2026年5月30日 (土)

木原実歌集『笑う海』再読、天皇制を考える

 「皇族数確保」の二案について、当ブログ記事でも何度か触れているように、多数決で行けば、今国会で可決成立、「立法府の総意」として、皇室典範は改正される運びである。しかし、議員たちは、皇室典範改正の運用の先を本気で考えたことがあるのだろうか。そして、リベラルと称する人たちが、「愛子天皇」への期待や容認にざわついているが、天皇制という身分制度を持続するかぎり、皇族たちの人権、とくに女性皇族の基本的人権、結婚の自由を侵害し続けることをどう考えているのだろうか。また、全国紙などのメディアは、この皇室典範改正には熟議が必要、改正後の課題などを示し始めながら、一方で、『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』(伏見博明著 中央公論新社 2022年1月)、『女性皇族の四季(アエラ・ムック)』(朝日新聞出版 2026年3月)『神国日本』(毎日ワンズ 2026年1月、1976年平凡社版復刻、第一書房版は1927年以降幾度も版を改めている)など、時流に乗った自社系列?の出版の宣伝が目立つ。今週の週刊誌は、二案の矛盾をついているかのようであるが、「愛子天皇待望論」の変形だろうか。

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  木原実さん(1916~2010)の歌集には、存分に天皇を詠んだ短歌があったはずである。ひさしぶりに木原実歌集『笑う海』(潮汐社 1994年12月)を読みだしたら、止まらなくなってしまった。

 木原実(以下敬称略)は、今の木原某官房長官とは同姓ながら(実と稔ちがい)、1967年から1980年まで、社会党の衆議院議員を五期務め、詩人でもあり、歌人でもあった政治家である。戦前には労働運動にかかわり、1935年に治安維持法違反で逮捕、1942年に応召、ソ満国境で敗戦を迎えている。

 上記の歌集には、ベルリンの壁崩壊、ソ連邦解体前後のドイツやソ連を主題にした臨場感あふれる作品が多く、昭和天皇死去前後の日本の思想状況をも活写している。そして何より、戦前からの組合、農民運動の再興を目指して社会党議員として活動してきた実績と天皇制反対の意思は固い。

天皇制

襟もとふかく天皇をみた二十歳の未決監房赤い煉瓦みち

地獄が天皇を待つと書いたザ・サンの記事読みつづける雨のなか

象徴不信の声もなく早鐘を打つように戦後が終わる

高速道路に車の影はなく 堵列する亡霊二百十八万八千二百五名の雨しぶく

 『笑う海』に収録の「短歌のある風景」において、一首目について「私は十九歳から二十歳にかけての一年を未決の独房ですごした。当局は二十歳の私の『思想が悪い』と言いたてたが、その思想を「納得するまで勉強してやろうと、二十歳のプライドが考えたりした。それまで思うてもみなかった天皇について、あれこれ考えたのもその獄だった」と記している。

ベルリンの壁崩壊前後のドイツ

ヒットラー消えて五十年 幻影のなかの塔つぎつぎにたつ

石畳に沿って花を植えるヒットラーの支持者にこやかに老いている

 ・ソ連邦解体

すりへった赤の広場の石畳ふみかためふみかためロシア人の血の色

モスクワは五月ライラックの花陰に割れ鐘と青銅の大砲と

マルクス・E・レーニン主義研究所木漏れ日の堅い窓を閉ざす

薄明をきてロシア知識階級ユートピアの旅は終わったようだ

 著者は向坂逸郎を師と仰いでいたのだが、自身の活動基盤からして、知識階級への不信感は強く、「大きく細く民主という文字にじんで歩いてくる 学園都市の雨」といった作品もある。

 ・社会党の変遷

行ったりきたり 境涯のなか 組織の暗闘 声もたてず 

政治はむなしいなあといって死んだ人の忘れていた命日がくる

なんどか終わりをみてきた汽車の旅 東京に連立政権が生まれる冷夏

野合ではないよといって転がった線香花火の火の玉を拾いにゆく

鮮明な旗をあげよ 暗緑色の闇にゆれている夏コスモス

 1980年6月の衆参同日選挙で、自民党大勝、著者は、千葉県1区次点で落選している。全体では、衆院で自民284、社会104、公明33、民社32、共産29議席。参院で自民69、社会22、公明12、共産7、民社5議席という時代であった。1981年脳溢血に倒れ、一時言葉を失い「行ったりきたり 境涯のなか 組織の暗闘 声もたてず」と自らの身体の組織の働きを詠み、「言葉を惜しめこの饒舌の世に石は一つずつ空にむいてたつ」と詠む。
  議員引退後の社会党は、1986年土井たか子委員長就任、1989年の参院大勝、1994年自民党、さきがけとの連立内閣により村山富市首相が誕生しているが、「自衛隊合憲、安保条約堅持、原発容認」と社会党の政策を大転換させた。こうした社会党の動向をも反映し、その変貌を慷慨している作品も多い。戦前の社会大衆党から戦後、今日の社民党に至るまでの社会党の歴史については、正直、私などには複雑すぎてわかりにくかったが、著者が今の社民党の凋落ぶりを知ったら、何と言って嘆くだろうか。

・コンピューター・ロボット

コンピューターウイルス井戸を覗き手もとの闇を駆けぬけてゆく

ロボットをつくりだすロボット工場二十四時間操業休みなし

人脳よりすぐれた状況判断をするロボットができたと業務報告

 現在は、AIやロボットは、すでに市民生活にとってもなじみ深いものになっている。いずれも、1990年代初めの作品だが、現代でも十分訴える力を宿し、一首目など一種の不気味さを感じさせるものがある。

・短歌

傘を忘れた 軽薄短小の歌のおかげで 電車はずっとすいていたんだ

どれいの韻律ぜいぜいと漂うあたり 葱華輦かつぐ衛士らのよろめき

敗残の歌を詠みついで八月の雨に会う おう! 敗残兵塚本

 一首目は「Ⅰ部1988年―1990年」に収められている作品。1987年は、俵万智『サラダ記念日』がベストセラーになり、「ニューウェーブ」短歌が台頭してきた年でもある。二首目は、1989年2月24日、昭和天皇大喪の礼の異様な光景と敗戦直後、小野十三郎が短歌を「奴隷の韻律」と称した「短歌的抒情」が喘いでいる様をリンクすることで、天皇制への批判を強めたかったのではなかったか。三首目については、歌集に収録した前掲のエッセイで「悔いの思いが深い。生きのこったものの負い目は年とともに鮮烈でさえある。」と語っている。その文末に「われを撃て麦秋のその麦の間を兵士のわれが泳げるを撃て」の塚本の一首をあげている。生き残った負い目を詠んでも、木原、塚本とは、最近亡くなった岡野弘彦とは、詠み方も歩んだ道もずいぶんと異なるものとなったことがわかる。

 以下の作品において詠まれた状況は、現代においても変わってはいない。むしろ状況は劣化しているのではないか。

世界一周の鼠をつくづくとみた 円ははげしく買われ 戦火はやまず

国際貢献という政治造語に血を流す 現代風な夕焼け雲

活性化とはイヤな言葉だ 夏の正午のそうめんすする音とか

新書版「過労死」おくられてきて労働組合は無役という時代

 最近の高市首相が頻発する言葉、「安全保障政策の司令塔」、「包括的戦略的パートナー」など、よく考えると、基本的人権、国民の安全・安心より優先するものがあるかのような勢いである。目前の不都合は「目詰まり」だったり、「歯止め」が効かなかったりという、無責任な言葉が行き交うのである。

