2019年6月16日 (日)

6月15日で、思い起こすこと

  香港で身柄を拘束された犯罪容疑者の中国本土への引き渡しを可能にする「逃亡犯条例」改正をめぐって、香港での大規模な反対運動がつづき、12日には負傷者も出る衝突となった。香港政府は、きのう6月15日、議会での審議の延期を発表、6月20日の採決は困難になった、との報道があった。そして先週は、天安門事件の30年にもあたる活動や報道の規制が厳しくなされていることも、かなり詳しく報道された。

 しかし、この日本で、今から59年前の6月15日に何があったかについて、報じる新聞やテレビはみあたらなかった。天皇の代替わり報道がいささか静まったと思ったら、トランプ大統領の訪日、先週は、金融庁の年金2000万円赤字報告書の件、自衛隊の秋田市新屋駐屯地へのイージスアショア配備計画の説明資料の不正、説明会担当者居眠り事件、そして安倍首相がイラン訪問時、ホルムズ海峡での日本の海運会社のタンカーが襲撃された事件が飛び込んできた。どれも大事なニュースなのだが、振り返ることで、学ぶことはたくさんあるのではないかとも思う。

 1960年6月15日、やはり、私には衝撃的なことであった。

 1960年1月には日米安保条約が調印されたが、日本のアメリカへの軍事協力強化に反対する国民的な運動が、前年から盛り上がっていた。5月19日、安保特別委員会は新安保・新協定の批准が自民党単独によって強行採決がなされ、本会議では、警官隊が導入され、5月20日の未明、強行採決されたのである。その後の多くの国民の怒りは、抗議集会や「岸を倒せ」「安保反対」の請願デモの運動となった。在学中の大学自治会でも、学内外の活動は活発となり、いわばノンポリでもあった私は、自治会の指示によって、集会や国会へのデモにも参加したり、しなかったりの生活だった。6月10日には、アイゼンハワー米大統領の訪日を前に下見のハガチー大統領秘書の車が羽田でのデモで立ち往生、ヘリコプターで脱出したとき、座り込んでいた私たち学生の直ぐ近くで、ヘリの離着陸で巻き起こすあの爆風の強さを実感したのだった。6月15日は、国会議事堂近くまで出かけていたが、私は、当時、霞町にあったシナリオ研究所の夜間講座に通っていたので、夕方6時には、すでに、講義を聴いていた。終わって、青山1丁目のお蕎麦屋さんで遅い夕食をひとりとっているとき、店のテレビで国会周辺での混乱の模様を伝えていた。女子学生が一人亡くなったのを知ったのは、池袋の家に帰ってからだと思う。後の報道によれば、新劇人・主婦たちのデモの隊列を右翼が襲撃したことをきっかけに、全学連の「主流派」の学生たちが、国会の南門から突入、武装した機動隊ともみ合いになった時の出来事であったという。
  6月16日に、政府は、米大統領の訪日を中止した。そして、さらに、衝撃だったのは、翌6月17日の新聞一面の囲みで発表された在京新聞社七社による「共同宣言 暴力を排し 議会主義を守れ」というものだった。その内容というのを見ての違和感は、拭い去れるものではなかった。当時の私には、まだ、マスコミについては「無冠の帝王」なる言葉も聞くともなく聞いていて、権力批判の機能を果たしているという認識がどこかにあったのだろう。将来は、マスコミの世界で働きたいとも思っていた頃だった。

 「6月15日の流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義を聴きに陥れる痛恨事であった」とあり、「民主主義は言論をもって争われるべきものである。その理由のいかんを問わず、またいかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて事を運ばんとすることは、断じて許されるべきではない」ともあり、「社会、民社の両党においても、この際、これまでの争点をしばらく投げ捨て、率先して国会に帰り、その正常化による事態の収拾に協力することは、国民の望むところと信ずる」ともあったのである。あたかも、学生たちが暴力集団であるかのような、野党が暴力的に議会の混乱を招いたかのような口吻に読める。マスコミって、事件の真相を究明し、原因と責任を明らかにして、解決と再び起こることのないような方向性を示すのが、役目だったのではないの、その機能を自ら放棄して、ときの政府・与党に加担し、国民の自由な活動やジャーナリストたちを萎縮させる結果をもたらすに違いないと思ったのだった。

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  ひるがえって、現在の政府与党は、「議会主義」や「法治国家」を標榜しながら、議会では、数の力での強行採決を連発して、世論や民意を無視することが横行するばかりに思える。それには、官邸指導による官僚たちやマス・メディアをコントロールする仕組みを作り上げ、これまた、資金と地位に縋りつく面々を引き連れた形でもっぱらアメリカと経済界に、積極的に加担する。一方、国民に向けては、とりやすい所から税金を取り、後手後手の対策でお茶を濁す。ときには、利用するためにだけにある皇室をもって、国民の心をくすぐる。ああ、60年前と何一つ変わっていないではないか。
  そして、暮らしの足元から揺らいでいる少子高齢社会における国民の不安を背景に、細るだけ細ってきてしまった野党も、巧妙な政府の目くらましに、右往左往する。署名をしても、集会に出かけても、投書をしても、選挙に行っても、なにも変わらないというむなしさは、深まるばかりである。たしかに、60年前、米大統領の訪日を阻止し、岸内閣を倒したが、そのあとの池田勇人に替わってなされたことを振り返れば、暗然たる思いにいたる。それでは、いったい私たちには、何をすればいいのか、何ができるのだろうか。ともかく、誰かの指示を待つのでなく、気を使わなくてもよい、自分の思いを、考えをとにかく発信してみる、行動に移してみることが、大事なのではという平凡な結論にいたる。誰かに頼るのではなく、縋るのでもなく・・・。疑問に思ったら、自分で調べてみること、情報の海に漕ぎ出してみよう。ゴミにもぶつかる、高波にも出会うだろう。

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2019年6月12日 (水)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る(3)1959年(続)

短歌研究1959年6月号/7月号/8月号/9月号                  

社会問題、天皇制からの切り口へ
 1959年の後半も「主題制作」と「長期連作」の企画は続き、「連載短歌」は吉井勇、生方たつゑ、塚本邦雄に代わって、5月号からは、佐藤佐太郎「北の海」「佛桑華」「雨季」、斎藤史「密閉部落Ⅰ~Ⅲ」が始まっていた。また、6月号からは、<未発表歌集シリーズ>という新企画が始まる。第一弾が木俣修青春歌集「市路の果」152首(1928年3月~1931年6月)は、北原白秋系の『香蘭』時代の作品が中心で、木俣は、1935年6月には白秋創刊『多磨』に参加している。8月号は、前川佐美雄青春歌集「”春の日”以前」150首(1920~1925年)であった。

・教室をおはれし友はつひにまた會ふはなからむと重々といふ
・とめどなく思ひまよふ十行に足らぬ履歴を紙にしるして
(木俣修「市路の果」『短歌研究』1959年6月)

・野の駅に汽車待ちをれば少女子が和えに雨に濡れ来て川をたためり
・俄雨に合歓の花散る草山をから傘すぼめてわれら行くなる
(前川佐美雄「”春の日”以前」『短歌研究』1959年8月

・落人は笛の音のごとく痩せながら空よるべなくさまよひにけり
・とほき歴史のかたより落つ聲かともはるかにたかし 天上の雁
(斎藤史「密閉部落Ⅱ」『短歌研究』1959年6月)

 また、6月号で目についたのは、竹山広(1920~2010)の作品だった。
・ものかげに潜みて燠を吹くごときくるしき愛をわれら遂げきつ
・朝来てなほ生ける脈しるしゆく残るくるしみをはかり見むため
(竹山広「ルルドの水」『短歌研究』1959年6月)  

 竹山の『心の花』に復帰直後の発表作で、長崎で結核療養中に被爆、兄を失い、長い空白の後、被爆体験の作品を出版したのは、1981年、第一歌集『とこしへの川』であったのである。 

 7月号・8月号には、「短歌による社会時評」があり、7月号の吉田漱「皇室ブーム」、井伊文子「今日の沖縄」、君島夜詩「北鮮帰還」は、歌人による時評であった。8月号のそれは、勤評闘争のさなかの教師の短歌、少年院や女子刑務所の入所者の短歌、ハンセン病者の短歌、労働者の短歌を現場に近い歌人が紹介する形をとる。私が注目したのは、吉田による、皇太子結婚への慶祝短歌の背景を分析したもので、大きく皇室への関心層と無関心層に分け、前者には、もっとも時流に敏感で、警職法反対と奉祝歌が同居できる「率先型」から懐疑型、傍観型、憧れ型、天皇制自体には決定的な意見を持たない良心型、天皇制廃止の抵抗型などに分けているのが辛辣であった。つぎのような結語部分は重大な指摘であったと、いまさら思う。
「天皇制、皇室、国家、これらの、ふりかえりが、本当にまだ各々のうちで、不十分なところに、実は問題があるので、その大きな大衆層は、いつたいどういうものかの分析、「保守的ムード」の検討、マスメデアに対する考察、ひいては世界の機構、国家の位置に目がとどかぬかぎり、今回のようなブームはきわめて容易におこる」

 前後するが、前記事の5月号の秋村功「道化師を操るもの」の反響として、6月号の「読者の批評」欄には、2件の投稿があった。秋村・吉田のいう「皇室ブーム」について共感し、皇室ブームへの疑問や違和感を持つ人たちが、声を上げていたことの証ではないか。その一つは、秋村の「皇室のプライベートな慶事がそのまま庶民のめでたさに通じるかのごとく錯覚させるむなしい報道」や「日本文学の源泉である短歌」と、歌会始にのぞむ選者たちは「誰かが作りあげた筋書きの上で踊つている悲しい道化であるかもしれない」とする主旨に対して、重要な問題を投げかけているとして、「文学の将来を左右するような切実な問題に、目を蔽って見すごすことは、とりも直さず“戦前“の愚を再びおかそうとする危険なしとしないからだ」「伝統があるから尊いのではなく、その発展を求めてこそ伝統は生き継がれるので、未来に通(じ)る詩でなくては伝統も死に絶えて終う」と訴えていたことも目に留まった。寄稿は、「大阪市 片山碩」となっていた。『覇王樹』の1960年代の同人だったらしい。
 皇太子の結婚をきっかけとしたミッチーブーム、皇室ブームへの歌壇の反応は、天皇制自体への疑問と危機感を率直に吐露している編集者、執筆者も、読者も、実に健全であったことを示しているのではないか。現在の天皇の代替わりをきっかけに、当然論議されるべきであった課題を、野党もメディアも歌人も、スルーして、奉祝ムードになだれ込んでいる実態を目の当たりにして、いっそうその感を強くした。
 また、歌人であり、琉球王家、尚家出身の井伊文子(1917~2004)の「今日の沖縄」は、当時、沖縄の情報が少ないなか、貴重なレポートであったと思う。中野菊夫や吉田漱らとともに、短歌を通じて沖縄と本土と数少ないパイプの役割を果たしたことは見逃せない。
 さらに、8月号の斉木創(香川県青松歌人会、1914~1995)による「H氏病者の現状」は、ハンセン病者の短歌が盛んになった昭和初期、「療園と皇室との紐帯は周知のように、極めて厳密な格別の庇護のもとにあり」、数知れないご慈悲に守られ、“聖恩感謝”の思想」は、病者にとっては血肉化された金科玉条であった、と書き起こされる。斉木は、自作「厳かしき世代におはし来て天皇は癩の上にすらやさしかりける」を引いて、昭和天皇の1950年、四国視察の際の「あな悲し病忘れて旗をふる人の心のいかにと思へば」に応えた過去のさまざまな呪縛から放たれ、意識変革をもたらしたのは民主憲法であったと述べながらも、現実の厳しさ、レプラ・コンプレックスを取り払う道を探ろうとする。斉木は、らい予防法が撤廃される1996年を目前に亡くなっている。
 なお、9月号の五十首詠では、特選は、山口雅子「春の風車」、石井利明「座棺土葬」であったが推薦作3人の内の一人に新井節子「流離の島」があったことにも着目したい。新井は、沖縄県屋我地島の国立療養所沖縄愛楽園に暮らすハンセン病者であり、その作品は、つぎのようなものだった。
・離れ島の中また隔つ境界の並木に日暮れの風こもり鳴る
・爆撃に皹破れし窓揺さぶりて北風酷薄の日を育ち来ぬ

