2024年9月15日 (日)

いい加減にしてよ、自民党総裁選報道

 9月13日、自民党の総裁選が始まり、9人が立候補した。今回は、告示前から立候補表明、立候補の意向を示す人たちの発言や20人の推薦人の有無などが取りざたされた。連日の新聞やテレビのワイド番組、週刊誌などのはしゃぎようにはうんざりするほどだった。いわば自民党への注目度や関心を高めようという意図はあきらかで、自民党にジャックされたようなものだ。選挙までの二週間近い間、こんな状況が続くのだろう。これって、報道機関の中立公正なんて、どこかへ飛んで行ってしまっているのではないか。いまのところ将来の総理候補ということで国民の関心は若干あるかもしれないが、所詮、自民党内の総裁選びであって、国民に選挙権があるわけではない。

 どの候補も、根拠や具体的な施策を示すわけでもなく、政治改革、経済成長、所得倍増、世界をリードする、増税ゼロなどと言われてみても、絵に描いた餅、絵空ごとにすぎない。それに、妙な笑顔や強い口調で訴える振る舞いは、かつて務めていた大臣や幹事長時代のぼそぼそとした言語・意味不明なことも多い発言を思い出し、その落差に笑いたくもなる。これで、自民党の支持率が上がるとしたら、国民はなめられていることになる。

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9月14日、日本記者クラブでの候補者討論会・・・

それでは、立憲の代表選はどうかというと、これまた、情けないことに、昔の人が立候補したことである。すでに勢いを失った維新の会に秋波を送る候補者もいる。支持率が低迷するわけである。公明党は代表が代わるというけれど、ここも高齢化は否応なしで、近くの市議も嘆いていたっけ。共産党も、トップが女性にはなったけれど、幹部が男性ばかりで、元職が出ずっぱりなのはどうしたわけか、党員も機関誌購読者も減る一方らしい。

いったい私はどうしたらいいんだろう。世論調査でも、支持政党なしが、自民党支持よりはるかに多く、回答者の半数に迫っているのがよくわかる。

 

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庭のヤマボウシの枝は二階のベランダを超す勢いで、紅い実を沢山つけた。つけては落とすので、掃き寄せるのが大変。

 

 

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2024年9月 4日 (水)

台風はどこへ~「短歌と勲章~通過点としての<歌会始>」と題して話しました。(2)文化勲章への道~国家的褒章はだれが選考するのか

 歌会始選者を国家的褒章の一つであることから、さらに、その上の褒章制度とされる紫綬褒章や日本芸術院会員、文化勲章の受章者はどのように選考されるのか。歌会始選者への通過点とも思われる芸術選奨がどのように選考されるのか。そこに共通するのは、究極的には、ときの政権によって決められているという実態に着目した。受章者、選ばれた人たちを報道するメディアは、一様にその名誉や権威を称え、どんな選ばれ方をしたかについては触れることはない。選ばれた人たち自身の対応といえば、なぜ選ばれたかと謙遜の弁とともに光栄であるとよろこびの言葉が語られ、それを伝えるのがメディアである。

 芸術選奨: 11の部門別に文科大臣任命による選考審査委員と推薦委員を設置。「文学部門」の選考審査委員7人の内1人が歌人、推薦委員10人の内2人が歌人という構成である。ここにも、資料②にあるように、受賞者が後に推薦委員になり、選考審査委員になるというコースが出来上がりつつあり、固定化、閉鎖的な選考システムであることがわかる。毎年2月末日前後に委員名と前年の業績を対象に受賞者・授賞理由が公表される。

 紫綬褒章: ほかの分野の褒章とともに、科学技術分野、学術・スポーツ・芸術文化分野で業績のあった人たちを対象に、毎年4月29日と11月3日に受章者が公表される。しかし、この褒章制度の根拠法は、新憲法下には存在せず、1955年、なんと1881年明治14年の太政官布告第63号「褒章条例」を持ち出すという離れ業で復活させたものである。形式上も推薦委員会すらもなく、各省庁や自治体などの推薦により、内閣賞勲局との協議で閣議決定される、官制の、官僚による褒章であることがわかる。国民は、受章者ですら、明治初期の太政官布告に拠るものだとはよもや思わないであろう。

 文化勲章:文化勲章を受章するには、原則として、文化功労者選考分科会によって文化功労者になっていなければならない。その文化功労者選考分科会の委員は文科大臣の任命により毎年9月初旬に公表される。

