2017年1月14日 (土)

「歌会始」のテレビ中継を見て

きのうは、私のブログへアクセスがいつになくにぎわった。検索のキーワードは「歌会始」だった。私も、113日「歌会始」のNHKのテレビ中継を見た。そして、今朝の新聞記事も読んだ。

昨年は、88日の天皇の「生前退位」表明をめぐって、「天皇制」は重大な局面を迎えたはずだった。「そもそも日本国憲法のもとの<象徴天皇制>ってなんだ?」ということを考えるチャンスであったはずが、現在はそういう流れにはなっていない。

今年の「歌会始」の「野」への応募歌数が20205首だったそうだ。近年では、2万首超えることが少なくなっていて、昨年の18962首を少し上回ったが、今年の入選作品や皇族、選者たちの作品にも、新聞で“話題になる”になるような歌が少ないらしく、目立つ記事も見当たらなかった。また、出席の皇族方も、三笠宮家の喪中でもあったためか、男性は皇太子と秋篠宮の2名、女性は、秋篠宮妃紀子さんと眞子さん、常陸宮妃華子さんの3名という寂しさである。平成30年で終わった時、「歌会始」に今の天皇・皇后はどのあたりに座るのかな、それとも出席しないのかな、など余計な心配もする。NHKの中継を見ていると、入選者の事前取材も入選作を予知しているかのようだし、昨年713日のNHK「生前退位」スクープ報道も宮内庁とNHKの蜜月を思わせ、キナ臭さを感じた。いずれにしても、代替わりを前に、ジャーナリズムの報道姿勢と動向は、注視しなければならないだろう。

近く「生前退位」の有識者会議の論点整理も発表されるが、これとて、政府への忖度は必至だろうし、政府は先のめりに「特例法だ」、「元号だ」と盛んに地ならしを進めている。

 

先ほど気付いたのだが、中島一夫さんのブログ(KAZUO Nakajima 間奏)で、昨年8月号の『ユリイカ』の拙稿「タブーのない短歌の世界を―『歌会始』を通して考える」を紹介してくださっていた。思いがけない読者からの声に、力をいただいた。

KAZUO Nakajima 間奏

http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20170108/p1201718日)

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2017年1月 6日 (金)

『琉球新報』の「県民意識調査」結果~その天皇観は何を語るのか

元旦に、ネット上で今回の「意識調査」のことを知ったが、11日の『琉球新報』が届いて、詳しく知ることができた。昨年の拙稿『沖縄における天皇の短歌は何を語るのか』(『社会文学』44号(20168月)において、NHK放送文化研究所の沖縄県並びに全国を対象とした「世論調査」を利用したり、このブログでも、天皇の「生前退位」についての新聞社各社の世論調査のことにも触れたりしたので、類似の質問の回答が比較できるのではないかと思った。

『琉球新報』では5年に一度、「県民意識調査」を実施していたそうで、今回は、20161015日から1125日、55地点の対象世帯を調査員が訪問面接した1047人の回答結果であった。遠く離れた私には、意外な回答結果があったりしたが、ここでは、県民の「天皇・皇室観」についてみてみようと思う。

*以下の表をPDFにしました。こちらの方が読みやすいかもしれません

http://dmituko.cocolog-nifty.com/yorontyosateno.pdf

 

世論調査「天皇観」の動向

 

201716日、内野光子作成)

 

『琉球新報』<天皇、皇室に親しみを持っていますか >               

 沖縄201611月         

9.1

 

強く持っている 

31.7% 

 

まあ持っている

 

29.8

 

余り持っていない

 

6.4
全く持っていない 

14.9

 

どちらともいえない

 
 6.0 

 

わからない

0.1 % 
無回答
 

 「沖縄県民意識調査」『琉球新報』201711日、より作成  

 

NHK<天皇は尊敬すべき存在か> 

沖縄1982年                       

 41 そう思う 

37 そうは思わない

 

16どちらともいえない 

 

7%
わからない無回答

沖縄1987  

45% そう思う

 

29 そうは思わない

 
 19% どちらともいえない 

7%わからない無回答 

 沖縄1992  

34 % そう思う

 
 32% そうは思わない 

28%どちらともいえない

 
7% わからない無回答  

沖縄2002 

30% そう思う        

 33% そうは思わない 

 

 

27% どちらともいえない

11%

 わからない無回答

沖縄2012   

51%  そう思う

 

 

 

19% 

そうは思わない

 

24% 

どちらともいえない

 

6%

わからない+無回答

全国2012                                 

72 そう思う

 

13そうは思わない

 

13どちらともいえない

 

0.2  わからない

無回答

 「復帰40年の沖縄と安全保障~沖縄県民調査と全国意識調査から」『放送研究と調査』20127月、より作成

 

 

NHK<あなたは、皇室に対して親しみを感じていますか、それとも感じていませんか> 

全国2009                                                  わからない+無回答1%

 15とても感じている    46 ある程度感じている 

29% あまり感じていない

 

9まったく感じていない

 

1%

  

 「平成の皇室観~即位20年 皇室に関する意識調査から」『放送研究と調査』20102月、より作成

 

NHK<天皇は尊敬すべき存在だ>(そう思う)の全国・沖縄の動向 

   1978 

1982

 
 1987   1992 

1995

 

1996

 
 2002   2012 
 

沖縄

 
 

36

 
 

41

 
 

45

 
 

34

 
 

29

 
 

32

 
 

30

 
 

51

 
 

全国

 
 

56

 
 

 
 

 
 

56

 
 

 
 

51

 
 

 
 

72

 

 「本土復帰後40年間の沖縄県民意識」「NHK放送文化研究所年報2013」より作成

 

『朝日新聞』<あなたは天皇に対してどのような感じを持っていますか>

全国201611      反感を持つ0.5%、その他0.3%、わからない・無回答1.2%⤵    

 

14.8%尊くて恐れ多い

 
 

47.1% 

 

親しみを感じる

 
 

19.5%

 

すてきだと思う

 
 

16.6 何とも感じない

 
 

2

 

%

 

 『朝日新聞』20161120日朝刊、より作成  

 

 

*以上の表をPDFにしました。こちらの方が読みやすいかもしれません 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/yorontyosateno.pdf

 

上記のように、『琉球新報』沖縄県民意識調査における「親しみを強く持っている」「まあ持っている」を合わせると40.8%になり、「余り持っていない」「全く持っていない」を合わせると36.2%になる。40%以上の県民が、天皇に「親しみ」を持っているというのが、私などはむしろ意外であった。NHK放送文化研究所の調査での設問は「天皇は尊敬すべき存在だと思いますか」とあり、「親しみ」「尊敬」とのニュアンスは若干が異なるが、『放送研究と調査』(20127月)の調査での51%と、過去の分も含めて見ると、昭和天皇の晩年と平成に入っての前半期とその後の動向が興味深い。これらの結果は、大きく、二つの視点から分析してみる必要がある。一つは、時系列の動向と全国と沖縄という地域の違いである。

