2020年9月19日 (土)

どうしようも内閣、発足~私たちは何をなすべきかなのか

  安倍首相の後、だれがなっても絶望的であったし、新内閣の顔ぶれを見ても脱力の一語である。この一年で何人の閣僚が辞任することになるのやら~。女性活躍という<建前>も押しやられ、男性の待機組処理と派閥の論理で押し切られた。五輪中止も見据えた、その女性担当大臣が留任、それでも引き受ける元アスリート。21歳の大阪なおみを見習ったら・・・、とも言いたくなる。法務は、河井克行、森雅子の後は、返り咲きという。どの顔見ても、どうしようもない内閣である。

 最近のNHKニュース番組は録画で見て、組閣人事は飛ばすと、ほとんどがスポーツと天気予報しか残らなかった。民放の報道ワイド番組でも、コメンテイターたちの間では、新内閣へのエールか、当たり障りのないコメントか蔓延し、少しでも批判的な発言をすると、ネット攻撃が始まる。不自由な時代である。

 この不自由な時代、新型コロナウイルスやインフルエンザの恐怖にさらされている私たち、高齢者は何をなすべきなのか。

 

 いま必要があって、金子光晴の詩を読み始めた。金子光晴といえば、これまで、私生活ではややスキャンダラスながら、反骨詩人、反戦詩人としてのイメージが強かった。もっとも、櫻本富雄氏は、早くより、詩作品何篇かの改ざん問題を指摘していたが、詩壇の大御所たちは、軽く受け流していた感がある。長い海外体験、放浪生活から日本の権力を見据えたとみられる、一九三七年の詩集「鮫」は、抵抗詩集としての評価が高い。時には自虐的に、あるいは執拗なまでに嗜虐的に語り続ける。長詩「鮫」は「海のうはつつらで鮫が、/ごろりごろりと転つてゐる。/ 鮫は動かない。」で始まり、「鮫。/鮫。/鮫。/奴らを咀はう。奴らを破壊しよう。/さもなければ、奴らが俺たちを皆喰ふつもりだ」で終わる。

  さらに、金子光晴は、太平洋戦争下に書き溜めておいた詩作品を、1948年に、『落下傘』、『蛾』を出版、1949年に『鬼の子の唄』を出版している。伊藤信吉は「これらの全部が戦争否定やその憎悪などの、痛烈な批判的精神からうまれた。これらの詩の主題は、今では過ぎ去つた戦争の回顧としてかたられるわけだけれども、その当時、光晴のような態度をとることがどれほど困難であったか。それをもう一度私どもは身に引き締めて考えてみるべきだろう」(「金子光晴」『現代詩の鑑賞』下巻 新潮社1954年)という。また、これらの詩集は、全体主義、ファシズム、戦争から、民衆の悲惨、思想弾圧、圧迫される個人や家庭の寂寥などを「批判したり、風刺したり、哀傷したりしているもので、その切実さは忘れがたく感動的である」(「あとがき」『金子光晴詩集』岩波書店1991年)と清岡卓行はいう。
 たしかに、これらの詩集からは、つぎのような詩句が、文言が飛び出してくる。制作年月が記される場合と記されていないものが混じっている。これらの詩集が公刊されたのは、まさにGHQの検閲下の時代でもあった。それだけに、「戦時下にあって、実はこんな詩を書いていました」と、次々発表することは、どういう意味を持つのだろうか、という素朴な疑問も頭をかすめる。

「誰も彼も、区別はない。死ねばいゝと教へられたのだ。/ちんぴらで、小心で、好人物な人人は、「天皇」の名で、目先まつくらになつて、/腕白のやうによろこびさわいで出ていつた。」(「寂しさの歌」『落下傘』より)

 

 

「癩の宣告よりも/持つと絶望的なよび出し。/むりむたいにに拉致されて/脅され、/誓はされ、/極印をおされた若いいいのちの/整列にまじつて、/僕の子供も立たされる。」(「子供の徴兵検査の日に」『蛾』より)

  反戦詩、抵抗詩の金字塔のように語り継がれていることに、私は違和感を覚えてしまう。現代にあっては、いまだから話そう、私もこれだけの抵抗をしてきた、など反体制的な発言をしている高級官僚のOBたちが、民主的な勢力にもてはやされたりするのに似ているのではないか。あるいは、自民党を支えてきたかつての著名な政治家が、引退後に少しばかり政権批判をしたからといって、それに飛びつく政党などの一貫性のなさにも似てはいないかと、立ち止まってしまうのだ。

 どうしようもなかった安倍内閣を継承すると明言している菅内閣も、どうしようもない内閣でしかないことに、気づいた者から、すぐにでもできることは何だろうか。

 

 

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『現代短歌』(現代短歌社)11月号が、はや届きました。5月から6月にかけて、本ブログに連載していた古関裕而について書いた記事がきっかけで、執筆のチャンスをいただき、全面的に書き直したものが掲載されています。

 

「古関裕而はだれにエールを送ったのか~公募歌・委嘱歌をて手がかりに~」

 『現代短歌』は、リニューアルされて、隔月刊となり、ちょうど一年、六冊目になります。「評論」に力を入れるということでした。今回の拙稿は、「古関裕而作曲の戦時歌謡の主な公募歌・委嘱歌一覧」の4頁を含み、13頁となり、約束の枚数をオーバーするというわがままを聞き入れていただきました。お読みいただければうれしいです。なお、この雑誌は、東京ですと、紀伊国屋書店新宿本店、ジュンク堂書店池袋本店など、全国主要書店で取り扱っています。

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 2020年11月号裏表紙です

 

 

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2020年9月 8日 (火)

<#山万20時間耐久>って?日本は、いまそんなに平和なのか

 台風10号は、これまで経験したことのない強さで日本に近づき、甚大な被害をもたらすだろう、「あなたの命と大事な人の命をまもるために・・・」という警告を伴った気象庁と国交省との会見が重ねて開かれるのも異例だということだった。また、安倍首相の辞任会見後、いくつかの世論調査では、軒並み安倍内閣の支持率、自民党の支持率がグンと上がり、安倍内閣を継承すると宣言している菅義偉自民党総裁候補への支持率が、他の候補と逆転したことも報じられているさなかだった。

 少し重い?原稿の再校も終わり、一段落したので、ブログを更新しなければと、管理画面を眺めていると??いつになくアクセスが増えている。私が住んでいる街、佐倉市の「ユーカリが丘」関係の記事に集中していたのである。何事かと検索してみると、何やら<#山万20時間耐久>のツイッターがにぎわっていたのだ。ツイートを読んでいってもすぐには呑み込めなかったのだが、どうやらユーカリが丘のニュータウンを走る新交通システム(モノレールと呼んでいるが)の乗車体験をツイートしているらしいのだ。それも9月7日の始発4時31分発から終電までの20時間を一日乗車券で乗り倒そうという、鉄道ファンの実験らしい。ラケットのような路線は、一周4.1キロ、14分しかかからない。だから64周しなければならない、「耐久」実験を試みていることがわかった。