 昨年の9月下旬、委員の名前を知りたくて官報を検索するが、見出せず、文科省に9月何日のどのページに載っているかを問い合わせた。翌日の回答では「9月2日に委員は任命されているが、官報に載せるのを忘れました」という。そんなことがあるのかと一瞬驚いた。さらに、数年前までは文科省のホームページに委員名は公表されていたはずだが、近頃載せないのですか、と尋ねたところ、「文化功労者選考分科会は、一年に1回しか開催されないので、委員の先生方の名前をホームページで永らく公表しているのはいかがと思いまして」との返事に、また驚いたのである。ホームページに載せない理由もさることながら、9月に任命されて、1回の会議で、11月3日の授賞式に間に合わせていることになる。ということは、文化功労者と文化勲章は、文科省によりすでに受章者は決まっていて、選考分科会は、そのリストを承認するだけではないのかと、推測されるのだった。

 そして、この推測を裏付けるような記事を見出したのはつい最近である。前川喜平元文科省次官のインタビュー記事につぎのような個所があって、私の推測は確信に替わったのである。次官当時、文科大臣が任命するはずの文化功労者選考分科会委員10人のリストを杉田和博官房副長官のところに持っていくと、「この2名を外せ、政権批判をメディアでしていた、こんな人を選んではダメ、ちゃんとしらべてくるように」との発言で、差し替えさせられた、という(「前川喜平元次官が語る 官邸人事・不当と違法の分かれ目は」朝日新聞デジタル 2020年10月28日)。官邸の介入も明らかになったのである。

 上記いずれの場合も、最終決定は閣議であり、その過程でも、省庁、政権の選考介入があるのは間違いない。それをかくも有難くいただく人たち、何も文化勲章などもらわなくとも、と思うような人たちのよろこびの声を聞くのは、ちょっと情けなくもなる。

 なお、当日、時間が少しでもあったら、触れたいと思ったのが、メディアで活躍する有識者、評論家、コメンテイターと呼ばれる人たち、しかもリベラルと思われる人たちの天皇制への傾斜が顕著になってきたことである。

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 以下は、15分ほどで話したことの要旨である。具体的な人名とその発言内容を紹介したかったのである。資料④は、人名と発言の出典を示した。

金子勝(1952~):マルクス経済学者の金子は、2018年の(明仁)天皇の誕生日会見で、「天皇陛下は声を震わせて」、沖縄に人びとの苦難の歴史に触れて、その犠牲に心を寄せ続けていくとの発言を紹介した後、「アベは聞いているのか?」とツイートして、天皇の言葉を評価した。

内田樹(1950~):「天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること」に「さらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむ者の慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです」と明仁天皇を評価する。

金子兜太(1919年~2018年):戦後の前衛俳句運動の理論家でもあった俳人、金子は『東京新聞』連載の「平和の俳句」【2016年4月29日】の入選作「老陛下平和を願い幾旅路」の短評に「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」 「アベ政治を許さない」というプラカード揮毫者でもある。自身、激戦務める。2003年日本芸術院会員、2008年文化功労者となる。

水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る(『少年』、1955年)

望月衣塑子(1975~):東京新聞社会部の気鋭の記者である望月は、作家の島田雅彦との対談の中で、コロナ禍でこそ、天皇や皇后のメッセージが欲しい、と天皇・皇后へ賛美と期待を寄せている(「皇后陛下が立ち上がる時」『波』2020年5月)

木村草太(1980~):気鋭の憲法学者は「そもそも天皇制自体、憲法の立て付けとして少しおかしい」としながら、天皇制の積極的な意義として「政治の場に品格や公共性を示すことができる」として、天皇の前での醜い争いができなくなる、というが、例えば国会議員や閣僚が品格や公共性を示しているとは到底思えないし、天皇が、醜い争いの抑止力にもなっていないのが現状ではないか。

長谷部恭男(1956~)2015年6月衆議院憲法審査会において、自民・公明などの推薦の参考人として、集団的自衛権の違憲を表明して話題になった憲法学者だが、天皇制について、日本国憲法は身分制秩序の破壊を「大部分は貫徹したが、最後に天皇制という身分制の飛び地を残し」たとして、天皇制を容認している。

 時間もないので、河西秀哉、落合恵子、高橋源一郎を端折り、最後に、加藤陽子(1960~)、上野千鶴子(1948~)に触れた。加藤は、「前(明仁)天皇は『原子力発電所の状況が予断を許さぬ』と言い切り、「この人は危機のときに本当のことを言ってくれるはずという人々の信頼に応えた。」という形で親天皇制を示す。上野は、その加藤の研究者としての評価を「(加藤さんは)前天皇の信任が厚く、何度もご進講に招かれています」と語り、あたかも「ご進講」が研究者のステイタスかのようにも聞こえる。

 こうした発言がメディアで繰り返されることによって醸成された雰囲気の中で、国民は、天皇や皇族たちとの距離を縮めたかのような、天皇制へちかしく傾き、一種の思考停止に陥ってしまっているのではないか。

