2017年2月27日 (月)

オスプレイ、千葉の空にもやって来た

 穏やかな日曜の午後だったが、地元の9条の会で、ユーカリが丘駅頭でチラシを撒く宣伝を行い、参加した。参加者11人、1時間で、何枚撒けたのだろう。私は、北口で10枚、南口で15枚ほど、手渡すことができた。

 千葉県木更津市の自衛隊基地に、この1月から米軍のオスプレイの整備拠点が置かれ、すでに房総の空を飛んでいる。昨年12月13日、沖縄県名護市海岸に墜落した、あのMV22オスプレイである。 空中給油中に、プロペラがホースを切断したとか、12月19日には、飛行を再開、日本政府は、原因究明も情報公開もできずに、早々と容認した。佐倉の空に、いつ飛んでくるのか、墜落するか、わからないのだ。25メートルプールに納まらないほどの巨体、製作試乗中に30人もの死者を出し、本格飛行後も各地で事故が続発、8人もの死者が出し、負傷者は数知れない。事故率の高い、このオスプレイを、自衛隊も17機の購入を決めている。

 このオスプレイのなにが問題、何が危険なのか、知らなければならない、と今回の学習会を企画した。近くにお住まいの方は、ぜひご参加してみてください。

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 なぜ房総の空に飛行が集中するのか

 以下は、民間機の話だが。

 先日、千葉市内に所用があって出かけた。新京成千葉寺駅から青葉の森公園手前のハーモニープラザまで、歩いて5・6分の間になんと着陸態勢の低空飛行機が6機も確認できたのである。午後1時過ぎのことである。1分間に1機の割合の上、佐倉で見るよりかなりの低空で、高度は1000mはないだろう。騒音も大きい。羽田空港への着陸機であろう。自宅の佐倉市上空での飛行状況については、このブログでも何回か報告しているが、それでも、佐倉の場合は、北方からに着陸便だけなのだから。千葉市上空となると、西からの着陸便もだから、相当の数になるはずだ。

 というのも、羽田空港の西側の空は、米軍の横須賀、横田基地があるので、米軍の制空権の下で、民間機が飛べないのである。だから、房総半島上空に集中し、羽田空港のハブ化にともない東京区内の低空飛行も問題になっている。

 日本の空が、日本の空ではなくて、米軍機しか飛べないなんていう、理不尽があっていいのだろうか。住宅地の上を避けてコースを変えたり、高度を上げたりしても、根本的な解決にはならない。日本の空を取り戻すためにも、日米安保、地位協定の見直しが迫られているはずなのに、より強固にする?アメリカが、本気で日本を守ってくれるとでも思っているのだろうか。

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2017年2月25日 (土)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(7) 那覇を離れる半日の過ごし方

 いよいよ那覇を離れる。この日の予定は組んでいなかった。あまり慌てることなく、市内を回ることにした。ゆいレールの駅から少し離れているということで、まず、ホテルから直接「識名園」にむかった。琉球王朝の別邸であったという。もちろん、19441010日の空襲で壊滅的な破壊を受けたが、1975年から復元整備が始まり、回遊式庭園で随所に中国風な要素を取り入れているが、池の周囲は、琉球石灰岩で積みまわしている。中心的な「御殿(ウドゥン)」と呼ばれる建物は赤瓦の木造であった。屋内を一回りして縁側で休んでいると、園内の清掃の人の何やら鋭い目つきが気になったので、「こんにちは」と声をかけると、ほっとしたように「中国の人は、平気で土足であがるんですよ」とグループで回っている人たちの足元に目をやった。その庭先には、桜が一本咲きだしていたので、ほかの外国の一団も代わる代わる写真を撮ったり、自撮りをしたりしている人たちがいた。私たちも、近くで一団が去るのを待っていると、先の清掃の人が、二人のところ撮りましょうかと声をかけてくれたのだ。その近くには「育徳泉」という池の水源にもなっている井戸があって、ここでも琉球石灰岩の「相方積み」という石組みが独特の曲線を描いていた。

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池は湧き水で、舟遊びの船着き場

識名園から首里まで車で移動、県庁前から歩いて「福州園」へ向かった。手前の松山公園には、「白梅の乙女たち」像が、その近くの「大典寺」に、沖縄戦で犠牲になった「積徳高女」の生徒らの慰霊碑が、あると聞いていたので、ぜひ、訪ねたかった。立派な碑は、大典寺に入って、すぐ右手にあった。

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 積徳高等女学校は、1918年浄土真宗の大典寺が設立した家政実科女学校としてスタートし、美栄橋に校舎を新築、後、積徳高等女学校と改名、沖縄戦では、学徒看護隊として動員された。なお、この大典寺には、渡嘉敷島のアリラン慰霊のモニュメント建設のきっかけになった、那覇市で孤独死していたぺ・ポンギさんの遺骨が納めらえていたのである、その後、ようやく遺族に返すことができたという

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1944年10月10日の空襲で全焼した松山公園内の県立第二高等女学校、1984年、その跡地に白梅同窓会によってたてられた「白梅の乙女たち」。また、学徒看護隊「白梅隊」、教職員、同窓生の戦没者の慰霊碑「白梅之塔」には、149人が祀られている(1947年に糸満市国吉(山部隊第一野戦病院跡) 

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並びには、県立那覇商業高校があって、甲子園出場で名をはせた記憶はあるが、スポーツの強豪校らしい。賑やかなことであった

松山公園の向かいの「福州園」、夫は一度ならずこの前を通っているのだが、入るのは初めて。ここは、また別世界の趣がある中国風の庭園であった。1991年、那覇市70周年、福州市との姉妹都市提携10周年を記念して作られた。やはり中国からの観光客が多い。滝の前では、中国からの家族に写真撮影を頼まれ、私たちも撮ってもらった。庭園の草木には、丁寧な説明が付されていて、植物園の感もある。この日のランチも少々遅くなったが、福州園の隣のレストランで一息ついた。いよいよ、沖縄の旅も最終盤である。

