2019年10月12日 (土)

<「暗愚小傳」は「自省」となり得るのか―中村稔『高村光太郎の戦後』を手掛かりとして> を書きました

 当記事でもお知らせしましたように、表記の拙稿収録の雑誌『季論21』46号(本の泉社)が発売となりました。「目次」の一部と拙稿の章立てを紹介いたします

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『季論21』46号(2019年10月)目次

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「暗愚小傳」は「自省」となり得るか――中村稔『高村光太郎の戦後』を手掛かりとして

はじめに

蟄居山小屋生活の実態

『高村光太郎の戦後』に見る「自省」とは

日本文学報国会の高村光太郎

戦時下の朗読運動の中の高村光太郎

高村光太郎における詩作品の隠ぺいや削除はあったのか

付表<主な高村光太郎詩集・選集の出版概要一覧(1914~1966)>

*************

 「日本文学報国会の高村光太郎」では、櫻本富雄『日本文学報国会』、坪井秀人『声の祝祭』やNHK編『日本放送史』などを踏まえて、光太郎が詩部会の会長を務めていた日本文学報国会が力を入れていた「戦争詩の朗読・放送」について、少し調べてみました。お手元の詩のアンソロジーやいくつかの文庫の高村光太郎詩集や『智恵子抄』などと一緒に拙稿を読んでいただければ幸いです。

 なお、この拙稿には、書ききれなかったいくつかを、当ブログの「あらためて、高村光太郎を読んでみた1~9」に綴っていますので、お読みいただけれと思います。

 また、絵葉書や展覧会のカタログ・チラシなどを整理していた折に出てきた二葉のはがきです。

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「平塚らいてうをしのぶ展記念はがき」という袋に残っていた二枚です。右が『青鞜』創刊号(1911年9月)の表紙、長沼智恵子(1886~1938)の作品です。その後、高村光太郎と結婚する智恵子ですが、挿画はミュシャを思わせるものがあります。この才能を伸ばしきれなかったのは「光太郎の理想主義的な愛とモラルに圧迫」されたこととの関係が問われることもあります(『近現代日本女性人名事典』)。左が『青鞜』2巻4号の表紙、尾竹紅吉(富本一枝、1893~1966)の作品です。

 

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2019年10月 5日 (土)

日曜美術館「異色の戦争画~知られざる従軍画家・小早川秋聲~」(NHKEテレ2019年9月1日)を見て


 やや旧聞に属するのだが、ある地元の会で、表記の番組がよかったよ、と話に聞いて、録画で見ることになった。放送の概要は、下の番組案内を参照してほしいのだが、いま残されている小早川秋聲の「国の盾」という作品はインパクトのあるものだった。ちょうど、私は、高村光太郎のことを書き終えて、そこで書ききれなかったことを、ブログ記事にもしていたさなかだった。Photo_20191005181801
NHKの番組案内より。『国の盾』(151×208cm,
1944年制作、1968年改作)

  この絵には確かに見覚えがあると思って、昔、買って置いた『芸術新潮』か「トンボの本」ではないかと、探し始めると、あった!ありました。『芸術新潮』は<戦後50年記念大特集>の「カンヴァスが証す 画家たちの『戦争』」(1995年8月)であり、とんぼの本の方は「画家たちの『戦争』」(2010年7月)と題されるものだが、同じ新潮社から出ているので、内容的にはだいぶ重なるところが多いのがわかった。

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上段:『芸術新潮』1995年8月。下段:『画家たちの戦争』(2010年7月

 

  NHKの番組案内にはつぎのようにあった。
「陸軍の依頼を受けて描かれたものの、軍から受け取りを拒まれたという異色の戦争画、『国之楯』。作者は日本画家の小早川秋聲。満州事変から太平洋戦争まで、最前線で取材し、数多くの戦争画を描いた。番組では、知られざる従軍画家、小早川秋聲が残した数々の戦争画を、近年新たに発掘された絵や文章を交えて辿(たど)りながら、戦争末期の1944年に戦争画の集大成として描かれた『国之楯』を読み解いていく。」

 小早川秋聲(1885~1974)は鳥取県の寺の家に生まれたが、跡を継ぐのを拒み、京都での日本画の修業の傍ら、国内や中国をはじめ欧米への海外への旅行を繰り返し、文展や帝展への入選を重ねていた。1931年の満州事変以来、関東軍や陸軍の従軍画家として活動した。秋聲の戦争画は戦闘場面というよりは兵士の生活に密着したテーマが多いという。戦場の前線にあっても、この画家の優しいまなざしを垣間見る思いではあった。

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『画家たちの戦争』より 。右『出陣前』(1944年)。

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『画家たちの戦争』より。左上段:『無言の戦友』、左下段:『護国』(1934年)。

 
 ところで、番組の核となった「国の盾」は、兵士の亡骸の暗黒の背景と国旗の赤の部分で覆われたその面貌が、強烈であったが、陸軍に拒否された作品は、この絵ではない。その後、2回にわたって修正されていることも番組で知った。日南町美術館の学芸員の説明によれば、陸軍から戻された作品は、その後1944年と1968年の2回にわたって描きなおされているが、どの部分かはっきりしないという。ただ、当初の作品の背景には、桜の花びらが舞い散っていたことらしいことが絵の具の重ね具合の分析でわかったらしい。その後、資料を読み返してみると、1968年に刊行された『太平洋戦争名画集 続』(ノーベル書房)に収録されたものが、いま残っている「国の盾」であった。番組には、「国の盾」が<戦争画>という類型ではひとくくりできない、画家の戦争への対峙、厭戦・反戦思想までも示唆するような作品であったというメッセージが根底にあったように思う。
 しかし、私たちが、いま、目にする「国の盾」は、カンバスの裏の付記により、1968年に書きなおされことははっきりしているので、敗戦後23年後の書き直しの可能性が高いと思われる。

