2009年7月 6日 (月)

町の名前、こんな風に決まるんだ~「ユーカリが丘」って、どこまで?!

  

町名の変更はどのようになされるのか

井野東土地区画整理組合の事業期間が3年間延長になったのは、前号でもお知らせした。今回の開発地区の、宮ノ台5丁目と4丁目に挟まれた第2工区は、私の散歩コースでもある。知り合いに出会って、「ここは宮ノ台6丁目にでもなるのかしらね」などと話していたものだった。昨年末には、「西ユーカリが丘○○街区」の看板を立てた1戸建ての工事が始まり、その内、販売センターもできたと思ったら、間取りなどの建築概要の看板のトップに、いつの間にか「ユーカリが丘ビューガーデン」と書き換えられていた。建築済みの家には、契約済・申込・商談中などの張り紙が貼られた家がちらほらあらわれている。商売とはいえ、隣接の北公園も正式には「ユーカリが丘北公園」だが、住民はもっぱら「北公園」だ。今どきの住宅購入者は、町の名前などには騙されはしない、その現地の住環境をシビアに検討しているに違いない。
 近所の友人から、井野東の町名が審議されているらしい、と聞いた。佐倉市のホームページをみると、129日「住居表示審議会」で議題になっていた。この審議会の諮問を受けた後、市長が決定して市議会に報告する、という手順をとるそうだ。
 
引き続きの416日の審議会も気になるものの、所用で傍聴できなかった。つい最近、その会議要録が公表されたので、審議会2回分を合わせて読むと見えてきたことがある。結論的にいえば、第123工区は、何回目かの投票で「西ユーカリが丘」に決まった。マンションやマックスバリュが建っている第4工区はすったもんだの末、「北ユーカリが丘」案を抑えて「宮ノ台」に決定した。今後は、丁目や学区割りについて審議が続けられるという。

事務局が用意した5つの案の不透明性

1月の審議会では、議題「井野東地区町名変更について」について、事務局はすでに次の5つの案を用意していた。

第1・第2・第3工区

第4工区

西ユーカリが丘

北ユーカリが丘            

宮ノ台7丁目/ユーカリが丘8丁目

宮ノ台6丁目

ユーカリが丘8丁目/9丁目

北ユーカリが丘

井野長割1丁目/2丁目

ユーカリが丘8丁目

西ユーカリが丘

宮ノ台(6丁目)

会議では、①の組合案の位置づけが問題になっていた。市の事務局は、組合が実施した地権者160人へのアンケート調査の集計結果(回収率72%)なので参考にしてほしいといい、同様のアンケートを周辺住民全体に実施してはという意見に対しては、関心のない住民の無責任な回答が出かねないと答えている。委員からは、昔の地名を大事にすべきだとする意見も出ていた。                  

 私は歴史的な地名を大切にするとともに、少なくとも開発実績を踏まえながら、意見の協議・調整するのが審議会の仕事だと考え、その際に周辺住民や自治会が発言できるチャンスは当然あるべきだと思っている。
 
組合案は、「ユーカリが丘」の知名度とブランド力?を強引に引出した感があり、他の案も「ユーカリが丘」にひきずられて、どこか不自然な組合せ案に思える。事務局提案の選択肢が恣意的にも思える。開発実績・町名定着度からいえば②案あたりが妥当かとも思う。昔からの字(あざ)名を重視すれば一部④案なのだが、井野本村を挟んだ第4工区がなぜ「ユーカリが丘」なのかが分かりにくい。現在、第4工区にぽつんと残された八社大神だが、社を囲む里山一帯の小字名は「宮ノ台」で、現在の「宮ノ台」もそれに由来すると、郷土史の勉強会で聞いたことがある。委員からも出ていたが、ユーカリの木は燃えやすいとのことだったが、私は、風に弱く、折れやすいとも聞き、げんに近くの中学校や公園のユーカリの木は数年前切られている。

地名研究が専門の委員からは、昔からの地名を大事にするという佐倉市の方針はご破算になったのか、ユーカリが丘は地名としてちょっと違和感がある、と。また、志津北部地区在住の臨時委員からは、ユーカリの木がたくさん植えられているわけでもないのに、ユーカリが丘と名付けたのは開発業者の営業のためではないか、経緯も知りたいが、井野13丁目という案もある、などの疑問が出されていた。

性急な、強引な採決の中で

これらの5つの案について、委員は書面で意見を提出していた。4月審議会の冒頭で集計結果が事務局から発表された。多い順に、前回の①案「西ユーカリが丘・北ユーカリが丘」、「ユーカリが丘・宮ノ台」、「井野長割または井野を含んだ町名」、その他3名と発表。さらに、事務局から、前回の5つの案を本日、委員の無記名投票で行い、1位が過半数に達しない場合は、上位2位で決選投票とするという提案があった。なお、それに先だって、採決方法について「挙手」か「投票」かについての議論の末、多数決で「投票」を採用した。投票結果は、第1回が①案7票、②案3票、④案3票、⑤案4票、白紙1票。どの案も過半数が取れず、第2回・第3回の投票でも、①案6票、⑤案8票、白紙3票は動かなかった。議長は白紙投票者の退席まで提案し、決着を急ぐ。さらに①⑤案共通の第123工区の「西ユーカリが丘」案は68票とカウントし、18人出席委員の過半数にあたるので決定とした。残る第4工区を「宮ノ台」か「北ユーカリが丘」の決選とし、挙手の9対7で「宮ノ台」に決まった。

民主主義への道のりはまだまだ遠い。

結果もさることながら、私は組合案に固執した委員名とその理由が知りたい。公的な審議会の採決にあたって、なぜ挙手や記名投票がなされないのか。挙手を忌避する理由が、傍聴人がいると地元代表委員の本音が出にくいというものだった。しかし、委員を引き受けた以上は、自らの名前で発言し、採決に参加するのは当然の責任と義務ではないのか。これは、私がかつて公募委員として参加した情報公開(現在は「個人情報保護審議会」と合併している)審議会で、会議録で個々の委員の発言に名前が明記されなかったので、記名を提案したが否決されたこと、審議会のボスのような長期にわたる学識経験者委員と事務局がなれ合いのような場面が多々あったことなどを思い出す。住居表示審議会は、従来複数の担当職員が審議会メンバーになっていたことが、今回の条例改正で改められた。それでも実質的な役人主導は拭いがたいが、形式的にも出題者が回答作成にかかわっていたようなものではなかったか。