(新井節子「流離の島」『短歌研究』1959年9月)

 なお、この年の5月号にさかのぼるのだが、中野菊夫「署名簿」(20首)は、私が近年知ることになる、ハンセン病者とされて、殺人事件の容疑者(熊本県の菊池恵楓園入所者)が最高裁まで争った「菊池事件」を詠んだ連作である。死刑が確定したのが1957年9月、直後に「救う会」が発足し、再審、助命嘆願、特赦など様々な運動を展開したが、1962年9月には、死刑が執行されたのである。中野は、事件自体にも冤罪ではないかという疑問、裁判制度への怒りをあらわにして、死刑確定後の被告にも面会し、恩赦申請の署名活動を進めていた。中野は、前述のように、早くより、ハンセン病者の短歌指導も積極的に行っていた。作品にある「隔離裁判」とは、感染などを理由に、ハンセン病者が裁判所以外の「特別法廷」でなされた裁判のことで、最高裁は、2016年になって、その特別法廷は法の下の平等な裁判を受ける権利を侵して違法であることを認め、謝罪している。1996年「らい予防法」の廃止後も、ハンセン病者や家族への差別は依然と根強く、「菊池事件」の再びの再審請求もいまだ続いている。現代においても、皇族のハンセン病者に「寄り添う」姿が、ことさら強調されるということは、何を意味しているのだろうか。
・隔離裁判なしたる狭き法廷に椅子ありうすく埃かぶりて
・ライを忌み親しきすら詳言をなさざりき偏見は今も變らず
・無力にして皇太子結婚をいまは待つ君の恩赦をたのめるがため
(中野菊夫「署名簿」『短歌研究』1959年5月)

 なお、8月号には、1956年の五十首詠特選となった小崎碇之介(『ポトナム』同人、1918~1995)が、「焱と死者の街」(53首)を発表している。小崎は、船員で、公務のため門司に赴く途中、広島駅近くの壕で仮眠中に被爆するが、助かった直後に綴った作品で、14年間、筐底に秘めていたという。GHQの占領下では、原爆に言及する出版物には極めて厳しい検閲がなされていたので、その後も、多くの歌人たちは出版には慎重だった時期でもある。
・まなぶたを刺す閃光にまどろみの覚めき砂零る壕におびえて
・雨昏く火の街にふり死者へふり生者をうちて心狂はしむ
(小崎碇之介「焱と死者の街」『短歌研究』1959年8月)

短歌研究1959年10月号/11月号

<未刊歌集>という方法

 10月号の未刊歌集は、斎藤史の「杳かなる湖」(87首、1943~45年、1946年)であった。1946年分は、歌文集『やまぐに』(臼井書房 1947年7月)に収めたと、「あとがき」には記している。また「総数百首」とも書く(うーん、簡単な足し算のはずだが)。この「杳かなる湖」の成り立ちと『斎藤史全歌集』への収録状況などは、拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』でも触れている(表5「『全歌集』に収録された敗戦前後の「歌集」と初版『歌集』の歌数などの比較」)。史は、この未刊歌集をもって、「昭和三年から頃から今日までのものを、どこかに一応整理したことになるのだろうが、年月の風化の中に、どれほどとどまるものやら・・・」とも述べている。
・からからと子の乳母車押しながら風に逆らひゆく夕昏れを
・我は今かく渇(かは)けるをいづ方に夕凪美(は)しき湖(うみ)はありなむ
・東京に居らざる我をおとしむることば伝へて来し秋だより
(斎藤史「杳かなる湖」『短歌研究』1959年10月

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拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』から

 新しい企画が重層的に展開するのはめまぐるしくもあるが、書き手の意欲もそそり、雑誌全体から躍動感が伝わり、読者の期待感も大きかったことだろう。しかし、主題制作や連作については、加藤克己、高尾亮一や当時の若い論者、菱川善夫、秋村功らによる厳しい批判も現れていた。たとえば、小崎の五十首詠特選(8月号)について、「私の五選」10月号で、高尾は「異常な体験の作品としては叙述的にすぎている」、加藤は「一首一首の終着の常識性、報道性のため主題を貫く思想が寸断される」、秋村は「被爆当時の死や実体として捉えず、その後の観念化された視点からしか捉えられていないのが惜しい」と。斎藤の「密閉部落」についても、秋村は「あらかじめ予定された視点から、悲劇の観念が事実との遭遇により、形を持つたまでであ」り、「”部落“を支える深部を抉り出すようにつとめてこそ、通俗ロマン主義的傾向から脱しうる道なのだ」とする。
 また、10月号で岡井隆「暦表(カレンダア)組曲」が3回で完結するのだが、加藤は、9月号の「私の五選」で、岡井の生活批評として注目するが、「持前の生への傲慢と不逞の変形として、もつときびしい深傷の感覚をふまえた上での、現実へのもうひとつ痛烈な風刺のコトバがほしい」と評している。同号では、9月号の五十首詠について、前身の編集部選から1958年選考委員方式になって2年目、初めて特選となった山口雅子「春の風車」、石井利明「座棺土葬」の批評もあり、なかなか手厳しいものであった。
 11月号の<未刊歌集>は近藤芳美の未発表歌集「大地の河」(120首、1940年9月~1941年末)であった。『早春歌』前の召集兵として戦地から妻への軍事郵便で送付した短歌がノートにまとめられていたのを忘れかけていたが、今回、若干手直しをしてをまとめたと「あとがき」に記している。
・前線に夜半発ち行くトラックか塀の銃眼をてらしつづけり
(敵前上陸の訓練をうく。暁舞台と呼ばれる)
・死せる兵運ばれて去り夜具一つたたまれており朝明くる窓
(軍医に胸を病んでいることを告げられ、そのまま内科病棟に移された)
・白衣着て佇つ身にまぶし夏となる大地の河の黄なるみなぎり
(朝鮮人娼婦らの一団に見送られて病院船に乗る)

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『短歌研究』1959年10月号、11月号より

 また、11月号では、三大連載と銘打った、山本健吉「人麻呂私抄」が11回、木俣修「昭和短歌史」が24回、柴生田稔「斎藤茂吉・その歌と生涯」11回と佳境に入っていた。そして、現在から振り返ってみれば、毎号、一冊、一冊に意欲的な作品や論文が多く、歌人研究や短歌史における資料的な価値が高い。現在の短歌総合誌の大方の「軽さ」からは想像もつかない。

 

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2019年6月 7日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人を振り返る(2)1959年

 当ブログは、2006年1月に開きましたが、今回の記事がちょうど1000件目にあたります。雑多で、つたない発信ですが、楽しいときもあり、苦しいときもありました。お訪ねくださる皆さまに支えられ、続けることができました。予想外の反響に励まされ、思いがけない出会いや情報交換のチャンスにも恵まれました。ありがとうございます。そして、リンクをしてくださっている方々には重ねてお礼を申し上げます。更新は、遅々たるものですが、ときどきの思いを綴っていきたいと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。

 

~主題制作と長期連作の試み~

『短歌研究』1959年1月号/2月号

 現在の短歌総合雑誌の新年号といえば、若干の違いはあるものの、老若男女の著名歌人総出のアンソロジーだったり、老大家を前面に押し出したり、中堅層を集めたりと、やはり「おめでたい」感がぬぐえない。今年の『短歌研究』1月号は、なんと総力特集「平成の大御歌と御歌」であった。
 1959年、杉山正樹は、1月号の編集後記に「<新春作品特集>は、旧来の総花式なアンソロジイを排して短歌の可能性を探る試みを開始しました」として、「主題制作・生きている”戦後“日本人の心の記録」のもとに、近藤芳美・宮柊二・木俣修にはじまり、岡井隆・田谷鋭・葛原妙子・寺山修司と続き、福田栄一・坪野哲久・斎藤史の『新風十人』メンバーの作品が奈良原一高の写真とともに30・14首の交互で並ぶ。ベテランの佐藤佐太郎・吉野秀雄、新人の山崎芳江・小崎碇之介・山下富美の30首も配するが、この新年号のもう一つの試みというのが50首に近い大作の「連載短歌」で、吉井勇「人の一生」、生方たつゑ「火の系譜」、塚本邦雄「水銀傳説」である。座談会「日本の詩と若い世代」(大江健三郎・江藤淳・岡井隆・寺山修司・嶋岡晨・堂本正樹)がもっとも新年号らしいといえば言えるかもしれない。

・靴音の近付き聞こえ闇に消ゆ心よぎりし何の恐怖か
(近藤「五八年冬」)

・たたかひの後を生きつつ身に疼くくらき痛みを語りあへなく
(柊二「おもい光」)

・壓を加へんとするものはことば柔らかにわが書きものを閲(けみ)しゆきたり(修「黄の鎮み」)

・尾行(つけ)られていると信じ初めしより昂然と雷雨の街を歩めり(隆「少年行」)

・揉みあひて階のぼる群を狭(せば)めつつコンクリートの壁(へき)ありと見つ(鋭「野の靄」)

・窓に碍子(がいし)黒き夜 星黒き夜 われはなにゆゑに群(むれ)、を怖れし(妙子「風 衝」)

・一本の樫の木やさしそのなかに血は立つたまま眠れるものを
(修司「洪水以前」)

・せばめられてゆく自由われも守りたしわれの守られゆく背後なく
(栄一「一枚の罪」)

・拳銃を斜に帯びて移動する道化の一群 制服の青
(哲久「水甕交響」)

・云ひ立てて無實叫ばぬ白鳥を撃つ たはむれに基地の兵の銃丸
(史「流木」)

 

 この作者たちの思想・信条は異なりながら、共通するのは、直接的には、教員の勤務評定反対闘争、警職法改正反対闘争などで国民的な盛り上がりは見せたものの、教員の管理強化、小中学校における「道徳」の導入など国家権力による統制強化、1960年に向けて、日米間安保条約改定交渉が開始されることなどによるじわじわと締め付けられるような危機感であり、閉塞感ではなかったか。
 さらに、編集後記で、杉山は「短歌が日本人の心の記録という意味を持つとすれば憲法改定への暗い動きが底に流れる今日、戦後の心象を刻みつけたこの企劃も、ひとつの意味をもつかと思われます」とも記している、その時代背景へのスタンスも留意すべきだろう。