 陸軍に拒否された作品は、「軍神」との題だったというが、現物を見たという関係者は、見当たらず、写真も残ってはいない。にもかかわらず、ネット検索をしていると、その原作らしい、桜の花びらが散っている絵がヒットしてくるのである。これはどうしたことか、腑に落ちなかったので、日南町美術館に問い合わせてみたところ、あの桜が散る「絵」は、現実のものではなく、NHKBSがかつて放映した「極上 美の饗宴 『闇に横たわる兵士は語る 小早川秋聲 “國之楯”』(2011年8月1日)において、作成された<イメージ映像>だというのである。そして、あの「絵」が独り歩きをして、困惑されているようなことも話されていた。
  ああ、ここにもあった<イメージ映像>の罪づくりな話であった。NHKには限らないが、ドキュメンタリー番組の中で<イメージ映像>については、安直な先入観を醸成する手法なので、やめてほしい。最近、NHKスペシャルのドキュメンタリーなどでの<イメージ映像>の氾濫には、へきへきとしていることは、先の当ブログ記事でも書いている。

*8月20日の朝刊一面は「昭和天皇の“反省”“肉声”報道」が氾濫した~「NHKスッペシャル・昭和天皇は何を語ったのか」の拡散、これでいいのか (2019年8月20日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/08/post-ee7fb1.html

*NHKの良心的な番組って、何ですか~”NHKが独自に入手した資料が明かす・・・”ドキュメンタリーの虚実(2019年8月18日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/08/post-a2ae43.html

 さらに、この番組は、従軍画家が「戦意高揚」の絵ばかりでなく、「国の盾」のような絵を描いた、ということに重点が置かれていて、その画家の「心のうち」を辿ろうという趣旨であった。しかし、私は、陸軍に突き返されたという作品は、それだけでも、十分に意義があることだと思い、そのまま保存しておいてほしかったのである。画家としては意に添わなかった作品だったかもしれないが、1944年の作品として、依頼者の陸軍に拒否された作品として、残しておくべきだったのではないか。敗戦後の「戦争画集」収録にあたって、なぜ書き直したのか、その心の内が知りたいと思った。書き直された絵は、敗戦後初めて描き下ろされた絵としても、その強烈なメッセージは伝え得たと思う。 これまで、私は、歌人たちの戦時下の短歌を敗戦後、歌集にまとめるにあたって削除したり、「全歌集」に「歌集」を収録するにあたって、削除や改作が行われたたりしたことについて、表現者としての責任の観点から分析してきた。近くは、高村光太郎の戦争詩についても考えてきた。画家についても、同じことが言えるのではないか。

<参考>

日曜美術館「異色の戦争画~知られざる従軍画家・小早川秋聲~」
(NHKEテレ201991日) 

https://www4.nhk.or.jp/nichibi/x/2019-09-01/31/15730/1902813/

出かけよう日美旅~「日曜美術館」その舞台をめぐる 第98

鳥取県/日南町へ、小早川秋聲の故郷を行く旅

(NHKEテレ201991日)
http://www.nhk.or.jp/nichibi-blog/400/411643.html

ブログ 日南町美術館の日々

http://blog.zige.jp/museum/

極上 美の饗宴 『闇に横たわる兵士は語る 小早川秋聲 “國之楯”』

201181放送NHK BSプレミアム

2次世界大戦における日本の従軍画家に関する一考察~日本画家小早川秋聲を通して

file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/MN0SN31S/ZD30402007.pdf

<参考>

日曜美術館「異色の戦争画~知られざる従軍画家・小早川秋聲~」
(NHKEテレ201991日) 

https://www4.nhk.or.jp/nichibi/x/2019-09-01/31/15730/1902813/

出かけよう日美旅~「日曜美術館」その舞台をめぐる 第98

鳥取県/日南町へ、小早川秋聲の故郷を行く旅

(NHKEテレ201991日)
http://www.nhk.or.jp/nichibi-blog/400/411643.html

ブログ 日南町美術館の日々

http://blog.zige.jp/museum/

極上 美の饗宴 『闇に横たわる兵士は語る 小早川秋聲 “國之楯”』

201181放送NHK BSプレミアム

白石敬一:第2次世界大戦における日本の従軍画家に関する一考察~日本画家小早川秋聲を通して

file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/MN0SN31S/ZD30402007.pdf

 

 

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2019年10月 4日 (金)

『象徴のうた』(永田和宏著)の書評を書きました

 先月号の『現代短歌新聞』に掲載されたものです。『象徴のうた』は、昨年1月から今年3月まで、週一で63回にわたって『東京新聞』に連載された記事をまとめたものです。平成の天皇夫妻の短歌を中心に、鑑賞・解説をしていますが、共同通信配信のシリーズでしたから、各地の新聞での読者も多かったと思います。著者は、2004年から歌会始ん選者を務めています。それだけに、時代背景や天皇家の内情などを交えながら、天皇夫妻はじめ皇族方の短歌の意を丁寧に読み解き、鑑賞がなされています。そのスタンスは、おのずから明確で、国民に寄り添おうとする「お気持ちの最も大切な部分」が「お二人のお歌、短歌にこそ籠められている」というものです。しかし、短歌や「おことば」などとして発信されるメッセージは、そんなに単純なものとは思われないというのが私の感想でした。あまりにも過剰な思い入れは、かえって、読者の鑑賞を損なってしまうのではないかとさえ思えたのです。まだ、お読みでない方は、一度、近くの図書館で、ご覧になるとよいと思います。

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『現代短歌新聞』2019年9月1日号より。

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2019年10月 2日 (水)

10月1日、「赤い羽根共同募金」の使い道、ふたたび

 当ブログをおたずねくださりありがとうございます。昨日10月1日から、赤い羽根共同募金運動が始まりました。共同募金って何?という関心を持つ方や自治会や町内会で、募金集めをする羽目になった方、募金を迫られた住民の方々からのアクセスが重なったのだと思いますが、いつになく、にぎわって?います。
  なかでも、10年ほど前の「赤い羽根共同募金の行方~使い道を知らずに納めていませんか1~3」へのアクセスが多かったのです。関心のある方はご参照ください。最近は、やや遠ざかっているテーマですが、自治会や町内会へ要請される種々の寄付が、会員への強制になっていないかについて書いた記事などへのアクセスも多くなっています。

