2016年9月21日 (水)

[雑誌に見る占領期-福島鑄郎コレクションをひらく」展示会とシンポジウムに出かけました(2)

盛りだくさんだったシンポジウム、時間が足りなかったのでは!

シンポジウムは以下の通りだったが、どれも魅力的なテーマであったが、時間が足りなかったのでは。

***********

 記念シンポジウム日程:918() 午後13:0017:00

シンポジウム会場:3号館305号室

 司会:川崎賢子(日本映画大学)

 第一部:

①山本武利(早稲田大学名誉教授)「20世紀メディア研究所と占領期研究」

②ルイーズ・ヤング(ウィスコンシン大学)「新世紀における占領期再考」

 Rethinking Occupation History in the New Millennium

 通訳:鈴木貴宇(東邦大学)

③宗像和重(早稲田大学)「福島コレクションの由来」

 第二部:

④石川巧(立教大学) 「カストリ雑誌研究の現在」

⑤三谷薫(出版美術研究家)「占領期の少年少女雑誌:絵物語を中心に」

⑥土屋礼子(早稲田大学)「占領期の時局雑誌」

***********

 第一部の山本さんは、プランゲ文庫のデータベースの維持と有料による公開に至った理由について、縷々述べられていた。科研費による研究成果の活用が閉鎖的な学界の慣例を脱却して、公開して利用者に還元したいという思いが伝わってきた。
 
なお、会場には、福島鑄郎氏のご子息がいらしていて、写真の故福島氏の風貌そのままに、雑誌に囲まれた家族のエピソードや最近になって、お父様のやってこられた仕事が理解できるようになったことなどを話された。 

自国の研究者にも手厳しい「新世紀における占領期再考」

ルイーズ・ヤングさんの基調講演は、日本の占領期について研究史がテーマで、聞いているうちに、アメリカの研究者と日本の研究者の相違、そして変遷というものが、おぼろげながらわかってきたような気がした。日本における占領史研究については、竹前栄治「占領研究40年」(『現代法学』〈東京経済大学現代法学会〉8号 20051月)などで、おさらいをしていたつもりだったが、アメリカの研究者については、知日派、親日派と呼ばれながら、ライシャワーとジョン・ダワーでは、随分と違うんだな、くらいの関心しかなかったのが、正直なところであった。

アメリカ研究者による日本の占領期研究は、第二次世界大戦の戦中派であるライシャワーなどから始まり、アメリカによる占領の成功体験として語られ、冷戦下にあっては、リベラル知識人に繋がった。

1960年から数年間、続いた日米の研究者による、日本語による「箱根会議」に発展し、占領は、日本の近代化に大きく貢献し、「資本主義国における近代化と第三世界の発展モデルとしての日本」というのも、かなり偏向した結論で、日本人研究者の意見が傾聴された様子が見えにくかったという。私は、「箱根会議」のことは、耳にしたことはあったが、その実態はよく知らなかった。今回、アメリカの研究者のヤングさんよる、その手厳しい評価を、私ははじめて聞いた。

1970年に入ると、アメリカでもベトナム戦争へ反対運動とともに、アメリカの帝国主義的侵略に批判的な研究が高まり、新左翼的な史観による研究者たちは、占領が日本の自力による再生と社会的な改革を起こす可能性を抑制したものとして、アメリカ外交の身勝手さとアメリカの理想の実現という初期の信念を否定した、として「考え直すアジア研究者たちの学会」などの成果を示した。

Dscn0512_2
「考え直すアジア研究者たちの学会」の研究者による著作、Joe Moore,Japanese Workers and Struggle for  Power 1945-47(1983) Michael Schaller,The American Occupation of Japan(1985)など

ここで示された「New Left」(日本語のレジメでは「新左翼」との訳)の語は、日本でいう「新左翼」とはその意味するところが、若干異なるのではないかというのが素朴な疑問だった。

80年代から90年代にかけては、日米の研究者による共同研究、日本人研究者の著作の翻訳が活発化し、その研究対象は大衆文化、社会的な相互体験など多様化し、より精密な事例研究にも及ぶようになった、とする。

そうした研究動向の中で、プランゲ文庫の位置づけも大きく変容してきたことにも着目、興味深いものがあった。1950年、マッカーサーの直属のスタッフだったゴードン・プランゲが、アメリカに持ち帰った日本における占領軍による検閲資料群であった。その保管は、アメリカ議会図書館東洋部を経て、メリーランド大学に落ち着いたが、保存状態は決していいといえなかった。プランゲ自身も、当初は、軍事秘話的な関心で『ミッドウェーの奇跡』『我らが眠っていた夜明け』『トラトラトラ』などを刊行、講義もそれらが中心だったらしい。カタログ化は、遅れて1963年から着手されている。このコレクションの存在が日本に紹介され始めたのが、60年代末から70年代にかけてだったのだろう。80年代になると、まず日本で「検閲資料」への関心が高まり、研究も活発になり、それがアメリカに波及した。その研究対象は、政治や経済分野ばかりでなく、現在では、文学、大衆文化、地方紙、社会史などへの広がりを見せている。日本での紹介の嚆矢は、前掲『戦後雑誌発掘―焦土時代の精神』にも詳しいが、松浦総三『占領下の言論弾圧』(現代ジャーナリズム出版会 1969年)や慶応大学からの派遣職員の一人森園繁「アメリカ大学図書館での経験」(『Kulic219716月)らによるものだった。さらに、1980年代になって、江藤淳が『閉ざされた言語空間』と題して、雑誌『諸君』に19822月から19866月まで断続的に4回連載された。

Photo_2
邦訳:1967年

Photo_3
邦訳:1984年

なお、最後に、戦争の前後を貫く「貫戦期」のアジアを射程にした植民地、占領地の歴史研究の必要を強調された。

 さらに、アメリカにプランゲ文庫というアーカイブが存在するということは、戦勝国の戦利品であったということと、占領軍の検閲政策の産物であったという認識も必要であるとも話したのだが、会場からは、「プランゲ文庫のおかげで、占領期の出版物や検閲の実態が分かってきたのだから、そこまで断定できないのではないか。もし、日本に残していたら、おそらく焼却処分されて、闇に葬られたのではないか」との質問が出ていた。「発禁図書」の国立国会図書館への返却、戦争絵画の国立近代美術館への無償貸与という実績もある。プランゲ文庫が日本に返却されるという交渉はなり立たないのだろうかと、ふと頭をかすめるのだった。