 翌2月号では、この企画の反響を、批評特集「現代短歌の突破口」としてまとめている。魚返善雄・大岡信・楠本憲吉と歌人6人の反応は各様だが、企画自体を評価する大方の中で、やはり、その中身、短歌作品や写真とのコラボに疑義、言及する評者も多い。「連載短歌」の吉井勇、生方たつゑ、塚本邦雄の連作は続く一方で、<新・戦後派作品特集(30首+作者のノート>(我妻泰・石川不二子・杜沢光一郎・小野茂樹ら7人)、<新鋭作品集(15首)>(石牟礼道子・水落博・中井正義ら7人)が組まれている。

・墓碑銘のなき死つぎつぎよみがえる海へきざはしふかき月かげ
(石牟礼道子「母たちの海」)

 この記事を書いているさなか、6月5日の毎日新聞(『石牟礼文学の原点発見 本紙熊本版に短歌21首投稿』)を目にする。記事によると、石牟礼の短歌のスタートは毎日新聞熊本版「熊本歌壇」(蒲池正紀選)の1952年11月11日~53年5月31日までの21首の入選作だという。その記事には、当時の「熊本歌壇」欄の2首が載っていた。

・舞ひ下りてふはりと羽をとざしたる秋の揚羽はしずかなるもの
(毎日新聞「熊本歌壇」1952年12月28日)

 かつて、私は、石牟礼道子(1927~2018)が短歌にかかわっていた時期は決して短くはなかったことを知って、「短歌に出会った女たち」の一人として、彼女の短歌との出会いと別れをたどったことがある(「石牟礼道子『苦海浄土』にたどりつくまで」『短歌に出会った女たち』三一書房 1996年)。彼女が短歌を作り始めたのは、10代の戦前までさかのぼることがわかっている。そして、『短歌研究』でのデビューはと遡ってみると、手元の資料から2件見出すことができた。バックナンバーの現物が以下の画像である。

・傷つきしけものも花も距りぬ変身の刻近づく暗さ
(「変身の刻」『短歌研究』1956年9月)

・岩礁のさけめよりしばし浮揚する藻と生々しわれの変身
(『海女の笛』『短歌研究』1956年11月)

 1首目は、五十首詠特選1人と推薦4人に続く入選者15人の一人として14首掲載されたのだが、そのうちの1首であり、2首目は、9月号で五十首詠<特選>であった小崎碇之介とともに入選8人の入選後第一作20首詠のなかにある。当時、すでに、水俣病は工業廃水が原因であるとする漁民や患者たちと認めようとしない日本チッソと闘争は激化していた。石牟礼が水俣病にかかる文章を発表しはじめるのは、少し後の1963年以降で、1970年『苦海浄土 わが水俣病』(講談社)の第1回大宅壮一ノンフィクション賞を辞退した石牟礼だったが、その後の歩みや曲折は別稿に譲りたい。

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石牟礼道子「変身の刻」1959年9月号

 

~「歌会始」が問われ始めたが~

『短歌研究』1959年3月号/4月号/5月号                  

 前年、1958年11月27日の明仁皇太子の婚約報道以降、いわゆるミッチーブームのさなか、1959年の「歌会始」は、1月12日に開催されている。「窓」の題のもと選者は、吉井勇・土屋文明・四賀光子・松村英一・五島美代子・木俣修、陪聴者には、久保田万太郎・芹沢光治良・高見順らがいたと伝え、続けて、現代歌人協会・日本歌人クラブ・女人短歌会の共催で、預選者を祝って、選者、入江相政侍従ら宮内庁詠進歌委員など90名が参加して、預選者を祝ったと報じている(『短歌研究』1959年2月号)。そして、選者に新しく、若い木俣と女性二人目として五島が加わったことが影響したことになるのか、戦後最高の応募歌数2万2400首を越えたことが注目された。

 そして、4月10日の皇太子結婚を控えた、このタイミングで、『短歌研究』3月号では、「編集部S」の名で、「歌会始はだれのものか?歌壇から選者を送って十二年 もはや遠い儀式ではない」<特別記事>が掲載された。「歌会始」が選者に民間歌人を加えて10年余を経、「現代短歌の飾窓」として、その短歌は誰の目にも止まる存在になったことで、歌会始が現代短歌と無縁な別世界の出来事ではなくなった。それを受けて、編集部は、各世代の歌人30人、短歌に関心のある文学者10余人にアンケートをとったという。質問も、回答の全容も不明ながら、当時の儀式「歌会始」の実態とその様式が定まったのは明治期に入ってからの第二期であると歴史をたどった上で、「あれはあくまで尊重すべき儀式である」とした回答が最も多かったと報告している。新しい選者の木俣のように、新聞や雑誌の短歌コンクールと同様に選歌し、よりよいものにしていけばよい、とする考え方と現代短歌と歌会始が近づいたということは、現代短歌の文学的な堕落を意味する(杉浦明平)、「(短歌)が文学であるならば、天皇制と結びついて国家権力に守られたくない。現代短歌のためにはこのままでおくべきでない」(岡井隆)という意見、選者も召人も断り続けていた土岐善麿の「われわれが歌を作るのとはモチーフが違うもので、自由自在な表現が可能かも疑問だ」との意見も紹介されている。ではどうすればいいのか、おそらく執筆者であろう杉山はつぎのような文章で締めくくっている。
 「あの第二芸術論や短歌滅亡論が、宣戦の詔勅にも終戦の詔勅にもひとしなみに感動した歌人の姿勢にはっしたことをおもいあわせれば、近く迫つた皇太子の御成婚式も短歌にとつては危険な瞬間かもしれないといえる。その意味からも、今こそ、広い眼で現代短歌の置かれている状況を見つめるべきではないだろうか」(『短歌研究』1959年3月)

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「歌会始は誰のものか」『短歌研究』1959年3月号

 また、翌月4月号で、水野昌雄は「敗北の記録を超えるために」において、歌会始の根本的矛盾は選者たちがすぐれた歌を選ぼうとするほど、天皇制のために役立つことによつて非文学化せざるを得ないとの指摘をしている。さらに、5月号では、秋村功が「道化師を操るもの」を寄せ、1月1日の新聞に(昭和)天皇の「御製」が掲げられているの目の当たりにして、暗い回想、悲観的な行方、現状への激しい憤懣という複雑な気分に包まれたという。「皇室のプライベートな慶事がそのまま庶民のめでたさに通じるかのごとく錯覚させるむなしい報道」によって、「現在の天皇には親近感に似た尊敬の念さえもつ」という庶民像が形成されてゆく。そんな中で「年に一度、天皇が主催する文学の祭典に、日本の文学の源泉である短歌をもつて」のぞむとする選者の木俣に限らず、選者たちは「誰かが作りあげた筋書きの上で踊つている悲しい道化であるかもしれない」とする。では、どうすればいいのかについて、歌会始に応募する2万人以上含む日本人の精神構造を、より合理的でより自主的な判断力をもつものへと変容させる重要性を指摘する。

 さらに、5月号の編集後記「読者への手紙」では、つぎのように記す。
「祝婚歌が巷にみちみちたあとにくる季節こそ、本当は注目すべきなのかもしれません。(中略)祭式の合唱隊と化したマス・メディアが合言葉をくりかえし告げているうちに、たれもが同じ受身の姿勢で無邪気に合言葉をかわしはじめる危険なムードが、戦後これくらいありありと感じられることはなかつた」(『短歌研究』1959年5月)

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「読者への手紙」と奥付『短歌研究』1959年5月号

 1959年、あれから、まさに60年後の今、私たちが経験している「天皇代替わり」における時代の空気を予想しているかのように思われた。私たちは、マス・メディアは、そして歌人たちは、過去に学ぶということを忘れたしまったのではないか。
 また、5月号の「歌人の日記」において、我妻泰はつぎのようにも書いていた。現在、こんな趣旨の発言ができる歌人は存在するだろうか。
「一九五九年冬 *月*日 俺の中で天皇及び皇太子は絞殺しなければならぬ制度として俺の一部分とともにのたうつているのに、日本中は皇太子妃で他愛なくにやついている。まるでシンバッドに出てくるビニールフィルムに隔てられた一眼人のように、見えていながら俺たちは手も足も出ないのか・・・・」(「九年間の状況」『短歌研究』1959年5月)

 

 

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2019年5月31日 (金)

いまの歌壇はどうなっているのか~1960年前後の短歌・歌人たちを振り返る、1958年

 ネット上で知り合い、メールでのやり取りはありながら、遠隔なので、お目にかかってはいない知人から思いがけず、1959年から60年にかけての『短歌研究』の数冊をいただいた。近年、私は、斎藤史、阿部静枝の著作年表を作成し、一部を論稿の資料として活字にしてきた。資料環境が進展し、検索やコピーが容易になったとはいえ、歌人研究には基本的な資料である『短歌研究』の原本はありがたい。デジタル資料、とくに遠隔で、目次を頼りに検索・複写をしている限り、多くの見落としもあるし、目的以外の資料はスルーしがちである。原本を閲覧することにすぐるものはなく、思いがけない作品や文章に出会い、一冊、一冊が、その時代の雰囲気を伝えてくれる。

 この1960年前後は、敗戦直後は別にして、私の体験した日本の戦後史では、まれに見る激動の時代であった。そして、自身にとっては、母を亡くした、学生時代の前期にあたる。 

 いま、手元にあるのは、晩年の母が購入していた『短歌』や『短歌研究』の端本、私が後に図書館で複写した目次や記事と今回いただいた『短歌研究』である。何から書き出すべきか、迷うところでもある。

『短歌研究』1958年1月号(編集者杉山正樹/日本短歌社):

 <新年作品特集>佐藤佐太郎・五島美代子・宮柊二・生方たつゑ・木俣修らと塚本邦雄、田谷鋭・寺山修司の30首前後の作品が並ぶ。<新鋭女流作品集>も組み、石川不二子・大西民子…北沢郁子・清原令子・冨小路禎子ら10人の作品が並び、菱川善夫の「新世代の旗手」が始まり、第1回は中城ふみ子である。前年からの近藤芳美「或る青春と歌12」、木俣修「昭和短歌史10」、高安國世「イタリー紀行7」の連載では、近藤のひたすら甘く抒情的な文章にはいささか戸惑い、高安のヨーロッパ旅行に憧れたことなど、かすかな記憶がよみがえる。

・明治六年若き天皇皇后と一夏駐輦と記録に残れり(四賀光子「箱根遊草」)
・戦後うやむやに終りて水無月の道黒く市電の内部につづく(塚本邦雄「出日本記」)

 

『短歌研究』1958年3月号(編集者杉山正樹/日本短歌社)

 <現代女流歌集>の冒頭は読売文学賞第一作として生方たつゑ(「苛斂の土」40首)、五島美代子(「原野の犂」30首)野二人の作品が並ぶ。「女歌の行方」として男性の論者5人が生方・五島を語り、女歌を論じている。そして、阿部静枝らのベテラン7人と、斎藤史、葛原妙子、森岡貞香の3人が別枠で並ぶ。そしてもう一つの特集が<沖縄の歌と現実>であった。吉田漱「“二つの日本”を訴える」、霜多正次「沖縄島の哀歓」と、吉田の編集による「沖縄作品集」からなる。吉田は、沖縄の歴史と当時置かれている政治、経済、社会の実情を丁寧に具体的に報告し、沖縄の歌壇にも言及する。沖縄の戦後の短歌は、ハンセン病療養所の「愛楽園短歌会」に始まり、本土のアララギ同人の呉我春男の尽力で「九年母」が1953年3月に結成、翌年会誌が創刊されたが、沖縄では発表できない作品が本土の『アララギ』『未来』『樹木』などに掲載されるという時代であった。