*赤い羽根共同募金の行方~使い道を知らずに納めていませんか1~3
(2009年12月7日、9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-2f90.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-dd38.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/12/post-8c19.html

 基本的には、記事を書いた当時の状況は、現在と大きく変わることはありません。私の住む佐倉市の私が属している自治会では、これまでも何度か紹介しているのですが、社会福祉協議会会費、日本赤十字社社資、いくつかの募金については、寄付をするか否かの自由、いくら寄付するかの金額の自由をとりあえず確保するということで、自治会の班単位で、手渡しの募金袋を回し、定着しかけています。寄付というならば、私は、個人の自由意思によることが基本と考えていますので、自治会・町内会への寄付依頼自体がなされてはならないものと考えています。自治会の中途半端な対応には不満もあるのですが、脱会などは考えず、総会などの機会に、「寄付は個人の自由」の観点から意見を言い続けていきたいと思っています。ご参考までに、9月下旬に我が家に回ってきた「募金袋」です。

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 ちなみに、久しぶりに、中央共同募金会のHPを訪ねてみました。敗戦直後の1947年から始まった共同募金ですが、つぎのようなグラフがありました。余分のことながら、この間まで、中央共同募金会の会長を務めていたはずの高校同期の元参議院議長が、「顧問」になっていました。天下り?名誉職?なのかなあ。

*中央共同募金会統計データ
https://www.akaihane.or.jp/bokin/history/josei-data/

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敗戦直後の混乱期に発足してから、2017年には、70年になった。阪神淡路大震災までは、ある程度着実に募金総額は伸びているが、その1995年の266億円をピークに、減少の一途をたどり、2017年には179億円となった。その間、2011年の東日本大震災ほか、数々の事故や災害に見舞われたが、増えることはなかった。「共同募金」という寄付ではなくて、特定した災害の義援金などの形で、目的の明確な、かつ自発的な様々な募金活動やボランテイア活動の方が定着しつつあるのではないか。

 千葉県共同募金会のHPでは、自治会では、すでに回覧された2019(令和元)年度の募金のお願いとお礼のパンフが、まだ掲載されていない。前年度のパンフのままで、更新されていないことがわかった。といっても、今年度の手元のパンフと比べてみると、変わっているのは、「募金の使い道」の円グラフの数字が異なるだけで、目標額も二年連続して7億円と同額で、さらに、パンフの文章が一字一句まるで同じで、前年度のコピペだろう。熱意も誠意も感じられない仕事ぶりとみてしまう。

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自治会からの回覧パンフから千葉県共同募金会のHPには、まだアップされていない!

 千葉県共同募金会佐倉市支会のHPはどうでしょうか。独自のHPは持っておらず、佐倉市社会福祉協議会が支会の窓口となっています。佐倉市の社協は、民間の社会福祉法人ですが、市役所内に設置されています。この自治体との関係にも、社会福祉行政のゆがみのひとつがあるように思います。

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10月1日新聞折り込み配布の『社協さくら』の1面が、「赤い羽根共同募金」の広報であった。

<参考資料>

*(千葉県)共同募金概要

https://akaihane-chiba.jp/publics/index/3/

*はねっと佐倉市(共同募金の使い道)

https://hanett.akaihane.or.jp/hanett/pub/homeTown?data.jisCd=12212

 

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2019年10月 1日 (火)

消費増税と歌会始~2019年9月30日

 9月30日は、消費増税実施の前日である。テレビなどでは、秒読みよろしく、巷の駆け込みや買いだめに走る様子やイートイン・テイクアウト、レジ対応の混乱などを伝えている。垣間見たNHKのニュースでは、女性アナウンサーがにこやかに消費税の値上がりが迫りました!と声を弾ませていた。まるで何かの世界大会で、日本のチームが優勝したかのような。NHKに限らず、消費税値上げ分増収、軽減税率ほか様々な還元対応、経過措置の期限、残る増税分が何に使われるか、現在の法人税や累進課税、分離課税の在り方など税体系自体などに切り込むことはなく、肝心な部分は、ほとんどスルーするのが、マス・メディアの流儀でもあった。野党にしても、凍結、中止、廃止、引き下げなど、その対応はバラバラである。増税ストップはかなわず、高齢者も若年層も、もはや将来へのかすかな希望も断ち切られるニュースばかりが続く。政府は、もっぱら未来志向の“やってる”パフォーマンスに終始し、10月1日発表の日銀の短観(9月調査)も四半期ごとの調査で三期連続景気悪化ということで消費増税駆け込み需要も低迷、2013年6月以来の低水準で、米中貿易摩擦などによる海外経済の減速が影響したという。私たちができることといったら「消費」しないことぐらいしかない。

 9月30日は、来年の歌会始の応募締め切り日でもあった。改元後、初めての歌会始で、題は「望」というのも皮肉なことではある。選者は、篠弘、永田和宏、三枝昂之、今野寿美、内藤明としばらく変わらないメンバーであるが、世の中や歌壇での改元フィーバーが応募状況にどんな変化を与えるのか、注視したい。

 ところで、9月のはじめ、『赤旗』の「ひと」欄(2019年9月4日)に、つぎのような記事があった。「9条守れと戦う青森の歌人」として登場したのは、小作人の長男として生まれ「劣等感と屈辱の少年時代」を過ごしたが、新憲法とともに、自分の地を耕し、基地反対運動に携わり、農協の組合長も務め、地元選出の共産党の衆議院議員の後援会会長も務めたという91歳の方だった。地道に、粘り強く活動を続けてこられた方なのだろうな、と思う。20代には、歌も小説も書いていたとのこと、文学青年だったことも書かれていた。読み進めると、記事の末尾近くに、つぎのような一文があった。

―好奇心も旺盛です。80歳の時、初めて「宮中歌会始」に応募しました。「現代の秘境を見てみたかった」と挑戦し、見事入選しました。―

 インタビューにあたった記者は、エピソードの一つとして、書き添えているという印象である。これが一般の新聞だったら、読み過ごしていたかもしれないが、革新政党の「政党紙」だったから、目に留まったのかもしれない。登場の歌人の選択には、いろいろな思いがあったことだろう。しかし、「宮中歌会始」を「現代の秘境」とのたとえを、全肯定することは、一記者の一存ということではなく、この記事が「宮中歌会始」に対して、『赤旗』は「お墨付き」を与えたと理解されても仕方がない。近年の共産党は、「天皇制」という言葉を避けて「天皇の制度」という言い方をし、現憲法下の象徴天皇制は、守るべきものとしての位置づけをするようになった。