 最後に

きりきざんだ夢と知りながら野を走るものに惹かれる

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以下は、かつての『笑う海』の書評、重なる部分も多いが合わせてお読みくだされば幸いです。

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『芸術と自由』(1995年7月)初出。『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)所収。

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2026年5月27日 (水)

アンドリュース・ワイエス展、行ってきました。

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チラシの作品は「クリステイーナ・オルソン」(1947、マイロン・クニン・コレクション)。幾何学的にも思われる陰、黒いワンピースのクリステイーナの前面が浮き立つように見えた。

  上野の都美術館で開催中の「ワイエス展」に行ってきた。開館時刻に間に合うように家を出たが、上野駅公園口で下車すると、あちこちに修学旅行生が群れをなしていた。シーズンなんだなと。それに美術館手前の広場では、大陶器市の旗が林立するテントの下は大賑わいであった。

  都美術館は、都民でなくとも、シニア料金ということで、2300円のところ1600円。なんでも値上がりの昨今、2千円でおつりがくると用意していると、やはりシニアの女性の方が「もしよかったら、これをどうぞ、ムダになってしまうので」とチケットを差し出された。驚いたが「いいんですか、ありがとうございます」と利用させていただくことにした。その方はご夫婦でロッカーに荷物を預けていらしたのを見かけたので、もう一度お礼の言葉を掛けた。約束した友人の都合でもわるくなったのかな。得をしたというより、ちょっぴり幸せな気分であった。

 作品一覧をみると、前の記事でも触れた「丸沼芸術の森」所蔵の「オルソン・ハウス」一連の作品も多い。そのカタログでしか見ていない「オルソン・ハウス」の作品は、習作も多いが、現物にお目にかかれるのはうれしい。オルソン・ハウスの模型も作られていて、この窓の絵は、ここの窓、このドアからの眺めがはこちらの絵という図解まであった。窓からの光、その光が織りなす翳と風を描き切ったかのような作品には不思議な魅力があった。

 1974年のワイエス展の個々の作品の記憶はすでに薄れているが、当時のカタログを見ていて好きだった作品にも出会うことができた。

 今回の展示で、私には初めての作品も多かった。『冬の野』(1942年 ホイットニー美術館)、「ハリケーンの海」(1944、ボストン美術館)、横長の「粉ひき場」(1962、フィラデルフィア美術館)、猫が可愛い「うたた寝」(1963、ファーンズワース美術館)など、個人蔵のものを近年、寄贈されたという記述が目立つ。

 また、1974年のカタログではモノクロだった作品を鑑賞できた喜びは大きい。たとえば、以下の「洗濯物」「ゼラニウム」であった。撮影可の二階にあった「ゼラニウム」は人気らしく、若い人たちも入れ替わりでスマホに収めていた。

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「ゼラニウム」(1960年、ファーンズワース美術館)。窓を通して見える向こうの窓との間には、クリスティーナと思われる後姿とゼラニウムの鮮明な赤が描かれ、窓をめぐる板塀の質量感にも圧倒される。

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「洗濯物」(1961年 カマ―美術館)。日差しを浴びて海からの風にはためく洗濯物の下では、かごの横で気持ちよさそうに寝そべっている犬がいるではないか。

 なお、今回の展示には「丸沼芸術の森」、福島県立美術館所蔵のほかにも、国内の企業や愛知美術館、メナード美術館の作品もあったのだが、「ユニマットグループ」所蔵のものがかなり多かったのである。「ユニマットグループ」って?知らなかった!調べてみると、1968年、個人商店からスタートして、不動産、リゾート・オフィス、メンテナンス、インテリアから飲食、美容・健康、保育・教育事業など手広く展開する企業と知った。その内、メセナの一環で美術館でも建てるのかしらとも。

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「松ぼっくり男爵」(1976年、福島県立美術館)。松ぼっくりは、さかさになった鉄カブトに集められている。この鉄カブトは、ワイエスの隣人カーナー牧場の主が、第一次大戦に出征した折に使用していたものだという。

 最後の展示室を出たところでは、ワイエスの技法を解説した映像が流されていた。描く対象の色合いや材質感を作り出すための、気が遠くなるほどの積み重ねがなされれているのを知った。

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「薄氷」(1969年、三井住友銀行)を例にテンペラの画法を解説していた。

 なお、今回の展示では、オルソン・ハウスに住む姉弟の姉クリスティーナを描いた作品は少なかったし、晩年、その作品群が明らかになった「ヘルガ」一連の作品はなかった。ワイエス全体像を見るにはやや不足感を否めなかった。

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 以下の当ブログ記事も参照いただければ幸いです。
アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(1)ワイエス(2026年4月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2026/04/post-1885f0.html

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(2)ワイエス(2026年5月 6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2026/05/post-4532ad.html

 

 

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2026年5月20日 (水)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(4)ベン・シャーン

 ベン・シャーン(1898~1969)についても、すでに何回か当ブログでも書いている。彼は、リトアニア出身で、幼少期にロシア皇帝の独裁下から逃れ、一家で移民としてアメリカにたどり着き、苦労を重ねている。これまでのブログでは、私のベン・シャーンとの出会いにも触れてきた。つぎの二つの記事で、私の思いは言い尽くされているのだが、現在の、トランプ政権下のアメリカからの報道を見るにつけ、亡くなってから半世紀以上も経つというのに、この画家からのメッセージの力強さと新鮮さを思い知るのだった。彼が告発し続けた分断、差別、貧困、原爆、戦争という社会的なテーマは、現代のアメリカにおいて、そして現在の日本でも直面している問題であることがわかる。 

・葉山の「ベン・シャーン展~クロスメディア・アーティスト」へ行ってきました~はじめての神奈川近代美術館葉山館(1)2012年1月26日http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/01/1-1cf0.html

・葉山の「ベン・シャーン展~クロスメディア・アーティスト」へ行ってきました~はじめての神奈川近代美術館葉山館(2)2012年1月26日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/01/post-5478.html

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左が神奈川県立近代美術館葉山館のベン・シャーン展カタログ表紙。右は、葉山館所蔵の「麻生三郎コレクション」の版画集「リルケ「マルテの手記・一篇の詩の最初の言葉』」の絵はがき、ペンの力の強さを描いた普遍的なメッセージが伝わってくる一枚に思う。。

  上記事の葉山館での展示は、ベン・シャーンの画業のみならず、写真家としても、デザイナーとしても、ポスター、レコードジャケット、本の装丁、レタリングなど多岐にわたる。そして、これらの仕事の根底には、つねに社会的な弱者の味方として、社会の不条理にはきびしい批判や抵抗を示すという一貫した志が脈打っていることをあらためて知った。このカタログや数十年前の展覧会で購入した絵はがき、そして、古本で購入した、画家の没後、夫人の編集による“BEN SHAHN”(by Bernarda Bryson Shahn, H.N.Abrams New York 1972 ) などを眺めていると、初めて気づくことも多い。

 ベン・シャーンの絵には、「ベン・シャーン ペーパーズ」として見出された画家自らが収集していた写真や記事やメモをソースにした作品が多い。彼が初期に手掛けた「ザッコ・ヴァンゼティ」シリーズは、冤罪事件がテーマであった。1920年4月、二人の労働者は製靴工場の二人を射殺した強盗事件の容疑者として逮捕され、反政府運動に関与していたというだけで、明確な証拠がないまま死刑判決を受け、21年8月に処刑された。彼らの無実が公表されたのは1977年であったという。ベンは、1931ー32年、このシリーズを制作、33年にニューヨークで開催された個展は大きな反響を呼んでいる