 このモノレールは、この町一帯の開発業者の山万が運営する、ニュータウンの一部を6つの駅で結ぶというものだ。車を持たない私は、最寄りの京成駅に出るときに利用するが、ときどきいわゆる「鉄チャン」らしい鉄道ファンが、駅ごとで写真を撮ったりしているのを見かけることはある。また、お孫さんを連れた人が、遊園地気分で、その路線を数回めぐっているらしい光景は見たこともあるが、今回のように20時間乗りっぱなしというのが「耐久」なのだろう。途中で、乗客と話したり、差し入れがあったり、最後には山万から感謝状をもらったりということもあって、本人も予想外の展開だったらしい。「うーん」これってどんな意味があるのだろう。こんなことで盛り上がるなんて、日本は平和なのだろうか。いや。

 私のブログにたどり着いて、ユーカリが丘や山万の問題点に少しでも触れていただけたのならありがたいとも、複雑な気持ちではある。

直近のスーパーが撤退~コンビニと空き家が増えてゆく街(2019年2月1日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/post-c635.html

・佐倉市は不動産屋に~山万の空きビルの一部を借り上げて貸室業をやるらしい(2018年12月10日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/12/post-2945.html

・ユーカリが丘駅北口、新しい街づくりというが(2018年7月15日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/07/post-4502.html

・「奇跡の街、ユーカリが丘」~開発の基本に立ち戻ってほしい~「カンブリア宮殿」を見て(2010年9月15日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/09/post-5ce8.html

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2020年8月30日 (日)

首相の辞任記者会見をみて~危機的な民主主義の行方、「安倍憎し」の破綻

 後任がだれになろうと、安倍首相の「病気辞任」と「禅譲」なるシナリオは、絶望的な悲劇に向かう日本の現実である。数々の政府の失政を、首相の犯罪的行為を、ここでシャッフルして、なかったことにするつもりである。8月29日の大方の新聞やテレビが、前日の安倍首相の辞任表明を受けて、安倍一強の「功罪」という形で振り返るが、政府のシナリオと辞任表明の記者会見の質疑は表裏一体にも思えた。「お疲れ様」「ご苦労様」の一言が一社しかなかったとか、余計なこと言う人もいたが、そもそも、権力の監視役でもあるはずのメディアと首相との関係がわかっていない。これまでも少々の小競り合いのシーンを見せながらも、「よいしょ」記者会見の様相を呈してはいたが、今回も、なんら突っ込んだ質問もなかったし、どうでもよい回答をさらに突っ込むこともなかった。目前の現実的な問題を極力回避した質疑だったのではないか。拉致問題、北方領土問題、憲法改正が、やり残した問題というが、憲法改正は国民の関心からも喫緊の課題ではない。

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マスクを外すと。東京新聞より 

  コロナウイルス感染の初期対応と今後の対策、もり・かけ、桜を見る会、などに見る政権の私物化や公文書問題、来年に延期されたオリンピック、非核化問題、などには、最後の方で質疑されるにとどまった、というより言い訳の機会を与えたにすぎなかったのではないか。私ならば、安全保障にかかる軍拡と辺野古基地対応、危険にさらされたままの原発対策、原発事故や災害地の復旧・復興対策、検察庁人事問題、国会議員の汚職や選挙違反対応、慰安婦・徴用工問題などについて質問したかった。国民の暮らしに直結した、教育の空白、医療・介護のひっ迫、消費税増税、TPP、非正規雇用問題、民族差別、マイナンバー普及による情報管理体制、地球温暖化にかかる環境問題、そして、天皇の後継にかかわる天皇制への対応、さらに、メディア幹部との会食、番組介入を続ける政府によるメディアへの介入について、ぜひ質してみたかった。

はっきり言って、首相の病状などはどうでもよい。その詳細はプライバシーにもかかわるだろう。後継問題にしたって、引き出せるわけもないだろう、そんなことに時間をかける記者会見への不満は頂点に達した。

そして、これまでの安倍政権批判は、安倍首相の顔を見るのもイヤだ、アベが憎い、の一辺倒だった。政策一つ一つの分析と対案を提出すべきなのに、「アベ政治を許さない」「安倍による憲法改正阻止」「9条を守れ」「野党共闘」などを叫んでは、いくつものいくつもの署名は集めるけれども、その結果も行方も曖昧なままである。その政府批判勢力も東京オリンピックや天皇制については、沈黙か、開き直りか、礼賛へと傾く昨今である。かつて「岸を倒せ」といって、岸は辞任した後を思う。安倍が辞任したら、なんと言いかえるのか。一市民として、おかしいことはおかしいと、言い続けるしかないのだろうか。

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2020年8月28日 (金)

女川原発のいま、東日本大震災から9年が過ぎて

 2016年、東日本大震災から5年を経た女川を訪ねることができ、下記のような記事をブログにも載せた。それからすでに4年を経てしまったのだが、女川原発の動向が気になっていた。

連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-5cf0.html 
連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択 http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-be09.html
(2016年5月14日)

   8月24日の朝刊のいくつかは、女川町に「女川小・中学校(一貫校)」の開校を報じていた。「復興した町で学びの成長を」(東京新聞)、「新校舎に笑い声」(毎日新聞)とある。総工費約56億は復興交付金27億5000万、原発立地地域共生交付金10億8000万、カタールからの寄付金8億7000万などで賄われている。財源の内訳も、調べてみてわかったのだが、その数字を報じる新聞記事は少ない。大震災前には3つの小学校と2つの中学校があったが、被災や世帯の移転で少子化が進み、小学生196人、中学生103人が高台の新校舎で学ぶことになった、と明るく報道した。町の人口は現在約5700人、大震災発生時からはほぼ半減に近い。

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2020年8月24日毎日新聞より

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原子力発電施設立地地域共生交付金交付規則に基づく地域振興計画(宮城県 2016年2月、2019年8月最終変更)file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/TIQWZOHI/752064.pdf

 しかし、その数日前の8月19日、女川町議会特別委員会は女川原発2号機の再稼働推進の4つの陳情を賛成多数で採択、再稼働反対の請願が反対多数で不採択となった。同委員会は全町議会議員から構成されているので、9月の本会議を待たず再稼働が事実上の容認されたことになると報じている。請願、陳情の提出団体とその理由に着目してほしい。請願の提出団体は、原発関係者の輸送や滞在による経済効果とコロナ禍によって低迷した観光業の復旧に期待しているが、安全性への不安が高まる中、一時的な消費や需要が地元の振興につながるのかは曖昧なままである。1984年に運転開始した1号機は、老朽化のためにすでに廃炉が決まっているが、1995年に運転開始した2号機は、大丈夫なのか、素朴な疑問が残る。さらに請願の一つは2008年に3号機のプルサーマル計画が発表されたが、東日本大震災を経て、いまだに計画は棚ざらしに近い状況での2号機再稼働の不安、危険性を表していると思う。

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   同じ日8月19日に、仙台市の「脱原発仙台市民会議」ほか11団体が仙台市長あてに、事故が起きた場合、市民にも危険が及ぶなどとして、県から意見を求められた際、女川原発2号機の再稼働に反対するよう、要望書を提出していることを地元の新聞やテレビ局は報じている。
 それに先立ち、2018年12月には、1号機の度重なる事故を踏まえて、廃炉が決定していたが、今年に入って、2020年2月26日、原子力規制委員会は、2号機の審査で正式に合格したことを発表していたのである。