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2009年7月 1日 (水)

「戦争画の相貌」花岡萬舟連作展へ

 

  1時間半近くかけて東京へ出るとなると、一つの用事では「もったいない」が先に立つ。今回の展覧会は、車中で見た東京メトロの「沿線たより」のイベント欄で知った。早稲田大学会津八一記念博物館「花岡満州連作」とあって、やや意味不明のまま、「戦争画の相貌」の命名に惹かれ、会場に向かった。大学勤めが長かった私には、学生街とキャンパスの賑わいや喧騒は、やはり懐かしい。会場のポスターで「満州」は画家の(花岡)「萬舟」の誤植とわかった。

 「花岡萬舟」は初めて聞く名前だった。また、この画家の57点の戦争画は、2006年に広島の実業家、住野重樹氏(住野工業、1906年創業、戦前は主にこはぜの製造、原爆により灰儘に帰すが、戦後は自動車部品プレス溶接など)により、この博物館に寄贈されたものだった。寄贈者先代の入手経緯は不明ながら、会社の倉庫や寄託先の美術館収蔵庫で保管されていたものの痛みが著しく、早速修復にとりかかり、今回、修復が済んだ27点が展示されることになったという。制作年や題が不詳のものが多い。

 順路の冒頭の「世界の黎明」(制作年不明)は「天の岩戸」がまさに開かれ、一条の光が差し込んだ場面を描き、「霜月に散る若桜」(1942年頃)は楠木正行の四条畷の戦いのシーンを描いていた。何となく見たことがあるような「歴史画」であって、「戦争画」かしらと思って進むと、「無錫入ル中島今(朝吾)部隊」(1937年頃)、「南京攻略」(1938年頃)などが並ぶ。前者は、集落にはいる部隊の先頭を行く兵士、中央には馬上の上官、左手には物資を荷台にのせた馬車の隊列を背後から描き、前方には黒煙が上がっている。手前には多くの轍の跡、左右の民家には小さな日の丸が掲げられている。後者は、左手、砲兵陣地のはるか先に広がる南京市街地から幾すじかの黒煙が上がり、その手前には、土塁に銃を構えた兵士たちが点々と並ぶ、「南京陥落」目前の戦闘図である。陣地の日の丸の横で双眼鏡を持つのが第16師団長中島今朝吾陸軍中将とされる。修復と言っても補色はしなかったというから、四隅や縁の絵の具がはがれたままの作品も多く見受けられた。どの絵でも、その前に立ち、真っ先に飛び込んでくるのが「白地に赤い」日の丸であった。またさらに進むと、絵の中央に白茶けた部分があって、一瞬、損傷部分かと思ったが、絵は、戦場の兵士の休息時間を描くなかで、たなびくような白煙にかこまれたスペースに書き込まれていたものは、いわば兵士たちの故郷ののどかな秋の収穫風景であり、その中央には乳母車に付き添って子守りをする少年もいる。そういえば、兵士のあるものは、長い巻紙様の書状を読んでいるし、煙草の煙をはいている。一枚の絵に二つのシーンを描く手法は、よく見かける。花岡の絵のように、わかりやすさもあるが、やや安易にも思えた。同じような手法は「忠魂永へに闘ふ」にも用いられ、戦友の遺骸を火葬する場面を描いている中、その煙の中に、なお銃を構えて敵陣に突撃する、小さな兵士の姿を描いているのである。表現が適切かどうかわからないが、安っぽい紙芝居を見ているような気がした。しかし、私は、「漢口デルタ地帯」「重慶拠点」「露営の夢」と題された作品や行軍、上陸、輸送、突撃の場面などおける兵士の装備、積荷、警備状況などの詳細な描き込みなどが記録資料的にも貴重に思えたし、その視線が常に兵士の後方にあることに、関心を寄せるのだった。

カタログによれば(喜多孝臣)、画家、花岡については生没年も不明で、著作権継承者を探索中だという。本名田中亀一、新聞記事などにより1901年、浅草生まれと推定され、京都の山元春挙に日本画を学び、1920年代後半、朝鮮総督山梨半造の知遇を得た後、軍部との縁が深く、1937年上海事変における爆弾三勇士も描いた。中国での活動が長く、「陳張波」を名乗って情報収集をしていた時期もあったという。日本の美術界で、その名が知られたのは1940年開催の「聖戦報告展」であった。軍部や宮家とのつながりとその絵の大衆性が知るところとなり、1941年忠愛美術院(中島今朝吾陸軍中将総裁)を設立、忠心愛国の戦争画を中心に展覧会を開催、傷痍軍人による作品も募集、後、傷痍軍人たちの更生の一環として絵画の指導も行った。中野鷺宮の住居がその活動の拠点にもなったが、この地を離れた後は、隣人たちの話によれば広島の原爆で亡くなったということだ。広島の住野家との縁でもあったのだろうか。ちなみに、この鷺宮のアトリエ付き旧居には、後、経済学者向坂逸郎が住み、向坂夫人の没後は法政大学に寄贈されていたが、これも近く取り壊しの予定だという。

1937年日中戦争開始後、陸海軍省報道部は中央画壇の錚々たる画家たちを戦地へ、従軍画家として派遣した。1939年の第1回聖戦美術展を皮切りに、19454月に至るまで、軍、新聞社、画家(団体)などの連携で、幾多の美術展が全国巡回して開催され、国民の戦意高揚の一端を担った。花岡の活動は、これらの動きとは異なる軌跡をたどりながらも、同様の役割を果たしたことになるだろう。

戦時下に描かれ、展示された多数の戦争画の一部が、敗戦後GHQの手により収集され、紆余曲折の後、東京国立近代美術館に無期限貸与の形で日本に返却されたのだが、その全面的な展示はいまだ果たされていない。このブログでも、藤田嗣治展のところで触れているが、たとえば、戦時下作品や敗戦直後のGHQへの協力などの行動を封じ込めようとする、あるいは救済しようとする勢力があることを残念に思う。

今回の展示では、花岡萬舟という画家の存在を明らかにし、残された作品を公開するためには多くの人々の善意、硬い意志と努力がはらわれたことに敬意を表したいと思う。

 

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2009年6月29日 (月)

