2022年9月21日 (水)

忘れてはいけない~覚えているうちに(5)60年前の女子の就活

 私が大学に入ったその年の暮れに、母は56歳で病いで急逝した。その母は、女も資格を持って働き続けなければというのが持論で、大正末期、師範学校を出ながら、出産のため数年で小学校教師を辞めなければならなかったことを嘆いていた。薬局という自営業の父を助け、三人の子育てもしたが、少しは、暮らしに余裕ができて、これから自由にという矢先だったに違いない。もう60年以上も前のことである。

 私も教育系の大学だったので、高校の社会科の教員になるのが第一志望だったが、卒業当時、高校の社会科の教員は、東京都は募集もなかった。近県の教員試験はパスして名簿に登録はされたものの、四月採用は無理だと知らされた。一方で、何の準備もなく大学の就職課の掲示板を眺めては、受験資格「女子も可」という朝日新聞社、岩波書店、中央公論社、講談社・・学生社、グラムフォンなども受けていたが、いずれも一次や二次で落とされていた。当時は、会社説明会なんてなかったのでは。教授や先輩の伝手で、電通や東映などへも、紹介状を持って訪ねていたが、受験には至らなかったのだろう。しかし、なに一つ特技など持たない女子には、厳しかった。不採用通知は今でもファイルに残してある。法律専攻だったので、男子たちは、金融・製造関係や公務員、進学を目指すものが多かった。私は、不勉強がたたって、公務員試験にはまったく自信がなかった。それでも、ようやく年内に、内定をもらっていたのが流通業界、いまでこそ大手スーパーを経営する会社だった。「商売を覚えて来いよ」?と父も喜んでくれた。

スーパーか大学の「助手」か
 ところが、G大学から非常勤でこられていた先生とゼミの先生が勧めてくださったのが、G大学の「助手」にならないかという話だった。G大学は、翌年の法学部新設に伴い共同研室勤務の「助手」が必要だったのである。「大学の助手」の名に惹かれたというのか、ただのミーハーだったのか、大学職員として、ともかく二年間務めた。この間のことは、当ブログでも何回か触れているが、色々な先生たちの「生態」や「私立大学」の実情を垣間見ることができたし、生家の池袋や出身大学にくらべると、目白のキャンパスは別世界のようで、楽しかった。考えてみれば当たり前だったのだが、共同研究室の「助手」の仕事はあくまでも先生方の「お手伝い」であることが分かって、二年目にして転職を考えなければならなかった。

図書館で働く
 国家公務員試験には、手が届きそうもない。国立国会図書館(NDL)が独自の採用試験を実施していることを知って、もしかしたらと、にわか勉強の末、何とか、面接までたどり着いた。古巣のゼミの先生にその顛末を告げると、OBのNDL職員を紹介してくださり、会うことになった。さらに、そのOBの先輩の職員にも会い、アドバイスを受けた。面接試験の日も迫ってのことだった。面接の内容は、もう思い出せないのだが、ともかく合格し、本格的な職業生活のスタートを切った。後から考えると、この年の採用は、新館完成を控え、採用人数が、例年になく多い年だったのだ。紛れ込んだといってもよかったかもしれない。
 もう、「ここで、一生働くぞ」との思いだった。一時期、働きながら司法試験を目指す大学の友人たちのグループに入ったりもしたが、基礎学力不足と私の性格からムリとあきらめたこともある。もし、第一志望通り、教員になれたとしても、教育実習先の母校の高校で指導に当たった先生からは、「君は教師には向かないかも」とまで言われていたし、内定していたスーパー業界に入ってたとしても、激烈な競争業界で無事すごせたか、どちらも長続きできたか、怪しいものである。
 NDLでの仕事は、法律関係のレファレンス部門だったが、自分のペースで仕事ができる雰囲気の職場だった。飛び込んでくる利用者にも、ある程度、「過去問」の蓄積で回答できるものもわかってきたり、一緒に閲覧カード!!(現在はすべて撤去)を検索したりした。電話での質問も多く、即答できるものもあれば、時間をもらって回答することも多かった。外部から届く文書での質問は、上司から振り当てられたが、課内にある書誌や参考図書からスタートして、書庫との往復で、ずばり回答に近い資料に行きあたればよろこび、回答には至らなかったものについては検索過程を知らせるようにして、悔しい思いもする。その過程で、多くの先輩たちの残した資料や指導には教えられることが多かった。そして、何より楽しみだったのが、毎週1回「選書日」というのがあって、納本された図書をこの目で確かめられることできたことである。自分の課でレファレンス用として欲しい副本を選んでカードを挟むのが本来の目的だった。ともかく、背表紙だけでも新刊書と出会えるのがうれしかった。それに課内でのお茶の時間、年1回の職場旅行、暑気払い、忘年会、有志でのスキーなども結構盛んであった。書道サークルでの展覧会や合宿もと、忙しかった。

