2020年10月19日 (月)

秋の自然観察3題

 午前中、薄日が差していたので、昨日、少しばかり伐っておいた庭木の枝を、燃やせるごみの袋詰めをしていて気が付いた。

① 物置に接して、窮屈そうなキンモクセイ、今年はあまり花がつかなかったが、葉裏に、なんとセミの抜け殻が二つ残っていた。体長は2センチ以上ある。ネットで調べてみると、クマゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミの部類らしい。クマゼミは背中が丸く、ひっくり返してみると、おへそのようなものがあるらしい。葉っぱから引き離すのは遠慮したが、写真の下方の抜け殻は、背中が大きく曲がっているので、クマゼミかもしれない。アブラゼミとミンミンゼミは、触覚の節の長さが微妙に違うらしい。もうどちらでもいいと、そのままにしておいた。

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② 枯れかけたドクダミ、シダなどの雑草を抜き、枯葉を集めていたところ、枯葉の下に、なんと小さな白いタマゴが現れた。何のタマゴ?我が家の庭には、ヒヨドリとメジロ、ムクドリくらいしか来ないはずなのだが。そういえば、9月から10月ごろにかけて、大きく茂ったヤマボウシをめがけて飛んでくる鳥影は見ていた。そしてそこを中継点のようにして、反対側に飛び去っていたことが何回かあったが・・・。とくに巣らしいものも見当たらない。真っ白い小さなタマゴ、これもネットで調べてみると、真っ白いのはメジロかもしれないと思った。

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③ そして、このタマゴの横に目をやると、次のようなものが倒れていた?これまで見たことはなかったのだが、ウラシマソウがあった辺りである。こんな風な実?が成るのは知らなかった。

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 コロナ感染は一向に収まりそうもない秋、いやむしろ、寒さを迎えて、一層危険が増すという。不安は募るばかりである。

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「エール」で「NHKはウソをつきません」というセリフがありましたが ~「NHK森下経営委員長の義務違反の究明を求める」請願書を国会に提出へ

 朝ドラ「エール」は急展開の上、先週、敗戦後になりました。10月16日放送で「鐘の鳴る丘」の作者、菊田一夫と思われる人物とNHK職員との会話で、職員が「NHKですからウソをつきません」とのセリフが飛び出した。これって、その演出も、まさしく自虐ネタと思われるフシがあった。スポニチもウェブで流していたが。というのも・・・。   

 放送法では、個別の番組には介入してはいけないはずのNHK経営委員会が、かんぽ生命保険の不正販売を報じた番組に対して、当時の上田NHK会長に「厳重注意」をしたこと、その経緯を示す経営委員会の議事録を公開しないことについて、多くの視聴者やメディアから批判されているにも関わらず、頬かむりのまま動かない。

 表題のような「請願書」を国会に提出するのを期して、以下のような集会が開かれます。この時期に、一見、地味に見える請願であり、集会でありますが、表現の自由を侵す重大な問題なので、国会でも十分究明して欲しいということで、衆参両院に請願書を提出することになったそうです。全国で40名近い世話人の努力で請願者は2200人を超えています。私も請願者の一人に加わりました。

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       請願書提出にあたっての院内集会 

日 時:  2020年10月26日(月) 16時~17時30分(予定)
会 場:  衆議院第二議員会館 多目的会議室(1階) 

世話人会からの出席者:
岩崎貞明(「放送レポート」編集長) 
小田桐 誠(ジャーナリスト/大学講師)
小玉美意子(武蔵大学名誉教授) 
杉浦ひとみ(弁護士)
楚山大和(「日本の政治を監視する上尾市民の会」代表)

醍醐 聰(「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」共同代表)
長井 暁(NHK・OB/大学教員)
日巻直映(「郵政産業労働者ユニオン」中央執行委員長)|

 ご出席の衆参両院の紹介議員へ請願書を提出します。なお集会参加者は、ご自身の体調管理とマスク着用などの対策をお願いいたします。 

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2020年10月14日 (水)

朝ドラ「エール」は、戦時下の古関裕而をどう描いているか

  9月末の週から「エール」は戦時下に入った。これまでのドラマの進行は、古関裕而の自伝『鐘よ鳴り響け』とも、いくつかに評伝とも、かけ離れていって、古関作曲の歌と周辺の都合のよい事実をつなぎ合わせたフィクションであることは、本ブログ記事でも、『現代短歌』の拙稿でも述べているが、戦時下に入ってからは、その度合いが一層色濃くなっている。この間、朝ドラを欠かさず見てるわけではなかったが、昼の再放送、土曜日のまとめ、NHK+などを利用して、なるべく見るようにはしていた。9月半ばの、放送再開前後の、8時半からの「あさイチ」での番組宣伝が半端ではなかった。ドラマに登場のタレントを連日ゲストとして出演させていたし、「歴史ヒストリア」などでも取り上げるという熱心さであった。

 肝心のドラマでの古関裕而(古山裕一)が、あのように立て続けに、戦時歌謡、軍歌を作曲し続けていたことだけは、隠しようもない事実なので、NHKは、そして脚本家たちは、必死になって周辺人物を作り出し、彼らに、戦争への疑問、統制・弾圧の強化、戦局の厳しさ、生活の不自由さを語らせている。今週は、従軍先の、さらにインパール作戦の前線での小学校の恩師との再会と戦死という展開を見せる。現実の古関は、ラングーンに留まり、危険な戦場には赴いていない。恩師や自分の歌をさっきまで歌っていた兵士たちが斃れていくのを目前にした古山は、恐怖と驚愕で、何かを叫んでいる?のが、10月14日のラストであった。だが、恩師との再会も戦死も事実ではない。古関裕而の妻の実家は、10人近くものきょうだいがいたが、ドラマでは、作家となる妹と軍人の妻になる姉の三姉妹という設定で、母親とともにクリスチャンということで、常に特高に監視されたり、妹の夫の家業の馬具づくり職人も入信し、馬具が軍隊に納められて、戦争に役立っていることへの疑問を語り、古山(古関)に「戦意高揚の歌は作らないで下さい」と願う場面を作ったり、商魂たくましいレコード会社や映画会社のプロデューサーは、コメディタッチで描かれたりするなかで、「国のために、戦っている兵士のために」作曲するという信念は動かない・・・。妻も、音楽教室から音楽挺身隊への転換を見せながらは、普通の家庭の主婦らしさが強調され、こんなブラウス、こんな割烹着、代用食・・・みたいな時代考証がなされているが、資料には妻・実家サイドの動向があまり見えないなか、盛りに盛ったストーリーに仕立てているように思えた。

