2021年3月 6日 (土)

『非国民文学論』(田中綾著)の書評を書きました

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     イチジクの根方のスイセンが咲き出しました

 

 『社会文学』編集部からの依頼で、田中綾さんの新著『非国民文学論』の書評を書きました。金子光晴は、これまで、アンソロジーで読むくらいでしたが、今回、まとめて読む機会となりました。また、丸山才一の『笹まくら』も初めて読むことになりました。知ることのなかったことを知り、少しばかり学んだ気がしています。お気づきの点など、ご教示いただければうれしいです。

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田中綾『非国民文学論』(青弓社 2020年2月)書評     

本書の構成は以下の通りである。

第1部 非国民文学論 序章いのちの回復/第1章〈国民〉を照射する生―ハンセン病療養者/第2章〈幻視〉という生―明石海人/第3章〈漂流〉という生―『詩集三人』と『笹まくら』/終章パラドシカルな〈国民〉
第2部〈歌聖〉と〈女こども〉 第1章明治天皇御製をめぐる一九四〇年前後(昭和十年代)/第2章仕遂げて死なむ―金子文子と石川啄木

  いずれも二〇〇〇年以降十年間における論稿だが、第1部は、出版に際して、加筆・修正をしているという。序章では、北條民雄の小説「いのちの初夜」(一九三六年)を取り上げ、国家からも〈国民〉からも疎外された「ハンセン病療養者が『書く』ことを通して新しいいのちを獲得しえたこと」を評価する。第1章では、ハンセン病療養者の戦時下の短歌作品から「〈国民〉から疎外された環境にありながら、むしろ戦時のもっとも〈国民〉的なまなざし」を読み取る。第2章では、明石海人の歌集『白猫』(一九三九年)の後半「翳」に着目し、身体こそ拘束されながらも、何ものにも強制されない想像力で独自に構築していた作品世界を「〈幻視〉による生」と捉えている。これらの章では、短歌の一首一首を丁寧に読み込み、制約された環境の中で、「生き続ける」ことの意味を探り続けている作者たちに敬意を払うとともにその作品を高く評価する。著者のこれらの論述の根底には、ハンセン病に対する従来の「救癩の歴史」と「糾弾の歴史」という二項対立の構図から脱したいという思いがあり、多様な『生存』の営みの過程を具体的に明らかにした上で、近代日本のハンセン病問題を捉え直すという「新たな枠組み」(広川和花『近代日本のハンセン病問題と地域社会』 大阪大学出版会 二〇一一年)を目指しているからだろう。多様な生存の営みへの照射は重要である。しかし、たとえば、藤野豊による『「いのち」の近代史―「民族浄化」の名のもとに迫害されたハンセン病患者』(かもがわ出版 二〇〇一年)や戦前から国策としての絶対隔離政策、無癩県運動を批判してきた小笠原登医師による「強制隔離」の実態究明をも「糾弾」と捉えかねないところに、私は若干の危惧を覚えた。葬られてきたさまざまな具体的な事実を広く知らしめた役割も忘れてはならない。また、「救癩」の歴史には皇室との深いかかわりがあること、療養所内での文芸活動が「精神的慰安」になるとして政策的に奨励されていたことへのさらなる言及、検証も欲しかった。一九九六年「らい予防法」廃止以降、「らい予防法違憲判決」を経ても続くハンセン病療養者、家族、遺族たちへの差別を目の当たりにすると、一層その思いが募る。
 つぎに、著者は、金子光晴が疎開中の一九四四年一二月から四六年三月に、妻と息子の三人で綴っていた私家版の詩集「三人」(二〇〇六年古書店で発見、二〇〇八年出版、光晴の作品の一部は公表済み)に焦点をあてる。光晴は、妻森三千代、息子乾と家族三人が結束して、息子の二度の召集を病人に仕立てて逃れていた。著者は、徴兵忌避という行動のさなかの詩作に「家族以外どこにもよりどころがない漂流者としての視線」を捉える。一九三七年、光晴が出版した詩集『鮫』は抵抗詩集としての評価が高く、時には自虐的に、あるいは執拗なまでに嗜虐的に歌いあげた作品が多いと私も読んだ。光晴は、太平洋戦争下に雑誌等に発表した作品と発表のあてもなく綴っていた作品を、敗戦後の一九四八年に『落下傘』『蛾』として、一九四九年に『鬼の子の唄』として、一気に出版している。加えて、上記のような経緯で出現した詩集『三人』には、徴兵忌避をした息子を両親が守り抜き、励まし合うという詩作による「交換日記」の趣がある。その中の光晴自身の作「冨士」「戦争」「三点」「床」「おもひでの唄」が詩集『蛾』に収められた。「三人」では、呼び合っていたあだ名を、『蛾』への収録にあたって「子供」「父」「母」と普遍化し、加筆や修正も頻繁になされている。上記五篇の作品も、他の未発表作品と同様、完成させたのは敗戦後とみなすべきだろう。 
   
光晴の作品には、日付があるものとないものが混在し、雑誌への既発表作品を、詩集所収の時点で、日付を操作し(「瞰望」「真珠湾」「洪水」など、『落下傘』所収)、詩句を書き換えたりする。たとえば、『蛾』所収の「冨士」での書き換えや『落下傘』所収の「湾」は初出(『文芸』一九三七年一〇月)の「(略)地平は/音のないいかつち、/砲口は唸りで埋まる。戦はねばならない/必然のために、/勝たねばならない/信念のために」の傍線部が削除されたりする。『定本金子光晴全詩集』(筑摩書房 一九七七年六月)の光晴による「跋」には、若い時の詩に手を入れるなどするのも「しかたのないこととお宥し下さい。それから、詩集に入ってゐたもので意に充たないものは削除して」とあり、彼の作品鑑賞には、相当の考証が必要になろう。
   つぎに取り上げられた丸谷才一の小説「笹まくら」は、戦時下に徴兵拒否を選択した青年の中年に至るまでの〈漂流〉の物語である。本書では、敗戦後における、一市民の暮らしを脅かす「非国民」のレッテルの「連続性」に着目している点に、私も共感した。その「連続性」の由来については、作家も、著者も明確にはしていない。
 第2部の一九四〇年代に「明治天皇御製」の「謹解書」の類が噴出した背景についても、著者とともに考えたかったが、誌面が尽きた。(『社会文学』53号 2021年3月)

 

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2021年3月 3日 (水)

現代短歌の”最先端””最前線”とは

 私が会員である『ポトナム』3月号の「歌壇時評」に書いたものです。「無力感」にさいなまれながらもかすかな希望を宿しつつ・・・。いまは、3カ月の時評を終えてホッとしている。
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 一月号の当欄では「新聞歌壇」の選者と投稿者の間のサロン化について触れた。時評欄においても、歌人同士がエールの交換をしたり、若手・新人を褒めはやしたりする場になることが多い。
  昨年末の『朝日新聞』の「短歌時評」(12月20日)において、松村正直は「違和感を手掛かりに」と題して「雪見だいふくだとあまりにふたりで感なのでピノにして君の家に行く 月」(石井大成、現代短歌社賞佳作)などの若い歌人の作品を引いて、「〈ふたりで感〉とは一体何のことか」と問いながら、二個入りパッケージの「雪見だいふく」が「恋人っぽい感じが強く出てしまう」という感じは「ふたりで感」が「ぴったりではないか」と言い、「違和感を覚えた部分が、むしろ魅力になっていることも多い」と結論づける。また、松村は「水・日でやってるポイント5倍デーそのどちらかで買うヨーグルト」(平出奔)など、短歌研究新人賞作品を引いて、「あてどないくらしの様子が、最先端の時代感覚や気分を映し出している」と評していた時評もあった(「短歌時評・二つの最先端」『朝日新聞』2020年9月20日)。なんとも不安定な「ふたりで感」という造語、ヨーグルトの一首にしても、日常の些細な事実や現象を拾って、読者の自分体験に照らしての「あるある」という共感を誘いはするが、時代感覚や気分を反映した「最先端」の作品と言えるのだろうか。
 