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 福州園前の松山通りの並木は、「鳳凰樹(ホウオウボク)」とのこと、福州園の受付の人に教えていただいた。昨年6月に来たときは、たしか黄色い花をつけていたように思うのだが。

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この落葉を拾ったのが、識名園だったのか、福州園だったのか定かでないし、何の木の葉だったのだろう

 

  今回の沖縄旅行の二つの目的の一つは、戦跡を少しでも訪ねることであった。もう一つは、2月5日に那覇市内で開かれた「時代の危機に立ち上がる沖縄の短歌」という集会に参加することだった。そちらの報告は次の記事に譲りたい。

 

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2017年2月24日 (金)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(6)

渡嘉敷を半日走り抜けて

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灰谷健次郎(1934~2006)さんの住んでいた家、1991年移住されてきたそうで、別荘のようにも利用されていた由。現在のオーナーは、カフェレストランを開いているが、左手の門には「灰谷健次郎」の表札が残されているまま。私は、娘の教科書に載っていた「ろくべいまっていろよ」くらいしかなじみがないのだけれど、『週刊新潮』の神戸での事件の犯人、少年Aの写真掲載に抗議していた、気骨のある作家くらいの記憶しかない。代表作の『太陽の子』は、沖縄出身の両親が神戸で開いている沖縄料理店に出入りする沖縄出身者たちの中で成長してゆく少女の物語という。ぜひ読みたいと思っている。

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渡嘉志久ビーチからビーチを阿波連ビーチへ

阿波連ビーチのあとさき

 遅い昼食をすることになった阿波連ビーチに向かいながら、通り過ぎたのが、灰谷健次郎が別荘のように使用していた家であり、先にも紹介した特攻艇秘匿壕であり、戦跡碑であった。昼食後、初めて、今はだれもいない波打ち際に立った。晴れていれば、その海の色は格別だったのかもしれない。目の前の離島(ハナリ)にも米軍の砲弾がいまでも見つかるそうだ。米軍が繰り返し、繰り返し、兵を上陸させていた浜の一つである。

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店の前の猫は、地域猫とでもいうのだろうか。近くで遊んでいる女の子に聞いてみると、全部で、12ひきとのことであった。背中に大きな傷を持った猫が私について回って離れず困ってしまったのだが

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阿波連ビーチ

出航の3時30分までということで、途中、立ち寄ったのが根元家跡であり新垣筑兵衛家跡であっ。渡嘉敷小中学校前では、卒業制作のさなかの中学生たちに出会った。

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今年度は、幼稚園児15人、小学生29人、中学生18人の学校で、中学校卒業時には、外の石塀に壁画を残すことになっているそうだ。小学生より中学生の方が少ないということは、本島の中学校にでも進学するのだろうか

 

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さようなら、渡嘉敷

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冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(5)「アリラン慰霊のモニュメント」をめぐる

渡嘉敷の半日の訪問で立ち寄ったり、知ったりできることは、わずかにすぎない。慰霊碑や戦跡の地に立って、ひたすら祈ることしかできなかった。なかでも、「アリラン慰霊のモニュメント」の建立の経緯などを読んだり、聞いたりするたびに胸が痛む思いがするのだった。

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案内のAさんによれば、村のホームページの戦跡案内図には載っているけれど、商工会の観光地図には載っていない、とのことだった。渡嘉敷で亡くなった軍夫や慰安婦たちは、人数も名前も定かでなく、ほんの一部が祀られているにすぎない。摩文仁の「平和の礎」にも、朝鮮半島出身の戦没者(20156月現在)は韓国365人、北朝鮮82人のあわせて447人にとどまる。県援護課が公表している沖縄戦戦死者の推計にも朝鮮人戦死者は含まれていない。渡嘉敷における戦没者も、前述のように村のホームページに朝鮮・韓国人として10人の数字が記述されているのみである。沖縄には、一万余の朝鮮半島の人々が徴用、連行されたとしながら、その詳細がわかっていない(摩文仁の「韓国人慰霊塔」建立委員会による碑文、19758月)。前述のように、渡嘉敷にも防衛庁の戦史によれば、19449月の段階で特設水上勤務中隊として210人の軍夫が任務に就いた記録がある。さらに、海上挺進第三戦隊の「陣中日誌」によれば、戦死・戦傷者が日本兵であれば氏名が記録されているが、軍夫の戦死者は人数しか記録されていない。「戦傷死者戦没者遺族等援護法」(1952年)、「改正恩給法」(1953年)、「戦没者遺骨収集推進法」(2016年)においても、日本国籍を持たないため、対象とはならなかった。幾重もの差別に苦しんできた人々への日本政府の姿勢に、新たな怒りがこみ上げる思いだった。

こうした状況の中で、このモニュメントは、渡嘉敷で、犠牲となった韓国・朝鮮の人たち慰霊するために、199710月に建てられた。 渡嘉敷の慰安婦で生き残ったぺ・ポンギさんが、戦後石川収容所を出てから転々とした苦難の道を歩んできた末、199110月那覇市内で死後数日後に発見されたということを知った市民たちの基金によって、モニュメント建設への運動が始まった。呼びかけ人の橘田浜子さん、土地を提供した小嶺隆良さん、映画監督の朴壽南さん、設計の陶芸家伊集院真理子さんたちの協力による成果であった。その碑文には、以下のような文言が記されている。 

「(前略)海上特攻艇の秘密基地とされた慶良間の島々には、千余の「軍夫」が苦役に、21人の女性が「慰安所」につながれました。

1945326日米軍上陸の前夜、住民たちは日本軍によって無念の死を強制されました。一方で「慰安婦」たち4人は非業の死をとげ、日本軍の迫害と虐殺による「軍夫」たちの犠牲は数百人にのぼります。