 東日本大震災後の福島原発事故後は、原発を擁する地元民だけでなく、多くの国民の間で、原発への不信感、原発事故への不安感は、拭いようもなく深刻なものになっている。各地の原発事故や各電力会社の不正や情報の隠匿などが報じられるたびに、市民にとって必要不可欠な電力、電気なだけに、なんとしても、原発促進阻止、廃炉への道筋を念じるばかりであった。一方で、電力の安定供給、エネルギーミックスを標榜する国と電力会社による原発促進政策は、交付金や補助金攻勢によって、過疎地区振興の名のもとに、自治体・議会の原発容認、促進を取り付けるという手法でしかなく、市民との乖離はますます増幅の一途をたどっている。

 かつてのブログ記事でも書いているように、私は、夫とともに、4年前に、女川原発反対運動の中心的な役割を引き継いで来られたAさんに、女川原発の現状や女川の津波被害・復興計画の状況を聞きながら、町内を案内していただいた。いま、ここで、あらためて、女川原発の歩みを振り返ってみると、「日本の原発の作り方」の典型を見るようで、いまも変わらない、国の在り方を見るようで恐ろしくなった。国民の命と財産を守るはすの政府は、真逆の、目前の一部の人間の経済的利益を優先して、負の結果には責任を取らないという構図が見えてくる。 

 年表は、以下の資料と、新聞記事などを参考に作成してみた。太字は女川原発に限った事項である。
(クリックすると拡大されます)
日本の反原発運動略年表(はんげんぱつ新聞)
http://cnic.jp/hangenpatsu/category/intro 
原子力年表(女川町) 
http://www.town.onagawa.miyagi.jp/05_04_04_04.html#1970

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  なお、上記年表は、以下では鮮明に見ることができます。少し苦労して作成しました。
ダウンロード - onagawa20nenpyo.pdf

   年表を見ていると、原発を擁する自治体やその市民も、同じような苦渋の選択を迫られてきたのではないかとの思いである。初期の段階での選択にあたって、例えば、地権者が土地を売り渡したり、漁民が漁業権を放棄したりするときに、電力会社や行政から十分な情報が開示されず、市民の間でも誤った情報が流布したことも、女川原発反対運動を続けているAさんは指摘していた。壮絶なまでの反対運動を踏まえて、現在も地道な運動を続けている人たちに敬意を表したい。

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原発への道の途中にあった「なくせ!原発」「事故で止めるか みんなで止めるか」、地元女川、牡鹿、雄勝三町の反対期成同盟の立て看板であった。(2016年4月)

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「一番の防災は原発をなくすこと」の文字が読める(2016年4月)

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鳴浜の原発施設を小屋取浜より望む(2016年4月)

  私たちが2016年、女川を訪ねたとき、「震災復興のモデル」のように語られていた女川だった。2015年には完成した新しい女川駅、その駅周辺の商店街シーパルピアも開業したばかりであった。その中には地域の交流館も温泉施設もあった。30分もあれば一回りできる範囲なのだが、建物は新しく、防波堤に遮られず、海へと延びるが街路は美しいのだが、施設の中身となる、私たちのような訪問客、観光客にとって、どれも魅力的なものには思えなかったのである。食事をとろうとしても、少し高めな海鮮丼の店やうどん店などがあり、私たちは迷った末、「わかめうどん」を食するしかなかった。そして周辺は、大規模なかさ上げ工事の真っただ中であったが、4年後の今はどうなっているのだろうか。

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いのちの石碑プロジェクトの一つ、東日本大震災の被害状況が示されていた。10014人であった人口は、今年の6月1日現在(推定)、約5700人というからほぼ半減したことになる

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かさ上げ工事が進む(2016年4月

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高台の医療センターから白い屋根の女川駅をのぞむ(2016年4月)

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2017年11月7日、東京新聞より

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2018年12月15日、毎日新聞より。町の慰霊碑、希望した854人の名が刻まれている

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2020年8月18日 (火)

メデイアの中の「知識人」たちー清水幾太郎を通して考える(2)

 1960年代前半、清水幾太郎は、思想的にも活動にも、大きな転換期を迎えていたことになるのは、前述の二著からも明らかである。1959年3月に結成されて安保改定阻止国民会議は構成団体が多いだけに、さまざまな軋轢があった。とくに前年1958年からラジカルな運動を極左冒険主義として非難する日本共産党と全学連との対立は深刻なものとなり、全学連幹部だった香山健一や森田実らが除名され、彼らが中心となって、いわゆる「ブント」が結成されていた。上の著作には表れていないが、1960年2月、清水が代表を務めるグループが、「諸組織への要請」という文書を革新政党、労働組合、平和団体、学生団体などに送り、このままでは反安保の全国的な、熱いエネルギーを生かし切れず、四散してしまうとして、ラジカリズム批判を批判したものだった。さらに、清水は5月号の『世界』で、「いまこそ国会へ―請願のすすめ」によって、一般市民や学生たちにも「手に一枚の請願書をもって、国会議事堂を幾重にも取り囲もう」と呼びかけ、精力的に講演などに駆け回り、共産党系団体の妨害にもあったという。 
 そして、1960年5月19日から20日にかけての衆議院での新安保条約の強行採決がなされると、いわゆる「進歩的文化人」たちの間には、丸山真男らを中心とした、岸内閣による強行採決は、議会のルールを無視した、民主主義に反するものであり、今後の運動は反安保より民主主義擁護に転換すべきだとする流れが大勢を占めるようになったという。
 
しかし、一方で、この5月20日、6月15日を経た、新安保条約自然承認に至る6月20日までの全国各地での市民や学生たちの安保条約反対の抗議の集会やデモの盛り上り、とくに、私自身も目にしたり、参加したりした国会議事堂への抗議デモの熱気は、忘れることができない。たしかにデモ隊を迎えるのは、参議院、衆議院の面会所の正面に立つのは社会党や総評系の議員たちだったのかもしれない。そんなことはどうでもよかったような気がする。国会の南通用門と向かいの首相官邸の交差点で、激しいジグザグデモを繰り返す全学連の学生たちを、面会所前の歩道を埋め尽くす長いデモ隊の市民たちは見守るようなことはあっても、敵視するような雰囲気はなかったことを思い出す。
 
そして、6月20日の自然承認がされた一方で、岸内閣の退陣が決まると、安保阻止闘争で闘った人々、見守った人々の挫折感はぬぐいようもなく、そのままに終息してしまったのが、うそのようでもあった。大学構内も静かさを取り戻し、私の周辺でも、読書会やセツルメントに精を出す友人が多くなった。私といえば、野次馬的に他学部の講義まで聞きかじり、単位ばかりはせっせと取る学生になっていたが、身につくということもないまま、就職には難儀することになるのだった。 

 清水の全学連支持の色濃い発言の場は、岩波の『世界』からも遠のいていった。といっても、以後は、E・H・カーやサルトルの翻訳の連載などは、同じ岩波の『思想』、『文学』などに執筆していて、岩波との縁が切れるのは、もう少し後のようだ。上記リストをみるように、安保闘争の清水自身の総括は、『中央公論』や『週刊読書人』『図書新聞』などでなされることになり、『潮』や『文芸春秋』『諸君!』に登場するのは1967年以降なのである。 
 評伝①の竹内の興味深い統計がある。清水が雑誌に寄稿を始めた1929年から没年の88年までの年別の執筆本数をグラフ化したものである(306~307頁)。これによると、最初で最大のピークは1938年・39年で、各年120本を越えるのは「東京朝日新聞」の嘱託時代であった。次のピークは1951年・52年で、95、75本という数字になり、それでも、1945年以降1961年までは、年50本前後を推移しているが、1962年から急に減り始め、1971年の50本をピークとして、20本内外を推移することになって、上記のリストの1960~65年という時期は、その下降線のただなかであったことがわかる。清水没後の『著作集』の執筆目録によれば、著書135冊、訳書35冊、編纂・監修43冊、雑誌等執筆併せて2582、ということで、竹内は、そのうちの雑誌等の2246本を対象にしたという(305頁)。
 