Dscn0514
メリーランド大学プランゲ文庫入り口、写真はプランゲの肖像

私自身は、1970年代の初め、職場の労働組合主催の松浦氏の講演会(19731月)を聞いたりして、大いに刺激を受け、「占領期における言論統制―歌人は検閲をいかに受けとめたか」(『ポトナム』19739月、後『短歌と天皇制』風媒社 198810月に所収)を書き急いだことが思い出される。その当時は、ゴードン・プランゲ(GordonWPrange)という名前の読み方も、「プランジ」と表記されていて、私もそれに倣っていた。短歌の検閲はどうであったのか、かつての当事者は、当時、あまり語りたがらない状況の中、プランゲ文庫自体のマイクロも閲覧できない中、それまで、戦時下の言論弾圧の延長線上で収集していた敗戦直後の短歌雑誌や歌集、あるいは、少しづつ語り始めた編集者や歌人のエッセイ等から、断片的に、占領検閲の実態を探ったものである。その後、国立国会図書館憲政資料室でのマイクロや早稲田大学の「占領期雑誌目次データベース」のおかげで、関係コピーを入手することができた。占領軍の言論弾圧の方向性が明確になってきた。その後、若干の検証をしたものの、本格的な論考は先送りになっている。

 

占領期の「時局雑誌」は、現代の「週刊文春」や「週刊新潮」?

石川さんのカストリ雑誌についても、福島コレクションのそれを上回るほどの収集量らしいので、その発言には説得力がある。ともかく、福島コレクションのデータベース化を急いでほしいと力説されていた。三谷さんの話は、「絵物語」に対する情熱がビンビンと伝わってきたが、明治以降の「絵物語」にだいぶ時間を取られたので、占領期の少年少女の「絵物語」や紙芝居については、短時間となった。私にとっては、リアルタイムで体験している部分もあったので、もう少し詳しく知りたかった。

最後の土屋さんの「時局雑誌」の話も、自分のかすかな記憶とも重なり、雑誌『真相』の実態なども知り、興味深かった。また、「時局雑誌」の定義も難しいが、現代にあっては、暴露、内幕、スキャンダルなど『週刊文春』や『週刊新潮』が「時局雑誌」的な役割を果たしているのではないかとの仮説も、なるほどの思い、定刻を過ぎるのを忘れるほどだった。

Dscn0520
時局雑誌『真相』の特集<天皇は箒である>天皇の巡幸は、訪問先の各地をきれいに整備することになるので、「箒」と称したらしい。<天皇特集>と銘打てば、必ず売り上げが伸びたという時代

懇親会は失礼して、外に出ると、雨こそ降っていなかったが、あたりはすっかり暮れていた。

| | コメント (0)

2016年9月19日 (月)

「雑誌に見る占領期-福島鑄郎コレクションをひらく」展示会とシンポジウムに出かけました(1)

雨も心配された918日、表記の20世紀メディア研究会百回記念企画展とシンポジウムに出かけました。私は、この「20世紀メディア研究会」には、この数年の間に数回しか参加していないが100回を越えていたのである。

Dscn0508_2
これが大隈タワーでした

コレクションの多様さに驚く

展示会は、早稲田大学の大隈タワー125記念室(大隈タワー10F)で、シンポ当日は日曜でも開催ということで、会場はかなりのにぎわいであった。

Dscn0506
タワー入り口

福島コレクションのオーナーであった福島鑄郎氏(19362006)は、種々の職業を経たのち、1960年ころから警備員という仕事をしながら、その休日を利用して、私財をもって、敗戦直後の雑誌を収集、研究されたという在野の研究者である。私も、1965年、国立国会図書館で働くようになって、どこの図書館も所蔵しないような、敗戦直後に創刊、短期間で廃刊になったような雑誌の収集をされているということは、先輩から聞かされていたから、求めたのであろう。今、私の手元には、氏の編著になる『戦後雑誌発掘―焦土時代の精神』(日本エディタースクール出版部 1972831日発行)があり、オビには「毎日出版文化賞」と書かれ、日高六郎の「この本は、戦後日本の再出発の時の日本の知識人・民衆の思想と精神を知るためのこの上ない案内書である。・・・」というコメントが載っている。197741歳で退職、本格的な研究生活に入り、メリーランド大学のプランゲ文庫にも出かけ、多くの書誌や資料集、研究書をなした。2005年、『福島鑄郎所蔵占領期雑誌目録:19458月~19523月』(文生書院)を出版、2006年に逝去されている。その所蔵は、6000冊に及び、2007年には、早稲田大学に図書館に収蔵され、公開に向けての準備と整理が進められているという国立国会図書館も、プランゲ文庫も所蔵されていない雑誌の数々が日の目を見るのも近い。

プランゲ文庫を利用してみて

私自身、最近、主に歌人斎藤史と阿部静枝の戦前・戦中・戦後の著作を追跡しているが、プランゲ文庫からの収穫は大きかった。2011年までは、無料で文庫のデーターベースが検索でき、名寄せによるリストもプリントアウトできた。そこから国立国会図書館にコピーを依頼していたのである。今回の会場には、検索コーナーがあったので、早速検索してみると、その後の整理も進んでいたようで、新しい文献が発見できた。プランゲ文庫では、地方発行の雑誌や様々な業界雑誌なども対象になっているので、思いがけない活動や執筆を知ることができたのである。プランゲ文庫については、基調講演のルイーズ・ヤングさんの講演の時に触れたい。

これに福島コレクションが利用できるようになったら、さらに占領期研究は進むかもしれない。

201609symposium

 

| | コメント (0)

2016年9月 8日 (木)

NHKを変えられるのか、いま、できることはなにか

 最近のNHKのテレビニュースを見ていると、その編集方針・内容があまりにも政府寄りなので、気分が悪くなり、消したくなるが、ウオッチの意味で、我慢してみている。これも視聴率を上げることに貢献しているのかと思うと、また腹が立つ。

 この数か月の選挙報道、オリンピック報道、災害報道、原発・原爆報道、沖縄報道、景気動向報道などを思い起こしてみると良い。

・選挙報道にあっては、争点ではなく政局報道に力点が置かれ、民放の一部でしていたように、争点における各党の相違などのあぶり出しに欠けていた。

・オリンピック報道にあっては、国威発揚、メダル競争を臆面もなく前面に出して、本来のスポーツ報道の域を脱し、必ず感動物語を添える。民放の番組を批判する資格があるのか疑わしくもある。4年後の東京オリンピックへとひたすら盛り上げるが、東京誘致のプレゼンで安倍首相が、福島の汚染水は完全にコントロールされているといった虚言、JOCの不正支出、東京オリンピック予算の半端でない膨張には目を向けない。