 ドラマの古山の活躍は、さらに拡大する戦争末期に入ろうとしているが、どんな展開になるのだろうか。

 そんな折、「NHKとメディアを考える会(兵庫)」のニュース54号(2020年10月)が届いた。今号は、「ヤジと民主主義~小さな自由が排除された先に~」(北海放送制作 2020年4月26日放送)がギャラクシ賞報道活動部門優秀賞、日本ジャーナリスト賞の受賞を記念しての、24頁に及ぶ再録特集であった。連れ合いに送られてくる、この兵庫の会の会報とその活動ぶりには目を見張るものがあって、感心していたのだった。その会員のどなたかの目に留まったのか、先の本ブログ記事で紹介した拙稿「古関裕而はだれにエールを送ったのか」(『現代短歌』2020年11月号)の要約版を会報に載せたいとの依頼があったのだ。 
 表を含めて3頁をとってくださったのである。以下要約版ではあるが、ぜひ読んでいただきたく、ここにPDF版を掲載した。この作業の中で、雑誌での私の校正ミスをただすことができた。『現代短歌』の「古関裕而作曲の戦時歌謡の主な公募歌・委嘱歌一覧」89頁、「防空青年の歌」の作詞者は「柴野為亥知」であった。お詫びして訂正したい。

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下記の画像を拡大するか、上記のPDF版をご覧ください。

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2020年10月 4日 (日)

ほんとうの「学問の自由」とは~日本学術会議、日本芸術院、文化勲章は必要なのか

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秋は確実にやってくる。花をつけはじめた、東側のきんもくせい

 首相が学術会議人事に介入したとして、騒動になっている。日本学術会議が新会員候補者として105人推薦したところ、6名の任命が拒否されたというのである。従来は、内閣総理大臣の任命は、形式的なものとして運用されていた。拒否された6人は、いずれも現政府の意に沿わない発言や活動を続けている人たちである。政府が、研究者の萎縮を狙っていることは確かなのだが、学術会議が首相に提出した要望書は以下の通りで、10月3日にホームページで公開された。

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第25期新規会員任命に関する要望書
令和2年10月2日
内閣総理大臣 菅 義偉 殿
日本学術会議第181回総会
第25期新規会員任命に関して、次の2点を要望する。
1.2020年9月30日付で山極壽一前会長がお願いしたとおり、推薦した会員候補者が任命されない理由を説明いただきたい。
2.2020年8月31日付で推薦した会員候補者のうち、任命されていない方について、速やかに任命していただきたい。

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 要望書は、10月1日の学術会議の総会で決まった新会長梶田隆章の名ではなく、「総会」名義で、いわば、たった二件の短い「お願い」文書であった。新会長は、10月3日の記者のぶら下がりで、「任命拒否の説明をしてもらわなければ、どうしていいかわからない」とオロオロするするばかりであった。この件について、手元の新聞の社説の見出しは以下の通りである。

東京:任命拒否の撤回を求める
毎日:看過できない政治介入だ
朝日:学問の自由脅かす暴挙

 論調のスタンスは、ほぼ一緒である。常々、そもそも「学術会議」って何?という疑問が私にはあった。会員が、現役であれ、OBであれ、その肩書が付されるのをよく目にした。日本学術会議は、戦前の学問が、軍部によって自由を奪われ、利用されたことへの反省から、1949年に発足している。日本学術会議法上では、「優れた研究又は業績」のある会員をもって組織する、となっているが、その基準は曖昧である。3年を一期として、役員が決まり、会員は二期6年の任期で、定員210人の半数が改選されてゆく。当初は、各学会、団体などの推薦によって候補を決めていたが、長老ばかりが推薦されるので、2004年には、推薦は学術会議内部で行われることになった。いまでは、70歳という定年制も導入されている。しかし、新会員の推薦の実態は、改選の該当者が後任を推薦して退くことになっているという(経団連「日本学術会議の見直しに向けて」、日本学術会議の新たな展望を考える有識者会議「日本学術会議の今後の展望について」いずれも2015年)。  
 会員は、非常勤公務員なので、手当や旅費は出る。さらに、事務局には国家公務員として50人程のスタッフがいて、年間の総予算は10億を超える。https://www.cao.go.jp/yosan/soshiki/r2/pdf/50.pdf

 政府とは独立したアカデミーをもつ国は多いが、日本の学術会議のような政府直轄の組織はない、と上記見直しの会議でも議論されていた。政策提言機関を自認するならば、政権から独立した、自律性が問われるのではないか。その会員の任命が拒否されたからと言って、崩れてしまうほどの「学問の自由」だったのだろうか。研究者が、この程度の介入で、学問の自由を失い、萎縮してしまうのだとしたら、まさに、政府の思うツボである。介入は、エスカレートしてゆくだろう。 
 この時期に、首相が、こうした決断をした背景には何があるのか、どんな意味があるのかを探ることは大事だが、「日本学術会議」自体についての議論がなされてもいいのではないか。

