の収容棟や医学実験棟などがあった跡地。実験棟とは言うが、人体実験(人体が気圧の高低、気温の高低にどこまで耐えうるか)などが、実施されていたことが判明している


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 車体には、ダッハウ収容所のシンボルでもある慰霊碑が描かれているが、ほかにも城も教会もある街でもあります、とのメッセージか。半日の収容所見学の旅は終わる

 

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ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(2)

58日、ダッハウ収容所へ、大勢の若い見学者たちに圧倒される
 

9時に中央駅構内のスタバでガイドのKさんと待ち合わせ、一日乗車券を手渡された。列車Sバーン2Erding行きと反対方向に乗ればよく、ダッハウ駅の先で二手に分かれるらしい。 

Kさんは、ミュンヘン在住48年という主婦で、若いとき、日本での高校教師を経て、海外青年協力隊で、しばらくインドにいらしたという国際的な方だ。娘さん3人、お孫さん4人、現在は夫婦二人暮らしとのこと。ミュンヘンの観光ガイドとダッハウ収容所ガイドという二つの資格を持つベテランで、後者の資格を持つ日本人はしばらくの間、一人だったが、最近50代の方が加わり、二人になったそうだ。座席にカードとティッシュを配っている女性がやって来た。「あれは物乞いなんですよ、触らずに放っておいてください」ということだった。知らない間に、そのティッシュは回収されていた。そんな話を伺っている間に、ダッハウに到着、収容所行きバスの乗り場は、若い人たちでごった返していた。学校単位なのか、グループなのか、みんなリゾート地のようなラフな服装で、行き先が収容所とはとても思えない賑やかさである。バスは満員で、次を待つ。学校では強制収容所学習が義務付けられていて、バスで直接見学に来ることも多いらしい。

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 ダッハウ強制収容所も、かつて見学したポーランドのアウシュビッツやベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所の外観や概要は似ているようにも思ったのだが、Kさんの話を聞いたり、後で資料を調べてみたりして、その成り立ちや性格が少しづつ異なるのがわかった。 

<私のこれまでの強制収容所見学記録は、以下のブログを参照いただければと思います>

2010531日「ポーランドとウイーンの旅(2)古都クラクフとアウシュビッツ」

   http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/05/post-f56e.html

20141117日「ドイツ産都市の現代史に触れて フランクフルト・ライプッチヒ・ベルリン20141020日~28日」

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/11/20141020289-91f.html

 

  1933年、ヒトラーは首相になって開設したダッハウ強制収容所は政治犯のための強制収容所であり、他の強制収容所の先駆けとなりモデルにもなり、親衛隊SSの養成所にもなった。ミュンヘン近辺の140カ所の支所たる収容所のセンターでもあった。警察組織と親衛隊組織を統合した権力のトップにたったヒムラーが統括し、アイケが所長となっている。ここは、ドイツのユダヤ人のみならず、ポーランド、ソ連などの人々も収容した。ユダヤ人だけで死者32000人以上を数え、1945年4月29日のアメリカ軍による解放まで、のべ約20万人の人々が収容され、ここからアウシュビッツなどの絶滅強制収容所に送られた人々も多い。また特徴としては、聖職者も多く専用棟があり、医学実験と称して、人体実験(人体は気圧の高低、気温の高低のどこまで耐えうるかなど)が数多く実施されたことでも知られている。のちに述べるように、バラッ”X”と称される建物には、シャワー室を模したガス室が残っており、その近くには4基の焼却炉を持つ火葬場がある。ただ、このガス室は、使用された形跡がないともいわれている。 

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KZはKonzentrationslagernor強制収容所の略で、その記念地ダッハウとある

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ARBEIT MACHT FREIの文字が読める

入り口②には、例の「働けば自由になる」(”ARBEIT MACHT FREI”)の文字がある門扉をくぐり、まず映画を見ましょうと、かつての管理棟、「見取り図」③の中央の映写室に入るが、第1回の英語バージョンは終り、オランダ語になっていた。Kさんが、後ろの座席から、画面の説明をしてくれるが、目を背けたくなるような映像が続く。上映が終わると、幾組かの中高生のグループが立ち上がり、オランダからの見学者なのかしらとも思う。この映画は、各国語の解説付きで、20分ほどの上映らしい。ドイツ語と英語は一日に5回、フランス語とオランダ語が各1回となっていて、日本語はない。