インターネット「歌壇」はどうなるか(3)~最盛期に何が起きていたのか~荻原裕幸の果たした役割  

「電脳短歌イエローページ」は、一九九八年二月二七日に、SSプロジェクト(加藤治郎、穂村弘、荻原裕幸)の企画構成により、荻原裕幸を管理人(二〇〇〇年一〇月、玲はる名・ひぐらしひなつ参加)としてスタートした。荻原は、その頃のことを、「短歌に関連するホームページを紹介するためのホームページ」ということで調べ始めた当初は数十件だったが、二年後には二五〇件を超えるリンク集になった、と語る(「新しいスタイルとして」『歌壇』二〇〇〇年八月。現在、リストに掲載されているサイトは六五〇件を超えるが、現在、すでに閉鎖しているもの、更新の形跡がないものも含まれていることになる。リンク集自体も二〇〇五年二月以降の更新がストップしているらしい)。

また、荻原は掲示板「電脳短歌BBS」の管理人として、自由に情報交換ができる「場」を提供した。彼は、その後の数年間、まさに「ネット歌壇」の仕掛け人として精力的な活動をすることになる。上記「イエローページ」と同じ一九九八年に始めたメーリングリスト「ラエティティア」は二年後、加藤、穂村、東直子、小林久美子とともに「@ラエティティア」というメールマガジンを創刊するまでになる(二〇〇〇年六月二九日付一号~二〇〇二年三月一一日付一三号号外。以降未確認)。荻原個人のホームページ「デジタル・ビスケット」を立ち上げるのも二〇〇〇年四月である(管理人ひぐらしひなつ)。メールマガジンはいわば同人誌の電子版、ホームページは個人誌の電子版とでもいえるのだろうか。紙も、印刷費・発送費も要らず、同時に多数の読者に発信でき、双方向の情報交換も可能なメディアを望んだ若い人々に、荻原は「管理人」などとして指導的な役割を果たした功績は、高く評価されるべきだと思う。当時、彼自身が関わったサイト一覧を自ら公表しているが、彼個人のサイトとして「デジタル・ビスケット」など三件、SSプロジェクト関連として「電脳短歌イエローページ」など一一件、荻原のプロデュースサイトとして「梨の実歌会BBS(掲示板)」(五十嵐きよみ)、「電脳日記・夢見る頃を過ぎても」(藤原龍一郎)、「その日暮らし。」(ひぐらしひなつ)、「たった今覚えたものを掲示板」(玲はる名)など一〇件を掲げている(二〇〇二年一月一日現在)。

一九六二年生まれの荻原裕幸の短歌の出発は、十代における短歌総合誌や週刊誌の塚本邦雄選歌欄であり、一九八六年には塚本創刊『玲瓏』に参加している。八七年短歌研究新人賞を受賞、歌集も八八年『青年霊歌』、九〇年『甘藍派宣言』、九二年『ありまじろん』、九四年『世紀末くん!』と矢継ぎ早に刊行した。自身のホームページの年譜によれば、一九九三年から九九年にはコピーライターとしてプロダクションの社員になっているが、その間も評論執筆、各種の短歌イベントの企画・参加が目白押しとなり、一九九八年には、前述のように、「電脳短歌イエローページ」、「電脳短歌BBS」、メーリングリスト「ラエティティア」の開設・運営にかかわり、インターネット歌壇の基本的かつ総括的な仕組み作りに貢献している。

「梨の実通信」を根拠地にインターネット歌会「梨の実歌会」を立ち上げた五十嵐きよみは、早くより、インターネットと短歌を語るには荻原の仕事に触れずには済まされないことを強調、高く評価する(「ネット短歌を批評せよ!」『ちゃばしら@WEB』二〇〇三年二月。「インターネットにおける荻原裕幸の仕事」『歌壇』二〇〇三年八月)。

振り返ってみれば、インターネット「歌壇」は、一九九八年以降、世紀を跨いでの数年間が最盛期だったような気がする。リアルタイムで付き合っていない私などが言うのもためらわれるが、現在は、いわば、嵐が過ぎ去った後、インターネットを利用する歌詠みのスタンスが、かなり定着し、明確になってきたのではないかと思う。その明確さが何であるのか、その方向性については後述したい。

インターネット「歌壇」が活況を呈し、最盛期と思われる時期に、何がなされていたのか、荻原裕幸の仕事を中心に眺めてみよう。 前述の五十嵐きよみのまとめによれば、大別して二つの仕事に分けられるとする。すなわち、一つは、メーリングリスト、リンク集、グループや個人の掲示板の企画・運営などによるネット空間の構築と拡大であり、一つは、メールマガジンの発行、オンデマンド出版「歌葉」での歌集企画編集、新人賞の選考など作品制作・発表にかかる仕事である。

前者のメーリングリスト「ラエティティア」は登録制ではあるが、一九九八年一月開設後約二年で一二六人に及び、一日約二〇通の配信があり、延べ一五〇〇〇通を超えたといい、その「元気」さと情報の過剰ぶりを少し得意げに、あわせて将来像を描けない不安も、荻原は率直に自らのホームページで語っているのが興味深い(「ラエティティアについて」『デジタル・ビスケット』)。リンク集は、いまでこそ多くのサイトに登載され、短歌関係のリンク集といっても多種多様に及ぶ。当時は、特定のホームページを探すためにも、自分のホームページを認知してもらうのにも役立ち、先駆的な役割を果たしていたという。さらに、荻原が関わった掲示板やサイト立ち上げなどの管理人としての仕事の数は、私の想像を絶するものであった。そしてその熱意とスキルの恩恵に浴した歌人は数知れないのではないかと思う。前述の「電脳日記・夢見る頃を過ぎても」(二〇〇〇年一〇月一日~二〇〇七年九月三〇日)と掲示板「短歌発言スペース・抒情が目にしみる」(二〇〇〇年七月二〇日~)を持つ藤原龍一郎は、スタート当時のことをつぎのように語っている。一九九九年、いわば自家製のインターネット掲示板を立ち上げ、発信を楽しんでいたが、荻原から「SSプロジェクトの活動の一環として共催的なHPをいくつか作りたい。こちらで機能の多い掲示板と日記のページを用意するので」と持ちかけられたという(藤原龍一郎「私と短歌とインターネット」『路上』一〇二号二〇〇五年一〇月)。藤原は、また、インターネットの「時間的自在性、公開性、蓄積性」といった特性を発揮するものとして「題詠マラソン」をあげる。