 私は、かつて、「勲章が欲しい歌人たち」(拙著『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房 2013年、所収。初出『風景』100~101号 2002年)の中で、日本芸術院の成り立ちと会員となった歌人について調べたことがある。日本芸術院は、1937年、7月には盧溝橋の武力衝突により日中戦争が始まり、内閣情報部が設置された年であり、“文芸奨励政策”の名のもとに設置された帝国芸術院を前身とする。文芸の奨励ではなく、懐柔策とみて良いだろう。敗戦後改称の上、1949年、日本芸術院令のもとに発足している。定員120名、終身制なので、会員の死亡による欠員が生じた分野で推薦を受けた者が総会で承認の上、文科大臣が任命することになっている。その基準は、上記院令では、「芸術上の功績顕著な芸術家」ということで、会員には、年金250万円がつく。
 また、文化勲章の前提ともなる文化功労者(年金350万円)は、文化庁の文化審議会内の文化功労者選考分科会で選考され、メンバーとしては、国立の博物館、美術館の館長、大学の学長、教授、ノーベル賞受賞者、作家、評論家などの名前が並ぶ。しかし、彼らが、学術・芸術各分野全般に目が届くとは考えられない。実際の候補者選出の基準や過程は非公開で、詳細は不明だが、おそらくは担当部局が担っていると推測できる。分科会は、形骸化して、承認機関になっているのではないか。歌人で言えば、今年の7月に会員である岡井隆が死去して、岡野弘彦、馬場あき子、佐佐木幸綱の3人となった。補充されるのはだれなのか。
 それはともかく、文科省による芸術選奨にしても、選考委員、推薦委員が固定化される中で、若干の入れ替えがなされるものの、受賞者との関係を見ると、選考委員と同じ結社であったり、年を超えて結社間の互酬性らしきものが垣間見えたりする。

 こうしてみてくると、日本学術会議、日本芸術院の成り立ち自体、文化功労者(⇒文化勲章)の選考過程自体が、政治介入を前提としていると言えないか。そして、それぞれの会員であることや受章が、一つの権威となって、それを利用している会員たちも無視できず、学術や芸術の世界を脅かしているようにさえ見えてくる。

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左が近くの中学校で拾った桜、中央が庭の東側の紫木蓮、右が夏椿、自然の造形に癒されて
 

 

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2020年9月19日 (土)

どうしようも内閣、発足~私たちは何をなすべきかなのか

  安倍首相の後、だれがなっても絶望的であったし、新内閣の顔ぶれを見ても脱力の一語である。この一年で何人の閣僚が辞任することになるのやら~。女性活躍という<建前>も押しやられ、男性の待機組処理と派閥の論理で押し切られた。五輪中止も見据えた、その女性担当大臣が留任、それでも引き受ける元アスリート。21歳の大阪なおみを見習ったら・・・、とも言いたくなる。法務は、河井克行、森雅子の後は、返り咲きという。どの顔見ても、どうしようもない内閣である。

 最近のNHKニュース番組は録画で見て、組閣人事は飛ばすと、ほとんどがスポーツと天気予報しか残らなかった。民放の報道ワイド番組でも、コメンテイターたちの間では、新内閣へのエールか、当たり障りのないコメントか蔓延し、少しでも批判的な発言をすると、ネット攻撃が始まる。不自由な時代である。

 この不自由な時代、新型コロナウイルスやインフルエンザの恐怖にさらされている私たち、高齢者は何をなすべきなのか。

 

 いま必要があって、金子光晴の詩を読み始めた。金子光晴といえば、これまで、私生活ではややスキャンダラスながら、反骨詩人、反戦詩人としてのイメージが強かった。もっとも、櫻本富雄氏は、早くより、詩作品何篇かの改ざん問題を指摘していたが、詩壇の大御所たちは、軽く受け流していた感がある。長い海外体験、放浪生活から日本の権力を見据えたとみられる、一九三七年の詩集「鮫」は、抵抗詩集としての評価が高い。時には自虐的に、あるいは執拗なまでに嗜虐的に語り続ける。長詩「鮫」は「海のうはつつらで鮫が、/ごろりごろりと転つてゐる。/ 鮫は動かない。」で始まり、「鮫。/鮫。/鮫。/奴らを咀はう。奴らを破壊しよう。/さもなければ、奴らが俺たちを皆喰ふつもりだ」で終わる。

  さらに、金子光晴は、太平洋戦争下に書き溜めておいた詩作品を、1948年に、『落下傘』、『蛾』を出版、1949年に『鬼の子の唄』を出版している。伊藤信吉は「これらの全部が戦争否定やその憎悪などの、痛烈な批判的精神からうまれた。これらの詩の主題は、今では過ぎ去つた戦争の回顧としてかたられるわけだけれども、その当時、光晴のような態度をとることがどれほど困難であったか。それをもう一度私どもは身に引き締めて考えてみるべきだろう」(「金子光晴」『現代詩の鑑賞』下巻 新潮社1954年)という。また、これらの詩集は、全体主義、ファシズム、戦争から、民衆の悲惨、思想弾圧、圧迫される個人や家庭の寂寥などを「批判したり、風刺したり、哀傷したりしているもので、その切実さは忘れがたく感動的である」(「あとがき」『金子光晴詩集』岩波書店1991年)と清岡卓行はいう。
 たしかに、これらの詩集からは、つぎのような詩句が、文言が飛び出してくる。制作年月が記される場合と記されていないものが混じっている。これらの詩集が公刊されたのは、まさにGHQの検閲下の時代でもあった。それだけに、「戦時下にあって、実はこんな詩を書いていました」と、次々発表することは、どういう意味を持つのだろうか、という素朴な疑問も頭をかすめる。

「誰も彼も、区別はない。死ねばいゝと教へられたのだ。/ちんぴらで、小心で、好人物な人人は、「天皇」の名で、目先まつくらになつて、/腕白のやうによろこびさわいで出ていつた。」(「寂しさの歌」『落下傘』より)

 

 

「癩の宣告よりも/持つと絶望的なよび出し。/むりむたいにに拉致されて/脅され、/誓はされ、/極印をおされた若いいいのちの/整列にまじつて、/僕の子供も立たされる。」(「子供の徴兵検査の日に」『蛾』より)