 沖縄県民の天皇観の動向
 
沖縄における天皇観については、さらに、時代の変化自体と昭和から平成への天皇の代替わり、とくに平成の天皇周辺による意識の変化及びメディアの対応が影響しているとみられる。時代の変化は、沖縄の場合、昭和晩期の「そう思う」が40%超えているのも意外であったが、平成に入って、「そう思う」が30%前後に減少し、「そう思わない」が漸増して、拮抗することになる。その要素としては、戦前の教育を受けた世代の減少と日本国憲法における象徴天皇制の経年などがあげられるだろう。天皇への畏敬の念や尊敬の気持ちが薄れていくのは、その数字だけでなく、平成期の「どちらともいえない」「わからない・無回答」という、いわば深く考えない、無関心層を合計すると、その割合が、351992)、382002)、302012)と約3分の1前後を推移し、根強いことからも分かる。

沖縄において、こうした状況が劇的に変化を見せるのは、2012年の「そう思う」が51%、「そう思わない」が19%という数字である。全国の場合を見ても、1978年、1992年、1996年の推移を見ると、50%台だったのが、2012年に72%に上がっている。この理由として、「復帰40年の沖縄と安全保障~沖縄県民調査と全国意識調査から」(『放送研究と調査』20127月)は、「11年の東日本大震災後の被災地訪問などの活動も少なからず影響していると思われる」(6頁)と分析している。NHK在位20年の世論調査における「天皇の役割として意義あるものも」として、国際親善、戦争犠牲者慰霊、障がい者・高齢者・災害被災者激励などが上位を占めていたこと(「平成の皇室観~即位20年 皇室に関する意識調査から」『放送研究と調査』20102月、26頁)や「これからの皇室に望むこと」として、国民との触れ合い・国際親善・伝統文化の継承が上位を占めていたこと(前掲27頁)との整合性は理解できよう。さらに、最新の朝日新聞の調査でも、「天皇の重要な活動」として国際親善・被災地見舞いが上位を占めていたこととも、その方向性を一にする。天皇の「国民との触れ合い」「被災地見舞い」への「努力」が、調査の結果に大きく影響していることが推測される。 

沖縄県民と全国の天皇観の乖離

このような沖縄県民の意識の動向の特色は、全国の数字にはもっと如実に表れる。直近、いずれも昨年201611月、88日の天皇の「生前退位」表明以後の調査結果で、『琉球新報』の親しみを「強く持っている・まあ持っている」の40.8%と『朝日新聞』の「親しみを感じる・すてきと思う」合わせて66.6%で、「尊くて恐れ多い」を入れると81.4%という数字を比べてみると、歴然とする。こうした傾向は、NHKの長いスパンでの調査結果にも表れている。こうした乖離の要因は、明治時代からの沖縄の近代史において天皇の果たした役割にある。おおざっぱに言ってしまえば、琉球処分に始まり、長い間、本土の人間との差別に苦しんだ挙句、捨て石作戦の結果としての沖縄戦による多大な犠牲者、昭和天皇メッセージによって米軍占領を容認したことへの天皇への不信が根底にあると思う。そして、いまだに、日本の安全保障のためと称して米軍基地4分の3を担わされ、沖縄県民の人権、財産や自然が大きく侵害されている現実を思えば、当然のことであろう。40%以上の県民が天皇に「親しみ」を持っていることの方が、不思議に思われたのであった。 

天皇への「尊敬」や「親しみ」はどのように形成されたか

まずいえることは、『琉球新報』も分析しているように、県民の世代構成の変化が見て取れるのは、近代の重要な出来事に『沖縄戦』をあげた人の割合が最多であることには変わりがないものの、200152.8%から201645.7%に下がっていること(201713日)。また、在沖米軍基地はどうあるべきだと思いますか」の「撤去・縮小」をあげた割合は、

2038.7%、3048.0%、4060.7%、5071.6%、6071.9%、70代以上72.4%であり、20代・30代では「どちらともいえない」が3分の1を超える、という結果を「中高年は革新的、若者、基地問題で戸惑い」と、分析している。こうした結果の分析は、「天皇観」においても共通するところがある。NHK2012年の調査結果の分析においても、「天皇は尊敬すべき存在か」の「そう思う」と答えた世代別の割合が、

2012%、3014%、4022%、5032%、6052%、70代以上63

という(「復帰40年の沖縄と安全保障~沖縄県民調査と全国意識調査から」『放送研究と調査』20127月、7頁)、全世代平均での40.8%の内訳をみて、理解できるだろう。

 こうした、天皇観が形成されていったのは、昨年、88日、天皇の「生前退位」表明の翌日の『琉球新報』の社説が、つぎのように述べていることに象徴されるような、メディアの論調が大きく影響していると思う。

就任以来、平和憲法を重んじてきた陛下は「象徴天皇の地位と活動は一体不離」との信念を貫いてきた。国事行為以外にも、「常に国民と共に」「声なき国民の苦悩に寄り添う」という思いを忘れず、とりわけ、沖縄など、太平洋戦争の犠牲者の慰霊に心を砕いてきた。

 広島、長崎の原爆犠牲者に黙とうをささげ、中国や韓国の苦難に「深い悲しみ」を表明してきた。阪神淡路大震災や東日本大震災などの被災地にも小まめに足を運び、被災者を激励した。

 沖縄には即位前から10回も訪れ、琉歌で戦没者を哀悼している。父の昭和天皇が米国に差し出すことを認めた沖縄の痛みに触れ、昭和天皇と戦争責任、民主主義の関係に葛藤しながら、象徴天皇としての自らを磨き上げたのだろう。

 多くの国民が敬意と共感を抱き、昭和天皇には厳しい沖縄県民の間でも好意的な人が多い要因だろう。(「社説」『琉球新報』201689日) 

 沖縄のメディアにさえ、こうした天皇観が披瀝されている現実、とくに、下線部分のような、天皇への評価は、本土の、全国メディアと呼応しているかのようにも思え、その結果が、高齢世代からの高い支持につながっていると考えられる。平成に入っての在位10年、20年のイベント、戦没者慰霊、障がい者や高齢者施設への見舞い、被災地への見舞いや励ましの映像と関係者の感動や感謝のことばが繰り返し報道される「天皇報道」あるいは、周辺の皇室報道との相乗効果によって、形成されたものと思われる。