・地震や台風による被害の深刻さは伝え、その防災と復興への「課題」は申し訳程度に指摘はしても、その先の独自取材や調査による報道はない。

・原発報道に至っては、原発事故が今にもたらす重大さ、将来起こりうるリスクには触れない。熊本・大分地震報道に登場する地図には玄海、川内原発、四国の伊方原発原発の位置も示されず、三か所のうちもっとも揺れが大きかった川内原発のある九州南部は常に切られた地図しか示されなかった、と指摘するのは福島の原発事故に仕事を奪われた知人の指摘である。NHKの籾井会長は、熊本地震への対応を協議した4月20日、NHK局内の災害対策本部会議で「原発については住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えてほしい」と指示したという発言、かつての就任会見で「政府が右と言ったら左とは言えない」発言といい、報道機関の姿勢を真っ向から否定するものであったことと無関係ではない。

・沖縄報道、とくに辺野古や高江での基地建設工事の実態と市民による基地反対の活動報道は、スルーしても、北朝鮮、中国のマイナス情報は、毎日流す。

・政府や日銀の発表を忠実に、そしてバランスをとったような専門家の発言を流すにとどめるが、ロボットやスマホ、宇宙、医療などにおける技術開発情報は、丁寧に、こまめに伝える。

  こんなNHKは、「ほめて育てる」段階をとうに超え、まさに「我慢の限界」なのである。そんな中で、NHK経営委員会は、来年1月に籾井勝人・現会長の任期が満了するのに伴い、次期NHK会長の選考を進めている。、NHK視聴者は、受信料を支払っている方々は、一度立ち止まって、考えてみなければと思う。どんな成果を上げられるか、未知数ではあるが、私は「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」の一員として、以下の署名に賛同した。全国18の視聴者団体と共同で以下の3項目について、署名とともに、メッセージを付して、経営委員会に提出することになった。第一次締め切りは、迫っている。もし、ご賛同いただければと以下、ご案内したい。

<署名の主旨>
 1. 公共放送のトップとして不適格な籾井現会長を絶対に再任しないこと

 2. 放送法とそれに基づくNHKの存在意義を深く理解し、それを実現できる能力・見識のある人物を会長に選考すること

 3. 会長選考過程に視聴者・市民の意思を広く反映させるよう、会長候補の推薦・公募制を採用すること。そのための受付窓口を貴委員会内に設置すること

 <用紙による署名:署名用紙は次をダウンロ-ド>
 http://bit.ly/2aVfpfH 

 ネット署名:署名の入力フォームは次をダウンロード> 
 
https://goo.gl/forms/G43HP83SSgPIcFyO2

  
 *用紙による署名を済ませた方も上の入力フォームから送信可。ネット署名にはたくさ んのメッセージが添えられている。そのすべてを、個人情報を伏せた上で、以下に掲載している。
 
https://goo.gl/GWGnYc 

| | コメント (0)

2016年9月 3日 (土)

ようやく、東京大空襲・戦災資料センターを訪ねる

   意外と近いところにありながら、なかなか訪ねることができない場所がある。今回、江東区北砂に住む友人との間で、とんとん拍子で話が決まり、訪ねることができた。東京大空襲・戦災資料センターは、1970年に早乙女勝元氏らによる「東京空襲を記録する会」が発足、空襲・戦災の資料や物品を収集してきたが、1999年の東京都の「平和祈念館」計画凍結を受けて、篤志家から無償提供による、この地に、市民の力で200239日にオープンしている。この夏、敗戦直後の東京をテーマにした写真展が開催されているのを知って、ぜひ訪ねたいと思っていた。友人は、展示写真のカメラマンたちが所属していた文化社についての講演会もすでに聞いていたのである。「文化社」、私は知らなかった。

東京大空襲・戦災資料センターHP

http://www.tokyo-sensai.net/index.html

 831日、台風一過の東京は、やはり暑かった。都営新宿線の西大島で待ち合わせ、まずはランチのイタリアンを食しながらの近況報告である。七夕のように一年に一度くらい会っては、社会を憂え、短歌や職場こそ違うが図書館員だったころに話が及ぶのがいつものパターンである。

Dscn0487_2

焼け残ったピアノ
 
歩けない距離ではないということだったが、明治通りで、車が拾えたので、センターに直行。レンガ造りの瀟洒な三階建てのビルだった。2階の常設展で、まず目についたのが、1945524日の空襲で焼け残ったという目黒区のピアノだった。この部屋は、空襲体験者による絵画が多い。

Dscn0491
 ピアノの左肩の角に、不発の焼夷弾が当たった跡が生々しい。ピアノの上の炎を描いた絵は「本郷の台地から見た310日の大空襲の大火災(岡部昭)であり、オルガンの上の作品は「青山同潤会の井戸」、手前の大作は「ケヤキの道」(いずれも山本万起)と題されていた

  そして絵画の小品の多くは、おのざわしんいち氏による絵画であった。おのざわ氏(19172000)は、16歳から川端画学校に学び、1938年応召、南京へ、2年後の除隊、大塚の軍需工場で働いた。太平洋戦争末期、防衛部隊として東京大空襲時には死体処理にも携わる。敗戦直後進駐軍で働いた後、漫画家となり、1970年ころから東京大空襲の絵を描き始めたといい、早乙女氏らとの活動に入ったという。その多くは、童画風でもあるが、語り部としての気迫に満ちていた。

Dscn0490
おのざわしんいち氏 のコーナー

「文化社」って
 
そして、隣の会議室が、今回の目当ての写真展「文化社が撮影した敗戦直後の東京」であった。「文化社」とは、戦争中、陸軍参謀本部の下で主に対外向けの写真宣伝雑誌の制作を担当していた「東方社」(194119457月)の後継団体で、194510月に発足している。「東方社」の説明パネルのなかにその刊行物「FRONT」とあって、ようやく結びついた。文化社は、あの「FRONT」を制作していた東方社の後身だったのである。東方社は岡田桑三(松竹の俳優でもあった)によって立ち上げられるが、主要メンバーの木村伊兵衛、原弘、伊奈信男は、日本工房の名取洋之助と袂を分かった4人で、花王石鹸にいた大田英茂はじめ、何人かの軍人たち、財界人たちをバックに、林達夫、岡正男、岩村忍、小畑操ら幅広い、錚々たる文化人が理事に名を連ね、そのもとで「FRONT」が創刊されている(詳細は、多川精一『戦争のグラフィズム 『FRONT』を創った人々』平凡社 2000年)。 FRONT』は対外的な宣伝雑誌であったが、国内向けには、すでに内閣情報部(局)から『写真週報』(19382月~19457月)が刊行されていた。