 このような言説をどう乗り越えるのかが今後の私たちの課題かと思う。乗り越えるべき壁は高くて厚い。「無駄な抵抗」と言わせないために、小さな穴でもあけたいと思う。亡くなられた関千枝子さんのお誘いで原告になったものの、傍聴にも集会にも出ずしまいであったが、今後は少しでも、参加できたらと思う、と結んだが、今後の活動は体力勝負になるだろう。

 私の話の後、弁護士の方から、第一審判決までの流れと控訴審にあたっての争点などが話されたが、とくに裁判経過がややこしい。

 夜の開催、台風の行方が分からずじまいであったが、50人の方が参加された由。まずはほっとし、早く宿へといそぐ。家から持ち込んだいなりずしとフルーツ、夫は、部屋の近くの自動販売機でビールとおつまみを買い、ともどもお疲れさまでしたの乾杯と反省会になった。

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予約のとき、「皇居の見えない部屋ならあります」とのこと。KKRホテル東京、最上階15階から丸の内方面をのぞむ。夜の高速道路の車列の灯りもきれいだった。朝食をとった12階のレストランからは、皇居が望めたが、のぞいてどうする?

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2024年9月 3日 (火)

台風はどこへ~「短歌と勲章~通過点としての<歌会始>」と題して話しました。(1)

 8月15日、当ブログでお知らせしましたように、以下の集会で、上記の題で話をしました。以下、歴史的人物は別にして、人名には自然に「さん」付けとなったが、ここでは敬称は省略している。

なぜ私たちは天皇制に反対しているのか 
即大訴訟控訴審に向けて831集会
2024
831日(土)18時~/文京区民センター2A
講演:内野光子「短歌と勲章~<歌会始>という通過点」
主催・即位・大嘗祭違憲訴訟の会
詳細は:ダウンロード - img175.pdf

 台風10号の進路がなかなか定まらず、関東も、いつどこで遠隔豪雨や雷雨に見舞われるかもしれない状況の中で、主催者も迷われたとのこと、私も心配だったが、実施となり、交通機関も平常通りであった。

 多くの方の前で話すのが、いつまでたっても苦手なので、レジュメや資料の他に読み上げ原稿も持参したが、斜め左の壁時計を見ながら、かなり端折りながらの1時間であった。

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短歌と勲章~「歌会始」選者という通過点      内野光子

1.歌会始選者への道、その閉鎖的な世界
1)コースのパターン化
2)長期化・固定的
3)結社の偏向、私物化 
4)前衛?リベラル派?からの変節・転向

2.文化勲章への道~国家的褒章はだれが選考するのか
1)芸術選奨の場合
2)紫綬褒章・文化勲章の場合

3.“リベラル派” 識者・論者の天皇制への傾斜
資料① 近年の歌会始選者たちの国家的褒章受賞歴
資料② 近年の芸術選奨(文学部門)の歌人の選考審査委員・推薦委員一覧
資料③ 受章者はどのように決まるのか
資料④ リベラルな?人たちの発言典拠一覧
資料⑤ 引用短歌一覧

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「1.歌会始選者への道、その閉鎖的な世界」では、 資料①②を使いながら、歌会始選者の近年の傾向、特色を説明した。資料①から明らかなように、選者に就くコースがパターン化している。「芸術選奨⇒歌会始選者⇒紫綬褒章」のコースをたどるのが永田和宏、三枝昂之、内藤明、栗木京子。また以下の三人は、いきなり歌会始選者にピックアップされたが、つぎのような縁故があったことは無視できないだろう。永田和宏の妻であった故河野裕子、三枝昂之の妻ある今野寿美、岡井隆の「未来」の後継者となった大辻隆弘である。

つぎに長期化の例としては、木俣修24年間、岡野弘彦29年間、岡井隆21年間、世代がかわっても、現役の永田が20年間、三枝が16年間で、当分辞めそうにもない。内藤明は12年間務めて来年から栗木京子に替わっている。なぜ長期になるのか。栄誉や権威が伴うとされ、執筆・講演・短歌大会や新聞雑誌歌壇選者などの依頼が多くなり、属する結社の会員獲得にも一役担うなどの現実的な利益も享受できるからではないか。

選者は五人、来年を例にすれば、三枝・今野夫妻は同じ「りとむ」の発行人、編集人であり、永田・栗木は、同じ「塔」の選者であり、大辻は、「塔」と同じアララギ系の「未来」の代表・理事長である。現在、結社の主張の違いや特色はすでに薄れてはいるものの、この偏り方はやはり異常であり、長期化、固定化、私物化の傾向と重なる。