 しかしよく考えてみると、天皇のこうした行為は、象徴天皇制のもとでは、憲法で定められた国事行為でもなければ、もちろん私的な行為でもない。今回の「生前在位」表明で、個人としての自由な行動や発言も許されない基本的な人権が認められない、生まれながらの存在を前提にしている「象徴天皇制」の矛盾が、照射されたといってもいいだろう。天皇の表明は憲法違反だ、皇室典範を改正して恒久的に対処すべきだ、今回限りの特例法での対応が望ましいとの議論に矮小化され、天皇制と日本国憲法、民主主義との乖離自体に着目する議論がなされないのはどうしてなのか。敗戦直後の昭和天皇退位論、昭和天皇の戦争責任論が活発になされた状況を、いま思い起こし、日本の戦後史の原点に立って見つめなおしていい時が来たということではないのだろうか。いま、天皇の個人的な資質や性格が問題なのではない。

現政府の「未来志向」なる「無責任」体制のなか、「日本国憲法」の護憲派やリベラル派と称される人たちさえも、「天皇制論議」は「さておき」、ぎごちなくも「陛下」といい、敬語をあやつる報道人、知識人や文化人のなかにも、「天皇」の権威にすがろうとする人たちがいる。

本ブログの関連記事以下もご覧いただければと思います。

天皇「生前退位」の行方~「天皇制」の本質については語られない(1)(2

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-dd45.html20161129日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/11/post-e43f.html20161130日)

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2017年1月 3日 (火)

新年のご挨拶申し上げます。

 いつも、当ブログをお訪ねくださり、ありがとうとうございます。皆様のご支援をいただき、細々ながらなんとか書き続けてまいりました。今後ともよろしくお願いいたします。 
 国内外の政情を思いますと、不安が募るのですが、いま自分にできることは何かを探りつつ、この一年を過ごしたいと思っています。と申しても、まずは、体調管理でしょうか。
 昨年4月には、日本現代詩歌文学館と石巻、女川を訪ね、震災後の復興途上の現実を目の当たりにしました。6月は、沖縄を再訪し、伊江島にも渡り、23日には摩文仁での追悼式典に参加しました。12月は、久しぶりの京都にて、宇治の山本宣治と法然院の『ポトナム』創刊の歌人小泉苳三の墓参をいたしました。

皆様のご健勝とご活躍を祈ります。

 2016年の執筆より
白蓮年譜の空白―『塹壕の砂文字』の献呈先から探る 『日本古書通信』   4月号
歌壇時評 『ポトナム』 7・8・9月号
タブーのない短歌の世界を―「歌会始」を通して考える   『ユリイカ』    8月号
沖縄における天皇の短歌は何を語るのか 『社会文学』 44号 8月29日刊
夏休みの宿題・戦争と短歌 『現代短歌』 9月号
『青葉の森へ』第三集(千葉市短歌ハーモニー合同歌集) 9月1日刊
沖縄にも天皇の歌碑がある 『新日本歌人』 9月号
阿部静枝の短歌はどう変わったか―無産女性運動から翼賛へ 『昭和前期女性文学論』 10月15日刊

 2016年アルバム拾遺

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4月27日、盛岡市、岩手県立美術館


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6月20日、那覇市「不屈館」展示から、米軍占領直後、コーラの空き瓶をコップに改良して利用していた、など

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12月2日、首相官邸前。この日、夫が参議院TPP特別委員会の参考人としてTPP反対の意見を述べた。私は「随行員」として委員会室で傍聴した

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12月20日、法然院、地蔵堂から本堂を望む、小雨に敷石が光る

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2016年12月26日 (月)

紅葉のシーズンは終わったはずだが~久しぶりの京都(3)40年ぶりの法然院へ

翌朝は、晴れる予報だったのに、すっきりしない空模様だった。今日は、南禅寺から北へ向かい、法然院を訪ね、小泉苳三の墓参を予定。小泉苳三(18941956)は、私が同人になっている短歌結社誌『ポトナム』を1922年に創刊した歌人である。私が入会した1960年には、すでに故人になられていたので、お会いしたことはない。歌人であると同時に、短歌史、短歌関係書誌の研究者でもあった。その収集歌集・歌書は、立命館大学図書館の特別コレクション白楊荘文庫に収蔵されている。私も一度ならず利用させてもらっている。そして、墓地の在る法然院での11月の苳三忌の墓参・歌会には二度ほど参加、1975年の歌碑の除幕式にも参加したが、その後、墓参に来ることもなかったのである。今回はそんな不義理を詫びたい気持ちもあった。

南禅寺から永観堂へ

東西線の蹴上で下車、地上に出てすぐにトンネルがある。矢印に沿ってしばらく歩き、金地院の門を過ぎると、南禅寺の中門にぶつかる。

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蹴上のトンネル、上にはインクラインが通る。この入り口には、何やら文字があったのだが、読めないままくぐり抜けた。あとから調べると、「雄観奇想」とあったのである。

Photo
「雄観奇想」とは「素晴らしい眺めと思いもよらない考え」ということで、疎水工事を計画した当時の北垣国道京都府知事の揮毫とのこと、反対側には「陽気發處」の言葉が掲げられているとのことだが、私は気づかず通り抜けた


 南禅寺の立派な三門への階段をのぼると見えてくるのが法堂である。さらに奥には、庭園で有名な方丈がある。その奥には、圧倒的な存在感を示すアーチ型で支えるレンガ造りの水路閣がある。琵琶湖疎水工事は5年の年月をかけて1890年に完成、工業、農業、防火用水などの確保を目的に、やがては、水力発電の強化と水道用水確保に利用され、現在も上水道として利用されている。当時の府知事と若きエンジニア田辺朔郎による日本の近代的建造物の典型でもあるのではないか。そのわきには、天竜寺、西芳寺の庭園と並んで京都の三名園とも記されている亀山天皇の離宮、南禅院なのだが、残念ながらパス。

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法堂の香炉から
三門を望む

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水路閣はどこから見ても、その偉容に圧倒され、築いた人々の心意気が感じられる

 

 先を急いで永観堂へと向かう鹿ケ谷通は、静かなお屋敷町のようだ。東山中学校・高校があり、バスケットの強豪校らしく、優勝などの垂れ幕が賑やかである。近くには、現在は休館中の野村美術館もある。

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左に見えるのが野村美術館、思わず迷い込みたくなるような道


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 永観堂へは、南門から入って中門まで進んだ。かつて京都のひとり旅にのめり込んでいた頃、「みかえり阿弥陀」の名に魅せられて訪ねたことのある永観堂である。拝観するには、境内も広いし、時間もかかりそうである。迷いながらもここまでとし、総門から出ることに。

