2022年11月30日 (水)

二冊の遺稿集に接して(2)長沼節夫著『ジャーナリストを生きる 伊那谷から韓国・中国そして世界へ』

 長沼節夫(1942-2019)さんの名前を知ったのはいつのことだったのだろう。何がきっかけだったのかが思い出せないでいる。ともかく、今回、遺稿集が出されたと聞いて、求めたのが457頁に及ぶ大冊であった。飯田高校同窓生、京大吉田寮生、ジャーナリストの方々による渾身の遺稿集である。

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長沼節夫著作集編纂委員会編 南信州新聞社 2022年7月

 長沼さんは、京都大学在学中の「京都大学新聞」の記者時代から、いわばジャーナリストであり、アメリカ留学を経て、ヨーロッパ・中東・アジアなどを歴訪、大学新聞に寄稿を続け、院生時代には京都ベ平連での活動、韓国大統領選取材に始まる金大中との交流、「天皇の軍隊」の執筆などの傍らフリーの記者や予備校講師をしていたが、1972年時事通信社に入社している。経済部、社会部配属の記者として、時にはプライベートの取材を重ね、ポーランドの「連帯」取材、日本の原発取材、「第3回天皇マッカーサー会見録」の発掘などについて執筆、2002年60歳で時事通信社を退社している。在職中には、組合運動を理由に記者職をはずされたため不当配転無効確認訴訟を起こし、賃金差別の東京都労働委員会への救済申し立てなどの活動を続けた。退職後も、「生涯ジャーナリスト」を貫いた。

 その長沼さんが、短歌を詠み始めたのである。私の属するポトナム短歌会に入会されたのが、今回の遺稿集の年譜では、2001年、小学校の恩師代田猛男さんの勧めすすめとあった。今年の4月、創刊100周年記念の『ポトナム』の年表によれば、長沼さんは、すでに2000年8月には「五七五七七のミッシング・リンク」を寄稿している。2011年退会するまでに、つぎのようなエッセーを寄せていた。

五七五七七のミッシング・リンク     2000年8月
「大事件」と短歌「9・11テロ」を巡って 2002年4月
漢字短歌の面白さ            2004年8月
イラク派兵と「サマワ詠」        2005年2月
諏訪・岡谷の空気を深呼吸…忘年歌会に参加して
                    2007年2月*
私の歌枕 日比谷公園          2009年7月*
白秋のパレット             2010年6月*
国際ペンのシンポ「短歌とTANKA」傍聴記 2010年12月*
*は遺稿集にも収録されている

 何しろこのあたりの『ポトナム』を最近、近代文学館に寄贈してしまったもので、確かめられない。短歌も同様で、いつから発表して始めたのかも、定かではないが、ブログ「チョーさん通信」では、2006年から2010年まで、「ポトナム詠草」として残されている。遺稿集にも厳選された68首が「源流」と題されて収録されている。

 いま手元にある、長沼さんからのはじめての手紙(2001年2月27日)によれば、やはり入会は、2000年小学校時代の恩師代田猛男・直美夫妻の勧めに拠ったとの記載があった。猛男さんは2004年に、直美さんは2022年1月94歳で亡くなられた。若い時、『ポトナム』の全国大会などで代田夫妻にはお目にかかってはいるのだが、晩年は、作品を読むにとどまってしまった。いまから思えば長沼さんの話も伺っておきたかったなどと思う。その長沼さんの手紙には、私が出版したばかりの『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)をお送りした折のお礼と感想が書かれていた。簡易封筒いっぱいの文字、身に余る励ましの言葉が綴られていたので、私も大事にしていたのである。さらに、翌日日付のはがきの追伸もあり、これも裏表に綴られている。和歌の時代からの天皇制の呪縛、歌壇の一笑に付すべき文章などに触れていた。またもう一通は、私の第二歌集『野の記憶』(ながらみ書房 2004年)への礼状であった。この頃、『ジャーナリスト同盟報』をお送りいただいており、手紙と一緒にファイルに収めてあった。さらにメールでは、「メディアウオッチ100」も何度かお送りいただいたことなどを思い出す。
 それにしても、お会いしたことはただの一度、2004年以降だと思うが、議員会館での集会で、初対面の挨拶だけをした記憶がある。たぶん、連れ合いが集会の主催者側で、私もあたふたとしていて、ゆっくりお話しすることができなかったのではないか。また別の集会でも、参加者としてお名前がありながら、お目にかかれなかったこともあった。
 あらためて、ご冥福をいのるとともに、残された短歌の一部を紹介したい。ブログの短歌詠草300首近い中から、私の気になった、そして共感する短歌は多すぎるのだが・・・その思いに重ねて。とくに注記がない作品は、『ポトナム』詠草である。

ああ短歌なぜ「みそひと」だけなのか思い余りて行をこぼれる【2006年4月】

2005
・白日にさらせ特高の拷問を「横浜事件」の再審裁判 

・ブラジルに明日発つ午後の紀伊国屋で南の空の星座表探す

・提灯屋も下駄屋も炭屋も綿打ち屋も 町内会は屋号で呼び合う

・市長より「ふるさと大使」の委嘱受く我がふるさとは万緑の中

・地下鉄にイスラムの民乗り来れば不安よぎれりその我れを叱る

・自裁せし我が先達の死に顔の凛たるを見て襟を正せり

・取り入れを目前逝きし人の米四十九日の土産に賜ぶる

2006
・年明けて初出勤に急ぐ道心持ち胸を反らせて行かん

・残生もかくあれかしとこころもち胸張りて行く仕事場への道 

・我ら記者に定年などなし「生涯一記者」を自負する我ぞ

・木曽谷に隠れキリシタンの歴史あり首毀たれしマリア地蔵よ

・踏み場全くなきにはあらねども所狭(せ)き家いざ片付けん

2007
・残留孤児の老人たちにねぎらいの一語だに無き棄却判決

・まやかしの予測はあれど「もしかして」と沖縄密約裁判に並ぶ

・真実に目つぶる判決相次ぎて国の僕(しもべ)か司法危うし

・若者が死ぬるや哀れまして今みずから逝くはなお哀れ

2009
・記者皆が批判精神失せしより記者会見は空しくも過ぐ

・ごみでしょういや資料だと争いつつ我が家を埋める「切り抜き」の山

・大路往く金大中氏の国葬の列に手を振りて別れを告げる

・投獄や死刑判決拉致監禁乗り越えし人いま身罷りぬ

・去年まで気付かざりしに曼珠沙華窓の向かいの小暗き土手に

2010
・ああミレナあなたは真夏のダリアです、どこを切っても水のしたたる
(カフカの恋人)
・エッセーもルポもあなたの文章はそのまま短歌になりそうだね、ミレナ

・大丈夫これで治すと励ませる丸山ワクチンに夢をあがなう

・お互いに「否!」とう言葉を戒めるわれらの中の安保体制

・伊那路なる飯田市歴史研究所その静けさに風そっと行く

・化粧箱に入れ仕舞いたる母の骨時々振りて母を思えり

歌集『伊那』2015年版
・ 今日もまた国会前を埋め尽くす人らに交じりて抗議叫びぬ 

・ 朝礼のたびに倒れし傍にいて支えてくれし恩師を見送る
04年代田孟男氏死去)