その「題詠マラソン」実践の先駆けとなったのは、五十嵐きよみによるインターネット歌会「梨の実歌会」(二〇〇〇年七月~)であった。参加者が主催者に詠草を送信、無記名で掲示板に発表、選歌を主催者に送信、選歌集計、記名で意見交換、作者発表という手順をとり、二か月に一回、参加者三〇~四〇人程度という(五十嵐きよみ「インターネット歌会の現在」『歌壇』二〇〇三年二月)。いわゆる結社内の歌会を模していた。

また「題詠マラソン」(二〇〇三年~二〇〇五年で休止)と呼ばれるものは、一〇か月をかけてあらかじめ与えられた一〇〇の題に従い、自分のペースで一〇〇首を投稿してゆく仕組みである。ちなみに、マラソン参加者(投稿者)は、二〇〇三年一六二人、二〇〇四年三七五人、二〇〇五年五六三人に及んだという。二〇〇六年からは形を変えた「題詠一〇〇首blog」として続行している。

(『ポトナム』20096月号・7月号所収)

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2009年6月24日 (水)

恋人までの距離(ディスタンス)」~古い映画をテレビでみるのも

ウィーンが舞台との予告を読んで見る気になった(200969日)。映画の邦題の「距離」にはカナがふってある。原題は「BEFORE SUNRISE」(1995年)とそっけない。
ブタペストからパリに向かう列車、隣席のドイツ人夫婦の喧嘩に嫌気がさして、パリに戻るソルボンヌ大学の学生(ジュリー・デルビー)が移動した席の向かいは、アメリカ人青年ジェシー(イーサン・ホーク)だった。会話が始まり意気投合した二人は、食堂車でも話は弾み、青年の提案で、ウィーンに途中下車して翌朝まで街中を歩いてでも一緒に過ごそう、ということになる。夕暮れの環状道路リンクを走るトラムの最後部座席、ドナウ川での事故や自殺で亡くなった人たちの小さな墓地、プラター公園の観覧車、シュテファン寺院と、いかにもウィーンらしい場所と状況の中で、二人は、自らの生い立ちや家族、人生観、恋愛観から死生観までを語り合うなか次第に惹かれあう。あてもなく街の路地裏を歩きに歩き、二人だけの会話で進行するのだが、その自在な演技とドキュメンタリタッチの街のたたずまいに引き込まれてゆく。さらに、ドナウ河畔の詩人やカフェの占い師との暗示的なやり取り、レコードを探しながら、ゲームをしながら、ワインを飲みながらも会話は続く。私がとても気に入ったのは、二人がカフェで向き合って、お互いが今の顛末を友人に電話で報告をするという設定で、それぞれの気持ちの虚実が語られる場面だった。公園の広場で朝を迎え、いよいよ駅での別れのシーンはやはり切なかった。半年後に再会が約束されて、なぜかホッとするのだったが・・・。

映画は1990年代のウィーンの街だったが、私が旅に出たのは今世紀に入ってからだ。わずかな海外旅行体験ながら、ウィーンには3回出かけている。今回の映画や「第三の男」に登場した観覧車は遠くから眺めただけだったし、「第三の男」のラストシーンの中央墓地にもまだ行っていない。もしチャンスがあったら、新しいホイリゲも開拓したいし、見逃した絵画にも出会いたい。小さな教会のコンサートもいい。

ちなみに、2004年には、続編「BEFORE  SUNNSET」が、同じリチャード・リンクレイター監督と二人のキャストで制作された。9年の歳月が流れ、二人は偶然パリで再開するらしい。見たいような、見たくないような・・・。

 

映画館はめったに行かなくなったし、いっときほどテレビで映画を見ることもなくなった。ビデオを借りる習慣もない。学生時代は年間200本以上見ていたような気がする。もっとも2本立て、3本立てというのも珍しくなかった時代である。1960年、安保闘争のさなか、シナリオ研究所というところに半年ほど通ったこともある。シナリオライターの話は色々だったが、登川直樹の名画鑑賞は楽しみだった。「カサブランカ」「会議は踊る」「舞踏家の手帖」などの「古典」を毎週ここで見た。志賀信夫の「講義」は無理に難しくしたような内容だったし、寺山修司には、妙に反発して質問したこともあったなあ。

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2009年6月 4日 (木)

ラベンダーとバラの向こう側で

ラベンダーと市政と

 ご近所の友人が車を出してくれて、4人での「お花見」となった。

 そろそろ見ごろらしいとの情報が入った、先崎(まっさき)のラベンダーランド。ここは、現在の蕨佐倉市長が就任前から自分の畑にラベンダーを植え始め、いまは結構な広さになって、去年からラベンダーまつりが開かれるようになったところだ。蕨氏は早くより自宅に隣接してゴルフ練習場や霊園を経営する元銀行員で、先々代は志津村の村長さんだったという旧家らしい。民間の手法を市政にもという触れ込みで当選した市長だが、現実にはあまり変わり映えのしない役所の姿勢にがっかりしている。開発・環境問題で何度か交渉した体験からしても、こんな課長がと思う人ほど出世しているような気がする昨今の市役所人事ではある。それにしても、ラベンダーの陰に市長の顔がちらつくのは困ったものだ。

 ラベンダー畑の管理者の話によると、「濃紫早咲」が見ごろだそうで、花穂の下方部分の濃い紫が出そろい、先端に薄紫の花が開き始めた今がよいという。6月半ばのラベンダーまつりには屋台も出るし、ラベンダーグッズや鉢も売るからと勧められる。他に「グロッソ」という名札を付けた畑もあり、花期は6月下旬~7月下旬、やや丈のある青々とした葉が茂っていた。うっすらと花穂の気配を見せる「おかむらさき」というのもある。

以下は、帰宅後、ネットから仕入れた情報である。「濃紫早咲」は、香りが淡いので、切り花やドライフラワー、リース材に適しているそうだ。「おかむらさき」は富良野のラベンダーの主力らしい。「グロッソ」は、交配種のラバンジンの一種で1972年、フランスのグロッソ氏が作出したとのことだ。数年前、南仏のアビニヨンで土産に買ったポプリを、改めて確かめてみると、”LAVANDIN DE PROVANCE” というシールが貼ってあるではないか。オイルの収穫量も多い品種とのことで、ポプリは玄関の靴箱の上で、いまだにかなりの香りを放っている。

 