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永観堂総門

真如堂へ

 ふたたび鹿ケ谷通を進むと、「泉屋博古館」という美術館、「せんおく」と読み、住友コレクションの収蔵館らしい。野村と言い、住友と言い、「メセナ」と言えば、格好いいけれど、なんだかな、の思い。この辺りからそろそろ白川通に出て、金戒光明寺に向かいたいと、左折した。宮前橋を渡ったところで、右か左かを迷い、通りがかりの女性に訪ねると、いともあっさりと「真如堂だったら通りを渡ったところを左に入って、道なりに」と言われた。たしかに、前方には大きな森が控えていた。やがて山沿いの細い道を進んでいくと、さらに、細く険しい上り坂になった。苦しい、息苦しくもなって、立ち往生、夫は心配になって振り返る。「あと20メートル頑張って」などの立て札があったりする。ようやく登り切ると、街が見下ろせる道に出た。両側には、家が立て込み、真如堂というわけではない、と思った矢先に、広い坂の入口があった。汗びっしょりのところ、雨もぽつぽつ落ちてきた。ともかく休憩所のベンチになだれ込む。目の前には立派な三重の塔があるではないか。いったいあの心臓破りの坂はなんだったのだろう。そういえば、あの坂の写真は一枚も写していなかった。地図を眺めると、おそらく、丸太町通の岡崎神社の方から金戒光明寺の境内を通ればこんなことはなかったのだろうと。

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法然院へ、ようやく墓参を果たして

ようやく人心地ついたので、白川通からは、バスで銀閣寺道まで出た。お目当ての「おめん」にて昼食をとった。いよいよ、哲学の道に入ろうと思った矢先、小雨ながら降り出したので、帽子を持たない夫は透明傘を購入、「法然院まで行くなら、哲学の道にはたくさん橋があって分かりにくいので、銀閣寺にぶつかったら右に曲がった方がよい」との、店員さんの勧めにしたがった。山沿いの裏道、途中道路工事にもぶつかりながら、ようやくたどり着いた法然院。まず、寺務所に小泉家の墓地の場所を尋ねなければならない。数回訪ねているはずなのに、記憶がない。たしかに40年ぶりなのである。墓地と歌碑の場所を教えていただいた。谷崎潤一郎、九鬼周造、河上肇らのお墓のある墓地とは違う「新墓地」の方だった。歌碑の前に立って、ようやくかつての除幕式のことがかすかによみがえるのだった。墓参を済ませたころには、雨も上がっていた。これで、ようやく念願果たして京都の旅も終わり、安堵したのだった。

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川沿いの哲学の道ではなくでなく、銀閣寺に向かう

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新墓地の入り口に、1975年11月建立。「あまつたふ月よみの光流れたりしらしらとして遠き草原 苳三」

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あたらしい塔婆は、今年11月20日の京都ポトナムの苳三忌墓参の折のものだろう

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歳晩の静かな法然院山門、新年を迎える準備だろうか、落ち葉を集める人影のみだった

Img236
1975年11月24日、歌碑除幕式の集合写真、ポトナムの皆さんの若かりし頃、故人になられたかとも多い

京都駅には、予定より早く着いたので、1時間ほど早い「のぞみ」に変更。新幹線改札の近くにあった「イノダコーヒ」店、寄ってみたかったのだが、つぎの機会に取っておくことに。

 

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2016年12月24日 (土)

紅葉のシーズンは終わったはずだが~久しぶりの京都(2)平等院から三月書房へ

宇治上神社から平等院へ

「山宣」墓参の後は、「花やしき」の山本氏と別れ、部屋の窓から見えていた朱塗りの喜撰橋を塔の島へと渡る。辺りは護岸工事たけなわで、観光シーズンを外して実施しているとのこと。対岸へは、朝霧橋を渡る。橋の下は、天ケ瀬ダムからの流れでかなりの早さである。橋を渡り切ると右正面に福寿園の店と工場があり、製茶の手順が分かる展示室もあった。

反対側に進むと宇治神社、境内ですれ違った女性に、新しい鈴が奉納されたばかりなので、お参りしてください、と声をかけられた。なるほど、新しく太い鈴緒であった。早速拝礼の後は綱を振ってみるが、鈴の音が鈍い。房が閉じられた木枠には奉納のスポンサー「山崎製パン」などの文字が見える。さらに、奥の宇治上神社へ向かうと、今度は、数人で、赤い鳥居に太いしめ縄をしつらえているさなかであった。先の鈴と言い、初詣の備えなのだろうか。広い境内を一回りした後、与謝野晶子の歌碑にむかう。この辺りも、まだ、紅葉が残る。斜面の上から、何やら元気な声がと思えば、朱色のスモックの園児たちが列をなして、手を振ってくれていた。保母さんとともに、「コンニチワー」の大合唱である。

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宇治神社、奉納されたばかりの鈴


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宇治上神社の鳥居を出た帰り道にも出会った別の園児たち、素晴らしい散歩コースですね、「コンイチワ」と先に声をかけられ、「イッテラッシャーイ」を繰り返す

ふたたび二つの橋を渡って、散策路から平等院に入った。ここはさすがに、観光客が多い。鳳凰堂の見学はスルーして、源頼政の墓所や鳳翔館を回り、池の前のベンチで一休み。昼食は、どこにするか迷いながら、表参道半ばのお茶の中村藤吉店の茶そばに決め、スイーツの誘惑にも負け、二人で一品、いただくことに。

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源頼政墓所から鳳凰堂を望む

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  茶そばとスイーツを。前の店では、「中村茶」を勧められた。〇に十の商標は、
中村藤吉の「藤」の音読みに由来するとか、店員さんは、「はっきりしないのですが、
と言われています」とのこと

夕食は、娘と京都で約束しているので、早めに戻り、立ち寄りたいところがあった。島津製作所の資料館と三月書房だった。

島津製作所創業記念資料館

今日の宿、八条口前の新都ホテルに荷を預け、地下鉄の市役所前下車、京都ホテルオークラ、日本銀行の角をぐるりと回る。老舗の京都はテル、夫は、いつ「オークラ」が付いたんだろうというので、後で調べてみたら、業務提携をしたのが2001年だったらしい。島津製作所創業記念資料館は、なかなか風情のある建物で、その展示内容も充実していた。1975年、創業百周年記念としてオープンしたという。ノーベル賞の田中耕一さんのコーナーもあるが、明治のものづくりの精神を脈々と受け継ぐ企業の面目躍如といったところか。学校の顕微鏡から家庭の電化製品、病院の医療機器、航空機器にいたるまで、どこかで島津製品にお世話になっていたような気がしてくるほどである。

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中京区木屋町二条南、創業時の社屋で、近代化産業遺産に認定されたそうだ