今回の展示会は「敗戦直後の東京」がテーマで、センターが所蔵する「青山光衛氏旧蔵東方社・文化社関係雄/写真コレクション」と東方社・文化社のカメラマンだった菊池俊吉・林重男氏の遺族所蔵の写真ネガから選んだという46点。私の焼け跡体験にも通じて、なかでも印象に残った写真を紹介しておこう。「個体の作品をカメラに収めるのは、著作権もありますので」という受付の方の言葉もあったので、会場の雰囲気と作品が見分けられるような形で、写真を撮らせていただいた。名前に聞き覚えのあった、二人のカメラマン、以下は、帰宅後、調べたことではある。林重雄(19182002)は、日本学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会調査団の委嘱により、日本映画社原爆記録映画撮影班スチール写真担当として、広島・長崎の爆心地を撮影し、後写真家として、反核運動に携わっている。菊池俊吉(19161990)も194510月より広島に入り、林と同じく委嘱を受けて原爆記録映画撮影班スチール写真を担当している。敗戦後は、広島、東京銀座の写真集を刊行、『世界』『中央公論』『婦人公論』などのグラビアで活躍する。ご両名やその遺族たちが、写真のネガをどのように守ってこられたかは、次の資料に詳しい。

・中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター「菊池俊吉が撮った原爆写真Ⅰ」

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20080704201603850_ja

・山辺昌彦:東京大空襲写真研究と特別展の開催 『政経研究時報』154号(20123月)

file:///C:/Users/Owner/Desktop/mode_inline.pdf 

焼け跡の池袋

私の池袋の生家は1945413日未明の空襲で焼け出されたが、翌年には、一家の疎開先の千葉県佐原から、父は、一足先に池袋の元の場所にバラックを建て、薬局を再開していた。一家が戻り、私は、1946年7月、入学したばかりの佐原小学校から池袋の小学校に転校した。小学校は焼失していたから、一年生の教室は、川越街道沿いの重林寺の本堂であり、二年になると焼け残った要町小学校まで通学し、けっこうな道のりだったと記憶している。近隣の焼け野原には、我が家のようなバラックが建ちはじめ、付近一帯は、お屋敷だったお宅の石の門柱だけが残っていたり、地主さんや質屋さんだったお宅の蔵だけが残っていたりした。小さな商店街はやがて「平和通り」と名付けらられ、「平和湯」という銭湯が近くだったのがありがたった。薬局といっても、銭湯のお客さんが石鹸を買ってくれたが、他には、ちり紙、綿花、みやこ染などの雑貨とサッカリンと重曹が売れ筋だったことを思い出す。東京のほかの町の焼け跡や復興の様子を知るすべもなく、学校と家の行き来と池袋西口のヤミ市に母親と買い物に行くくらいだった。遊びはもっぱら近くの焼け野原だった。池袋の東口に行くのに、子供には暗くて、浮浪者や傷痍軍人がいる「怖いガード」を通らねばならなかった時代でもあった。

Img210
 
これが今回の展示会のチラシのおもて、下の写真には「寺社の焼け跡」(文化社1946年2月)のキャプションがつけられ、「ゴム跳びをする女の子たち」の説明がある。我が家のバラックの隣は、教会付属の病院の焼け跡での遊びでは、「ゴム跳び」ではなく、私たちは「ゴムだん」と呼んでいた。高さには、小さい児のための「ひざ下」から、頭の上のひとコブシ、ふたコブシ、手伸ばしまであった。ママゴトの記憶もあるが、男子女子入り混じっての馬乗り、石けり、カンけり、水雷艦長などが盛んだった

Dscn0495
  上段が「池袋駅」(文化社・菊池俊吉 1945年11月)、「西武農業鉄道(現西武鉄道)のホームで、電車に乗り込むのを待つ龍くさっくや包みを背負った人々」で、下段が「品川駅」(文化社・菊池俊吉1946年1月)で、品川駅は引揚列車の終着駅だった」の説明がある。池袋東口の敗戦後の歩みを少なからず見てきた私には、感無量であった

Dscn0494
 上段は、「宮城前広場で開かれた日本国憲法公布記念祝賀都民大会会場で座っている人たち」(文化社 1946年11月3日)、下段は「上野公園で車座になる被災者たち」(文化社・1945年11月 

東京大空襲、3階の常設展
 ここには、戦争の開始と拡大、防空、空襲の被害、東京大空襲と朝鮮人・・・などのテーマごとに罹災証明書、衣料切符などの資料や防空頭巾や焼けた瓦、爆弾の破片、焼夷弾、アメリカ軍の伝単(ビラ)などの実物、東京各地の空襲被害状況の写真が展示されている。写真は、これまでも何度か目にしたことのある、警視庁所属の石川光陽(19041989)による「親子の焼死体」などの写真が強烈であった。また、撮影者名をメモし損ねているが、「被災した慶應義塾大学図書館」「破壊された外壁だけが残るカテドラル関口教会内部と神父」「銀座教文館前の消火活動」「大塚駅南側から池袋方面の焼け野原を見る」などは、現在の各々を見ているだけに、そのインパクトは格別だった。

今回の展示会にしても、常設展にしても、東京大空襲はじめ広島長崎などの戦争被害の記録写真が、日本人カメラマンによって撮影され、GHQからの引き渡し要請にもかかわらず、ネガだけは自らのもとに残し続けた努力、それを保管し続けた遺族の方々にも敬意を表したい。軍や官庁が戦時中の記録類を抹殺し、後にも収集には無関心だった公的機関が多い中で、個人の努力で記録を残したことの大切さを実感した。そして「東京大空襲・戦災資料センター」のような施設が、まったくの民間、市民の手で作られ、維持されていることにも驚いている。そういう意味でも、戦争責任を曖昧なままにして、人間の命を粗末にする、この国の在り方は、問われなければならないと思う。

Img212
  これは、最近刊行の『東京復興写真集1945~46』(勉誠出版 2016年6月)のカタログの表紙で、背景は林重男撮影の「改修中の東京駅」(1946年8月)である

Img211_2
  上記写真集カタログからの5枚の写真、いずれも気になる作品だが、右上は国民学校初等科の国語の授業風景(文化社・林重男 2046年5月)で、教科書が行きわたらず、二人で使用、一番手前の女の子は赤ちゃんをおんぶしている。このきょうだいは今、どうされているだろうか。池袋第五小学校5年次、1951年、私のクラスにも、Y君という男子が毎日赤ちゃんを背負って登校していたので、教室で同じような光景を目にしている。Y君は、あまり背が高くなかったから、一番前の席の出入り口付近にいつも座っていた。 小学校のクラス会でも、卒業後の消息が分からず、時々話題になっていた。今頃どうされているだろうか。担任のO先生も、新任で、持ち上がりの初めて送り出した卒業生だったから、印象に残っているとおっしゃっていた

| | コメント (0)