『東京新聞』の匿名コラム「大波小波」(12月19日)では、「よれよれにジャケットがなるジャケットでジャケットでしないことをするから」「〈ヤギ ばか〉で検索すると崖にいるヤギの画像がたくさんでてくる」(永井祐『広い世界と2や8や7』)の二首を引いて、「独特の脱力したような世界観が、一層生き生きとラジカルになっている」として、「それがどうしたと思うようなことをわざと書いてこの世界の関節を外す作者の得意技」と称え、「現代短歌の最前線」として伝えている。
  口語短歌の歴史は、決して新しいものでもなく、口語がいけない、破調がいけないというわけではない。現に、俵万智、穂村弘の短歌をきっかけに歌を作り始めたという歌人も多い。上記の作者たちもその流れを継いでいるのだろう。些細な、新しいものへの着目力、親しみやすい表現力が魅力的に思えることもあり、そんな短歌があってもいいと思うが、現代短歌の「最先端」「最前線」との評価には、いささか違和感を覚えたのである。
 
さらに、やはり、上記、永井の歌集から「日の当たるあんな大きな階段でお弁当4人くらいで食べたい」「二年間かけて一回お茶をするぐらい仲良くなれてよかった」を引き、永井は、〈人生〉か〈一瞬〉かを捉える「二元論」に抗おうとしている口語短歌の潮流を作り出したと位置付け、「〈人生〉でもない〈一瞬〉でもない広い世界で、〈私〉はのびのびとその世界との関係をたのしむだろう」という時評(「谷川電話『赤旗』12月25日)にも出会った。近年の、二項対立を嫌う「リベラル」な人々のファージーな物言いを見るような気もする。
 歌人、永井祐は、一九八一年生まれ、現代のリアリズムの源流を探るいくつかのエッセイも書き、同世代の歌人たちと「短歌のピーナッツ」というブログで、二〇一六・一七年には、歌論や短歌史などの、歌集ではない「歌書」の書評を精力的に書いていた。みずからのリアリズムを求め、世代を超えたコミュニケーション力を持つ歌人でもあるはずである。(『ポトナム』2021年3月号所収)

 

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2021年3月 2日 (火)

「諜報研究会」は初めてかも、占領下の短歌雑誌の検閲、日本人検閲官をめぐって(2)

 山本さんの新著『検察官―発見されたGHQ名簿』(新潮社)は、新聞広告を見て、近くの書店に注文したら、発売は来月ですと言われ、入荷の知らせをもらったまま、取りに行けず、この研究会に参加する羽目になった。今は、手元に置いているので、それを踏まえて、研究会の様子をお伝えしたい。
 
今回の「秘密機関CCDの正体追究―日本人検閲官はどう利用されたか」と題されたレジメの冒頭には、つぎのように記されている。
 「検閲で動員されるのは英語リテラシーのあるインテリであった。彼らは飢餓からのがれるためにCCDに検閲官として雇用され、旧敵国のために自国民の秘密を暴く役割を演じた。発見された彼らのリストと葛藤の事例を紹介しながら、CCDのインテリジェンス工作の実態に迫る。」

 長い間、CCD民間検閲局で、検閲の実務にあたっていた、検閲官の実態は謎のままであった。私も、プランゲ文庫の文書の検閲者の名前が気になっていた。文書には、検閲者の姓名や姓がローマ字で記されていて、多くは日本人とみられる名前だったのである。いったいどういう人たちがどんなところで、検閲にあたっていたのだろうかが疑問ではあった。
 山本さんは、2013年に、国立国会図書館のCCD資料の中から名簿の一部を発見し、以降わかった名簿は、インテリジェンス研究所のデータベースに収められている。CCDの職員はピーク時には8700人にも達し、東京中心する東日本地区、大阪を中心とする関西地区、中国九州地区で、おおよそ2万人ちかくの検察官が働いていたと推測している。しかし、その職を担ったのは、当時、まず、英語を得意とする人たちであったことは当然で、日系二世はじめ、日本人の学生からエリートにまで及んだが、その実態は明らかになっていなかった。
 そのような検閲者となった人たちは、敗戦後日本の「民主化」のためとはいえ、GHQによる「検閲」という言論統制に加担したことへの後ろめたさと葛藤があったにちがいなく、口を閉ざし、あえて名乗り出る人たちもなかったなか、時を経て、断片的ながら、さまざまな形で語り始める人たちも出てきた。甲斐弦『GHQ検閲官』(葦書房 1995年)の出版は、検閲の体験者としての貴重な記録となった。そうした検閲者たちの証言を、山本さんは、無名、有名をとわず、丹念に探索し、検閲の実態を解明しているのが、冒頭に紹介した新著であった。例えば、梅崎春生の兄の梅崎光生、ハンセン病者の光岡良二、言語学者の河野六郎、歌人の岡野直七郎、小説家の鮎川哲也、ロシア文学者の工藤幸雄、のちの国会議員の楢崎弥之助、久保田早苗らについて検証する。岡野らのように、実業界、金融業界からも、かなり多くの人たちが動員され、東大、東京女子大、津田塾らの学生らも大量に動員され、その一部の人たちの証言もたどる。
 
今回の山本さんのレポートの前半は、検閲者名簿の「Kinoshita Junji」(以下キノシタ)に着目、あの「夕鶴」で有名な劇作家の木下順二ではないかの仮説のもとに、さまざまな文献や直接間接の証言を収集、分析の結果、キノシタは木下順二との確信を得る過程を、詳しく話された。まるで、ミステリーの謎解きのような感想さえ持った。
 
木下順二(1914~2006)は1939年東大文学部英文学科卒業後、大学院に進み、中野好夫の指導を受けていた。法政大学で時間講師を務めるが、敵性言語の授業は無くなり失業、敗戦後は明治大学で講師を務めていたが、山本安英のぶどうの会との演劇活動も開始している。
 
一方、キノシタは、氏名で検索すると1946年11月4日に登場するが、49年9月26日付で病気を理由に退職している。この間、ハガキや手紙郵便物の検閲を行う通信部の監督官を務め、1948年にCCD内部で実施した2回の英語の試験で好成績をおさめている。かつて未来社の編集者として、多くの木下順二の著作出版にかかわった松本昌次(1927~2019)の証言や養女木下とみ子の証言で、確信を得たという。
 
山本さんは、新著の中で、木下順二が英語力に秀でていたこと、敗戦後の演劇活動には資金が必要であったこと、その活動が活発化したころに、CCDを退職していること、木下の著作には、アメリカへの批判が極端に少ないことなども、いわば状況証拠的な事実もあげている。
 
レポートの後半は、郵便物の検閲が実際どのようになされていたか、東京中央郵便局を例に、詳しく話された。いわゆる重要人物のウォッチリストの郵便物のチェックはきびしく、限られた場所で秘密裏に行われていたという。実際どんな場所で検閲が行われたかについてもリストがあり、東京では、中央郵便局のほかに、電信局、電話局、内務省、市政会館、松竹倉庫、東京放送会館などが明らかになっている。大阪でも同様、大阪中央郵便局、電信局、電話局、大阪放送局、朝日新聞社などで行われていた。しかし、大阪に関しては、関係資料がほとんど残されておらず、焼却されたとされている。
 
内務省やNHK、朝日新聞社などが、場所を提供していたばかりでなく、人材や情報なども提供していたと思われるが、年史や社史にも一切、記録されていないことであった。

 以上が私のまとめとはいうものの、大いなる聞き漏らしもあるかもしれない。 
 また、報告後の質疑で、興味深かったのは、『木下順二の世界』の著書もある演劇史研究の井上理恵さんが「木下順二とKinoshita Junjiが同一人物とは信じがたい。木下は、出身からしても困窮していたとは考えにくいし、CCDにつとめていたとされる頃は、演劇活動や翻訳で忙しかったはずだ」と驚きを隠せなかったようで、今後も調べたい、と発言があったことだった。また、立教大学の武田珂代子さんが、占領期の通訳や検察官におけるキリスト教系人脈はあったのか、朝鮮のソウルでのGHQの検閲の実態、検閲官として、朝鮮人がいたのか、などの質問から意見が交わされた。

 私は、あまりにも基本的な疑問で、しそびれてしまったのだが、GHQの検閲の処分理由に「天皇賛美や天皇神格化」があげられる一方で、天皇制維持や象徴天皇制へと落着することとの整合性がいつも気になっており、アメリカの占領統治の便宜だけだったのかについて、司会の加藤哲郎さんにもお聞きしたかったのだが、気後れしてしまった。