「将兵に性を売った女」として、半世紀以上も歴史から抹殺されてきた20万人余の女性たち。その存在に光をあてた記録映画「アリランのうたーオキナワからの証言」(1991年監督朴壽南)の制作活動に参加した橘田浜子は、戦後、帰郷の道を失って沖縄に取り残された渡嘉敷の元「慰安婦」ペ・ポンギさんが死後五日目(19911019日)に発見されたことに衝撃を受け、悲惨な犠牲を強いられた女性たちを悼み、心に刻むモニュメントの建立を呼びかけました。(中略)

生命を象徴する玉石は、韓国の彫刻家チョン・ネジン氏より寄贈された作品です。モニュメント制作には、伊集院真理子・本田明など県内外から多くの人が参加して、渡嘉敷に築窯、共同作業によって、完成しました。

 モニュメントの完成に至る年月は、日本の国家責任を問い、自らの尊厳の回復を求めて立上がった、アジアの被害者のたたかいと結び合い、私たちが歴史への責任を自らに課した日々でもありました。このモニュメントが、再び侵略戦争を繰り返さないために真実を語り継ぎ、生命の讃歌をうたう広場となることを祈念しつつ。

 

美しければ 美しきほどに 悲しかる島 ゆきゆきて 限りなき 恨  

                                                   浜子

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アリラン慰霊のモニュメントをつくる会」

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 このモニュメントのテーマである潮の渦のなかの中心に拝所が位置付けられている、という。辺りに植え られたケラマツツジの朱が鮮やかであった。碑文の末尾の短詩の作者橘田浜子さんは、山梨県に住む人である

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  拝所としてのモニュメントの中央に「環生」の文字がある


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慰安所跡。1945年3月23日爆撃により全焼した。7人ペ・ポンギさん他、ハルコ、ミっちゃん、アイコ、カズコ、キクマル、スズランの名を持っていた慰安婦の内、ハルコさん死亡、ミっちゃん、アイコさんが重傷、ペ・ポンギさんと3人は、のち、軍の炊事班に組み込まれた(川田文子「渡嘉敷島の<慰安婦>と集団自決」『週刊金曜日』2015年8月7日)

参考
・渡嘉敷村ホームページ→集団自決について

http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/aisatsu/jiketsu

15年戦争資料@wiki→沖縄戦資料

  https://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1415.html

 

 

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2017年2月22日 (水)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(4)渡嘉敷村の戦没者、集団自決者の数字が錯綜する、その背景

「戦跡碑」と「白玉之塔」

渡嘉敷島において、前記事の「集団自決跡地」の碑とともに、前述のように、当初、この地にあって1960年米軍基地収用のために移転を余儀なくされ、1962419日に建立された戦没者慰霊碑「白玉之塔」と曽野綾子撰文による「戦跡碑」という碑の存在も記憶にとどめておかなければならないだろう。

先にも引用した渡嘉敷村のホームページに収録の「本村関係者戦没者数」の表を再掲する。

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 上記「慶良間諸島の沖縄戦」の記事における、下段の<集団自決>の注記について:『沖縄タイムス』『琉球新報』や多くの文献で、「集団自決(強制集団死)」という表現が使用されている。「集団自決」には、「自ら進んで死を選んだ」という死を美化した趣旨で使用されることも多いからだと思う。私は、カッコをつけずに使用するが、とくに強調したいときにカッコを付けて使用している。そこには、これまで知り得たところから、軍の命令や強制力が働いていたという趣旨を含めて使用している

上記の表の防衛隊とは兵力の不足のため住民から招集して兵士になった者をいい、住民としての戦没者は防衛隊42人、一般住民380を合わせた422人ということになる。この数字はホームページ上の「白玉之塔」の記述とも一致し、以下の渡嘉敷村遺族会の資料がもとになっている。この資料によれば、一般住民380人の戦没者の出身地別の内訳は左側の表、また、集団自決者329人という数字は、たしかに様々な文献の記述に見られるが、右の表では330人としている。これらの数字の齟齬は、気になるところで、渡嘉敷村の役場にも問い合わせてもみたが、数字については役場としてどちらが正確とも、いまとなっては確認できないし、並列的に提示している。おそらくは、数字の違いの多くは、聞きとり調査が元になっているからだろう、とのことであった。

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上記の文書は、渡嘉敷村遺族会のもの。「村では毎年3月28日を慰霊の日(住民玉砕の日)と定め、慰霊祭を執り行っています」とあり、「玉砕」の語が使用されていることに着目したい。なお、慰霊碑右手前の歌碑には「忘れじと思う心は白玉の塔に託して永久につたえん 中井盛才」とある。作者は元渡嘉敷区長とのことである。

しかし、これらの数字の中には、赤松戦隊の兵士の戦死者の数字が表れない。それに言及しているのが、1979年建立の「戦跡碑」であった。その碑文には、一家が集団自決をする凄惨な場面が記述されたあとに「そこにあるのは愛である」という文言が唐突であり、いささか驚いたのであるが、集団自決の背景には、「家族愛」と「殉国美談」に仕上げたい意図が働いていたかのようだ。

「(前略)3 27 日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所 に集結したが、 28 日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、 車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。この日の前後に 394 人の島民の命が失われた。 その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。(中略)  315 名の将兵のうち 18 名は栄養失調のために死亡し、 52 名は、 米軍の攻撃により戦死した。 昭和 20 8 23 日、軍は命令により降伏した」

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曽野綾子による撰文であり、1979年2月の日付が見える。当初、曽野は、村からの依頼で撰文をしたためたと言っていたが、のち1988年、「家永教科書裁判」の証人尋問において、赤松戦隊生存者の依頼であることを証言している。曽野綾子は、1973年『ある神話の背景』において、住民の証言を以て軍の命令はなかったと主張していた。なお、「戦跡碑」裏面には「海上挺第三戦隊」となどの記述があるが、「挺進」の間違い