 1947年以来、共産党は,天皇が出席する国会開会式には、「憲法の天皇の『国事行為』から逸脱する」として、出席してこなかったが、2016年1月4日開会の通常国会から、出席するようになった。その理由が、天皇の開会の言葉が「儀礼的、形式的な発言が慣例となって、定着した」からというものであったが、私などは、天皇が、議長席より高い、あの玉座で開会の言葉を読み上げること自体が、主権在民や平等主義を基本とする日本国憲法とは抵触しているので、開会式に出席しないことには、一つの抵抗の意味があると思っていた。
 さらに、『赤旗』紙上には、一般の全国紙のように文化欄の中に「歌壇」があって、週交代で、二人の選者による入選歌が掲載されている。上記、開会式出席とほぼ時を同じくして、2016年1月から、その「歌壇」選者に、今野寿美を起用した。彼女は、2015年から「歌会始」の選者を務め、現在に至っている。これら二件を、「2015年のクリスマス・サプライズ」として、当ブログ記事にもしているので、参照していただければ幸いである。結果的に、今野は、2年間「赤旗歌壇」の選者を務め、辞めている。

*ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗「歌壇」選者に(2015年12月29日)https://www.jcp.or.jp/web_policy/2019/06/post-807.html

 また、今年の改元5月1日、新天皇即位の折、共産党の志位委員長は祝意を示す談話を発表し、その後、衆参院本会議での、即位に祝意を示す「賀詞」に、共産党は賛成している。2004年には「君主制廃止」の党綱領を改定し、「憲法にある制度として、天皇制と共存」することにしたのだが、一方で、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだ」との立場に立つ。

*天皇の制度と日本共産党の立場(2019年6月4日)
https://www.jcp.or.jp/web_policy/2019/06/post-807.html

 こうした一連の動きを見ていると、共産党の天皇制への接近は今世紀に入って顕著になったのは明らかである。ウィングを広げ、支持の拡大に努めたかったのだろうが、結果は逆だった。「国民の声」に引きずられたのか、「国民の声」に近づいたのか。政府やマス・メディアにコントールされがちな「国民の声」から、本当の声や叫びを聞き分ける力がなくなってしまったのかもしれない。不都合な事実や異なる意見を無視することによる「排除」は、多くの人の目には触れないだけに、陰湿である。「いじめ」や「モラルハラスメント」にも通じ、現在の政府や官僚がやってきたことにも似てはいないか。大同小異だからと、目の前の発言にまどわされ、ときには天皇にまで縋りつく姿に、愕然とする。

 

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2019年9月25日 (水)

あらためて、高村光太郎を読んでみた(9)芸術院会員辞退のこと

 光太郎の詩集の解説や評伝のようなものでは、彼の「反骨精神」の証として、あるいは、戦時下の活動やたくさんの戦争詩を書いたことへの「自省」の現れとして、芸術院会員への推薦を辞退したこと、しかも二度も辞退していたことを高く評価している。
 194710月と195311月の辞退の顛末については、晩年連載を始めたエッセイの第1回目に書いている(「日本芸術院のことについて―アトリエにて1」『新潮』19542月)。この件では、世間にいろいろなうわさが流れているが、自分としての記録を残しておきたいということであった。人選については若干の変化はあるようだが、日本芸術院の前身の「帝国芸術院」に抱いている不潔感、その成立自体に「政治的かけ引き」を見てしまい、その内容や機構に大した違いがない以上、「あのやうなどさくさで出来上つた芸術院の内側に自分が入ることはとても出来ない」としている。まさに、正論というほかない。後世の人間が「反骨精神」や「自省」で跡付けるのには疑問が多い。

 私も、各分野ごとの定員制をとる日本芸術院、その会員推薦や芸術院賞選考過程について、何度か書いているので、ここでは詳しく述べない。その閉鎖性と政治性は現在でも変わりはない。にもかかわらず、文化勲章や文化功労者、芸術選奨など国家による褒章制度と並んだ、日本芸術院の存在は、学術や文芸の振興に役立つところか悪影響が大きいことを指摘してきた。そういう意味でも、光太郎の対応は、現代の政府にかかる褒章制度とその恩恵にあずかる人々とそれをもてはやすメディアへの警告となるだろう。

 光太郎はつぎのような詩を残している。1回目の推薦を踏まえて作ったことになる。詩集『典型』には収録しなかった。

「赤トンボ」

禿あたまに赤トンボがとまつて

秋の山はうるさいです

うるさいといへばわれわれにとつて

芸術院というものもうるさいです

美術や文學にとつて

いつたいそれは何でせう

行政上の権利もないそんな役目を

何を基準に仰せつけるのでせう

名誉のためとかいふことですが

作品以外に何がわれわれにあるでせう

さういふことは前代の遺物でせう

芸術院会員などといふものよりも

宝くじ五六本あてたやうな現ナマの方が

作家にとつて実益になるでせう

文化勲章といふものとても

授ける以上はらくに食へる年金を

死ぬまで贈らねば無意味でせう

実益のないことは子供だましでせう

レジヨン ドヌウル ルウヴル入の時代は

もう通り越してもいいでせう

作家は作ればいいでせう

政府は作家のやれるやうにすればいいでせう

無意味なことはうるさくて

禿あたまの赤トンボのやうです

19491024日作。『展望』19501月)

   ひとまず、髙村光太郎については今回で終了、別稿では書けなかったもろもろを記録にとどめた。拙稿が活字になった折は、お知らせしたい。

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あらためて、髙村光太郎を読んでみた(8)晩年の「新しい天の火」

 光太郎は、1956年4月2日、74歳の生涯を終えるが、その最晩年における、あるテーマの詩作品をさかのぼってみた。みごとに、雑誌の新年号、新聞の元旦号を飾る詩人であったことがわかる。これは、戦争詩を書いていた頃と変わりはない。