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英語版のリーフレットの一部

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公式のガイドブックの英語版の表紙

 公開されている強制収容所跡は、以下の1945年現在の平面図の中の右下の長方形の部分と火葬場のあった部分であり、その拡大図が次の「見取り図」である。この敷地は、収容所の前は火薬工場があったところで、現在公開されていないエリアは、警察機動隊が使用しているということだ。公開エリアに関してもバイエルン州には、当初別の再開発計画があったそうだが、多くの関係者の要望で、今のような形で残されることになった。ここが、日本の、多くの日本人の歴史認識と異なるところだろう。

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"MUNICH 1933-1945"の末尾の4頁がダッハウ強制収容所の説明と写真が収められている

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「見取り図」、前掲リーフレットから

 細長いコの字型の建物③の屋根には、かつては写真のように、スローガンのようなものが書かれていた。いまは、十数室の展示棟になっていて、1933年から時代順にこの収容所の歴史をたどることができている。様々な工夫がされている展示だが、丹念に見ていたら、半日以上はかかりそうだ。

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これは1938年11月の収容者点呼の様子を描いたもので、残された貴重な資料の一つ。隊列の最後尾には遺体が並べられている。D.L.Bloshブロッホが、のち上海に逃れた1940年に描かれた

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罰則のムチの刑がなされた台という。SSによる収容者への制裁は、食事抜き、70㎝四方の直立不動、強制労働などと並ぶムチ刑で、30回近く続いたという

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こうした写真も数多く展示されているので、よほどの覚悟も必要である

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1945年ナチスドイツの敗退直前、4月26日から始まった、ダッハウからテーゲル湖への収容者7000人の移動は、「死の行進」と呼ばれ、犠牲者は多数に及んだ。今ではその沿道に、慰霊の彫像が数多く設置されているという

 

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2018年5月19日 (土)

ミュンヘンとワルシャワ、気まま旅(1)

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今年のモクレンとツツジは開花が早かった

4年ぶりのドイツ

 

訪ねたい町は数ある中で、迷いに迷ってミュンヘンとワルシャワ再訪という希望が二人で一致した。私には、ミュンヘンは初めてである。数か月前から、57日出発、15日帰国のホテルと航空機の予約を代理店にお願いしていたが、夫が準備のための情報収集を始めたのは2週間ほど前だったか。私の方は、あちこちの体の不調が続いていて、病院通いをしていた。もしかしたら最後の海外旅行になるかもしれない、との思いだった。しかし、今回の旅程の数週間後にパスポートが切れるので、念のため更新に出かけた。迷ったが10年の申請をしてきたと告げたところ、体調が悪いと言いながら、やることが違うではないかと笑われた。私は病院の待合室で、ガイドブックを読む程度の準備しかできなかった。

 

今回は、少しゆったりした気持ちで街歩きをしたいとの思いから、ミュンヘンで一日半、ワルシャワでは一日、現地でのガイドさんをお願いすることにしていた。

 

天気予報によれば、ミュンヘンは、千葉県よりやや低めの気温ながら、天気はまずまず、後半が崩れるかなというところだった。傘は持って行った方が安心か。航空機は、ANAとルフトハンザの共同運航便羽田1235発ミュンヘン行きであった。ミュンヘンは中国語で「慕尼黒」と書くらしい?とも気づいた。

 

57日、ミュンヘン、ホテルのアジサイ

 

20分遅れの離陸、11時間弱の飛行、かつてはおいしいと思った機内食(朝食・夕食・軽食)だったが、この頃はあまり食欲をそそらない。映画は、公開当時見てみたいと思っていた「めぐり合う時間たち」を選んだ。原題は「Hours」とそっけない。数年前の作品と思っていたが、なんと2002年のアメリカ作品だった。バージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』(1925年)をめぐって、生きる時代を異にする3人の女性の物語である。1923年からロンドン郊外に転居して、自殺に至るまでの晩年のウルフ自身(ニコール・キッドマン)、1950年代ロサンンゼルスの一見幸福そうな主婦(ジュリアン・ムーア)、現代のニューヨークに生きる作家(メリル・ストリープ)の生と死をめぐるストーリーが同時進行しているらしい。やや複雑な構成だが、見ているうちにひきこまれていくような作品だったが、旅の道中には、重すぎたテーマだったかもしれない。

 

ミュンヘン空港ターミイナルⅡ着が夕方の540分だったが、夏のような日差しがまぶしい。預けた荷物を受け取るのに、長いエスカレーター、動く歩道、構内の電車に乗って移動し、市内へのシャトルバスは、610分発(11€)、中央駅前下車、目の前のホテル、エデン・ヴォルフには730分にチェックイン、予想よりかなり時間がかかったことになる。半袖で十分な気温、日没は、8時半過ぎという。