 この「戦跡碑」にある集団自決者394名という数字が他の数字と大幅に異なっている。また、赤松戦隊の将兵315名のうちの死者の数の根拠が不明である。防衛庁の戦史「沖縄方面作戦」によれば、当時の渡嘉敷の兵力は、海上挺進第三戦隊104人、整備中隊55人、特設水上勤務中隊14名と軍夫210人となっている(林『沖縄戦 強制された「集団自決」』39頁)。また、1994年9月には、戦隊の後方支援として海上挺進基地大隊として座間味、阿嘉、渡嘉敷の各島に1000人が投入されたが、1945年2月には沖縄本島に帰っている(。同上120頁)。碑文では、「将兵」とあるので、軍夫は含んでいないのだろう。

 そもそも海上挺進戦隊とは、どんな任務があったのだろうか。陸軍において1944年9月編成され、一戦隊、将兵104人、特攻舟艇㋹(マルレ)100隻を配備した。今回訪ねた秘匿壕跡の説明板にあるように、ベニヤ板製の巾1.8m、長さ5.6mの小さな舟艇で、当初は、爆雷を投下する方法が取られたが、特攻艇となった。ここでは、「人員540人余」の記述がある。これにはたぶん朝鮮人の軍夫が含まれていたと思われる。

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特攻艇㋹(マルレ)秘匿壕の一つ、固い黒色の千枚岩は多く軍夫によって掘られた

 

   今回、渡嘉敷島で訪ねたところを整理してみたが、適当な地図もなかったので、ひとまず手書きの地図を作ってみた。帰りのフェリーに乗って気付いたのだが、なんと「白玉之塔」と伊江島民収容所跡の「記念碑」を訪ねてないことが分かった。案内の方と話に夢中になって、手元のメモを見ることも忘れていたのかもしれない。とくに伊江島の住民が1945年4月に渡嘉敷に1700人、座間味に300人が立ち退きを強制されて移送されてきたのである。その収容所の跡は、ぜひ確かめておきたかった。昨年伊江島を訪ねたとき、まさに伊江島の住民が島を離れている間に、米軍の収用は着々進められていたことを知ったからであった。

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2017年2月19日 (日)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(3)

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ランナーが去った後の渡嘉敷島で

今回、夫がどうしても訪ねたいと、日程の調整に苦労していたのが渡嘉敷島行きだった。24日が渡嘉敷島マラソンで、5日までは、車の予約ができなかったが、ようやく、26日に確保でき、夫はほっとした様子だった。次に心配なのは、海が荒れて欠航にならないかで、波が3m以上になると高速船は欠航になり、フェリーの方が波に強いという。所要時間は、フェリーの方が高速船の2倍、70分かかるのだ。欠航か否かは、当日の朝8時に決定するという。気のもめることだったが、高速船は2便とも欠航で、那覇泊港から1030分発のフェリー「とかしき」に乗った。約30キロの海路である。船内のアナウンスにもあったが、内海を出るところで大きく波をかぶるかもしれないが、すぐにおさまる、とのことだった。船の先端でカメラを構えていると半端ではない揺れ方、波しぶきをまともにかぶってしまったのだが、アナウンスの通り、以降、揺れはほとんど感じなかった。

港では、案内のAさんが出迎えてくれた。待合室には、まだ、マラソン大会の幟が片付けられずに残っていた。新聞報道によれば、800余人がエントリー、ハーフマラソン他711人が完走したそうだ。島の人口は近年700人前後を推移しているから、この日ばかりは2倍に膨れ上がっていたことになる。

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 那覇市、泊港。高速船は欠航、フェリー「とかしき」は10時30分出航

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 まもなく、渡嘉敷島へ、70分の船旅

「集団自決跡地」の碑

最初に訪ねたのは、北山(ニシヤマ)にある広大な「国立沖縄市青少年交流の家」だった。起伏のある広大な敷地は、1970年代まで、米軍基地だった。1960年、米軍がミサイル配備の基地建設のため、辺りの山は削られ、谷を埋め、地形は一変した。今も残る野球場などは谷底を埋め立て建設されたという。しかし、69年に基地は閉鎖され、本土復帰の数年後に返還、この国有地には、現施設の前身たる「国立青年の家」の一つとして建設された。

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 国立青少年交流の家、野球場を望む

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  右手の島が座間味、左手が阿嘉島、座間味島には、3月26日に米軍は上陸、ここでも集団自決はあった

この施設の隣接地に「集団自決跡地」の碑があった。まず、中央には「集団自決跡地」と刻まれた自然石が置かれ、その後方には細い壕があるといい、この辺りがが、夜を徹して集まって来た住民たちの集団自決の地となった。

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この奥には細い壕が掘られているが、集団自決時の惨状は、筆舌に尽くしがたく、米軍の写真が残されているというが、村の人たちもめったに足を踏み入れないという

 向かって右側の石碑には「平成五年三月二十八日 渡嘉敷村」とあり、石碑建立の経緯が記されている。1951328日、「白玉の塔」として、この地に集団自決者の追悼碑が建立されたが、1960年、周辺地域が米軍基地になったため移転を余儀なくされた、とある。

「(前略)米軍の上陸により追いつめられた住民は友軍を頼ってこの地に集結したが敵の砲爆は熾烈を極め遂に包囲され行く場を失い、刻々と迫る危機を感じた住民は 『生きて捕虜となり辱めを受けるより死して国に殉ずることが国民としての本分である』として昭和20年3月28日祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした。兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾2個づつが唯一の頼りで 親戚縁故が車座になり1ケの手榴弾に2、30名が集まった瞬間不気味な炸裂音は谷間にこだまし清流の流れは寸時にして血の流れと化し 老若男女315名の尊い命が失われ悲惨な死を遂げた。(後略)」