資料①近年の歌会始選者たちの国家的褒章受賞歴
ダウンロード - e8b387e696991.pdf

資料②近年の芸術選奨(文学部門)の歌人の選考審査委員・推薦委員・受賞者一覧 
ダウンロード - e8b387e69699e291a1.pdf

「1-4)前衛?リベラル派?からの変節・転向」については、資料⑤で、選者・作品に即して紹介した。塚本、穂村、斉藤の作品は、歌会始選者ではないが、 天皇を詠んだ歌として参考までにあげた。塚本は後、紫綬褒章を受章、斉藤には歌会始選者にと声がかかったら「ぼくも行くかも」の発言がある(『短歌人』2016年11月)。

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資料⑤ 引用短歌一覧

塚本邦雄(1920~2005
・日本脱出したし 皇帝ペンギンもペンギン飼育係りも
(『日本人霊歌』1958年)

岡井隆(1928~2020
・また一歩ジャーナリズムは右へ寄る 読み捨てて出づあつき靴履き
(『斉唱』1956年)
・天皇の居ぬ日本を唾(つばき)ためて想う、朝刊読みちらしつつ
(『土地よ、痛みを負え』1961年)
・皇(すめら)また皇(すめらぎ)といふ暗黒が杉の間に低くわらへる
(人生の視える場所 1982年)

三枝昂之(1944~)
・檄文にちかき言葉を書きつのる冬の真昼の樫よりかたく
 (
『若き志士達の世界へ』1973)
・サーチライトがわれをよぎりゆきわが影がはいつくばっている 祖国
(同上)

永田和宏(1947~)
〈特定秘密保護法案、衆議院で強行採決、1126
・だれもまだ怖さを実感してゐないその間にこそ機はあるらしも
(『置行掘』2021年)
・不時着と言ひ替へられて海さむし言葉の危機が時代の危機に
(同上)
・権力にはきつと容易く屈するだらう弱きわれゆゑいま発言す
(「現代短歌」 2015年1月)
(安保法制反対の学者の会の呼びかけ人コメント6首のうちの1首)

栗木京子(1954~)
・観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生
(『水惑星』1974年)
・観覧車ゆふべの空をめぐりをりこれからかなふ望み灯して
(歌会始「望」2020年、召人)

大辻隆弘1960~)
・冷ややけき床のおもてに膝を折り手を延べまししことも偲はゆ
(『橡と石垣』2024年)
・皇室は短歌(うた)の強味であることをわれは書きたりはつか怯えて(同上)
・天皇を嗚咽せしめし感情を推しはかりつつ涙してをり(同上)

穂村弘(1962~)
・ゴージャスな背もたれから背を数センチ浮かせ続ける天皇陛下
(『短歌往来』20102月)

吉川宏志(1969~)
・天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ
(『短歌』201110月『燕麦』2012年所収)

斉藤斎藤(1972~)
(国民統合の象徴でいただく為の文化的貢献こそ、われわれ歌人にしか不可能な、超政治的貢献である〉
・つまりなるべくしずかに座っててください 察しますから、察しますから
(『短歌研究』20211月)

*赤字の短歌は、当日の資料には書き洩らしてるが、ぜひ伝えたかった作品である。

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 岡井隆は、塚本邦雄、寺山修司らと前衛歌人と称されていたが、1960年、当時の現代歌人協会が歌会始入選者の祝賀会を開催したことに強く抗議し、メディアの歌会始報道と選者たちを批判していた。ところが1993年、昭和天皇没後のはじめての歌会始の選者となった。当時の歌壇にはまだ批判する歌人も多く、特集など組むメディアもあった。岡井自身は、歌会始は、最大ではあるが、一般の短歌コンクールの一つだから、特別な思いはないとか、いまや体制も反体制も死語になったとか弁明しつつ二重橋を渡った。しかし晩年には、歌会始批判は若気の至りであったとし、人間は変わるから成長するとも語っていたが、なんとも身勝手な、無節操な、と私には思われた。

 三枝昂之は、1960年代後半、早稲田大学の学園闘争の活動家で、第一歌集は革命的ロマンティムズの歌とも称されていたが、後に日常的な作風に替わった。評論も多いが代表作『昭和短歌の精神史』(2005年)では、戦争期・占領期をひとくくりにする視点から、その二つの時代に活躍した歌人たちにむけて「あの時代を苦しくも誠実に担った人々への、60年後の鎮魂の書である」と結んでいる。これって、戦時期の翼賛、占領期の無抵抗の歌人たちの責任をなかったこととするに等しいのではと考え、書評を書いたこともある。