・墓石の片がはにいま陽が匂ひ子の名一つがくきやかに見ゆ
(五島美代子)
・遺りゐる礎石配置に日のうすき斑があり人間の悲話よみがへる
(生方たつゑ)
・絶望に通ずる道を歩むに似たり一日一日の悲しきいとなみ
(比屋根照夫)
・憚らず土地を接収せしされつ米琉親善をいふ双方の高官
(天久佐信)

 杉山正樹によると思われる編集後記「読者への手紙」では、<現代女流特集>について「雛祭りや才女時代に因んだわけではありませんが」の前書きがあって、文学賞受賞の五島・生方と各世代の俊秀の力作を自負していた。三月号の女性歌人特集が定例化するのは、1969年31人でスタート、1974年に123人、さらに人数はふくれ上がり現在に至っている。一方、ちなみに、5月号の男性歌人特集は、1972年、70人でスタートしている。

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『短歌研究』1958年1月号目次

 

 なお、沖縄特集の文中で出会った比屋根作品にはいささか驚いた。後に、大学のOB会で知ることになる比屋根さん、政治思想史の研究者なのだが、若いときには『琉球新報』の「歌壇」に投稿されていたという。OB会で上京された折や電話で、現在の沖縄を深く憂い、ときには、短歌論や拙著への感想などを聞かせてもらうこともある。

『短歌研究』1958年10月号(編集者杉山正樹/日本短歌社):

福田栄一「夜の谺(44首)」
ししが谷法然院の河骨の黄の花硬しこころやむわれ
争ひしあとさき先生と飲まざりしふたたび叱りてくるる人なし
死にて亡き先生に逢ひポトナムの友には逢はず争はなく
金閣寺裏山ときき先生の死にしところより寂しき金閣

 この号の第一特集は「アララギの五十年」であり、この結社の「内側の声」五味保儀ほか「外側の声」前田透ほか各数人が語り、アララギの中堅・若手、宮地伸一・我妻泰らの作品を掲載する。もう一つが「異郷に歌う(海外日本人の短歌)」で、ハワイ、ブラジル、北米の移民歌人たちの現状と作品を紹介する。木村捨録「歌壇交流記4」は大日本歌人協会の出発と解散の経過が語られている。もう、リアルタイムで当時を知る歌壇人はいないだけに興味深い。
 冒頭の福田(1909~1975)の4首は一連の中ほどにある作だが、『ポトナム』を創刊し、主宰であった小泉苳三(1894~1956)の追悼歌である。福田は、『ポトナム』の若手メンバーとともに「思索的抒情」を掲げ、1946年10月『古今』を創刊・主宰している。小泉との確執があったと思われるが、その自死の後の墓参の折の複雑な心境を歌っている。法然院には、小泉の墓と歌碑がある。私は、この『ポトナム』に1960年に入会することになる。

 

『短歌』1958年12月号(編集発行人角川源義/角川書店):

 <アンケート特集>と銘打って、一つは、「警職法改正案と中河発言をめぐって」であり、一つは「現代短歌の問題点―推進すべき方向と作品(87氏回答)」である。前者は、58年10月、岸信介内閣は、警察官の職務権限の拡大を主眼とする警察官職務執行法改正案を国会に提出し、日本社会党はじめ総評、文化団体など幅広い反対運動が展開していた時期、衆議院地方行政委員会公聴会で中河幹子が歌人の肩書で改正案賛成の意見を述べたことに由来する。しかも、その意見があまりにも俗っぽく、雑駁だったことから、多くの批判を浴びることになった。注*『短歌』編集部は、中河公述人の意見と山田あきの反対意見を載せ、20人の歌人にアンケートをとった結果をまとめている。回答があった17人は、結論的には全員反対との回答を寄せている。回答がなかったのは、土岐善麿、岡山巌、大野誠夫とわかる。問題の公聴会は、11月3日に開催、11月5日アンケート発信、12月号に掲載というスピード感と緊張感がある編集になっている。当時の実質的な編集者であった中井英夫の名で、特集末尾の「特集に添えて」において、
「歌人代表の意でないことは当然だが、これを歌人一般とはつゆさら関係ないとして楽観できるほど、『歌人という存在』に信用があるかどうかが、これが意見の岐れ目であろう。」
 さらに続けて、「このことはしかし、もう我々がタンスの奥深くに樟脳を―『戦争になれば国民として協力するのが当然』という、あの樟脳をつけて手軽にしまい込んだ戦争責任の問題を引張り出さなければ解決はつかない―」と特集の意図を記している。

 国民的な反対運動により、1958年11月22日、岸首相は、警職法改正案の提案を断念した。戦後政治史にあって、国民的な反対運動が実った稀有な出来事となった。                                            

注*以下の議事録によれば、この11月3日の公聴会公述人には、「歌人 中河幹子」「作家 高見順」が並び、東京大学教授鵜飼信成、総評事務局長岩井章らがいた。
第30国会衆議院地方行政委員会公聴会議事録(1958年11月3日)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/030/0342/03011030342001.pdf

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『短歌』1958年12月号<警職法改正案と中河発言をめぐって>アンケート回答。

 もう一つの特集のアンケートは、「現代短歌の問題点」についてのアンケート回答を、編集部がテーマごとに仕分けをしてまとめたという。その回答は、実に多岐にわたるが、みな真面目であった。その一端をのぞいてみると・・・。

三国玲子「単なる当込」:「最近、台頭してきた一部の新人達の実験的な作品には興味を持っているが、その多くは生活実体から遊離した官製の遊戯であったり西欧詩他のジャンルに於て試みられている方法論を、短歌という土壌に機械的に移植したに過ぎないように思える。言葉やポーズのきらびやかさ、華々しさに反して内容空疎主体性を欠いているから単なる当込という印象を免れないのだ。実験と当込とは自ら峻別すべきであろう・・・」。(「非写実を排す」)

玉城徹「<彫り>の深さ」:「(前略)私は古典的な方法も前衛的な方法も、または口語歌も、いずれもあつてよいと思う。しかし、そのいずれにしても、もっと<彫り>ふかく、スケッチ歌体を脱却すべきだ。これが、昭和の、特に戦後歌風の一ばんの病弊なのだ。・・・」(「深みへ降りる」)

春日井建「美の呪縛」:「皮相な日常詠やスローガンの素描から抜けだして美の深さを測ることはもつと怖れないで試みられていいことのひとつであろう。美だけに賭けることは退嬰であり徒労であるかも知れない。しかし本来抒情詩である短歌を純化するための逞しい勇気であるには違いない。・・・」(「若い世代の声」)

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5月31日のアジサイ、ドクダミの繁殖力に脱帽、さてどうしたものか。勝手口近くのフキは、湯がいて煮て、お昼にいただきました。

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2019年5月25日 (土)

自治会と寄付・募金について、やはりおかしくないですか(3)日赤と皇室の関係も改めて考えたい(続)

 日本赤十字社には、年間にして、どのくらいの社資が集まっているのだろうか。平成29年度(2017年度)で日赤本社、千葉県支部、佐倉市地区の単位で調べてみると・・・。

 いずれも決算が出ている平成29年度の数字である。佐倉市地区に関しての歳出歳入などの詳細な数字は、公開されていないことがわかった。

・佐倉市地区では臨時職員を一人置いて、社会福祉課地域福祉班職員がその事務を行っている。なぜ、地方公務員が日赤の業務を行わなければならないのかも大いなる疑問である。佐倉市で集めた社資や寄付金はすべて県支部に送り、県は、毎年、全体の11%ほどを市町村に還元していることがわかった。かつては2200万以上の社資や寄付金が集まっていたが、いまは、1700万円台を推移しているようだ。人口減や自治会組織率が低迷していることも大きく影響しているだろう。

・千葉県支部では、歳入の77~78%が社資となる。前述のように歳出の11%は地元還元、13%程度が日赤本社に収められている。いわゆる運営費は、管理業務、各事業共通管理運営費などを併せてみると1億5000万円前後、歳出総額の20%程度を占める。

・一方、日赤本社では、一般会計歳入の三分の二が社資である。これが、年々確実に減少しているので、広報に努めるとしているが、足元の、地元での社資の集め方に、「自由意思」を標榜しながら、「強制」が伴っている現実を直視し、改革しなければならないはずだ。一般会計歳出を見ると、人件費・事務費などの科目では出てこない。各事業の中に組み入れているのかはわからない。総務管理費45億と、資産管理費12億などを合わせると運営費ということになるのだろうか、20%前後になることがわかった。なお、病院、血液、福祉事業は独立の特別会計とし、退職給与資金特別会計では、平成29年度は288億の積立金、264億の交付金、基金残高は465億を超えていた。

 災害への義援金は、運営・事務費などは差し引かないということであった。団体や個人からの義援金の受け皿になっているのが日赤だといえる。そもそも、戦場で、敵・味方なく負傷者の救護にあたった「博愛」精神を社是とする、1952年に厚生省の認可法人となった民間団体である。現代にあっては、政府を、国を、ひたすら「補完」するのではなく、本来の寄付文化を育て、根付かせてほしいと、願うばかりである。さらに、皇族たちの名誉職は必要なのだろうか。しかも「公務」というではないか。

日本赤十字社HPより作成

一般会計歳入決算のあらまし(平成29年度事業報告及び歳入歳出決算概要・一般会計)

・歳入総額  312億円(←平成28年度351億円)

 社資収入  209億円(←平成28年度228億円)

日本赤十字社千葉県支部HPより作成

千葉県支部の事業・活動(平成29年度事業報告書)

・歳入総額  763,166,654円(←平成28年度783,331,516円)

 社資総額  586,181,949円(←平成28年度613,994,940円)

佐倉市のHPより

平成29年度赤十字事業資金(社資)募集実績報告

・社資総額   17,531,766円 (←平成28年度17,864,541円)

 一般        16,913,966円 (←平成28年度17,249,341円)

 法人          617,800円 (←平成28年度   615,200円)

 皆さまからお預かりした赤十字活動資金(社資)につきましては、全額を日本赤十字社千葉県支部へ送金を行いました。

<問い合わせ>
 日本赤十字社千葉県支部 電話:043-241-7531
 日本赤十字社千葉県支部佐倉市地区 電話:043-484-6135
 (佐倉市福祉部社会福祉課地域福祉班内)

 

 

 

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2019年5月23日 (木)

自治会と寄付・募金について、やはりおかしくないですか(2)日赤と皇室との関係も改めて考えたい

 昨日5月22日、明治神宮会館で開かれた全国赤十字大会に出席した皇后は「皇后雅子さま初の単独公務」などの見出しで報じられた。皇后は、日本赤十字社の名誉総裁に位置付けられている。日本赤十字社は、その前身「博愛社」を経て、発足したのが1887年なので、名誉総裁は皇后五代により引き継がれていることになる。さらに女性皇族たちが、役職に就き、今回の報道写真にも、何人かの女性皇族の姿が見られた。また、日赤の現在の赤十字社社長は、2005年から近衛忠煇(旧近衛公爵家出身、妻は三笠宮家長女)が就き、1996年からは宮内庁長官だった藤森昭一が務めていたことからも、皇室との関係は深められている。

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 その日赤から、まもなく、私たち自治会員宅に「赤十字活動資金(社資)へのご協力のお願い」という文書が回覧されるはずだ。前記事の社協会費の場合と同じように、当自治会の「補足説明文書」が回覧されるだろうか。この日赤の「社資への協力」も、私たちの自治会は、社協会費、赤い羽根共同募金と同様の扱いで、手渡し回覧袋での集金が行われ、自由意思が維持されている。

 千葉県、佐倉市において、大方の自治会は、強制徴収や自治会会計からの一括納入や自治会費への上乗せによる徴収が実施されている。県の日赤支部や佐倉市地区からの協力依頼の回覧文書のどこかには、必ず協力は「強制ではなく個人の自由意思による」と申し訳のように記されていて、一方では「年500円を目安として」「年に500円以上を目安にして」などとも書かれている。さらに、日本赤十字社のHPには、<よくあるご質問>として次のような質疑を掲載する。

会費の募集に、なぜ町内会の人などが来るのですか? 