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資料館2階から望む

三月書房

 
そしてすぐ近くのはずの本屋さん、三月書房に向かった。詩歌関係の書籍が充実していることで知られる。そのホームページの短歌コーナーで、私のブログを歌人のブログの一つとしてリンクしてくださっていることを知って以来、一度訪ねたいと思っていた。店に入って、そのことを伝えると、「まもなく帰るはずですが、主人は、いま出かけていまして」とのことだったが、ほんとにすぐに戻られ、ご主人の宍戸氏にお会いすることができた。三月書房は新刊の本屋さんなのだが、つい、いただく歌集の始末を、皆さんどうされているのだろうという話になってしまった。「出版される歌集の90%以上は、古書店でも買い取りません」ときっぱりおっしゃる。たしかに、数年前、私も東京の古書店に発送した6箱目以降断られた経験がある。

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ようやくたどり着いた三月書房、中京区寺町通二条上ル西側

娘と待ち合わせたレストランでは、その夜からクリスマス・メニューをはじめたところとのこと、私たちは、まず、ワインや特製カクテルで、乾杯となった。

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中京区河原町通理に条下ル一之船入町、フォーチュンガーデンにて

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紅葉のシーズンは終わったはずだが~久しぶりの京都(1)宇治の「花やしき」へ

 結婚して間もないころ、宇治を訪ねた折、山宣のお墓にはお参りしたが、その生家の旅館「花やしき」は何となく敷居が高く、前を通り過ぎただけだった。今回の京都行きでは、ぜひ泊まってみたいというのが、目的の一つだった。ランチは、娘が予約しておいてくれた、京都タワーが眼前に迫るレストランで済ませた。休日とあって、伊勢丹のレストラン街は、その人通りと各店の行列とでごった返し、その賑わいには少々驚いた。京都駅も一人だったら迷うだろう。

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宇治に直接向かうつもりが、かつて夫が名古屋から単身赴任で住んでいた合同宿舎があった桃山で下車。「泰長老官有地」の宿舎は4階建ての14棟ほど立ち並ぶが、現在は廃止が決まり、各棟に数家族が住んでいるのが現状で、娘と訪ねた2年前とあまり変わらず、廃屋めいた棟もある、閑散とした団地であった。夫は、ベランダに住み着いた鳩の鳴き声で目がさめたといい、私が娘と訪ねた週末などは近くのテニスコートの球音で目が覚めたことなどを思い出す。30年以上前のことである。

御香宮神社

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御香宮表門

 今回は、明治天皇・昭憲皇太后の桃山御陵は失礼して、京阪の桃山御陵駅まで歩いてみると、御香宮神社の灯篭が歩道にはみ出しているような格好で建っていた。神功皇后をまつり、「御香宮」名は、香りの良い湧き水に由来するという、貞観年間9世紀にさかのぼる。安産・子育てにご利益があるとのこと。表門は伏見城の大手門を移築したといい、立派なものだったが、入るのは初めて。奥が深いようなのだが、門をくぐった左手の「伏見義民碑」が目をひいた。京都市の案内板「伏見義民事蹟」によれば、1785年(天明5年)、伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは獄死するなど悲惨な最期を遂げた文殊九助ら7人を伏見義民として、1887年(明治20年)に建てられた慰霊碑で、碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書という。義民の墓所は近くの大黒寺に、江戸で獄死した3人は門前仲町の陽岳寺にあるという。佐倉では、佐倉惣五郎が有名だが、どうも脚色やフィクションが多く、どこまでが史実か不明な「物語」なのに比べ、伏見の7人は確かなのである。

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御香宮「伏見義民の碑」

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「伏見義民事蹟」

桃山基督教会

その御香宮の隣に続く白い塀に沿えば、奥まったところに古い木造の建物が見えた。門柱には、「桃山幼稚園」「日本聖公会桃山基督教会」とあった。かつては余裕もなく、前を通り過ぎていたのだろう、この教会には覚えがないのだが、歴史は古く、2017年には100周年を迎えるという。機会があれば、教会内部も見学したい、と思う。

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日本聖公会桃山基督教会、来年100周年を迎える

 大手筋のアーケード商店街は、変わりがないようで、生活感あふれる露店も並ぶ。市内の錦小路はすっかり観光地化され、外国人目当ての店が多くなってしまった。同じようなことは、上野のアメ横でもあるらしく、アジア系の店がめっきり多くなってきたと、テレビで嘆いていた店のオーナーがいた。

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大手筋商店街(1)

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大手筋商店街(2)

 花やしき浮舟園~山宣の生家と墓所と

 冬至も近いことから、暮れるのが早い。京阪宇治駅に着き、宇治橋を渡る頃の夕映えは格別だった。平等院表参道は賑やかだったが、川沿いの散策路は、見事な紅葉も残っていて、人影もない。いよいよ宿の「花やしき」へ。

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宇治橋から

ひと風呂浴びての夕食が、和食のごちそうで、ビールも進む。2泊分の荷物を背負って歩いたので、肩や腰の張りが心配ながら、早々と就寝。

朝から湯豆腐のお鍋や茶がゆも選べる朝食をしっかりといただき、ロビーで、目の前の護岸工事のことをお尋ねしたところ、答えてくださったのが、オーナー4代目の山本哲治氏であった。山本宣治のお孫さんにあたる。「山宣」の墓参のことを話すと「車でお送りしましょう」との言葉、恐縮しながら、甘えることになる。

山本宣治(18891929)、ご存知の方も多いと思うが、非合法だった日本共産党からの要請で、当時の無産政党、労働農民党から立候補、1928年、第1回普選で当選した政治家で、治安維持法の改悪に反対していたが、その法案可決の日に右翼により刺殺され、1929年、39歳の波乱の人生を閉じた。彼の両親が創業したのが、この旅館「花やしき」で、熱心なクリスチャンでもあった。彼は10代でカナダに留学、帰国後、三高、東大と進み、動物学を専攻、同志社大学(予科)講師になり、性教育の啓発、産児制限運動にも貢献している。

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花やしき浮舟園

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墓石の文字「花屋敷山本家の墓」は、宣治の母、多年の短歌の師、阪正臣の揮毫による

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山本家の墓碑の裏面、上段に、父亀松、母多年、宣治の命日と享年が記されている。ちよは、宣治の妻。左には、大山郁夫の筆になる、全国農民組合大会での 宣治の演説の一節が刻まれている。「山宣ひとり孤塁を守る だが僕は淋しくはない 背後には多くの大衆が支持しているから」とある

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宇治川沿い散策路に残る紅葉

  

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2016年12月14日 (水)

吉川氏との<論争>その後

 はや12月、今年は、私にとってめったにない経験をさせてもらった。というのも、すでにこのブログでもお知らせしたように、私が会員となっている『ポトナム』(2016年7月号)での歌壇時評に、『うた新聞』紙上で、吉川氏は反論を書き(8月号)、それに私が答えたところ(9月号)、また吉川氏の反論が掲載された(10月号)。以下は、『うた新聞』11月号の私の答えである。同新聞の12月号には、その応答がない。