・ 鶴見さんと「六・一五」に国会で花捧げしは十年前か
(05年7月鶴見俊輔氏 死去)

・ 鶴見さんに仕事課された幸せをかみしめており訃報聞きつつ

・「この夏を忘れないように」と呼びかける女子学生に未来の光

歌集『伊那』2019年版
・治りません。付き合うのですときっぱりと若き医師から励まされいる

・うず高き資料の山が部屋を埋め我が「平成」は未整理に逝く

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2022年11月28日 (月)

ポーランド映画祭~見逃した「EO」と「赤い闇」

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 11月22日から始まった、11回目を迎えたというポーランド映画祭、パンフの解説を頼りに、26日「ショパン」「EO(イオ)」、27日「赤い闇と「パンと塩」に出かける予定にしていた。26日の朝は雨、寝不足もあって、11時には間に合いそうにもない。13時30分からのポーランドの巨匠とも言えそうなイエジー・スコリモフスキ監督の新作「EO」(2022年)だけでもと出かけたのだが、なんとチケットは午前中に売り切れていた。この監督は、若干24歳でポランスキーの「水の中のナイフ」(1962年)のシナリオを手掛けている。目当ての「EO」は、動物愛護グループにサーカス団から連れ去られたロバのイオが主人公というのである。イオの目を通してみた現代のポーランドの人間模様・・・。残念ではあったが、それではと、気を取り直して、2時間待ちながら15時30分開演の同じ監督の「イレブン・ミニッツ」(2016年)を見ることにした。隣の会場での星野道夫の写真展もにぎわっていたが、恵比寿のガーデンプレイスを巡ってみることにした。週末だけあって、家族連れやカップルの往来をコヒー店の窓から眺めたり、行列ができているパン屋さんで食パンを買ってみたり、真っ白いテントが並んでいるので何かと思えば、「婚活フェア」だったり・・・。

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 そして「イレブン・ミニッツ」は、夕方5時から11分間の出来事を同時多発、同時進行の形でまとめているという解説だったが、画面のテンポについてゆけず、私には、もう容赦なく目まぐるしいばかりで、最初は理解不能の世界だった。進むにしたがって分かりかけてきたものの、舞台がワルシャワの街中なのに、観光客が巡るような場所はいっさい出てこない。さもありなんという、さまざまな夫婦やカップル、家族が交差しながらの分刻みでの展開である。その核になるのが、ホテルの一室での男女―映画監督と女優という設定で、抜擢を条件に関係を迫るという、いわば映画界の内輪話というのが、私には少し安易すぎると思った。もっとも、日本の映画界でも、パワハラ、セクハラが表ざたになって問題視されるようになっているのだから、ポーランドでも、よくある話なのだろうか。ホテルの部屋を突き止めた女優の夫、出所したばかりの屋台のホットドック屋、息子と分かるバイク便の配達夫、元カレから犬を渡され、ホットドックを買いに来る若い女、強盗に入った店のオーナーが首をつっているのに出くわして、慌てて逃げる若い男・・・、まだまだいろんな人物が登場する。そして最後に、登場人物たちの想像を絶する衝撃的な死の連鎖で幕を閉じるのだが、エンドロールの前には、画面いっぱいに小さい画面が並び、そのコマは際限なく無数となったところで、画面は真っ暗になるという仕掛けである。

 制作の意図はわからないではないが、私の体調もあってか、“疲労困憊”の一語に尽きるのだった。恵比寿駅への長い、長い動く歩道、乗換駅を乗り過ごさないように必死であった。電車のなかでは、ワルシャワの高層ビルの間を巨大な航空機が低空飛行をする、9・11を想起するような画面が何度か現れたのは、なんの暗喩なのか・・・を考えたりしていたら眠らずに済んだ。

 そして、見逃した「赤い闇」は、一足先の11月24日に見ていた連れ合いから、話を聞いてはいた。1933年、世界恐慌の中で、なぜソ連だけが繁栄しているのかを謎に思ったイギリスの若いジャーナリストが、モスクワへ、そしてウクライナへと向かって目にしたのは、スターリンによる人工的大量餓死の悲惨な姿であったのである。まさに、いまのウクライナとプーチンを想起するではないか。くすしくも、11月26日は、ホロドモールの追悼の日であった。

 そして、“体力の限界”を感じて、翌日の二本は、あきらめたのである。

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2022年11月26日 (土)

二冊の遺稿集に接して(1)和田守著『徳富蘇峰 人と時代』

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萌書房、2022年10月20日

帯の表には、つぎのように紹介されています。

等身大の蘇峰の生涯を思想的変遷にも重きを置きつつ辿ることから始め,これまであまり論じられることのなかった社会事業家としての側面にもスポットを当て,この不世出の思想家・ジャーナリストの活動を青・壮年期を中心に時代状況も交えながら描出。政治思想史界の第一人者が後進の研究者に贈る畢生の成果

目次

第Ⅰ部 評伝 徳富蘇峰
序 論/第1章 新聞記者への立志と思想形成/第2章 平民主義の唱道/第3章 帝国主義への変容/
第4章 国家的平民主義
第Ⅱ部 欧米巡遊、社会と国家の新結合
第1章 徳富蘇峰の欧米巡遊/第2章 国民新聞と国民教育奨励会/第3章 青山会館の設立/第4章 国民新聞社引退と蘇峰会の設立/第5章 徳富蘇峰という存在
第Ⅲ部 思想史研究の視点から
第1章 近代日本のアジア認識 ―連帯論と盟主論について―/第2章 私の辿った思想史研究―グローカルな視点から―

 著者の和田さんとは、「法律政治学専攻」という一学年でたった16人ほどのクラスの同期でした。1959年4月入学だったから、60年安保改定を控え、大学は騒然とした雰囲気であったのです。いわばノンポリだった私は、自治会が呼びかける集会やデモには時折参加していましたが、和田さんはクラス討論や学年を越えての雑誌の発行などにも率先してかかわっていました。そんな中でも、松本三之介先生の指導の下、政治思想史の研究者になるべく努力されていたのだと思います。博士課程を了え、山形大学、静岡大学を経て、大東文化大学に移り、法科大学院の設置や大学行政にも携わっていました。2019年4月、病に倒れ、やり残した仕事もあったに違いありません。

 蘇峰に関しては、すでに『近代日本と徳富蘇峰』(御茶の水書房 1990年2月)があるが、その後の論稿と未定稿を合わせて、伊藤彌彦さんの編纂により、今回の出版にいたったといいます。