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「四人の検事」(1931-32)は、パンフレット「ザッコとヴァンゼティ事件の話し」1921年掲載の4人の刑事の写真をソースに描かれた。検事たちの表情は、神妙ではあるが、まるで容疑者のように見えてしまう。上記葉山館カタログ22頁より。

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 左「ザッコとヴァンゼッティ」(1931-32)、右「ザッコとヴァンゼッティの受難」(1931-32)。二人をつなぐ手錠と棺から受ける衝撃は大きい。前掲、1972年ニューヨークで出版された画集130,131頁より

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左は2006年9月集英社から出版された詩画集の表紙は「That Friday,YAIZU」の一部。右は「落下物」(1957)ベンは、1954年3月、焼津のマグロ漁船「第五福竜丸」が、ビキニ環礁付近のアメリカの水爆実験で被ばくした事件に強い関心を寄せ、「第五福竜丸」を「ラッキー・ドラゴン」と名付け、「ラッキー・ドラゴン」シリーズとして、1957年から65年にかけて描き続けている。アメリカの原子核物理学者ラルフ・E・ラップ経由の調査や写真が参照されているという(上記、葉山館展カタログ解説)。

 ベンは、1920年代と1960年の二度日本を訪れている。前者の詳細は不明という。1960年3月から4月にかけて、京都を中心に一カ月以上滞在している。日本への関心と取材は旺盛だったといい、聞きつけた日本の画家たちとの面会もなされている(藤慶之<抄録>「ヒューマニズムの画家ベン・シャーン」上記葉山館展のカタログ)。

 私が、今回、あらためて画集を見ていて気付いたのは、以下の絵が「ワルシャワ」と名付けられていることだった。そしてこの絵のソースは下段にあるデッサンと写真であった。              

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 さらに、この構図は、どこかで見たようなと、思い出すのは、つぎのハンブルグのニコライ教会で出会ったモニュメントだった。すでに当ブログでも触れているが、ナチスに抵抗した牧師のボンヘッファーの「試練」と題する言葉が刻まれている銘板の前で、頭を抱えるモニュメントは、2004年に制作されたらしい。あくまで、推測ではあるが、ベン・シャーンの先の絵が念頭にあったのではないか思うのだった。

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なぜ、いま「ボンヘッファー」か~神を信じなくとも: 内野光子のブログ   2025年11月30日)
オランダとハンブルグへの旅は始まった(15)ハンブルグの交通路線図にようやく慣れて: 内野光子のブログ2019年8月29日)

 ベン・シャーンの「ワルシャワ」と題する絵の構図は、さまざまな絵にも登場するが、その一つが、つぎの絵だった。

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「クラリネットとティン・ホルンのコンポジション」(1951)、1970年の「ベン・シャーン展」で求めた絵はがき。

 また、つぎの本のカバーが、どういう訳か、ファイルの中に紛れ込んでいた。どうして私の手元にあるのだろうか。いま、思い出せないでいる。友人の誰かが、私のベン・シャーン推し?を知ってカバーだけ譲ってくれたのだろうか。著者のプロフィルなのだろうか。ベンは、様々な人物の肖像画も描いている。オッペンハイマー、ハマショールド、そして第五福竜丸で被ばくした久保山さんの絵も。

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 以下は、1991年新宿の伊勢丹美術館でのチケットと気に入った「スーパーマーケット」(1957)と題する絵はがきだった。199120260516

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2026年5月13日 (水)

「皇族確保案」の拙劣、「愛子天皇待望論」の陥穽

「皇族確保案」の拙劣

  「皇室典範」の「改正」をめぐって、5月12日、中道から旧宮家出身の男系男子を皇族の養子とする案も容認するという方向性が示されたところで、各党の方針が出そろった。このタイミングで朝日が5月12日、毎日がきょう5月13日の社説で論じ、5月7日には、読売新聞がすでに社説を出している。

  与野党の全体会議では、有識者会議提案の ①の女性皇族の身分保持案に主要政党の大半が賛成し、②養子案には自民、日本維新の会、国民民主、参政、公明、中道などが賛成していることになる。

  朝日新聞はつぎのような表にまとめている。(「〈立法府の総意〉集約焦点 皇族数確保策 各党見解出そろう」朝日新聞 2026年5月12日 ) 

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 上記全国紙三紙のスタンスは以下の通り。

・読売は、5月7日の社説で今国会での典範改正が成立する公算が大きいとし、4月の社説では「皇位継承の安定 女性・女系を排除せず論じよ」(4月16日)と題し、「各党は報告書の2案にとらわれてはならない。今の継承順位は変えないことを前提に、将来の女性・女系天皇も排除せず、皇統の存続を最優先に検討すべき」だとして、あの読売が「女性、女系」に踏み込んだと話題になった。

・朝日は「養子案の容認 皇室への信頼保てるか」(5月12日社説)とし、「女性・女系天皇への道を閉ざすことなく、広く国民が納得できる開かれた議論が求められる。」と結ぶ。

・毎日は、「皇室に男系男子養子案 国民の理解得られるのか」の見出しで「天皇の地位は国民の総意に基づくもので、幅広い合意形成が不可欠だ」とし、「拙速に事を進めるようなことがあってはならない。」と結ぶ。

  今国会での「典範」改正を目指す高市政権のもと、与野党協議が活発化した4月以降、メディアでの記事も多くなった。しかし、議論の対象となっている二案は「皇族数確保」のための方策で、皇位継承の在り方は協議事項にはない。しかも、「有識者」会議が出したと思えないほど、憲法を踏まえない、荒唐無稽な、欠陥の多い二案に翻弄されている形である。

 ①案の女性皇族が結婚後も皇族に残る案では、その配偶者や生まれて来る子どもは皇族になるのか、ならないのか。②案の男系男子養子案にしても、皇籍離脱して80年も経つ宮家の男系男子を辿ること自体、時代錯誤も甚だしく、憲法14条による「性別」「門地」による差別になることも指摘されてきた。だったら、メディアも日本国憲法下の「天皇制」自体の問題にかかる情報と論点を国民に伝えるべきだし、世論調査でもそれを問うべきだろう。

  そして何よりも、日本国憲法の根幹たる民主主義に反する「天皇制」を維持しているが故に、奪われている皇族たちの基本的人権、とくに今回の女性皇族の結婚の自由、該当者?旧宮家の男系男性の結婚の自由を侵害すること、女性皇族へ男子誕生を強制するシステムとなってしまうことをどう考えているのだろうか。国民と皇族の差別、身分制度を前提とする議論を続けていることに、憲法学者の天皇制論と言えば、「憲法の番外地」「憲法自身が認めた例外」と逃げ、もっぱら天皇制護持を確信する皇室に詳しい研究者は別として、研究者の多くはどこか曖昧で、核心には触れない。また、テレビなどで活躍するリベラルと称されるコメンテイターやジャーナリストたちも触れたがらない。というより、番組のテーマとしては扱わないのが常である。

「愛子天皇待望論」の陥穽

 今回の皇室典範改正は、あくまでも「皇族数確保」のための改正であって皇位継承を安定化に直接資するものではないはずである。にもかかわらず、皇室典範改正にからめて週刊誌やネット上では「愛子天皇待望論」が盛り上がっている。冒頭に上げた、全国紙の社説ですら、読売「今の継承順位は変えないことを前提に、将来の女性・女系天皇も排除せず、皇統の存続を最優先に」、朝日「女性・女系天皇への道を閉ざすことなく、広く国民が納得できる開かれた議論」と論じている。日本共産党も、4月2日の記者会見で田村智子委員長は「憲法の下での天皇制度と考えれば、女性天皇の容認を含めて議論すべきだとの考え」を改めて示した(時事ドットコム 4月2日)。小池晃書記長は、4月20日の記者会見で「女性天皇も女系天皇も容認」し、「悠仁親王までの継承をゆるがせにしないとの立場には立たない。憲法に基づく議論を進めるべきだ」と述べたという(産経新聞4月22日)。