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バスは、空港の幾つものターミナルをぐるぐる回っていた。市内に入っても、渋滞気味だった。前席には、留学している学生の息子さんが両親を迎えたかのような日本人の家族が乗っていた。

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空港シャトルバスのテーブル席、新聞や雑誌も提供されているらしい

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 ホテルのロビーにはあちこちにアジサイが

 部屋は広めで、木製の壁や家具はシンプルで落ち着いた雰囲気に和む。入浴後、夕食は、ホテル内のレストランで済ます。野菜サラダ、ホワイトアスパラのスープ、シュニッツェル、トマト・ナスのソースのパスタとすべて一皿づつ、シェアすることに。それでもパスタは残してしまった。夫は細長いグラスの白ビール。私はしばしアルコールを控えることに。静かな雰囲気のレストランでも、大きなジョッキを前に仕事帰りの男性たちがあちこちのテーブルで話し込んでいた。ホテルのロビーやレストランには、しっかり花をつけたアジサイがあちこちに置かれていた。出がけの我が家のアジサイは、まだまだだったが、テッセンは散ってしまっていた。 

食後、明日、ガイドKさんと待ち合わせ場所のミュンヘン中央駅構内のスタバを確認、売店は10時で店じまい、あわてて水を買って置く。駅構内警備の警官は2人で巡回、2階の通路から見渡している警官もいる。かなり物騒なのかな、とも思う。外気は、だいぶ涼しくなっていた。戻った部屋では、湯沸かしポットの備えがなかったので、持参の湯沸かしで日本茶を入れ、一服、ほっとするまもなく、どっと疲れも出てきた。

 

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2018年5月 6日 (日)

5月5日、「木更津にオスプレイ要らない!」のチラシを配布しました

  4月27日、地元の9条の会の高校前でのニュース配布に続き、5月5日には、ユーカリが丘駅前で、午後の約1時間、会特製?のチラシを配布しました。「木更津にオスプレイ来るな、オスプレイ要らない!」自衛隊の木更津駐屯地が沖縄米軍オスプレイ24機の整備基地となり、さらに急きょ、陸上自衛隊がアメリカから購入のオスプレイ5機が、この秋にも配備されることになったことを、千葉県民は意外と知らないのではないか。そんな会員の思いで、作ったチラシでした。

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 会員ほかあわせて10人以上で休日の駅頭を行き交う人たちに訴えました。受け取りは意外に良くて、「え?そうなの」「怖いね」「頑張って」などの声に励まされながら、北口・南口と立ちました。折しも、5月4日・5日の『東京新聞』の千葉中央版に、木更津のオスプレイについて「高まる不安 オスプレイ暫定配備か」の記事が連載されたのです。「事故起きてからでは遅い」の見出しを頂戴して、慣れないながら、以下のようなトークとなりました。

