2026年5月13日 (水)

「皇族確保案」の拙劣、「愛子天皇待望論」の陥穽

「皇族確保案」の拙劣

  「皇室典範」の「改正」をめぐって、5月12日、中道から旧宮家出身の男系男子を皇族の養子とする案も容認するという方向性が示されたところで、各党の方針が出そろった。このタイミングで朝日が5月12日、毎日がきょう5月13日の社説で論じ、5月7日には、読売新聞がすでに社説を出している。

  与野党の全体会議では、有識者会議提案の ①の女性皇族の身分保持案に主要政党の大半が賛成し、②養子案には自民、日本維新の会、国民民主、参政、公明、中道などが賛成していることになる。

  朝日新聞はつぎのような表にまとめている。(「〈立法府の総意〉集約焦点 皇族数確保策 各党見解出そろう」朝日新聞 2026年5月12日 ) 

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 上記全国紙三紙のスタンスは以下の通り。

・読売は、5月7日の社説で今国会での典範改正が成立する公算が大きいとし、4月の社説では「皇位継承の安定 女性・女系を排除せず論じよ」(4月16日)と題し、「各党は報告書の2案にとらわれてはならない。今の継承順位は変えないことを前提に、将来の女性・女系天皇も排除せず、皇統の存続を最優先に検討すべき」だとして、あの読売が「女性、女系」に踏み込んだと話題になった。

・朝日は「養子案の容認 皇室への信頼保てるか」(5月12日社説)とし、「女性・女系天皇への道を閉ざすことなく、広く国民が納得できる開かれた議論が求められる。」と結ぶ。

・毎日は、「皇室に男系男子養子案 国民の理解得られるのか」の見出しで「天皇の地位は国民の総意に基づくもので、幅広い合意形成が不可欠だ」とし、「拙速に事を進めるようなことがあってはならない。」と結ぶ。

  今国会での「典範」改正を目指す高市政権のもと、与野党協議が活発化した4月以降、メディアでの記事も多くなった。しかし、議論の対象となっている二案は「皇族数確保」のための方策で、皇位継承の在り方は協議事項にはない。しかも、「有識者」会議が出したと思えないほど、憲法を踏まえない、荒唐無稽な、欠陥の多い二案に翻弄されている形である。

 ①案の女性皇族が結婚後も皇族に残る案では、その配偶者や生まれて来る子どもは皇族になるのか、ならないのか。②案の男系男子養子案にしても、皇籍離脱して80年も経つ宮家の男系男子を辿ること自体、時代錯誤も甚だしく、憲法14条による「性別」「門地」による差別になることも指摘されてきた。だったら、メディアも日本国憲法下の「天皇制」自体の問題にかかる情報と論点を国民に伝えるべきだし、世論調査でもそれを問うべきだろう。

  そして何よりも、日本国憲法の根幹たる民主主義に反する「天皇制」を維持しているが故に、奪われている皇族たちの基本的人権、とくに今回の女性皇族の結婚の自由、該当者?旧宮家の男系男性の結婚の自由を侵害すること、女性皇族へ男子誕生を強制するシステムとなってしまうことをどう考えているのだろうか。国民と皇族の差別、身分制度を前提とする議論を続けていることに、憲法学者の天皇制論と言えば、「憲法の番外地」「憲法自身が認めた例外」と逃げ、もっぱら天皇制護持を確信する皇室に詳しい研究者は別として、研究者の多くはどこか曖昧で、核心には触れない。また、テレビなどで活躍するリベラルと称されるコメンテイターやジャーナリストたちも触れたがらない。というより、番組のテーマとしては扱わないのが常である。

「愛子天皇待望論」の陥穽

 今回の皇室典範改正は、あくまでも「皇族数確保」のための改正であって皇位継承を安定化に直接資するものではないはずである。にもかかわらず、皇室典範改正にからめて週刊誌やネット上では「愛子天皇待望論」が盛り上がっている。冒頭に上げた、全国紙の社説ですら、読売「今の継承順位は変えないことを前提に、将来の女性・女系天皇も排除せず、皇統の存続を最優先に」、朝日「女性・女系天皇への道を閉ざすことなく、広く国民が納得できる開かれた議論」と論じている。日本共産党も、4月2日の記者会見で田村智子委員長は「憲法の下での天皇制度と考えれば、女性天皇の容認を含めて議論すべきだとの考え」を改めて示した(時事ドットコム 4月2日)。小池晃書記長は、4月20日の記者会見で「女性天皇も女系天皇も容認」し、「悠仁親王までの継承をゆるがせにしないとの立場には立たない。憲法に基づく議論を進めるべきだ」と述べたという(産経新聞4月22日)。

  また、週刊誌の最新号を見ると、愛子さんネタが目白押しである。「徹底論争、〈愛子天皇〉じゃダメですか?」(週刊文春2026年5月7・14日合併号)、「20年越しの〈皇室典範〉見直しへ 〈愛子天皇〉大論争の核心」(週刊新潮 5月21日号)、「〈愛子さまか悠仁さまか〉女子皇族まで分裂に雅子さま憂悶」(女性自身5月26日号)、「愛子さま佳子さま 未来は見通せない状況〈皇室典範改正〉は〈憲法違反〉の声」(週刊女性5月26日号)、「愛子さま〈母と生き写し〉女性活躍へ!海外訪問7日間」(女性セブン5月21・28日合併号)と賑やかである。

  全国紙の社説は、今回の皇室典範改正論議で、「女性・女系天皇」も議論されているようかのように読めてしまうような部分があるが、週刊文春、週刊新潮、週刊女性では、「女性天皇、女系天皇」まして「愛子天皇」はまったく今回の議論の対象外であることを明確にしているし、新聞社による世論調査で「女性天皇」の賛否を問うなどは国民をミスリードするものだとの指摘もする(週刊新潮)。

 こうしてみると、政権や権力者に対して、中立を標榜し、忖度をはばからない新聞、テレビなどでは踏み込まないところまで、週刊誌が切り込み、ファクトの提供と論点の提示、自らの主張という、メディア本来の機能を果たしている側面があるように思えたのであった。

 

 

 

 

 

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2026年5月10日 (日)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(3)モンドリアン

 モンドリアン(1872-1944)はアメリカの画家と言えないかもしれないが、最晩年をアメリカで過ごし、精力的に制作したことをもって、私は、勝手にそう呼んでいる。同じアメリカの画家と言っても、ワイエスとモンドリアンとの共通点は、何なのだろう。素人の私には、脈絡なく惹かれるものがあったのである。

 モンドリアンについては、このブログでも何度か触れたことがある。

・アンジェイ・ワイダの遺作『残像』を見て~ワイダと画家からのメッセージ
(2017年7月27日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/07/post-8567.html

・はじめてのオランダとハンブルグへの旅は始まった(9)デン・ハーグ市立美術館のモンドリアン(2019年8月13日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/08/post-ab1282.html

 というのも、これらの記事で、私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の「あとがき」につぎのように書いていたからである。繰り返しになるが。