 永田和宏は、変節というより、親天皇(制)を全うしながら、政権批判をしていることになり、それぞれの場での短歌の評価に矛盾はないのか、ダブルスタンダードの典型的な例かもしれない。2015年から歌会始選者となった今野寿美が、2016年から「しんぶん赤旗」歌壇の選者を二年間務めたことと共通するものがある。

 来年から選者になる栗木京子の観覧車の歌は、若い人ならだれでも知っている有名な歌である。というのも、中学校の国語教科書すべてに、与謝野晶子、石川啄木、斎藤茂吉たちの歌と並んで教材として収録されているからである。2020年召人として詠んだ歌は、自らの歌の「本歌取り」といえる。ずいぶんとサービス精神に富んだものというのが感想であった。数年前、お笑い芸人たちに短歌を競わせ、栗木が一刀両断で勝負を決めるというNHKの短歌番組が続いていた。栗木がそこまでするのかと、どこか痛々しく見えてしまったのだが、その芸人の一人が、松本人志のセクハラに加担したとして、活動を停止している。あの番組はどうなったのか。

 大辻隆弘は、2019年2月の朝日新聞の歌壇時評「短歌と天皇制」において、戦後短歌は天皇制への反省からスタートしたが、今や天皇制アレルギーはなくなった、という。岡井の弁明を想起するが、資料⑤の三首以外にも多くの類歌を2024年3月に出版した歌集『橡と石垣』に収められている。

<参考過去記事>
来年の歌会始の選者が決った~やっぱり栗木京子も(20247 2日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/07/post-b0fbd5.html

来年の「歌会始」はどうなるのだろう(20233 9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/03/post-74140a.html

「短歌と天皇制」(217日『朝日新聞』「歌壇時評」をめぐって(1)~(4)(2019225日~35日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/210-9ef9.html
(1)以下URL省略

 

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2024年8月27日 (火)

「大塚金之助の短歌と天皇制」を書きました―『大塚会会報』最終号!

・人間が 神になったり その神が 人間になる 国なのである

・君のしずかな 態度の底に 暴力を ひそませているのを 見のがしはしない
(『日本評論』25巻1号 1950年1月)

 1977年に亡くなられた、経済学者大塚金之助の短歌です。このたび『大塚会会報』最終号(53号 2024年8月)に「大塚金之助の短歌と天皇制」を書きました。

 大塚金之助の一橋大学、明治学院大学、慶應義塾大学の教え子の方々が相寄って「大塚会」を発足、1981年に『大塚会会報』を創刊しています。私は、どの大学ともご縁があったわけではないのですが、「短歌に出会った男たち―大塚金之助」(『風景』57号 1995年7月)を目にとめられた水野昌雄さんのお誘いで、会友として入会いたしました。その後、「大塚金之助の留学詠」(『大塚会会報』40号 2013年8月)などを寄稿しています。武田弘之さんの『群青』に連載中の「歌人・大塚金之助ノート」を読んではいましたが、あまり熱心な読者ではなかったように思います。ただ、「獄窓の歌」に感銘を受け、大塚金之助に関心を持つようになりました。
 会報には、歌人では、武田さん、水野さんのほか、三井修さん、田中綾さんたちが寄稿されていたように思います。今回、大塚会の解散を機に最終号への原稿依頼がありました。締め切りが6月末日ということもあり、短いものを送りましたところ、なんと、8月25日に出来上がって届いたのです。その手際の速さに驚いてしまいました。創刊号より編集をされていた戸塚隆哉さん、長い間、ほんとうにありがとうございました。

 拙稿は、以下で読むことができます。

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2024年8月23日 (金)

対馬丸沈没から80年、私たちは何をしなければならなかったのか

1944年8月22日、那覇から九州に疎開する学童たちを乗せた「対馬丸」は、奄美大島沖を過ぎた悪石島付近で、アメリカの潜水艦により撃沈された。判明した乗船者数は1788人、氏名が判明している方々1484人、その内、学童が783人とされている。

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東京新聞【20024年8月23日】より

 

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対馬丸記念館、展示より。今年は記念館開館20年節目の年。

その内、漁船などに助けられた人、奄美大島に漂着したなどして救助された人たちは、280人に過ぎない。

私は、1944年末ころか、東京の池袋から千葉県佐原にあった母の生家に母と疎開した身である。年月も両親から聞いておかなかったのではっきりしないが、両国駅での列車の混雑ぶりだけが記憶に残っている。疎開船の学童たちとの体験とは、大きく異なるけれど、他人事には思えなかった。

2016年、遅ればせながら、6月23日の慰霊の日の式典に参列した折、対馬丸記念館を訪ねることができた。壁いっぱいの亡くなった方々の遺影、多くの幼いあどけない遺影に、胸が痛む思いだった。生き残った方々の悲痛な声や映像や文字に苛まれるのだった。