「おれの詩」
(1948年11月25日作。『心』1949年1月、『典型』収録)

「山荒れる」
(1949年11月8日作。『心』1950年1月『典型』収録)

「明瞭に身よ」
(1950年12月14日作。『出版ニュース』1951年1月)

「新しい天の火」
(1954年12月25日作。『読売新聞』1955年1月1日)

「開びゃく以来の新年」

(1955年12月5日作。『中部日本新聞』1956年1月1日)

「お正月の不思議」                              

(1955年12月19日作。NHK放送1956年1月1日)

「生命の大河」
(1955年12月19日作。『読売新聞』1956年1月1日)

 生涯最後の詩作品とされるのがつぎの「生命の大河」であった。末尾の8行は省略したが、『読売新聞』の元旦号に掲載された。題は、壮大で、何事かと思わせるが、「原子力」の未来をうたいあげたものだった。1956年とはどういう年だったのか。前年12月16日に成立した原子力基本法など三法が56年1月1日に施行、発足した原子力委員会の初代委員長に読売新聞の正力松太郎が就任した日でもあった。前年12月26日には日米原子力協定調印、年が明けると、日本原子力産業会議、原子燃料公社発足、東海村には原子力研究所の建設が始まる。すでに、1950年前後から米ソの原爆・水爆実験が盛んに行われるが、その一方で、唯一の被爆国、日本の原子力政策は進む。1953年からは『読売新聞』傘下の日本テレビが発足し、新聞・テレビを通じて、「原子力の平和利用」のキャンペーンが展開されている。

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「生命の大河」『髙村光太郎全詩集』より。読みにくいので、念のため下記にも再録する。

「生命の大河」
生命の大河ながれてやまず、
一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
がうがうと遠い時間の果つる処へいそぐ。
時間の果つるところ即ちねはん
ねはんは無窮の奥にあり、
またここに在り、
生命の大河この世に二なく美しく、
一切の「物」ことごとく光る。

人類の文化いまだ幼く
源始の事態をいくらも出ない。
人は人に勝たうとし、
すぐれようとし、
すぐれるために白己否定も辞せず、
自己保存の本能のつつましさは
この亡霊に魅入られてすさまじく
億千万の知能とたたかひ、
原子にいどんで
人類破滅の寸前にまで到着した。

科学ほ後退をゆるさない。
科学は危険に突入する。
科学は危険をのりこえる。
放射能の故にうしろを向かない。
放射能の克服と
放射能の善用とに
科学は万全をかける。
原子力の解放は
やがて人類の一切を変へ
想像しがたい生活図の世紀が来る。

(後略)

 1954年3月焼津の「第五福竜丸」が操業中ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験により多くの被爆者が出て、後、そのうちの一人久保山愛吉さんが原爆症で亡くなった。日本学術会議では原子力研究の自主・民主・公開の三原則を声明、市民による水爆禁止署名運動なども見られた。そんな中で、光太郎は、『読売新聞』1955年元旦号にも、下記の作品を寄稿している。

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「新しい天の火」『髙村光太郎全詩集』より。1955年元旦は『読売新聞』にとっては、上述のように特別の日であった。『髙村光太郎全詩稿』の北川太一によれば、「その光いまこのドームに注ぐ。/‥‥/清められた新しき力ここにとどろけ。」の末尾4行は、編集部の要請で追加されたという。元旦号第1頁の”陽を受ける国会議事堂”の写真に呼応するような主旨の要請での追加であった。最後の1行は、「真に新しきもの起れ」「すさまじく新しき光ここにとどけ」のメモが草稿の欄外に残されているが、光太郎みずからの修正要請で、「清められた新しき力ここにとどろけ」に落着した経過があるという。

 光太郎が、「原子力」を詩作品に取り込んだのは、以下の1948年の「おれの詩」が最初だろうか。1949年「山荒れる」が続く。湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したのが1949年11月だった。それにしても、光太郎は、「原子爆発大火団の万能を捕へよ」と言いながら、いとも簡単に、「原子力平和利用政策」に取り込まれてしまったのか。戦争詩へとのめり込んでいったことへの「自省」とは何だったのだろうか。みずからの体験から「学習」することができなかったことへの一つの証でもあろうか。

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「おれの詩」『典型』より。

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山荒れる」『典型』より。末尾の9行は省略した。

 光太郎は、科学の力、原子力への期待は大きく、歌い上げるのだが、政府の原子力政策には何の疑いももなかったのだろうか。私など、子ども心に、広島や長崎の原爆の「怖さ」を見聞きするたびに、「原子力」への拒否反応のようなものがあったように思う。部分的な批判をしながらも、詩人としての髙村光太郎にもっとも影響を受けたという吉本隆明の『「反核」異論』(1983年)、前衛歌人から宮廷歌人へと「転向」した(1993年)という岡井隆のたどった道、原発事故への対応を思い起こすのだった。

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2019年9月24日 (火)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(7)敗戦後、天皇をどうよんだか

 光太郎は、前述のように1950年に『典型』という詩集を出版し、敗戦後の詩作品をまとめた。そこには、「暗愚小伝」という題でまとめられた20篇からなる詩があり、これは、雑誌『展望』の1947年7月号に一挙に掲載されたものである。これらの詩を念頭においてだろうか、光太郎は『典型』の「序」において「昭和二十年十月私がこの小屋に移り住んでから以降の作にかかるものであり、それ以前の作は含まない。終戰直後に花巻町で書いたものや、ここに來てから書いたものでも、その頃の感情の餘燼の殘つてゐるものははぶいた。それらのものは、いはば戰時中の詩の延長に過ぎないものであるからである。」とも書き、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたかを見た。そして私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、ひとつの愚劣の典型を見るに至つて魂の戦慄をおぼえずにゐられなかつた。」と。さらに、敗戦後五年間の「これらの詩は多くの人々に悪罵せられ、軽侮せられ、所罰せられ、たはけといわれづづけて来たもののみである。私はその一切の鞭を自己の背にうけることによつて自己を明らかにしたい念慮に燃えた。その一切の憎しみの言葉に感謝した。」とも記す。当初は、この潔さに着目したのだが、実際に収録された作品やその後の戦争詩への扱い方について知るに及び、大きな疑問が残ったのである。
 「暗愚小伝」については、多くの詩人たちが、いわゆる戦争詩について、光太郎ほど「自省」をした文学者がいただろうか、との高い評価をしていることや私自身の読み方については、別稿に譲るが、ここでは、他の作品にも触れてみたい。 