  また、週刊誌の最新号を見ると、愛子さんネタが目白押しである。「徹底論争、〈愛子天皇〉じゃダメですか?」(週刊文春2026年5月7・14日合併号)、「20年越しの〈皇室典範〉見直しへ 〈愛子天皇〉大論争の核心」(週刊新潮 5月21日号)、「〈愛子さまか悠仁さまか〉女子皇族まで分裂に雅子さま憂悶」(女性自身5月26日号)、「愛子さま佳子さま 未来は見通せない状況〈皇室典範改正〉は〈憲法違反〉の声」(週刊女性5月26日号)、「愛子さま〈母と生き写し〉女性活躍へ!海外訪問7日間」(女性セブン5月21・28日合併号)と賑やかである。

  全国紙の社説は、今回の皇室典範改正論議で、「女性・女系天皇」も議論されているようかのように読めてしまうような部分があるが、週刊文春、週刊新潮、週刊女性では、「女性天皇、女系天皇」まして「愛子天皇」はまったく今回の議論の対象外であることを明確にしているし、新聞社による世論調査で「女性天皇」の賛否を問うなどは国民をミスリードするものだとの指摘もする(週刊新潮)。

 こうしてみると、政権や権力者に対して、中立を標榜し、忖度をはばからない新聞、テレビなどでは踏み込まないところまで、週刊誌が切り込み、ファクトの提供と論点の提示、自らの主張という、メディア本来の機能を果たしている側面があるように思えたのであった。

 

 

 

 

 

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2026年5月10日 (日)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(3)モンドリアン

 モンドリアン(1872-1944)はアメリカの画家と言えないかもしれないが、最晩年をアメリカで過ごし、精力的に制作したことをもって、私は、勝手にそう呼んでいる。同じアメリカの画家と言っても、ワイエスとモンドリアンとの共通点は、何なのだろう。素人の私には、脈絡なく惹かれるものがあったのである。

 モンドリアンについては、このブログでも何度か触れたことがある。

・アンジェイ・ワイダの遺作『残像』を見て~ワイダと画家からのメッセージ
(2017年7月27日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/07/post-8567.html

・はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(9)デン・ハーグ市立美術館のモンドリアン(2019年8月13日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/08/post-ab1282.html

 というのも、これらの記事で、私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の「あとがき」につぎのように書いていたからである。繰り返しになるが。

「モンドリアンの抽象に出遭ったとき、あの冷徹さに戸惑いながら惹かれていったのはなぜだろうかと考えています。そこには猥雑なものをいっさい拒否しようとする、ひとりの人間の生き方の美と思想があると思いました。この画家の幾何学的構成にいたる過程は、<樹木>連作が雄弁に語っています。さらに光と影から解放された垂直と水平の世界の展開を見せられたときの感動を忘れることができないでいます。主観的な表現を極度に排し、求めてやまなかったものはなんであったろう。・・・」

 

 2019年、出身のオランダのアムステルダムの王立美術館で出会ったモンドリアン、ハーグ市立美術館で、「モンドリアンコレクション」の<樹木>シリーズを目の当たりにしたときも、抽象への展開のナゾは解けたわけではないが、どちらの絵にも、短歌の精神と技法を見たような気がした。もちろん私は、抽象画への境地にはたどり着けない。映画やニュースで知る限りのニューヨークだが、その猥雑さと活力を色鮮やかな幾何学的構成もって描いた作品には不思議な魅力があったのである。

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モンドリアン展(西武美術館1987年)カタログより。右上段の絵は、叔父のフリッツ・モンドリアンの作品「小川の牛」。

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1987モンドリアン展のチラシより。

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2026年5月 6日 (水)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(2)ワイエス

 1990年、年頭の「ワイエス ヘルガ展」は、今はなつかしい、池袋のセゾン美術館(1975~1999)で見ている。残念ながら、カタログは買わずじまいだった。いま手元に残っているのは、チケットの半券と二枚の絵ハガキである。当時、ワイエスといえば、私は、メイン州のオルソン・ハウスとペンシルヴァニア州のチャッズ・フォードの住まいの周辺とそこに住む人々を丹念に、愛情をこめて描き続けていた、国民的人気も高い画家という印象が強かった。ところが、日本で「ワイエス ヘルガ展」が開かれる前から、1971から85年の15年間、隣家の農場で働く中年の女性ヘルガのヌードや肖像を、双方の家族にも知られず描き続けた未発表の作品群が公になったとの報道を聞くようになった。一つの対象を、一人のモデルを描き続けてきたワイエスなので、どんな作品なのだろうかと、興味津々だった。鉛筆によるデッサンや水彩画、テンペラ画と使い分けて、ヘルガを描き続ける執念は、胸に迫るものがあるが、ワイエスの妻も、ヘルガの夫も知らない間に二百数十点の作品が残されていたとは、驚異でもあり、そんなことってあるだろうかと不思議に思ったものである。少なくとも、ワイエスの妻は、気づいていたはずである、と下世話な推測もしているところである。

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上段は、「農道」(1979年)①、下段は「果樹園にて」(1982)②。

 いま改めて、1987年ニューヨークでに出版された画集“The Helga Pictures ”(Harry N.Abrahams,Inc.)の翻訳を見ている(「ワイエス画集Ⅲ」リブロポート 1987年5月)。この画集には、ヘルガシリーズコレクションのオーナーによる文章とナショナルギャラリー副館長の「アンドリュー・ワイエスの「ヘルガ組曲」」と題する、欧米美術史の中でのワイエスの位置づけと評価を丹念に追っている論文が付されている。画集は、裸の、戸外の、室内の眠っているヘルガなど、様々な季節、時間における30のポーズごとに関連する作品が集められている構成になっている。上記の副館長の論文の冒頭では「このシリーズ全体を通して明らかにされるのは、抑制と複雑さ、画面の質感と深い情感の表現に重要な焦点があてられていることだ」と評価している。

 例えば、上記の絵はがきとなっている「果樹園にて」のテーマのもとに、水彩画は1973年から85年まで10枚、鉛筆によるデッサンが1973年から1982年までの9枚の作品で編集されている。絵はがきの1982年の作品②が完成品というわけではなく、1985年にも季節が違う作品③が制作されている。デッサン④も、異なる構図で、長い年月にわたって描かれていることがわかる。同じモチーフで繰り返し、年月をかけて、さまざまな視角で対象を捉えていることになる。

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「果樹園にて」(1985)③

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「果樹園にて」(1973)④

 また、上記の絵はがき「農道」①と題される作品はこれ一作のみであった。また、ヌードの中には、「ネルと一緒に」(1979)⑤のような作品もあって、微笑ましくもなるのだった。

 今回のワイエス展が楽しみである。

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 「ネルと一緒に」(1979)⑤

 

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2026年5月 5日 (火)

憲法改正、急ぐに及ばず~憲法記念日の世論調査にみる

  5月3日の朝日新聞は「高市政権で改憲 賛否拮抗 本社世論調査 賛成47% 反対43%」、毎日は「改憲《賛成》37% 本社世論調査 首相人気 機運押し上げ」と一面で報じている。憲法記念日恒例の世論調査である。この日のための世論調査の結果報道、社説や特集が組まれ、市民団体による意見広告も散見できる。