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遺影と遺品の展示室にて。

今年も「小桜の塔」の前での追悼式が開かれたとの報道である。それに合わせたものなのか、内閣府は来年度、沈んだままの対馬丸の船体の再調査を来年度予算に計上したという。船体は、すでに1997年水深約870メートル海底で発見されていて、当時、生存者や遺族が引き上げを要請したが政府は、船体の強度などを理由になされなかった。が、今回、内閣府は、平和学習や戦争の記憶の継承にも役立つとして、遺品の収集などを目指すというが、何を今さら、80年も経ってぬけぬけと・・・。

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対馬丸記念館に隣接した旭丘公園内にある小桜の塔、向かって右側が対馬丸の犠牲者、左側にその他に船の犠牲者名が刻まれていた。今年の8月22日いは約400名の方々が参列したという。塔建立70年になる。

 

以下の過去記事もご覧ください。

2016年7月16日
ふたたびの沖縄、慰霊の日の摩文仁へ(2)「対馬丸記念館」~なぜ助けられなかったのか: 内野光子のブログ (cocolog-nifty.com)

 

 

 

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2024年8月15日 (木)

『トビウオのぼうやはびょうきです』を読んでいた頃 ~被曝と核戦争の恐怖は今も続く~

 この猛暑で、物置の片付けや書棚の整理も中断しているが、探し物をしていたら、娘の保育園時代の絵本が少しまとまって出てきた。あった!『トビウオのぼうやはびょうきです』(いぬいとみこ作 津田櫓冬絵 金の星社 1982年7月)。読み聞かせていて、いつも最後の方で、声をつまらせてしまうのだった。娘は覚えているだろうか。

 1954年3月1日、赤道に近いビキニ環礁で水爆実験がなされた。近くで操業中のマグロ漁船「第五福竜丸」が「死の灰」を浴びてしまったのである。絵本は、その水爆実験近くの海に住んでいたトビウオの母と子の悲劇である。

 おとうさんトビウオが仕事に出たまま帰らず、海に広がった何かを浴びて、子どものトビウオが日に日に弱っていくのをお母さんトビウオは必死になおそうとするががかなわず、絵本は「たすけて やれる ひとは いないでしょうか」で結ばれる。

 焼津に帰港した「第五福竜丸」の漁師たちは、入院、治療を受けたが、その内の一人久保山愛吉さんは40歳で、その年の9月亡くなってしまう。アメリカの広島、長崎への原爆投下に続く、水爆実験による被害だった。

 その後も、日本では、東日本大震災時に福島原発が爆発、いまだにその処理ができていないなか、各地の原発の再稼働が進み、世界では核戦争の恐怖にさらされている。

 広島、長崎での岸田総理は、コピペのような挨拶をする。長崎の式典に、イスラエル大使を招ばないからと、アメリカはじめG7各国は大使の参列を拒むという。原爆を落とし、日本の各地を空爆したアメリカは何ひとつ責任をとらぬままの79年であった。

 たまたま覗いた朝ドラの「虎に翼」8月14日は、主人公の裁判官が、原爆被害者がアメリカではなく、日本国を訴える裁判に関わる場面であった。屈辱的な「日米平和条約」が発効してから二年後の1954年の設定だろうか。8月15日ドラマは、どのような展開になるのか。

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左側の文章は:「おかあちゃん。ぼくね、とても あたまが いたいの」
ある 日、トビウオの ぼうやが、いいだしました。
ぼうやの からだには ぶつぶつが
 できて、目はにごり、まもなく うわごとを いうように なりました。
「あっ、あの 夕焼け、こわいよう、 こわいよう!」「ねえ、おとうちゃんは、いつ かえって くるの?」
「あたまが いたい!いたいんだよう!」

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こんな絵本も出てきました。『ちいちゃんのかげおくり』(あまんきみこ作 上野紀子絵 あかね書房 1982年7月、1983年6月5刷)。左上の丸いシールには、「第29回青少年読書感想文全国コンクール課題図書」となっています。

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2024年8月10日 (土)

8月8日は何の日だったか、2016年のこと、忘れはしません。

 8月6日と8月9日、広島と長崎に原爆が落とされた日の間の8月8日しか選択肢がなかったという。明仁天皇が生前退位を表明するビデオメッセージが放映された日である。

 明仁天皇にも忘れてはならない日が四つあるとか。私にも忘れられない日はいくつかあるが、近々では、親の命日を忘れて過ごしてしまうことはあっても、この8月8日は忘れることができない。