「モンドリアンの抽象に出遭ったとき、あの冷徹さに戸惑いながら惹かれていったのはなぜだろうかと考えています。そこには猥雑なものをいっさい拒否しようとする、ひとりの人間の生き方の美と思想があると思いました。この画家の幾何学的構成にいたる過程は、<樹木>連作が雄弁に語っています。さらに光と影から解放された垂直と水平の世界の展開を見せられたときの感動を忘れることができないでいます。主観的な表現を極度に排し、求めてやまなかったものはなんであったろう。・・・」

 

 2019年、出身のオランダのアムステルダムの王立美術館で出会ったモンドリアン、ハーグ市立美術館で、「モンドリアンコレクション」の<樹木>シリーズを目の当たりにしたときも、抽象への展開のナゾは解けたわけではないが、どちらの絵にも、短歌の精神と技法を見たような気がした。もちろん私は、抽象画への境地にはたどり着けない。映画やニュースで知る限りのニューヨークだが、その猥雑さと活力を色鮮やかな幾何学的構成もって描いた作品には不思議な魅力があったのである。

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モンドリアン展(西武美術館1987年)カタログより。右上段の絵は、叔父のフリッツ・モンドリアンの作品「小川の牛」。

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1987モンドリアン展のチラシより。

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2026年5月 6日 (水)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(2)ワイエス

 1990年、年頭の「ワイエス ヘルガ展」は、今はなつかしい、池袋のセゾン美術館(1975~1999)で見ている。残念ながら、カタログは買わずじまいだった。いま手元に残っているのは、チケットの半券と二枚の絵ハガキである。当時、ワイエスといえば、私は、メイン州のオルソン・ハウスとペンシルヴァニア州のチャッズ・フォードの住まいの周辺とそこに住む人々を丹念に、愛情をこめて描き続けていた、国民的人気も高い画家という印象が強かった。ところが、日本で「ワイエス ヘルガ展」が開かれる前から、1971から85年の15年間、隣家の農場で働く中年の女性ヘルガのヌードや肖像を、双方の家族にも知られず描き続けた未発表の作品群が公になったとの報道を聞くようになった。一つの対象を、一人のモデルを描き続けてきたワイエスなので、どんな作品なのだろうかと、興味津々だった。鉛筆によるデッサンや水彩画、テンペラ画と使い分けて、ヘルガを描き続ける執念は、胸に迫るものがあるが、ワイエスの妻も、ヘルガの夫も知らない間に二百数十点の作品が残されていたとは、驚異でもあり、そんなことってあるだろうかと不思議に思ったものである。少なくとも、ワイエスの妻は、気づいていたはずである、と下世話な推測もしているところである。

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上段は、「農道」(1979年)①、下段は「果樹園にて」(1982)②。

 いま改めて、1987年ニューヨークでに出版された画集“The Helga Pictures ”(Harry N.Abrahams,Inc.)の翻訳を見ている(「ワイエス画集Ⅲ」リブロポート 1987年5月)。この画集には、ヘルガシリーズコレクションのオーナーによる文章とナショナルギャラリー副館長の「アンドリュー・ワイエスの「ヘルガ組曲」」と題する、欧米美術史の中でのワイエスの位置づけと評価を丹念に追っている論文が付されている。画集は、裸の、戸外の、室内の眠っているヘルガなど、様々な季節、時間における30のポーズごとに関連する作品が集められている構成になっている。上記の副館長の論文の冒頭では「このシリーズ全体を通して明らかにされるのは、抑制と複雑さ、画面の質感と深い情感の表現に重要な焦点があてられていることだ」と評価している。

 例えば、上記の絵はがきとなっている「果樹園にて」のテーマのもとに、水彩画は1973年から85年まで10枚、鉛筆によるデッサンが1973年から1982年までの9枚の作品で編集されている。絵はがきの1982年の作品②が完成品というわけではなく、1985年にも季節が違う作品③が制作されている。デッサン④も、異なる構図で、長い年月にわたって描かれていることがわかる。同じモチーフで繰り返し、年月をかけて、さまざまな視角で対象を捉えていることになる。

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「果樹園にて」(1985)③

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「果樹園にて」(1973)④

 また、上記の絵はがき「農道」①と題される作品はこれ一作のみであった。また、ヌードの中には、「ネルと一緒に」(1979)⑤のような作品もあって、微笑ましくもなるのだった。

 今回のワイエス展が楽しみである。

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 「ネルと一緒に」(1979)⑤

 

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2026年5月 5日 (火)

憲法改正、急ぐに及ばず~憲法記念日の世論調査にみる

  5月3日の朝日新聞は「高市政権で改憲 賛否拮抗 本社世論調査 賛成47% 反対43%」、毎日は「改憲《賛成》37% 本社世論調査 首相人気 機運押し上げ」と一面で報じている。憲法記念日恒例の世論調査である。この日のための世論調査の結果報道、社説や特集が組まれ、市民団体による意見広告も散見できる。

  この頃、「世論調査」というのに疑問を持ち始めている。まず、思うのは設問・回答の在り方と回収率の低さと調査方法である。最近、ケータイや固定電話に、何か所からかのさまざま「世論調査」らしき電話を受けるようになったが、私自身、警戒心の方が強く切ってしまうので、回答者が世論を反映しているかな、と思ってしまう。かつて、新聞社の文書による世論調査を受けたことがあり、その時はもの珍しさもあって、じっくり考えて記入したものである。

朝日新聞の見出しになっている賛成47%というのは、
・「高市首相は憲法改正を目指すことを明言しています。高市政権のもとで憲法改正を実現することに、賛成ですか、反対ですか。」

  という設問の回答だったのである。正直、この質問には、私だったら回答できない。この設問の直前の二問の問い方とその回答も付してみた。

・「自民党は、憲法9条の1項と2項をそのままにして、新たに自衛隊の存在を明記する憲法改正案を提案しています。こうした9条の改正に賛成ですか、反対ですか。」賛成52%、反対40%
 賛成の理由:明記することで、海外活動がしやすくなる21%
   反対の理由:明記することで、自衛隊の海外活動拡大の恐れがある25%

・「いまの憲法を変える必要があると思いますか。変える必要はないと思いますか。」必要がある49%、必要はない44%

 これらの設問の幾つか前には、つぎのような設問もある。

・「以下は、憲法第9条の条文です。(条文略)憲法9条を変えるほうがよいと思いますか。変えないほうがよいと思いますか」 変えるほうがよい30%、変えないほうがよい63%

 9条に関しては、二つの設問があって、一つは、条文をあげて、1・2項の変更の有無を問うもの、一つは、その後に設けられていて、1・2項はそのままに、(3項として)自衛隊の明記の可否を問うものであった。回答から見えてくるのは、現行9条の「戦争の放棄」と「戦力及び交戦権の否認」はそのままに、自衛隊を明記するというのが大きな流れのように読み取ることができる。