 なお、岡野直七郎についてははじめて知ったので、調べてみたいと思った。1945年12月10日採用となっているから、かなり早い採用だったと思われる。

 

 

 

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2021年2月28日 (日)

「諜報研究会」は、初めてかも~占領下の短歌雑誌検閲、日本人検閲官をめぐって(1)

「諜報研究会」は、初めてかも~占領下の短歌雑誌の検閲、日本人検閲官をめぐって(1)

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第34回諜報研究会(2021年2月27日(土))
ZOOMを利用してオンラインで開催

報告者:中根 誠(短歌雑誌「まひる野」運営・編集委員)
「GHQの短歌雑誌検閲」
報告者:山本 武利(インテリジェンス研究所理事長、早稲田大学・一橋大学名誉教授)
「秘密機関CCDの正体追究―日本人検閲官はどう利用されたか」  
資料
司会:加藤 哲郎(インテリジェンス研究所理事、一橋大学名誉教授)

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  今回、インテリジェンス研究所から、上のようなテーマでの研究会のお知らせが届いていた。ズームでの開催ということで、なんとなく億劫にしていたが、テーマがテーマだけにと、参加した。これまで、早稲田大学20世紀メデイア研究所の研究会には何度か参加したことはあるが、第34回という「諜報研究会」は、はじめての参加であった。

 中根誠さんの「GHQの短歌雑誌検閲」は、すでに、『プレス・コードの影~GHQの短歌雑誌検閲の実態』(短歌研究社 2020年12月)を頂戴していたので、ぜひと思っていた。
 著書は、メリーランド大学プランゲ文庫所蔵資料をもとに作成した奥泉栄三郎編『占領郡検閲雑誌目録・解題』(雄松堂書店 1982年)により国立国会図書館のマイクロフィルムを利用して、短歌雑誌111誌、331冊を対象とした論考である。GHQの検閲局に提出された短歌雑誌のゲラ刷ないし出版物の検閲過程がわかる文書の復刻と英文の部分の和訳をし、その検閲過程を解明し、解説をしている。検閲官による短歌の英訳、プレス・コードのどれに抵触するのか、その理由やコメント部分も丹念な和訳を試みている。文書は、タイプ刷りもあり、手書き文書もあり、判読が困難な個所も多いので、その作業には、苦労も多かったと思う。本書により、短歌雑誌の検閲状況の全容解明への貴重な一書となるだろう。

 研究会での報告は、『短歌長崎』『短歌芸術』を例に、編集者と検察局と間でどういう文書が交わされたかを時系列で追い、出版に至るまでを検証する。国粋主義的な『言霊』を通じては、発行から事後検閲処分の遅れなどにも着目し、事後検閲の目的はどこにあったのかなどにも言及する。また国粋主義的な『不二』と『人民短歌』を例に、どんな理由で「削除」や「不許可」なったのかを量的に分析し、『不二』の違反数が圧倒的に多く、事後検閲に移行するこことがなかったのに比べ、『人民短歌』は、検閲者が一度違反と判断しても、のちに上司が「OK」に変更される例も多いことがわかったという。「レフト」(左翼)より「ライト」(右翼)にはきびしい実態を浮き彫りにする。
 各雑誌自体の編集方針の基準として、レフトとライトの間には、センター、コンサーバティブ、リベラル、ラディカル、といった仕訳がされ、文書には付記されていたことにも驚く。

 中根さんは、事前検閲から事後検閲への移行の基準など明確に読み取れなかったことや、検閲が厳しい場合とそうでない、かなり杜撰な場合とがあることも指摘されていた。中根さんの報告の後、短歌関係なのでと、突然発言を求められ、驚いてしまったのだが、つぎのような感想しか述べられなかった。
 「一昨年、斉藤史という歌人の評伝を出版、その執筆過程で、気が付いたことなのだが、検閲の対象になった「短歌」ということになると、中央、地方の「短歌雑誌」だけでなく、さまざまなメディア、総合雑誌や文芸誌、婦人雑誌、新聞なども対象にしなければならないのではないか。斎藤史という歌人の周辺におけるGHQの検閲を調べてみると、斎藤史は、父親の歌人斎藤瀏と長野に疎開し、敗戦を迎える。地方の名士ということだろうか、斎藤史は、国鉄労組の長野支部の雑誌『原始林』(48年7月)に短歌7首を寄稿しているが、1首が削除されている。斎藤瀏は、『短歌人』という雑誌で何度か検閲処分を受けているが、宮城刑務所の文芸誌『あをば』(46年9月)に8首が掲載されていて、1首にレ点がついていた。だが、この8首は、『短歌人』(46年4月)からの転載だったので、すでに検閲済みで、1首が削除されての8首だった。二重のチェックを受けていることになるが、『あをば』1首には、「OK」の文字も見えて削除はされなかった。こんなことも起こり得るのかなと。そういうことで、プランゲ文庫の執筆者索引のありがたさや大事なことを痛感した。」
 発言では触れることができなかったのだが、史の作品の次の1首が「ナショナリズム」と「アンチ・デモクラシー」を理由に削除されている。史の『全歌集』には、収録されていない。
・この國の思想いく度變轉せしいづれも外より押されてのちに
 また、斎藤瀏のレ点のついたのはつぎの1首だった。
・皇國小さくなりたり小さけれど澄み徹りたる魂に輝け

 これまでも、私自身、旧著において、以下のようなテーマでGHQの検閲に言及してきたものの、断片的だったので、今回の中根さんの労作には、敬意を表してやまない。
①「占領期における言論統制~歌人は検閲をいかに受けとめたか」『短歌と天皇制』(風媒社 1988年10月)
②「被占領下における短歌の検閲」『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年2月)
③「占領軍による検閲の痕跡」『斎藤史―『朱天』から『うたのゆくへ』への時代』(一葉社 2019年1月)

 ①では、『短歌研究』1945年9月号の一部削除、『日本短歌』1945年9月号の発禁、斎藤茂吉歌集『つゆじも』、斎藤茂吉随筆集『文学直路』、原爆歌集『さんげ』などについて書いている。
 ②では、占領下の検閲についての先行研究に触れながら、検閲の対象、検閲の手続き、検閲を担当した日本人、検閲処分を受けた著者・編集者・出版社の対応について、今後の課題を提示した。とくに、桑原武夫「第二芸術論」が、彼の著作集の編集にあたっては復元することもなく、削除処分後の文章が載り、検閲についての注記もなかったことに象徴されるような潮流にも触れた。
 
③では、発言でも触れたことと、検閲を受けた歌人たちの対応について言及し、『占領期雑誌資料体系・文学編』(岩波書店 2010年)の第Ⅴ巻「短詩型文学」において、齋藤慎爾の解説「検閲に言及することは、自らの戦前、戦中の<戦争責任>の問題も絡んでくる。古傷が疼くことにあえて触れることもあるまい。時代の混乱を幸いとばかりに沈黙を決め込んだというのが実情ではないか」との指摘に共感したのだった。

山本武利先生の報告は次回で。(続く)

 

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2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(4)

7.平成の天皇夫妻の短歌における「平和祈念・慰霊」というメッセージ

 つぎの平成期の天皇夫妻の短歌を見ていきたいと思います。さきに、沖縄へのこだわりは強く、11回の訪問とともに、多くの短歌や「おことば」を残し、その背景については述べました。沖縄への思いと同様なスタンスで、さらに広く、「平和祈念・慰霊」のための短歌を多く詠んでいます。ここでは、主なものを資料として配っていますが、さらに、しぼった形で、触れてみたいと思います。多くは、天皇・皇后の慰霊の旅の訪問先で詠んだ短歌なので、天皇・皇后の同じ体験のもとに詠んだ短歌が残されていますが、やや異なる視点であることに注目しました。優劣というわけではなく、二人は、デュエットのように歌い続けてきました。
 天皇は、おおらかというか、大局的な、そして儀礼的な短歌が多く、皇后は、人間や自然観察が細やかで、情緒的な短歌が多いように思います。天皇の短歌には、明治天皇や昭和天皇の作かと思われるような次のような短歌もあります。