名古屋の女子短大図書館へ
 10年後には、縁あって結婚したが、連れ合いの職場が名古屋だったもので、名古屋で職が見つかるまでは、このまま、頑張る!と、私の単身赴任?が続いた。当時はまだ、「単身赴任」といういい方はなく、「別居結婚」とか言われていた。週末には、どちらか名古屋と当時私の住まいのあった川崎と行ったり来たりという生活だった。その間、名古屋での就活では、NDLの上司からの紹介により、当時、県立図書館長にお会いしたところ、市内のT女子短大の図書館の話が持ち上がった。翌年の四月採用ということであったのだが、なんと出産予定日が八月とわかり、この話は、半分諦めかけていた。それでも、短大の面接に出かけ、実情を話した。が、すんなり、決まったのである。
 その年の三月三一日までNDLに出勤し、翌四月一日には名古屋の短大図書館に出勤していた。短大での同僚の女性二人は年下で、短大の卒業生で、司書資格を持っていた。彼女たちに、私の八月出産のことは「聞いていない!」と言われたときはショックであった。短大の先生たちの産休には、もちろん先例はあったが、職員は初めてだという。当時は産前産後の休暇は6週間であった。ともかく、6週間前まで務め、夏休みを挟み、産後は診断書をもらい2週間延長して8週間の休暇をもらった。教員が主力の労働組合であったが、アドバイスももらったが、代替要員などについては、事務局も応じることはなかった。
 何しろ、その短大図書館は、当時、図書購入費が2000万円を越える規模で、全国の短大でもトップクラスであった。大部分が研究図書費で、多くは研究室に別置され、図書館で利用できる図書が極端に少なかった。副学長、館長を含む教員たちによる図書館委員会では、研修の必要性を説き、地元の短大図書館協議会はじめ、全国短大図書館協議会の研修会、全国図書館大会ほかいくつかの研修会には、職員三人が交代で参加できるようにし、図書館職員の「出張」が認められるようになった。図書館業務にも機械化が進み、その研修などにも追われた。徐々に学生が利用できる雑誌を増やし、図書も増やし、研修、ニュースの発行なども重なると、今度は人員が足りなくなる。アルバイト1人、2人と増えたが、やはり正職員が欲しかった。その後、男子職員も入ったが、県立高校長を退職した上司を迎えるはめになった。 
 名古屋に転職した翌年、お世話になった県立図書館長から、それまで兼任されていた愛知学院大学司書講習会講師の話をいただいた。「参考書誌演習」という科目(2単位ながら1日4コマ1週間)を10年間担当していた。講習会は、夏の休暇を中心に展開されるので、一週間とはいえ、娘の保育園・小学校時代と重なるので、苦労も多かった。「教える」ことはまさに学ぶことでもあって、苦しいこともあったが、楽しさもあった。毎年200人前後の受講生を相手に、概論の後、少人数のグループごとに演習課題を課し、発表してもらい、講評するという手順だった。テキストの作成と補充、演習課題は、毎年少しづつ新しいものに変えていくのは、短大の仕事とは違う楽しさもあり、名古屋を離れるまで、ちょうど十年にわたっての仕事となった。いまのようなネット社会が来るとは思わなかったが、現在も「演習」は形を変えて残っているようで、愛知学院大学の司書講習会は120人規模で健在であった。