「東洋的新次元」
東洋は押石(おもし)のやうに重く、
東洋は鉄鍋のやうに暗い。
君主と英雄と先輩と親分とは
六千年の昔から頭上にあつて人を圧し、
人は虫けらとなつて営営なほ且つ痩せた。
この伝統が何に由るかを知らず、
しかもこの伝統は争ひ難い習性となつて、
千百の変貌をとげながら
綿々として今も尽きない

東洋の民の吐息は詩となるほかない。
詩は弁論の矛を持たない。
詩はただ訴へる。
東洋の詩人は民の吐息を総身にあびる。
(後略)
東洋はのろいが大きい。
東洋的新次元の発見は必ず來る。
未見の世界が世界に加はる。
東洋の美はやがて人類の上に雨と注ぎ、

東洋の詩は世界の人の精神の眼にきらめくだらう。
(後略)

(1948年8月21日作。『知識人』1948年11月、『典型』収録)        

 「詩集」の中で11頁にも及び100行に近い長詩ながら、「東洋の美」は絶対で、熱が入れば入るほど揺らぎを見せない。疲弊している敗戦後の、占領下の日本国民を励まそうとでもいうのだろうか。「東洋の美」も「東洋的新次元」の実態や具現の方向性もない。「民の吐息を総身にあびる」という詩人としての自負というか、エリート意識が顕著にも見える。戦時下の、この詩人の意識と変わらない。もっとも、光太郎自身も、この詩集の中で、つぎのように明言している。

「月にぬれた手」
わたくしの手は重たいから
さうたやすくはひるがへらない。
手をくつがへせば雨となるとも
雨をおそれる手でもない。
(後略)
(1949年10月10日作。『大法輪』1950年1月、『典型』収録)

「鈍牛の言葉」
(前略)
おれはのろのろのろいから
手をかへすやうにてきぱきと、
眼に立つやうな華やかな飛び上がつた
さういふ切りかへは出来ないが、
おれの思案の向ふところ
東西南北あけつぱなしだ。
(後略)
(1949年11月2日作。『群像』1950年1月、『典型』収録)

 後者の「鈍牛の言葉」の中には「今こそ自己の責任に於いて考へるのみだ。/随分高い代償だつたが、/いまは一切を失なつて一切を得た。」という個所もある。また詩集の題名にもなった「典型」(1950年2月27日作。『改造』1950年4月、『典型』収録)は、「今日も愚直な雪がふり/小屋はつんぼのやうに黙りこむ。小屋にいるのは一つの典型、一つの愚劣の典型だ」で始まり、「典型を容れる山の小屋、小屋を埋める愚直な雪、雪は降らねばならぬやうに降り、一切をかぶせて降りにふる。」でおわる。これらのフレーズの中の「一切」がキーワードではないのか。「典型」の結句「一切をかぶせて降りにふる」と「たやすくはひるがえさない手」とに通底するものは何なのか、を考えてみる必要がある。戦争詩でも数多く登場する「一切」などという言葉は、断定を伴い、論理性を排除する言葉だけに「たやすく」使用すべき言葉ではないはずなのだが。
 どうしても「暗愚小伝」の作品にも触れなければならない。20篇の詩の最初は、「土下座(憲法発布)」なのだが、これは、1883年生まれの光太郎が、1889年2月11日大日本帝国憲法発布の翌日、上野行幸啓の祝賀行列のときの天皇体験を綴ったものである。誰かに背負われて行列に近づいたが、人波をこじあけて、一番前に出て「土下座」をさせられた、というわけである。

「土下座(憲法発布)」
(前略)
錦の御旗を立てた騎兵が見え、
そのあとの馬車に
人の姿が二人見えた。
私のあたまはその時、
誰かの手に強く押へつけられた。
雪にぬれた砂利のにほひがした。
―眼がつぶれるぞ―

 その後の日本の戦争体験と父親らの天皇体験を重なり合わせ、自らの海外体験、デカタンスな生活、智恵子との出会いと別れも綴られ、日中戦争における厳しい戦局のさなか、太平洋戦争に入ると、詩人としての大政翼賛にのめりこんでいく過程が描かれる。詩によって、いわば敗戦に至るまでの「精神史」を形成したとされる。
 「真珠湾の日」と題する作品には「天皇あやふし。ただこの一語が私の一切を決定した。」とある。また、「終戦」では、つぎのように綴られているが、「六十年の重荷」と認識されていた「天皇」から解放されたのだろうか。Img295
「終戦」の前半、3頁目は省略している。『記録』より。