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の白い説明板では「平成十七年十一年三十日 渡嘉敷村教育委員会」とあり、194542日の「ロサンゼルスタイムズ」(朝刊)の記事により、集団自決の現場が具体的かつ克明に記述されていた。後半部分には、米軍の捕虜となった島民が、捕虜になると女性は強姦・拷問を受け、男は殺されると信じていたが、医療行為や食料も避難所も与えられることを知って、娘を殺してきたことが悔やまれる、との声も記されている。

渡嘉敷島での集団自決について、渡嘉敷村のホームページでは、つぎのように解説している。戦没者の内訳表の下には*以下の注記も付されている。

「(前略)日本軍は、沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかけるねらいで、慶良間の島々に海上特攻艇200隻をしのばせていました。ところが、予想に反して米軍の攻略部隊は、1945323日、数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、特攻艇壕をシラミつぶしに破壊した後、ついに326日には座間味の島々へ、327日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸作戦の補給基地として確保しました。

日本軍の特攻部隊と、住民は山の中に逃げこみました。パニック状態におち  いった人々は避難の場所を失い、北端の北山に追込まれ、328日、かねて指示されていたとおり、集団を組んで自決しました。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのです。」

 集団自決: 狭小なる沖縄周辺の離島において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以て対抗できる処までは対抗し癒々と言う時にはいさぎよく死に花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。

(「慶良間諸島の沖縄戦」 2011220日)

 渡嘉敷島の「集団自決」が語られるとき、問題となるのが、日本軍による組織的な誘導・関与や強制・命令があったか否かなのであるが、渡嘉敷村ホームページや碑文のマーカー筆者が付した太字部分に見るかぎり、「パニックにおちいった人々は・・・かねて指示されていたとおりに」住民の「悲壮な決意」のもとに自決した、とする文言や「警備隊長」の自決命令や「兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾2個づつ」という表現や主語が不明な記述もある。

案内のAさんは、二つの説明板の内容をよく読み比べてください、とあまり多くは語らなかったが、車の中では、若いときに聞いたという不発弾が爆発しなかったり、飢餓の中を生き延びたり、米軍の捕虜になって生き残った人々の証言が、固有名詞や地名を以てつぎつぎと飛び出てくるのだった。それらは、私がこれまで接した本や論文などで読んだ内容と重なるものもあったが、初めて聞く話も多かった。米軍が、まず326日に座間味島に上陸、翌27日渡嘉敷島に上陸し、28日の集団自決までの、まさに時間を追うようなドキュメントとして、聴いていた。さらにその後、815日を経ても赤松嘉次大尉のもと立てこもっていた海上挺進第三戦隊は、815日の終戦詔勅を傍受しながら、投降したのは822日であった。投降を勧めにきた捕虜となった島民たちを、やはり投降を勧めに来た渡嘉敷島へ強制収容されていた伊江島の島民たちを処刑、自決に追い込んだことも明らかになっている。

当時の肉親や村人の「集団自決」を目の当たりにしていた人々の証言による悲惨かつ残酷な状況、米軍撮影の容赦ない現場写真などには、目を覆いたくなるのだが、どうしてこうしたことが起こったのかを、しっかりと記憶にとどめ、伝えていかねばならないと思う。渡嘉敷村のHPでは、一般住民の戦没者数は380人とされ、0歳から10歳までが101人にのぼり、乳幼児の犠牲者が多い。このうち329人が集団自決で亡くなっている。さらに防衛隊42人、本土出身の将兵81人、防衛隊42人であり、朝鮮人の軍夫、慰安婦は公簿に無いので名前も人数も不明なのである。なお、渡嘉敷村出身で島外で亡くなった軍人軍属は91人とされる。民間人が圧倒的に多いのも、この島の特徴でもある。

「集団自決」について軍の命令があったのか否かについては、大江健三郎の『沖縄ノート』(岩波書店 1970年)をめぐっての裁判(渡嘉敷島の赤松戦隊長の弟、座間味島の梅沢戦隊長を原告、大江・岩波を被告とする二人の戦隊長の名誉棄損が争われて、原告敗訴)や2007年の教科書検定問題(高校日本史教科書の沖縄における「集団自決」に日本軍の強制があったとする文言削除)という二つの出来事で、再度クローズアップされることになった。

赤松戦隊長の命令により、米軍の上陸が迫った327日の夜から村の巡査が住民に陣地近くのニシヤマ頂上付近に集結するように伝えた。防衛隊員があらかじめ、個別に2個の手榴弾を「いざとなったら、一つは敵に投げつけ、一つは自決用に」との趣旨で配っていた。また、19411月東條英機陸軍大臣によって布達された「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という教育や「捕虜となれば、女は辱めを受け、男は無残な殺され方をする」といった恐怖心をあおる宣伝が浸透している状況下にあった事実までは、多くの証言で確認されている。

さらに、村の人々、民間人が集団での自決に至ったのかについて、その背景には、軍の命令があったか否か、戦隊長から直接、命令を聞いた者がいたか否かになると明確ではない。「ただ確実に言えることは、『軍命』が下されたと伝えられたとき、その軍命に従って自決するのが当然であると信じ込まされていたことであ」り、「日本軍ならびに日本国家全体として、民間人であっても軍とともに玉砕するのが当然であるという国家意思が軍官民の上から覆いかぶさっていたとき、戦隊長や将校らによる、住民の自決を示唆するようないかなる言動も巨大な国家意思による命令と受け止められる状況にあった。個々の将兵による自決の指示、示唆もそうした命令と受け止められる状況にあった」(林博史『沖縄戦 強制された「集団自決」』吉川弘文館 2009年、199201頁)だろうと思う。また、同時に、離島という状況下で、軍は、村人の協力なしには陣地建設はできなかったわけで、軍事機密を知り得た島民を米軍の捕虜にするわけにはいかなかった、というのが日本軍の論理であり、その上、前掲書(204216頁)の分析に見るように、地域社会におけるリーダーと軍との関係、家制度のなかの男の役割を見据えたうえでの、軍による誘導や強制が機能したという見方には説得力があると思った。