千葉の新設大学図書館に
 名古屋弁も聞きなれた10年後には、連れ合いの東京への転任が決まった。仕事を手離したくなかった私は、またもや就活である。こちらも若くはなかったが、続けるとしたら、やはり図書館しかないと、思いつめていた。結局、『図書館雑誌』の求人欄に応募して、都内の私立大学の図書館の非常勤職員として、四月半ばから勤めることになっていた。名古屋から千葉県の仮住まいに転居し、引っ越し荷物の整理のさなか、まったくの前触れもなく、千葉県に新設されたばかりの大学のN図書館長という人の訪問を受けた。いま職員は二人いるが、図書館業務の経験のある人を探しているというのである。ある国立大学で助手を務めていた友人の上司にあたる教授から当方のことを聞いたという。希望するならば、正職員として採用の予定だから、大学の理事長に会って欲しいと。二日後には、面接を受けて、前職直近の給与、図書館は土曜も開館するが、週休二日でという条件を出してみたところ、即決してしまったのである。N図書館長は、後から伺うと、NDLからある研究所に転職、定年まで勤められ、新設大学の教授となった方だった。その新設大学は、中・高等学校を含む学園の創業者の発言力が強いことがわかった。図書館が発行する「図書館だより」の中身までチェックされるようになり、仕事が増えても、増員は非正規でしか補われなかった。


 結局、六年余りで、早期退職し、進学の道を選ぶことになる。振り返れば、どの場面の就活でも、なんと多くの方々にお世話になったことかと感慨深い。きちんとした謝意を伝えられたのか、期待に応えた仕事ができたのかも心細い。そして、支えてくれた家族にも。考えてみると、四つの職場を渡り歩いた三十年余りの半端な職業生活ではあったが、いまの暮らしや考え方に大きな影響を受けていることは確かなようである。
 ネットを見れば転職サイト、テレビでも転職を進めるCMも多い時代である。いまの若い人の「転職」の考え方も知りたい。とくに女性は働きやすくなったのか、女性が非正規という働き方の受け皿になっていないのか、転職が「正解」なのか、転職するしかなかったのか。就活スーツの女性を見ると「就活」頑張ってね!「転職」して大丈夫?と声をかけたくなるのだが。

 

 

 

 

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2022年9月16日 (金)

元首相の「国葬」には反対です~貞明皇后の葬儀でも、もめていた!

小学生が動員された: GHQの統治下にあった1951年5月17日、大正天皇の妻、昭和天皇の母、節子皇太后が66歳で急逝した。追号は貞明皇后とされ、6月22日、「大喪儀」が行われている。護国寺に隣接する豊島岡墓地での葬儀後、その日のうちに、多摩東陵に埋葬されている。この日、地元、池袋の小学校から先生に引率されて、護国寺近くでその葬列を見送った記憶がある。どの先生と誰と、何人くらいで出かけたのかも曖昧ながら、6年生の何人かの代表の一人であった記憶がある。今回の安倍元首相の国葬騒動で、思い出したのである。
 私の卒業した小学校は、とっくに他校と統合されて名前を変えている。気になるので、いま手元にある『創立三十五年記念誌』(1961年)の「沿革」を見てみたが、そんな記録はない。ではと、豊島区役所教育委員会に電話すると、それだけ古いと文書は残っていないというのが庶務課の回答、「行政情報センター」に相談してみてはと、直通電話を知らされる。センターにかけ直してみると、こちらとしても教育委員会に調べてもらうしかないと、まさにタライまわしの展開であった。せめて「豊島区史」のようなもので調べられませんかと尋ねると、1951年には、そのような記載はない、ということであった。手元の貞明皇后の評伝でも、学校現場の弔意状況までの記載がみあたらなかった。当時の新聞を見なければと思うが果たせないでいる。

貞明皇后の葬儀の顛末: 今回の国葬論議にかかわり、元首相ということで、吉田茂の「国葬」が前例として話題になっているが、実は、貞明皇后の葬儀の折にも、政府と宮内庁の間で、つまり、吉田茂首相と昭和天皇との意向の違いがあったらしい。宮内庁のホームページには、「貞明皇后大喪儀」について「昭和26年5月17日、皇太后陛下(貞明皇后と追号された。)が崩御になったので、同年6月22日の斂葬の儀を中心として、一連の大喪儀の儀式が行われました。事実上の国葬とされました。」との記述がある。「事実上の国葬」が気になるところである。
 敗戦後失効した「国葬令」(1926年10月21日)は、大正天皇死去の直前に成立しているが、「国葬」となるのは、「天皇、皇后、皇太后、太皇太后」と明記され、「国家に偉功ある者」も対象になり得るが、ときの内閣の判断に拠ることも明記されていた。貞明皇后の場合は法的根拠も前例もなかったのである。
 貞明皇后の葬儀をめぐっては、田島道治の『昭和天皇拝謁記』に詳しいらしい。未見なので、以下の記事を参考に、そのいきさつをたどってみよう。実にややこしいが、「天皇の政治利用」には違いなかった。