 というのも、あの日から、天皇制に関する世の中の風向きがかわってきたようにも思えるからである。その約一カ月前の7月13日の夜7時のNHKニュースで、唐突に生前退位の「お気持ち」報道がなされたのである。どこからのリークだったのか、頃合いを見ての報道であったのか、なんともきな臭い生前退位表明であった。当初はこの報道を否定していた宮内庁サイドであったが。

 私は、現憲法下で、天皇自らが生前退位の意思表明ができるのか否かが疑問であった。メッセージの中身といえば、加齢によりしくじることもままあり、公務が負担になったこと、昭和天皇から代替わりのときに生じた社会のさまざまな混乱を避けたい、といったことが語られた。本来「公務」というならば、国事行為だけのはずが、平成期の天皇は皇后をともないながら「公的行為」という曖昧な領域における活動を盛んに行ってきたのである。昭和天皇から引き継いだ国民体育大会・植樹祭・豊かな海づくり大会などの行事にとどまらず、戦没者慰霊、災害地訪問、福祉施設訪問などを積極的に増やし、誕生日、外国訪問、さまざまな行事の際の記者会見や「おことば」の発信という場も拡大してきたのは、天皇自身の意向ではなかったのか。

 明仁天皇は、たしかに、昭和天皇の1988年の「下血報道」や様々な場での「自粛」の横行を目の当たりにしていたので、あの「騒動」はやりきれない、という思いは理解できる。しかし、自ら拡大してきた「公務」が負担になったからというのは、私には腑に落ちなかった。

 一方、世間では「長い間、ご苦労様でした。ゆっくりお休みください」と理解を示した。同時に、政治の世界では、2016年9月「天皇の公務負担軽減などに関する有識者会議」という諮問機関が立ち上げられ、2017年4月21日最終報告書がまとめられた。政府、国会では「静かな環境のなかで」天皇退位特例法が審議され、参院全会一致で、2017年6月9日成立、天皇の終身制は不動とし、一代限りの退位容認となった。

 2019年5月1日、新天皇即位日程を挟んで、長い間、明仁天皇夫妻への国民に寄り添う発言や振る舞いへの讃美報道や記事が続いた。そして、平成を語るのに天皇夫妻の短歌まで動員して情緒的なヒストリーが作り上げられていったのである。

 そして、代替わりに伴う諸儀式をさまざまな映像で見る限り、「日本国民統合の象徴である」天皇がなすべき行為であったのか、「主権の存する国民の総意に基く」地位にある天皇がなす行為であったのか、はなはだ疑問である。神話にもとづく儀式であったり、伝統儀式といっても、長い歴史の中で、定着しているはずもない手続きであったり、まず法律的な根拠もない中で、皇室や国民の日常とはまったくかけ離れた束帯や十二単姿で歩む映像は異様であった。天皇を仰ぎ見て、首相や招かれた人たちが万歳三唱する姿は、平等や国民主権にも悖り、滑稽にも思われた。

 即位・大嘗祭違憲訴訟の原告でありながら、集会や傍聴にも参加できないまま、このたび、控訴をひかえた集会に是非ということで、話をすることになった。まずは体調管理につとめないと・・・。

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なぜ私たちは天皇制に反対しているのか 
即大訴訟控訴審に向けて8・31集会

202年8月31日(土)18時~
文京区民センター2A

講演:内野光子「短歌と勲章~<歌会始>という通過点」

主催・即位・大嘗祭違憲訴訟の会

詳細は下記をご覧ください

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2024年8月 7日 (水)

<緊張感をもって注視する>って、だれもが言うけど~。

 株価の乱高下が著しい、この数日、証券会社や銀行のアナリストたち、ものものしいカタカナの肩書を持った人たち、「緊張感をもって注視する」としか言いようがないのだったら、そのデータと経過を語るべきだろう。しかし、首相や財務相、日銀総裁が「緊張感をもって注視する」とだけ言っていて足りるのだろうか。

 経済人も含めて、賃上げができた、ボーナスが上がったと経済政策が実ったかのような発言は、大手企業だけの話ではないか。その大手企業が、もう毎日のように、安全基準を満たさない車だったり、製品だったり、情報の大量漏れ、セクハラ・パワハラだったり、不祥事というより「犯罪行為」がつぎつぎに発覚しているのに、ほとんど安泰なのはどうしてか。

 政治家や各省庁、自治体などでも、言うに及ばず、「犯罪行為」が“発覚”してから慌てて<緊張感をもって注視する><説明責任を問う>と言ってしまえば何をしなくてもいいかのように凌いでいる。当事者であれば、早々<謝罪>して、<今の職務を全うしなければ>と開き直る。「あんな人たち」があっちにもこっちにもいるではないか。

 私たちは、毎日の暮らしの中で「緊張感をもって注視」してばかりいられないのである。

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一時の不安は嘘のように、わが家の<畑>からは、毎日とは言えないけれど、一日置きくらいに、収穫できるようになりました。大いに助かっています。