赤十字の活動は、地域福祉やボランティア活動など地域に根ざした活動を行っており、また、災害が発生すると、自治体や地域住民の方々と協力して救護活動を展開するなど、赤十字の活動は地域と密接なかかわりを有しています。

こうした活動を支えていただくため、地域の皆さまには、会費へのご協力をお願いしているのですが、その際、赤十字ボランティアが直接お宅を訪問しお願いに伺うほか、それが困難な場合には、自治会・町内会の方々にご協力をお願いする場合があります。

  回答の前段は、建前で、本来、赤十字のボランティアがなすべきことを、自治会・町内会に丸投げをしていることを、自ら宣言し、それを自治体が公認しているのが実態である。その町内会や自治会が強制や自治会費への上乗せなどで徴収していることについては、当ブログでも何回も触れているように、最高裁の決定で違憲とされているにもかかわらず、町内会・自治会の総会決議などで、決定した方法ならば違法ではないという見解を表明していることへの異議申し立てには、どの政党も、どの自治体も、どのメディアも深くかかわろうとしない。「福祉」や「皇室」が絡んでいることをもって、いわばタブー視しているかのようである。

 この天皇代替わりの、異様なほど狂騒のなかでは、皇室情報は選別され、皇室批判が葬られていくことに気づく必要があるのだろう。

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昨年、各戸に配布された「日本赤十字社千葉県支部」のチラシ。上段矢印の箇所には「一人ひとりの自由意思で・・・」、下段の箇所には「年500円以上を目安として…」の文言が見える。

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日本赤十字社佐倉市支会のチラシ。矢印の箇所には「強制ではなく、個人の自由な意思、判断にもとづく・・・」、「年500円以上を目安として・・・」とあった。

 

 

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自治会と寄付・募金について、やはりおかしくないですか(1)社協会費の徴収、「自由」定着への歩み

 年度が替わって4月に入ると、私のブログの自治会と各種「募金」に絡む記事へのアクセスが激増?!する。新しく自治会役員になったり、班長になったりして、多分、募金徴収の仕事がわが身に降りかかってきて、疑問を持つ人が多くなるからではないかとも考えられる。私たちの自治会でも、かつては、役員や班長になって最初の仕事というのが、自治会費の徴収と5月の社協への募金500円の徴収であった。

当ブログでも、何回か触れている、自治会と寄付・募金の問題は、新聞紙上などでもよく記事にもなり、テレビのバラエティ番組の話題になることもあった。各地の自治会・町内会での強制的な寄付集めの実態やそうしたことへの疑問や改革の取り組みが紹介されることもあるのだが、全国的な動きには連動しないのが現実である。

私たちの自治会では、もう20年も前のことになるが、あることがきっかけになって、600世帯規模の10人の役員のうち6・7人が女性であった年が続いた。私もその中の一人だったのだが、社会福祉協議会が「会費」、日本赤十字社が「社資」と称して、500円を強制的に徴収するのっておかしくない?!という声が、役員からも班長からも飛び出した。私も、寄付集めを請負うのは自治会本来の仕事ではないという思いから、とりあえず、「強制」だけはやめて、社協の会員になる、日赤の社資に協力する、共同募金をするのは、あくまでも「自由」であるべきではないかと提案して、運営協議会と呼んでいる班長会の大多数の賛成で決定した。「強制」とならないためにと考えられたのは、B5の茶封筒の右肩の切れ目するから、会員・社資・寄付の希望者は、氏名を記入の上、500円を入れた小袋を、投入方法をとった。あとで、班長さんが、会員証や領収書を届けるという方式であった。封筒には、現金が入っているので、用心のため、郵便受けではなく、必ず手渡しで、ということにもなった。当初は「この町内は、なんと福祉に冷たいのか」などの声も聞かれたが、この20年間で定着した。ときには、社協や日赤の支部の人が、役員会に説得に来たこともあったという。年度初めには、市の自治人権課主催の自治会・町内会長を集めた地区代表者会議が開かれ、相変わらず、社協や日赤の支部スタッフによる協力要請の時間が設けられている。自治体が、こうした民間団体の寄付集めに全面的に協力していること自体も問題なのだが。

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私たちの自治会の方式は、むしろまれで、ほとんどの自治会は、ほぼ強制的に一定額を徴収しているか、それが面倒ということで、自治会会計から、世帯分の会費や社資、募金額をまとめて拠出しているところもかなり多いというのが現況である。

 ところが、昨日回ってきた、その手渡しの集金袋には会長名で「社会福祉協議会(会費募集)に関する補足説明」、という回覧文書が付いてきた。そこには、以下の文章とともに、「社会福祉法第109条」にもとづく、地域福祉の推進役を担う民間法人であることが付記されていた。

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 「まず、当自治会としましては、社協の会費募集に際し、お手伝いはしますが、自治会員に社協会費を強制するものではございません。あくまで、社協の活動趣旨にご賛同いただけた方のみ会費を納入頂き、当自治会はその際に回覧ネットワークを提供するのみとの姿勢です。くれぐれも誤解の無き様、よろしくお願いします」

  前述のように、私は、個人的には、本来、自治会が民間団体への寄付や民間団体の募金を請け負うべきではなく、協力する必要もないと思っているものの、現況にあっては、とりあえず、上記のように、「会費の強制」をきっぱり否定し、確認する文書を回覧に付したことは、至極まっとうなことだと思ったのだった。

 全国各地で悩まれている皆さん、自治会・町内会による社協の会費徴収について疑問を持ったり、戸惑いを感じたりしたときは、寄付や募金の基本に立ち返り、ぜひ「自由意思」によるべきとする改革を提案してみてはどうだろう。

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2019年5月22日 (水)

「斎藤史について」の報告が終わりました

 5月18日、「短歌サロン九条」の例会、第61回になるそうですが、報告をする機会をいただき、「斎藤史」について話をしました。当ブログでも既報の通り、今年の1月9日日付で、暮れに拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』)を出版しました。そんなこともあっての依頼だったと思います。30部ほど用意した配布資料が足りず、近くでコピーをしてくださったそうです。会始まって以来の参加者が多かった?とのことでした。報告は、2時から1時間20分くらいで終了しましたが、あとは5時近くまで、参加者全員が感想を述べてくださいましたので、報告者としては、とてもうれしく、有意義な会となりました。思いがけず、国立国会図書館時代からの友人や知人、出版元の一葉社の二方の参加もありました。また、今回は、前記拙著の冒頭で、その論文を引用しました、若い研究者の中西亮太さんも参加してくれました。書誌、文献の考証には厳しい中西さんが、拙著の半分近くを占める著作年表や歌集未収録作品・全歌集編集時の削除作品などの資料検索・収集作業の困難さと努力に言及してくださったことは、ありがたいことでした。

 以下は、当日の配布の「報告要旨」を中心に若干手を加え、まとめたものです。

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1.なぜ今、斎藤史か

1)斎藤史とは

斎藤史は1909年生まれで、2002年に亡くなり、元号で言えば、明治・大正・昭和・平成を生きた歌人でした。戦前の作品は、モダニズムの影響を受けた象徴的な手法が高く評価され、戦後は、疎開先の長野に定住、その風土になじめない都会人として葛藤、口語を駆使し自在な歌いぶりで、介護や自らの闘病や老境を歌い、現在も老若からの熱い支持を受けている歌人です。短歌雑誌では幾度も特集が組まれ、多くの鑑賞書や評伝も出される、現代の人気歌人の一人でもあります。

・暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた

(『魚歌』1940年)

  • 白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り

(『うたのゆくへ』1953年)

・つゆしぐれ信濃は秋の姥捨のわれを置きさり過ぎしものたち

(『ひたくれなゐ』1976年)

・疲労つもりて引出ししヘルペスなりといふ八十年生きれば そりゃあなた

(『秋天瑠璃』1993年)

・人はみなおだやかにして病人を見下さぬやうにふるまひくるる

(『風翩翻以後』2003年)

 斎藤史は、生前に、『斎藤史全歌集』を、1977年、1997年の2回、いずれも大和書房から出版しました。この全歌集への『朱天』(1943年)を収録する際に、その『朱天』の冒頭に「はづかしきわが歌なれど隠さはずおのれが過ぎし生き態なれば」の一首と収録歌数が末尾には「昭52」と記され、付記として掲載されました。斎藤史の鑑賞や解説、評伝などが書かれるたびに、多くの執筆者は、付記された前掲の一首を引用して、戦時下の作品を隠さずに、全歌集に収めたことを、高く評価し、その潔さを称えました。

 しかし、少し調べていくうちに、初版『朱天』の歌数と全歌集に付記された歌数の違いに気づきました。要するに初版から削除された歌があることがわかり、改作された歌もあることを知りました。

2)報告の焦点

今回の報告は、以下の3点に焦点を絞ります。

①拙著の資料の一部を使いながら、削除と改作の経過と実態はどうであったのか

②実態を知ると、戦時下の作品を、後世――戦後になって、どのように対応・処理するのかという、多くの歌人の共通する課題と重なりました。彼らの選択のパターンを何人かの歌人で検証します。

③その選択を自覚的にせよ、無自覚的にせよ、戦後歌壇、現代歌人たちは自然体で受容してきたと思うのです。その現象が何を意味するのか、何をもたらしてきたのかを考えたいと思います。

 3)私の斎藤史への関心の高まりと資料環境の変化

私の斎藤史への関心は、史の父親の斎藤瀏に始まります。斎藤瀏は、軍人で、「心の花」の有力同人でありましたが、1936年2・26事件で、「反乱軍」の支援者として連座し、軍法会議で禁固5年の刑を受け、38年9月に仮出所します。翌年39年には『短歌人』を創刊し、以降、異常なほどの勢いで、歌壇に復帰、大政翼賛にのめりこみ、1940年には、太田水穂、吉植庄亮と共に大日本歌人協会を解散に追い込みました。篠弘は昭和短歌史の最大の汚点とも総括しています。また、斎藤史が『新風十人』という合同歌集、第一歌集『魚歌』、『心の花』時代の歌も収録した歌集『歴年』と立て続けに出版したのが1940年でした。