2016年8月29日 (月)

残暑お見舞い申し上げます~沖縄に関連するテーマで書きました

 私にとっては、少々きつい夏だったのですが、次の論稿が活字になりましたので、おついでの折、ご覧いただければ幸いです。①は、依頼があり、寄稿したものです。「特集 震災後の文学は可能か」とは、若干離れた感があるテーマでしたが、私の中ではつながっている課題でもありました。年表も大部分は省くことになってしまったのですが、編集部にはお世話をかけました。②③については、いずれ、ブログに転載させていただこうと思っています。ご参考までに、その目次(一部)の画像を添付しました。

「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」付<年表・沖縄の戦後短歌―本土短歌ジャーナリズムと天皇の沖縄訪問1944~(中略)~2016)> 『社会文学』4420168pp6580

Img209_2

②夏の課題図書「『沖縄文学全集第三巻・短歌』その声を聴く」 『現代短歌』9月号(夏休みの宿題「戦争と短歌」特集)20169月 pp4849

Img207

「沖縄にも天皇歌碑があった(その三つを訪ねて)『新日本歌人』9月号(新日本歌人協会七十周年記念)20169月 Pp2223

Img208




|

2016年8月20日 (土)

いま、なぜ、「情報公開」の後退なのか~佐倉市社会福祉協議会がやっていること~予算・決算の広報に見る

 これも、やや旧聞に属するのだが、気になっていたことがある。615日の新聞折り込みで届いた佐倉市社会福祉協議会の広報紙「社協さくら」(188号 2016年6月15日)の2頁目を見て、一瞬「?」と思った。今年度の「事業計画・予算概要」と昨年度の「事業・決算報告」が、なんと一緒に1頁に収められていた。例年は、5月に事業計画・予算が、7月に前年度の事業・決算が報告されていたはずだったが。今回の予算・決算は、その情報量が極端に少ないし、肝心の計算書や内訳書はすべて省略されて、円グラフが登場していたのだ。内訳部分が、まさに「墨塗り」状態となってしまったのである。

「社協さくら」188号 http://www.sakurashakyo.or.jp/koho/koho_188.pdf

詳しく見てみよう。ご覧のように「予算概要」が「事業活動収入」「事業活動支出」が二つの円グラフでしか示されていない。決算も同様である。

1頁分を「予算」と「決算」に分けてコピーした。
 

<2016年度 事業活動収入>  「社協さくら」188号2p

http://www.sakurashakyo.or.jp/koho/koho_188.pdf

Img199_2

<2016年度事業活動支出>上記 「社協さくら」188号2p

http://www.sakurashakyo.or.jp/koho/koho_188.pdf

Img200
  例年だと、年度初めの最初の号(51日号)に、事業計画と共に「(法人全体)資金収支当初予算書」が、1頁を使って掲載されていた。夏の号(71日号)には前年度の事業報告と共に「事業別資金収支計算書」「「貸借対照表」「財産目録」が掲載されていたのである。昨年の5月と7月号の該当頁は以下のとおりであった。

「(法人全体)資金収支当初予算書」(「社協さくら」183号)http://www.sakurashakyo.or.jp/koho/koho_183.pdfImg201
「事業別資金収支計算書」「貸借対照表」「財産目録」(社協さくら」184号

http://www.sakurashakyo.or.jp/koho/koho_184.pdf
Img202


   私が今回、問題にしたいのは、例年「社協さくら」で、わずかながらでも公表してきた上記の会計情報が、今年は、すべて落とされていたのである。予算も決算も、広報紙「社協さくら」に収録できる情報は、その紙面の制約を受け、限られるだろう。詳細な数字は、それぞれ、分厚い予算書や決算書、下記の社協のホームページのサイトで見るしかない。確かにたくさんの数字を並べても、市民には分かりにくい。だから、市民に分かりやすい言葉と数字で公表するのが、広報の役割のはずだ。

こともあろうに、スペースを圧縮した上、事業活動の収支を事業活動別に円グラフで示されても、その中身がさっぱりわからなくなってしまった。ホームページを探してみても、この円グラフの元になっている資料が見当たらないのである。円グラフだけとなった今年の予算と決算、例年と比べての問題点を探ってみたい。

1)自治体からの「補助金収入」が明示されなくなったこと


 
今年度の予算の収入事業活動収入(法人全体)の円グラフにある「法人本部」に入る収入源は何なのかがわからない。昨年まで、「法人本部」というくくりはなく、上記昨年の「(法人全体)資金収支当初予算書」には、主要な収入源である「会費収入」2329万円(万以下切り捨て)、「経常経費補助金収入」6610万円、「受託金収入」19809万円であることがわかる。ここで「経常経費補助金収入」とは、何のことかわからないかもしれないが、佐倉市と千葉県からの補助金の合算で、昨年度の予算では6600万円というのがわかる。

2)佐倉市からの人件費補助の実態が相変わらず不明確なこと

調べてみると、この大部分は、佐倉市からの人件費の補助金で、2013年度(平成25年度)までは、長い間、1億円を超えていた。市や県、自治体からの補助金、つまり税金によって社協の人件費が賄われていることになる。これは他の社会福祉法人との大きな違いであり、公平性を欠くことは明らかでありながら、今日まで続いている。佐倉市からの指定管理による事業や受託事業を受ける場合の人件費もあり、法人全体への人件費補助との関係の不明確さが、監査のたびに指摘されながら、その措置がなされずに放置されていた。それがようやく、平成26年度(2014年)から、若干修正がなされているようだが、その不明確さは、依然として解明されていない。にもかかわらず、「経常経費補助金収入」の勘定科目すら、「法人本部」とくくられてしまったのである。

(佐倉市の佐倉市社協への人件費補助については、以下の記事を参照して下さい。
*2014年6月6日 佐倉市社協への人件費補助は大幅に減額されたのか~その背後を探る
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/06/post-b3b6.html

 3)「会費」収入の占める割合が分からなくなったこと

 いわゆる、多くは自治会などを通して、各世帯から集められる「会費」も、「会費収入」として勘定科目にあげられることなく、今年度の円グラフでは「法人本部」にくくられてしまっている。私は、この「会費」という存在自体に、大きな疑問を持つので、注視を続けている。