私など専門外のものには、清水書院「人と思想史シリーズ」の未定稿として残された序論としての蘇峰論、「自由民権」から「国家的国民主義」形成に至る青年時代までを描いた部分が読みやすく、興味深いものがありました。

 目次にありますように、これまでの蘇峰像とは異なる側面にも光があてられていますので、関心のある方は、ぜひ、近くの図書館にリクエストしてみては。

 個人的には、和田さんが山形大学に赴任してまもなくの松本ゼミOB会の研修旅行に誘われて、山形・福島の旅に参加しました。予定外だった斎藤茂吉記念館にも立ち寄ったこと、近年では、主宰されていた「思想史の会」で「沖縄における天皇の短歌」の報告の機会をいただいたことなどが思い起されます。あらためてご冥福を祈る次第です。

 

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2022年11月15日 (火)

写真集『原発のまち 50年のかお』(一葉社)の勁さとやさしさ

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カバーの写真は、1976年9月23日、女川原子力発電所絶対阻止三町連合決起集会

 編者の阿部美紀子さんは、「度重なる奇跡のような出来事で」、この女川原発阻止闘争の写真集を出版するにいたったという。その奇跡とは。阿部さんは、地元で原水協の活動をされていた町議の父、阿部宗悦さんと共に、大学卒業以来、長年、女川原発阻止の活動をされてきた方だ。東日本大震災の津波で、家ごとすべて流されて、活動の記録も写真も失った。大震災の3年前に、町役場から、反対闘争も町の歴史だからと写真のデータベース化をした折、CD版ももらっていたが、それももちろん流されたが、そのデータをパソコンに取り込んでいた仙台のお仲間がいたという。ほとんど美紀子さんが撮影したその写真を中心に、地元のカメラマンや仲間の撮影による写真を集成したのが今回の写真集で、詳細な年表も付す。また、後半の「原発と暮らす」のインタビューは、どれも、一緒に活動してきた雄勝湾、女川湾、鮫浦湾に面したいくつもの浜の漁師さんたちへの阿部さんのやさしい問いかけに、かつての活動や近況などが立ち上がってくる。

目次
「女川原発差し止め訴訟」意見陳述書(要旨)
写真集発刊にあたって
<参考>「三町期成同盟」当時の女川町周辺略図
かつて、まちは――奇跡の証言写真
大津波のまちで――ありえない原発との共存
原発と暮らす――生き証人は語る
<資料>女川原発反対運動の略史

 知人に紹介していただいた阿部美紀子さんとは、2016年5月、私たち夫婦が女川を訪ねた折、かさ上げ工事さなかの町と鳴浜にある原発の近くまで車で案内していただいたご縁がある。道中、小雨の降るなか、まだ木立に引っ掛かったままのブイ、原発へのトンネルの工事現場、特攻艇の戦跡、廃校跡など下車しては説明をしてくださったことを思い出す。
 
 
 女川の原発阻止闘争は、1967年3月原子力委員会が、女川を原発立地予定地として公表した時から始まる。9月女川町議会は、原発誘致を全会一致で決議、東北電力の土地買収が始まり69年1月女川原発設置反対女川・雄勝・牡鹿三町期成同盟会結成、6月女川漁協反対決議を経る。三町期成同盟による数千人規模の海上デモや現地集会が続くが、70年代に入ると、東北電力による女川漁協幹部の切り崩しが始まる。

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75年12月7日、第1回原発反対総決起大会、壇上に並ぶ各浜代表のうち3人は大震災で亡くなっているという

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1976年6月14日、東北電力への抗議、交渉が続く

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1976年6月23日、 女川町主催の漁業説明会、阿部宗悦・美紀子さん

 女川漁協ョット臨時総会では、77年1月には条件闘争を強行採決、78年8月漁業権放棄を可決。79年3月28日スリーマイル島原発事故があるも、12月一号機着工に至り、81年12月女川原発建設差止訴訟、仙台地裁に提訴、2000年12月最高裁の上告棄却。この間、95年2号機、2002年3号機営業開始に至る。そして11年3月11日、東日本大震災の津波により女川町は壊滅的な被害を受け、女川原発は三号機とも停止、福島第一原発事故発生。以降、脱原発、女川原発再稼働阻止の運動は、宮城県民による運動となる。18年10月女川原発1号機廃炉は決定するが、20年11月11日村井宮城県知事女川原発2号機再稼働同意表明している。

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2011年4月19日、小屋取漁港(日下郁郎撮影)

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2011年4月19日、小屋取の集落の被害(日下郁郎撮影)

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2011年4月30日、鷲神の阿部家被災地跡に、流れ着いていた股引に「すべての原発廃炉に!チェルノブイリ25周年」と書き、掲げる阿部宗悦さん(スペース21撮影)。5月連休明けに自衛隊によりガレキはすべて撤去されたという。宗悦さんは、2012年7月7日に逝去された。美紀子さんは、宗悦さんの遺志を継ぎ、町議選に臨み、2012年11月から、現在三期目となる。「女川から未来を考える会」代表。

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2016年5月撮影、女川原発がもっともよく見える場所、小屋取浜から望む。
29m防潮堤が築かれているという。

 美紀子さん、貴重な一冊をありがとうございました。この写真集にも、お会いしたときの寡黙ながら、やさしさとゆるぎない意思を感じとることができました。

 なお、写真集の出版社、一葉社は、拙著『斎藤史~「朱天」から『うたのゆくへ』の時代』(2019年1月)でお世話になっている。

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関連の過去記事

女川原発2号機はどうなるのか~再稼働反対の声は届かない(2020年10月30日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/10/post-bb75a1.html

連休前、5年後の被災地へ、初めての盛岡・石巻・女川へ(6)(7)(2016年5月14日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-5cf0.html


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2022年10月31日 (月)

「貞明皇后の短歌」についてのエッセイを寄稿しました

 「新・フェミニズム批評の会」が創立30年になるということで記念論集『<パンデミック>とフェミニズム』(翰林書房 2022年10月)が出版されました。私が友人の誘いで入会したのは、十数年前なので、今回、創立の経緯など初めて知ることになりました。毎月きちんと開かれている研究会にも、なかなか参加できないでいる会員ですが、2012年以降の論文集『<3・11フクシマ>以後のフェミニズム』(御茶の水書房 2012年)、『昭和前期女性文学論』(翰林書房 2016年)、『昭和後期女性文学論』(翰林書房 2020年)には寄稿することができました。30周年記念の論集は、エッセイでも可ということでしたので、「貞明皇后の短歌」について少し調べ始めていたこともあって、気軽に?書き進めました。ところが「査読」が入って、少し慌てたのですが、何とかまとめることができました。

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執筆者は、30人。表紙は、鳩の下の羽根には花畑が、上の羽根には、ブランコに乗った女性いる?という、やさしい装画(竹内美穂子)でした。