⑰ 波立たぬ世を願ひつつ新しき年の始めを迎へ祝はむ
(天皇)(1994年 歌会始 「波」)
⑱ 国のため尽くさむとして戦ひに傷つきし人のうへを忘れず
(天皇)(1998年 日本傷痍軍人会創立四十五周年にあたり)

 1994年に硫黄島で詠んだ短歌では、天皇は、「島は悲しき」と歌い、皇后の作は、兵士たちの最期を「水を欲りけむ」と歌っています。

⑲ 精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき
(天皇)(1994 硫黄島)(終戦50年)
⑳ 慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲りけむ
(皇后)(1994 硫黄島)

 1995年、広島を訪れた折には、同じ「被爆五十年」の作ながら、皇后は「雨の香」に着目しています。「黒い雨」を浴びた被爆者たちはどう思われたでしょうか。
㉑ 原爆のまがを患ふ人々の五十年の日々いかにありけむ
(天皇)(1995年 原子爆弾投下されてより五十年経ちて)
㉒ 被爆五十年広島の地に静かにも雨降り注ぐ雨の香のして
(皇后)(1995年 広島)

 2005年、サイパンを訪れた際には、皇后は、次々と崖から飛び降りて自決していった女性たちの「足裏」に思いを至らせた作になっています。
㉓ サイパンに戦ひし人その様を浜辺に伏して我らに語りき
(天皇)(2005年 サイパン島訪問)
㉔ いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし
(皇后)(2005年 サイパン島)

 また、皇后の次のような短歌には、戦争や内乱における加害・被害の認識についてやや屈折した思いを詠んだ短歌もあります。
㉕ 慰霊碑は白夜に立てり君が花抗議者の花ともに置かれて
(皇后)(2000年 オランダ訪問の折りに)
㉖ 知らずしてわれも撃ちしや春闌くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず
(皇后)(2001年 野)

2000523
写真は、朝日新聞より。2000年5月23日、アムステルダムにおける抗議活動、第2次大戦中に日本軍は、インドネシアで捕虜4万人と民間人9万人のオランダ系住民を強制収容所に抑留、多くの死者が出ている。

 こうして、天皇夫妻が発するメッセージは、国民にどう届いているのでしょうか。その検証は難しいのですが、少なくとも、ジャーナリストや史家、歌人たちからマス・メデイアを通じて流れてくる鑑賞や解説は、国民を思い、平和を願い、護憲を貫くメッセージとして、高く評価する人たちがほとんどです。さらに、2015年戦後七〇年の「安倍談話」と8月15日全国戦没者追悼式における天皇の「おことば」とを比較し、政権への抵抗さえ感じさせるという声も少なくありませんでした。
 
このようにして、平和や慰霊をテーマにした短歌に限らず、災害や福祉、環境などをテーマに短観を詠み、国民に発信することによって、政治・経済政策の欠陥を厚く補完し、国民の視点をそらす役割すら担ってしまう事実を無視できないと思っています。  
 現在の徳仁天皇夫妻の短歌は未知数の部分がありますが、もっぱら被災地訪問や視察先の歌が多く、雅子皇后は、皇太子妃時代から、わが子の詠んだ短歌が多くなっています。短歌での発信力は、平成の天皇時代とは明らかに違い、自然や家族を歌い、ときには、行事での儀礼的な短歌が多くなるのではないかと思っています。
  以上、主として昭和天皇と平成の天皇夫妻の短歌を紹介しながら、どんなメッセージが託されているか探ってみました。天皇たちの思想や気持ちを推し量り、それによって歴史を語ることの危うさをひしと感じています。「短歌」は、短い文言で成り立っているので、わかりやすく、「考え方」や「お気持ち」や「心情」が端的に表現されて、人々の心にも届きやすいとして、マス・メディアや歴史書には、幾度となく登場してきました。
  皇室は、「国民に寄り添い、平和を願い、家族や自然をいつくしむ」人々として語られ、「国民統合の象徴」「家族の在り方のモデル」としての役割を担っていますが、今後のゆくへを注視しなければなりません。「短歌」もそうですが、人間の残した日記やインタビューなどで語られたことをあまり過大評価してはならない、と感じています。 

8.終わりに~“リベラル派”の護憲と天皇
   国民は、天皇の短歌やおことば、振る舞いによって、寄り添われ、慰められることはあっても、決して具体的な解決にはつながらないまま、一種の思考停止に陥ってしまうのではないかという懸念が去りません。天皇制の陥穽ではないかと思うのです。   近年、そうした陥穽への道をくだるのを助長する、いわゆるリベラルと称される識者などの発言がマス・メディアに蔓延するようになり、危惧を感じています。
  
平成の天皇夫妻の沖縄の短歌や発言による「天皇の沖縄への思い」ついて、右翼と称される日本会議は、2012年に、『天皇陛下と沖縄」というブックレットを出版するようになります。
 
ところが、日本会議ばかりでなく、天皇の「沖縄への思い」「平和への願い」を高く評価する発言が、いわゆる<リベラル派>と呼ばれる識者から見受けられるようになりました。

矢部宏治(1960~):1975年のひめゆりの塔事件の夜の談話をひいて、「初回訪問時の約束通り、長い年月をかけて心を寄せ続けた沖縄は、象徴天皇という時代の「天皇のかたち」を探し求める明仁天皇の原点となっていったのです」(『戦争をしない国―明仁天皇メッセージ』小学館 2015年)。矢部は『日本は、なぜ基地や原発を止められないのか』(集英社インターナショナル 2014年)の著者でもあります。
金子兜太(1919年~2018年): 金子兜太選「老陛下平和を願い幾旅路」(伊藤貴代美 七四才 東京都)選評、「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」(「平和の俳句」『東京新聞』2016年4月29日)。「アベ政治を許さない」のプラカード揮毫者でもあります.
金子勝(1952~):「【沖縄に寄り添う】天皇陛下は記者会見で、沖縄のくだりで声を震わせて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と語る。アベは聞いているのか?」(2018年12月23日ツイート✔ @masaru_kaneko)。マルクス経済学者として活動しています。
白井聡(1977~):「今上天皇はお言葉の中でも強調していたように、「象徴としての役割」を果たすことに全力を尽くしてきたと思います。ここで言う象徴とは、「国民統合の象徴」を意味します。天皇は何度も沖縄を訪問していますが、それは沖縄が国民統合が最も脆弱化している場所であり、永続敗戦レジームによる国民統合の矛盾を押しつけられた場所だからでしょう。天皇はこうした状況全般に対する強い危機感を抱き、この危機を乗り越えるべく闘ってきた。そうした姿に共感と敬意を私は覚えます。天皇が人間として立派なことをやり、考え抜かれた言葉を投げ掛けた。1人の人間がこれだけ頑張っているのに、誰もそれに応えないというのではあまりにも気の毒です。」という主旨のことを述べています。(「天皇のお言葉に秘められた<烈しさ>を読む 東洋経済新報オンライン 2018年8月2日、国分功一郎との対談)。『永続敗戦論―戦後日本の核心』(太田出版 2013年)の著者でもあります。
内田樹(1950~)天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること、これは古代から変りません。陛下はその伝統に則った上でさらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむ者の慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです。現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。(「私の天皇論」『月刊日本』2019年1月)
永田和宏(1947~):「戦争の苛烈な記憶から、初めは天皇家に対して複雑な思いを抱いていた沖縄の人々でしたが、両陛下の沖縄への変わらぬ、そして真摯な思いは、沖縄の人々の心を確実に変えていったように思えます。両陛下のご訪問は、いつまでも自分たちの個々の悲劇を忘れないで、それを国民に示してくださる大きなと希望になっているのではないでしょうか」(『宮中歌会始全歌集』東京書籍 2019年)。永田は、冒頭に紹介しました『象徴のうた』の著者でもあり、2004年戦後生まれの歌会始選者として就任してから、現在に至っています。安保法制の反対を主張していましたし、今回の学術会議の会員任命問題でも異議を唱えている研究者です。