「社会福祉協議会」は法律上自治体に設けられる「社会福祉法人」だとされるが、他の社会福祉法人と同等のはずである。それが、社協だけは、「会費」と称して、多くは自治体公認、支援の下に自治会などを通して、いわば「半強制的に」集金するシステムを作り上げている。本来は一社会福祉法人への個人の「寄付」であるべきものである。法律的な根拠もなく、こんな集金方法が横行することに対してはすでに司法的判断が出ているのにもかかわらずなのだ。すなわち、社協に限らず日赤や神社その他への寄付金が自治会を通じて集められたり、自治会費に上乗せされたりすることに対しては、「違憲」であるという「最高裁決定(滋賀県甲賀町希望が丘自治会)」が出ているにもかかわらず、各地の社協や自治体は、いまだ野放し状態なのである。

(「会費徴収」についての判例については、以下の記事も参照ください。  

*2013年10月24日「赤い羽根募金、社協の会費って、個人の自由ですよね!「希望が丘自治会の最高裁判決」の勉強会に参加して 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/10/post-3888.html

 

  私たち市民は、そうして集金された「会費」が、社協の収入源として持つ意味合いを常に認識するためにも、会費収入の額は示されていなければならない。全国にに各地の自治会では、「寄付の強制は違憲」との認識で闘っている人々も多い。佐倉市社協も、ようやく、上記「最高裁決定」を自治会長の説明会資料などに小さく報告するようになったが、いまだ、「寄付のお願い」という形で、自治会を通じて「会費」を集めることを続けている。こうして、佐倉市の傘のもと、他の社会福祉法人との差異化を目指し、佐倉市からの人件費補助を受け、佐倉市からの膨大な受託事業を請け負っているのである。かつては、社協が佐倉市の定年退職者の天下り先であった時代もあったが、いまは、「嘱託職員」の採用実態などに、癒着がないかは、注視する必要があるだろう。職員の採用は、独自の試験によるというが、佐倉市職員待遇に準じている。

 4)「社協さくら」の発行が、年4回から3回に減ったこと

 そもそも、「社協さくら」の188号(2016年615日)に今年度予算と昨年度決算資料が、例年になく簡略化されて、一度に掲載されたのはなぜか、を問い合わせてみた。今年の事業計画により、「社協さくら」の発行は、経費費削減のため、これまで4回発行していたのを3回にしたというのである。「ホームページも充実させましたし・・・」というのがその理由である。しかし、予算・決算報告については「情報公開」の流れには完全に逆行するものだろう。そのホームページにも、今回、私が何回か閲覧しているうちにも、不備はみつかり、いま、修正を申し入れている。

 

なお、各年度のデータは、次のサイトで知ることができる。

佐倉市社協事業計画・予算・事業報告・決算

http://www.sakurashakyo.or.jp/m0102_page01.html

しかし、開いてみればわかる通り、諸表の羅列で、表自体の説明や表相互の関係が全く示されていないので、表題だけで、その表の意味を理解するのは難しい。今回188号の円グラフの下にも、「詳細につきましては本会ホームページをご覧ください」との注意書きが記されているが、このサイトにたどり着いても、前述のように、そもそも円グラフのもとになっている数字を示す資料(表)が作成されていない。担当者は、「今回の円グラフは、収入・支出のおおきなくくりによる割合を示しているので、勘定科目とは一致するものではない。各くくりの扇形の数字や内訳は、各種の複数の表から寄せ集めているが、総計の数字に間違いはない」という。市民は、「広報」の読者は、根拠となるべき数字を求めようにも、数字の海を前に途方に暮れるばかりだろう。まずここであきらめよと言わんばかりに。(つづく)

なお、当ブログにおける、社協の会費、日赤の募金などについての記事は、カテゴリ「社会福祉協議会」「寄付・募金」をクリックしていただくと、見ることができます。

 

| | コメント (0)

2016年8月17日 (水)

歌人は、沖縄とどう向き合うのか~私の歌壇時評

 昨年の『ポトナム」の歌壇時評(7月号)(当記事末尾の昨年の記事参照)でも触れたが、戦後七〇年間、沖縄の短歌・歌人について、本土の短歌メディアは、わずかな例外はあるものの、あまりにも無関心であり過ぎたのではなかったか。

  ところが、二〇一四年一二月、翁長雄志沖縄県知事誕生で辺野古新基地建設をめぐる県と国との対立が多くの国民の知るところになると、短歌総合誌の沖縄への視線にもやや変化が表れ、沖縄の歌人の登場や時評での言及が活発になった。『現代短歌』では、今年五月から「沖縄の歌人たち」の連載が始まった。『短歌研究』では、昨年一〇月、歌文集『アジアの片隅で』を出版した新城貞夫の評論と作品が登場した(二〇一六年三月、六月)。新城の『花明かり』(一九七九年一一月)は、佐藤通雅の解説とともに遠い記憶にある歌集だった。結社誌や同人誌でも、私の知る限りながら、沖縄歌人特集や時評などでの言及が増えたように思う。 これらの動きの前触れは、ややさかのぼって、『短歌往来』の沖縄特集(二〇一三年八月)の小高賢「歌の弱さと強さ」における「沖縄にとって自明の固有性(文化、戦争体験、基地問題への怒り)が、逆に、ずれを生んでいるのではないか」「背負っている環境から一度離れてみることではないか」という問題提起であったと思う。小高は、沖縄の短歌は作品と作者の取り換えが可能なほど個性がないというのだ。

  また、松村正直は『毎日新聞』「短歌月評・沖縄戦70年」(二〇一五年五月二五日)において、「自らの主張をただ述べただけの歌も多い。〈政府の蛮行〉〈大和の犠牲〉〈権力の横暴〉といった言葉が入ると、どうしても歌は硬直化し、スローガンになってしまう。今回のアンソロジー(『歌壇』二〇一五年六月の沖縄特集)は沖縄出身者の社会詠でほぼ占められているが、もっと多様な視点があっても良いだろう。例えばそこに、俵万智、松村由利子、光森裕樹といった沖縄移住者の歌を加える柔軟さも大切だと思う」と指摘した。

  これに応える形で、名桜大学(沖縄市)で教鞭をとる屋良健一郎は、『心の花』の時評で「沖縄歌人の作品は、スローガン的、類型的という、幾度となく指摘されてきた基地詠の表現上の課題を(私を含め)克服できていないものも多い」(二〇一三年一〇月)「沖縄の作者の歌は漠然と<基地>や<オスプレイ>を詠むに留まって、現場であるはずの<現場性>が乏しい」(二〇一四年六月)と述べ、小高の指摘を卓見とした。さらに、『現代短歌』二〇一六年一月号「全国秀歌集」一〇首の選歌では「一年間に総合誌に発表された県内在住者の歌から作品本意に選んだ。戦争・基地を詠む歌が多かったが、〈秀歌〉はどれだけあっただろう」として、俵万智、光森裕樹、松村由利子、佐藤モニカという本土出身歌人の四首を含めていた。屋良が沖縄の短歌や歴史などの学習会や展示会などに積極的に取り組んでいるにもかかわらず、短歌総合誌重視という中央志向といわば全国区の著名歌人への傾斜に、私は、危惧を覚えたのであった。