 途中、ご近所の知り合いかとも久しぶりにお会いして、しばらくおしゃべりをしたりすることも二度ほどありました。

 

~~~私のトーク~~~

みなさん、事故が起きてからでは、遅いのです。

木更津が米軍のオスプレイの整備基地になるのをご存知ですか。沖縄の普天間配備の24機が、かわるがわる整備のために木更津の自衛隊駐屯地にやってきます。整備直後の点検・試験飛行も続きます。図体ばかり大きく、非常に危険なオスプレイであることは、沖縄の名護の海岸に墜落したり、伊計島に部品を落としたり、事故が続いていることでもわかります。沖縄のオスプレイ配備をとめましょう。木更津の整備基地化を止めましょう。

事故が起きてからでは遅いのです。
 みなさん、私たちは、さくら志津憲法9条をまもりたい会です。10年にわたって憲法9条をまもりたいとの思いで活動してきました。木更津の自衛隊駐屯地に、陸上自衛隊が購入した、あの事故率が極めて高いMV22というオスプレイ、その配備が決まりました。今年の秋には5機配備されます。

 一機100億円もするオスプレイですが、その性能や危険性については悪名高く、未亡人製造機とも呼ばれています。佐賀空港の整備直後の点検飛行中の自衛隊ヘリが墜落しましたね。機種は違いますが、その原因がわからないので、オスプレイの配備予定も立たなくなって、急きょ、佐賀空港から木更津に変更されたのです。佐賀でダメなものは、木更津でもダメなのです。

事故が起きてからでは遅いのです。

 千葉の空は、米軍のオスプレイ、自衛隊のオスプレイが、飛び交うことになります。千葉の空、木更津の空、佐倉の空も危ないのです。千葉県や木更津、森田知事や木更津知事は、米軍のオスプレイ整備基地化は認めてしまいました。自衛隊オスプレイは、あくまでも暫定だとしていますが、国からの、防衛庁からの情報はほとんどありません。

事故が起きてからでは遅いのです。

 木更津に米軍のオスプレイ来るな、自衛隊のオスプレイ要らない、沖縄にオスプレイ要らない、日本にオスプレイ要りません。

 わたしたちの意思を、防衛省に、森田千葉県知事に、木更津市長に、佐倉市長に届けましょう。

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5月4日の『東京新聞」千葉中央版から

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2018年5月 4日 (金)

ゴールデンウィークのさなかですが~

 ゴールデンウィークのさなかのお知らせですが、先月号にインタビュー記事と短歌時評が掲載されました。もし機会がありましたら、ご覧いただければと思います。

 

➀「私の歌に連なる他者へ」(インタビューアー:佐藤むつみ、「あなたとランチを」NO.35)  『法と民主主義』(日本民主法律家協会) 2018年4月 

 弁護士の澤藤統一郎さんのご紹介があって、インタビュー「あなたとランチを」に声をかけていただいたようでした。この雑誌では親しまれているコーナーなんですよ、と弁護士の佐藤むつみさん、「私の歌に連なる他者へ」という立派なタイトルまでつけていただきました。四谷の閑静な住宅街にある佐藤さんの事務所での、楽しいアフタヌーンティーでした。帰り道には、佐藤さんがくださった「近道マップ」にも記された、行列ができるという「わかば」のタイ焼きを買ってしまいました。(画像は記事の一部)

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②「短歌における<改ざん>問題」 『梧葉』春号 2018年4月25日

 
このブログでも、何度か取り上げている斎藤史の戦時下の歌集『朱天』(1943年)が、『斎藤史全歌集』(1977年、97年)に収録される際に、17首の削除、多数の改作がなされていた事実を一例として、表現者の責任について書きました。 

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2018年5月 3日 (木)

「和歌御用掛」は岡井隆から篠弘へ~憲法記念日に

 憲法記念日に、またも何を些細な「歌会始」とは、と思うかもしれない。 天皇の代替わりを一年後に控えた430日、2007年から御用掛を務めてきた岡井隆(90)が辞職し、51日付で、2006年から歌会始選者を務めている篠弘になった、との報道があった。岡井は、1993年から2014年まで歌会始選者を務めているので、御用掛と兼務の時代もあった。2015年からは和歌の御用掛として、「お歌に助言をさせていただく人間として戦争体験者の私がお役にたてるのではないかと、考えるようになり」、「両陛下がご公務に頑張っておられるわけですから、私も頑張らねばいけません。体力が続く限り、御用掛を続けさせていただこうかと思っております。」とも語っていた(岡井隆「宮内庁和歌御用掛が明かす 佳子さまの和歌の素養」『文藝春秋』20156月)。20168月の天皇の生前退位表明の一年以上前のことだった。当時、岡井は、体調を崩して、後継者を探したが「適任者が見つかりませんでした」とも、上記記事で述べていた。その後、天皇の状況は大きく変わったが、岡井も心境や体調の変化があったのだろうか。

  いずれにしても、「歌会始」の状況は、大きく変わることはないだろう。ただ、それ以上に危惧するのは、代替わりを控え、歌会始の選者たちを中心に、「幅広い」歌人たちによって、天皇・皇后の短歌について光が当てられ、その鑑賞や「深い読み」が展開されるだろう。「国民に寄り添った」心情や家族愛、政情や歴史認識に分け入った解釈もして見せるに違いない。しかし、そうしたことが、結果的に「象徴」の地位を脱して政治利用につながることは必至で、避けるべきではないかと思うのだ。天皇・皇后(及び皇族)がたしなむ短歌が発信されたならば、いまの私たちができることは、自ら選択することのできない、憲法上矛盾に満ちた特異な存在である人々の短歌作品として、各々が一読者として鑑賞するほかないのではないか、と思っている。 