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オリンピック、早く終わらないかナァ

 オリンピックの中継はほとんど見たことがない。ニュース番組やワイド番組でたまたま見る程度なのだが、現地に派遣のアナウンサーやレポーターがやたらとはしゃいでいるのと、スタジオの解説者がいい加減だったり、訳知り顔の発言だったりが気になってしまう。嫌いなアナウンサーや解説者のアンケートなるものがネット上で出回っているらしい。

 それに、日本の選手の中には、日本人とのハーフの人もだいぶ多くなってきたのを見ると、国を「背負って」競うオリンピックの意味はもう薄れてきてしまっているのではないか。個人やチームで競うのが、スポーツ本来の姿ではないのか、とも。

 敗れた選手の涙や謝罪が強調される報道の背景には、「国威発揚」の影がちらつく。スポーツは、選手たちも観客たちも、もっと楽しむものではなかったかと。

 そして、“昭和”の人間には、これって、競うべき「スポーツ」なのかと思うような種目もいくつか見受けられ、選手たちの身の安全を、願うばかりなのである。

 選手ファーストは、いつのまにか開催国ファーストになってしまい、セーヌ川を泳がされたトライアスロンの選手たちは気の毒だった。

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「いらっしゃるー」と門扉を開けてのいつもの声に飛び出すと、写真のような野菜いっぱいの袋をいただく。土地を借りて本格的に野菜を育てているHさんから。この夏は、猛暑でインゲンも大きなトマトもまるっきりダメだったと嘆いていました。モロヘイヤはさっそくおひたしにして、ミニトマトときゅうりはサラダにして夕飯のお供にしました。きゅうりは、写っている以外にも太ったり曲がったりのものも何本かあって、漬物にしたり、ジャンボピーマン?と炒め物にしたりしていますが、まだ野菜室に残っています。ごちそうさまです。

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2024年8月 1日 (木)

国立女性教育会館、改編、存続決まる

 昨年12月、埼玉県嵐山町にある「国立女性教育会館」の閉鎖方針が文科省・内閣府より示された。そのニュースを聞いた時は、私もいささか戸惑った。国立女性教育会館は、1977年、国立婦人教育会館として発足(2001年1月に「婦人」を「女性」に変更、2001年4月に独立行政法人となる)、全国の自治体や市民団体による女性の地位向上、男女平等の普及活動の中心的な役割を担い、女性関係資料のアーカイブの充実にも寄与してきたはずなのに、なぜ?と思ったのである。それに、私は、戦後短歌史をジェンダーの視点からたどってみようという小さな研究会のメンバーとして、国立女性教育会館の「女性学・ジェンダー研究フォーラム」1998年・99年に参加、その熱気に圧倒されたという思い出がある。さらに翌2000年には、会館主催の研修会に”講師”として招ばれもしたという縁もあったのである。詳しくは、過去の関連記事をご覧ください。

嵐山の女性教育会館が閉鎖?!これまでの実績を思う(2024年1月16日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2024/01/post-61eb52.html

 その会館の閉鎖方針の行方が心配であったが、きのう7月31日「埼玉の嵐山町に女性活躍司令塔 組織改編、移転せず」という見出しの小さな記事があった(『東京新聞』7月31日)。「見出し」だけでは、はっきりしなかったが、埼玉県、嵐山町の強い要望もあって、移転、閉鎖の方針を転換し、全国約360ある男女共同参画センターと連携、活動の支援強化をすることになったらしい。

 あたらしい方針によれば、女性教育会館が行ってきた研修、調査研究、関係機関の連携促進など事業内容の高度化を図り、必要な機能を本館に集約し、老朽化した宿泊棟、体育施設などは2030年度までに撤去を目指す、という(『埼玉新聞』7月31日)。

 私も泊ったことがある、160室もある宿泊棟、研修施設を目指すなら新しい宿泊施設は当然必要だろうし、あの広大な緑豊かな敷地も大切にしてほしいと思う。存続が決まって、ほっとしたところだが、これからの動向を注視していきたい。

 

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5月末、夫は、急に思い立って、庭の隅を掘り起こし、トマトやナスの苗を植えた。それからは、毎日、天気予報を欠かさず見て、水やりやとぎ汁、畝にビニールをかぶせたりと、丹精込めて育ててきた。これまでも、一つ二つとれてはいたが、この日、ようやく大量の?収穫にこぎつけた。さっそくナスと牛肉を素揚げして、南蛮漬けにしてみた。トマトは、これからも毎日とれそうで、サラダにできると楽しみにしている。

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«きのうのNHK「日曜美術館」は「香月泰男」だった