  その一方、名嘉真恵美子が、沖縄の短歌(主に反戦歌や基地詠)が、「類型」や「ナマ」という評言を受け入れ、作歌が萎縮し、高く歌い上げるような強いひびきの歌が減ったと指摘し、玉城洋子が、「日本国の沖縄への眼差しは冷酷なもので、歴史の中で見て来た「琉球」「沖縄」への構造的差別がある沖縄の現実、沖縄戦を引き継ぐ「米軍基地」の「命どぅ宝」を掲げ、時事詠を多く詠んできた自負を語っていたのが印象的であった(『短歌往来』二〇一三年八月) 沖縄のことを少しでも知りたく、数か月前から一日遅れの『琉球新報』の購読を始めた。今年の「慰霊の日」は沖縄で迎える予定だ。 (『ポトナム』2016年8月所収)

* 2015年 6月 29日
沖縄とジャーナリズム(1)短歌ジャーナリズムはどう向き合ったか

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/06/post-cfd1.html

| | コメント (0)

2016年8月14日 (日)

マイナンバーその後 、保険会社からマイナンバー申告書類が届く

 8月の中旬に入って、私のところに生命保険会社から、次のようなマイナンバー申告の「ご案内」の書類と「お願い」のチラシが届いた。もちろん申告は任意で不要なのだが、下記の「ご案内」と「お願い」の中の文言が気になり、問い合わせ先に電話した。

 

「個人番号(マイナンバー)・法人番号申告のご案内

その冒頭はあいさつ文だが、上記のタイトルのもと「個人番号(マイナンバー)・法人番号申告のお願い」の題のもとに、次のように記されている。

「このたび、『社会保障・税番号制度(マイナンバー制度)』が導入され、生命保険会社は税務署などに提出する支払調書にお客様の個人番号(マイナンバー)・法人番号を記載することが定められました。つきましては、個人番号(マイナンバー)・法人番号の申告をお願いいたします 

Img198

②「個人番号(マイナンバー)・法人番号申告に関するお願い

これは①の『ご案内』の説明チラシの位置づけのようである。最上段には次のように記され、申告方法や利用目的などが続き、裏面には、「個人のお客様の番号申告の流れ」が大きく図示されている。

「社会保障・税番号制度(マイナンバー制度)の導入により、生命保険会社では税務署等に提出する支払調書にお客様の個人番号(マイナンバー)・法人番号を記載することが義務づけられています。つきましては、お客様の個人番号(マイナンバー)・法人番号を当社あてに申告ください

Img195

  善良な市民だと、手続きの流れに沿って、マイナンバーの通知書、マイナンバーカードのコピーを張り付け、本人確認の写真付き証明書か写真がないものは2種類の証明書のコピーを貼付することになるだろう。これって、マイナンバーと個人情報満載の証明書情報もあわせて、保険会社はゲットできることになる。これらのセキュリティの甘さは、これまでも、なんど頭を下げられてきたことか。IT社会における情報漏れ防止の担保の難しさを、私たちは学んできたはずである。 安易に個人情報をばらまいてはいけないと思う。

 ところで、この二つの①「ご案内」と②「お願い」文書の文章の微妙な違いに着目してほしい。①「ご案内」では、「生命保険会社は…記載することが定められました」「申告をお願いします」となっているのが、②チラシ「お願い」では「生命保険会社では・・・記載することが義務付けられています」「申告ください」と②チラシ「お願い」の方が強い口調になっている。「義務」は、どう読んでみても生命保険会社の「義務」としか読めないのであるが、一読、いかにも保険加入者に「義務」づけられているから「申告ください」と促しているようにも読める。ウカウカと誘導に乗ってはいけない。

 あらためて、問い合わせ先に、確認してみる。

Q 私たち顧客には、義務はないはずですが、いただいた文書には、紛らわしいところがありますね。

A 申し訳ありません。会社には「支払調書」にマイナンバーの記載が義務付けられていますが、お客様の義務ではありせん。

Q マイナンバーの申告は、お客の任意であって、義務でないということがどこにも書かれていませんが、書類には、しっかりと明記してほしいです。

A 申し訳ありません。そのようなご意見があったことは上司に伝えます。

Q 確認ですが、マイナンバーを申告しなかったことにより、サービスに支障がありますか。

A まったくございません。

  なお、ネット上で調べてみると、私のかかわる保険会社ではなかったが、他の保険会社の「マイナンバー申告のお願い」にあたるお知らせの中に、例えば、「よくある質問」としてQ&Aのコーナーを設けて、つぎのような問答が記されていた。これとて、必ずしも正確な情報ではないが、こうした問答を載せることによって、 お客には、マイナンバーについて考える時間や余裕が生じるはずである。

<エヌエヌ生命>https://www.nnlife.co.jp/aboutmynumber

Q.マイナンバー(個人番号)を申告しないとどうなりますか?

A.マイナンバー(個人番号)をご申告されない場合でも、年金やその他の保険契約に基づくお支払手続きに支障はございませんが、保険会社には支払調書にマイナンバー(個人番号)を記載する義務がございますので、なにとぞご理解のうえご協力をお願い申し上げます。

<日本生命>

Qマイナンバー(個人番号)を申告しない場合、支払手続きはしてもらえないのですか?