  この頃、「世論調査」というのに疑問を持ち始めている。まず、思うのは設問・回答の在り方と回収率の低さと調査方法である。最近、ケータイや固定電話に、何か所からかのさまざま「世論調査」らしき電話を受けるようになったが、私自身、警戒心の方が強く切ってしまうので、回答者が世論を反映しているかな、と思ってしまう。かつて、新聞社の文書による世論調査を受けたことがあり、その時はもの珍しさもあって、じっくり考えて記入したものである。

朝日新聞の見出しになっている賛成47%というのは、
・「高市首相は憲法改正を目指すことを明言しています。高市政権のもとで憲法改正を実現することに、賛成ですか、反対ですか。」

  という設問の回答だったのである。正直、この質問には、私だったら回答できない。この設問の直前の二問の問い方とその回答も付してみた。

・「自民党は、憲法9条の1項と2項をそのままにして、新たに自衛隊の存在を明記する憲法改正案を提案しています。こうした9条の改正に賛成ですか、反対ですか。」賛成52%、反対40%
 賛成の理由:明記することで、海外活動がしやすくなる21%
   反対の理由:明記することで、自衛隊の海外活動拡大の恐れがある25%

・「いまの憲法を変える必要があると思いますか。変える必要はないと思いますか。」必要がある49%、必要はない44%

 これらの設問の幾つか前には、つぎのような設問もある。

・「以下は、憲法第9条の条文です。(条文略)憲法9条を変えるほうがよいと思いますか。変えないほうがよいと思いますか」 変えるほうがよい30%、変えないほうがよい63%

 9条に関しては、二つの設問があって、一つは、条文をあげて、1・2項の変更の有無を問うもの、一つは、その後に設けられていて、1・2項はそのままに、(3項として)自衛隊の明記の可否を問うものであった。回答から見えてくるのは、現行9条の「戦争の放棄」と「戦力及び交戦権の否認」はそのままに、自衛隊を明記するというのが大きな流れのように読み取ることができる。

以下の画像は、いずれも拡大て読めます。

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朝日新聞2026年5月3日朝刊、「世論調査」結果の一部

 他の新聞、NHKを見てみよう。憲法改正という設問は共通しているが、毎日が高市首相在任中という条件を付けているが、憲法改正の賛成・反対はたしかに拮抗していると言える。読売とNHKは、改正賛成は、反対をかなり上回っている。もっとも、NHNの世論調査は、「どちらとも言えない」が賛成と同様38%を占めている。NHKの世論調査では、「どちらとも言えない」の選択肢を設けるのが「得意技?」と言ってもよい。ときには「どちらかと言えば賛成」「どちらかと言えば反対」の選択肢を設けることもある。今回は「どちらとも言えない」の選択肢によって、賛成、反対の差を広げたようにも思える。「どちらかと言えば・・・」の回答を用意していたら、賛成・反対の差は縮まるのではないか。

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 朝日と読売は、今回、憲法改正問題だけでなく設問は多岐にわたっているのが、他と異なる所であり、憲法9条についても、両者は、同様である。「自衛隊明記」といういわば「加憲」に特化した設問もNHK以外は用意しているが、いずれも明記に賛成する方がかなり上回っていることがわかる。その理由を問うている朝日の結果によれば、明記賛成の理由で多いのが「海外での活動がしやすくなる」で、反対理由で多いのが「海外での活動が拡大する恐れがある」という真逆の理由であった。

 なお、読売は「今後、9条はどうあるべきか」の設問の回答の選択肢として、つぎの三つを用意していたが、その結果から、①+③を「改正しない」とカウントした。

①これまで通り解釈や運用で対応する43%
②解釈や運用で対応するのは限界なので改正する38%
③9条を厳密に守り、解釈や運用で対応しない12%

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読売新聞2026年5月3日朝刊、「世論調査」結果の一部

 なお、今回調査の対象としなかったが、日本経済新聞の世論調査で「高市首相に優先的に処理してほしい課題」として、憲法改正は8つの選択肢の最下位で、11%に過ぎなかった。また、NHKの設問はいささか異なるが、今国会において、「憲法改正以外の課題を優先すべき」だとする回答が、52%も占めていた。

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日本経済新聞デジタルニュース、2026年5月2日より

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NHK2026年5月3日、
news7より

 世論調査自体は、その回収率からしても、どこか頼りないのだが、各社の結果を総体的にみると、要するに、国民の大半は、いま、憲法改正を望んではいないということではないか。なぜ、そんなに急ぐのか。「法の支配」と「自由と民主主義」を標榜する国のやることかと、不安は増すばかりである。

 

 

 

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2026年5月 3日 (日)

「昭和100年記念式典」、まるで昭和歌謡ショー?ではなかったか

   腹立たしいのを通り越して、あきれて、ばかばかしくもなるが、やはり、書き留めておかねばと思う。テレビのニュースや翌日の新聞記事からは全貌が見えにくい。4月29日、さすがに、テレビ局の中継はなかったが、YouTubeで閲覧した。首相の挨拶は、官邸のホームページで確認した。注1

注1)昭和100年記念式典配信ページ 
https://youtube.com/live/JeNNacZ08e4

首相挨拶(首相官邸)
https://www.kantei.go.jp/jp/105/actions/202604/29showa100shikiten.html

  入場が済んで静まり返った武道館、あちこちに空席も目立つ。読売新聞によれば参列者約5600人の由。司会進行は、元NHKアナウンサーの青山祐子、着席からだいぶ時間が経過していたらしい。式典の進行について、天皇夫妻の入退場の際の起立・着席などについての説明から始まった。それから、天皇夫妻入場までの「しばらくお待ちください」と、7・8分前後の沈黙の時間が経過、天皇夫妻入場、木原官房長官の開会、国歌斉唱の後、首相の式辞7・8分、三権の長の挨拶が併せて10分ほどか。そして、その後の30分間がなんと、下のような流れで、海上自衛隊東京音楽隊の伴奏による男女隊員の歌唱だったのである。最初は誰が歌っているのかわからなかったが、最後に、指揮者と歌い手の名前が発表されていた(植田哲生二等海佐、三宅由佳莉二等海曹、橋本晃作二等海曹)。6曲の選曲は、首相なのか、イベント会社なのか不明だが、いずれにしても、懐メロの昭和戦後版といてもいい。自衛隊員に熱唱されても、時代の雰囲気は伝わらないだろう。官邸の動画では端折られていたが、天皇夫妻が退場してからも長い間、沈黙の着席の時間が長かった。

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「産経新聞」2026年4月29日、より

 以上のような流れだったのだが、私は、つぎのいくつかの点に大いなる疑問を持たざるを得なかった。

1.「昭和100年」という区切り方にどんな意味があるのか。

この式典については、超党派議員連盟の麻生太郎会長(自民党副総裁)が2024年、当時の岸田文雄首相に要請し、政府は「『昭和100年』関連施策推進室」を設置し、昨年11月に閣議決定している。注2
 注2内閣官房「昭和100年」関連施策推進室による「「昭和100年」関連施策について」https://www.soumu.go.jp/main_content/000990655.pdf

  式典の主旨として、「<昭和100年>を契機に昭和を顧み、先人の躍動に学び、昭和の記憶を共有すること」をうたっているが、ここには、日中戦争、太平洋戦争への反省が捨象されている。この点については以下の過去記事をご覧いただければと思う。注3
注3)4月29日は祝日だった~「昭和の日」はどのようにして決まったのか。(2025年5月 2日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2025/05/post-e63d11.html