案内のAさんから聞いた、雨の中を村民が集結し、村の有力者も集っていたが、陣地から駆け付けた防衛隊の一人が村長に耳打ちをした直後に、村長の「天皇陛下万歳」を合図に一斉に手榴弾を爆発させた、という証言が意味することや、前述のように、乳幼児の集団自決による犠牲者が多いのは、一家の長たる父親が、まず、幼い者から手をかけただろう結果ではなかったか、に思いが及ぶのだった。

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2017年2月15日 (水)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(2)今帰仁城は桜まつりのさなか

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 平郎門 、1962年、琉球政府により修復された

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カンヒザクラの並木、2月12日までが桜まつりで、夜はライトアップされる由

やや前後するが、愛楽園再訪の前に、今帰仁城跡を訪ねた。今回の旅で、夫がどうしても訪ねたいと、計画に入れた。ガイドのYさんは、券売所前で迎えてくださる。城址の模型の前での説明が懇切、丁寧で、予定の時間で回れるのかしらと少し心配になるのであった。沖縄本島で南山・中山・北山の三大勢力が争ったグスク(城)時代、今帰仁城は、北山最大の城であり、中山、那覇の首里城に次ぐ規模であったが、15世紀初頭、中山の首里に尚氏によって滅ぼされた。以降は、首里から派遣された「監守」が置かれたが、1609年薩摩軍の琉球侵攻により、城は炎上したという。寺社の少ない沖縄では、無人の時代が長い城跡は拝所の役割を果たしてきたという。

朝が早かったためか、観光客はそれほどでもない。本土ではあまり見かけない濃い桃色の寒緋桜は、少し開花が遅れたそうだ。それでも七・八分咲きくらいだろうか。雄大な城壁を背景として、あるいは起伏のある石段に沿っての桜、最近は、お花見というものをしなくなっているだけに、見事な桜に出会えたのは忘れがたい思い出となった。

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城壁は野面積みという石組みで、危険なので城壁の上を歩くことは禁じられている

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本丸跡、発掘調査により、築城の変遷が分かってきたという

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この日は薄曇りで、海の青さは今一つではあったが



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ガイドのYさん、20年前に、沖縄のことが心配になって京都から移住されてきた由、私たちも『琉球新報』を購読していると伝えると、握手を求めてくるのだった

 

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2017年2月14日 (火)

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(1)

沖縄、屋我地島、愛楽園を訪ねる

出発の前、数日間は、那覇の気象情報が気になっていたが、この季節の気温は、千葉より10度は高い。朝、着ていくものに迷ったが、セーターに薄いコートにマフラーで家を出る。羽田1030分発ANA469便、修学旅行の高校生も乗っていて、ほぼ満席ながら静かな機内であった。あの重量の航空機が空を飛ぶこと自体信じがたい私は、いつも無事の着陸を祈るしかないのだ。夫は5回目、私は3回目の沖縄行きである。

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屋我地島は、1953年に屋我地大橋が架けられ本島と結ばれ、1960年にはチリ津波で損壊し、1963年に再建、現在は1993年建設の三代目。2005年古宇利大橋、2010年に今帰仁の天底からワルミ大橋が架けられた

 

今回の最初の目的地は、沖縄本島中部の名護市澄井出、屋我地島の沖縄愛楽園なので、空港前からの高速バスで、名護バスセンターに直行、タクシーに乗り継いでの長距離移動である。高速バスとはいえ、各所の高速道路を乗ったり降りたり、停留所の多い路線バスなのである。最後の高速道路を降りて、終点までのあとわずかのところで、道路工事のため対面交通の個所があり、世富慶(よふけ)辺りの海岸道路の渋滞には参った。本土より日没が遅いとはいえ、不案内な愛楽園構内は明るいうちに回りたいと思っていた。

 

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愛楽園航空写真。右手上の岬の手前の赤い屋根の建物が交流会館、資料室が2015年新設された。左手上の橋が古宇利大橋

 

この日、朝720分に家を出て、愛楽園に着いたのが5時近くだったから、10時間近い移動時間を要したことになる。すでに閉館時刻をすぎていたが、交流会館の受付で案内図をいただく。会館の前には、「高松宮・同妃殿下」(1985年)、「三笠宮寛仁親王・同妃殿下」(1992年)来園記念植樹の掲示があった。地図を頼りに歩き始めると、建物の番号は付されているものの案内板らしきものがない。出会う人は親切に教えてくれるのだが、似たような建物が多く、道路も微妙に曲がりくねっていて、迷ってしまうのだ。そんなとき、広場の隅に何かモニュメントのようなものがみえたので、近づくと、そのモニュメントの脇には、大きな碑と台座が横倒しになっていた。覆うブルーシートが、ところどころ破れていて、「貞明皇后」(大正天皇の皇后、18841951)と読めたので、訳が分からないながら、いささかの衝撃が走った。

なお、「愛楽園」は、現在「国立療養所沖縄愛楽園」となったが、そこには苦難の歴史があった。沖縄ではハンセン病者の療養所設置が各地での反対でなかなか進まない中、自らも16歳の時に発病した、クリスチャンの青木恵哉(18931969)がこの屋我地島北東の小さな岬に土地を求め、1935年末に病者とともに上陸、開園したのが、愛楽園の前身であった。愛楽園発行の案内によれば、1938年沖縄県告示により「国頭愛楽園」と命名、1941年国立に移管、19441010日米軍空襲以降、赤十字の標識が掲げられていなかったため兵舎と間違われ、幾度かの爆撃や機銃掃射により施設は壊滅状態となる。米軍、琉球政府の所管を経て、1972年日本復帰とともに厚生省に移管された。敷地約10万坪、201612月末現在、入所者数164人、園内物故者1348人という。私が関心を寄せたのは、「沖縄における天皇の短歌」について調べていて、現天皇の皇太子時代、沖縄海洋博開会式に出席するために訪れた1975年に、ここ愛楽園を訪ね、琉歌「だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔目にど残る」と詠んでいたことを知ったときだった。