 そもそも、発端は、私が『ポトナム』の歌壇時評で、2015年、安保関連法案が強行採決された後、開催された二つのシンポジウム「時代の危機に抵抗する短歌」(京都)「時代の危機と向き合う短歌」について、主催者側の吉川宏志氏と三枝昂之氏が「時代の危機」というより、歌人は「言葉の危機」にどう向き合うか、という視点で総括されていたことに疑問を呈した、ことに始まる。吉川氏は、私の時評の、シンポジウム参加者の感想の引用部分を私の言葉として、それを前提に非難してきたので、そこを明確にしてほしいことと、私がこれまで、他の著作でも主張したことのない言説をもって難じていることに、いささか困惑したのである。私の第1回目の反論は、以下をご覧ください。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/10/89-e189.html

 

 さらに、吉川氏の反論は、私が時評や反論で言及していないことや他の雑誌の小文にまで及び、その主旨をねじまげ、自らの稿を進めたのである。私の2回目の反論は、末尾に再録した。

 二人のやり取りについては、あまり反響がないようなのだ。多くは当たらず触らず、ということなのだろう。今のところ、友人にご教示いただいた「歌壇時評・今問われているもの」(今井正和『くれない』2016年11月号)と「2016年評論展望」(屋良健一郎『(短歌研究)短歌年鑑』2016年12月)の中で言及されている。貴重な発言として受け止めたい。

 なお、直接ではないが、吉川・内野の双方に登場する『ユリイカ』の拙稿について、「歌壇時評・ぼくも行くかも」(斉藤斎藤『短歌人』2016年11月号)では、「歌会始の選者を引き受ける歌人を筆者は批判する気にはなれない」として、佐佐木幸綱のかつての言「俺は行かない」を模しての表題であった。「活躍」する歌人の「配慮」に充ちた発言としての典型なのかしらと思いつつ、やはり寂しかった。

 また、私が最初の時評で引用し、吉川氏が曲解したた岩田亨氏のブログでの発言であるが、その岩田氏が、『うた新聞』へ寄稿されると、自身のブログで公表された。さらに、上記『短歌年鑑』の屋良氏の「評論展望」への反論も『短歌研究』に書かれるそうである。その展開に期待したい。

 

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吉川氏「<いま>を読む」に再び、応える  

      

 前号の「<いま>を読む」は、私の九月号の反論であった。そこでは、私の『ポトナム』時評を八月号同様に「印象」をもって読み通すことに終始していた。「歌会始選者に安保法制について論じる資格がないというような言い方には無理があろう」、三枝氏の著書の「どこを読んだら、<戦中の歌人の戦争責任を不問に伏す>という言葉が出てくるのだろう」という二つの疑問が返ってきた。しかし、その疑問の設定自体が、私の二つの文章や表現(『ポトナム』七月号、『うた新聞』九月号)に即したものではなく、捻じ曲げられてしまっているのが残念だった。関連の質問もあるので、念のため答えておきたい。

「歌会始選者」と「集団的自衛権を強引に進める政権」への批判は矛盾しないのではないか、という。私は、シンポジウム登壇者に「歌会始選者」がいると気づいたという参加者の文章を引用はしたが、その評価にも、矛盾にも言及はしていない。

吉川氏は、『ユリイカ』八月号の小文を引用して、「歌会始選者」と「赤旗歌壇選者」の兼任についての私の疑問に触れ、氏は、両者の兼任は「交流する」ことによって「タブーでなくなったという意味」で評価をする。「タブー」であったという意味が不明だが、私は、特定の歌人による兼任だけを問題視したわけではない。『ユリイカ』で、私が言いたかったのは、ジャーナリズムや論壇において、基本的な核となる争点での対立を避け、「寛容」や「共存」へとなだれ込んでゆく現象を背景に、言論の自由・自立を脅かす異論の排除・無視という重苦しい潮流がある、ということであった。それを見据えずに政権批判や権力に抵抗することが、ますます困難になることへの不安であった。

三枝氏の『昭和短歌の精神史』について、私は、氏が「既存のフィルター」を排し、戦争期と占領期の作品に向かうことを提唱しながら、みずからも「<時局便乗批判>から歌人たちの戦中をもう少し自由にしたい」というフィルターに固執してしまっている、と評したことがある(『天皇の短歌は何を語るのか』八九~九〇頁)。今回、吉川氏が、私の引用した「戦争責任を不問に付す」という岩田亨氏の発言を私の発言にすり替えてしまうことに困惑している。岩田氏の言と私の上記の言に、重なる部分があるとしても、すり替えることは、読者に誤解を与え、岩田氏にとっても迷惑であったろう。

 なお、シンポの表題が、京都での「時代の危機に抵抗する短歌」が、東京では「時代の危機と向き合う短歌」に変わり、『記録集』の書名も後者になっていた。「時代の危機」「言葉の危機」と称される状況は、他ならない私たち自身が作り上げてしまった結果でもある。登壇者もパネリストたちも口にする「自主規制」や「自粛」、表現者一人一人の「自主規制」との内なる格闘こそが先決で、「向き合う」という着地では、どちらの「危機」も越えることはできないだろう。

(『うた新聞』201611月)

 

 

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2016年12月 9日 (金)

婦人矯風会創立130周年記念集会へ、講演とコンサート

東京生まれながら、大久保という駅には下りたことがなかった。駅から徒歩1分の新宿区百人町にある「矯風会館」も、初めてである。まさに、130年前の今日、1886126日に、矢島楫子ら56人のキリスト教徒の女性たちが、「禁酒・純潔・平和」をかかげて立ち上げたのが「東京婦人矯風会」だった。一夫一婦の確立、在外売笑婦取締り、廃娼運動から大正以降は婦人参政権獲得運動、昭和の敗戦後は売春防止法制定、平和運動にも大きく貢献してきた「日本キリスト教婦人矯風会として、現在まで続く。

この日のプログラムと機関誌『婦人新報』の最新号は以下に掲げた。30分ほどの礼拝があり、聖書の話、祈り、献金、祝祷と続いた。ホールは横に広く、百数十人だろうか、やはり、年配の方が圧倒的に多い。

続いて、矯風会理事長の川野安子さんから挨拶があった。長い歴史は苦難の歴史でもあり、日中戦争下における矯風会の在り方にも及び、柏木義円の名を挙げて、反省にも言及された。

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『婦人新報』は、1895年2月に創刊、1893年11月創刊された『婦人矯風雑誌』の後継 誌である。多くの婦人運動の論客や活動家も執筆している歴史ある雑誌である。来年4月から、その誌名が『k-peace』と横文字になってしまうそうだ。ちょっと残念な気もするのだが。