 

「貞明皇后の短歌が担った国家的役割――ハンセン病者への「御歌」を手がかりに」

1.沖縄愛楽園の「御歌碑」

2.「をみな」の「しるべ」と限界

3.届かなかった声

4.変わらない皇后短歌の役割

 

 

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2022年10月24日 (月)

田端文士村散歩へ~初めての田端駅下車

 土曜10月22日は、秋晴れの予報だったが、すっきりしないものの、出かけることにした。久しぶりの東京、池袋育ちながら、田端には降りた記憶がない。国鉄の操車場のイメージである。北口を出ると、左手に高い陸橋、ほぼ正面に、曲線を描いた長い壁に「田端文士村記念館」とあった。

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 なんと、入館無料である。1993年開館、1988年設立の北区文化振興財団の運営という。今回の企画展「朔太郎・犀星・龍之介の友情と詩的精神」(10月1日~23年1月22日)は、こじんまりした展示ながら、充実しているように思えた。展示は以下のようで、常設展は「漱石と龍之介」「野口雨情の生誕140周年~童謡に込められた雨情の詩心」であった。漱石や龍之介にしても熱心な読者ではなかったし、教科書のほか少しばかり“義務的”に読んだ記憶しかない。朔太郎や犀星については、作品よりも伝記的関心の方が強かった。

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 企画展は、ほぼ同世代といえる三人、萩原(1886~1942)、室生(1889~1962)、芥川(1892~1927)の親密ながらも緊張感を失わない交流が立ち上がってくる。芥川が「文芸的な、余りに文芸的な」を『改造』に連載中の1927年7月24日に、自殺をしてしまう悲劇。その連載のなかの「十二 詩的精神」には、つぎのようなくだりがある。

僕は谷崎潤一郎氏に会ひ、僕の駁論ばくろんを述べた時、「では君の詩的精神とは何を指すのか?」と云ふ質問を受けた。僕の詩的精神とは最も広い意味の抒情詩である。僕は勿論かう云ふ返事をした。

 芥川は「神経衰弱」と不眠に悩まされていたのは一つ事実だが、「遺書」にある「ぼんやりした不安」どころではない、自らの病苦、家族8人での生活苦、人間関係での不信などに苛まれていたのではないか。展示室にある「田端の家」復元の模型を見て、この田端の地に大きな屋敷で大家族を養っていたことが思われてならなかった。これまでもよく見かけた、自宅の庭で、子供たちの前で木登りをする動画フィルム、出版社の宣伝用だったというが、この会場でも流されていた。
 また、ともに北原白秋に師事していた犀星と朔太郎だったが、1915年、朔太郎は、白秋宛の手紙で「室生は愛によって成長するでせう。私は悪によって成長する。彼は善の詩人であり、私は悪の詩人ある」などと記しているのも知った。

 連れ合いは、朔太郎のファンなので、撮影禁止といわれ、盛んにメモも取っていた。つい先日、赤城山の帰りに前橋文学舘に行ってきたばかりでもある。

 記念館を出て、高い陸橋、東台橋をくぐって、両脇が高い崖になっている、まさに「切通し」の道路を進むが、少し違うらしい。戻って陸橋の急な階段を上り切ると、高台に住宅が広がっている。童橋というところまで進むと、左手の路地から、十人近くの一団が出てきたと思ったら、入れ替わりに入っていく一団もあった。「龍之介の旧居跡」に違いないと、私たちも入っていくと、民家ならば3・4軒建ちそうな空き地に「芥川龍之介記念館予定地」の看板が見える。そしてその先の角のお宅の前には掲示板があった。

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『ココミテ シート」2018年夏号(田端文士村記念館)より。上段の写真は、龍之介没後の1930年7月撮影、右から、長男比呂志(俳優)三男也寸志(音楽家)、次男多加志、母、文。文は育児に苦労したにちがいない。多加志は、応召、1945年4月13日、ビルマで戦死、22歳であった。

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「木の枝の瓦にさはる暑さかな」という龍之介の俳句の書幅が展示されていた。旧居の敷地は200坪近くあったという。

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 今度は、童橋を渡って、童橋公園へ。犀星旧居の庭石を移したという一角がある。さらに一筋違う路地には、平塚らいてう、中野重治が住んでいたというが、何の表示があるわけでもなく、家がびっしりと立ち並び、女の子二人が、スケボーで遊んでいた。
 童橋から駅前を通り越すと、福士幸次郎の旧居があったところで、サトウハチローが転がり家でもあったらしい。福士はハチローの父、佐藤紅緑の弟子で、ハチローの面倒を見ることになったらしい。犀星はこの町で何度も転居を繰り返しているが、次に回ったのが、田端523番地の旧居跡、犀星が引っ越した後の家に菊池寛が転入している。その路地を抜けると広い道路に出て、右へと曲がり、八幡坂に向かう。今日の目的の一つが、大龍寺の正岡子規の墓参だった。緩いが長い坂をくだると右側には上田端八幡神社の生け垣が続く。坂を下り切れば、神社の隣が大龍寺、そこへタクシーを降りた中年の女性と出会い、子規のお墓ですよね、という。三人で、墓地に入るが、案内図があるわけでもない。手分けして探し、ウロウロする。墓参に来た若い家族連れにも尋ねてみたが、「うーん、あることは聞いているけど、どこだか・・・」という。古そうなお墓の一画、角に、あった! 一緒に探していた女性は、「俳句がうまくなりたいから、今日は、子規庵を回ってきて、墓参も」と群馬から上京したそうだ。 

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右側が子規の母八重の墓、子規の墓の文字は、子規が入社した新聞『日本』社主陸羯南の筆になる。 代々の墓と墓誌は子規の墓の左横にある。

 あとは八幡坂をのぼって、ひたすら、駅方面に向かう。田端高台通りを右に折れると江戸坂、いまは高層ビルもあるが、正面はJRの宿舎でもあった巨大な建物がある。短いながら、文士村散歩は終りとした。回れたのは、文士村と言われる地区の三分の一ほどだったろうか。

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八幡坂、駅方面に向かって登る。左手が上田端八幡神社のキンモクセイ          

 朔太郎の旧居跡も回れなかったし、『アララギ』の鹿児島寿蔵、土屋文明、五味保義、高田浪吉らや太田水穂・四賀光子、尾山篤二郎らの歌人も住んでいたという。きっと魅力のある街だったのだろう。1945年4月13日の城北大空襲ですべてが灰塵に帰したのだった。

 

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2022年10月19日 (水)

「マイナ保険証」義務化?ここまでやるの、バカにしないでョ!