以下の画像は、いずれも拡大て読めます。

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朝日新聞2026年5月3日朝刊、「世論調査」結果の一部

 他の新聞、NHKを見てみよう。憲法改正という設問は共通しているが、毎日が高市首相在任中という条件を付けているが、憲法改正の賛成・反対はたしかに拮抗していると言える。読売とNHKは、改正賛成は、反対をかなり上回っている。もっとも、NHNの世論調査は、「どちらとも言えない」が賛成と同様38%を占めている。NHKの世論調査では、「どちらとも言えない」の選択肢を設けるのが「得意技?」と言ってもよい。ときには「どちらかと言えば賛成」「どちらかと言えば反対」の選択肢を設けることもある。今回は「どちらとも言えない」の選択肢によって、賛成、反対の差を広げたようにも思える。「どちらかと言えば・・・」の回答を用意していたら、賛成・反対の差は縮まるのではないか。

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 朝日と読売は、今回、憲法改正問題だけでなく設問は多岐にわたっているのが、他と異なる所であり、憲法9条についても、両者は、同様である。「自衛隊明記」といういわば「加憲」に特化した設問もNHK以外は用意しているが、いずれも明記に賛成する方がかなり上回っていることがわかる。その理由を問うている朝日の結果によれば、明記賛成の理由で多いのが「海外での活動がしやすくなる」で、反対理由で多いのが「海外での活動が拡大する恐れがある」という真逆の理由であった。

 なお、読売は「今後、9条はどうあるべきか」の設問の回答の選択肢として、つぎの三つを用意していたが、その結果から、①+③を「改正しない」とカウントした。

①これまで通り解釈や運用で対応する43%
②解釈や運用で対応するのは限界なので改正する38%
③9条を厳密に守り、解釈や運用で対応しない12%

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読売新聞2026年5月3日朝刊、「世論調査」結果の一部

 なお、今回調査の対象としなかったが、日本経済新聞の世論調査で「高市首相に優先的に処理してほしい課題」として、憲法改正は8つの選択肢の最下位で、11%に過ぎなかった。また、NHKの設問はいささか異なるが、今国会において、「憲法改正以外の課題を優先すべき」だとする回答が、52%も占めていた。

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日本経済新聞デジタルニュース、2026年5月2日より

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NHK2026年5月3日、
news7より

 世論調査自体は、その回収率からしても、どこか頼りないのだが、各社の結果を総体的にみると、要するに、国民の大半は、いま、憲法改正を望んではいないということではないか。なぜ、そんなに急ぐのか。「法の支配」と「自由と民主主義」を標榜する国のやることかと、不安は増すばかりである。

 

 

 

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2026年5月 3日 (日)

「昭和100年記念式典」、まるで昭和歌謡ショー?ではなかったか

   腹立たしいのを通り越して、あきれて、ばかばかしくもなるが、やはり、書き留めておかねばと思う。テレビのニュースや翌日の新聞記事からは全貌が見えにくい。4月29日、さすがに、テレビ局の中継はなかったが、YouTubeで閲覧した。首相の挨拶は、官邸のホームページで確認した。注1

注1)昭和100年記念式典配信ページ 
https://youtube.com/live/JeNNacZ08e4

首相挨拶(首相官邸)
https://www.kantei.go.jp/jp/105/actions/202604/29showa100shikiten.html

  入場が済んで静まり返った武道館、あちこちに空席も目立つ。読売新聞によれば参列者約5600人の由。司会進行は、元NHKアナウンサーの青山祐子、着席からだいぶ時間が経過していたらしい。式典の進行について、天皇夫妻の入退場の際の起立・着席などについての説明から始まった。それから、天皇夫妻入場までの「しばらくお待ちください」と、7・8分前後の沈黙の時間が経過、天皇夫妻入場、木原官房長官の開会、国歌斉唱の後、首相の式辞7・8分、三権の長の挨拶が併せて10分ほどか。そして、その後の30分間がなんと、下のような流れで、海上自衛隊東京音楽隊の伴奏による男女隊員の歌唱だったのである。最初は誰が歌っているのかわからなかったが、最後に、指揮者と歌い手の名前が発表されていた(植田哲生二等海佐、三宅由佳莉二等海曹、橋本晃作二等海曹)。6曲の選曲は、首相なのか、イベント会社なのか不明だが、いずれにしても、懐メロの昭和戦後版といてもいい。自衛隊員に熱唱されても、時代の雰囲気は伝わらないだろう。官邸の動画では端折られていたが、天皇夫妻が退場してからも長い間、沈黙の着席の時間が長かった。

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「産経新聞」2026年4月29日、より

 以上のような流れだったのだが、私は、つぎのいくつかの点に大いなる疑問を持たざるを得なかった。

1.「昭和100年」という区切り方にどんな意味があるのか。

この式典については、超党派議員連盟の麻生太郎会長(自民党副総裁)が2024年、当時の岸田文雄首相に要請し、政府は「『昭和100年』関連施策推進室」を設置し、昨年11月に閣議決定している。注2
 注2内閣官房「昭和100年」関連施策推進室による「「昭和100年」関連施策について」https://www.soumu.go.jp/main_content/000990655.pdf

  式典の主旨として、「<昭和100年>を契機に昭和を顧み、先人の躍動に学び、昭和の記憶を共有すること」をうたっているが、ここには、日中戦争、太平洋戦争への反省が捨象されている。この点については以下の過去記事をご覧いただければと思う。注3
注3)4月29日は祝日だった~「昭和の日」はどのようにして決まったのか。(2025年5月 2日 )
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2025/05/post-e63d11.html

 2.高市首相の「式辞」って何だったのか。

その内容に、大いなる疑問が生じたのだ。今回の言葉を聞いていて、「?」、どこかで聞いたような言い回しと思ったのが、ふりかえれば、首相の年頭所感だったのである。まさに、焼き直し、コピペに近い。注4
注4)高市首相年頭所感
https://www.kantei.go.jp/jp/104/statement/2026/0101nentou.html


式辞:昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長といった、未曽有(みぞう)の変革を経験した時代でした。
年頭:昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長といった、未曽有(みぞう)の変革を経験した時代です。


式辞:令和の現在、日本と世界は大きな変化を迎えています。日本においては、静かな有事とも言うべき少子化・人口減少の進行、長期にわたるデフレから一転しての物価高、潜在成長率の低迷、戦後最も厳しく複雑な安全保障環境。そして、世界を見渡せば、国家間の競争が激化・複雑化・常態化し、私たちが慣れ親しんできた自由で開かれた安定的な国際秩序は大きく揺らぎ、政治・経済の不確実性が高まっています。
年頭:令和の現在も、日本と世界は大きな変化を迎えています。 日本においては、静かな有事とも言うべき人口減少や、長期にわたるデフレから一転して国民の皆様が直面されている物価高、戦後最も厳しく複雑な安全保障環境。そして、世界を見渡せば、我々が慣れ親しんできた自由で開かれた国際秩序は揺らぎ、覇権主義的な動きが強まるとともに、政治・経済の不確実性が高まっています。