こうした流れの中での1960年代の執筆が、ピークを過ぎて下降線をたどっていたとしても、かなりの量にも思える。清水先生の仕事の根拠地は基本的に大学の研究室で、ドアを開けると、背を見せ、窓際の机に向かって、いつも執筆されていたというのが当時の印象である。先生にかかってくる電話の多くは、新聞社や出版社の編集者からではなかったか。なかでも、岩波書店、中央公論社がダントツに多く、さすがだと思ったりした。多くは原稿の依頼や催促らしき話しぶりであった。一つ、興味深く思ったのは、かけてきた人によって、「留守だったことにしてくださらんか」、「今ちょっと手が離せないことにしてくれたまえ」と電話には出られないことも多々あった。中には、二度、三度の末、ようやく出る場合もある。岩波や中公などの場合は、まずそんなことはないのだが、当時、『潮』の編集者からの電話には、「お電話がありましたことをお伝えしておきます」などと応ずることが多かった記憶がある。
 研究室を訪ねてくるお客さんも多かった。とくに学部の応接室のようなものはなかったので、細長い研究室で応対されているようであった。また、連れ立って、出来たばかりの輔仁会館の教職員食堂や目白駅近くの「ボストン」という喫茶室を贔屓にしているようだった。また、外で会う約束は、「新宿ステーションビルの『プチ・モンド』で」と指定するのをよく耳にした。
 先生は、私たちに余分な話をすることはあまりなかったが、1964年のオリンピックの開会式、どこからかの招待で参加したことをうれしそうに話し、私たちをうらやましがらせもした。また、桑沢デザイン研究所から贈られたばかりというライティング・デスクというのか、ビューローというのか、立ったままの姿勢で、ものを書いたり、お茶をのんだりできる机が自慢だった。桑沢洋子がデザイナーに言って「ボクの身長に合わせて、デザインしてくれてネ」と立ってペンを走らせる姿は格好よく、ヨーロッパの貴族の部屋の片隅にでもありそうな、しゃれたデザインの机だった。後で知るのだが、服飾デザイナーとばかりと思っていた桑沢洋子は、かなりの意欲的な人で、たしかに服飾からスタートしたが、バウハウスの影響を受けて、産業デザイン、生活様式にもかかわる総合的な教育を目指し、1966年には東京造形大学を新設しているのだった。

 二つの評伝を読んで、内灘闘争、砂川闘争、そして安保闘争に身をもって参加してきた研究者でもあったが、終生、「ジャーナリスト芸人」と自虐的に語る自負もあった清水幾太郎の足跡、1980年「核の選択―日本よ 国家たれ」(『諸君!』7月号)に至るまでの言説の変わりようをあらためて目の当たりにした。決して「忘れられた思想家」ではなく、現代のメディアで活躍するジャーナリストや評論家、専門家と称する人たちにとっては、「反面教師」として、自身を振り返る手立てにしてもらいたいと思うのだった。
 1965年3月、私は2年間の「目白の森」の勤めを終え、不安でもあった国立国会図書館の試験に引っ掛かり、新卒に混じり、2年遅れの職員となった。

 

 

 

 

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メデイアの中の「知識人」たち~清水幾太郎を通して考える(1)

 1963年の春、学習院大学の門を初めてくぐった。キャンパスは緑豊かで、木造の古色蒼然とした図書館(1909年築、現在資料館)、ネオ・ゴシック調の理学部研究棟(1927年築、現在学習院さくらアカデミー)、本部前の1960年竣工からまもないピラミッド校舎(前川国男設計、2008年解体)、西門に近い、山手線沿いの林の中には池(血洗いの池)もあった。さらに東の奥には、馬場も厩舎もプールもあった。私が勤務することになった法学系の共同研究室は、これも1960年にできた北一号館の二階にあった。政経学部と文学部の研究棟で、学部の図書館はその1階にあった。共同研究室の同僚は四人、私以外は学習院卒業の女性三人、大学院卒業の男性が一人で、主な仕事は、電話の取次ぎ、複写、昼食の注文、三時のお茶出し、先生方の郵便物の仕分け、図書の貸借、資料の整理や校正の手伝いなどであった。男性は名実ともに憲法専攻の「助手」であったが、さぞかし騒々しい環境であったろう。二年目には、メンバーの入れ替わりもあって、女子大卒の方も入ってきた。いまでは考えられないのだが、学科長以外の先生方の研究室には電話がなく、その取次がけっこう忙しかった。 
 二年目には、政経学部は法学部と経済学部に分かれた。一年目の私は、新しくも楽しい世界に思えたが、職業としての選択は間違っていたと後悔し、転職を考えなければならなかった。だが、ここでの二年間、大学や先生方の実態の一端を知ったのも事実で、いま思えば貴重な体験であった。
 
曲がりなりにも、大学時代、安保闘争を経験してきた者には、政治学科の清水幾太郎教授(1907~1988)の存在は大きかった。安保闘争時には「請願デモ」のオピニオンリーダーとして、たびたび新聞や雑誌にも登場する人として、活動的な研究者の印象が強かった。ほかの先生方もそうなのだが、女子学生との関係とは違い、私たち卒業したばかりの女子をどう使っていいのかの戸惑いもあったかもしれない。ぶらりと立ち寄ったり、電話が済んだ後だったり、他愛ないおしゃべりをするというリラックスできる場になっていたようにも思う。

 当時の政経学部の法学関係には、商法の豊崎光衛、東北大学退官後、すでに来られていた民法の中川善之助、我妻栄門下の遠藤浩先生らがいらした。国連本部勤めから帰国したばかりの国際法の波多野里望、政治学関係では、講義やゼミ以外は、あまり姿は見せなかった岡義武、賑やかなクリスチャンでもある政治学の飯坂良明、アメリカ政治史の本橋正、行動科学という分野で、大がかりなコンピュータを利用していた田中靖政、プリンストン大学から戻った国際政治の武者小路公秀らの先生方がいらした。田中、武者小路両先生は、清水チルドレンであったのだろう。法学部独立に備えて教授陣をそろえていたさなかだった。先生方も同僚たちも、なかなか個性的な人たちで、池袋の商店街育ちの私には、戸惑うことも多かった。さまざまなエピソードの中で、清水教授にまつわる些細なことが、どこか、気になるというか、思い出すことが多い。 
 当時もいまも、清水教授の執筆を系統的に読んでいたわけでもない。ただ最近、あの頃の清水教授は、どんな活動や発言をされていたのも併せて知りたくなったのである。新しい評伝の広告につられて、とりあえずつぎの二冊を読んでみた。伝記類を好んで読むようになったら年老いた証拠だと言われたこともある。

①竹内洋『清水幾太郎の派遣と忘却―メディアと知識人』 中央公論新社 2018年2月 (2012年の単行書の文庫化)