バラ園とその管理者

 少しばかり道に迷いながら、「草ぶえの丘」に到着。今朝(61日号)の「さくら広報」の1面を飾ったばかりのバラ園である。さまざまな品種のバラが、国別、品種別、色別に植栽され、アーチやパーゴラ、随所に格子が組まれているのがわかる。日本の「バラの父」鈴木省一コーナーもある。しかし、バラ愛好家でもない素人の私には、バラ園全体が散漫で、いまひとつインパクトがないのはどうしたわけだろう。「草ぶえの丘」全体の管理運営は、指定管理者制度により、佐倉市から地元の開発業者山万グループに移行した。さかのぼれば、すでに3年前から山万グループに移行、今年度、更新してさらに5年間の指定管理者となった。このバラ園は開園4年目という。バラ園の運営がNPOバラ文化研究所らしいのだが、山万グループとの関係はどういうことになるのだろう。「草ぶえの丘」は、バラ園はじめ、農園、ミニ鉄道、アスレチック、キャンプ・研修施設などアウトドア関係施設を擁するが、どんな風に盛りたてて行くのか、見守りたいところではある。行政改革の一環として始まった指定管理者制度であるが、効率的で安定した管理運営をすることによって市民へのサービスを向上させるのが、その目的だ。指定管理者の選定過程、モニタリング、財政・人事の透明性、情報公開などがきっちり確保されているのだろうか。ともすれば、行政からの丸投げ、責任転嫁、サービス切り捨てへの不安がつきまとう。入園料400円とアクセスの不便さが当面のネックになってはいないか。入園者はどのくらい増えたのだろうか。そんなことを考えさせられた「草ぶえの丘」であった。

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2009年6月 3日 (水)

家族旅行は七沢温泉へ

日向薬師から七沢へ~雨上がりの林道を行く

 久しぶりの家族旅行は言い出しっぺの娘にまかせた。ハイキングにしてはやや心配の天気であったが、小田急伊勢原駅北口に着いたころには薄日がさしてきた。改札口で入手した観光案内地図、あらかじめ読んでいた旅行案内書やネットでの検索記事などからも、いま一つはっきりしないながら、日向薬師行きのバスに乗り込み、約20分、歩くコースは現地で考えることにした。

 日向薬師は、終点のバス停からは、結構な階段をのぼって十数分、杉木立に囲まれた日向山霊山寺は八世紀初頭、行基が開いたとされ、日本の三大薬師の一つだそうだ。本殿は宝樹坊と呼ばれ、茅ぶき屋根で、来年20106月から大改修の予定だという。本尊などは開帳の日が決まっていて、他の重要文化財も宝物殿の見学者(300円)のみにしか拝めないらしい。境内には桜も多く、花の季節は格別だろうと思うが、樹齢800年という「幡掛けの二本杉」もみごとであった(かながわの名木100選。樹高約35m、樹囲約7m)。ちょうど店開きにかかった売店の人に七沢への道を尋ねると、この林道を行けば45分ほどで着くという。けさ七沢から歩いてきたという地元のお年寄りも「歩きやすい道だよ」と送り出してくれる。「クマに注意」の看板がやたらに目につくが、雨上がりの林道、薬師林道はまさに新緑のトンネルで、日も照らず快い。途中、鉄砲水の跡らしい個所やネットに覆われた崖が続き、深い谷底を覗くのが恐ろしいようなカーブもある。それにしても、週末というのにハイカーには出会わないねと話していると、ウォーキングの中年男性とジョギングの青年とがあらわれたが、あとは結局、車1台のみであった。

 七沢温泉の宿が見えてきて、2軒とも玄関の横や勝手口には年老いた犬がおとなしく控えていた。3軒目の今夜の宿「福元館」も年配のコリーが看板犬らしい。ともかく荷物だけ置きに立ち寄ると、「きょうは雨上がりだから山ヒル退治に塩をお持ちなさい」とひとつかみほどの塩を渡された。奥からは相当な音量の音楽が聞こえてきたので昼間からカラオケと思ったら、どうもスクエアダンスだったらしい。

 今回の旅のお目当ての一つでもある、地ビールをのませてくれるイタリア料理「セルバジーナ」へと向かう。途中の立派なお屋敷には「黄金井」の表札、続いての黄金井酒造工場、黄金井クリニック、その隣が黄金井酒造直営「セルバジーナ」だった。だいぶ遅い昼食ではあるが、生地の薄いパリパリのピザと素朴な味のパスタは、ややコクがあるカラメル色のさがみビール「アルト」と相性がよかった。きょうは朝から動いていたので、ビールも回った。一同、意見も一致して、宿に帰っての昼寝となった。

大女将からの地酒「盛枡」の大杯

 温泉は、アルカリ質のヌルヌル系で、やや熱めながら肌にはやさしそうで、女性陣には好評である。夕食は、鹿肉の味噌焼、豆腐料理のほか、どこか懐かしい旅館の和食が並ぶ。途中、大女将からといって黄金井酒造の「盛枡」が朱塗りの大杯で届いた。夕食後も一同、普段の寝不足を補うように早めに床に就いたのだった。

小林多喜二が密かに執筆した宿

 「福元館」は、近年、小林多喜二が築地署での虐殺される2年前の1931年、密かに逗留していた宿として有名にもなった。まだ「蟹工船」ブームなどなかった2000年、地元の人によって、いまの大女将古根村喜代子さんの義姉初子さんから聞いた話としての証言が報告、報道されたのだった。70年もの間、身内だけの話として伝えられてきたらしい。多喜二は、福元館本館とは道を隔てた高台の離れに1カ月ほど滞在しているが、「オルグ」を執筆していた時期と重なるという。

 翌朝、その離れに案内してもらった。本館前の細い石段は見城(みじょう)山へのハイキングコースの入り口にもなっている。離れは、石段をのぼったところの小さな平屋で、縁側付きの6畳間が廊下を挟んで二つ並ぶ。多喜二が泊っていた頃の机、火鉢、行火などはそのままだという。衣紋掛けの丹前も多喜二が着たものだというが。玄関の小部屋には、近年の新聞記事や写真、小林多喜二全集などが広げてあった。

 本館に戻ると、フロントに大女将の喜代子さんがいらした。お話によれば、義姉初子さんが厚木の高等女学校に通っていた頃、ある先生から、宿賃は出すから大事な人を預かってほしい、という申し出を受けたという。多喜二は、なかなかの好青年で、離れから本館の温泉に通う以外は、執筆に専念していたという。70年もの間、公言しなかった宿の関係者、当時、石段下の往来の靴音を気にしていたという多喜二の心中を慮ると、歴史の過酷さに思いは至るのだった。