式辞:今年初めて投票してくださった18歳の若者も、生まれたばかりの赤ちゃんも、その多くが、22世紀を迎えることができるでしょう。その時に、日本が安全で豊かであるように。『インド太平洋の輝く灯台』として、自由と民主主義の国として、世界から頼りにされる日本であるように。若者たちが、日本に生まれたことに誇りを感じ、『未来は明るい』と自信を持って言える。そうした国を創り上げていく。『日本列島を、強く豊かに。』日本に希望を生み出していくことを、改めてここに決意いたします。
年頭:今年初めて投票する十八歳の若者も、生まれたばかりの赤ちゃんも、次の時代を担っていかれる方々です。彼らに、日本の未来を信じてほしい。「希望」を抱いてほしい。今の時代をお預かりしている私達には、「日本列島を、強く豊かに」して、次世代に贈る責任があると考えています。

 「日本列島を、強く豊かに」は、先の衆議院選挙の自由民主党のキャチフレーズであり、総裁メッセージであったのである。また、ちなみに、「年頭所感」と4月29日「式辞」の間にあたる2月20日「施政方針演説」にもつぎのような一節がある。注5

「「挑戦しない国」に、「未来」はありません。「守るだけの政治」に、希望は生まれません。「希望ある未来」は、待っていてもやって来ない。誰かがつくってくれるものでもない。私たち自身が、決断し、行動し、つくり上げていくものです。」
注5)第221回国会における高市内閣総理大臣施政方針演説(令和8年2月20日閣議決定)https://www.kantei.go.jp/jp/105/statement/2026/0220shiseihoshin.html

  さらに、4月12日の自民党大会での首相の挨拶にはつぎのようなくだりもあった。注6
「今年初めて投票して下さった18歳の若者も、生まれたばかりの赤ちゃんも、その多くが、22世紀を迎えることができるでしょう。その時に、日本が安全で豊かでありますように。「インド太平洋の輝く灯台」として、自由と民主主義の国として、世界から頼りにされる日本でありますように。そのために、日本の「成長のスイッチ」を押しまくり、日本の可能性を解き放ちましょう。「日本列島を、強く豊かに。」 挑戦しない国に「未来」はありません。守るだけの政治に「希望」は生まれません」
 注6)第93回党大会 高市早苗総裁演説(全文)
https://www.jimin.jp/news/press/212972.html

 「インド太平洋の輝く灯台」という唐突なフレーズは、2月8日の衆院選挙で圧勝した直後の2月18日に出された「大臣指示書」に登場する。前年のそれを大幅に変更して、内閣全体の基本方針に「日本列島を、強く豊かに」「インド太平洋の輝く灯台」を加えたというのだ。

 以上見てきたように、中身を伴わない、強い口調の同じキャッチフレーズが何回でも使われていることがわかる。身近で聞く議員たち、ひいては有権者、国民も、なめられたものである。野党は細って内輪もめばかりで、きちんと質すことをしない。NHKはじめメディアも気づきながら、毎回、適当に概略しか報じない。つまらない、些細なことなのだろうか。

 そして、この間、高市政権は、すでに、閣議で殺傷能力のある武器輸出を解禁することにした。また、インテリジェンス機能を強化するとして「国家情報局設置法案」は、野党も巻き込んで、4月23日衆院で可決させ、連休明けには参院での審議が始まる。
「昭和100年記念式典」は式典と称して、なんと、自民党、高市内閣、高市首相の広報、パフォーマンスの場であったのである。

3.天皇の臨席は何のためだったのか。

 天皇夫妻は、式典の半分以上、30分以上にわたって、昭和の歌謡曲6曲を披露されるとは思わなかっただろう。どことなく戸惑っている表情も伺われた。式典を権威づけ、重々しい雰囲気を醸成するなかで、首相のメッセージを際立てるために利用したことが明確になったのではないか。天皇としては、政治的活動の一端を担わされ、違憲の疑いさえ生じる。加えて、天皇を壇上に迎え、日頃の言動を牽制するような内容の「式辞」ではなかったか。

4.重光葵の短歌の登場、なぜ短歌を持ち出すのか。

  首相の「年頭所感」の冒頭では、昭和天皇のつぎの一首を引用して、以下のように述べている。 
「『山やまの 色はあらたに みゆれとも 我(わが)まつりこと いかにかあるらむ』御即位後初の歌会始での昭和天皇の御製です。昭和は、戦争、終戦、復興、高度経済成長といった、未曽有(みぞう)の変革を経験した時代です。まるで昭和が激動の時代となることを見通していたかのように、移り変わっていく山々の色を詠まれています。」

 昭和天皇の短歌は、1928年(昭和3年)、歌会始の題「山色新」のもと詠み、公表された一首である。首相は、どこから引用したのか、宮内庁侍従職が編纂した昭和天皇の歌集『おほうなはら』(読売新聞社 1992年)の表記とは、漢字や濁点などの表記が異なる。1928年といえば、2月に第1回普通選挙が実施されたが、大陸政策を強行するなか、関東軍による張作霖爆殺事件が起こり、内務省に特別高等警察が新設され、思想弾圧の強化が始まった年でもあった。「まつりこといかにかあるらむ」を首相は自分事のように読んだのかもしれない。となると。

 今回の式典の「式辞」では、重光葵の辞世とも言われる一首を引いて、つぎのように述べた。
「『霧は晴れ 国連の塔は 輝きて 高くかかげし 日の丸の旗』、同じ年(1956年)、日本は国連に加盟します。重光葵(まもる)外務大臣は、ニューヨークで高らかに詠い上げています。国際社会への復帰は、日本の悲願でした。」

  重光の短歌をあげて、国連復帰の功績をたたえるというより、「日の丸の旗」を強調したかったのではないか。式典の中で「国歌斉唱」の前に、司会者は、ことさらに参列者に「国旗」への注目を促していた。これって「国旗損壊罪」を新設したい首相の「悲願」の伏線?にも思わるのだった。昭和に学ぶといっても、たとえば、国連復帰を称える前に、1933年、なぜ国際連盟を脱退するに至り、日本は世界から孤立していったのか、を学ぶ方が有効だし、先だと思う。

「昭和100年記念式典」は式典と称して、なんと、自民党、高市内閣、高市首相の広報、パフォーマンスの場であったのである。肝心なところから目を反らされるようなことばかりが続く。

「戦争の足音」が近づき、抗議デモへの参加者や集会は、各地で確実に増えているが、メディアは、なぜか伝えようとしない。事件や災害報道、スポーツや皇室報道には熱心だし、物価高やホルムズ海峡封鎖による業界や暮らしへの影響、株価の乱高下などは盛んに報道されるが、その拠って来たるところには分け入らない。そして、その分、いま国会でどんな審議が行われているか、何が論点なのか、などの報道量は、確実に細っている。上記で触れなかった「国論を二分する」と豪語する高市政権の公約は、以下のように目白押しなのである。