 

*青木恵哉『選ばれた島~沖縄愛楽園創設者の生涯』(聖公会沖縄教区祈りの家教会 195810月)

 

 

さらに、案内図を見ながら、この辺りに「早田壕(はやたごう)」があるはずと、渡り廊下を給食の配膳台を押してきた女性に尋ねると、しばらく間をおいて「ソウダ壕かしら」と、屋根付きの渡り廊下の奥に走って行って、手招きをしてくれる。「ここですよ」と廊下の右側のガラス戸のカギを開けて「向かいにもありますから、済んだら両方ともカギをかけておいてくださいね」と足早に仕事に戻られた。壕の入り口には格子が嵌められていて、中には入れないが、傍らには「早田壕」の説明パネルがあった。

 

「早田壕」とは、19443月に愛楽園に着任した早田晧(19031985)園長は、入所者避難のために横穴式の壕を掘らせた。貝殻の多い硬い地層のため、約一年で、怪我をした人も多く、病状の悪化、栄養失調、マラリアなどで288人が亡くなっている、とあった。

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結局、この日は、日も暮れてきたので、名護市内のホテルに向かい、明日また訪ねることにした。すでに沖縄各地でのプロ野球キャンプ入りが始まり、このホテルにも、間もなく、日ハムの一同がやって来るそうだ。近くの名護球場は、もっぱら夜間練習などで使用するとのことだった。

 

翌日の愛楽園再訪で、交流会館内の資料室をゆっくり見学することができた。資料室は一昨年オープンしたばかりであるが、時系列での展示とテーマごとの展示もあって、多くを教えられた。

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とたん屋根が暑い、かまぼこ型の居室

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澄井出小中学校の年表、1951年開校、1981年閉校の歴史

  また、皇室とハンセン病については、片野真佐子『皇后の近代』(2003年)原武史『皇后考』(2015年、いずれも講談社)に詳しいが、その皇室とハンセン病との関係は、戦前の救ライ事業における、貞明皇后の短歌「つれづれの友となりても慰めよ ゆくことかたきわれにかはりて」と療養所への下賜金が、象徴的に表しているような皇室による「慈悲の心」が、強制隔離や差別を助長したとされる。らい予防法は、1996年に廃止されたが、小泉純一郎内閣時、国家賠償裁判で、2001年の熊本地裁の病者差別違憲判決を受けて政府は謝罪した。2005年には「検証会議最終報告書」が出され、そこにおいても、皇室とのかかわりによって「隔離強化という国策を支持する世論を喚起したのである」と結論づけている。資料室の展示パネルにも、そうした事実が明確にされていた。

 

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復帰1972年を経て1974年再建されたという

ところで、昨夕、探すことができなかった「青木恵哉頌徳碑」、強制断種や堕胎によって葬られた子どもたちの「声なき子供たちの碑」、愛楽園で亡くなった人々の慰霊碑に手を合わせることができた。今でこそ、屋我地島と本島には橋が架かり、これらの慰霊碑は、リゾート地として名高い古宇利島との長い橋も望める地となった。私は、波打ち際に出て、思わず白い砂を掬い、小さな貝殻を拾って小さな箱に収めたのであった。

 

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小島の間に見えるのが古宇利島

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青木恵哉頌徳碑

 

 

 

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2017年2月 3日 (金)

私の好きな木~ポプラ

『ポトナム』の今年のリレーエッセイ「私の好きな木」2月号に寄稿しました

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「あなたが会員になっている『ポトナム』って、何のこと?」と尋ねられることも少なくない。「朝鮮語で、ポプラのことらしいです。朝鮮で創刊された雑誌なので」と答えている。小泉苳三『夕潮』最後尾の二首のルビに拠る。日本では、ポプラとドロノキ(白楊)と違うらしいのだが、いずれもポプラの仲間らしい。

・うつつなく吹きゆく風の見ゆるかも庭につづける白楊(ポプラ)の垣に

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・白楊(ポトナム)の直ぐ立つ枝はひそかなりひととき明き夕べの丘に

 一九四四年の秋、私は、東京の池袋の家から千葉県の佐原(現香取市)に疎開した。店を続ける父と薬専に通う長兄は残り、母は私を連れて、自分の生家に身を寄せた。そこには、すでに、小学生の次兄が「縁故疎開」で世話になっていた。私たちは廂を借りての暮らしとなった。立派な長屋門を出ると、目の前には水田がどこまでも続き、その彼方には、細くて高い木の幾本かが等間隔で並んでいた。ポプラだと教えられたその木の枝は、やや片側になびいているようにも見えた。その脇には鉄橋の姿もあった。子供心にも、戦局の不安と暮らしの不自由さが日に日に迫ってくるのを感じていたのだろう。そして、あのポプラの先に何があるのかも知らないまま、毎日眺めていた。あの先には、今は知らない何かがあるに違いないとでも思ったのだろうか。いまでも、ポプラの木を見ると、懐かしさと憧憬の念がよみがえる。のちに、ポプラが旧佐原市の「市の木」であったとも知った。明治生まれの母が通った高等女学校が「佐原白楊高校」と改称、共学になったのは今世紀に入ってからという。

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2017年1月22日 (日)

「短歌サロン九条」で「沖縄における天皇の短歌は何を語るのか」について報告しました。

「短歌サロン九条」は、「憲法九条を守る歌人の会」の有志の方が、隔月に開く勉強会だという。今回121日に、表記の題での報告の機会をいただいた。20人ほどの参加者であった。

テーマは、昨年6月「思想史の会」での報告と同じなのだが、その報告後、私自身は、2度目ながら34日で沖縄に出かけ、8月末日には、『社会文学』への寄稿「沖縄における天皇の歌は何を語るのか」が活字になったこともある。