そして、小林緑さんの講演は「見せない半分/聴かない半分~クラシックの女性作曲家“不在”の理由」と題して、作曲家でハーピストのフランスのアンリエット・ルニエ(18751956)をめぐるジェンダー問題のさまざまについてであった。小林さんの話は何回かお聞きしているが、ルニエに特化しての話は、私は初めてである。ハープを語ることは、ルニエを語ること、ハーピストとして自ら作曲、ハープのための編曲、ハープの指導に貢献したが、クラシックの世界では、フランス人であること、女性であること、ハープであることという幾重もの壁になって、音楽事典にも載らず、知られざる音楽家になってしまったというのだ。

続いての、演奏は、今日はすべて、ルニエの作曲、編曲になるもので、若い演奏者の力強いハーモニーは快かった。当日のプラグラムは以下の通りであった。

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2016年12月 8日 (木)

全国紙では、伝わってこない沖縄のこと~私たちは、まず知ることから始めなければならない

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『琉球新報』2016年11月29日の記事より、高江に飛ぶオスプレイMV22



 一日遅れで『琉球新報』を購読しているが、刻刻入る基地関係のニュースには、購読している他の全国紙
4紙では、伝えられないことも多い。辺野古や高江のニュースはもちろんだが、嘉手納や普天間の飛行場を遠望、周辺を歩いた時のことを思い出しながら、その記事は、なるべく丹念に読むようにしている。

伊江島の米軍補助飛行場の改修工事進む

今年6月に訪ねた伊江島では、8月から米軍の伊江補助飛行場の拡張工事が着々進んでいる記事にも目が留まる。どれも胸が痛くなるような内容である。

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2016122日『琉球新報』一面から

「強襲揚陸艦」(上陸用舟艇の搭載・発進機能とヘリコプターによる空輸上陸機能を併せ持つ軍艦)の甲板を模した着陸帯「LHDデッキ」、写真左上の白く砂利を敷いたところは、ステルス戦闘機F35とオスプレイMV22の離着陸訓練を行うためとされる。既存の広さの2倍の10.7万㎡となり、来年8月完成予定という。そもそも、伊江島の35%が米軍基地なのだ。伊江島は「銃剣とブルドーザーによる接収」の経緯があり、1990年代に入っても、民有地の契約拒否地主が生み出された。ちょうど20年前の1996122日からSACO(沖縄に関する特別行動委員会)で、読谷補助飛行場で行われていたパラシュート降下訓練の伊江島移転が合意されたのである。

 那覇市に住む『琉球新報』客員編集委員の(元毎日新聞記者)の藤原健さんのエッセイはつぎのような文章で締めくくられているのに出会った。米軍の土地収用を非暴力で抵抗した阿波根昌鴻の団結小屋の壁に書かれた「陳情規定」や「平和の最大の敵は無関心である」「戦争の最大の友は無関心である」などの言葉を引用した後に続く。

今、米軍伊江島補助飛行場周辺で騒音発生が激化している。8月から強襲楊陸艦の甲板を模した着陸帯<LHDデッキ>の拡張工事が進む。高江のヘリパッド建設と連動している。こんなときに接した重い言葉の束。柔らかにして、しかし、迷うことなく、私たちの覚悟を迫っているように聞こえる。

(「人間が作る平和を~伊江島 民の言葉」『琉球新報』2016124日)

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団結道場の壁に書かれた「陳情規定」、伊江村真謝にて、20166月写 

 本ブログ、伊江島関係記事も合わせてご覧ください:

ふたたびの沖縄、慰霊の日に摩文仁の丘へ(4~7)伊江島14

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-2b26.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-4891.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-a2b2.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/07/post-9129.html

 

高江ヘリパッド、知事は容認したのか?

 伊江島のニュースの三日前、1129日の『琉球新報』一面の見出しに驚いた。 「知事  ヘリパッド容認」と横に、縦には「〈苦渋のさいたるもの〉事実上の公約撤回」と読めたのである。就任2周年の記者会見での「質疑(要旨)」のつぎのような個所を捉えてのことであるとわかった。

―北部訓練場は地元が求める形での返還の進め方でない―

北部訓練場なども苦渋の選択の最たるものだ。約4千ヘクタールが変えてくることに異議を唱えるのはなかなか難しい。現実には高江に、新しいヘリパッドが6カ所も造られ、環境影響評価などもされないままオスプレイが飛び交って、状況は大変厳しい。

―知事選の公約会見では高江のヘリパッド建設に反対した。<苦渋の選択>

  は後退では―

オスプレイの全面撤回があればヘリパッドも運用しにくいのではないか。SACO合意の着実な実施と地元2村との信頼関係を考える中で、オスプレイの配置撤回で物事は収れんされるのではないか20161129  2 

 同じ1129日の紙面には、つぎのような落胆の反響が記事となった。

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『琉球新報』20161129日の紙面から

 1130日の『琉球新報』社説では、つぎのように強い語調で、知事発言に抗議している。
・県民を裏切る重大な公約違反と断じざるを得ない。過重な米軍基地負担軽減 を求める民意に背くものであり容認できない。
・北部訓練場も米軍によって奪われた土地である。本来ならば全面返還を求め                                    しかるべきである。「異議を唱えるのは難しい」とすること自体理解に苦しむ。
・オスプレイ配備撤回があればヘイパッドの運用がしにくいとは楽観的過ぎる。
・県民要求を実現させることが知事の務めである。原点に立ち返り、ヘリパッド容認を撤回すべきだ。

  (「知事ヘリパッド容認 原点に立ち返るべきだ 基地負担軽減に逆行する」『琉球新報』1130日 2面)

ところが、知事は122日の記者会見で、米軍北部訓練場のオスプレイパッドの建設については、「着陸帯の容認はしていない」と説明したとして、「『着陸帯容認せず』知事『反対』明言なし」との見出しで、つぎのように報じた。

翁長知事は「北部訓練場の約4千ヘクタールの返還に異議を唱えるのは難しいこととオスプレイが使用するヘリコプター着陸帯は容認できないこと、そのはざまで県政を担う状況を『苦渋の選択』と言った。決して容認したわけではない」と説明した。

(『琉球新報』2016123日 1面)

 しかし、1128日、122日の記者会見の場で、質疑をした記者は、つぎのように書く。

沖縄の政治で「苦渋の選択」は、基地負担の受け入れを表明する際に保守系知事や首長が多用してきた言葉だ。稲嶺元知事も、比嘉氏、岸本、島袋氏の3元名護市長も米軍普天間飛行場の名護市辺野古への県内移設受け入れの際に使った。沖縄で記者をしていれば翁長知事の言葉はヘリパッドの事実上の容認と映った。

(政治部滝本匠「記者の窓・翁長知事会見 理解できぬ『苦渋の選択』(『琉球新報』2016123日 8面)