七沢森林公園、尾根のさんぽ道

 きょうは531日、宿を出ると、地元での大掃除が終わったらしく、ほうきやシャベルなどを担いだ人たちが三々五々、坂を下って行くところだった。「観音谷戸自治会倉庫」前では、車座でにぎやかな「反省会」が繰り広げられていた。実は、この日、私たちの住む町内の自治会でも恒例の側溝清掃だったのだが、金曜日に済まして、出て来ていたのである。雨に降られず、側溝清掃は無事済んだか、散歩とエサは知りあいにお願いしてきたものの、置いてきた犬はどうしているか、など里心がつくのだった。バス通りの七沢観光案内所の前を「森のかけ橋」を目当てに、森林公園へと向かう。

森林公園を南北に貫く道路を跨ぐアーチ型の高架の橋は、辺りの新緑に映えて、なかなかの風景で、スケッチするグループにも出会う。広場、展望台を経ての「尾根のさんぽ道」に入る。さんぽ道というものの、結構きついアップダウンがあって、かなり手ごわい。おまけに、娘は、足元を山ヒルに侵入され、宿から持って出た塩が役に立った。東西に長い公園の北側に位置する尾根道では、何組かのハイカーに出会ってほっとする。丸太の階段がないと滑りやすい急坂もある。北側にひらけた住宅街、その真ん中から運動会の歓声が立ちのぼってくる。このまま進めば「順礼峠」までたどり着くはずだったが、端折って、厚木市森林組合の事務所前で伊勢原行きのバスを待つ。万歩計の歩数は意外と進まなかったが、よい汗をかいた2日間であった。

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2009年5月22日 (金)

先崎の鷲神社まで歩く

      

私が手動の万歩計を失くしたのを知って、娘がデジタルな万歩計を贈ってくれた。少し歩数を伸ばさなければいけないと思っていた矢先、友人からウォーキングの誘いがかかった。週に23度、4000歩位から始め、今は8000歩位までになった。もともと、朝夕の犬の散歩に、夜のウォーキングと合わせて10000万歩達成はなかなか厳しかったので、15000歩をオーバーする日があるのはうれしい。犬の散歩はウォーキングに入らないよ、とは言われたりするけれど。友人と一緒のときは、近くのお寺、お稲荷様、昔の分校跡、隣の学区の小学校、家が建ち始めた新しい住宅街、造成工事が進む調整池までとか、目的地を決めて、とりとめのない話をしながら歩く。

きょうは、先崎の鷲神社、ということになった。先崎は「まっさき」と読む。この地に住まって20年、ミニコミ誌の「取材」?で行ったこともあるし、3年に一度の例祭に何人かの友人と出かけたこともある。

宮ノ台二丁目を通り抜けて、上小竹川の両側に広がる水田を目指して下ってゆくと、対岸には広い屋根の農家が何軒か見える。「子の橋」(1967年?)を渡れば、「先崎地蔵尊」につきあたり、大きな地蔵菩薩(1650年)が格子窓から見える。坐像のお地蔵さんは珍しく、佐倉市指定文化財にもなっているが、身辺には何やら詰まった袋類が積まれていて窮屈そうでもあった。毎月24日に行われる地蔵講に使うものでもあるのか。左に折れれば、すぐに鷲神社の参道である。立派な石段と鳥居(1673年)、その奥に見覚えのある大樹、ケヤキの太い幹が見えてきた。先崎村の鎮守は10世紀にさかのぼり、朱雀天皇の命を受け「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」が祭られたという。ケヤキは14世紀に焼失しかけたが、根元の幹はがらんどうながら、みごとに再生し、その樹齢を誇っている。右手の拝殿に続き、高い屋根に保護された本殿は、天保年間に再建されている。こじんまりした権現造りというのだろうか、四面の柱や壁、土台の木彫りは中国の故事を表すものなのか、素朴ながら手が込んでいるものだった。本殿の裏に回ると、建立の際の銘文があって、この付近に多い旧家の名字、蕨善兵衛、友野茂右ェ門、出山、立石、深山・・・と続く。境内の奥から先客の自転車を引いた男性が現われて、スタンプがそこにありますよ、と教えてくれた。

家からここまで約3000歩、鷲神社を下りて、田んぼに沿って炎天下を歩く。田植えは一部を残してほとんど終わっている。人も車も見かけないね、と話していたら、網や釣ざおを持った自転車の男の子が走り抜けて行く。続いて45人の男の子が追い抜いて行き、少し先の畔道を曲がって、小さな橋に集合しているようだった。手もとの地図によれば、「根崎橋」とある。私たちもあの橋を渡れば、さっきまで屋根が見えていた称念寺に行けるはずと、畦道に入った。すると大勢いたはずの男の子たちが消えていた。小さな橋を渡って、川を覗いても姿が見えない。橋の下か岸の草むらで、ザリガニでも捕っているのだろうか。とても懐かしい風景に出逢ったような、のどかな気分になった。農家の角を曲がるとすぐに「称念寺」前に出た。ここには大ムクロジの古木があるはず。立派な門の先に豪華そうな建物を見ると、何となく入りづらく、先を急げば、すぐに、娘も通った青菅小学校が見えてくる。校門前では、子供を肩にのせた若いお父さんに出会ったと思ったら、近くのマンションの知り合いであった。今でも私や友人がかかわっている土地区画整理組合事業による開発問題で、2年ほど前まで一緒に活動をしていた人だった。彼の住むマンションの目の前に立つはずだった高齢者施設の階数をめぐって組合の業務代行である開発業者との交渉に頑張っていた頃を思い出す。冬至期の日照時間をある程度確保して、その建物の階数は決着を見た。しかし、この時世で、高齢者施設建設計画は頓挫している様子なのだ。そんなことも思い出させる散歩だった。

 今日の鷲神社行きは、8200歩。夕方には犬の散歩が控えている。

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2009年5月20日 (水)

インターネット「歌壇」はどうなるか<番外編>~何かが大きく変わりつつあるのか

 私が、今年2月から短歌結社雑誌『ポトナム』に「インターネット『歌壇』はどうなるか」を連載しはじめて数か月が経つ。毎月1頁なので、このブログには2か月分まとめて掲載し、すでに2回になる。私がネット「歌壇」に関心を持ち始めたのはこの1・2年で、いまもネット「歌壇」の実態を探るべく?奮闘中である。文献はもちろんだが、インターネット上で主題や人名、ブログやホームページ名での検索やアクセスを続けている。そんな中で、また少し気になることに出遭って、戸惑っている。