4)斎藤史への評価の類型化

私の1970年代の斎藤瀏の動向への関心と全歌集出版による歌壇や文壇での斎藤史への関心の高まりが重なる中で、史への評価が以下のような類型化が見られるようになります。

①2・26事件に絡んで、父の失脚、幼馴染の処刑に対する昭和天皇や軍部への怨念がありながら、ストレートに表明できない「悲劇のヒロイン」としての物語性を強調する

②戦時下にあっての『新風十人』『魚歌』では、象徴的な手法によって、当時の短歌や文芸への統制が厳しい中、ぎりぎりの抵抗を示したとする

③戦時下の作品を隠さずに『全歌集』に収めたというあとがきや付記の一首に着目し、その潔いメッセージを高く評価する

しかし、その一方で、私の関心は、史の発信した「潔さ」と削除・改作の実態との整合性、多くの歌人たちが、全歌集を語り、作品を鑑賞する場合、また評伝を書く場合、『朱天』の時代が省かれ、アンソロジ―などへの収録が極端に少ないという『朱天』をスルーする現象に疑問を持つようになりました。

5)資料環境の進化

近年、古い図書や新聞・雑誌のデータベース化が急速に進み、検索手段やコピー入手が容易になりました。

①古書や雑誌の復刻版・マイクロ版の出版に加えて、国立国会図書館では、主要雑誌の2000年までのデジタル化が進んだ。

②敗戦直後の混乱期、GHQの検閲時代の検閲資料がプランゲ文庫として、アメリカのメリーランド大学に保管されていることがわかり、データベース化が進んだ。

③新聞についても、期間などは限定的ではあるが、朝日「聞蔵」・毎日「毎索」・読売「ヨミダス歴史館」・「日経テレコン」など、斎藤史が多く登場する信濃毎日や中日新聞のデータベース化も進んだ。

 

2.『全歌集』収録の「朱天」と初版『朱天』の異同を調べてみて、わかったこと
1)
全歌集』収録の時に『朱天』から削除作品~17首

資料:『朱天』の『斎藤史全歌集』(1977年・1997年)収録時に削除された17首

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(1)「戦前歌」より

①國大いなる使命(よざし)を持てり草莽のわれらが夢もまた彩(あや)なるを 初版六頁

「とどろき」の最後一〇首目

『日本短歌』一九四一年二月「秋から冬へ15」*初出「理想」を改め

②たのめざるものも頼みきしどうなる野草の霜を今は云ひそね  二二頁

「ぼたん雪」六首目

『短歌研究』一九四一年二月「ぼたん雪9」 

③煌めける祖国の歴史継(つ)ぎゆかむ吾子も御臣(みたみ)の一人と思へば 七二頁 

「使命」四首目

初出不明

④神(かむ)使命(よざし)負へる我らと思ほへりひかりとどろき近づけるもの 七四頁

「使命」九首目

『女流十人歌集』一九四二年五月「飛沫45」 「思ほへば日日に」を改め

⑤ますら夫はむしろ羨しもひとすじに行きてためらはぬ戦場(ところ)を賜びき 七八頁 

「訓練」九首目

初出不明

「開戦」より

かすかなるみ民の末の女ながらあかき心におとりあらめやも  八五頁

「四方清明」最後一二首目

『婦人朝日』一九四二年三月「国民の誓ひ5」

『新日本頌』一九四二年一一月「開戦15」*「かそかなる御民の末の女(をんな)ながら丹きこころに劣(おとり)」を改め 

⑦現(あき)つ神在(ゐ)ます皇国(みくに)を醜(しこ)の翼つらね来るとも何かはせむや 九五頁

「わが山河」六首目

『公論』一九四二年三月「四方清明5」

『日本短歌』一九四二年四月「春花また6」

⑧襲ふものまだ遂(つひ)に無き神国の春さかりや咲き充ちにけり 一〇九頁 

「たたかふ春」最後一六首目

初出不明

⑨國をめぐる海の隅隅ゆき足らひ戦ひ勝たぬ事いまだ無し 一一四頁  

「珊瑚海海戦」六首目

初出不明

⓾みづからのいのち浄らに保(も)ちも得で説く事多き人を見るかも  一二二頁

「微小」二〇首目

『短歌人』一九四二年九月「くろき炎5」

⑪たばかられ生きし憤(いか)りは今にして炎と燃えむインド起たむとす 一二六頁 

「荒御魂」二首目

初出不明

⑫まつらふは育くみゆきて常(とこ)若(わか)の國悠(はろ)かなり行手こしかた 一二九頁

「荒御魂」最後一〇首目

『文芸世紀』一九四二年一二月「十二月八日7」

⑬動物を焼く匂ひに乾く着馴れ服火をかき立てて君も干さすや 一三七頁

「防人を偲びて」七首目

『文芸春秋』一九四二年一二月「北の防人を偲びて10」

『短歌人』一九四三年二月「北なる人に4」

⑭重傷のわがつはものをローラーにかけし鬼畜よ許し得べしや 一四六頁 

「ニューギニヤ進撃」三首目

初出不明

⑮半島、高砂、インドネシヤの友打つづき撃ちて止まむと進む神いくさ 一四六頁

「ニューギニヤ進撃」四首目 

『短歌人』一九四三年四月「進撃4」 「やむと」を改め             

⑯背戸畑の土の少しを守り袋に入れてゆきたる人如何に在る 一四六頁

「ニューギニヤ進撃」五首目 

『短歌研究』一九四三年四月「冬樹7」*「すこし」を改め

『短歌人』一九四三年四月「進撃4」

⑰神怒りあがる炎の先に居て醜(しこ)の草なすがなんぞさやらふ 一四七頁

「ニューギニヤ進撃」六首目 

『文芸春秋』一九四二年一二月「北の防人を偲びて10」

  「削除」したという文言や理由は、全歌集のどこにも明記されることはなかったのですが、歌数だけは、記述がありますので、引き算をすれば、削除された歌数がわかります。しかし、歌数の誤記などあり、戸惑いましたが、結論的には、17首が削除されています。1941年12月8日太平洋戦争開始前の「戦前歌」192首から5首、「開戦」173首から12首が削除されていました。どんな作品だったのか、上記の通りです。PDFでもご覧になれます。

  これらの歌に共通するものは何なのか、それが削除の理由につながると思います。

①歌の根底に、軍国主義的なもの、天皇崇拝、神がかり的なものがある

②表現上では、気持ちの高ぶりを示したり、強調したりする表現が頻出している

③使用されている言葉には、天皇を神聖化した、たとえば、使命(よざし)、現つ神、皇国(みくに)、神使命(かむよざし)、御民、御臣などの多用や官製標語などが見られる

④さらに、二重寄稿作品やアンソロジー収録作品があるということは、当時、自分でも秀作、自信作、体制から期待された、時代の要請にこたえた大切な作品であったことが推測される

 しかし、こうした条件を満たしながら、削除されない作品はたくさんあります。ほかにもあるということは、たしかで、配布資料にある中西亮太さんの朝日の歌壇時評や吉川宏志さんの図書新聞の拙著書評でも指摘しています。となると、削除の理由は何だったのだろか。私も明確な結論は出しにくいです。けれども、ともかく史自身としては、後世の人には読まれたくないないと判断した作品であったと考えられます。

 ただ、こうした作品が削除されていたという事実と、例の短歌やあとがきでの隠したってすぐわかるとか、全部さらけ出すしかない・・・という発言との齟齬、整合性は問われなければならないと思いました。

2)作品改作例

「四方清明」一二首の中)

・言ひ得ざりし歌ひえざりし言葉いま高く叫ばむ撃ちてしやまむ  八二頁

『文芸』一九四三年三月

⇒言ひ得ざりし歌ひえざりし言葉いま高く叫ばむ清(さや)明(け)く呼ばむ『全歌集』

この「撃ちてしやまむ」は、1943年3月10日が陸軍記念日で、それに合わせて陸軍省から発表された標語でした。当時、多くの雑誌の表紙に刷り込まれ、さまざまな特集が組まれました。その標語を外して、書き換えることにより、かなり、ソフトなものになっています。
(「天つ御業」八首の中)

・國こぞり戦ひとほす意気かたし今撃たずして何日(いつ)の日にまた 八九頁

『新日本頌』一九四二年一一月 『大東亜戦争歌集・愛国篇』一九四三年二月

⇒國こぞり戦ひとほす意気かたし今起たずして何日の日にまた 『全歌集』「天雲」

「撃たずして」という攻撃的な言葉から、「起たずして」にあらため、抑制した表現になっています。

・亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が死も又今日の日のため 八九頁

(すぐる二・二六事件の友に)

『新日本頌』一九四二年一一月 『大東亜戦争歌集・愛国篇』一九四三年二月

→亡き友よ今ぞ見ませと申すらく君が憂ひしとき至りたり 『全歌集』

2・26事件で、反乱軍と烙印を押され、銃殺刑に処せられた友に捧げる歌ですが、この太平洋戦争を勝ち抜こうという今日のためになしたことだった・・・ということになり、改作後の「憂ひしとき至りたり」では、この現状を憂慮することに立ち至ったということになり、反対の意味にも解されるのではないかと思われます。

(「シンガポール陥ちぬ」一一首の中)

・百二十餘年の悪をきよむると燃えし炎か夜も日も止まず

『文芸春秋』 一九四二年五月

→百二十餘年の無道をきよむると燃えし炎か夜も日も止まず 九八頁

→百二十餘年東洋を蔑(なみ)したる道きよむると燃えし炎か 『全歌集』

 初出の「悪」⇒ 初版の「無道」⇒ 全歌集の「東洋を蔑したる道」の改作はいずれも、「百二十余年」にわたるイギリスの植民地から、日本軍が解放するという大義名分を強調したものです。全歌集収録時に「東洋を蔑したる道」と改めたことによって、改作前の断定から、やや説明調にして、抑制したように思えます。

 

3)小題変更

「天つ御業」→「天雲」

「真珠湾特殊潜航艇の軍神」→「真珠湾特殊潜航艇」

4)有力雑誌への多重寄稿

削除作品⑥、⑦、⑬、⑯に見られるのはごく一部の一例で、収録作品の中にも多数見られます。通常は、「転載」など付記して、同じ作品を掲載することはあるけれども、題を変えてそっくり二重寄稿したり、作品を組み替えたり、同じ作品を散在させて寄稿するような操作もしています。

忙しくて原稿が間に合わなくて、多重寄稿になったのか、あるいは読者が違うから、あるいは、自分としては大事な作品だったから・・・という理由だったのか。出版社との関係でも、読者に対しても、誠実とは言えない態度だと思っています。

 5)「未刊歌集」という方法

なお、『朱天』以降、戦時末期から戦後にかけての作品(1943年5月~1947年10月)は基本的には歌集としてまとめられておらず、空白の時期でした。敗戦後、占領下の『やまぐに』((初版150首から145首、1947年7月)という歌文集が刊行されましたが、依然として『朱天』以降敗戦までの作品が読めるようになるのは、未刊歌集「杳かなる湖」(『短歌研究』1959年10月発表100首から88首)という形で公表されたときでした。敗戦後14年後のことです。『全歌集』収録の際、2冊にも若干の削除・入換えがありました。しかし、とくに、太平洋戦争末期の公表作品が歌集や『全歌集』に収録されることはありませんでした。 