 ここで、吉本隆明の「高村光太郎」を開いてみると、彼は、髙村光太郎の戦争責任のつきつめ方をつぎのように分析する。「戦争責任というものに軽重があるとすれば、髙村光太郎のそれはもっとも重いかもしれなかった。髙村が、内的な世界にどのような過剰な要素をかくしていたとしても、公的な文学活動によって、いいかえれば大衆にたいする影響によって裁断するとき、戦争への没入は、たれよりも強く、かくれがなく、大きな影響を与えた」ことを前提に、「天皇(制)にたいするもの、大衆への影響、自身の思想にたいするものに分けてかんがえることができる」(「髙村光太郎論」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年166頁)とする。「天皇(制)」の問題は、光太郎にとって、天皇崇拝の父髙村光雲を持つ出自もあり、あくまでも「骨がらみの内的な問題」であって、思想の問題とはなり得ず、「意識のなかで、ひきずり落としたのではなく、ただ、追いはらったにすぎない」という(前掲書172頁)。
 吉本は、別の論稿で、光太郎の戦争詩は「自我意識に固執しながらも、もっとも典型的に日本的な近代性と庶民性との綜合された性格」をもつとした。日本人の自然観が伝統的な感性を掘り起こすことによって「必然的に絶対主義的な天皇制によって推進された戦争の肯定、讃美、プロパガンダに入った」とし、「近代意識の庶民的な意識への接着から庶民意識を超越的な論理をもちいて積極的に意味づける過程」として捉えている(「詩人の戦争責任論」『吉本隆明著作集13』 勁草書房1969年。468~469頁)。
 しかし、私は、吉本のいう光太郎の「庶民的な意識への接着」にしても、このシリーズの記事でも触れた中村稔が『髙村光太郎の戦後』でも強調していた暮らしや詩作の「庶民性」には、違和感を覚えざるを得ない。光太郎は、その出自や生育環境、海外体験、恋愛・結婚生活、詩人・彫刻家としての活動、敗戦後の花巻での山小屋蟄居生活をたどってみても、その作品をたどってみても、「庶民」というよりは、「庶民」とは隔絶した高みから、庶民を啓蒙、リードしようという意識が垣間見えてしまうのである。吉本のいう「超越的な論理」、すなわち「東方の倫理」「天然の叡智」「宇宙理法」「東洋の美」などという実体のない言葉で「煙に巻いて」いるようにも読めてしまうのである。

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2019年9月23日 (月)

あらためて、高村光太郎を読んでみた(6)戦争詩において天皇はどうよまれたか

 「戦後、髙村をほんとうに苦しめたのは、天皇(制)の問題と、自分の詩をよんで人は死んでいったという問題だけであった」 (「髙村光太郎論」『吉本隆明全著作集8』勁草書房 1973年 171頁)とは吉本隆明のいうところであるが、光太郎はほんとうに苦しんだのだろうか。

 光太郎の詩に、天皇が「天皇」として登場するのは、「紀元2600年」のころだろうか。「紀元二千六百年のむかしは昨日のやうだ。」で始まる以下の詩には、つぎのような個所がある。

「紀元二千六百年にあたりて」
(前略)
二千六百年の後、
今またわたしくしは此処に居る。
今はどういふ時だ。
天皇(てんのう)はわれらの親(みおや)、
その指さしたまふところ、
天然の機おのづから迫り、
むかしに変らぬ久米の子等は海超えて
今アジヤの広漠の地に戰ふ。
(後略)
(1939年11月26日作。『婦人公論』1940年1月、『大いなる日に』収録)

 それまでは「天皇」をよんだ作品はなかなか見あたらないのだが、光太郎が、長沼智恵子を知るのは1911年、そして翌年、明治天皇は7月30日死去、「諒闇」の時期の作品につぎの「涙」があるのだが、光太郎と智恵子は、「いみじき歎き」のさなかであって、天皇の死に涙しているわけではなかったことを作品にしていた。

「涙」
世は今、いみじき事に悩み
人は日比谷に近く夜ごとに集ひ泣けり
(中略)
君の小さき扇をわれ奪へり
君は暗き路傍に立ちてすすり泣き
われは物言はむとして物言はず
路ゆく人はわれらを見て
かのいみじき事に祈りするものとなせり
あはれ、あはれ
これもまた或るいみじき歎きの為めなれば
よしや姿は艶に過ぎたりとも
人よ、われらが涙をゆるしたまへ
(1912年8月作。『スバル』1912年9月、『智恵子抄』収録)

 ちなみに、1940年の1月には、上記の作品のほかに、「先生山を見る」(1939年11月20日作。『明日香』、『をぢさんの詩』収録)、「重大なる新年」(1939年12月19日作。『新聞聯盟』)、「源始にあり」(1939年12月30日作。『東京朝日新聞』1月2日、『大いなる日に』収録)があり、『新女苑』、『文芸』にも寄稿しているが、その後も、いわゆる、新聞での<元旦>、雑誌での<新年号>および<記念日>に登場する詩人たる地位を保つことになる。

「彼等を撃つ」
(前略)
理不尽のいひがかりに
東亜の国々ほとんど壊滅され、
宗教と思想との摩訶不思議に
東亜の民概ね骨を抜かる。
わづかにわれら明津(あきつ)御神(みかみ)の御稜威により、
東亜の先端に位して
代々(よよ)幾千年の錬磨を経たり。
(後略)
(1941年12月15日作。『文芸』1942年1月、『記録』収録)

「ことほぎの詞」
久しいかな、二千六百二年。
(中略)
世界の倫理あらたまり、
人類の秩序また再建せられんとす。
これ遠つみおやの息吹して
義(ことわり)必ず時に随ふものならざらんや。
こころすがし。
今上陛下指したるたまふところ、
われらよろこびおもむくなり。
あきらけきかな、大いなるかなけふの賀(よき)節(ひ)。
(1942年2月9日作。『読売新聞』2月11日、『大いなる日に』収録)

「海軍魂を詠ず」
(前略)
人は仰ぎ見る、
波を切る艦首に光かがやくもの、
一切を超えて高きもの、
一切を超えて聖なるもの、
金色の菊花御紋章。
(1943年5月5日作。 『中部日本新聞』5月27日『記録』収録)

「大決戦の日に入る」
(前略)
所謂文明を誇称する敵はわれらを知らず、
ひとへにただもみつぶさうとする。
われら大御神よりうけたみをしへのまま、
神州の権威と品格とを堅持して
一億の民空前の戦に集中する。
一億の民一切を神のみ前に捧げてすがしく、
今こそ奮然として大決戦に突入する日だ。
(1943年11月14日作。『婦人之友』12月、『記録』収録)

 「大決戦の日に入る」は、1943年11月に始まるブーゲンビル島で戦いをよみ、長い戦いになる局面となるが、すでにこの時期になると、「倫理」や「日本の美」をうたいあげる作品は後退し、天皇への忠誠をひたすら捧げることが叫ばれ、やがて、下記の諸作品に見るように、皇国、皇軍、皇民、神州などという言葉のみが強調され、頻用されるにいたる。
「われら海陸皇軍の機略」(「敵ゆるすべからず」『毎日新聞』1944年2月26日)「神裔国民の正気」(「必勝の品性」『西日本』1944年4月)、「われら美しき皇国の天地」(「美をすてず」『週刊朝日』1944年4月30日)「神州の臣民、神州の尊貴」(「神州護持」『主婦の友』1944年12月)「皇国必勝の枢機」(「新春に面す」『日本農業新聞』1945年1月)などの例を挙げることができる。
 