 美智子皇后との交流を重ねて語る石牟礼道子、新天皇の大嘗祭での「おことば」を「お二人に願うことは、お言葉で繰り返された平和を、ずっと希求される<象徴>であっていただきたい」と述べた落合恵子(「両陛下へ」『沖縄タイムズ」2019年11月12日)、 憲法学者の長谷部恭男は、天皇制は、憲法の番外地というし、木村草太は、天皇の人権が大事というし、加藤陽子は、半藤一利を偲んで、「昭和史」シリーズを大絶賛しています。原武史は、いまの天皇が、元旦のビデオメッセージで夫妻揃って、「国民」ではなく、「皆さん」「皆さま」、と呼び掛けていることを評価していました。言葉だけの問題ではないようにも思います。宮内庁にも物申し、着眼のユニークさと多角的な天皇制論を展開されていることには敬意を表しているのですが。
   こうした発言を、どうとらえるのか、どう乗り越えればよいのか、とくに若い世代の天皇制、天皇への無関心という壁にどう対峙していくのかが、今後の課題だと、私は考えています。歌壇では、私に対して、非寛容、視野狭窄、硬直といった声も聞こえるのですが、まだ私の仕事は終わってないような気がしています。

 以下は、当日の話には、触れることができなかったのですが、配布資料には収録したものです。現在、短歌の世界、第一線で活躍する中堅歌人たちの天皇観は次のような作品から読み取れると思いますが、いかがでしょうか。吉川、斉藤の両者とは、かつて、論争になりかけたことがありました。

  • 天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓の力士をあかすことなく
    (穂村弘1962~)(『短歌研究』2006年10月)
  • ゴージャスな背もたれから背を数センチ浮かせ続ける天皇陛下(穂村弘)
    (『短歌往来』2010年2月)
  • 天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ
    (吉川宏志1969~)(『短歌』2011年10月 『燕麦』2012年所収)
  • つまりなるべくしずかに座っててください 察しますから、察しますから(国民統合の象徴でいただく為の文化的貢献こそ、われわれ歌人にしか不可能な、超政治的貢献である)
    (斉藤斎藤1972~)(『短歌研究』2021年1月)

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2021年2月26日 (金)

2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(3)

6.天皇の短歌と現代の「歌会始」の推移
 天皇の短歌と私たち国民との接点は、つぎのようにいくつかあります。

<天皇の短歌と国民との接点>
① 1月1日の新聞など:1年を振り返っての天皇、皇后の短歌の公表
② 1月中旬の歌会始:天皇はじめ皇族、選者、召人、入選者10人の歌ととも
に披講。NHKテレビの中継/当日の新聞夕刊と翌日の朝刊での発表/宮内庁HPでの登載
③ 歌会始の詠進(応募)の勧め、入門書・鑑賞書などへ収録、出版
④ 天皇の歌集、皇后との合同歌集での出版および鑑賞書の出版など
⑤ 在位〇年、死去、代替わりの節目の新聞・雑誌など記事、特集、展示など
⑥ 歌碑など

 なかでも、天皇と国民が一堂に会して、親しく短歌を詠み合うとされる「歌会始」というイベントは、国民と天皇を結ぶ大事なパイプのような役割を果たしている、文化的な伝統的な貴重な皇室行事だからという二つの理由により、大切にしなければならない、と宮内庁サイド、マス・メディア、短歌雑誌、多くの歌人たちが、一丸となって、盛り上げ、宣伝に努めてきたと思います。
 また、天皇・皇后の歌集という形では、昭和天皇の場合は、以下のように大手の新聞社から出版されています。
1951年、皇后と一緒に『みやまきりしま』(毎日新聞社)
1974年、『あけぼの集』(読売新聞社)
1990年、天皇単独の『おほうなばら』(読売新聞社)

 平成の天皇・皇后の場合は、1986年皇太子夫妻の歌集『ともしび』(婦人画報社)、1997年美智子皇后の単独歌集『瀬音』(大東出版社)、1999年、2009年、2019年、10年ごとの3回の記録集「道」(NHK出版)には、夫妻の短歌も収録されています。
 さらに、天皇・皇后はじめ皇族、選者、召人、入選者の短歌が収録された歌会始詠進(応募)のための入門書や鑑賞書は、編者も違え、多くの出版社からたびたび出版されています。
 
さまざまな形で、天皇・皇后の短歌の露出度は大変高くなりましたが、その発表の場の中心でもある「歌会始」は、どんな形で、開催されていたのか、簡単に振り返りたいと思います。私は、これまで、敗戦後からの「歌会始」の変遷を以下のように細かく六期に分けてきました。

<敗戦後の歌会始の推移> 
第1期(1947~52):選者も、戦後当初は御歌所の寄人と呼ばれた千葉胤明、鳥野幸次らが混在、50年にすべてが斎藤茂吉らの民間歌人になる
第2期(1953~58):57年、初めての女性選者四賀光子(太田水穂妻)、茂吉没後、土屋文明。それまで、応募者数千人から1万人前後低迷
第3期(1959~66):1959年4月皇太子結婚、いわゆるミッチーブーム。2万から3万、4万と増え、1964年には4万7000首もの歌が寄せられ、ピークとなり、五島美代子と女性選者二人時代が続く。1960年安保闘争、1961年「風流夢譚」嶋中事件を経て、皇室批判自粛・タブー化
第4期(1967~78):67年佐藤佐太郎、宮柊二選者入り、大衆化進む。67年初の建国記念日、68年明治百年、71年天皇生誕70年、天皇訪欧、76年在位50年行事など続く
第5期(1979~92):戦中派の岡野弘彦(1924~)と上田三四二(1923~1989)の二人の選者入り。89年昭和天皇死去
第6期(1993~):昭和天皇没後1993年からかつての前衛歌人、岡井隆(1928~2020)選者入り

 今回は、第6期、平成期以降にあたる部分の歌会始の特徴を述べたいと思います。

<平成期の歌会始の特徴>
・ 選者の若返り、新聞歌壇選者、話題性のある歌人の登用
・ 入選者の世代的配慮、若年化(中高生を必ず入れる)
・ 短歌ジャーナリズムとの連携(詠進要項掲載、皇族の短歌、歌会始関係記事などの増加)
・ 他の国家的褒章制度との連動(文化勲章、文化功労者、芸術院会員、紫綬褒章、芸術選奨、勲章制度など)
・ 陪聴者選定により選者予備軍、歌会始支援者への配慮
・ 天皇・皇后の短歌のテーマの多角化、平和や慰霊の短歌だけでなく自然や文化、福祉、環境 家族・・・

 かつて、歌会始や歌会始選者を痛烈に批判し、前衛歌人ともされていた岡井隆が選者入りしたのは1993年です。岡井の選者就任の弁は「もはや歌会始は、短歌コンクールの一つに過ぎず」とか「天皇の象徴性は薄らいだ」とか「自分一人が選者になったからと言ってそう変わるものではない」と弁解しながら、2014年まで務めます。「選者ばかりでなく、御用掛も務め、戦争体験者として、体が続く限り、天皇夫妻にお仕えしたいとも語っていました。選者就任当初は、歌壇にも批判の声があがっていましたが、次第に沈静化していきます。 
 2004年には戦後生まれの永田和宏が選者にもなり、今世紀に入ると、歌会始と現代短歌とは、何の違和感もなく融合する時代に入ったと言えます。さらに言えば、平成の天皇夫妻の「平和志向」と相まって、いわゆるリベラル派といわれる人たちまでが、親天皇制に傾いてきたというのが現状だろうかと思います。2015年、岡井と入れ替わりに選者に就任した今野寿美(2008年から選者になった三枝昂之の妻)という女性歌人が、2016年の赤旗の歌壇の選者にもなったのです。同じころ、共産党は、天皇が玉座に座って国会開会の言葉を述べる開会式に、それまで欠席していたのですが、突如参加するようになり、赤旗の発行日付に元号を併記するようになるなどの一連の動きに、大いなる疑問と退廃を感じたのです。象徴天皇制は日本国憲法の平等原則と相入れないとする党の綱領(2004年)と整合性を考え、非常に重要な意味を持っていると考えています。
 以下の年表には、平成期の歌会始の推移と天皇・皇后をめぐる動向
を記載しています。応募歌数の推移、選者の構成なども併せてご覧ください。
 
なお、歌会始選者と他の国家的褒賞制度との微妙な関係にも着目しているところです。選者になることが、例えば芸術院会員や文化功労者への通過点になってはいないか、あるいは、文科省の芸術選奨の受賞者や選考委員を経て、選者に到達するような場合も少なくなはないのではないと思われます。そうした中で、他の褒章はともかく、歌会始の選者だけは、拒み続けている歌人も少数ながら、見受けられないこともないのが現状でしょうか。