 10月13日、河野デジタル大臣は、首相との面談後の記者会見で、現在の健康保険証を24年秋には廃止し、マイナンバーカードと一体化すると公表した。ついこの間の6月7日閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針 2022  新しい資本主義へ ~課題解決を成長のエンジンに変え、持続可能な経済を実現~」(タイトルからしてなんとも欲張った?「骨太の方針」)では、マイナンバーカードについて、以下のようにまとめられていた。

2.持続可能な社会保障制度の構築
(社会保障分野における経済・財政一体改革の強化・推進)
オンライン資格確認について、保険医療機関・薬局に、2023年4月から原則義務づけるとともに、導入が進み、患者によるマイナンバーカードの保険証利用が進むよう、関連する支援等の措置を見直す。2024年度中を目途に保険者による保険証発行の選択制の導入を目指し、オンライン資格確認の導入状況等を踏まえ、保険証の原則廃止を目指す

 要するに、保険証の原則全廃には期限が付されていなかったが、すでに、昨年21年10月からマイナンバーカードが保険証として利用可能になったところもある。一方、医療機関・薬局でのカード読み取り機の普及が進まないので、6月の段階では、そちらの方に期限が付けられていたのだ。それが、突然、24年秋という期限もって現行保険証の廃止が打ち出されたのである。
 これまでも、政府はマイナンバーカードの普及には躍起になって、コロナ対策の10万円一律給付にはカードがあった方が便利だとか、マイナポイント1弾では5000円分付与、第2弾では、カード取得自体で5000円分、保険証、銀行との紐づけで各7500円分と併せて20000円分のポイント付与というニンジンをぶら下げた。カードの普及率がようやく50%をこえたというので、今回の方針転換へと勢いづいたのかもしれない。第2弾のマイナポイント付与は9月末終了を12月末まで延長した。繰り返される、あの広告のいじましさ、一番喜んでいるのは、それこそ、広告代理店だろう。
 さらに、カードの普及率によって、政府は自治体への地方交付税の算定に反映させると明言しているのだ。自治体にも、交付税というニンジンをぶら下げて、「尻を叩く」という、暴力的にさえ思える手段に出たのである。
 ここまで来たのだから、意地でも、全国民にカードを持たせようというのか。この間は、近くのスーパーの前で、「ここで、カードが作れます」と呼び込みをやっていたし、これからは郵便局でも作れるようにするとか。ニンジンに目がくらんで?作ってはみたが、おそらく、大したメリットもないと思い知らされるのではないか。さまざまなリスクが潜んでいるというのに。
 保険証の利用者、患者側からすれば、まず、必要性がない。身分証明書代わりというけれど、これまでだって、健康保険証、運転免許証、パスポートで、用がたりる。
 健康保険証として使用できるというが、マイナカードと一体化したとしても大病院はともかく、現在、通院している近隣のクリニックなどでは使えない。読み取り機―オンライン資格確認システム―を導入している医療機関や薬局は少ない。

 マイナカードには住民の基本情報、氏名・住所・生年月日・性別が内蔵されている上に、医療情報が加わることになり、その情報漏れのリスクがある。マイナカードの管理は、昨年成立したデジタル改革関連法により、国と地方公共団体が共同して管理運営する法人に改められた。実際の管理作業は、ほぼ、民間への委託、再委託が実態であろう。情報の拡散、情報漏れのリスクは高まり、政府はさらに、民間のカードの利活用を目論んでいるから、カードに蓄積された個人情報のセキュリティの整備は一層困難になるにちがいない。

 上記「骨太の方針」では、このオンライン資格確認システムの義務化には、医療機関側から、さまざまな問題点が指摘されている。「全国保険医団体連合会」発行の『全国保険医新聞』のアンケート結果は以下のようであった。

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 設備設置の経済的な負担は、助成金の30万程度では間に合わない場合が多く、ランニングコストもかかる。導入済みの機関では、トラブルにも悩まされているらしい。医師の高齢化によって閉院を予定しているケースも一割程度あって、義務化の必要性や助成金の返済などが課題になっている。これを機に閉院を早めるケースもあるという。
 私自身の周辺でも、当地に転居以来30年以上かかっていた内科のクリニックが、コロナの出現の直前に閉院した。コロナのさなかには、眼科クリニックが閉院してしまって、戸惑いもした。地域で親しまれた街のお医者さんが消えてゆく。近くの大学病院は、紹介状なしでは相手にしてもらえない。医療費も2割負担になってしまい、医療難民になりかねない様相になって来た。どうも長生きはさせてくれない国らしい。

 そもそも、マイナンバー法(行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律)17条1項では、個人番号カードは、住民の申請により交付するものとされており、カードの取得は任意なのに、保険証を原則廃止することは、カードの取得を事実上強制するものであり、法律に違反するのは明らかなのである。

 むかし、学校でならったことわざを思い出す。
You can take a horse to the water, but you can't make him drink.

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2022年10月 3日 (月)

「私説『ポトナム』百年史」を寄稿しました。

 私が永らく会員となっている「ポトナム短歌会」ですが、今年の4月に『ポトナム』創刊100周年記念号を刊行したことは、すでにこのブログでもお伝えしました。上記表題の小文を『うた新聞』(いりの舎)9月号に寄稿しました。『ポトナム』100年のうち60年をともにしながら、その歴史や全貌を捉え切れていませんので、”私説”とした次第です。

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私説『ポトナム』百年史   

・ポトナムの直ぐ立つ枝はひそかなりひと時明き夕べの丘に

   一九二二年四月『ポトナム』創刊号の表紙に掲げられた小泉苳三の一首である。当時の日本の植民地、京城(現ソウル)の高等女学校教諭時代の小泉が、現地の百瀬千尋、頴田島一二郎、君島夜詩らと創刊し、誌名は「白楊」を意味する朝鮮語の「ポトナム」とした。二三年には、東京の阿部静枝も参加した。

  二〇二二年四月、創刊百年を迎え、大部な記念号を刊行した。年表や五〇〇冊余の叢書一覧にも歴史の重みを実感できるのだが、『ポトナム』が歩んだ道は決して平坦なものではなかった。

  今回の記念号にも再録された「短歌の方向―現実的新抒情主義の提唱」が発表されたのは、一九三三年一月号だった。それに至る経緯をたどっておきたい。二三年は関東大震災と不況が重なり、二五年は普通選挙法と抱き合わせの形で治安維持法が公布された。反体制運動の弾圧はきびしさを増したが、社内には新津亨・松下英麿らによる「社会科学研究会」が誕生し、二六年には『ポトナム』に入会した坪野哲久、翌年入会の岡部文夫は、ともに二八年一一月結成の「無産者歌人聯盟」(『短歌戦線』一二月創刊)に参加し、『ポトナム』を去り、坪野の作品は一変する。

・あぶれた仲間が今日も うづくまつてゐる永代橋は頑固に出来てゐら(『プロレタリア短歌集』一九二九年五月)