そして、敗戦直後の「一億の号泣」(『朝日新聞』1945年8月17日)、「犯すべからず」(『週刊少国民』1945年8月)においても、光太郎の天皇観は変わってはいない。まさに、戦時下の作品の延長のよう作品は省いたとする、敗戦後の詩集『典型』に収めることもしなかったのである。

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2019年9月19日 (木)

あらためて、髙村光太郎を読んでみた(5)民族の「倫理」と「美」と

 光太郎は、地政学をはじめ、天文学などに自然の必然があるかのような、そして数学・物理という論理と「倫理」「美」という言葉を頻用する。しかし、頻繁に登場するそれらのことばは、よくよく考えてみると無内容であるにもかかわらず、繰り返される。当時のほとんどの作品は、具体的な方策もありようがなく、民族の倫理や美という言葉を通じ、国民の士気を鼓舞するだけのものであった。

「必死の時」
必死にあり。
その時人きよくしてつよく、
その時こころ洋洋として豊かなのは
われら民族のならひである。
(後略)
(1941年11月19日作。『婦人公論』1942年1月号、『大いなる日に』収録)

 「必死の時」は、太平洋戦争開始前夜ともいえる頃の40行を超える詩であるが、冒頭のこの4行が末尾でも繰り返されて終わる作品である。つぎの「新しき日に」は開戦直後の作品ということになる。

「新しき日に」
新しき年真に新たなり。
東方の光世界に東方の意味を宣す。
幾千年の力鬱積していま爆発するのみ
東方は倫理なり。
東方は美なり。                                                                                                               (後略)

(1941年12月19日作。『家庭週報』1942年1月号、『大いなる日に』収録)

さらに、敗戦がもはや避けようもなくなった時期の、光太郎にとっては、敗戦直前の作品が、つぎの「勝このうちにあり」であった。

「勝このうちにあり」
(前略)
勝このうちにあり。
われらの勝や清浄(せいじょう)にして
他の無辜をいためず、自ら驕らず、

ただ民族至純の倫理動いて
おのづから人類に深き省みをあたへ
静に稀有の変革を八紘に現成(げんじやう)せんとするなり。
(1945年7月18日作。未発表か、草稿の欄外のメモに『満州良男』とある。北川『全詩稿』)

 敗戦に至るまで、光太郎の作品を読んでいて、前述の「倫理」もそうだが、光太郎にとって「美」とは何だったのか。次のような作品を立て続けに読んでしまうと、やりきれなさと空しさがよぎる。「決戦の年に志を述ぶ」では、前半に、「今年六十一の老骨でも・・・むしろ数字を逆さにして 一十六から始めたい」などという個所もある。当時、これらの詩を読んだり、朗読を聴いたりした人々は、どのような受け取り方をしたのであろうか。

「決戦の年に志を述ぶ」
(前略)
この生活の一切をかけて彼等を撃ちながら

厳として美の世界を守り抜かう
老兵必ずしも老を語らない。
(1942年12月30日作。『東京新聞』1943年1月2日、『記録』収録)

「軍人精神」
今にしておもふ、
われらが軍人精神の美
古今東西にその比なし。
美ならざるはわれらが武人にあらず、
その精神人倫の極致にいたる。
(後略)
(1943年5月9日。『読売報知新聞』6月24日、『記録』収録)

「戦に徹す」
(前略)
世界を奪はんとしてのぼせ上るは米英にして
世界を清めんとするはわれらである。
この戦のいづれに神のみこころありや。
明々白々、われら断じて信ずる。
米英破る。
世界健康の美かならず成る。
われらの手によつてかならず成る。
(1943年10月26日作。10月28日放送、『記録』収録)

  光太郎の戦前の単独詩集には、『道程』(1914年)『智恵子抄』(1941年)に続き、いわゆる「戦争詩」を収録したものに、先に紹介した『大いなる日に』(1942年)、青少年向きに編集した『をぢさんの詩』があり、『記録』(1944年)には、上記二詩集と重なる作品もある。いずれも、光太郎自身が「序」を記しており、その収録の選択は自身によるものである。そして、当然のことながら、どの「詩集」にも収録しなかった作品も数多く、戦時下の「詩集」に収録しながら、敗戦後出版の文庫本の詩集などには、戦時下の作品がすっぽり抜け落ちていることもある。

 なお、戦時下の日本放送協会における「愛国詩」の朗読の時間で、光太郎の詩は数多く放送されたが、中でも放送回数が多かったのは、つぎの作品であった。詳しくは、坪井秀人『声の祝祭―日本近代史と戦争』(名古屋大学出版会 1997年)、近刊の別稿「『暗愚小傳』は「自省」となり得るのか―中村稔『髙村光太郎の戦後』を手掛かりにして」を参照いただきたい。

  1940年において、すでに、「欲しがりません勝つまでは」(1942年大政翼賛会などが公募した標語の当選作)などと同旨の詩が書かれていたことを知った。私は、東日本大震災後のNHKから流されて続けている歌謡「花は咲く」は、形を変えた「愛国詩」なのではないかの思いがするのだった。そして、この詩人の作品に登場する「倫理」や「美」は、現代の政治家たちがよく口にする「国民に寄り添った」「被災者に寄り添って」とか、「真摯に受け止め、再発防止に努める」「できることはすべてやる」などという発言と同様、無内容で、無策でしかなく、一過性のパフォーマンス、慰撫に過ぎない、と思われてならない。 

「最低にして最高の道」
もう止そう。
ちひさな利慾とちひさな不平と、
ちひさなぐちとちひさな怒りと、
さういふうるさいけちなものは、
ああ、きれいにもう止そう。
(後略)
(「大きく生きよう」を改題、1940年7月10日作『家の光』1940年9月。『大いなる日に』収録)

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