3.これらの事実は、何を意味するのか

 改作の例は、削除の意図を探る意味でも有効なのではないか。すなわち、大げさな表現の抑制、露骨な敵愾心の後退、ソフトな印象に換えるなどしていることから、削除にもそうした指向があったのではないか、推測できるのではないか、と思うわけです。では、ほかの歌人たちにも、削除や改作はあったのだろうか。戦時下の作品を、自らどう評価するか、どう処理するか。占領期のGHQ検閲時期の出版における対応とも関連して、各歌人の対応は実に様々でありました。ほんの一部ながら、実例を挙げてみたいと思います。

a)窪田空穂(18771967『明闇(あけぐれ)』(1941~43年作品、1945年2月)の場合:当時の歌集には収めた作品が、今から思えば、大本営発表に踊らされた、つまらない作品だからなど、一応の理由を「あとがき」などに記述して、『全歌集』(1981年)からは削除しています。

b)阿部静枝(18991974『霜の道』(女人短歌会 1950年9月、第一歌集『秋草』(ポトナム社)以降 1926年10月以降1950年)の場合:戦時下の作品は焼失、手元にない・・・、未婚の母の時代の作品などをふくめて、歌集全体をフィクションと称して、歌集を構成・編集しています。

・ひそかに生み落し他人にまかす子の貧しき眉目あげて笑へる(『霜の道』)

・里親よりさいそくきびしき金が欲し雨にいそぐ男をはりてとらふる(同上)

c)斎藤茂吉(18821953『霜』(1941・42年作品863首、岩波書店 1951年12月)の場合:「後記」で「大きな戦争中にあっても、幾首づつか歌を作った。その一部は今回捨てたが、それでも残りはこれくらゐである」

『小園』(1943・44年作品、782首 岩波書店 1949年4月)の場合:「後記」で「昭和十八年、昭和十九年の作から平和なものを選び・・・」

 出版年の1951年、1949年に着目しますと、GHQの検閲下(1945年9月19日プレスコード~1948年7月15日~事前検閲、~1949年10月事後検閲終了)あった時代で軍国主義の歌は検閲対象であったので、その配慮が十分あったかと思います。『斎藤茂吉全集』(新版全36巻、岩波書店 1973~75。1~4巻歌集収録、4巻「歌集拾遺」として収録されている

『萬軍』(1945年7月221首を茂吉自身が選定、八雲書店<決戦歌集>として刊行予定)の場合:秋葉四郎『幻の歌集『萬軍』』(2012年8月岩波書店刊)において編者は、謄写刷りの私家版があるが発行年・出版元不明の『萬軍』と1988年12月紅書房刊の二冊の『萬軍』は、いわば信頼関係を崩す出版と断定、本来の原稿は八雲から取り戻して、佐藤佐太郎に預けた原稿こそが原本で、それを出版するに及んだと記す。
・肇国(はつくに)しらす天皇(すめらみこと)のみ言(こと)はや「撃ちてしやまむ」のみ言はや

d)宮柊二(1912~1986)『山西省』(1940年1月~1943年8月?作、古径社 1949年4月)の場合:1946年7月中央出版社版がGHQの検閲を受けていて公刊されなかった。検閲末期に公刊した。
・ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す
(『日本文芸』1942年7月)

 これに収録されていない時局詠31首は、未刊歌集「芻(すう)駅の歌」として、1956年12月東京創元社『定本宮柊二全歌集』に収録。岩波版(1989年11月~『宮柊二集(全10巻)』別巻(1991年2月)には「著作年表」を付して時系列で収録。

・旺んなる士気を振ひて大君の工場護らむ時ちかづきぬ(『多磨』1945年1月)

結び
 歌人たちの、個別の歌集の出版、編集の際に行われる取捨・改作については、いつの時代でも、だれもが行っている作業ではあります。しかし、次のような場合、歌人自身や編纂者は、どのように対応すべきなのだろうか。

・一度公表した作品で、歌集に収めた作品を、全歌集や全集編集の際に改作したり、削除したりする

・一度公表した作品で、ある時期の作品を全く歌集に収めなかったり、全歌集に収めなかったりする

いずれの場合も、「ことわり」を入れるか、入れないかは、歌人や編纂者の資質にかかわると思います。

⇒①削除や改作の事実と理由を明記する

⇒②その事実を公表しない、言及しない

⇒③その事実に反して隠さないと公言する

 作者自身や編纂者として、どのスタンスであるのかを明確にしておくことが望ましく、他者の作品を読むときは、作者が上記のどの立場なのかを見極め、自分としてはどこまで受容するのかも明確にしておくことが必要かと思います。いずれにしても、自分に不都合な事実には触れずに、都合の良い事実だけを強調・喧伝することによる情報操作にも留意することが必要と考えました。

*******************************

 なお、中西さんからは、多重投稿の例は、葛原妙子など他の歌人にもみられることであること、いくつかの図書館の雑誌所蔵情報なども教示いただきました。また、斎藤史の基本的なスタンスとして、「時代に迎合した」というより、思想的には変わってないとみるか、確たる思想がなかったとみるかであって、前者に近いのではという意見も伺いました。私も、史の思想形成から見ると、前者と考えるべき一端は、史の天皇観にも表れていることに、拙著でも言及していましたので、共感したのでした。

なお当日の配布資料は、次の通りです。

1 .拙著『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』チラシ(目次付き)

2.新聞切り抜き

・大波小波「『斎藤史全歌集』への疑問」(『東京新聞』1998115日)

・中西亮太:歌をよむ「斎藤史の真意はどこに」(『朝日新聞』2010816日)
・大波小波「「濁流」に建つ言葉」(『東京新聞』 2017612日)

・吉川宏志:『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』書評「言葉によって自己の人生を染め替えようとする意識」(『図書新聞』201946日)

・寺島博子:『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』書評「揺るぎない視座」(『現代短歌新聞』201955日)

3 .拙著の資料「斎藤史著作年表」の一部(19431946年)

4.報告要旨  

 

 

 

 

 

 

 

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2019年5月17日 (金)

ぶどうの郷の「藤切り祭」とワインの旅(番外編)松本清張展へ

 甲州の旅の三日目は、夫の急な所用で、宿を朝5時半に発つことになった。タクシーは6時からということで、宿のご主人の車でぶどうの郷勝沼駅まで送っていただいた。民宿をとり仕切っているのは奥さんで、ご主人は勤めに出ていて、週末は手伝っています、とのことだった。朝日を浴びたぶどう畑と、遠く南アルプスを望む風景を満喫しながら、5時57分発高尾行きの一番電車を待った。

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時計が6時45分を指している。それでも3人ほどが乗車した。東京に近づくほど、通勤らしき人が増えてくる。

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南アルプスの朝あけ。山の名前がわかるといいのだけれど

 八王子から新横浜に出て、夫は大阪へ、私は、5月12日までというから、よいチャンスと神奈川近代文学館での「松本清張展」に寄ってみることにした。文学館は数年前の「斎藤茂吉展」以来かもしれない。菊名までの東急も、みなとみらい線もちょうど通勤ラッシュの時間帯だった。終点の元町・中華街下車、文学館の開館は9時半なので、アメリカ山公園側の出口から,公園を抜けて、外国人墓地を右に見て、ゆるい坂を上るが、おそらくインターナショナルスクールの生徒たちなのだろう、おしゃべりしながらの楽しそうな登校風景だ。外国人墓地の正面入り口の前を左に曲がるころ、生徒たちは、あわただしく走り出して、学校に駆け込むようだった。9時始まりなのだろう。港の見える公園の展望台を素通りして、イギリス庭園に入り、さまざまなバラと香りにつつまれながら、バラのトンネルをくぐったり、しばしベンチでひと休みしたりしていると、手入れをされている人に、熱心に種類や育て方を尋ねる人もちらほら、辺りは、どっと人が増えてきた。すでにローズ・フェア開催中で、明日からの週末は、マルシェも開かれるという。新幹線車中の夫から、「神奈川新聞」の投書欄に「清張展」の感想が出ていると、画像が送られてきた。2.26事件の貴重な資料が、今回展示されているというものだった。

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港の見える丘公園展望台、横浜のセレブ犬?たち。

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公園から大佛次郎記念館を望む。

 霧笛橋を渡ると、人影もまばらで、文学館の開くのを待つ人は、数人だった。その後の入館者も少なく、東京の美術展などの賑わいとは、こんなにも違うのかな、の思いしきり。私が、清張の熱心な読者だったのは1960年代だろうか。実家の薬局で週刊誌のスタンドを置いていたころと重なる。曜日を違えて届いた週刊誌を、売れない内によごさないように(?!)、20種類以上を読み漁っていたころである。清張の活躍は目覚ましかった。単行本になった推理小説や連載ものも楽しみだったが、やがて、関心は、伝記小説や評伝類、「日本の黒い霧」や「昭和史発掘」へと移っていった。当時の私は、松本清張の推論にだいぶ影響されていたかもしれない。もう一度読みなしてみたいと思う。会場で、気ままにメモを取っていると、和服の同じ年配の女性に「熱心なのですね」と声をかけられた。彼女も入館一番乗りの一人だった。

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長洲一二知事の時代にオープンしたとの碑があった

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チラシの裏面と入場券。

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中央の写真、松川事件全被告に無罪判決が出た仙台高裁前、左から中野重治、松本清張、水上勉、広津和郎。


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今回の展示の二・二六事件関係資料は、主として防衛省防衛研究所戦史研究センター所蔵のもので、初めて見るものが多かった。上段の日章旗には、安藤
輝三が投降前に自決を図った折の血痕が見える。下段右は同じく安藤が処刑前日の1936年7月11日に書いたもので「金剛不壊身」の横には「ダンジテシセズ 死スニ能ハズ」とある。左は、磯部浅一が書いた処刑前日の1937年8月18日の書で、「捕縛投獄死刑嗚呼吾カ肉体ハ極度ニ従順ナリキ然レトモ魂ハ永遠ニ抗シ・・・」とある。ほかにも、香田清貞の両親あての遺書、栗原安秀の看守あての書、村中孝次の書もあり、次の二人の辞世もあった。

・身とともに名もけなして大君につくす誠は神や知るらん(丹生誠忠)1936年7月9日
・君が代の繁く栄えん時にまで吾が魂はなどか消ゆらん(中橋基明)1936年7月8日

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この地図は大佛次郎記念館でもらったもので、近辺の西洋館の案内だった。元町に出る道を幾通りか教えていただき、初めて歩く道となった。

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山手資料館前の外国人墓地と元町公園の間の、なかなか風情のあるこの道を下ろうかと迷いもした。

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そのまま少し進むと、左手に山手聖公会、山手234番館が続き、すぐ右手にはエリスマン邸、べーリック・ホール邸があった。いずれも貿易商だった人たちの住まいであった。この日は絵画教室の写生会でもあったのだろう、点在する西洋館のあちこちで、写生に余念のない人たちに出会った。この写真の奥がエリスマン邸である。向かいには、横浜雙葉学園の校門が見えた。さらに進んで、最初に出会った坂、代官坂を下り始めると、かなり長い長い坂だと気づく。おしゃれなカフェを何軒か通り過ぎた。