  苳三は、『ポトナム』二八年一二月号で、坪野へ「広い前途を祝福する」と理解を示していたが、社内に根付いたプロレタリア短歌について、三一年五月に「プロレ短歌もシュウル短歌もすでに今日では短歌の範疇を逸脱」し、短歌と認めることはできず「誌上への発表も中止する」と明言した。先の「現実的新抒情主義」について、多くの同人たちが解釈を試みているが、「提唱」の結語では「現実からの逃避の態度を拒否し、生々しい感覚をもつて現実感、をまさしくかの短歌形式によつて表現することこそ我々の新しい目標ではないか」、その実証は、「理論的努力と実践的短歌創作」にあるとした。総論的には理解できても実践となると難しいが、この提言によって『ポトナム』は困難の一つを乗り切った感もあった。

  以降、戦争の激化に伴い、短歌も歌人も「挙国一致」の時代に入り、「聖戦」完遂のための作歌が叫ばれた。四四年一月の「大東亜戦争完遂を祈る」と題して、樺太から南方に至る百人近い同人たちの名が並ぶ誌面は痛々しくもある。その年『ポトナム』は国策によって『アララギ』と合併し、三月号を最後に休刊となった。その直後、苳三と有志は「くさふぢ短歌会」を立ち上げ、敗戦後の『くさふぢ』創刊につなげ、さらに五一年一月の『ポトナム』復刊への道を開いた。

  しかし、苳三は、四七年六月、勤務先の立命館大学内の教職不適格審査委員会によって、『(従軍歌集)山西前線』(一九四〇年五月)が「侵略主義宣伝に寄与」したことを理由に教授職を免じられたのである。GHQによる公職追放の一環であった。歌集を理由に公職を追われた歌人は他に例を見ない。

・歌作による被追放者は一人のみその一人ぞと吾はつぶやく
(一九五一年作。『くさふぢ以後』収録)

  追放に至った経緯はすでに、教え子の白川静、和田周三、安森敏隆らが検証し、敗戦後の大学民主化を進める過程での人事抗争の犠牲であったともされている。大岡信は「折々のうた」でこの歌を取り上げ、審査にあたった学内の教授たちを「歌を読めない烏合の衆の血祭りにあげられた」と糾弾する(『朝日新聞』二〇〇七年二月二三日)。歌人の戦争責任を問うならば、まず、多くの指導的歌人、短歌メディア自身の主体的な反省、自浄がなされるべきだった。

  苳三は、この間も研究を続け、追放解除後は、関西学院大学で教鞭をとった。戦時下の四一年から三年かけて完成した『明治大正短歌資料大成』三巻、早くよりまとめにかかっていた『近代短歌史(明治篇)』(五五年六月)など多くの著作は近代短歌史研究の基礎をなすものだった。五六年一一月、苳三の急逝は『ポトナム』には打撃であったが、五七年からは主宰制を委員制に変更、現在は中西健治代表、編集人中野昭子、発行人清水怜一と六人の編集委員で運営されている。先の教え子たちと併せて小島清、国崎望久太郎、上田博、中西代表らにいたるまで国文学研究の伝統は、いまも受け継がれている。

  古い結社は、会員の高齢化と減少に歯止めがかからない局面に立っている。結社が新聞歌壇の投稿者やカルチャー短歌講座の受講生などの受け皿であった時代もあったが、結社内の年功序列や添削・選歌・編集・歌会などをめぐって、より拘束の少ない同人誌という選択も定着してきた。さらにインターネットの普及により発信や研鑽の場が飛躍的に広がり、多様化している。短歌総合誌は繰り返し結社の特集を組み、各結社の現況を伝え、結社の功罪を論じはするが、それも営業政策の一環のような気もする。すでに四半世紀前、一九九六年三月号で『短歌往来』は「五〇年後、結社はどうなっているか」とのアンケートを実施、一五人が回答、「短歌が亡びない限り」「世界が滅びるまで」「形を変えて」「相変わらず」存在するだろう、とするものが圧倒的に多かった。私は、「現在のような拘束力の強いとされる結社は近い将来なくなり、大学のサークルや同好会のような、出入りの自由なグループ活動が主流となり」その消長も目まぐるしく、活動も「文学的というより趣味的で遊びの要素が強くなる」と答えていたが、残念ながら二五年後を、見届けることはできない。

  私にとっての『ポトナム』は、一九六〇年入会以来、一会員として、歌を詠み続け、幾多の論稿を発表できる場所であった。婦人運動の活動家でもあり、評論家でもあった阿部静枝はじめ個性的な歌人たちから、多くを学んだことも忘れ難い。(『うた新聞』2022年9月)

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 なお、拙稿の発表後、9月18日、大甘さん(@kajinOoAMA)のつぎのようなツイートがなされているのに気づきました。大事なご指摘をありがとうございます。創刊にかかわった先達から、「白楊」と聞いておりましたまま、調べもしませんでした。


ポトナム短歌会の「ポトナム」って何だろうって思っていた。『うた新聞』9月号、内野光子氏の寄稿に、1922年、植民地朝鮮の京城にて創刊、"誌名は「白楊」を意味する朝鮮語の「ポトナム」とした"とあり、謎は解けた。久々に日韓・韓日両辞書を引っ張り出し、軽い気持ちで"確認"を試みたが… pic.twitter.com/eVWdkhMakj

 

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当ブログ過去の関連記事

1922ー2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)(2)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-559b22.html
(2022年4月6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-a2076e.html
(2022年4月9日) 

忘れてはいけない、覚えているうちに(3)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<1>
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/08/post-448784.html
(2022年8月10日)
忘れてはいけない、覚えているうちに(4)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<2>
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/08/post-f5f72b.html
(2022年8月12日)



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2022年10月 2日 (日)

「国葬」に登場した山縣有朋の「短歌」

 かたりあひて尽しゝ人は先立ちぬ今より後の世をいかにせむ

  9月27日に開催された安倍晋三「国葬」における菅義偉の弔辞に登場したのが、山縣有朋の伊藤博文への弔歌であった。「今、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません」と結んだ。菅が「短歌を持ち出すとは」が最初の疑問だった。さらに、その前段の、安倍の議員会館の部屋の机に読みかけの岡義武の『山縣有朋』があって・・・のくだりにも、「うーん、ほんと?ちょっとできすぎでは」と思ったのだった。第一、「安倍が岡義武の本を読むか?」も疑問であった。

  今回の岸田首相の弔辞があまりにも長いばかりで無味乾燥だったため、菅の弔辞の焼き鳥屋談義や上記の追悼歌などが盛られたところから、参列者や国葬TV中継視聴者の一部から礼賛のツイートやコメントがなどが拡散していた。

そもそも、今回の弔辞の原稿作成に広告代理の手が入っているかどうかは別として、当然のことながら、岸田や菅にしても、秘書は、もちろん、ゴーストライターかスピーチライターと言われる人たちとの総力あげての?共同作成ではなかったか。