  反戦詩、抵抗詩の金字塔のように語り継がれていることに、私は違和感を覚えてしまう。現代にあっては、いまだから話そう、私もこれだけの抵抗をしてきた、など反体制的な発言をしている高級官僚のOBたちが、民主的な勢力にもてはやされたりするのに似ているのではないか。あるいは、自民党を支えてきたかつての著名な政治家が、引退後に少しばかり政権批判をしたからといって、それに飛びつく政党などの一貫性のなさにも似てはいないかと、立ち止まってしまうのだ。

 どうしようもなかった安倍内閣を継承すると明言している菅内閣も、どうしようもない内閣でしかないことに、気づいた者から、すぐにでもできることは何だろうか。

 

 

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『現代短歌』(現代短歌社)11月号が、はや届きました。5月から6月にかけて、本ブログに連載していた古関裕而について書いた記事がきっかけで、執筆のチャンスをいただき、全面的に書き直したものが掲載されています。

 

「古関裕而はだれにエールを送ったのか~公募歌・委嘱歌をて手がかりに~」

 『現代短歌』は、リニューアルされて、隔月刊となり、ちょうど一年、六冊目になります。「評論」に力を入れるということでした。今回の拙稿は、「古関裕而作曲の戦時歌謡の主な公募歌・委嘱歌一覧」の4頁を含み、13頁となり、約束の枚数をオーバーするというわがままを聞き入れていただきました。お読みいただければうれしいです。なお、この雑誌は、東京ですと、紀伊国屋書店新宿本店、ジュンク堂書店池袋本店など、全国主要書店で取り扱っています。

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 2020年11月号裏表紙です

 

 

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2020年9月 8日 (火)

<#山万20時間耐久>って?日本は、いまそんなに平和なのか

 台風10号は、これまで経験したことのない強さで日本に近づき、甚大な被害をもたらすだろう、「あなたの命と大事な人の命をまもるために・・・」という警告を伴った気象庁と国交省との会見が重ねて開かれるのも異例だということだった。また、安倍首相の辞任会見後、いくつかの世論調査では、軒並み安倍内閣の支持率、自民党の支持率がグンと上がり、安倍内閣を継承すると宣言している菅義偉自民党総裁候補への支持率が、他の候補と逆転したことも報じられているさなかだった。

 少し重い?原稿の再校も終わり、一段落したので、ブログを更新しなければと、管理画面を眺めていると??いつになくアクセスが増えている。私が住んでいる街、佐倉市の「ユーカリが丘」関係の記事に集中していたのである。何事かと検索してみると、何やら<#山万20時間耐久>のツイッターがにぎわっていたのだ。ツイートを読んでいってもすぐには呑み込めなかったのだが、どうやらユーカリが丘のニュータウンを走る新交通システム(モノレールと呼んでいるが)の乗車体験をツイートしているらしいのだ。それも9月7日の始発4時31分発から終電までの20時間を一日乗車券で乗り倒そうという、鉄道ファンの実験らしい。ラケットのような路線は、一周4.1キロ、14分しかかからない。だから64周しなければならない、「耐久」実験を試みていることがわかった。

 このモノレールは、この町一帯の開発業者の山万が運営する、ニュータウンの一部を6つの駅で結ぶというものだ。車を持たない私は、最寄りの京成駅に出るときに利用するが、ときどきいわゆる「鉄チャン」らしい鉄道ファンが、駅ごとで写真を撮ったりしているのを見かけることはある。また、お孫さんを連れた人が、遊園地気分で、その路線を数回めぐっているらしい光景は見たこともあるが、今回のように20時間乗りっぱなしというのが「耐久」なのだろう。途中で、乗客と話したり、差し入れがあったり、最後には山万から感謝状をもらったりということもあって、本人も予想外の展開だったらしい。「うーん」これってどんな意味があるのだろう。こんなことで盛り上がるなんて、日本は平和なのだろうか。いや。

 私のブログにたどり着いて、ユーカリが丘や山万の問題点に少しでも触れていただけたのならありがたいとも、複雑な気持ちではある。

直近のスーパーが撤退~コンビニと空き家が増えてゆく街(2019年2月1日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2019/02/post-c635.html

・佐倉市は不動産屋に~山万の空きビルの一部を借り上げて貸室業をやるらしい(2018年12月10日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/12/post-2945.html

・ユーカリが丘駅北口、新しい街づくりというが(2018年7月15日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/07/post-4502.html

・「奇跡の街、ユーカリが丘」~開発の基本に立ち戻ってほしい~「カンブリア宮殿」を見て(2010年9月15日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/09/post-5ce8.html

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2020年8月30日 (日)

首相の辞任記者会見をみて~危機的な民主主義の行方、「安倍憎し」の破綻

 後任がだれになろうと、安倍首相の「病気辞任」と「禅譲」なるシナリオは、絶望的な悲劇に向かう日本の現実である。数々の政府の失政を、首相の犯罪的行為を、ここでシャッフルして、なかったことにするつもりである。8月29日の大方の新聞やテレビが、前日の安倍首相の辞任表明を受けて、安倍一強の「功罪」という形で振り返るが、政府のシナリオと辞任表明の記者会見の質疑は表裏一体にも思えた。「お疲れ様」「ご苦労様」の一言が一社しかなかったとか、余計なこと言う人もいたが、そもそも、権力の監視役でもあるはずのメディアと首相との関係がわかっていない。これまでも少々の小競り合いのシーンを見せながらも、「よいしょ」記者会見の様相を呈してはいたが、今回も、なんら突っ込んだ質問もなかったし、どうでもよい回答をさらに突っ込むこともなかった。目前の現実的な問題を極力回避した質疑だったのではないか。拉致問題、北方領土問題、憲法改正が、やり残した問題というが、憲法改正は国民の関心からも喫緊の課題ではない。