「思想史の会」の会での報告の模様は、以下の本ブログ記事を参照

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/06/post-167c.html(2016年6月27日)

昨2016年88日には、現天皇の「生前退位」表明があり、近く「有識者会議」の論点整理が発表され、国会でも各党協議が始まるというが、政府は、特例法による対応など、ほぼ着地を決めている。辺野古新基地建設承認取消訴訟では、最高裁の上告棄却を経て、工事が再開された。北部訓練場の一部返還はされたが高江のヘリパッド建設によって、基地機能は強化された。さらに、1213日には、名護市沿岸にオスプレイMV22が墜落、19日には飛行再開、年明けには空中給油再開、その後も米軍機の事故が相次いでいる。このような状況の変化によって、沖縄、天皇にかかわる問題は、重大な局面を迎えたと言える。本来ならば、日本国憲法下における日米安保条約・地位協定、そして象徴天皇制が照射され、論議されるべき機会であったはずなのに、政治やマス・メディアの世界では、そういう流れにはなっていない。

そんな時期に、新しい情報を踏まえて報告することは、いささかの緊張を伴った。準備を進めている間に、現天皇が、皇太子時代、夫妻で初めての沖縄訪問の折、1975年に、訪ねた国立ハンセン病療養所「愛楽園」(屋我地島)、2004年に訪ねた「南静園」(宮古島)に触れて、皇室と日本のハンセン病対策との密接な関係に着目せざるを得なかった。(注)1931年らい予防法の成立を機に「らい撲滅」「患者の強制隔離」の徹底を推進するため、節子皇太后による「御歌」(「つれづれの友となりても慰めよ ゆくことかたきわれにかはりて」)と「下賜金」に象徴される救らいとして「慈悲の心」が強調された。不治の病ではないとして治療を進める医師、特効薬プロミンの開発を無視する形で、敗戦後も隔離政策は引き継がれ、貞明皇后没後は、高松宮・喜久子夫妻が継承した。らい予防法が廃止されたのは1996年であり、ハンセン病患者への差別が違憲とされたのは、2001511日、国家賠償法訴訟の熊本地裁判決で、当時の小泉純一郎首相は控訴を断念、患者への謝罪がなされた。その後の報告書でも、ハンセン病対策に皇室がかかわったことによって差別が助長されたと、つぎのような報告がなされている。

「このように、藤楓協会は、その誕生から厚生省と一体の関係にあったのである。皇室の「仁慈」を強調することにより、全患協の運動を抑制し、「純然たる民間団体」を装って、「文化国家」に反するハンセン病患者の絶滅を目指し、隔離強化という国策を支持する世論を喚起したのである。」

(「第四章(4)藤楓協会及び皇室の役割)『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』20053月 150頁   https://www.jlf.or.jp/work/pdf/houkoku/saisyu/4.pdf

なお、藤楓協会は、2001年の本地裁判決を踏まえ、2003年3月解後「、その事業の一部は、社会福祉法人「ふれあい福祉協会」が引き継いでいる。

 というのも、現天皇夫妻の沖縄訪問は、皇太子時代の5回を含め10回を数え、訪問の折の夫妻の短歌や天皇の「おことば」、天皇誕生日記者会見での発言で、繰り返される沖縄戦犠牲者への慰霊や鎮魂、沖縄の現状への言及は、現天皇夫妻の個人的な沖縄への思い入れや意図とは異なり、別の役割を果たしていたのではないかと考えられたからである。

天皇の短歌や発言によって、沖縄の戦争犠牲者の慰霊を続け、沖縄の人々の心に寄り添い続けるということは、昭和天皇の沖縄にかかる「負の遺産」、敗戦末期の本土防衛のための沖縄捨て石作戦、敗戦直後の国体維持のための「天皇メッセージ」を払拭しようとする意図があるように思われたからである。さらに、敗戦後から現在に至るまで「国益」と称して、沖縄を差別し続けている政府の沖縄対策の欠陥を、情緒的に慰撫し、補完していないかとの危惧をいだいたからであった。

私の報告は、ほぼレジュメのような流れで進めて、約1時間半で終了、最後に、近年、いわゆるリベラル派と称される論者や表現者が、現天皇の発信や振る舞いから、その人間性に、親しさや信頼を寄せる発言が相次いることが、現憲法下での「象徴天皇制」の本質を見極めることへのバリアになっていないかとの不安を語ったのだった。

また、質疑の中で、参加者のお一人は、とくに歌会始の「選者」につながる人脈について、「短歌結社」に深く由来すること、選者の継承や陪聴者選びに至るまで、大きく影を落としていることを指摘された。私も、結社の主宰や選者たちが「右といえば右、左といえば左」的に、逆らわない歌人たちが多いことも実感していたので、これからも見据えていきたいと思った。また、お一人は、橋本喜典と岡井隆の短歌作品を比較して、岡井の無邪気なまでの宮廷入りに酔いしれている様子が紹介された。一方、美智子皇后の短歌の魅力を語る参加者もいらした。

会場の喫茶店「パンドラ」のオーナーでもある梓志乃さん、司会の久々湊盈子さんと田村広志さん、城間百合子さんらのお世話になった。当日配布の「報告概要」と「資料」を若干補充し、添付した。

なお、近く、私は、屋我地島の「愛楽園」、渡嘉敷島の戦跡などを訪ねたいと計画を進めている。

「報告概要」と「資料」:

http://dmituko.cocolog-nifty.com/okinawanotennonotanka.pdf

(注)

皇室とハンセン病との関係については、以下の文献などを参考にした。

片野真佐子『皇后の近代』 講談社 2003年11月

大塚郁「戦中期の<皇恩>とハンセン病者の文芸―序説」『千葉大学社会文化科学研 究プロジェクト成果報告書』156号 2008年3月

原武史『皇后考』 講談社 2015年2月

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