 と、この稿を書きかけたところ、10月1日、「リテラ」のつぎ記事で、その冒頭の謎が解けたのである。

・菅義偉が国葬弔辞で美談に仕立てた「山縣有朋の歌」は使い回しだった! 当の安倍晋三がJR東海・葛西敬之会長の追悼で使ったネタを
https://lite-ra.com/2022/10/post-6232.html

 詳しくは、上の記事を読んで欲しいのだが、次の2点を報じているのだ。
 一つは、上記の山縣の伊藤への「挽歌」は、安倍元首相が、今年6月17日、Facebookの投稿に、以下のくだりがあったというのである。葛西敬之JR東海名誉会長の葬儀をうけて、
 常に国家の行く末を案じておられた葛西さん。国士という言葉が最も相応しい方でした。失意の時も支えて頂きました。     葛西さんが最も評価する明治の元勲は山縣有朋。好敵手伊藤博文の死に際して彼は次の歌を残しています。
「かたりあひて尽しゝ人は先だちぬ今より後の世をいかにせむ」

 一つは、安倍元首相の2015年1月12日のFacebookで、岩波新書版の『山縣有朋 明治日本の象徴』の表紙の写真とともに、「読みかけの「岡義武著・山縣有朋。明治日本の象徴」(ママ) を読了しました」に続けて、山縣の歌を紹介していたのである。
 伊藤の死によって山縣は権力を一手に握りますが、伊藤暗殺に際し山縣は、「かたりあひて尽くしし人は先立ちぬ今より後の世をいかにせむ」と詠みその死を悼みました。

 菅の弔辞の「読みかけの・・・」のエピソードについては、安倍が読了した本を再読していたとも考えにくいし、「しるしがついていた」歌についても、数か月前の安倍のフェイスブックを読んでいたか、くだんの『山縣有朋』から拾いだしたかとなると、この物語性は崩れるのではないか。「どこか嘘っぽい」が解明できた思いだった。なお、「リテラ」によれば、2014年の年末に、安倍が葛西と会食した際に、『山縣有朋』をすすめられていたのである。

 こんな弔辞を聞かされるために、妙な祭壇を作り、4000人以上の人が集められ、会場関係費だけに2.5億円もかけ、2万人規模の警備、接遇費など合わせて16億円もかけたというのだから、国民はもっと怒らねばいけない。あすからの臨時国会で「国葬は法令に拠らずとも、時の政府が判断できる」などと「丁寧な説明」をされても、国民の多くは納得できないだろう。

 たしかに、伊藤は、1909年10月27日、ハルピン駅構内で、安重根による銃弾に斃れた。そこは共通する。伊藤は四回の首相時代を含め、山縣とは、さまざまな場面で意見を異にしている。伊藤の評価につながるものではないが、攘夷思想、憲法制定、政党政治・・・などにおいて、山縣は、攘夷、征韓論、強兵、君主制にこだわっていたのだから、伊藤への追悼の短歌は、あくまでもしらじらしい儀礼的なもので、誰への追悼にもなる、使い回しのできる平凡な一首ではあった。
  だが、この一首以前に、山縣は、自由民権運動を弾圧し、教育勅語、軍事勅語の制定をすすめた人物を登場させたこと自体、時代錯誤も甚だしく、こんな弔辞に、感動したり、涙したりする人たちの言に惑わされてはならない。

 

 

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2022年9月21日 (水)

忘れてはいけない~覚えているうちに(5)60年前の女子の就活

 私が大学に入ったその年の暮れに、母は56歳で病いで急逝した。その母は、女も資格を持って働き続けなければというのが持論で、大正末期、師範学校を出ながら、出産のため数年で小学校教師を辞めなければならなかったことを嘆いていた。薬局という自営業の父を助け、三人の子育てもしたが、少しは、暮らしに余裕ができて、これから自由にという矢先だったに違いない。もう60年以上も前のことである。

 私も教育系の大学だったので、高校の社会科の教員になるのが第一志望だったが、卒業当時、高校の社会科の教員は、東京都は募集もなかった。近県の教員試験はパスして名簿に登録はされたものの、四月採用は無理だと知らされた。一方で、何の準備もなく大学の就職課の掲示板を眺めては、受験資格「女子も可」という朝日新聞社、岩波書店、中央公論社、講談社・・学生社、グラムフォンなども受けていたが、いずれも一次や二次で落とされていた。当時は、会社説明会なんてなかったのでは。教授や先輩の伝手で、電通や東映などへも、紹介状を持って訪ねていたが、受験には至らなかったのだろう。しかし、なに一つ特技など持たない女子には、厳しかった。不採用通知は今でもファイルに残してある。法律専攻だったので、男子たちは、金融・製造関係や公務員、進学を目指すものが多かった。私は、不勉強がたたって、公務員試験にはまったく自信がなかった。それでも、ようやく年内に、内定をもらっていたのが流通業界、いまでこそ大手スーパーを経営する会社だった。「商売を覚えて来いよ」?と父も喜んでくれた。

スーパーか大学の「助手」か
 ところが、G大学から非常勤でこられていた先生とゼミの先生が勧めてくださったのが、G大学の「助手」にならないかという話だった。G大学は、翌年の法学部新設に伴い共同研室勤務の「助手」が必要だったのである。「大学の助手」の名に惹かれたというのか、ただのミーハーだったのか、大学職員として、ともかく二年間務めた。この間のことは、当ブログでも何回か触れているが、色々な先生たちの「生態」や「私立大学」の実情を垣間見ることができたし、生家の池袋や出身大学にくらべると、目白のキャンパスは別世界のようで、楽しかった。考えてみれば当たり前だったのだが、共同研究室の「助手」の仕事はあくまでも先生方の「お手伝い」であることが分かって、二年目にして転職を考えなければならなかった。