 記者は、2日の会見で、翁長知事は、「ヘリパッドは容認していない」と繰り返したが「反対」とは言わなかったことへの疑問を呈していた。
 
また、125日の『琉球新報』の社説では、翁長知事は「ヘリパッド建設について『苦渋の選択』と述べ、事実上容認したとの報道を否定した、が反対するとは明言しなかった」とした上で、「歯切れの悪さは、ヘリパッドに反対することで、北部訓練場を含めた在沖米軍基地の返還を定めた日米特別行動委員会(SACO)最終報告をほごにされかねないという懸念があるからだろう」と前回の社説とはややトーンは異なるが、さらに、日本政府が、そこを突き、脅して、翁長知事の支持基盤のヘリパッド反対派と県政に亀裂を生じさせることを想定しているとして、社説は、つぎのように続ける。
新設されるヘリパッドはSACO合意時は明らかにされていなかった垂直離着陸機MV22オスプレイが利用する。ヘイパッドは東村高江集落に近すぎ、生活環境や自然への負荷は大きい。前提条件が変わっているのだ。県は前提条件が変わったことでSACO最終報告に或る「沖縄県民の負担を軽減し」という目的に反すると主張すべきだ。
(「知事容認否定 県内移設ない返還計画を」『琉球新報』125日 2面)

「返還」を人質にするような基地機能強化が進められる中で、知事は「ヘリパッド建設に反対し、県内移設を前提としない、新たな返還計画を日米両政府に、求めるべきだ」と結ぶ。

全国紙ではほとんど報じられなかった、これらの経緯。その上、「歯切れの悪い」知事の発言直後の1129日、沖縄県警は、辺野古の市民の抗議拠点でもある「沖縄平和運動センター」を捜索し、同センターの山城博治議長ら4人を逮捕した。10か月前のキャンプシュワブゲート前での工事車両侵入を妨害したとする、威力業務妨害容疑の事案であった。いま、なぜなのか。知事発言の翌日のタイミングであった。その捜査の異常さも伝えている(「県警、平和センター捜索 辺野古抗議拠点も」「10か月前事案 弁護士<異常>」1面、「萎縮狙い 捜査執拗」「運動弾圧許さない」2627面 『琉球新報』1130日)。 

 『沖縄タイムス』や『琉球新報』を購読しなくても、ネット検索して、主要な記事やニュースを閲覧することができるし、沖縄から発信しているソシアルメディアもあり、グループや個人のホームページやブログもある。「知りたい」という意思さえあれば、手立てはいくらでもある、はずである。その上で、私たちは、率直な気持ちと意見を発信していかなければならない。

私自身も、沖縄については、まだまだ知らないことばかりである。しかし、今回の翁長知事の発言を、沖縄で長い間、基地反対運動を続けてきた人々、辺野古、高江で日々、抗議活動を続けている人々、そして、全国で支援している人たちはどう受け止めただろうか。発言直後の官憲の勢いづいた活動拠点の捜査、リーダーたちの逮捕という流れを見ると、その影響を見逃すわけにはいかない。翁長知事は、苦しいかもしれないが、公約実現のため、毅然とした姿勢で臨むべきだ。

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「えぐられるいのちの森 ヘリパッド着工から3か月」「『琉球新報』2016年10月22日

オスプレイMV22の大きさと事故

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←――――   プロペラ含めた巾25.8m          ―――→
機体の長さ   ←11.6m    →
機体の巾           ←4.7m→

 Photo_2 高さ6.7m
←―――     尾翼までの長さ17.5m          ―――→

 垂直離着陸輸送機<MV22>オスプレイ(24名乗り・貨物9100㎏・最大速力520㎞)は、開発途上で30名が死亡、量産後の重大事故で、2009年以降2015年までの間に、重大事故として、ノースカロライナ、アフガニスタン(4名)、モロッコ(2名)、フロリダ、ハワイ(2名)の5回の事故で8名が死亡、40数名の負傷者を出している。(防衛省資料「MV22オスプレイ事故率について」2012年、他参照)

・MV22オスプレイ事故率について(2012年9月19日)

http://www.mod.go.jp/j/approach/anpo/osprey/pdf/dep_5.pdf

 

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2016年12月 5日 (月)

今晩のNHK「ニュース7」ご覧になりましたか~許してはいけない、あまりにも露骨な安倍広報!

 オバマ大統領が年末休暇でハワイに滞在するタイミングで、安倍首相が、オバマ会談を兼ねて、真珠湾の米軍犠牲者の慰霊に出かける由のニュースが流れた。実は、7時直前に天気予報を見ようとしてテレビをつけたところ、安倍首相のぶら下がり記者会見で上記ライブ映像が流されていたのである。7時からのトップニュースでは、長々と例の安倍御用女性記者とアナウンサーの質疑応答も流し、5分以上に及んだ。そして、その後、流された項目は、イタリアの国民投票・オーストリアの選挙結果、福岡の自動車事故、ネット上のまとめ記事サイト問題、超高層ビルの雷被害と続き、参議院TTP特別委員会のニュースになったと思ったら、公明党議員と安倍総理の一問一答のほんの一部分だけが流されたのだ。続いて、大谷選手の契約更改のニュースが続いて、そして、なんと、安倍首相の会見の模様が再度流されたのである。合わせると8分を超えた。

 NHKがここまでやるとは、驚いた。これでは、再任されないとの報道のある籾井会長の資質の問題というよりは、NHK自体がここまで腐敗しきったことの現れである。

来年1月には辞める大統領に、その直前に会って、何を話すのだろうか。就任前のトランプのもとにいそいそ出かけて行って、話した内容は明らかでないが、TPP脱退を覆させることなど到底できない力関係だったのだ。オバマ大統領は、安倍首相に真珠湾訪問が「あなたにとって強いられるものではないように」と伝えたそうだが、NHKは、「政府に強いられる前に」、安倍首相の「真珠湾訪問を日米和解の価値を知らしめる発信にしたい」という言葉に倣えば、NHKは、「(NHKと政府の)親密の価値を知らしめる発信」をしたことになる。オバマ大統領にとっては休暇中の一出来事に過ぎないというのに。日米同盟のさらなる強化のため、トランプへのご機嫌伺にもとれる。TPPのアメリカ脱退宣言、北方領土問題の行き詰まりや国内経済の悪循環、失政の続く安倍内閣は、国民に向けて目くらましを仕掛けたのではないか。

 

 参議院TPP特別委員会は、今日7会派による質疑がなされたのであるにもかかわらず、なぜ公明党だけなのか、なぜあれほど短い時間しか取れなかったのか。記事まとめサイト、雷被害のニュースは、まさに「ヒマネタ」といってもよく、ワイド番組で流せばいい程度の項目で、30分枠のニュース番組で流す必然性がない。

 

 

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