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マスクを外すと。東京新聞より 

  コロナウイルス感染の初期対応と今後の対策、もり・かけ、桜を見る会、などに見る政権の私物化や公文書問題、来年に延期されたオリンピック、非核化問題、などには、最後の方で質疑されるにとどまった、というより言い訳の機会を与えたにすぎなかったのではないか。私ならば、安全保障にかかる軍拡と辺野古基地対応、危険にさらされたままの原発対策、原発事故や災害地の復旧・復興対策、検察庁人事問題、国会議員の汚職や選挙違反対応、慰安婦・徴用工問題などについて質問したかった。国民の暮らしに直結した、教育の空白、医療・介護のひっ迫、消費税増税、TPP、非正規雇用問題、民族差別、マイナンバー普及による情報管理体制、地球温暖化にかかる環境問題、そして、天皇の後継にかかわる天皇制への対応、さらに、メディア幹部との会食、番組介入を続ける政府によるメディアへの介入について、ぜひ質してみたかった。

はっきり言って、首相の病状などはどうでもよい。その詳細はプライバシーにもかかわるだろう。後継問題にしたって、引き出せるわけもないだろう、そんなことに時間をかける記者会見への不満は頂点に達した。

そして、これまでの安倍政権批判は、安倍首相の顔を見るのもイヤだ、アベが憎い、の一辺倒だった。政策一つ一つの分析と対案を提出すべきなのに、「アベ政治を許さない」「安倍による憲法改正阻止」「9条を守れ」「野党共闘」などを叫んでは、いくつものいくつもの署名は集めるけれども、その結果も行方も曖昧なままである。その政府批判勢力も東京オリンピックや天皇制については、沈黙か、開き直りか、礼賛へと傾く昨今である。かつて「岸を倒せ」といって、岸は辞任した後を思う。安倍が辞任したら、なんと言いかえるのか。一市民として、おかしいことはおかしいと、言い続けるしかないのだろうか。

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2020年8月28日 (金)

女川原発のいま、東日本大震災から9年が過ぎて

 2016年、東日本大震災から5年を経た女川を訪ねることができ、下記のような記事をブログにも載せた。それからすでに4年を経てしまったのだが、女川原発の動向が気になっていた。

連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(6)女川原発へ
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-5cf0.html 
連休の前、5年後の被災地へはじめて~盛岡・石巻・女川へ(7)女川町の選択 http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2016/05/5-be09.html
(2016年5月14日)

   8月24日の朝刊のいくつかは、女川町に「女川小・中学校(一貫校)」の開校を報じていた。「復興した町で学びの成長を」(東京新聞)、「新校舎に笑い声」(毎日新聞)とある。総工費約56億は復興交付金27億5000万、原発立地地域共生交付金10億8000万、カタールからの寄付金8億7000万などで賄われている。財源の内訳も、調べてみてわかったのだが、その数字を報じる新聞記事は少ない。大震災前には3つの小学校と2つの中学校があったが、被災や世帯の移転で少子化が進み、小学生196人、中学生103人が高台の新校舎で学ぶことになった、と明るく報道した。町の人口は現在約5700人、大震災発生時からはほぼ半減に近い。

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2020年8月24日毎日新聞より

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原子力発電施設立地地域共生交付金交付規則に基づく地域振興計画(宮城県 2016年2月、2019年8月最終変更)file:///C:/Users/Owner/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/TIQWZOHI/752064.pdf

 しかし、その数日前の8月19日、女川町議会特別委員会は女川原発2号機の再稼働推進の4つの陳情を賛成多数で採択、再稼働反対の請願が反対多数で不採択となった。同委員会は全町議会議員から構成されているので、9月の本会議を待たず再稼働が事実上の容認されたことになると報じている。請願、陳情の提出団体とその理由に着目してほしい。請願の提出団体は、原発関係者の輸送や滞在による経済効果とコロナ禍によって低迷した観光業の復旧に期待しているが、安全性への不安が高まる中、一時的な消費や需要が地元の振興につながるのかは曖昧なままである。1984年に運転開始した1号機は、老朽化のためにすでに廃炉が決まっているが、1995年に運転開始した2号機は、大丈夫なのか、素朴な疑問が残る。さらに請願の一つは2008年に3号機のプルサーマル計画が発表されたが、東日本大震災を経て、いまだに計画は棚ざらしに近い状況での2号機再稼働の不安、危険性を表していると思う。

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   同じ日8月19日に、仙台市の「脱原発仙台市民会議」ほか11団体が仙台市長あてに、事故が起きた場合、市民にも危険が及ぶなどとして、県から意見を求められた際、女川原発2号機の再稼働に反対するよう、要望書を提出していることを地元の新聞やテレビ局は報じている。
 それに先立ち、2018年12月には、1号機の度重なる事故を踏まえて、廃炉が決定していたが、今年に入って、2020年2月26日、原子力規制委員会は、2号機の審査で正式に合格したことを発表していたのである。

 東日本大震災後の福島原発事故後は、原発を擁する地元民だけでなく、多くの国民の間で、原発への不信感、原発事故への不安感は、拭いようもなく深刻なものになっている。各地の原発事故や各電力会社の不正や情報の隠匿などが報じられるたびに、市民にとって必要不可欠な電力、電気なだけに、なんとしても、原発促進阻止、廃炉への道筋を念じるばかりであった。一方で、電力の安定供給、エネルギーミックスを標榜する国と電力会社による原発促進政策は、交付金や補助金攻勢によって、過疎地区振興の名のもとに、自治体・議会の原発容認、促進を取り付けるという手法でしかなく、市民との乖離はますます増幅の一途をたどっている。

 かつてのブログ記事でも書いているように、私は、夫とともに、4年前に、女川原発反対運動の中心的な役割を引き継いで来られたAさんに、女川原発の現状や女川の津波被害・復興計画の状況を聞きながら、町内を案内していただいた。いま、ここで、あらためて、女川原発の歩みを振り返ってみると、「日本の原発の作り方」の典型を見るようで、いまも変わらない、国の在り方を見るようで恐ろしくなった。国民の命と財産を守るはすの政府は、真逆の、目前の一部の人間の経済的利益を優先して、負の結果には責任を取らないという構図が見えてくる。 