 私がインターネットにかかわってから、たびたびアクセスしていた「銀河最終便・風間祥WEB短歌日記」は、 私の上記の連載記事「インターネット『歌壇』はどうなるか(1)」を「内野光子さんのブログでインターネットと短歌に関しての考察が始まるらしい。何回か続くようだ」(200935日)と紹介をしてくださった。それ以降、その紹介を通して、私のブログへのアクセス件数が増加していた328日、「銀河最終便」は、つぎのような短歌を載せたまま更新がされなくなってしまった。「公開浮遊状態」というのは、更新をしないというメッセージだったのだろうか。

・しばらくは公開浮遊状態の飛行船浮くこの濁り空

・人には人の空には空の修羅があり黄の嵐吹く季節となりぬ

 季節の風物の写真を添え自身の短歌、既成歌壇への鋭い批判、ネット歌壇・若い歌人たちへの応援メッセージ、とくに経済に強く、社会問題にも歯に衣着せぬ発言が多いので、訪ねるのが楽しみでもあったのだ。再開を待つコメントもあったが、私も期待したい。

 また、「奥村晃作短歌ワールド」に見せる、奥村さんの精力的な活動を反映していた活動報告は、ときにはここまでも書くの、と反発したくなることもある内容であった。しばらく、訪問を怠っていた間、この4月にサイト閉鎖の予告があった後、5月になって突如すべてのデータが削除されていたのだ。「ogihara.com荻原裕幸活動報告」(2009423日)には、つぎのような記事が見られた。

 「奥村晃作さんがサイトを閉鎖するという。自身の活動から歌壇のことまで、主に日記のスタイルで、膨大な量の情報を発信してきたサイトだけに、残念であり、淋しくもある。短歌という一つのジャンルに限って見たとき、ネットには、それを見ることによって作歌活動を継続する刺激となるようなコンテンツがまだまだ少ない。奥村さんのサイトはその種のコンテンツを抱えたものだった。読者として感謝のきもちを表するとともに、これまでのデータが何らかの形で維持されることを望みたい」

 そういえば、奥村さんは、すでに数年前につぎのような発言をされていた(「ホームページと私」『路上』102200510月)。短歌結社とジャーナリズム及び投稿歌壇などで構成される従来からの「既成歌壇」、カルチャー短歌教室という短歌の場、そして「ネット歌壇」、という三つの短歌の場に自らもかかわってきたが、これからの歌人は、この三つの場にかかわってこそ将来を担う歌人になるはずであると。さらに「加齢に拠るものか、別の理由によるものなのか、最近はネット歌壇の動向に興味が薄れつつある」として、日々更新する個人誌「奥村晃作短歌ワールド」における、日記、作歌、受増歌集の紹介などに限っても時間は足りず、古典など読むゆとりがないことを嘆いていた。

 それにしても、仕事の帰りに寄り道するような気分で、このサイトに立ち寄る歌人は多かったのだろうか。このサイトのアクセスのカウントを始めたのが2000215日とあり、1200件、月6000件に及ぶと記していた(上記「ホームページと私」)。開設以来の訪問者といい、このサイトの記事に異議を唱えることが多かった「ベレシート・結社ひとり」においても「私には世間に開かれた数少ない歌壇の窓のように思えた」「軌道修正できない真面目さは、何事もあらかじめ軌道が設定されている現代社会では無軌道と同じで・・・」と、やはり閉鎖を惜しみ、再開を期待していた(200958日)。

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2009年5月 7日 (木)

ディベロッパーの責任~宣伝がすぎると

 地元のディベロッパーとは、友好的でありたいものだ。20年以上この街に暮らしてきてつくづく思う。しかし、最近出遭った二つの出来事がさらに業者への不信感を深めてしまった。

音もなくあらわれる電気バス

 424日、近くのモノレールの駅に接して24時間営業のスーパーが出店開業した。開店後数時間は入店に行列ができるほどの賑わいだったそうだ。落ち着いた後の買い物客の動向が今後の営業方針を左右するのだろう。

スーパーの家主でもある地元のディベロッパー山万は、かねてよりスーパーへの集客アクセスの一つとして、電気バス運行の計画をほのめかしていた。スーパーの開店日が決まり、どんなルートでいつから走行するのか、さっぱり情報が入らず、地元でも心配していた。そんな折、突然のプレス発表があったらしく、全国紙の地方版や地元紙で、「ユーカリが丘電気バス導入」の記事が次々に載った。記事によれば、電気バスは排気ガスもなく、騒音もなく、環境にやさしく、住民の高齢化に対応する。424日から1か月間の実験運行ということで、その間は無料ということだった。

それにしてもどこを走るのか、停留所は決まったのかなど私たち住民は不安もあったが少しばかりの期待もあった。数日後、電気バスのルートと時刻表のチラシがポスティングされていた。そして、その直後、我が家の生垣の下の縁石に黄色のガムテープが貼ってあるのを発見。犬の散歩の折、ご近所を回ってみると、あちらの角にも、公園の角にもあちこち色違いのテープが貼ってあるではないか。ともかく市役所の交通防災課に電話を入れると、現地確認にあらわれた職員は、同じような通報が何か所からかあって調べたところ、電気バスルートの目印であることがわかったという。地元に説明がないばかりか、住民の家の縁石にことわりもなく目印を貼ってゆくなんて。縁石がいくら市有であったとしても断りのない目印はおかしいし、6mの生活道路に了解もなくバスを走らせるなんて・・・。いいことづくめのプレス発表優先、住民無視もはなはだしい。自治会にも説明はなかったという。事前の地元への説明は何かと面倒なことにもなるので、抜き打ち的にチラシを全戸配布してしまおう、というつもりだったのか。あとで、山万の責任者に尋ねると、実験運行の実施が製作会社や大学と共同であったため調整が遅れて行き届かなかった、住民にはなるべくチラシを手渡して了解いただいた、自治会連合会会長には了解いただいている、という返答であった。面談した住民の多くは喜んでくださっているのにと不満が返ってきた。ここには、少なくとも住民に周知の上、了解を得ようとする姿勢が感じられない。音の小さい電気バスの危険性や住民の安全安心への配慮に欠けていたのではないか。オルゴールを鳴らすはずの電気バスは、まだ、音もなく住宅地の角からぬっと姿をあらわすのだ。