スパイ防止法、非核三原則を見直し、憲法9条改正、緊急事態条項新設、防衛力強化、皇室典範改正、旧姓使用法制化、外国人政策の厳格強化・・・。

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池の端の一本の梅、長い間花を楽しんだと思ったら、もう大きな実をつけていた。子どもの日を前にいつのまに賑やかになったコイたち。親たち3匹は、屋根のついた避難所でお昼寝中だったが、餌をやり始めると、がぜん動き出した。(5月2日)

 

 

 

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2026年4月28日 (火)

アメリカへ行ったことがないのに、アメリカの画家三人に魅了されて(1)ワイエス

 派手なネクタイで、カメラに向かってこぶしを上げたり、手を振ってみたりして登場するトランプ大統領が、ジェスチャーたっぷりで会見する映像を、毎日見せられると、もううんざりという感じの昨今である。そんなとき、ふと、ワイエスの『アメリカの詩情 オルソン・ハウスの物語』(丸沼芸術の森 2010年)をひらくと、そこには、あまりにも静寂な、海辺の一軒家にひっそりと暮らす姉弟の物語が繰り広げられる。アメリカ東部メイン州の海辺の丘の上のオルソン家の体が不自由だが自立心の高い姉と農業に勤しむ弟の暮らしを分け入るように子細に描き続けた画家の物語でもある。折しも4月28日から、上野の都美術館で開館100周年記念の「アンドリュー・ワイエス展」が開かれると知った。なんという偶然!

 アンドリュー・ワイエス(1917~2009)は、ペンシルヴァニア州のチャッズ・フォードに生まれ、著名な挿絵画家だった父親の教育もあって、幼少時から水彩画を描き始め、二十歳のころには、地元で個展を開くまでになっていた。1939年兵役に志願するが、身体虚弱で不合格になり、その翌年から、夏の間の避暑地であったメイン州のグッシングのオルソン家にアトリエを提供されるようになり、二拠点生活が始まり、姉弟が亡くなる1960年末まで続いたのである。

 姉弟を描くといっても、その姿が描かれるのは稀である。さまざまな視角でとらえられたオルソン家の全景と共に壁、屋根、窓であったり、納屋の中の農具や馬具であったり、収穫したトウモロコシを積んだ手押し車、ブルーべリーを運ぶバスケット、水を運ぶバケツなどをあるがままのその場所で克明に描いている。以下はいずれも、前掲「オルソン・ハウス物語」からのコピーである。この画集は、2010年9月から埼玉立近代美術館で開催された「丸沼芸術の森」所蔵の展覧会のカタログである。今回の都美術館の展示作品一覧によれば、「丸沼芸術の森」所蔵の作品もかなり多いようだ。直接、絵に出会えるのを楽しみにしている。

1969
「アメリカの詩情 オルソン物語」の表紙「オルソンの家」(1969)

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「干し草をかき集めるアルヴァロ」(1947)、右手遠くに家が見える

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「玄関の前に座るアルヴァロ」(1942)、働きづめだったアルヴァロは、1967年12月24日に死去。

1948
「クリスティーナの世界」習作(1948)何枚もある中の1枚。

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「クリスティナーの世界」習作(1967)、クリスティーナは、弟の後を追うように1968年1月27日死去、最後の肖像画となった。

 ワイエスに私が初め出会ったのは、1974年、東京国立近代美術館での「アンドリュー・ワイエス展」であった。職場の近くでもあったので、土曜の午後にでも出かけたのではなかったか。当時は週休2日など夢の夢であった。
 あらためて、このワイエス展のカタログを取り出してみると、すっかり茶色になった新聞切り抜きが落ちてきた。こんな記事を読んで出かけてみる気になったのかもしれない。

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   上記左の朝日新聞の記事は、文面から74年5月と分かるのだが、日にちは不明、執筆は小川正隆。毎日新聞の方は74年4月19日(夕刊)、執筆は安井収蔵記者となっている。調べてみると、両者ともすでに故人となっているが、社内の美術担当から、美術評論家となり、大学教員や美術館館長になっていたことを知る。なにせ半世紀以上も前のことだったのだ。当時の薄れたメモによれば、衝撃を受けたのは「冬の蜂の巣」(1959)と下記の「卵の計り」(1959)のリアルさだった。さらに、つぎの2点の寡黙さに注目していたようだ。後から思えば、オルソン家の姉クリスティーナと弟アルヴァロの暮らし方や生き方を象徴しているような作品だったのである。姉弟の晩年と没後のオルソン家のたたずまいが伺われる。

1965
「風下」(1965)

1968
「アルヴァロとクリステイーナの家」(1968)

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チケットの作品は「遥か彼方に」(1952)だった。

  ワイエスは、アメリカでも国民的画家とも言われ、人気が高いそうだが、日本でも、その後、何回か展覧会が開催されている。渋谷のbunkamuraで1995年「アンドリュー・ワイエス展 アメリカの郷愁」、2008年「アンドリュー・ワイエス展 創造の道程」などが開催されている。この時にも、以下のような記事を書いていたのである。

ワイエス展、Bunkamuraへ(2008年11月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/11/bunkamura-7f3a.html

 私が次に出かけたのは、1990年、池袋のセゾン美術館で開催された「ワイエス展 静逸な生命の肖像 ヘルガ」であった。ワイエスの後半生の意外な展開に驚かされたのであったが。(つづく)

 

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2026年4月23日 (木)

「もう、時代は変わった」のか~殺傷能力のある武器の輸出が解禁された!

 落ちぶれて武器ありますの暖簾(のれん)出す
 (大阪府 小倉三歩 朝日川柳 朝日新聞 2026422日)

 これは、1976年5月の衆議院外務委員会で、永末英一委員(民社党)の「一体わが国として兵器貿易というものをどう見るのか」の質問に、宮澤喜一外務大臣の答弁「何がしかの外貨の黒字がかせげるといたしましても、わが国は兵器の輸出をして金をかせぐほど落ちぶれてはいないといいますか、もう少し高い理想を持った国として今後も続けていくべきなのであろう。」を踏まえての作ではないか。注1

注1)衆議院外務委員会8号1976年5月14日https://kokkai.ndl.go.jp/txt/107703968X00819760514
同上委員会における宮澤喜一外務大臣の答弁https://kokkai.ndl.go.jp/txt/107703968X00819760514/46

 4月22日の朝刊はいっせいに一面で、4月21日、午前中の閣議と持ち回りの9大臣による国家安全保障会議(NSC)で、「防衛装備移転三原則」「防衛装備移転三原則の運用方針」を改訂したことを報じている。今回の改訂により、これまで輸出できる装備品を「救難・輸送・警戒・監視・掃海」の5類型に限っていたものを殺傷能力のある武器の輸出が解禁されるのである。こんな大事なことを、閣議決定と、しかも持ち回りのNSCで決まって行くのだと思うと、やはり、おそろしい思いが先に立つ。「落ちぶれた」というより「壊れた」という衝撃であった。注2

注2)「防衛装備移転三原則」について(内閣官房)https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/bouei.html