②庄司武史『清水幾太郎―経験、この人間的なるもの』(日本評伝選)ミネルヴァ書房 2020年4月

 清水幾太郎の著作は多いが、関係文献も限りなく多いのをあらためて知った。身近な人の回想的なものもあるかもしれないが、ここでは、たった2年間ながら、研究室の雑務を引き受けていたうちの一人として、見聞きしたことを記しておこうと思った。
 前掲、竹内洋の文庫版の「あとがき」で「清水は生涯にわたってメディアに出ずっぱりだった。現代史的関心からみれば、清水を忘れられた思想家とみるよりも、メディア知識人の原型とみることによって腑に落ちることの方が多くなる。このあたりを探ることは、いま新聞雑誌やテレビ、ネットで活躍するメディア知識人を考えることにつながる」と指摘していることに、思い当たるいくつかがあったのである。

 私が在職していた1963年4月から65年3月まで、上記二著の略年譜では、空欄だったり、1・2行の記述だったりする。1960年安保闘争の前後の新聞・雑誌・講演などでの発言や行動にはおびただしいものがあった。過激といわれる安保阻止運動を展開する全学連主流派を支持、共産党へのいら立ち、拒否反応を示していたが、その詳細は知らないままだったが、その挫折感は深いものがあったらしい。その立ち直りというか、転換も早かった印象がある。私には、テキストの分析などはできないが、とりあえず、当時どんな著作を残していたのだろうか。①の巻末の著作目録と1960~65年の著作を国立国会図書館の著者名検索によるリストから、主な雑誌論文と単著を拾ってみた。記事末尾をご覧いただきたい。なお、1959年3月には岩波新書『論文の書き方』を出版していて、ロングセラーにもなっている。(太字は単行本)

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・安保反対運動の現状―-憲法問題研究会における報告 
 世界   1960年1月
・大衆社会論の勝利--安保改定阻止闘争の中で
 思想  1960年4月
・いまこそ国会へ―請願のすすめ―特集・沈黙は許されるか--条約批准と日中関係  世界  1960年5 月
・最悪の事態に立って 請願行動をどう評価するか/”憤り”を組織せよ 4・26統一行動の反省  週刊読書人 1960年5月23日
・批判を思想的に深く―ともに手を取り進むために
 週刊読書人1960年7月25日
・安保戦争の「不幸な主役」―安保闘争はなぜ挫折したか,私小説風の総括 
   中央公論 1960年9月
・サルトルたちと学生たち―故樺美智子に捧げる
 思想    1960年9月
・ 安保闘争一年後の思想--政治のなかの知識人
 中央公論 1961年7月
・歴史とは何か1~6 (E・H・カー著)
 世界   1961年11月~62年4月
歴史とは何か (岩波新書) 岩波書店 1962年
・神話を超えるもの--参院選開票をききながら
  月刊社会党 1962年8月
・理論と実践 経験のスケッチ上・下
 思想  1962年10月11月
・平和運動の国籍
   中央公論 1962年10月
・EECとフランス共産党 
  世界 1962年12月
現代を生きる三つの知恵 (青春新書)   青春出版社 1962 年
・中国の核武装と日本--焦点にたつ中国 
   中央公論  1963年3月
・ 野党の思想的条件
 中央公論   1963年9月
・私たちのサルトル
 文学        1963年3月
・模索と抽象上・下
 思想       1963年5月・6月 
・無思想の時代
 中央公論  1963年7月
・新しい歴史観への出発
 中央公論   1963年12月
現代の経験   現代思潮社 1963年
ヨーロッパ文明史 (文庫クセジュ) クロード・デルマス 著, 訳  白水社 1963年
新しい社会 第16刷改版 (岩波新書) E.H.カー 著, 訳  岩波書店  1963年
・”沈滞“克服のための課題―学生運動の特殊性
 東京大学新聞 1963年11月13日
・言葉言葉 読むこと1~5 サルトル著、訳 
   世界       1964年3月~7月
新しい経済 (岩波新書)  J.ティンベルヘン 著, 訳  岩波書店 1964年
・ビュロクラシー上・下
   思想      1965年6月・7月
精神の離陸 (現代人叢書)  竹内書店 1965 年

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2020年8月12日 (水)

無策の〈長〉はいらない~コロナ対策をどうする?安倍首相、森田千葉県知事、西田佐倉市長

 安倍首相!  8月1日をもって、マスクを変えましたね。全閣僚が大きなマスクをしている中、よく頑張った、というか意地でもという数か月にみえました。アベノマスクの8000万枚の第二次配布の中止が決まった直後がタイミングと思ったのでしょうか。それよりも前に、知人の医師が勤務する病院に、厚労省から、「ご苦労さんマスク」として大量のマスクが届いたけれど、現場では使い物にならず、事務長が処理に困ったそうです。
 行政の長たる者、「意地」を通すのは、いい加減やめてほしい。あまりの失策続きに記者会見も開けず、西村大臣と菅官房長官は、毎日のように登場するが、コロナ対策にしても、判で押したような決意表明ばかりが続きます。首相の広島と長崎での追悼式典での挨拶の文言の重なりが93%もあったと言います。確か8月15日の発言もほとんど前年のコピペに近いという指摘もありました。そして今年は。
 本気度が見えない、ではなくて、本気ではないのでしょう。「スピード感」をもってという言葉も常套句ですが、「感」さえあればいいのでしょう。

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2020年8月3日 、共同通信より

 森田知事!
 この人の顔が見えません。千葉県のコロナウイルス感染者数の激増している中で、西村大臣との知事会議や首都圏知事の会議にも参加しているはずながら、どんな発言をしているのか、報道でも取り上げられることはありません。「Go to トラベル」が前倒しでスタートした折には「go
 to 千葉、どうぞいらっしゃい、千葉でのおもてなしは素晴らしい」みたいなことを言ってはしゃいでいましたのに。この人の無能ぶりは、昨年の台風災害対応でも明らかになって、千葉県民は気づいていますが、県の役人にとっては、処しやすい知事らしいのです。

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2020年7月16日、千葉日報より

  といって、毎日、記者会見を開き、ときには夜間に臨時記者会見までも開き、いかにも「やってます」パフォーマンス見え見えの小池都知事にもうんざりです。その日の感染者数をまるで「戦果」のように、フリップを片手に自在に操る姿は見たくもないです。マス・メデイアも一日、一日の感染者数ほかの数字や統計を、定時にペイパーやネットで発表することを、なぜ要求しないのでしょう。まるで振り回されている感じです。 

佐倉市のコロナウィルス感染者状況
 私の住む千葉県佐倉市は、新型コロナウィルス感染者が急増して、累積で8月10日現在112人となった。7月下旬に「昼カラオケ」での集団感染が報じられ、8月に入っても収まる気配もなく三ケタ桁の感染者になってしまった。かなりの間、感染者ゼロの日が続いていたのにと、佐倉市のホームページや新聞報道などで、少し調べてみた。

4月下旬に、市内のケアハウスで集団感染が発生し、聖隷佐倉市民病院では、救急搬送の患者から看護師3人の感染者が出たと報じられ、不安だった。下志津のケアハウス「くつろぎの里」は、20年ほど前、新設されたばかりの頃、私たち地域の女性で発行していたミニコミ誌の取材をしたことがある施設だった。聖隷は、私が2カ月に1回ほど通院していたので、二つとも身近なだけに不安であった。が、そのあとは、感染者ゼロの日が続いたのを覚えている。調べてみると、4月25日以降6月30日まで、この2か月以上のあいだ、2人の感染者の記録があり、7月に入ってからも下旬までは、1日0~2人ほどの感染者で、3月来の累計で40人には至っていなかった。東京都や県内の感染者が増加する中で、佐倉市では収束に向かっているのかと思っていた。