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 ようやく元町の商店街に出る。ちょっと覗いてみたいお店もあったのだが、何のことはない、ポンパドールのパン屋さんで、少しばかり買っただけだった。このパン屋さんは、確か、前に来たときは、メインストリートではなく、坂を少し入ったところにあったような気がしたのだが。それに、何軒かある、かばん屋さんの「キタムラ」の騒動はどう落着したのかな、など気にしながら石川町へ進む。元町商店街の、片側を歩いた範囲内ながら、空き店舗の3軒に、テナント募集の看板が掛けられていた。「全国津々浦々、国民の皆さんに、景気回復を実感していただけるように・・・」なんて繰り返している首相だが、元町でもこんな具合だから、不正統計がなせる景気回復だったのではないか。

 3時半過ぎには帰宅。この日の万歩計は10464歩。

 

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2019年5月13日 (月)

ぶどうの郷の「藤切り祭」とワインの旅(2)

ぶどう畑の道をひたすら歩く

 翌日の朝は、雲も広がり、やや冷え込み、薄いセーターが手離せなかった。宿のすぐ隣にある萬福寺に立ち寄ってみた。山門をくぐると、すぐ左手の巨樹の太さに圧倒される。「山梨の巨樹・名木百選」の札があり、ムクノキということだ。お寺のホームページによれば、境内5000坪、創建604年推古の時代。右手には、大きな石があり、その横には「馬蹄石」と刻まれている。聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って、天から降り立った?際の馬蹄の跡があるという。時代は下って、1228年には、親鸞が、聖徳太子を偲んでこの寺を訪ね、食事の後、用済みの杉の箸を庭に挿すと、立派な杉の木に育った!ところから「杉の坊」とも呼ばれているという。本堂の手前、右手には芭蕉の句碑があった。

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萬福寺の山門からムクノキと本堂と六角堂を見る

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萬福寺、写真の奥から、山門、馬蹄石、句碑であり、左奥には鐘楼が見え、句碑には「行駒の友を慰む やどりかな 芭蕉」とある。

 今日の最初の目的地は、日本のワイン製造発祥の地「宮光園」である。宿の奥さんから、大通りを歩くよりは、日川沿いの道を歩いてみては、ということで、描いてくださった地図を持っていたのだが、最初の交差点で間違ったらしく、ブドウ園は続くが、なかなか橋には出会わない。白百合酒造というおしゃれな店があったので、尋ねてみると、やはり、交差点までもどるように言われる。二人で一人前にもならない方向感覚である。途中、「宮光園⇒」の小さな札があったので、立ち止まって思案していると、車を止めて「どこへゆくの?」と聞かれる。ともかく道なりに進んで、橋につきあたるから、あとは川沿いに行けばよい、ということであった。進む道は、ぶどう畑の間を縫う道で、畑では、作業中の人たちをよく見かけた。ようやく日川に沿って歩き始めた。ぶどう畑には、石の道のようなものが残っていますよ、気を付けてみてください、と出がけに奥さんから言われていたが、なるほどと思う、その石積みの道に何度も出会った。いまは水が少ないが、この川沿いは、よく洪水に見舞われたといい、人々は、少しでもその被害を食い止めるために、川とは直角に石を積み上げたような道を何本も設置して、水流を弱めたという。その遺構が、ぶどう畑に残っているというわけだ。

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続くぶどう畑で、見かけた石積み、いまでは、農作業に邪魔なような・・・。

 やがて見えてきたのは「ぶどう橋」、左手には、つつじの植え込みで囲まれた赤い建物の盛田甲州ワイナリー、その向かいはシャトレーゼのワイナリーのはずである。宮光園は右手の坂をのぼるとすぐに見えてきて、その向かいには、メルシャンの工場が広がっていた。

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 まず目に入ったのが、背の高い「天覧葡萄宮光園」の碑であった。そして立派な門をくぐると、正面には細長い二階は洋風、一階は和風の建物があるのだが、門のすぐ右手には「写真館跡」という8畳ほどか、土台が残っている。進めば若槻礼次郎首相訪問記念碑、富士山の姿に似ている巨岩が目についた。係の人に「お時間ありますか」と尋ねられ、見せてもらったのが、大正から昭和にかけて1922年~1927年に撮影された「宮光園」の13分ほどのフィルムだった。宮光園創業者の宮崎光太郎(1863~1947)は進取の気性に富んだ人だったらしく、1877年創業後、養蚕農家を買い取っての母屋をはじめ、事業においても、フランスに研修に行った二人の技術者とともに、日本人の口にあったワインを模索、営業・広報・宣伝についても、アイデアマンだったらしい。さまざまな資料や製造過程をフィルムに残していて、その一端が、最初に見た修復されたフィルムで、敷地内に写真館まであったことにも表れているのではないか。

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正面にはワインの貯蔵庫

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「白蔵」と呼ばれる白ワイン貯蔵庫。

 甘口の「赤玉ポートワイン」全盛の時代、甲斐産ワイン、葡萄ジュースの普及のため、皇族たちとも交流を深め、「宮内庁御用達」のブランドや招待を続けたらしい。1922年昭和天皇の皇太子時代の訪問に続き、若槻首相、伏見宮、義宮、照宮、久仁宮など続々と来園している。太平洋戦争中は、ワイン製造過程でできる酒石酸をソナー(音波探信機)に使用するとして軍に収め、ワインを、侐兵品として、軍に寄贈していた。

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昭和天皇は、1947年10月15日に宮光園に立ち寄っている。戦後の行幸は、すでに、1946年2月に始まり、1954年8月まで続く。あたらしい憲法は、47年5月3日に施行されたばかりで、GHQによる種々の改革が進む一方、天皇の地位自体が不安定な時期でもあった。1946年5月に始まった東京裁判のキーナン首席検事「天皇訴追せず」の表明はあったものの、天皇の戦争責任論や退位論もメデイアを賑わせており、宮内庁としては、天皇と国民との関係強化、天皇制支持を確固としたものにへの政策の一環で、戦災者・引揚者などへの慰問が主目的として行幸を実施した。GHQは、民心の安定や産業復興への激励を意図していた。山梨県の記録によれば、47年10月の行幸目的は「県内事情の御視察、御慰問、御激励」となっていたが、宮光園の滞在予定時間は11分と記されている(山梨日日新聞1947年10月14日)。

 戦後、ウィスキーも手掛け、大黒葡萄酒はオーシャンと名を変え、1961年、メルシャンブランドを傘下に入れたが、合成酒で有名な三楽酒造の傘下となった。さらに、1990年、社名をメルシャンに変更したが、2006年には、キリンビールとの業務提携を経て、現在はキリンビールの完全な子会社になっている。創業者宮崎家の手から離れて久しく、.現在のように、かつての宮光園の建物を修復し、資料も一部整理され、展示室として整えられたのは、甲州市の近代産業遺産となってからで、現在のように公開されたのは2011年だった。遺されたフィルムや写真など未整理のものもかなりあるらしい。

  奥まった庭園にはいくつかの石碑があったが、着目したのは「貞明皇太后御歌碑」であった。1948年9月14日来園した折に読んだ二首であった。皇太后は、翌年の5月12日にも、県内の織物工場を訪ねた時に立ち寄っている。

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「貞明皇太后御歌碑」、万葉仮名で読みにくいのだが、案内板には、次の二首が記されていた。
・昔わが住みにける里の垣根には菊や咲くらむ栗やえむらむ
・もの心知らぬほとより育てつる人の恵みは忘れさりけり

 つぎは、ふたたび、車で「ぶどうの丘」へ向かう。早めのランチということで展望レストランへ。シーズンオフとは言え、お客は私たちだけ。斜面に広がるぶどう畑やビニールハウス、近景の山なみ、遠景の山なみのかなたには、雪をかぶる南アルプスがかすんで見える。次に向かうワイナリーの「錦城ワイン」はどこかとスタッフに聞けば、「見えるでしょう、あの道のビニールハウスが並んでいる右手の建物、「ぶどうの丘」の入り口を出て下り、右に行けばすぐですよ」とのこと。ゆっくりと食事を済ませて、教えられたとおりに、丘を下り始める。

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  向かう「錦城ワイン」は、昨年、NHKの「小さな旅」で紹介されていた小規模のワイン醸造所で、ご近所のぶどう園農家と連携して、手堅く醸造を進めている会社ということであった。直ぐのはずの錦城ワイン、斜面のぶどう畑の間の狭い道をくねくねと下り、どこまで続くか、なかなか平地につかない。途中で、作業中の人に聞けば、ここが近道かもしれないと、さらに細い道を教えてくれる。ようやく広い道に出ても歩くこと、歩くこと、まず歩いている人とは出会わない。30分近く歩いて、店の前で車から降りる人に聞いてみると、すぐ先だよ、ということだったが、広い長いぶどう畑を過ぎると、ようやく見えてきた看板にホッとする。

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ぶどうの丘を見上げる。見降ろした時は、そう遠くはないはずだったのに・・・。

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夫は、試飲の後、店頭限定の蔵出しの白の「東雲」、赤の「小佐手」を選んだ。命名は、近くの地名によるものらしい。自家用と親戚と知人の二方にも送る手続きをして、車を呼ぶ。

 そして、気になっていたもう一つの場所、大日影トンネル跡へも立ち寄ってもらった。中央本線、八王子から甲府間が開通したのは、1903年。県境の小仏峠、笹子峠のトンネルに続き、深沢トンネル、深沢川を渡る鉄橋、大日影トンネルを経て、甲府に向かうことになる。いまの中央本線は、複線化にともない、深沢・大日影トンネルとも北側に移動した。1997年、廃線となったは、2005年、旧深沢トンネルはワインの貯蔵庫として、旧大日影トンネルは遊歩道としてよみがえった(『大日影トンネル遊歩道』甲州市観光交流課編刊)。遊歩道は、現在、水漏れなどがあって閉鎖が続いているのだ。遊歩道は、2007年、国交省のまちづくり交付金事業により整備されたというが、なんでも、甲州市は、水漏れ修理などに積極的でないとも聞いた。

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全長1367.8m、歩いてみたい。

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鉄橋から見下ろす深沢川河川隧道、この鉄橋が大日影トンネルと深沢トンネルを結んでいる。

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深沢トンネルの再利用にあたっての由来、左は「近代化産業遺産 平成19年度経済産業省」とあり、右は「土木学会推奨土木遺産」、上には「近代産業遺産活用事業勝沼トンネルワインカーヴ」とあり、施工は、合併前の勝沼市長だが、山梨県の地産地消支援事業であり、観光振興施設整備事業であったらしい。ややこしい。

 小学校5年の時の遠足が昇仙峡だったと思う。もちろん旧中央本線だったから、この線路を走っていたにちがいない。数年前、小学校のクラス会で、その話になった。何度も何度もトンネルに入るものだから、その都度、みんなで声を上げていたのだろう。担任のO先生は「あなたがね、この鉄道には、いったいいくつのトンネルがあるの、聞いてきてね、戸惑ったことがあったんだ」との話をされた。山梨県出身の先生は、「まだ、若かったっからね、遠足は昇仙峡がいい、としきりに勧めて決まってね」とも話されていた。トンネルの数を尋ねたなど記憶にはなかったが、先生が覚えていらしたとは。

 この日の万歩計、11116歩。明日の午前中、夫は、急遽、所用のため大阪に向かう。10時半には新大阪に着かねばということで、明朝は、5時半には宿を出なければならなくなった。私は、新横浜で別れることになっている。

 

 

 

 

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