Aマイナンバー(個人番号)を申告いただかなくても、保険金等をお受取りいただくことはできます。なお、保険会社は支払調書にマイナンバー(個人番号)を記載する義務がございますので、ご理解・ご協力のほどよろしくお願いいたします。

  なお、マイナンバー制度の普及率、7月上旬時点で、マイナンバーカードの申請数が636万枚で、通知を出したのが1億2000件というから、約5%というわけである(週プレnews 2016年7月18日)。政府は利用拡大のロードマップができているというが、国民の制度自体への不信感と利便性に欠けることが、やはりネックになっているのはないか。

また、マイナンバー制度導入前後の私のレポートに以下の記事がある。合わせてご覧いたければと思う。

◇マイナンバーに法的根拠はあるのか~内閣官房も自治体も、その説明に苦慮している! 16/01/15

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/01/post-7a6d.html

◇マイナンバー通知、到着、どうしますか、「ニューデンシャ」って、何?! 15/12/05 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-8d52.html

◇「マイナンバー制度」は、日本だけ!? 先進国の失敗からなぜ学ばないのか 15/11/25

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/11/post-afb2.html

 

 

| | コメント (0)

2016年8月12日 (金)

『青葉の森へ(三)』(短歌ハーモニー合同歌集)が出来上がりました

 今年20161月に短歌ハーモニー歌会は150回目を迎えました。2002年に千葉市女性センター(現、男女共同参画センター)の短歌講座の修了者によって立ち上げられた歌会でした。2006年に合同歌集『青葉の森へ』を、2011年には『青葉の森へ(二)』を刊行しました。今回は11人の参加となりました。メンバーは少しづつ入れ替わりましたが、当初からの会員たちからは励まされる思いでした。青葉の森公園に近い千葉市ハーモニープラザを会場に、毎月第三木曜日の午後のひとときを過ごしています。各自近作から50首の選歌、タイトルや小題、構成をどうするのか、イラストを自作にするのか選ぶのか、表紙の色や注文の部数まで、皆さん、迷いながらも楽しそうでした。取りまとめと印刷所との交渉などてきぱきと進めてくださる会員たちのおかげで完成しました。近隣の図書館にも寄贈させていただきますので、手にとってご覧いただければさいわいです。 歌集の一部を紹介したいと思います。

Img194

秋元京子「野の花咲く道」

「この道」を唄いながら野の花を握りしめた車椅子の母

人も去り彫刻の森は眠りにつきオレンジの灯をやさしくつつむ

少年は口唇かみしめ弟を背負い焼場に直立不動(原爆写真展)

大堀静江「酔芙蓉」

白昼夢はほたるぶくろに蛍入れランタンとなし里山歩く

米寿なる恩師の元に集いたるわれらも傘寿共に祝わん

七〇年時代がもどる空気あり孫子の代に残さるゝは何

岡村儔子「篠懸の実」

波しずか海光照らす東京湾小さくフェリー止まりいるごと

街路灯あかりの中を舞うごとく初雪はらはら路面に消える

旅客機は夕日を浴びて一線を上昇しつつ光を放つ

加藤海ミヨ子「ナンジャモンジャの木」

純白のこの花ナンジャヒトバタゴ今年も咲いた青葉の森に

ただ一人歩み始めた老いの坂なだらかなれと願いて進む

苦しさを投げ出したくなる悲しみも齢と共に薄れゆくなり

鈴木佐和子「生きる」

考えて考えて出す我が一歩すべらぬように転ばぬように

ふと見上ぐリハビリの窓に冬の空清らに澄みてしばし安らぐ

咲きだした水仙一つ墓に置くもしやもしかに思い出せばと

鈴木美恵「蘇る鐘」

気がつけばバスから手を振る幼子に吾も思わず振りこたえたり

瑠璃色の弁天沼に映し出す紅き櫨の木秋を集める

湖に浮かぶ小島の教会に蘇る鐘ひとつ撞いたり

竹形三枝「悲喜こもごも」

家を出た子の捨てゆきし本の中に世の中を見る鋭さを知る

ノートルダムの震災のミサに与りて復興を願いあれから五年

老いて子に従いますと住みなれし町をはなれゆく友の手つめたく

藤村栄美子「羽ばたけ 未来へ」

公園や移動の時も駆け回るショパンのワルツの子犬のように

(姉八歳二カ月、妹六歳7カ月)

静けさを引き裂いて飛ぶ戦闘機防災訓練に参加するはなぜ

(二〇一三・九・一)

国会を大包囲してヒューマンチェーンを結んだ手の温かきこと

(秘密保護法反対)(二〇一四・一・二四)

美多賀鼻千世「シンフォニー」

ピストルの合図と共の湧き上がる子らの歓声風に乗せられ

初場所の土俵の取り組み下に見る光る背中に赤みが増して

足元のすらりと伸びた若いひと薄色のスカートひるがえして

渡辺洋子「時巡り」

指折りに帰る日数え暮らす日々思えば寒い日本の冬よ

二つ三つ蕪の頭に青葉出てキッチンの隅にも小さき息吹きは

観覧車すがたを消して時巡り山の木芽吹き日ごと色増す

内野光子「焼け跡のダリヤ」

寝たきりの犬の身を返せば手のひらに触るる骨のかたち寂しむ

したたかに咲き継ぎたりしポンポンダリヤ焼け跡耕す畑の隅に

マンションの廊下の灯り列なせり三月十一日など忘れたかのように

 

なお、『青葉の森へ』の第一集、第二集については、以下の記事がありますので合わせてごらんください。

第一集について

http://dmituko.cocolog-nifty.com/tankahanonikasyuudekiagarimasita.pdf

第二集について

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/10/2-bde0.html

| | コメント (0)

2016年8月 9日 (火)

「うた新聞」吉川宏志「<いま>を読む~批評が一番やってはいけない行為」という私への反論

88日、午後3時前、天皇の「お気持ち表明」なる「玉音放送」を待っているとき、「うた新聞」(いりの舎)の編集部から8月号の吉川宏志「<いま>を読む第4回―批評が一番やってはいけない行為」の記事に印刷の不手際があったとの連絡を受けた。間をおかずに、吉川さんからも電話をいただいたので、誤植ではなかったらしい。その折、「うた新聞」紙上に、その反論を書かせてもらえることになった。

それはともかく、上記の記事は、私の『ポトナム』七月号の歌壇時評への反論であった。当ブログ記事「『時代」の所為(せい)にはするな=私の歌壇時評」(7月30日)として再録している。私への異論があったこと自体、貴重な体験となった。

歌壇には、もっと論争が起こればいいと思っている。異なる意見を持つものとの議論が民主主義の根幹でもあり、「反論に値しない」と無視することの恐ろしさを思う。ただし、あえて、注文するならば、①論争をするのであったら、論難されている当事者が受けて立つこと ②反論は、相手の論の核心部分を突くこと ③相手の文章の引用や先行研究の引用に関しては、明確な表記をすること、などなど・・・。①については、いわば「保護者」同士や「弟子筋」同士の<代理>論争的な側面を持つことも多いからであり、②については、論点をずらしたり、末節を切り取ってきたり、過去に遡ったりすると焦点は拡散し愚痴になりやすいからである。③は、今回の吉川さんの私の文の引用がとてもわかりづらかったからでもあった。

 いま、吉川さんの言いたいことは何だったのか、読み込んでいる。

 

 

 

 

 

| | コメント (0)

«8月6日、目黒五百羅漢寺の桜隊原爆殉難者追悼会へ