図書館で働く
 国家公務員試験には、手が届きそうもない。国立国会図書館(NDL)が独自の採用試験を実施していることを知って、もしかしたらと、にわか勉強の末、何とか、面接までたどり着いた。古巣のゼミの先生にその顛末を告げると、OBのNDL職員を紹介してくださり、会うことになった。さらに、そのOBの先輩の職員にも会い、アドバイスを受けた。面接試験の日も迫ってのことだった。面接の内容は、もう思い出せないのだが、ともかく合格し、本格的な職業生活のスタートを切った。後から考えると、この年の採用は、新館完成を控え、採用人数が、例年になく多い年だったのだ。紛れ込んだといってもよかったかもしれない。
 もう、「ここで、一生働くぞ」との思いだった。一時期、働きながら司法試験を目指す大学の友人たちのグループに入ったりもしたが、基礎学力不足と私の性格からムリとあきらめたこともある。もし、第一志望通り、教員になれたとしても、教育実習先の母校の高校で指導に当たった先生からは、「君は教師には向かないかも」とまで言われていたし、内定していたスーパー業界に入ってたとしても、激烈な競争業界で無事すごせたか、どちらも長続きできたか、怪しいものである。
 NDLでの仕事は、法律関係のレファレンス部門だったが、自分のペースで仕事ができる雰囲気の職場だった。飛び込んでくる利用者にも、ある程度、「過去問」の蓄積で回答できるものもわかってきたり、一緒に閲覧カード!!(現在はすべて撤去)を検索したりした。電話での質問も多く、即答できるものもあれば、時間をもらって回答することも多かった。外部から届く文書での質問は、上司から振り当てられたが、課内にある書誌や参考図書からスタートして、書庫との往復で、ずばり回答に近い資料に行きあたればよろこび、回答には至らなかったものについては検索過程を知らせるようにして、悔しい思いもする。その過程で、多くの先輩たちの残した資料や指導には教えられることが多かった。そして、何より楽しみだったのが、毎週1回「選書日」というのがあって、納本された図書をこの目で確かめられることできたことである。自分の課でレファレンス用として欲しい副本を選んでカードを挟むのが本来の目的だった。ともかく、背表紙だけでも新刊書と出会えるのがうれしかった。それに課内でのお茶の時間、年1回の職場旅行、暑気払い、忘年会、有志でのスキーなども結構盛んであった。書道サークルでの展覧会や合宿もと、忙しかった。

名古屋の女子短大図書館へ
 10年後には、縁あって結婚したが、連れ合いの職場が名古屋だったもので、名古屋で職が見つかるまでは、このまま、頑張る!と、私の単身赴任?が続いた。当時はまだ、「単身赴任」といういい方はなく、「別居結婚」とか言われていた。週末には、どちらか名古屋と当時私の住まいのあった川崎と行ったり来たりという生活だった。その間、名古屋での就活では、NDLの上司からの紹介により、当時、県立図書館長にお会いしたところ、市内のT女子短大の図書館の話が持ち上がった。翌年の四月採用ということであったのだが、なんと出産予定日が八月とわかり、この話は、半分諦めかけていた。それでも、短大の面接に出かけ、実情を話した。が、すんなり、決まったのである。
 その年の三月三一日までNDLに出勤し、翌四月一日には名古屋の短大図書館に出勤していた。短大での同僚の女性二人は年下で、短大の卒業生で、司書資格を持っていた。彼女たちに、私の八月出産のことは「聞いていない!」と言われたときはショックであった。短大の先生たちの産休には、もちろん先例はあったが、職員は初めてだという。当時は産前産後の休暇は6週間であった。ともかく、6週間前まで務め、夏休みを挟み、産後は診断書をもらい2週間延長して8週間の休暇をもらった。教員が主力の労働組合であったが、アドバイスももらったが、代替要員などについては、事務局も応じることはなかった。
 何しろ、その短大図書館は、当時、図書購入費が2000万円を越える規模で、全国の短大でもトップクラスであった。大部分が研究図書費で、多くは研究室に別置され、図書館で利用できる図書が極端に少なかった。副学長、館長を含む教員たちによる図書館委員会では、研修の必要性を説き、地元の短大図書館協議会はじめ、全国短大図書館協議会の研修会、全国図書館大会ほかいくつかの研修会には、職員三人が交代で参加できるようにし、図書館職員の「出張」が認められるようになった。図書館業務にも機械化が進み、その研修などにも追われた。徐々に学生が利用できる雑誌を増やし、図書も増やし、研修、ニュースの発行なども重なると、今度は人員が足りなくなる。アルバイト1人、2人と増えたが、やはり正職員が欲しかった。その後、男子職員も入ったが、県立高校長を退職した上司を迎えるはめになった。 
 名古屋に転職した翌年、お世話になった県立図書館長から、それまで兼任されていた愛知学院大学司書講習会講師の話をいただいた。「参考書誌演習」という科目(2単位ながら1日4コマ1週間)を10年間担当していた。講習会は、夏の休暇を中心に展開されるので、一週間とはいえ、娘の保育園・小学校時代と重なるので、苦労も多かった。「教える」ことはまさに学ぶことでもあって、苦しいこともあったが、楽しさもあった。毎年200人前後の受講生を相手に、概論の後、少人数のグループごとに演習課題を課し、発表してもらい、講評するという手順だった。テキストの作成と補充、演習課題は、毎年少しづつ新しいものに変えていくのは、短大の仕事とは違う楽しさもあり、名古屋を離れるまで、ちょうど十年にわたっての仕事となった。いまのようなネット社会が来るとは思わなかったが、現在も「演習」は形を変えて残っているようで、愛知学院大学の司書講習会は120人規模で健在であった。

千葉の新設大学図書館に
 名古屋弁も聞きなれた10年後には、連れ合いの東京への転任が決まった。仕事を手離したくなかった私は、またもや就活である。こちらも若くはなかったが、続けるとしたら、やはり図書館しかないと、思いつめていた。結局、『図書館雑誌』の求人欄に応募して、都内の私立大学の図書館の非常勤職員として、四月半ばから勤めることになっていた。名古屋から千葉県の仮住まいに転居し、引っ越し荷物の整理のさなか、まったくの前触れもなく、千葉県に新設されたばかりの大学のN図書館長という人の訪問を受けた。いま職員は二人いるが、図書館業務の経験のある人を探しているというのである。ある国立大学で助手を務めていた友人の上司にあたる教授から当方のことを聞いたという。希望するならば、正職員として採用の予定だから、大学の理事長に会って欲しいと。二日後には、面接を受けて、前職直近の給与、図書館は土曜も開館するが、週休二日でという条件を出してみたところ、即決してしまったのである。N図書館長は、後から伺うと、NDLからある研究所に転職、定年まで勤められ、新設大学の教授となった方だった。その新設大学は、中・高等学校を含む学園の創業者の発言力が強いことがわかった。図書館が発行する「図書館だより」の中身までチェックされるようになり、仕事が増えても、増員は非正規でしか補われなかった。


 結局、六年余りで、早期退職し、進学の道を選ぶことになる。振り返れば、どの場面の就活でも、なんと多くの方々にお世話になったことかと感慨深い。きちんとした謝意を伝えられたのか、期待に応えた仕事ができたのかも心細い。そして、支えてくれた家族にも。考えてみると、四つの職場を渡り歩いた三十年余りの半端な職業生活ではあったが、いまの暮らしや考え方に大きな影響を受けていることは確かなようである。
 ネットを見れば転職サイト、テレビでも転職を進めるCMも多い時代である。いまの若い人の「転職」の考え方も知りたい。とくに女性は働きやすくなったのか、女性が非正規という働き方の受け皿になっていないのか、転職が「正解」なのか、転職するしかなかったのか。就活スーツの女性を見ると「就活」頑張ってね!「転職」して大丈夫?と声をかけたくなるのだが。

 

 

 

 

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