 年表は、以下の資料と、新聞記事などを参考に作成してみた。太字は女川原発に限った事項である。
(クリックすると拡大されます)
日本の反原発運動略年表(はんげんぱつ新聞)
http://cnic.jp/hangenpatsu/category/intro 
原子力年表(女川町) 
http://www.town.onagawa.miyagi.jp/05_04_04_04.html#1970

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  なお、上記年表は、以下では鮮明に見ることができます。少し苦労して作成しました。
ダウンロード - onagawa20nenpyo.pdf

   年表を見ていると、原発を擁する自治体やその市民も、同じような苦渋の選択を迫られてきたのではないかとの思いである。初期の段階での選択にあたって、例えば、地権者が土地を売り渡したり、漁民が漁業権を放棄したりするときに、電力会社や行政から十分な情報が開示されず、市民の間でも誤った情報が流布したことも、女川原発反対運動を続けているAさんは指摘していた。壮絶なまでの反対運動を踏まえて、現在も地道な運動を続けている人たちに敬意を表したい。

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原発への道の途中にあった「なくせ!原発」「事故で止めるか みんなで止めるか」、地元女川、牡鹿、雄勝三町の反対期成同盟の立て看板であった。(2016年4月)

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「一番の防災は原発をなくすこと」の文字が読める(2016年4月)

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鳴浜の原発施設を小屋取浜より望む(2016年4月)

  私たちが2016年、女川を訪ねたとき、「震災復興のモデル」のように語られていた女川だった。2015年には完成した新しい女川駅、その駅周辺の商店街シーパルピアも開業したばかりであった。その中には地域の交流館も温泉施設もあった。30分もあれば一回りできる範囲なのだが、建物は新しく、防波堤に遮られず、海へと延びるが街路は美しいのだが、施設の中身となる、私たちのような訪問客、観光客にとって、どれも魅力的なものには思えなかったのである。食事をとろうとしても、少し高めな海鮮丼の店やうどん店などがあり、私たちは迷った末、「わかめうどん」を食するしかなかった。そして周辺は、大規模なかさ上げ工事の真っただ中であったが、4年後の今はどうなっているのだろうか。

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いのちの石碑プロジェクトの一つ、東日本大震災の被害状況が示されていた。10014人であった人口は、今年の6月1日現在(推定)、約5700人というからほぼ半減したことになる

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かさ上げ工事が進む(2016年4月

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高台の医療センターから白い屋根の女川駅をのぞむ(2016年4月)

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2017年11月7日、東京新聞より

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2018年12月15日、毎日新聞より。町の慰霊碑、希望した854人の名が刻まれている

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2020年8月18日 (火)

メデイアの中の「知識人」たちー清水幾太郎を通して考える(2)

 1960年代前半、清水幾太郎は、思想的にも活動にも、大きな転換期を迎えていたことになるのは、前述の二著からも明らかである。1959年3月に結成されて安保改定阻止国民会議は構成団体が多いだけに、さまざまな軋轢があった。とくに前年1958年からラジカルな運動を極左冒険主義として非難する日本共産党と全学連との対立は深刻なものとなり、全学連幹部だった香山健一や森田実らが除名され、彼らが中心となって、いわゆる「ブント」が結成されていた。上の著作には表れていないが、1960年2月、清水が代表を務めるグループが、「諸組織への要請」という文書を革新政党、労働組合、平和団体、学生団体などに送り、このままでは反安保の全国的な、熱いエネルギーを生かし切れず、四散してしまうとして、ラジカリズム批判を批判したものだった。さらに、清水は5月号の『世界』で、「いまこそ国会へ―請願のすすめ」によって、一般市民や学生たちにも「手に一枚の請願書をもって、国会議事堂を幾重にも取り囲もう」と呼びかけ、精力的に講演などに駆け回り、共産党系団体の妨害にもあったという。 
 そして、1960年5月19日から20日にかけての衆議院での新安保条約の強行採決がなされると、いわゆる「進歩的文化人」たちの間には、丸山真男らを中心とした、岸内閣による強行採決は、議会のルールを無視した、民主主義に反するものであり、今後の運動は反安保より民主主義擁護に転換すべきだとする流れが大勢を占めるようになったという。
 
しかし、一方で、この5月20日、6月15日を経た、新安保条約自然承認に至る6月20日までの全国各地での市民や学生たちの安保条約反対の抗議の集会やデモの盛り上り、とくに、私自身も目にしたり、参加したりした国会議事堂への抗議デモの熱気は、忘れることができない。たしかにデモ隊を迎えるのは、参議院、衆議院の面会所の正面に立つのは社会党や総評系の議員たちだったのかもしれない。そんなことはどうでもよかったような気がする。国会の南通用門と向かいの首相官邸の交差点で、激しいジグザグデモを繰り返す全学連の学生たちを、面会所前の歩道を埋め尽くす長いデモ隊の市民たちは見守るようなことはあっても、敵視するような雰囲気はなかったことを思い出す。
 
そして、6月20日の自然承認がされた一方で、岸内閣の退陣が決まると、安保阻止闘争で闘った人々、見守った人々の挫折感はぬぐいようもなく、そのままに終息してしまったのが、うそのようでもあった。大学構内も静かさを取り戻し、私の周辺でも、読書会やセツルメントに精を出す友人が多くなった。私といえば、野次馬的に他学部の講義まで聞きかじり、単位ばかりはせっせと取る学生になっていたが、身につくということもないまま、就職には難儀することになるのだった。 