 2.高市首相の「式辞」って何だったのか。

その内容に、大いなる疑問が生じたのだ。今回の言葉を聞いていて、「?」、どこかで聞いたような言い回しと思ったのが、ふりかえれば、首相の年頭所感だったのである。まさに、焼き直し、コピペに近い。注4
注4)高市首相年頭所感
https://www.kantei.go.jp/jp/104/statement/2026/0101nentou.html


式辞:昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長といった、未曽有(みぞう)の変革を経験した時代でした。
年頭:昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長といった、未曽有(みぞう)の変革を経験した時代です。


式辞:令和の現在、日本と世界は大きな変化を迎えています。日本においては、静かな有事とも言うべき少子化・人口減少の進行、長期にわたるデフレから一転しての物価高、潜在成長率の低迷、戦後最も厳しく複雑な安全保障環境。そして、世界を見渡せば、国家間の競争が激化・複雑化・常態化し、私たちが慣れ親しんできた自由で開かれた安定的な国際秩序は大きく揺らぎ、政治・経済の不確実性が高まっています。
年頭:令和の現在も、日本と世界は大きな変化を迎えています。 日本においては、静かな有事とも言うべき人口減少や、長期にわたるデフレから一転して国民の皆様が直面されている物価高、戦後最も厳しく複雑な安全保障環境。そして、世界を見渡せば、我々が慣れ親しんできた自由で開かれた国際秩序は揺らぎ、覇権主義的な動きが強まるとともに、政治・経済の不確実性が高まっています。


式辞:今年初めて投票してくださった18歳の若者も、生まれたばかりの赤ちゃんも、その多くが、22世紀を迎えることができるでしょう。その時に、日本が安全で豊かであるように。『インド太平洋の輝く灯台』として、自由と民主主義の国として、世界から頼りにされる日本であるように。若者たちが、日本に生まれたことに誇りを感じ、『未来は明るい』と自信を持って言える。そうした国を創り上げていく。『日本列島を、強く豊かに。』日本に希望を生み出していくことを、改めてここに決意いたします。
年頭:今年初めて投票する十八歳の若者も、生まれたばかりの赤ちゃんも、次の時代を担っていかれる方々です。彼らに、日本の未来を信じてほしい。「希望」を抱いてほしい。今の時代をお預かりしている私達には、「日本列島を、強く豊かに」して、次世代に贈る責任があると考えています。

 「日本列島を、強く豊かに」は、先の衆議院選挙の自由民主党のキャチフレーズであり、総裁メッセージであったのである。また、ちなみに、「年頭所感」と4月29日「式辞」の間にあたる2月20日「施政方針演説」にもつぎのような一節がある。注5

「「挑戦しない国」に、「未来」はありません。「守るだけの政治」に、希望は生まれません。「希望ある未来」は、待っていてもやって来ない。誰かがつくってくれるものでもない。私たち自身が、決断し、行動し、つくり上げていくものです。」
注5)第221回国会における高市内閣総理大臣施政方針演説(令和8年2月20日閣議決定)https://www.kantei.go.jp/jp/105/statement/2026/0220shiseihoshin.html

  さらに、4月12日の自民党大会での首相の挨拶にはつぎのようなくだりもあった。注6
「今年初めて投票して下さった18歳の若者も、生まれたばかりの赤ちゃんも、その多くが、22世紀を迎えることができるでしょう。その時に、日本が安全で豊かでありますように。「インド太平洋の輝く灯台」として、自由と民主主義の国として、世界から頼りにされる日本でありますように。そのために、日本の「成長のスイッチ」を押しまくり、日本の可能性を解き放ちましょう。「日本列島を、強く豊かに。」 挑戦しない国に「未来」はありません。守るだけの政治に「希望」は生まれません」
 注6)第93回党大会 高市早苗総裁演説(全文)
https://www.jimin.jp/news/press/212972.html

 「インド太平洋の輝く灯台」という唐突なフレーズは、2月8日の衆院選挙で圧勝した直後の2月18日に出された「大臣指示書」に登場する。前年のそれを大幅に変更して、内閣全体の基本方針に「日本列島を、強く豊かに」「インド太平洋の輝く灯台」を加えたというのだ。

 以上見てきたように、中身を伴わない、強い口調の同じキャッチフレーズが何回でも使われていることがわかる。身近で聞く議員たち、ひいては有権者、国民も、なめられたものである。野党は細って内輪もめばかりで、きちんと質すことをしない。NHKはじめメディアも気づきながら、毎回、適当に概略しか報じない。つまらない、些細なことなのだろうか。

 そして、この間、高市政権は、すでに、閣議で殺傷能力のある武器輸出を解禁することにした。また、インテリジェンス機能を強化するとして「国家情報局設置法案」は、野党も巻き込んで、4月23日衆院で可決させ、連休明けには参院での審議が始まる。
「昭和100年記念式典」は式典と称して、なんと、自民党、高市内閣、高市首相の広報、パフォーマンスの場であったのである。

3.天皇の臨席は何のためだったのか。

 天皇夫妻は、式典の半分以上、30分以上にわたって、昭和の歌謡曲6曲を披露されるとは思わなかっただろう。どことなく戸惑っている表情も伺われた。式典を権威づけ、重々しい雰囲気を醸成するなかで、首相のメッセージを際立てるために利用したことが明確になったのではないか。天皇としては、政治的活動の一端を担わされ、違憲の疑いさえ生じる。加えて、天皇を壇上に迎え、日頃の言動を牽制するような内容の「式辞」ではなかったか。

4.重光葵の短歌の登場、なぜ短歌を持ち出すのか。

  首相の「年頭所感」の冒頭では、昭和天皇のつぎの一首を引用して、以下のように述べている。 
「『山やまの 色はあらたに みゆれとも 我(わが)まつりこと いかにかあるらむ』御即位後初の歌会始での昭和天皇の御製です。昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長といった、未曽有(みぞう)の変革を経験した時代です。まるで昭和が激動の時代となることを見通していたかのように、移り変わっていく山々の色を詠まれています。」

 昭和天皇の短歌は、1928年(昭和3年)、歌会始の題「山色新」のもと詠み、公表された一首である。首相は、どこから引用したのか、宮内庁侍従職が編纂した昭和天皇の歌集『おほうなはら』(読売新聞社 1992年)の表記とは、漢字や濁点などの表記が異なる。1928年といえば、2月に第1回普通選挙が実施されたが、大陸政策を強行するなか、関東軍による張作霖爆殺事件が起こり、内務省に特別高等警察が新設され、思想弾圧の強化が始まった年でもあった。「まつりこといかにかあるらむ」を首相は自分事のように読んだのかもしれない。となると。

 今回の式典の「式辞」では、重光葵の辞世とも言われる一首を引いて、つぎのように述べた。
「『霧は晴れ 国連の塔は 輝きて 高くかかげし 日の丸の旗』、同じ年(1956年)、日本は国連に加盟します。重光葵(まもる)外務大臣は、ニューヨークで高らかに詠い上げています。国際社会への復帰は、日本の悲願でした。」

  重光の短歌をあげて、国連復帰の功績をたたえるというより、「日の丸の旗」を強調したかったのではないか。式典の中で「国歌斉唱」の前に、司会者は、ことさらに参列者に「国旗」への注目を促していた。これって「国旗損壊罪」を新設したい首相の「悲願」の伏線?にも思わるのだった。昭和に学ぶといっても、たとえば、国連復帰を称える前に、1933年、なぜ国際連盟を脱退するに至り、日本は世界から孤立していったのか、を学ぶ方が有効だし、先だと思う。

「昭和100年記念式典」は式典と称して、なんと、自民党、高市内閣、高市首相の広報、パフォーマンスの場であったのである。肝心なところから目を反らされるようなことばかりが続く。