 そんな状況の中で、1976年の宮澤外務大臣の答弁が、あらためて、各所で引用され始めた。たとえば、日本共産党は、今般の衆議院選挙における政策として「武器輸出」について、「1976年に当時の三木政権が表明した「武器輸出三原則」は、「国際紛争を助長しない」という「平和国家」としての理念にもとづき事実上武器輸出を全面禁止し、1981年には衆参両院本会議が同三原則の厳格な運用を求める決議を全会一致で可決しました。自民党政府のもとでも、これが日本の基本方針でした。」に続いて、宮澤の答弁を引用している。

 3月17日の参議院予算委員会で、西田実仁(公明党)委員は、宮澤の答弁を引用して「平和よりも一時的な経済利益を貪欲に追求する国であってよいのか」質問しているが「もう時代が変わった」と高市総理が答えている。

「東京新聞」も「かつて武器輸出を「全面禁止」した日本が、高市政権で「解禁」するまでの50年を振り返る」題し、「三木武夫内閣が1976年に事実上の全面禁輸に踏み切ってから半世紀。政府は段階的に緩和してきた武器輸出を解禁した」との方針転換を、1976年の宮澤答弁に対する高市総理は「もう時代が変わった」と正当化した、と報じた(2026年4月21日)。

 そもそも、武器輸出三原則は、1967年4月の佐藤栄作内閣による武器輸出禁止規定に由来する。共産圏諸国、国連決議により武器等の輸出が禁止されている国、国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けへの武器輸出を禁止することを内容とするもので、衆議院決算委員会において、華山親義(日本社会党)からの質問に対する答弁だったのである。注3

注3)衆議院決算委員会(1967年4月21日、佐藤栄作総理大臣の答弁)https://kokkai.ndl.go.jp/txt/105504103X00519670421/129

ともかく、自民党政権において、まがりなりにも受け継がれてきた「武器輸出三原則」は、「武器輸出」を「防衛装備移転」と言い替えて、2014年安倍晋三内閣によって大きく変質したのである。その後の経過は以下の表によくまとめられている。

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殺傷能力ある武器の輸出可能に、政府が装備移転三原則の運用指針見直し(Reuters2026年4月21日)より

 今回改訂の「防衛装備移転三原則」について、高市首相は4月21日の記者会見で、武器輸出が全面的に解禁されることへの懸念を問われて、「安全保障環境の厳しさが増し、自国だけでは平和と安全を守ることができなくなった。防衛装備面でもお互いを支え合うパートナーが必要で、そのパートナーからの防衛装備品への期待も大きい」「ニーズに応えた防衛装備移転はパートナー国の防衛力向上、紛争発生を未然に防ぐ」ことにつながるという主旨の答弁がなされた。

 しかし、先に示した今回改訂の「三原則」の全文を読むと「防衛装備の海外への移転は、 特にインド太平洋地域における平和と安定のために、力による一方的な現状変更を抑止して、我が国にとって望ましい安全保障環境の創出」し、また「防衛装備の適切な海外移転は、いわば防衛力そのものと位置付けられる我が国の防衛生産・技術基盤の維持・強化、ひいては我が国の防衛力の向上に資する」ものであるとしている。さらに「継戦能力確保の重要性が増す中にあって、防衛装備移転の推進により、共通の装備品を運用する同志国等を増やし、強固な防衛産業を保持し、拡大することは、有事に必要な継戦能力を支える生産能力を国内で確保する上でも大きな意義」を強調している。

 会見での答弁では、「三原則」の内容の重大さは伝わらず、「東南アジアへの防衛装備品の輸出拡大、防衛産業の拡大」などには言及せず、スルーしている。近年の防衛費増額とともに、なりふり構わない「政府、(防衛装備品)売り込みに躍起」(毎日新聞 2026年4月22日)する姿には、「死の商人」という言葉がよぎる。私などは、「殺傷能力」「継戰能力」という言葉を聞くだけでも、自らの空襲体験、現在止むことのないロシアのウクライナ侵攻、アメリカのイラン爆撃、イスラエルとパレスチナ侵攻による死者と瓦礫の街を想起してしまう。

 さらに、軍備拡大による「抑止力」云々に至っては、日本におけるアメリカの基地の存在自体が、紛争のリスクや攻撃の標的になり得ることは、イランの周辺国のアメリカ基地爆撃を見ても明らかではないのか。3月13日のウオール・ストリート・ジャーナルの報道として、すでに中東には「米海軍第7艦隊に所属し、佐世保基地(長崎県)に配備されている強襲揚陸艦「トリポリ」と、キャンプ・ハンセン(沖縄県)の第31海兵遠征部隊」が派遣されているという(読売新聞 2026年3月14日)。

 「三原則」の閣議決定当日の4月21日の「NHKテレビニュース7」では、北海道・三陸沖地震、大分県陸上自衛隊基地での3人の死者を出した事故、アメリカ・イランの停戦協議とホルムス海峡封鎖の現況のつぎに、この「三原則」改訂の報道がなされた。そのねらいとして、①同盟国・同志国との防衛強化 ②防衛産業の育成と基盤強化 の二点をあげ、歯止め策を強調していた。これって政府広報では、の印象が強かった。

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<参考>
●「武器輸出禁止三原則等」(外務省ホームページ)https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/arms/mine/sanngen.html

1.武器輸出三原則(1967.4.21) 
武器輸出三原則とは、次の三つの場合には武器輸出を認めないという政策をいう。
(1)共産圏諸国向けの場合
(2)国連決議により武器等の輸出が禁止されている国向けの場合
(3)国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向けの場合
[佐藤総理(当時)が衆院決算委(1967.4.21)における答弁で表明]
2. 武器輸出に関する政府統一見解(1976.2.27)
 「武器」の輸出については、平和国家としての我が国の立場から、それによって国際紛争等を助長することを回避するため、政府としては、従来から慎重に対処しており、今後とも、次の方針により処理するものとし、その輸出を促進することはしない。
(1)三原則対象地域については「武器」の輸出を認めない。
(2)三原則対象地域以外の地域については、憲法及び外国為替及び外国貿易管理法の精神にのっとり、「武器」の輸出を慎むものとする。
(3)武器製造関連設備の輸出については、「武器」に準じて取り扱うものとする。
[三木総理(当時)が衆院予算委(1976.2.27)における答弁において「武器輸出に関する政府統一見解」として表明]
(注)わが国の武器輸出政策として引用する場合、通常、「武器輸出三原則」(上記1.)と「武器輸出に関する政府統一見解」(上記2.)を総称して「武器輸出三原則等」と呼ぶことが多い。

●防衛装備移転三原則(201441日閣議決定)(内閣官房ホームページ)
https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/pdf/bouei1.pdf
 以下の項目に当てはまる場合には防衛装備の海外移転を認めない
①当該移転が我が国の締結した条約その他の国際約束に基づく義務に違反する場合
②当該移転が国連安保理の決議に基づく義務に違反する場合
③紛争当事国への移転となる場合