 清水の全学連支持の色濃い発言の場は、岩波の『世界』からも遠のいていった。といっても、以後は、E・H・カーやサルトルの翻訳の連載などは、同じ岩波の『思想』、『文学』などに執筆していて、岩波との縁が切れるのは、もう少し後のようだ。上記リストをみるように、安保闘争の清水自身の総括は、『中央公論』や『週刊読書人』『図書新聞』などでなされることになり、『潮』や『文芸春秋』『諸君!』に登場するのは1967年以降なのである。 
 評伝①の竹内の興味深い統計がある。清水が雑誌に寄稿を始めた1929年から没年の88年までの年別の執筆本数をグラフ化したものである(306~307頁)。これによると、最初で最大のピークは1938年・39年で、各年120本を越えるのは「東京朝日新聞」の嘱託時代であった。次のピークは1951年・52年で、95、75本という数字になり、それでも、1945年以降1961年までは、年50本前後を推移しているが、1962年から急に減り始め、1971年の50本をピークとして、20本内外を推移することになって、上記のリストの1960~65年という時期は、その下降線のただなかであったことがわかる。清水没後の『著作集』の執筆目録によれば、著書135冊、訳書35冊、編纂・監修43冊、雑誌等執筆併せて2582、ということで、竹内は、そのうちの雑誌等の2246本を対象にしたという(305頁)。
 
こうした流れの中での1960年代の執筆が、ピークを過ぎて下降線をたどっていたとしても、かなりの量にも思える。清水先生の仕事の根拠地は基本的に大学の研究室で、ドアを開けると、背を見せ、窓際の机に向かって、いつも執筆されていたというのが当時の印象である。先生にかかってくる電話の多くは、新聞社や出版社の編集者からではなかったか。なかでも、岩波書店、中央公論社がダントツに多く、さすがだと思ったりした。多くは原稿の依頼や催促らしき話しぶりであった。一つ、興味深く思ったのは、かけてきた人によって、「留守だったことにしてくださらんか」、「今ちょっと手が離せないことにしてくれたまえ」と電話には出られないことも多々あった。中には、二度、三度の末、ようやく出る場合もある。岩波や中公などの場合は、まずそんなことはないのだが、当時、『潮』の編集者からの電話には、「お電話がありましたことをお伝えしておきます」などと応ずることが多かった記憶がある。
 研究室を訪ねてくるお客さんも多かった。とくに学部の応接室のようなものはなかったので、細長い研究室で応対されているようであった。また、連れ立って、出来たばかりの輔仁会館の教職員食堂や目白駅近くの「ボストン」という喫茶室を贔屓にしているようだった。また、外で会う約束は、「新宿ステーションビルの『プチ・モンド』で」と指定するのをよく耳にした。
 先生は、私たちに余分な話をすることはあまりなかったが、1964年のオリンピックの開会式、どこからかの招待で参加したことをうれしそうに話し、私たちをうらやましがらせもした。また、桑沢デザイン研究所から贈られたばかりというライティング・デスクというのか、ビューローというのか、立ったままの姿勢で、ものを書いたり、お茶をのんだりできる机が自慢だった。桑沢洋子がデザイナーに言って「ボクの身長に合わせて、デザインしてくれてネ」と立ってペンを走らせる姿は格好よく、ヨーロッパの貴族の部屋の片隅にでもありそうな、しゃれたデザインの机だった。後で知るのだが、服飾デザイナーとばかりと思っていた桑沢洋子は、かなりの意欲的な人で、たしかに服飾からスタートしたが、バウハウスの影響を受けて、産業デザイン、生活様式にもかかわる総合的な教育を目指し、1966年には東京造形大学を新設しているのだった。

 二つの評伝を読んで、内灘闘争、砂川闘争、そして安保闘争に身をもって参加してきた研究者でもあったが、終生、「ジャーナリスト芸人」と自虐的に語る自負もあった清水幾太郎の足跡、1980年「核の選択―日本よ 国家たれ」(『諸君!』7月号)に至るまでの言説の変わりようをあらためて目の当たりにした。決して「忘れられた思想家」ではなく、現代のメディアで活躍するジャーナリストや評論家、専門家と称する人たちにとっては、「反面教師」として、自身を振り返る手立てにしてもらいたいと思うのだった。
 1965年3月、私は2年間の「目白の森」の勤めを終え、不安でもあった国立国会図書館の試験に引っ掛かり、新卒に混じり、2年遅れの職員となった。

 

 

 

 

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メデイアの中の「知識人」たち~清水幾太郎を通して考える(1)

 1963年の春、学習院大学の門を初めてくぐった。キャンパスは緑豊かで、木造の古色蒼然とした図書館(1909年築、現在資料館)、ネオ・ゴシック調の理学部研究棟(1927年築、現在学習院さくらアカデミー)、本部前の1960年竣工からまもないピラミッド校舎(前川国男設計、2008年解体)、西門に近い、山手線沿いの林の中には池(血洗いの池)もあった。さらに東の奥には、馬場も厩舎もプールもあった。私が勤務することになった法学系の共同研究室は、これも1960年にできた北一号館の二階にあった。政経学部と文学部の研究棟で、学部の図書館はその1階にあった。共同研究室の同僚は四人、私以外は学習院卒業の女性三人、大学院卒業の男性が一人で、主な仕事は、電話の取次ぎ、複写、昼食の注文、三時のお茶出し、先生方の郵便物の仕分け、図書の貸借、資料の整理や校正の手伝いなどであった。男性は名実ともに憲法専攻の「助手」であったが、さぞかし騒々しい環境であったろう。二年目には、メンバーの入れ替わりもあって、女子大卒の方も入ってきた。いまでは考えられないのだが、学科長以外の先生方の研究室には電話がなく、その取次がけっこう忙しかった。 
 二年目には、政経学部は法学部と経済学部に分かれた。一年目の私は、新しくも楽しい世界に思えたが、職業としての選択は間違っていたと後悔し、転職を考えなければならなかった。だが、ここでの二年間、大学や先生方の実態の一端を知ったのも事実で、いま思えば貴重な体験であった。
 