「平成期の歌会始の動向略年表」

ダウンロード - e5b9b4e8a1a8efbc92.pdf

 つぎに、平成の天皇・皇后の「平和・慰霊」のメッセージを込めた短歌と「リベラル派」の論者の天皇制について述べたいと思います。(続く)

 

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2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(2)

 4.昭和天皇は、敗戦後、どんな短歌を詠んできたか

 さきに、昭和天皇の太平洋戦争開戦時と「終戦」時の二つの「聖断」にかかる短歌を紹介しました。「身はいかになるとも」の思いで終戦の決断を下したと言いますが、こうした短歌は、あまりにも自己弁護的すぎて、当時発表されることが憚れたのでしょうか。1968年に出版された木下道雄『宮中見聞録』により公けになります。年表「天皇退位問題と極東軍事裁判の動向略年表(1945~1948)」に見るように、学者や大手新聞社の社説などでも天皇退位論議が盛んでしたし、東条英機らが逮捕され、極東軍事裁判が始まろうとし、憲法改正論議の行方も不透明でした。ただ、この時期に、つぎの2首が公表されています

⑥ 海の外の陸に小島にのこる民のうへ安かれとただいのるなり
(1946年1月1日、新聞発表)

⑦ ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ(1946年1月22日 歌会始「松上雪」)

 昭和天皇は、1946年1月1日の年頭詔書でいわゆる「人間宣言」をしていますが、「五か条御誓文」をもって、民主主義の根本とし、神の国を否定したものでもなく、天皇の神格を明確に否定したものではなく、自分が現人神ではないことを述べるにとどまるものでした。
 ⑥は、雪の降るきびしい冬の寒さに耐えて、いつも青々と成長する松のように、人々も雄々しくかくありたいとの解釈ができますが、アメリカのジョン・ダワーという歴史家は『敗北を抱きしめて』において、「忍耐の美しい姿を表す古典的なイメージ」を作り上げ、「(天皇の)反抗の意を絶妙に表現したものである」とした、うがった解釈をしています。しかし、その頃の天皇は、実に不安定な場にあって「抵抗」どころかではなかったのではないかと推察されます。
 敗戦の翌年46年2月からは地方巡幸を開始します。その頃の短歌に、以下があります。

⑧ わざはひをわすれてわれを出むかふる民の心をうれしとぞ思ふ(1946年10月30日宮内省発表)

⑨ たのもしく夜はあけそめぬ水戸の町うつ槌の音も高くきこえて(1947年歌会始「あけぼの」)

⑩ ああ広島平和の鐘も鳴りはじめたちなほる見えてうれしかりけり(1947年12月広島・中国地方視察)

 出迎えてくれて嬉しい、復興が進んで頼もしい、と詠んでいますが、当時、小学生だった私の体験からも、一般の人々の暮らしの実態を知ろうともしなかったのではないかと思います。1946年5月には食糧メーデーも起きています。 
 ⑩の広島訪問の歌は、被爆の実態を知らず、被爆者の思いには至らない、まるで明るく、軽快な「流行歌」のようにも思えます。後年の記者会見で「原爆は仕方なかった」と述べたことにも通ずるところがあります。

 それでも、さまざまな行事や訪問先で、儀礼的に挨拶のような戦没者追悼や戦争追想のようなつぎのような短歌を詠み続けていました。
⑪ 年あまたへにけるけふものこされしうから思へばむねせまりくる(1962年日本遺族会創立十五周年)

⑫ 年あまたへにけるけふも国のため手きずおひたるますらを思ふ( 1962年 傷痍軍人うへを思ひて)

⑬ 戦をとどめえざりしくちをしさななそぢになる今もなほおもふ(1971年伊勢神宮参拝)ヨーロッパ旅行を前に旅な安全を祈りに

⑭ 戦果ててみそとせ近きになほうらむ人あるをわれはおもひかなしむ(1971年イギリス)

⑮ さはあれど多くの人はあたたかくむかへくれしをうれしと思ふ(1971年イギリス)

⑯ 戦にいたでをうけし諸人のうらむをおもひ深くつつしむ(1971年オランダ)

 ⑪⑫ 同じ年に、軍人遺族と傷痍軍人たちに向けて詠んだものですが、「年あまたへにけるけふも」と同じ上の句で始まる歌であったとは、まさに「ごあいさつ」にも思えてしまいます。「むねせまりくる」も、昭和天皇の常套句です。イギリスやオランダでは、かつて日本の捕虜になった人々やその遺族から、激しい抗議を受け、イギリスでは植樹した木を抜かれたり、オランダでは、卵を投げつけられたりしたとも報道されています。「おもひかなしむ」「深くつつしむ」と詠みながら、⑮のように、あたたかく迎えられ、厚く迎えてくれる人がいたからと、すぐに立ち直る軽さと無神経さに驚きもします。 

 昭和天皇の短歌が平和への願いや戦争への思いを込めたものとして強調され、繰り返されることは、すでに戦争を知らない世代をはじめ、天皇や天皇の短歌、短歌そのものへの関心がない人々にもたらされる効果は微々たるものかもしれませんが、皇室イベントの折々に、種々のメディアにより繰り返されることによるアナウンス効果は無視できないのではないか、と思われます。その意味で、メディアの果たす役割は大きいと言わざるを得ません。

5.昭和天皇に戦争責任はなかったのか 
 短歌からは少し離れますが、そもそも、昭和天皇には、大日本帝国憲法下においては、第3条天皇は神聖にして侵すべからず、とあるのだから、どんな責任をも負う必要がない、あるいは、天皇は、軍部からの正確な情報が届いておらず、軍部に利用されていたにすぎないから戦争責任はないという俗説も流布されていますが、それらの説に、従来から実証的に反論する研究者は、決して少なくはありません。
 たとえば、山田朗は、旧憲法11条天皇は陸海軍を統帥する、とあって制度的に「大元帥」であって、軍部の言いなりになっていたわけではなく、軍事の知識も東郷平八郎仕込みで豊かであったし、数々の具体的な作戦計画や内容に深く介入、関与していたと、数々の例で実証しています。
 
私たちにもわかりやすい例でいえば、つぎのいずれの場合も、天皇の意思であったことはすでに認知されていることだと思います。
・1936年 2・26事件では、反乱軍の鎮圧と軍事裁判による処刑
・1945年3月以降の沖縄戦における地上戦とその続行

 また、死去報道の折、敗戦と終戦の二つの聖断をもって、昭和天皇は平和主義者だったというイメージが醸成されましたが、「戦争責任がない」という証として、いくつかの方法がとられていることもわかってきました。
 一つは、次のようなエピソードが繰り返されてきたことです。
・太平洋戦争直前の1941年9月6日の御前会議でつぎのような明治天皇の御製「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風立 ちさわぐらむ」を読み上げた
・1945年敗戦直後、昭和天皇が、疎開地の明仁皇太子にあてた手紙に「日本が負けたのは軍人が跋扈したからで、終戦を決断したのは三種の神器をまもり、国民を守るため」との主旨を綴っていた

 また、つぎのような、天皇の身近な人物の日記やメモの公開により、戦争への反省や退位の意向を漏らしていたことをもって、免責を示唆するようなこともあります。しかし、それはあくまでも個人の日記であり、メモのであって、しかも天皇の発言は「伝聞」であり、記録者の「恣意」も働いていることを前提にしなければならないのではないでしょうか。

・1937年近衛内閣時代の閣僚、敗戦時は内大臣だった、天皇の側近中の側近だった木戸幸一による『木戸幸一日記』(東大出版会 1966年)
・外交官から政治家となり、リベラルと称せられ、敗戦後片山哲内閣の後を継いで首相となった芦田均の『芦田均日記』(岩波書店 1986年)
・初代宮内庁長官田島道治の「拝謁記」(毎日新聞2019年8月19日ほか)
・マッカーサーと昭和天皇との会談通訳の人たちの日記(朝日新聞2002年8月5日)