 すでに、マス・メディアでは様々な形で、「平成回顧」がなされている。政治的権限を持たない天皇の在位期間、元号をひとくくりにする意味は何処にあるのだろう。 

 すでに、このブログ記事でも触れたが、公文書類や出版物、メディア上での年号表記は、西暦で統一すべきである。少なくとも併記が必要である。そうでないと、元号表示だけでは、何年前のことであったのかが、即座に定まらず、まるで、頭の体操を強いられることになる。明治、大正、昭和、平成・・・で示される年号では、「地球規模」の課題や動向、グローバルな国際情勢とはリンクできないし、その換算は容易なことではないからだ。その混乱はどうしてくれるのだろう。

 

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2018年5月 1日 (火)

「山口メンバー」と「佐川(氏)」~NHKの「総合的判断」とは何か

「佐川が、サガワが・・・」と連発する麻生大臣だったが

 やや旧聞に属するが、麻生財務大臣が、記者会見や国会答弁で「佐川、サガワ」と連発していた3月の中旬頃であった。NHKのテレビのニュースを見ていると、財務大臣の会見や答弁を伝える録画で「サガワ」という音声が流れるたびに、テロップには必ず、「佐川氏」と表示されるのだ。ふつう、テロップの文字は、発言等の要約が示されるのだが、上記の表示が繰り返されるのである。テロップは、難聴者への伝達の手段としても重要な役割を担うものと思われるが、上記の「氏」という付記表示は、どういうことなのだろう。まさに「呼び捨て」が問題になっている麻生発言に、わざわざ敬称を付記するのは、事実を伝えていないことにならないのではないかと、疑問に思い、NHKの「ふれあいセンター」に電話してみた。相変わらず「そういうご意見があったことは担当に伝えておきます」との紋切型である。「なぜ、音声にないことまで、テロップに付記するのか、事実を曲げて伝えていることにならないか、そこまでする理由を聞きたい」といえば、電話口は上司という人の声に代わった。ここでも「担当者の総合的な判断によるものです」という答えにならない返答なのである。「総合的判断」とは、理由ではなく、まさに「NHKの勝手でしょ」という「恣意性」に過ぎない。 

 

 「麻生大臣に呼び捨てに呼んでもらいたい、呼び捨ては信頼の証でもある」とかいう副大臣まで現れたり、323日には、野党議員からの質問主意書に閣議において「麻生大臣が財務省の職員の名前を敬称を付けずに呼ぶことは通常であり、佐川氏の在任中も敬称を付けずに呼んでいたことから、前長官の退任から間もない時期にそれを継続した」までで「呼び捨ては問題ない」という答弁書を決定したりした。しかし、麻生大臣の「呼び捨て」は、多くの批判を浴び、前役職などを付けるようになった、というのが顛末であった。「呼び捨て」は、偉そうな上司の謂いで、身内の者に敬称を付けないというのと少し違い、麻生大臣の場合は、苛立ちと憎まれ口をたたいて質問をかわす魂胆と品性自体が見え隠れする。公の発言では役職名などを付した方が適切であったとは思う。

 

 しかし、NHKがそれを補う必然性はない。 NHK報道における「敬称付記」は、あまり問題視されなかったが、これは何のための配慮であったのか、誰のための配慮であったのかを考えたとき、NHKの報道姿勢が問われる問題であったと思っている。麻生大臣の佐川前国税庁長官に一方的に責任を転嫁するような発言を和らげたかったのか、前国税庁長官だった人への敬意のつもりだったのか、麻生大臣の乱暴な言葉遣いを少しでも庇うためだったのか・・・。いずれにしても、NHKの「政府広報」の一端をのぞかせる一件であったかと思う。

「山口メンバー」の「メンバー」ってなに?

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   報道に登場する人の呼び方について、もう一件、NHKに抗議したいことが生じた。425日、NHKTV「シブ5時」で、TOKIOの山口達也が自宅での女子高校生への強制わいせつ容疑で書類送検されたという速報が流れて、その後、民放が追っての報道だったらしい。私は、NHKTV「ニュース7」で知った。その時、ネット上でも話題になった「TOKIO山口達也メンバー」という呼び方が気になった。その後のニュースや翌26日午後の記者会見後のwebニュースでも、NHKは、「TOKIO山口達也メンバー」という呼び方を使い続けていた。我が家で購読の全国紙でも同様の呼び方をするので不思議に思ったのだ。普通だったら、「TOKIOのメンバーの山口達也さん」か、読売新聞のように「TOKIOのメンバー山口達也容疑者」と呼ばれるところではないか。「山口達也メンバー」ということは、「メンバー」がまるで、「さん」や「氏」などと並ぶ敬称の一つかのように使い方である。「用語」にうるさいNHKらしからぬ使い方なので、 その理由を426日の夜「ふれあいセンター」に尋ねてみた。「どうしておかしな使い方をするのか」には「総合的判断」の結果だという。「おかしい、というご意見は担当者に伝えます」で終わった。さらに、ニュースでは、あらためて、記者会見の様子を長々報道したり、街の声を拾ったりして、報道した挙句、「メンバー」などという不自然な敬称を使用するのは止めてほしい、まるで、所属事務所の広報のような報道でしかないのは公共放送としてあるべき姿ではない、とも伝えた。

 

  さらに、NHKには抗議したいことがあった。というのは、こうした速報が、書類送検後、被害者との示談成立後、タイミングよくNHKからなされたことだった。番組で共演した女子高校生ということから、NHKの「Rの法則」であるということは、民放の情報番組では語られていたし、NHKも「Rの法則」の番組ホームページを閉鎖した上に、次のような画面が登場するのである。