 そんな矢先、7月27日、「昼カラオケ」の複数店に集団感染が発生したとの報道があり、合計38人にのぼった。7月26日から、他の場所での感染者も含めて、2週間余で合わせて73人の感染者を出したことになる。
 なお、8月に入ってからは、西志津小学校で教頭2人、8月2日に間野台小学校児童1人、8月5日上志津小学校児童1人の感染が発表され、短日間の休校と消毒、濃厚接触者の検査と陰性結果が発表されている。

3月28日~4月24日  26人(0~4人/1日)
4
月25日~6月30日  2人
7月1日~7月25日   9人(0~1人/1日)
7月26日~8月10日  73人

 佐倉市の対策は?
 市の防災放送からは、一日に何回か、手洗い・マスクの励行と三密の回避を流すけれど、この数か月、いつも同じ文言でしかない。現状はどうなのか、さらに具体的な感染防止はどうすべきなのかが聞こえてこない。集団感染への注意喚起や感染不安がある人の受診やPCR検査の受け方などの具体的な指示があってもいいのではないか。広報紙やホームページを見ても、即座に呑み込めない。「印旛健康福祉センター」に電話はなかなかつながらない。

 小学校や中学校の情報にしても、数年前まで小学校の通学児童の見守りをやっていたころは、学校の様子も若干わかったが、いまは孫でもいない限りわからない。近くの中学校の構内の通路を近道として横切らせてもらうとき、出会った生徒や先生に思わず尋ねたりしてしまうことがある。かつては校門近くの掲示板に、毎月の予定表が張られていたのだが、いまでは、つい最近まで「入学おめでとう」のポスターが張られているのみだった。中学校の卒業式だけは、ふつうに行われていたようで、校庭では、生徒も父母たちのいつものような光景が繰り広げられていた。

臨時休校や夏休みはどうなっていたのだろう。 

中学校:4月9日~5月6日(延期)~5月31日
小学校:410日~5月6日(延期)~5月31日
6月1日~再開、12日まで短縮
夏休み:8月8日~8月23日

  なお、登校が再開されたころ、中学校内を横切るとき(ちなみに校舎とグランドを画す、正門と西門をつなぐ道路は市道)、ことさら大声で挨拶をしてくる先生に出会って「給食は大変でしょう」との話になると、「今は、簡易給食なんです。パンと牛乳とか・・・」との答えだった。そのとき時は、なんとなく聞いていたのだが、お孫さんのいる知人によると、びっくりするような「簡易給食」だったらしい。「パンと牛乳にジャムとパックの豆腐?」ということもあったそうだ。保護者のブーイングと市議たちの申し入れもあって、改善されたとか?臨時休校の余波、コロナ対策の不備は、後々の子どもたちの学力もさることながら、精神面や健康面にも大きな不安要素を残すのではないかと心配にもなる。

 官邸の独断で、全国ほぼ一斉に臨時休校を余儀なくされたとき、働いている親の保育園児や学童はどうなるのだろうかと。テレワークだとか新しい働き方とか簡単に言うけれど、できない仕事の方が多いだろうと。その辺の想像力もなく、「どうしても休めない親」の場合のみ「預かる」ことにするとか、まさに「ドロナワ」対策だった。かつての子育て世代だったころの私たち夫婦は、いったいどうしていたのだろうか。

 つぎに、佐倉市の感染予防対策は、防災放送以外に、たしかに、4月と7月に、月に2回の通常の広報紙のほかに、コロナ関連の臨時号を出していた。いま、新聞の読者自体は激減、その折み込みでは読む人も少ないだろうに。また、周辺を見ていると、70代以上の高齢者は、スマホやパソコンでネット情報を入手している人も意外に少ない。そんなな中で、電話などでの対応が大事なのではないか。薬の通販CMではないが、「オペレーターを増やして、お待ちしています」くらいの対応が必要なのではないか。といっても、その対応者がマニュアル通りの答えしかできないアルバイトというのも困ってしまう。

 そうした中で、ようやく、印旛市郡医師会によってPCR検査センターが設置され、6月から稼働した。これには佐倉市も協力連携しているという。その実態は、検査車一台が管内を巡回、ウオークスルー方式で一日最大30件を目途にしているという。しかし、これとて、かかりつけ医か市の健康増進課を通してからというので、絞られてしまうのだろう。巡回の場所や日時も非公開で、これも実態が見えにくく、かえって不安が募ってしまう。

 西田三十五市長、県議時代は、教育勅語復活みたいな過激な言動があった人、選挙に向けて、毎朝、駅頭での挨拶は欠かさなかったともいい、お年寄りに人気があったというが、いまこそ、年寄りを大事にしてくださいね。

 我が家に、元気な犬が二匹いた頃、旅行などで家を空けるとき、当時西田市議の父親が、犬の散歩屋さんをやっていて、何度かお願いしたことがある。日替わりでタッパーに詰めた食事を渡しても、いやな顔をせず、その都度解凍して温めて持参してくださっていた、律儀な方だったが。

 

 

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2020年7月29日 (水)

古関裕而をめぐる動きから目を離せない(2)

 さまざまなエピソードで盛り上げるのは

 朝ドラ「エール」がきっかけになって、古関出身の福島市、福島県では、「古関裕而記念館」や地元の新聞や放送局、観光協会などが、「郷土の偉人」をめぐる情報やイベントを盛り上げている。先の「あなたが選ぶ古関メロデイー」の企画もそうであったが、つぎのような記事もあった。 

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「東京新聞」2020年1月23日

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『毎日新聞』2020年5月28日

 また、「中国新聞」では、つぎのような長い記事がネットで見られる。広島への原爆投下の一年後に古関はつぎのような歌詞での作曲を依頼されていたことがわかり、どこにも音源は残っておらず、古関裕而記念館でも把握していない作品であったという。
 1946年、原爆投下一周年という時期に「中国新聞」が「歌謡ひろしま」を公募して、その当選作を古関裕而が作曲している。「中国新聞」デジタルでは次のように伝えていた。

「原爆投下の翌年、広島の復興を願う歌が生まれた。「歌謡ひろしま」。被爆から1年の事業として中国新聞社が歌詞を公募した。曲を付けたのが古関である。「声も高らに 歌謡ひろしま」「古関氏鏤骨(るこつ)のメロデー完成」。そんな見出しとともに、歌は1946年8月9日付の朝刊で発表された。記事には古関のコメントも載る。「作曲にも苦心して何処でも誰にでもうたへるやうにした」。力の入れようが分かる。」

古関裕而を探して 戦没者への鎮魂の「鐘」
(2020年1月3日)
https://www.chugoku-np.co.jp/culture/article/article.php?comment_id=615326&comment_sub_id=0&category_id=1163