 そして、昭和天皇は、結局、結果的には、退位もしませんでしたし、戦争責任発言もありませんでした。のちの記者会見で、戦争責任問題を「文学上の言葉のアヤ」と称して、スルーし、原爆投下は「仕方なかった」とさえ語っていました。
 それでは、なぜそのようなことが可能であったかといえば、GHQは、天皇の戦争責任を問うよりは、当初の方針通り、天皇の敗戦後の処遇については作戦が練られていて、象徴天皇制の構想、天皇を中心とする傀儡政権構想などのもと、「退位」より「在位」をとり、スムーズな統治を狙い、極東軍事裁判で、無罪潔白を確定する必要があると考えたのだと思います。こうしたGHQの方針と天皇制を残したい日本の思惑が一致して、昭和天皇の戦争責任を曖昧にすることによって、国家の戦争責任をも曖昧にし、歴史認識をゆがめてきたことになるのではないでしょうか。

「天皇退位問題・憲法問題・極東軍事裁判の動向略年表」
ダウンロード - e5b9b4e8a1a8efbc91.pdf

 

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2021年2月25日 (木)

2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(1)

 2月19日の当ブログに書きましたように、「女たちの戦争と平和資料館」(wam)主催の<天皇制を考える>シリーズの三回目として、西早稲田のAVACO教会の一室で開催されました。予約制で定員40人ほどの方が参加してくださいました。参加の皆さんはそれぞれの分野で活動されている方々なので緊張しました。事前には、wamの担当のYさんにはいろいろご教示いただきながら、なんとか当日を迎えました。資料などの準備で、明治以降の歴代の天皇・皇后の短歌から、報告に必要な短歌の80余首を選びました。歌会始に関するデータを表にしたり、年表を作成したりは、これまでの拙著出版にあたってもやってきた作業ではありましたが、いま、また、新しいデータを補い、あらためて新しい事実を知ることも多々あって、厄介ではありましたが、楽しい一面もありました。

 また、代替わりこそなかったのですが、1945年敗戦前後の明治・大正・昭和天皇及び各皇后の短歌の在り様をたどり、昭和から平成、平成から令和という代替わりを目の当たりにした者として、マス・メディア、現代の短歌ジャーナリズムや現代歌人の対応を振り返ることにもなり、新聞や雑誌の記事のファイルを持ち出しては、話の内容をまとめるのに苦労をしました。配布したい資料はどんどん増え、読み上げ原稿もなかなか削れませんでした。
 予定の90分に収まるか、どうか。コロナ対策で、間に休憩をとるということで、どの辺で区切るのか、気はもめましたが、何とか、時間的には収まりました。
 さて、その中身はとなると、個人的には、短歌からは、なるべく離れないようにしながら、レジメのなかの「おわりに~”リベラル派”識者の護憲と天皇制」の問題について、参加者の声も聴きたいなと思っていたのですが、思うように時間が取れませんでした。以下、私の話の一部ながら、どうしても伝えたかったいくつかを、書き留めておきたいと思います。当日のレジメの順序とは若干異なっています。

1.この30年の歌壇と天皇制

 まず冒頭で、次の雑誌の特集と図書をあげて、この30年間の歌壇の基盤にほとんど変革がみられなかったこと、そして、あたらしい元号「令和」が萬葉集から採られ、大いに盛り上がっていたことなどを指摘しました。

1989年1月『短歌』臨時増刊「天皇陛下と昭和」
2019年1月『短歌研究』「平成の大御歌と御歌」
2919年3月『象徴のうた』永田和宏 文芸春秋

2.昭和天皇は平和主義者だったか  
 昭和天皇の死去報道の中で、例えば、つぎのがさまざまなメディアで取り上げられ、太平洋戦争「開戦」には慎重であったことが、繰り返されました。同時に、をもって「終戦」の決断をしたということが強調され、昭和天皇は平和主義者だったとのイメージが増幅されました。

① 峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり
(1942年歌会始「連峰雲」)

② 爆撃にたふれゆく民の上おもひいくさとめけり身はいかならむとも
(木下道雄『宮中見聞録』1968年で公開)

  ①についてその典型的な解説といえば、
岡野弘彦:長い間、歌会始の選者と御用掛を務めた歌人
「太平洋戦争がはじまり、戦時中の昭和十七年のお題<連峰雲>の御製では、戦争が早く終わって平和になるようにとお望みになっていた」「しかし時勢は陛下のお気持ちとは逆の方向に進み、十二月一日には内閣と統帥部との一致した結論として陛下も開戦やむを得ないとなさった」(昭和天皇歌集『おほうなばら』解題 1990)

下馬郁郎(=半藤一利):昭和史研究、元『文芸春秋』編集長
「沈痛きわまりない感情の表白というべきか。そして陛下が、あの激越な戦争中、ただ祈りつづけてこられたことに気付かせられる。陛下にとっての「昭和史」とは、ことごとに志に反し、ひたすら祈念の時代であったということなのだろうか」(「御製にみる陛下の“平和への祈り”」『文芸春秋』1989年3月号)

 また昭和十年代の昭和天皇の短歌を評して
保阪正康:「昭和十年代の天皇の祈りの歌から、平和主義者であったことは一目瞭然です。天皇は相手により言葉を使い分けますが、歌の中ではほんとうの気持ちを詠まれているということです」
(『よみがえる昭和天皇 御製で読み解く87年』(辺見じゅんとの対談) 文春新書 2012年2月)

  昭和史の第一人者と言われる半藤、保阪の二人が「御製」で歴史を語っていることに、あらためて驚きました。

3.昭和、平成の天皇が詠んだ沖縄  
 また、昭和天皇晩年の歌で、つぎの一首がよく引用されます。1987年10月、沖縄での国民体育大会に病気のため出かけられなくなったことを歌い、皇太子夫妻が代わりに参加し、「おことば」を代読しています。そして、この歌も「昭和天皇は、沖縄訪問の責任が果たせなかったという特別の思いを持ち、沖縄の人々への思いやり」を示した歌だと、保阪正康も先の本で語っていますが、この「思いやり」の部分を平成の天皇夫妻が受け継いだと思われます。
③ 思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たむつとめありしを(1987年)

 しかし、昭和天皇には、沖縄についての重大な二つの「負の遺産」もありました。すなわち、
・1945年3~6月まで、本土決戦の前提として、沖縄地上戦を続行させた、多大な犠牲者、県民の4人に一人、20万人の犠牲者を出したこと
・1947年9月、御用掛、寺崎英成を通じて、GHQに琉球諸島の占領継続を長期租借の二国間条約によるという内容の文書(「天皇メッセージ」「沖縄メッセージ」)を渡していたこと(進藤栄一の論文で明るみに。『世界』41979年月号)

 そこで、平成の天皇夫妻は、皇太子時代5回、天皇時代6回、合わせた11回訪問し、その都度、短歌を詠み、「おことば」を残しています。他の都道府県訪問に比して突出している数字です。沖縄訪問一覧をご覧ください。
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 なぜこれほどまでに沖縄にこだわるのかといえば、上記、昭和天皇の負の遺産を、少しでも減らしていきたいという思いがあったことは確かですが、沖縄の基地に対する政府の対応は、県民にとっては屈辱の連鎖でしたし、民意に反して、固定化し、強化されているのが現状です。平成の天皇夫妻の短歌や「おことば」では、犠牲者への慰霊や鎮魂が繰り返されますが、それは、夫妻の個人的な心情があったとしても、沖縄県民への慰撫や懐柔の役割を果たし、政府の沖縄への対応の欠陥を補完していると思えるのです。
 平成の天皇と皇后の沖縄を詠んだ短歌を多く残しています。国立戦没者墓苑、平和の礎、平和祈念堂には幾度も、福祉施設などを訪ねていますが、その中の2首だけについて、その背景を伝えておきたいと思います。

④ 広がゆる畑 立ちゅる城山 肝ぬ忍ばらぬ 戦世ぬ事 
(ファルガルユチタキ タチュルグスィクヤマ チムヌシヌバラヌ イクサユヌタトゥ)
(皇太子)(1976年 伊江島の琉歌歌碑)

⑤ 時じくのゆうなの蕾活けられて南静園の昼の穏しさ
(皇后)(2004年 南静園に入所者を訪ふ)