「戦争の足音」が近づき、抗議デモへの参加者や集会は、各地で確実に増えているが、メディアは、なぜか伝えようとしない。事件や災害報道、スポーツや皇室報道には熱心だし、物価高やホルムズ海峡封鎖による業界や暮らしへの影響、株価の乱高下などは盛んに報道されるが、その拠って来たるところには分け入らない。そして、その分、いま国会でどんな審議が行われているか、何が論点なのか、などの報道量は、確実に細っている。上記で触れなかった「国論を二分する」と豪語する高市政権の公約は、以下のように目白押しなのである。

スパイ防止法、非核三原則を見直し、憲法9条改正、緊急事態条項新設、防衛力強化、皇室典範改正、旧姓使用法制化、外国人政策の厳格強化・・・。

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池の端の一本の梅、長い間花を楽しんだと思ったら、もう大きな実をつけていた。子どもの日を前にいつのまに賑やかになったコイたち。親たち3匹は、屋根のついた避難所でお昼寝中だったが、餌をやり始めると、がぜん動き出した。(5月2日)

 

 

 

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2026年4月28日 (火)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(1)ワイエス

 派手なネクタイで、カメラに向かってこぶしを上げたり、手を振ってみたりして登場するトランプ大統領が、ジェスチャーたっぷりで会見する映像を、毎日見せられると、もううんざりという感じの昨今である。そんなとき、ふと、ワイエスの『アメリカの詩情 オルソン・ハウスの物語』(丸沼芸術の森 2010年)をひらくと、そこには、あまりにも静寂な、海辺の一軒家にひっそりと暮らす姉弟の物語が繰り広げられる。アメリカ東部メイン州の海辺の丘の上のオルソン家の体が不自由だが自立心の高い姉と農業に勤しむ弟の暮らしを分け入るように子細に描き続けた画家の物語でもある。折しも4月28日から、上野の都美術館で開館100周年記念の「アンドリュー・ワイエス展」が開かれると知った。なんという偶然!

 アンドリュー・ワイエス(1917~2009)は、ペンシルヴァニア州のチャッズ・フォードに生まれ、著名な挿絵画家だった父親の教育もあって、幼少時から水彩画を描き始め、二十歳のころには、地元で個展を開くまでになっていた。1939年兵役に志願するが、身体虚弱で不合格になり、その翌年から、夏の間の避暑地であったメイン州のグッシングのオルソン家にアトリエを提供されるようになり、二拠点生活が始まり、姉弟が亡くなる1960年末まで続いたのである。

 姉弟を描くといっても、その姿が描かれるのは稀である。さまざまな視角でとらえられたオルソン家の全景と共に壁、屋根、窓であったり、納屋の中の農具や馬具であったり、収穫したトウモロコシを積んだ手押し車、ブルーべリーを運ぶバスケット、水を運ぶバケツなどをあるがままのその場所で克明に描いている。以下はいずれも、前掲「オルソン・ハウス物語」からのコピーである。この画集は、2010年9月から埼玉立近代美術館で開催された「丸沼芸術の森」所蔵の展覧会のカタログである。今回の都美術館の展示作品一覧によれば、「丸沼芸術の森」所蔵の作品もかなり多いようだ。直接、絵に出会えるのを楽しみにしている。

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「アメリカの詩情 オルソン物語」の表紙「オルソンの家」(1969)

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「干し草をかき集めるアルヴァロ」(1947)、右手遠くに家が見える

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「玄関の前に座るアルヴァロ」(1942)、働きづめだったアルヴァロは、1967年12月24日に死去。

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「クリスティーナの世界」習作(1948)何枚もある中の1枚。

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「クリスティナーの世界」習作(1967)、クリスティーナは、弟の後を追うように1968年1月27日死去、最後の肖像画となった。

 ワイエスに私が初め出会ったのは、1974年、東京国立近代美術館での「アンドリュー・ワイエス展」であった。職場の近くでもあったので、土曜の午後にでも出かけたのではなかったか。当時は週休2日など夢の夢であった。
 あらためて、このワイエス展のカタログを取り出してみると、すっかり茶色になった新聞切り抜きが落ちてきた。こんな記事を読んで出かけてみる気になったのかもしれない。

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   上記左の朝日新聞の記事は、文面から74年5月と分かるのだが、日にちは不明、執筆は小川正隆。毎日新聞の方は74年4月19日(夕刊)、執筆は安井収蔵記者となっている。調べてみると、両者ともすでに故人となっているが、社内の美術担当から、美術評論家となり、大学教員や美術館館長になっていたことを知る。なにせ半世紀以上も前のことだったのだ。当時の薄れたメモによれば、衝撃を受けたのは「冬の蜂の巣」(1959)と下記の「卵の計り」(1959)のリアルさだった。さらに、つぎの2点の寡黙さに注目していたようだ。後から思えば、オルソン家の姉クリスティーナと弟アルヴァロの暮らし方や生き方を象徴しているような作品だったのである。姉弟の晩年と没後のオルソン家のたたずまいが伺われる。

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「風下」(1965)

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「アルヴァロとクリステイーナの家」(1968)

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チケットの作品は「遥か彼方に」(1952)だった。

  ワイエスは、アメリカでも国民的画家とも言われ、人気が高いそうだが、日本でも、その後、何回か展覧会が開催されている。渋谷のbunkamuraで1995年「アンドリュー・ワイエス展 アメリカの郷愁」、2008年「アンドリュー・ワイエス展 創造の道程」などが開催されている。この時にも、以下のような記事を書いていたのである。

ワイエス展、Bunkamuraへ(2008年11月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/11/bunkamura-7f3a.html

 私が次に出かけたのは、1990年、池袋のセゾン美術館で開催された「ワイエス展 静逸な生命の肖像 ヘルガ」であった。ワイエスの後半生の意外な展開に驚かされたのであったが。(つづく)

 

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2026年4月23日 (木)

「もう、時代は変わった」のか~殺傷能力のある武器の輸出が解禁された!

 落ちぶれて武器ありますの暖簾(のれん)出す
 (大阪府 小倉三歩 朝日川柳 朝日新聞 2026422日)

 これは、1976年5月の衆議院外務委員会で、永末英一委員(民社党)の「一体わが国として兵器貿易というものをどう見るのか」の質問に、宮澤喜一外務大臣の答弁「何がしかの外貨の黒字がかせげるといたしましても、わが国は兵器の輸出をして金をかせぐほど落ちぶれてはいないといいますか、もう少し高い理想を持った国として今後も続けていくべきなのであろう。」を踏まえての作ではないか。注1

注1)衆議院外務委員会8号1976年5月14日https://kokkai.ndl.go.jp/txt/107703968X00819760514
同上委員会における宮澤喜一外務大臣の答弁https://kokkai.ndl.go.jp/txt/107703968X00819760514/46

 4月22日の朝刊はいっせいに一面で、4月21日、午前中の閣議と持ち回りの9大臣による国家安全保障会議(NSC)で、「防衛装備移転三原則」「防衛装備移転三原則の運用方針」を改訂したことを報じている。今回の改訂により、これまで輸出できる装備品を「救難・輸送・警戒・監視・掃海」の5類型に限っていたものを殺傷能力のある武器の輸出が解禁されるのである。こんな大事なことを、閣議決定と、しかも持ち回りのNSCで決まって行くのだと思うと、やはり、おそろしい思いが先に立つ。「落ちぶれた」というより「壊れた」という衝撃であった。注2

注2)「防衛装備移転三原則」について(内閣官房)https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/bouei.html