  つぎの公募歌発表当時の新聞記事の写真では読みにくいので、一~三番を再録する。作詩の入選者山本紀代子は、長男を原爆で亡くした歌人と報じられているが、調べてみると、当時の中国新聞社員で歌誌「真樹」を主宰していた歌人山本康夫の妻であることも分かって、私は少々驚いた。五番まである歌詞は、作曲者古関の「談」では「品があって、むづかしくなく、だれにでも歌える立派な」と評されていたが、その歌詞の内容の「軽さ」に、私はいささか違和感を覚えたのである。当時の市民たちの暮らしや気持ちからはかけ離れているようにも思えた。やがて、市民からも忘れ去られていったのではないか。それにしても、古関の変わり身の早さというか、「いつでも、どこでも、誰にでも」エールを贈っていることについての自覚があったのだろうかと。

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『中国新聞』1946年8月9日

 

「歌謡ひろしま」山本紀代子作
(一)誰がつけたかあの日から/原子砂漠のまちの名も/いまは涙の語り草/むかしよもぎのひめばなし/いくさ忘れてひめばなし
(二)街を興せとわきあがる/歌にのびゆく並木みち/増えるいらかの軒あひに/七つ流れの川も澄む/平和うつして川も澄む
(三)みささ瀧水うるほうて/いきも揃うたまちびとの/はずむ力の掛けごゑに/文化築けの鐘が鳴る/歴史夜明けの鐘が鳴る

 以上のように、あちこちでの新聞記事やNHKの番組宣伝によっても量産・拡散される古関情報がもたらすものは何なのか。きっと、あの「戦時歌謡」も、さまざまなエピソードが付されて、「国民的な、天才作曲家」像が作られてゆくのだろう。 

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『赤旗』は、朝ドラ「エール」への応援が半端ではなく、<今週の「エール」>みたいな紹介もある。NHKにも”いい番組”がある、とのスタンスを崩さない。その報道の政府広報ぶりを改めさせなければ、受信料をとっての公共放送ではありえないのではないか

************   ようやく図書館から借り出せた、戸ノ下達也『音楽を動員せよ 統制と娯楽の十五年戦争』(青弓社 2008年2月)を何とか読み終えた。もっと早くに読むべき本だったと痛感しながら多くを教えられた。いまは『第三帝国の音楽』(エリック・リーヴィー著 望田幸男ほか訳 名古屋大学出版会 2000年12月)という翻訳書を読み始めている。私には、カタカナの人名や地名、曲名などが錯綜し、なかなか進まない。著者は序文で、ナチス時代の音楽活動に関する研究が進まない要因として、学術的資料が乏しいことと20世紀のドイツ音楽界の指導層の一貫性をあげている。つまり、ナチスの反ユダヤ主義政策は、たしかに影響力のある人たちを追い立てたが、「大多数の音楽家たちはナチスのもとにとどまることを選択し」、成功を収めた。そして、彼らの多くは、「戦後ドイツにおいても影響力の地位を保持したので、彼らとナチ体制との個別的関係を立ち入って調査することを妨げるのに多大の努力を払ったのである」と述べていたのである。ナチスの戦争犯罪に時効はないと、現在でも追及し続ける、あのドイツにおいてさえも、の思いしきりなのである。一体どういうことなのか、読み進めねばならない。

 

 

 

 

 

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古関裕而をめぐる動きから目を離せない(1)

                                      

なぜ古関裕而なのか

 私は、学生時代から短歌を作っていたが、30代になって、戦時下の歌人たちが発表した短歌や動向に触れることがあって、時代の大きなうねりに呑み込まれ、大政翼賛的な短歌や評論が横行していたことを知った。また、そうした歌人たちの、敗戦後の「平和な」「自由な」時代においても変わらず活動も続けていたと知ることになった。そして、現代の歌人たちが、その先人たちの作品や評論をたどるとき、戦時下の作品や活動には目をつむるようにして、それを語ることをタブー視するのが大方の流儀となった。そればかりか、その歌人の戦時下の作品や活動について、言論が不自由な時代に、時代と真摯に向き合い、国や天皇に報いたとて、批難されるべきものではなく、困難な時代の営為を評価するという流れさえ生まれてきた。いまさら、戦争責任を云々するのは、時代遅れの、野暮なことでもあるかのような風潮もある。ましてや、短歌と天皇制との関係に触れようとすると、ここまで国民の間に定着してきた象徴天皇制に言及することも、同様に忌避されるようになった。

 最近の投書から

 そうした「歌壇」の動向と今回の古関裕而をモデルとするNHKの朝ドラ「エール」をめぐるさまざまな言動とが重なって見えるのだった。たまたま、目に留まった投書があった。
 朝ドラ「エール」が3月末に始まるが、その1月に、古関の出身地の地元紙「福島民報」社が主催し、レコード会社などが共催する古関裕而生誕110周年記念「あなたが選ぶ古関メロディーベスト30」の企画が東京新聞にも発表された。その東京新聞の投書「古関氏の多面性伝えて」(「ミラー」欄、59歳男性、2020年1月22日)は、以下のように訴えていた。東京新聞の記事は古関の応援歌や戦後の歌謡曲ばかりを代表作として紹介していたが、彼は軍歌を量産し、国家総動員体制を支える積極的な役割を果たした人であることに一切触れていなかったことには違和感を覚えた。各時代において音楽が果たした役割や人間性の多面性についても伝えてほしいというものだった。
 また、最近では、朝日新聞「声」欄の「平和のバトン」企画として、古関の歌にまつわる三人の投書が並んで掲載されていた(2020年7月25日)。まず、「若鷲の歌(予科練の歌)」にまつわる「元予科練生 古関作品に万感」(91歳男性)、「「若鷲の歌」あこがれと現実」(90歳男性)の二つで、前の方は1944年夏中学三年生のときに「海軍甲種飛行予科練習生」を志願、「敗戦後、(生き残った)予科練生のたどった道は複雑であった。背後の数多の先輩の死を背負って生きていった。古関先生も同様であったろう」とし、両者の思いを一つにまとめて、鎮魂の交響曲「予科練」を創ったらどうか、というものであった。後の方は、「七つボタン」にあこがれて、「東京陸軍少年飛行兵学校」での訓練の現実は厳しいものだったことを語った。卒寿を迎えた二人の「少国民」の声を真摯に受け止めたいと思う一方、バトンを受け取った者たちは、「鎮魂」という形とは別に、あの戦争が、負け戦が、かくも長く続いたのかの史実を掘り起こし、検証することが大事ではないかと思った。まだやり尽くしてないことがたくさんあるように思う。

 私は、数年前、友人たちと茨城県阿見町にある「予科練平和祈念館」の見学に出かけたことがある。霞ケ浦海軍航空隊におかれた海軍飛行予科の練習生、予科練の少年たちの生活や心情に迫る展示が印象的ではあったが、特攻隊として死に直面する極限状況におかれた若者たちをノスタルジックに、情緒的なスタンスで展示されてはいないかが不安になった。1944年6月から数週間、少年たちと生活を共にしながら写真を撮り続けた、あの土門拳の大量の作品の行方が知れず、自ら処分したのではないかとも聞かされた。展示されているのは、たまたま病床あった練習生に届けられた写真42枚が空襲にも遭わず残されたものであることが分かったのである。

<参照記事>
雨の霞ケ浦~吉崎美術館の高塚一成個展と予科練平和記念館と(2)
(2015年10月15日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/10/post-3abf.html

 もう一つの投書というのは「『長崎の鐘』に永井博士を思う」(77歳男性)と題するものであった。投書者は、永井隆と同郷で「長崎の鐘」は「被爆者治療に身を捧げた永井博士の生涯をたたえた曲」で、時代を超えて引き継がれている「長崎の鐘」を聞くと胸がいっぱいになり、朝ドラ「エール」でその曲が流れるのを心待ちにしているという主旨であった。