曲がりなりにも、大学時代、安保闘争を経験してきた者には、政治学科の清水幾太郎教授(1907~1988)の存在は大きかった。安保闘争時には「請願デモ」のオピニオンリーダーとして、たびたび新聞や雑誌にも登場する人として、活動的な研究者の印象が強かった。ほかの先生方もそうなのだが、女子学生との関係とは違い、私たち卒業したばかりの女子をどう使っていいのかの戸惑いもあったかもしれない。ぶらりと立ち寄ったり、電話が済んだ後だったり、他愛ないおしゃべりをするというリラックスできる場になっていたようにも思う。

 当時の政経学部の法学関係には、商法の豊崎光衛、東北大学退官後、すでに来られていた民法の中川善之助、我妻栄門下の遠藤浩先生らがいらした。国連本部勤めから帰国したばかりの国際法の波多野里望、政治学関係では、講義やゼミ以外は、あまり姿は見せなかった岡義武、賑やかなクリスチャンでもある政治学の飯坂良明、アメリカ政治史の本橋正、行動科学という分野で、大がかりなコンピュータを利用していた田中靖政、プリンストン大学から戻った国際政治の武者小路公秀らの先生方がいらした。田中、武者小路両先生は、清水チルドレンであったのだろう。法学部独立に備えて教授陣をそろえていたさなかだった。先生方も同僚たちも、なかなか個性的な人たちで、池袋の商店街育ちの私には、戸惑うことも多かった。さまざまなエピソードの中で、清水教授にまつわる些細なことが、どこか、気になるというか、思い出すことが多い。 
 当時もいまも、清水教授の執筆を系統的に読んでいたわけでもない。ただ最近、あの頃の清水教授は、どんな活動や発言をされていたのも併せて知りたくなったのである。新しい評伝の広告につられて、とりあえずつぎの二冊を読んでみた。伝記類を好んで読むようになったら年老いた証拠だと言われたこともある。

①竹内洋『清水幾太郎の派遣と忘却―メディアと知識人』 中央公論新社 2018年2月 (2012年の単行書の文庫化)

②庄司武史『清水幾太郎―経験、この人間的なるもの』(日本評伝選)ミネルヴァ書房 2020年4月

 清水幾太郎の著作は多いが、関係文献も限りなく多いのをあらためて知った。身近な人の回想的なものもあるかもしれないが、ここでは、たった2年間ながら、研究室の雑務を引き受けていたうちの一人として、見聞きしたことを記しておこうと思った。
 前掲、竹内洋の文庫版の「あとがき」で「清水は生涯にわたってメディアに出ずっぱりだった。現代史的関心からみれば、清水を忘れられた思想家とみるよりも、メディア知識人の原型とみることによって腑に落ちることの方が多くなる。このあたりを探ることは、いま新聞雑誌やテレビ、ネットで活躍するメディア知識人を考えることにつながる」と指摘していることに、思い当たるいくつかがあったのである。

 私が在職していた1963年4月から65年3月まで、上記二著の略年譜では、空欄だったり、1・2行の記述だったりする。1960年安保闘争の前後の新聞・雑誌・講演などでの発言や行動にはおびただしいものがあった。過激といわれる安保阻止運動を展開する全学連主流派を支持、共産党へのいら立ち、拒否反応を示していたが、その詳細は知らないままだったが、その挫折感は深いものがあったらしい。その立ち直りというか、転換も早かった印象がある。私には、テキストの分析などはできないが、とりあえず、当時どんな著作を残していたのだろうか。①の巻末の著作目録と1960~65年の著作を国立国会図書館の著者名検索によるリストから、主な雑誌論文と単著を拾ってみた。記事末尾をご覧いただきたい。なお、1959年3月には岩波新書『論文の書き方』を出版していて、ロングセラーにもなっている。(太字は単行本)

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・安保反対運動の現状―-憲法問題研究会における報告 
 世界   1960年1月
・大衆社会論の勝利--安保改定阻止闘争の中で
 思想  1960年4月
・いまこそ国会へ―請願のすすめ―特集・沈黙は許されるか--条約批准と日中関係  世界  1960年5 月
・最悪の事態に立って 請願行動をどう評価するか/”憤り”を組織せよ 4・26統一行動の反省  週刊読書人 1960年5月23日
・批判を思想的に深く―ともに手を取り進むために
 週刊読書人1960年7月25日
・安保戦争の「不幸な主役」―安保闘争はなぜ挫折したか,私小説風の総括 
   中央公論 1960年9月
・サルトルたちと学生たち―故樺美智子に捧げる
 思想    1960年9月
・ 安保闘争一年後の思想--政治のなかの知識人
 中央公論 1961年7月
・歴史とは何か1~6 (E・H・カー著)
 世界   1961年11月~62年4月
歴史とは何か (岩波新書) 岩波書店 1962年
・神話を超えるもの--参院選開票をききながら
  月刊社会党 1962年8月
・理論と実践 経験のスケッチ上・下
 思想  1962年10月11月
・平和運動の国籍
   中央公論 1962年10月
・EECとフランス共産党 
  世界 1962年12月
現代を生きる三つの知恵 (青春新書)   青春出版社 1962 年
・中国の核武装と日本--焦点にたつ中国 
   中央公論  1963年3月
・ 野党の思想的条件
 中央公論   1963年9月
・私たちのサルトル
 文学        1963年3月
・模索と抽象上・下
 思想       1963年5月・6月 
・無思想の時代
 中央公論  1963年7月
・新しい歴史観への出発
 中央公論   1963年12月
現代の経験   現代思潮社 1963年
ヨーロッパ文明史 (文庫クセジュ) クロード・デルマス 著, 訳  白水社 1963年
新しい社会 第16刷改版 (岩波新書) E.H.カー 著, 訳  岩波書店  1963年
・”沈滞“克服のための課題―学生運動の特殊性
 東京大学新聞 1963年11月13日
・言葉言葉 読むこと1~5 サルトル著、訳 
   世界       1964年3月~7月
新しい経済 (岩波新書)  J.ティンベルヘン 著, 訳  岩波書店 1964年
・ビュロクラシー上・下
   思想      1965年6月・7月
精神の離陸 (現代人叢書)  竹内書店 1965 年

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