 ④は、1975年7月、皇太子夫妻は、海洋博のため、はじめて沖縄を訪ねますが、その時に、本島の本部港から船で30分ほどの伊江島に立ち寄っています。 
 伊江島は45年4月16日、米軍が上陸し、島民の二人に一人が亡くなるという激戦地で、敗戦後は、最も早く、まさに銃剣とブルドーザーで島民は追い払われ、島の60%が米軍の軍用地となり、現在も35%が基地となっている島で、オスプレイの訓練などに使用しています。この歌は57577の短歌ではなく、沖縄特有の8886を基調とする歌、天皇が一人で学んだという琉歌です。島の中央にあるグスクヤマの中腹に、「御來村記念碑」とこの琉歌の歌碑が並んで、76年に建てられています。しかし、私たちが出かけたときは、島の生まれだという、案内の運転手さんは、「天皇の歌碑なんて、あったかね」とそっけなく、「ああ、あった、これですかね」という反応でした。いまはリゾートの島、百合の島、人口よりも牛の数の方が多い伊江牛の島として有名だとのことでした。
 ⑤は、2004年1月、宮古島の南静園という国立ハンセン病療養所を訪ねたときの皇后の歌です。沖縄には、もう一つ本島の北部に屋我地島、今では橋でつながっていますが、沖縄愛楽園という国立ハンセン病療養所があります。皇后がここに訪ねた折も、療養中の人々と親しく懇談したり、握手をしたりして、歓迎され、沖縄の民謡を歌って見送ってくれたという一連の動向が美しい物語として報じられていました。 戦前に建てられた、全国で13ある国立ハンセン病療養所の二つが沖縄にあるわけですから、米軍基地を押し付けられている構造にも共通するところです。私たちが愛楽園を訪ねたとき、構内の案内図には、「御歌碑」が示されているのですが、なかなか見つかりません。戦前に、貞明皇后が、全国の療養所に、下賜金とともに送った「つれづれの友となりても慰めよいくことかたきわれにかはりて」という歌は、ハンセン病者の強制隔離政策のプロパガンダとして、「皇恩」の象徴でもあったのです。「御歌碑」をあきらめて、広い構内を見学しているうちに、運動場のような草原につきあたった、その広場の隅に、何かが見えると、近づいてみると、破れかかった青いビニールシートに覆われた、大きな横長の岩があったのです。透けたシートの間から、なんと「つれづれ・・・」の文字が読め、横倒しになった「御歌碑」とわかりました。私には衝撃的な一瞬でした。資料室の展示で、敗戦直後、「御歌碑」は海に投げ込まれたとはありましたから、1970年代、再建された歌碑のはずです。シートの破れ具合から、こうした状況になってかなり年月が経っているようにも見え、私たちが訪ねた2017年2月、一つ現実を目の当たりにした思いでした。(続く)

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2021年2月19日 (金)

" "御製”で読み解く”歴史”の危うさ

 別紙のような企画で、「歌会始と天皇制」について、話すことになりました。その準備の過程で、あらためて、天皇の短歌が、歴史の前面に立ち現れて、歴史が語られることに、危惧を感じています。

 大日本帝国憲法のもとで、明治天皇や歴代の天皇の短歌が持ち出されて、歴史が語られていた時代はともかく、現代にあっても、天皇の短歌で綴られてゆく、昭和史や平成史が一部でまかり通っていることの危うさを感じないわけにはいきません。天皇や皇后の短歌や天皇の「おことば」に平和や慰霊への思い、国民に寄り添う気持ちをことさら高く評価したり、政権への批判や抵抗をも読みとろうとする、<リベラル派>の論者やそれを好んでもてはやすマス・メディアにも、一種の圧力のようなものを感じている昨今です。

 どんな報告ができるか不安ではありますが、報告概要とチラシは以下の通りです。

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2021年2月14日 (日)

コロナ、オリンピック、地震で大揺れの中~防衛費膨張の裏で

ミサイル監視衛星調査研究費、22円で落札!の非常識

 やや旧聞に属するが、先月末の2020年度第3次補正予算案審議の国会中継を見ていたら、耳を疑うような質疑に出会ったのである。

 1月27日、参院の予算委員会で、立憲の白真勲議員が「3次補正予算に自衛隊の飛行機や潜水艦などの防衛装備品の安定購入経費として2816億円が含まれていることは、来年度の本予算に入れるべきものを前倒しすることで少なく見せていると批判し、北朝鮮や中国などの新型ミサイルを人工衛星での監視技術開発のための調査研究委託の競争入札をしたところ、三菱電機が22円で落札、防衛省と三菱との契約の事実を質したのだった。落札価格は20円で、2円が消費税というのだ。岸防衛大臣は、「たしかに安値ではあるが、弁護士にも相談して問題がないということで契約した」「積算の内訳は、従来から公表しないことになっている」という答弁だった。白議員は、20円では、書類の目次のコピー代金にもならない、安ければいいというものではない、入札制度の見直しを理事会に要求していたが、その後どうなったのだろう。

  防衛省は2020年度予算で、人工衛星でミサイルを探知・監視する新技術の調査研究に約8800万円を計上していた。 三菱電機が受注したのは、このうち、複数の人工衛星を同じ高度に配置し、新型ミサイルを横方向から監視することで探知を可能にする「リム観測」の実用化に関する調査研究で、同省は想定していた調査研究費を明らかにしていないが、少なくとも数百万円以上とみられているそうだ。いったいこれは何を意味するのか。
 1円入札にまつわる疑惑は、こればかりではなかった。
調べてみると、最近では、なんと、件のオリンピック組織委員会が、オリンピックで使用する空手競技用のマットを、埼玉県の業者が1円で入札、落札していた。延期が決まる前の2019年10月のこと。同額の1円入札の2業者の製品を試用の上、決めたというが、組織委ホームページでは、入札価格だけは非公表であったのが、取材で明らかになったとのことであった。他の200件以上の物品入札で契約価格の非公表は、マットの1件のみだったといい、相場では400~500万円に相当するというのだ。(産経新聞2019年11月20日、NHK政治マガジン2019年11月21日)
 東京へのオリンピック招致に絡んだ不正疑惑でフランス司法当局の捜査を受けていた竹田恒和JOC会長が19年6月で退任する羽目になっている。けた違いの額のお金が動いていたという疑惑は、まだ晴れてはいない。

 防衛費膨張の推移

 そもそも、防衛費自体の予算の7年間の伸びをjijicom(2020年12月21日)のグラフで見てみよう。

2021

 2020年度予算の5兆3133億円だったから、今回の第3次補正で、2816億円増額したことになる。これが21年度予算の前倒しとみられるのだ。

 20年12月に決めた追加経済対策の財源として19兆1761億円を計上した。当初予算、1次・2次補正と合わせた20年度の歳出は175兆円超となる。3次補正予算の中身は、以下の表の通りなのだが、細かく見ると、医療提供体制の確保などに計1兆6447億円、ワクチンの接種に向けた環境整備には5736億円、PCR検査などの実施には672億円、Go Toトラベルに1兆311億円、中小・小規模事業者の資金繰り支援には3兆2049億円を計上している。

 しかし、今年度補正予算に、Go Toトラベルに1兆311億円やマイナーカード普及、脱炭素基金が必要なのだろうか。そして、下の表に見るように、最下段の安全安心確保策として、国土強靭化推進と防衛費を潜り込ませているとしか見えないのだ。

 20
日本経済新聞(2021年1月28日)より

 

 菅内閣に期待するものはなかったが、半年もたたないのに、もうズタズタな状況。コロナ対策はもちろん、計画的な施策が立たず、目先の対策を小出しにしては、破綻があればあわてて弥縫策に走る。次から次へとなんとも常套的な不正や前世紀的な政治家の不祥事がまかり通り、野放し状態といっていい。そこに来て、オリンピック組織委員会の森会長の辞任劇、いやはや、オリンピックの中止を宣言しなければならない役回りの可能性も高い、後任は、なかなか成り手はいないだろう。よほどの政治力で押し付けられることになるにちがいない。
 そして、13日夜11時過ぎの大地震である。津波の可能性がないというのが不幸中の幸いだったが、それでも被害は、これからだんだん明らかになるに違いない。コロナ禍の中の避難所運営や復旧にも困難が待ち受けている。
 ファイザーのワクチンが成田に到着したというニュース、一日にして承認され、まず医療従事者に実施されるというが、その手順も後手、後手で、不安は募るばかりである。

 

 

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