スーパーのオープンに合わせて、地元の政治家、役人、商工関係者、福祉や自治会関係者、それにメディアなどを招待して大々的に開催した電気バスの出発式、それを報道する新聞、テレビ局・・・。これには後日談があって、実験運行の5日目428日には、電気バス2台のうちの1台が故障し、一日8回の運行は4回の運休で半減し、復旧しそうにもない。

モノレールの駅名変更中止

京成のユーカリが丘駅からニュータウンを15分ほどで1周する新交通システム・モノレールは、車を持たない私は週に1・2度利用する。昨年の今頃、山万の鉄道部は開通25周年を記念して、新駅名を公募すると盛んに宣伝していた。車内放送、チラシはもとより新聞やミニコミ誌でも伝えられた。このモノレールの駅名は、ユーカリが丘、地区センター、公園、女子大、中学校、井野の6つあり、鉄道マニアの間では、とくに「公園」「女子大」「中学校」などの駅名のユニークさ、そっけなさ、不思議さが結構話題になっていたらしい。ザックとカメラを背負ったマニアがモノレールの車体や駅をカメラに収めているのをよく見かけてもいた。マニアでなくとも、新しい駅名って、どうなるのだろうと若干の関心もあったが、いっこうに変わる風でもないし、不思議に思っていた。山万のホームページでは、「応募が多かったのでしばらくお待ちください」みたいなお知らせを読んだことがある。ところが、応募した知り合いによると、今年の4月になって「変更しない方がよいとする意見が多かったので変更はしないことになった」というお知らせが届いたという。詳しい事情はわからないが、いったいあの物々しい新駅名公募の宣伝は何だったの?たんなる話題作り? それにしても無責任というか、人騒がせなことだった。

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2009年5月 6日 (水)

NHK、皇室への姿勢~二つの番組から

新年度からのNHKの番組構成がまだ頭に入らない。NHKスペシャル「象徴天皇 素顔の記録」(410日午後730分~)・NHKスペシャル「天皇と憲法」(シリーズJAPANデビュー第2回、53日午後9時~)の2本を見た。録画はとったもののまだ見直してはいない。リアルタイムでの放送を見た限りの感想を簡単に記しておきたい。

「象徴天皇 素顔の記録」

天皇皇后の結婚50周年を念頭において、これまであまり踏み込まなかったプライベートな映像を交えて夫婦の歩みをたどり、その「素顔」に迫ろうとしていたことがわかる。特殊な体験をしながらもおだやかに老境を迎えようとしている夫妻のプライベートな暮らしはたしかに視聴者の興味をそそるかもしれない。しかし、この番組は、それにとどまらず、天皇(夫妻)が個人的な信条や配慮からなされたとする、さまざまな発言や行動を、象徴天皇制のもとで位置づけ、その積極性を高く評価しようとしているように思われた。

しかし、そもそも生身の人間が憲法上の象徴天皇制を具現しようというところに、制度上の無理があると考えられる。政治とはかかわらない「国事行為」のみの任務が背負わされる中で、天皇(夫妻)が個人的に、誠実に、賢明に、行き届いた配慮のもとになされたとしても、その発言や行動は、個人的なものではありえず、国家が負うべき戦争責任やときの政府の福祉政策や災害対策などの至らない部分を補完する役目を果たすことになり、本来の政治のあるべき姿を求める国民の批判の目をそらす結果をももたらすことにはならないか。沖縄への慰霊の旅、阪神淡路大震災地、福祉施設への視察など思い当たることも多い。

いま、大事なことは、天皇(夫妻)の個人的な信条や心情とかかわりないところでの役割、それを利用している人々が存在するという危機を認識することではないか。日本が、憲法上、天皇制を抱えてしまった以上、皇室が存在するのは仕方がないという前提に立てば、皇室の方々には、なるべく質素ながら、自由に暮らすることができる仕組みを作り、見守るしかないのではないか、という思いである。

「天皇と憲法」

 見終わってみると、これが日本国憲法の施行された日を記念する番組?という疑問が去らない。「明治憲法と天皇」と題した方がいいような内容であった。大日本帝国憲法の制定過程に時間をかけていた。日本国憲法は、確かに、手続き的には大日本帝国憲法を改正して成立したものなので、日本国憲法制定前史として、日本近代史において明治憲法と天皇という制度がたどってきた道を知ることは重要ではある。しかし、今回の内容が明治憲法であったのはいささかアテが外れた。

 明治憲法制定当時の「万世一系」の文言をめぐる論議、大正期における政党の対立、天皇機関説をめぐる学界の論争、天皇の統帥権をめぐっての軍部の台頭などに焦点があてられていた。その焦点の当て方も、御厨貴、立花隆、山室信一という研究者や評論家の解説に依る部分が多く、研究室やキャンパス、議事堂内外などを背景に、その発言自体が権威主義的な、何か重々しい雰囲気で語られるのだった。天皇をめぐる二項対立的な図式的な論争として捉えることが多く、伊藤博文・井上毅とロエスエル、山形有朋と犬養毅、美濃部達吉・上杉慎吉らの対立を際立たせ、人物評伝的な歴史として受け取られがちな構成であった。戦局や政治家、学者、軍人たちの攻防の歴史ではなく、明治憲法下の各時代における国民の生活実態や運動、そこから発せられるメッセージ、植民地政策にも光を当てる視線が必要ではなかったか。山室は、天皇を「利用する」人々や勢力のあることを何度か強調していたが、具体的に言及してほしかった。今後のシリーズで丹念にたどってほしいテーマはたくさんある。今後の行方を見守りたい。

 JAPANデビューの第1回「アジアの一等国」での日本統治下の台湾の捉え方をめぐって、「日本李登輝友の会」などからのNHKへの抗議運動が活発化している。きちっとした歴史認識を踏まえ、日本の歴史教育の間隙や歪みを埋めるべく、メディアの役割を果してほしい。私が仕事を退いた後、学んだ先で提出した論文が「日本統治下の台湾におけるマス・メディアの形成と天皇制」であった。この番組についてもいずれ検証したいと思っている。NHKも民放のマネをして、お笑い芸人やタレント学者を起用するのだけはやめてほしい。面白おかしく盛り上げたり、音楽やナレーションで妙に情緒的に傾いたりすることなく、問題提起と判断材料を的確に伝達してほしいのだ。

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