 そんな状況の中で、1976年の宮澤外務大臣の答弁が、あらためて、各所で引用され始めた。たとえば、日本共産党は、今般の衆議院選挙における政策として「武器輸出」について、「1976年に当時の三木政権が表明した「武器輸出三原則」は、「国際紛争を助長しない」という「平和国家」としての理念にもとづき事実上武器輸出を全面禁止し、1981年には衆参両院本会議が同三原則の厳格な運用を求める決議を全会一致で可決しました。自民党政府のもとでも、これが日本の基本方針でした。」に続いて、宮澤の答弁を引用している。

 3月17日の参議院予算委員会で、西田実仁(公明党)委員は、宮澤の答弁を引用して「平和よりも一時的な経済利益を貪欲に追求する国であってよいのか」質問しているが「もう時代が変わった」と高市総理が答えている。

「東京新聞」も「かつて武器輸出を「全面禁止」した日本が、高市政権で「解禁」するまでの50年を振り返る」題し、「三木武夫内閣が1976年に事実上の全面禁輸に踏み切ってから半世紀。政府は段階的に緩和してきた武器輸出を解禁した」との方針転換を、1976年の宮澤答弁に対する高市総理は「もう時代が変わった」と正当化した、と報じた(2026年4月21日)。

 そもそも、武器輸出三原則は、1967年4月の佐藤栄作内閣による武器輸出禁止規定に由来する。共産圏諸国、国連決議により武器等の輸出が禁止されている国、国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けへの武器輸出を禁止することを内容とするもので、衆議院決算委員会において、華山親義(日本社会党)からの質問に対する答弁だったのである。注3

注3)衆議院決算委員会(1967年4月21日、佐藤栄作総理大臣の答弁)https://kokkai.ndl.go.jp/txt/105504103X00519670421/129

ともかく、自民党政権において、まがりなりにも受け継がれてきた「武器輸出三原則」は、「武器輸出」を「防衛装備移転」と言い替えて、2014年安倍晋三内閣によって大きく変質したのである。その後の経過は以下の表によくまとめられている。

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殺傷能力ある武器の輸出可能に、政府が装備移転三原則の運用指針見直し(Reuters2026年4月21日)より

 今回改訂の「防衛装備移転三原則」について、高市首相は4月21日の記者会見で、武器輸出が全面的に解禁されることへの懸念を問われて、「安全保障環境の厳しさが増し、自国だけでは平和と安全を守ることができなくなった。防衛装備面でもお互いを支え合うパートナーが必要で、そのパートナーからの防衛装備品への期待も大きい」「ニーズに応えた防衛装備移転はパートナー国の防衛力向上、紛争発生を未然に防ぐ」ことにつながるという主旨の答弁がなされた。

 しかし、先に示した今回改訂の「三原則」の全文を読むと「防衛装備の海外への移転は、 特にインド太平洋地域における平和と安定のために、力による一方的な現状変更を抑止して、我が国にとって望ましい安全保障環境の創出」し、また「防衛装備の適切な海外移転は、いわば防衛力そのものと位置付けられる我が国の防衛生産・技術基盤の維持・強化、ひいては我が国の防衛力の向上に資する」ものであるとしている。さらに「継戦能力確保の重要性が増す中にあって、防衛装備移転の推進により、共通の装備品を運用する同志国等を増やし、強固な防衛産業を保持し、拡大することは、有事に必要な継戦能力を支える生産能力を国内で確保する上でも大きな意義」を強調している。

 会見での答弁では、「三原則」の内容の重大さは伝わらず、「東南アジアへの防衛装備品の輸出拡大、防衛産業の拡大」などには言及せず、スルーしている。近年の防衛費増額とともに、なりふり構わない「政府、(防衛装備品)売り込みに躍起」(毎日新聞 2026年4月22日)する姿には、「死の商人」という言葉がよぎる。私などは、「殺傷能力」「継戰能力」という言葉を聞くだけでも、自らの空襲体験、現在止むことのないロシアのウクライナ侵攻、アメリカのイラン爆撃、イスラエルとパレスチナ侵攻による死者と瓦礫の街を想起してしまう。

 さらに、軍備拡大による「抑止力」云々に至っては、日本におけるアメリカの基地の存在自体が、紛争のリスクや攻撃の標的になり得ることは、イランの周辺国のアメリカ基地爆撃を見ても明らかではないのか。3月13日のウオール・ストリート・ジャーナルの報道として、すでに中東には「米海軍第7艦隊に所属し、佐世保基地(長崎県)に配備されている強襲揚陸艦「トリポリ」と、キャンプ・ハンセン(沖縄県)の第31海兵遠征部隊」が派遣されているという(読売新聞 2026年3月14日)。

 「三原則」の閣議決定当日の4月21日の「NHKテレビニュース7」では、北海道・三陸沖地震、大分県陸上自衛隊基地での3人の死者を出した事故、アメリカ・イランの停戦協議とホルムス海峡封鎖の現況のつぎに、この「三原則」改訂の報道がなされた。そのねらいとして、①同盟国・同志国との防衛強化 ②防衛産業の育成と基盤強化 の二点をあげ、歯止め策を強調していた。これって政府広報では、の印象が強かった。

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<参考>
●「武器輸出禁止三原則等」(外務省ホームページ)https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/arms/mine/sanngen.html

1.武器輸出三原則(1967.4.21) 
武器輸出三原則とは、次の三つの場合には武器輸出を認めないという政策をいう。
(1)共産圏諸国向けの場合
(2)国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合
(3)国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合
[佐藤総理(当時)が衆院決算委(1967.4.21)における答弁で表明]
2. 武器輸出に関する政府統一見解(1976.2.27)
 「武器」の輸出については、平和国家としての我が国の立場から、それによって国際紛争等を助長することを回避するため、政府としては、従来から慎重に対処しており、今後とも、次の方針により処理するものとし、その輸出を促進することはしない。
(1)三原則対象地域については「武器」の輸出を認めない。
(2)三原則対象地域以外の地域については、憲法及び外国為替及び外国貿易管理法の精神にのっとり、「武器」の輸出を慎むものとする。
(3)武器製造関連設備の輸出については、「武器」に準じて取り扱うものとする。
[三木総理(当時)が衆院予算委(1976.2.27)における答弁において「武器輸出に関する政府統一見解」として表明]
(注)わが国の武器輸出政策として引用する場合、通常、「武器輸出三原則」(上記1.)と「武器輸出に関する政府統一見解」(上記2.)を総称して「武器輸出三原則等」と呼ぶことが多い。

●防衛装備移転三原則(201441日閣議決定)(内閣官房ホームページ)
https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/pdf/bouei1.pdf
 以下の項目に当てはまる場合には防衛装備の海外移転を認めない
①当該移転が我が国の締結した条約その他の国際約束に基づく義務に違反する場合
②当該移転が国連安保理の決議に基づく義務に違反する場合
③紛争当事国への移転となる場合

●武器輸出禁止三原則(1967421日衆議院決算委員会答弁)(国会会議録検索システム)https://kokkai.ndl.go.jp/txt/105504103X00519670421/129
佐藤内閣総理大臣 いま申しますように、防衛のために、また自国の自衛力整備のために使われるものならば差しつかえないのではないか、かように私は申しておるのであります。輸出貿易管理令で特に制限をして、こういう場合は送ってはならぬという場合があります。それはいま申し上げましたように、戦争をしている国、あるいはまた共産国向けの場合、あるいは国連決議により武器等の輸出の禁止がされている国向けの場合、それとただいま国際紛争中の当事国またはそのおそれのある国向け、こういうのは輸出してはならない。こういうことになっております。これは厳に慎んでそのとおりやるつもりであります。

 

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