●武器輸出禁止三原則(1967421日衆議院決算委員会答弁)(国会会議録検索システム)https://kokkai.ndl.go.jp/txt/105504103X00519670421/129
佐藤内閣総理大臣 いま申しますように、防衛のために、また自国の自衛力整備のために使われるものならば差しつかえないのではないか、かように私は申しておるのであります。輸出貿易管理令で特に制限をして、こういう場合は送ってはならぬという場合があります。それはいま申し上げましたように、戦争をしている国、あるいはまた共産国向けの場合、あるいは国連決議により武器等の輸出の禁止がされている国向けの場合、それとただいま国際紛争中の当事国またはそのおそれのある国向け、こういうのは輸出してはならない。こういうことになっております。これは厳に慎んでそのとおりやるつもりであります。

 

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2026年4月14日 (火)

刻々状況が変わる中で、高市自民党は、何をしているのか

 テレビで、トランプ大統領とネタニヤフ首相の映像が流れ、高市首相の無内容な国会答弁が聞こえてくると、いたたまれず席を立つが、気持ちが乱れてくる。これまで犠牲になった兵士、市民、子どもたちの命を思い、街への爆撃で舞い上がる黒煙と炎と逃げ惑う人たちの映像が再現されると、それが、どこの国の、どこの町であっても、なぜ、止められないのかと落ち込んでしまう。
 メデイアは、現地の民間人の犠牲者数と日本人の在住者数や無事の有無などを報じるのが常である。人間の命は平等なはずなのにといつも違和感を覚えつつ聴いている。
  犠牲となった兵士たちの数はどうして報じられないのだろう。軍事上の秘密だからか。日本人さえ無事であれば良いとするかのような報じ方である。今回の戦争で、米兵の戦死者は、星条旗につつまれ、大統領の敬礼をもって帰還している。英雄的処遇をすることによって、遺族は慰撫されているのだろうか。アメリカ国民はどう見ているのだろうか。かつて、日本の戦死した兵士たちは「英霊」として称えられていたことを想起する。父を、夫を、息子を失った家族にとっては、残酷なことであったことには違いないのではないか。私には幼児の戦争体験しかないので、すべてが疑問形になってしまう。

 

 4月8日、アメリカとイランの2週間の「一時停戦合意」後のイスラエルのレバノン爆撃、イランのイスラエルへの反撃・ホルムズ海峡封鎖、トランプ大統領のイランへの大規模攻撃という恫喝発言などが続く。4月12日のパキスタンの仲介によるイラン・アメリカとの協議は、合意に至らず、決裂、さらに、トランプ大統領は、軍事力によるホルムズ海峡封鎖を予告している。

 ペルシャ湾内に閉じ込められた船舶は、乗組員たちの暮らしは、どうなっているのかと不安になる。全体像が見えにくい中、やや古い資料だが、ウォール・ストリート・ジャーナル報道によれば、ペルシャ湾内には、3000隻以上の船舶が停留しているという。さらに、内閣官房発表によればで、「日本関係船舶」は45隻で、そのうち、日本籍船は5隻、日本人乗船船舶は5隻、日本人乗組員数は24人だという。日本籍船以外はいわゆる「便宜置籍船」である。とはいえ、便宜置籍船の多さと日本人乗組員の少なさとを今回はじめて知った。(内閣官房「ペルシャ湾内における日本関係船舶の状況(3月23日時点)」https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/chyutoujyousei/dai1/pdf/siryou3.pdf

 その後、ペルシャ湾の船舶から下船した日本人乗組員4人が帰国したと木原官房長官は記者会見で述べている(読売新聞 2026年3月30日)一時停戦後、3隻がホルムズ海峡を通過、日本人乗組員4人が下船しているのでペルシャ湾に足止めとなっている政府定義の日本関係船舶は、4月6日午後2時時点で42隻となっている(日本海事新聞2026年4月7日)。

 木原官房長官は、4月6日「船舶の運航については運航会社の判断であり、政府としての回答は差し控える」、4月13日午前の会見では、米イランの協議を念頭に「関連の動向を注視しているところだ」とし、「最も重要なことは今後ホルムズ海峡の航行の安全確保を含む事態の沈静化」「外交的な最終的合意への期待」を語るのみ。トランプのホルムズ海峡逆封鎖の受け止めを問われて「トランプ大統領の発言を含めまして、米国の政府関係者の発言、この逐一にコメントすることは差し控える」と答えている。
 高市首相も4月13日政府与党連絡会議で、「ペルシャ湾内にとどめ置かれている船舶、日本関係の船舶を含むあらゆる船舶の安全確保に向けて、引き続きあらゆるレベルで主体的に取り組みを進める」と発言。日本政府は、動向を注視船舶の安全を繰り返すばかり。茂木外相が電話でイランの外相に航行の安全確保の要請をしたというが、トランプ大統領からは日本は協力的でないと言われ、「できないことは、できない」ときっぱり要請したのだろうか。

 まして、日本国民の暮らしと安全を守ると言いながら、ガソリン価格対策として補助金を出したと言っても、財源は直ぐに切れるし、物価高に苦しむより多くの国民、石油関連資材不足に追い詰められている事業者への対策が見えてこない。


 そんな中で、高市首相は、イギリスのロックバンド「ディープ・パープル」と会って、ファンぶりをアピールしたとか、また、自民党大会では、世良公則に「「燃えろいい女」を歌わせ、最後のサビでは「燃えろサナエ~」との絶叫に、立ちあがって手拍手を送ったとか(時事ドットコム2026年14月12日)聞くと、政党の大会でやることかとあきれた。さらに、自衛隊の女子隊員に制服で「君が代」を歌わせもした。これは自衛隊法における自衛隊の中立性に違反して完全にアウトではないか(自衛隊法第61条第1項)。高市首相は、自衛隊員が歌うとは知らなかったといい、小泉防衛大臣は、記者会見で報告を受けてなかったいう。責任転嫁、無責任も甚だしい。こんな自民党が圧勝していたのだ。とんでもない舞い上がりの、まさに“言うだけ番長”を総裁とする自民党、「憲法改正の時が来た」と叫ぶ首相なのである。
 そういえば、高市首相が訪米の折、トランプ大統領主催の晩餐会で、ファンを自称しているXジャパンの曲が流れたからと言って、”絶叫“する首相でもあった。

【参考】自衛隊法第六十一条 隊員は、政党又は政令で定める政治的目的のために、寄附金その他の利益を求め、若しくは受領し、又は何らの方法をもつてするを問わず、これらの行為に関与し、あるいは選挙権の行使を除くほか、政令で定める政治的行為をしてはならない。

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のどかな池の鯉、子どもの鯉が急に増えて驚いたが、この左手に続く池には、こまかいネットが張られていた。サギに狙われないように元気に育ってほしい。

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新緑が映える中庭の先に見えるポスト

 

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2026年4月 7日 (火)