~~~~~~~~~~

Rの法則」は現在放送をお休みしています。
 
今後の予定などにつきましては、
 
このホームページなどであらためてお伝えします。
 
【番組からのお願い】
 
今、番組出演者のSNSアカウントやブログなどに対して、
 
個人を著しく中傷するような心無い書き込みが数多く投稿されています。
 
こうした投稿は出演者たちを深く傷つけ、悲しませるものです。
 
絶対にやめていただくよう強くお願いいたします。
 
Rの法則」制作スタッフ一同

~~~~~~~~~|

 私は、「メンバー」使用の件とは別に、以下の質問をしたのだった。

・今回の事件の被害者は、NHKの番組で、山口容疑者と共演した女子高校生だということが報じられているが、事実 
―答えられない

・事実ではないということか
―答えられない

・何故答えられないのか 
―出演者が特定してしまうことがあり、人権問題になるから

 

 「人権擁護問題については、慎重な対応が必要とされているのはご存知でしょう」とも開きなおられた。しかし、「答えられない」という対応こそ、上記の質問内容を認めたことになりはしまいか。現実には、そうした報道がなされている以上、NHKは説明責任があるのではないか。「特定する・しない」以前の問題として、自局の番組に問題を抱えた出演者がいたら、その管理が必要ではなかったのか。少なくとも、飲酒が原因で入院している病院からスタジオ入りするような山口容疑者を出演させ続けていた責任が、NHKにはあるはずである。そんな主旨のことも伝えたが、一切答えはなかった。青少年を出演させ、青少年を対象とする教育テレビの「教養」番組を標榜するならば、そうした慎重さも必要であったろう。

 こうしたNHKの対応は、福田財務省事務次官のセクハラ被害者のテレビ朝日の社員が上司に相談したとき、「被害者が特定するので、報道することを拒んだ」という、テレ朝の対応にも似ている。「人権擁護」の名のもとに、なにかが隠蔽されているのではないか、公共放送たるNHKがタレントの所属事務所にひれ伏したのか、共同で画策したのかの疑問も残る。 

  起訴猶予処分、4人のメンバーの記者会見などのレールに乗って、さらなる画策は続く模様ではある。

<5月2日付記> NHKは、「午後なま」で、2日午後2時からの4人の記者会見の中継を20分以上続けた。「ニュース7」でも、いい大人たちがそろいもそろって、事務所に言い含められたように、無理やり連帯責任を強調するかのように、30秒以上の深い礼の謝罪とか、山口本人が土下座をして辞表を出したとか、なぜアルコール依存症との診断書を出してくれなかっただの、20数年来の仲間を見捨てられないだの、見守りたいだの、向き合うべきことに向き合うだの・・・相変わらずで、ニュースでは「街の声」を拾うなど、所属事務所の思惑通りの報道をしていた。NHKの責任に一点たりとも触れることはなかった。一件落着、あとは様子見でなのだろう。

<5月3日> 今日のフジテレビ「特ダネ」で、番組のMCが、NHKの対応、責任について言及していた。他のコメンテーターの一人が「Rの法則」の楽屋が、「合コン状態」?だったとも。4月27日のフジテレビ「バイキング」のMCも盛んにNHKのことに言及していたのを今日知った。私は番組自体を見たことはなかったが、過去の番組紹介によると、ショウもない若者迎合らしい?テーマが並んでいて、若年層の視聴率狙いが露骨だが、ほんとうはどうだったのかとも。昨日今日の他の番組でNHKに触れることはあったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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