サトウハチロー作詩、古関の作曲になる「長崎の鐘」については、最近の私のブログでも書いた通り、この歌の背景には、かなり深刻な問題が潜んでいることを忘れてはならないと思う。

<参照記事>
「鐘の鳴る丘」世代が古関裕而をたどってみると~朝ドラ「エール」は戦時歌謡をどう描くのか(3)
(2020年5月31日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/05/post-48157e.html

 「長崎の鐘」の歌詞は、長崎原爆投下の犠牲者にささげた鎮魂の歌とされているが、モデルとなった永井隆の『長崎の鐘』(1941年1月)は、GHQの検閲下、半分近くの頁を日本軍のマニラにおけるキリスト教徒虐殺の記録「マニラの悲劇」の記事に割く本として出版された。この著書はじめ、永井は「浦上への原爆投下による死者は神の祭壇に供えられた犠牲で、生き残った被爆者は苦しみを与えてくださったことに感謝しなければならない」と繰り返し、原爆投下の責任を一切問うことをしていない。そして、これらの言説が、長崎のカソリック信者たちを、長い間、呪縛し続けたという。

 私自身は、信ずる神を持たないが、カソリックで、教会内部でのパワハラなどとも戦っている、若い時の歌友からは「浦上への原爆投下は『神の摂理』であり、死者は祭壇に供えられた犠牲であり、生き残った者には愛するゆえに苦しみを与えてくださったことに感謝しなければという考えは、カトリック教会の中ではいまでも罷り通っています。私自身、引き続く天災地変やウイルス禍を『神の怒り』と捉えたこともあります。そう捉えるのが簡単だからでしょうか。これまた反省してやみません」との感想もいただいたところである。

<参照記事>
長崎の原爆投下の責任について<神の懲罰>か<神の摂理>を考える
(2013年5月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/05/post-15f2.html

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2020年7月13日 (月)

岡井隆死去報道に接して~亡くなると<旗手>になったり、<巨人>や<巨星>になったり・・・

 7月10日、岡井隆が92歳で亡くなった。7月12日の朝刊で知った。いくつかの新聞記事を読んで、やっぱりな、と思う。岡井が1993年、歌会始の選者になったことをどう伝えるかに、私の関心はあった。
 『朝日新聞』は社会面で「岡井隆さん死去 歌人 現代歌壇を牽引」との見出しで伝えた。同日の「天声人語」にも登場した。そこでは、「破格、破調の堂々たる生き方であった」と締めくくっていた。社会面の記事では「92~2014年に宮中歌会始の選者。かつてマルクス主義者を自称した歌人だっただけに選者を引き受けた時は一部から批判が上がり、話題となった(赤字の92は93が正しい)。07年から18年には当時の天皇、皇后両陛下や皇族の和歌御用掛も務めた」と記す。前日7月11日のデジタル版(14時14分)の見出しは若干ニュアンスが異なり「文化功労者の歌人 岡井隆さん死去 皇族の和歌の相談役」となっていた。

 『東京新聞』は「岡井隆さん死去 前衛短歌運動の旗手」と一面で伝えた。その末尾に「九三年から宮中歌会始の選者、二〇〇七年には皇族に和歌を指導する宮内庁御用掛になった。社会派として活動してきた歌人が宮中行事に参加することは大きな議論を呼んだ」とある。また社会面では、「戦後短歌の歴史体現 時代捉え作風変遷」との記事とともに、東京新聞歌壇選者の東直子と現代歌人協会理事長の栗木京子のコメントがつく。コメントの二人は、それぞれ自身との交流に触れつつ「常に新しいものを取り入れようとしていた」、「新しい潮流にいち早く身を投じて自分の栄養にする」と語っていた。

 『毎日新聞』は、「岡井さん死去 前衛短歌、戦後歌壇けん引」とあり、その冒頭には「前衛短歌運動の旗手として戦後歌壇をリードし、皇室の和歌の指導役も務めた歌人で文化功労者の岡井隆さん・・・」とあり、その末尾でも「宮中歌会始選者を歴任。07年から18年まで宮内庁御用掛を務めた」とあった。日本現代詩歌文学館前館長篠弘と馬場あき子のコメントを付していた。

 『産経新聞』電子版(2020.7.11 13:29)でも「歌人の岡井隆さん死去 前衛短歌運動の旗手」で、「昭和期の前衛短歌運動を牽引(けんいん)し、宮中歌会始選者も務めた歌人で文化功労者の岡井隆さん・・・」で始まり、末尾に「(平成)19年から天皇陛下や皇族方の和歌の相談役として宮内庁御用掛を務めた」とある。

 『日本経済新聞』電子版(2020/7/11 15:15)では「岡井隆さん死去 92歳、戦後短歌界けん引した歌人 」とあり、同紙「カバーストーリー」では「安住と闘った戦後短歌の巨人」とあった。

 『産経スポーツ』(7月11日19時20分)では、東直子と伊藤一彦が、それぞれに「若い人にフラットで穏やかに接してくれた」、「戦後歌壇において塚本邦雄と並ぶ巨星で、包容力があり、話していると本当に心地よい」などとコメントしていた。

 総じて「前衛短歌(運動)の旗手」であり、「歌壇を牽引」したというのが、岡井へのほぼ定まった評価なのだろうか。「前衛短歌の旗手」であった歌人と皇室との濃厚な接触関係については、「話題となった」「議論を呼んだ」と素通りするか、むしろ、それを功績として評価するような書きぶりに思えた。また、「歌壇を牽引」「短歌界を牽引」というのは、ある意味、実情に近いのかもしれない。牽引したのは「短歌」ではなく「歌壇」であったと思われるからである。さまざまな形で、とくに後進の歌人たちへの指導力や政治力を発揮しながら、歌壇での地位を不動のものとしてきたのではないか。また、亡くなった人が、その世界、業界の<巨星>や<巨人>になったりするのはよく見聞きする。著名人の訃報や追悼記事に贈られる定番の賛辞でもある。そして、多くの人たちが、競うように、岡井と自分との出会いや交流を語り、オマージュが氾濫するにちがいない。 
 今後しばらくは、<歌壇>では岡井隆追悼記事が目白押しになるだろう。これまで、岡井隆の皇室への接近とそれをめぐる歌壇の状況について、幾度か言及してきた私としては、当分、目が離せない。

 岡井さん、お疲れさまでした。追悼特集では、だれが、どんな発言をするのか、ゆっくりと楽しまれることでしょう。

 ご参考までに、以下が関連する主な拙稿です。
「歌会始選者の系譜」『短歌と天皇制』(風媒社 1988年10月)
「歌壇に”最高実力者“はいらない」『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年2月)
「<歌会始>をめぐる安心、安全な歌人たち」『天皇の短歌はなにを語るのか』(御茶の水書房 2013年8月)
「タブーのない短歌の世界を <歌会始>を通して考える」(『ユリイカ』2016年8月)

以下は、本ブログ記事です。  

「見回せば<岡井隆>はどこにでもいる~2015年8月に」
(2015年8月2日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/08/20158-df41.html
「勲章が欲しい歌人たち、その後~岡井隆が文化功労者に」(2016年11月4日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-0cbe.html

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«そうだ、きょうは、「サラダ記念日」だった