被災地訪問に「原発と天皇」を考える

 天皇夫妻と長女の三人は、3月6日、福島県双葉町の県立「東日本大震災・原子力災害伝承館」を訪問し、設けられた献花台に花を供え、帰還した被災者と懇談している。双葉町は、原発事故後、町民全員7000人近くが避難を強いられ、今も町の85%は帰宅困難区域であり、2026年1月現在の人口は帰還町民と移住者をあわせて196人(朝日新聞デジタル2026年2月2日)という。双葉町ホームページによれば、県と復興庁の三者で毎年全国各地に避難している世帯の「住民意向調査」を行っているが、ここ数年、その回収率は、激減している(https://www.town.fukushima-futaba.lg.jp/9246.htm)。2020年3018世帯のうち1486世帯が回答49.2%、2023年38.3%、2025年29.3%という具合で、双葉町への関心自体が薄れている。というのも回答世帯の80%近くがすでに回答者自身ないし家族が所有する家があり、定住している。さらに70歳以上が50%超えるというのが実情である。関係者の努力があったとしても町としての復旧・復興は不可能に近いのではないか。

 そのような双葉町に訪れた天皇家の三人が、被災して帰還した三人、「東日本大震災・原子力災害伝承館」で語り部をする70歳の男性、ファストフード店で働く54歳の女性、町営住宅で管理組合長を務める76歳の男性が選ばれ、懇談している。「事故を起こした原発が立地する双葉町を皇室として初めて訪れ、被災者の話に熱心に聴き入り、復興への取り組みを励ました」という。76歳の男性には「多くの人が帰って来るといいですね」と天皇は話している(朝日新聞 20206年4月7日)。
 「寄り添い」「励ます」とは真逆のように、この訪問に際して、伝承館は4~7日は休館となり、6・7日は大規模な交通規制がなされている。

 そして、きょう4月7日には、富岡町のとみおかアーカイブ・ミュージアム、大熊町のlinkる大熊、同町の教育施設「学び舎(や)ゆめの森」、浪江町の道の駅なみえを訪問し、各訪問先で復興状況などを視察し、学び舎ゆめの森でも被災者と懇談するという。Jビレッジに一泊の強行日程の中で、三人は原発事故と津波の被災地の何を見て、被災者から何を聴いたというのだろう。復旧・復興のほんの「一画」をめぐり、数人の被災者と「懇談」したからといって、何が変わるのだろうか。にわか仕立ての献花台に花を供えて祈ることが犠牲者を追悼することになるのだろうか。

  原発事故から15年が経ち、今年の1月から3月にかけて、メディアは、復興の困難さ、原発回帰、原発再稼働、除染土や核燃料廃棄物の最終処分場の混迷など、特集記事や社説をもって、政府に疑問を投げかけるものが多かった。

 そんな中での、天皇一家の福島県訪問である。メディアの報道の仕方は、地元の歓迎ぶり、祈る姿、被災者への励まし・・・とそのパターンは変わらない。

 

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2026年3月30日 (月)

しょうけい館、昭和館を訪ねて(2)昭和館

 前日、北の丸公園を突切って田安門を出た折、右手に、九段会館と並んで銀色の瀟洒なビルが並んでいたのが、昭和館だった。今日は、昭和館の前も卒業式の晴れ着の女子学生たちが目立つ。

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田安門から昭和館を望む。

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昭和館前にも、卒業生たちが。

 昭和館にはシルバー料金の360円で入場、しょうけい館もそうだったが、出会う入館者がほとんどいなかったことは、やはり寂しい。
 ここでは、紙の資料ばかりでなく、実物の道具や機器、衣服などの展示、体験コーナーなど、博物館的な要素が大きい点が特徴なのだろう。
 壁面一杯の「学びの庭の壮行式」(1937年11月)は、土門拳により泰明小学校で撮影されたものだが、まず目に飛び込んでくる。朝礼台にはタスキをかけた六人の若者が緊張した面持ちで直立している。「学びの庭の・・・」の題は、土門が命名したものか。また、石川光陽「空襲下の東京」(1945年1月)、菊池俊吉「銀座四丁目付近」(1945年11月)の壁から迫る画像は、現在も、世界の各所から報じられている空爆による瓦礫の街を想起させる。
 この間、1937年7月、日中戦争が始まり、1941年12月太平洋戦争が始まり、1945年8月敗戦を迎える。これらの写真を背景にしての展示のなかで、目を引くのは、たとえば、1933年尋常小学校1年生が初めて手にする読本は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」であり、1941年国民学校1年生が手にするのは「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」に変っている。1939年の7月には、グリコのおまけに「軍歌集」が付くのである。1940年6月、NHKラジオから「隣組(岡本一平作詞、飯田信夫作詞、国民歌謡65集収録)の歌が流れ始める。1940年2月、愛国婦人会・大日本国防婦人会・大日本連合婦人会は解散、統合して大日本婦人会が発足している。1942年10月号の『文藝』に発表した太宰治の「花火」が全面削除処分を受けている・・・。ケース内に展示された、そんな資料を一点、一点、気ままに見ていくだけでも、かなりの時間がかかりそうである。

 併設の図書室もゆっくり見たいところだが、カウンターにあったブックリストはテーマ別に9枚のリーフレットになっていて、表紙画像入りで、15冊ほどが紹介されていた。私がすでに読んだことがある本、家に持っている本、手離した本などが散見できるが、読んでみたい本も多く、帰りの電車では、退屈せずに眺めていた。

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リーフレット表紙の写真がいずれも「米国国立公文書館」提供のものであった。日本では戦時下、占領期の写真や資料を残すという営為に欠けていたのだろうか。敗戦直後、官庁街では、資料を焼却する光景が見られたという。2015年10月、茨城県阿見町の「予科練平和記念館」を訪ねた折、練習生と起居を共にして撮影した土門拳のほとんどの作品が、不明で、自ら焼却したのではないかという記述に衝撃を受けたことがある。

今回の昭和館行きには、もう一つの目的があった。特別展示「昭和映画録~二度の黄金時代」であった。こちらは、無料で見られるだけあって、入場者はちらほら見かけた。しかし、その内容は、ポスター展のようでもあって、少し期待外れであった。1930年代、無声映画からトーキー映画となった時代と戦時下とGHQ占領期の統制時代を経て迎えた、1950年代の全盛時代を「黄金時代」と捉えている。戦意高揚の国策映画、占領政策の一環としての映画はトピックスとしての扱いであって、その時代を通して、時代に即して活躍した映画人たちへの評価が見えてこなかった。

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 総じて、厚生労働省社会・援護局所管の国立の施設で、1999年開館以来日本遺族会が受託、運営しているという性格上の限界なのか、残念なことではあった。

【参考】 
昭和館常設展示室紹介動画①②
https://www.youtube.com/watch?v=AU0jjju3hTc

https://www.youtube.com/watch?v=t8T8P-ta60M

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旧堀田邸・さくら庭園に向かう桜並木、昨日から今日にかけて一気に咲きそろった。3月30日撮影。

 

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