・森暢平「占領期、「国葬」が政治的論点となった貞明皇后逝去 社会学的皇室ウォッチング!/43」(週刊エコノミストオンライン 2022年8月8日配信)
https://weekly-economist.mainichiま.jp/articles/20220808/se1/00m/020/001000d

 貞明皇后が亡くなったのは、1951年5月17日の午後だった。
5月17日夜  吉田茂首相「占領下のため国葬は望まない」➡ 田島道治宮内庁長官
5月18日未明 大橋武夫法務総裁(法務大臣)・佐藤達夫法制意見長官(法制局長官)「国葬は法制上存在しないが、皇太后という身分であることからプライベートとは言い難く、公的な面もあることから、皇室の私的予算の「内定費」扱いではなく、「宮廷費」支弁による「皇室行事」にしては」と提案 ➡ 田島宮内庁長官
5月18日朝9時 田島「上記提案」➡ 昭和天皇「已むを得ず」
5月18日朝10時 岡崎勝男官房長官「宮廷費扱いの準国葬とする」➡ 宮内庁
5月18日夕刻 松井明首相秘書官「内閣は国葬をお願いしたが、陛下の考えで国葬にしないことになった、と説明したいので、了解を」➡ 田島宮内庁長官、拒否

 費用の出所を内定費にしても宮廷費にしても、国費には違いないのだが、このような経過をたどり、首相サイドの提案を宮内庁サイドは拒否した一方、「国情に鑑み、なるべく質素に行うようにとの「御思召」があった」との説明部分を容認したという。吉田首相は、「天皇の意向」ということにして、貞明皇后の葬儀に関しての国会での議論と占領軍への忖度批判の両方を封じたい思惑あったと、上記文献で森暢平は推測する。まさに、天皇の政治利用の一端であったのである。

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1951年6月23日『官報』「皇室事項」に、 葬儀の次第報告と昭和天皇と吉田茂の誄(るい)辞が再録されている

今回の「国葬」: 岸田首相が安倍元首相の葬儀を「国葬」とすると、その理由も曖昧なまま、議会に諮ることもなく、早々に表明した。それというのも、さまざまな政府批判―物価高、コロナ対策、旧統一教会問題、オリンピック汚職などへの批判を、「国葬」をすることによって、いささかでもシャッフルしたい思惑だったのだろう。岸田首相は、元首相の長期の首相在任・功績に加えて、各国からの元首相への哀悼と国民への弔意が示されているので、「国葬」で応えるとの弁を繰り返し、「丁寧な説明」からは程遠い、というより説明がつかないのである。「弔問外交」といっても、参列する国のトップはわずかでしかない。新聞社などの世論調査でも、国葬反対が多くなり、50パーセントを越える結果も出ている。国民の多くは、気づいてしまったのである。
 イギリスのエリザベス女王の葬儀関連の行事が伝統に則して、華麗に進められているが、いまは、チャールズ新国王に渡る4兆円以上の相続財産が国民の関心の的にもなっているという。それこそ、女王が、「国情に鑑み、私の葬儀は極力質素に」とか、相続財産の一部を大型寄付にあてるなどの遺言を残していたら、彼女の人気はさらに高まったのではないか。

 なお、吉田茂や他の国葬については以下に詳しい。
・森暢平「55年前の社会党の失敗 立民は同じ轍を踏むな 社会学的皇室ウォッチング!/47」(サンデー毎日9月25日・10月2日合併号 2022年9月12日配信)
https://news.yahoo.co.jp/articles/93c69894ab305ce6ee25c9c0f362f594cdba28b7

・前田修輔「戦後日本の公葬―国葬の変容を中心に」(『史学雑誌』130-7 2021年7月) https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/130/7/130_61/_pdf

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めずらしく鳩がやって来た!もう一羽は、フェンスのてっぺんを歩いていた。

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2022年9月 4日 (日)

デジタル庁一年、進まぬマイナンバーカード

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   9月3日、またもや、マイナポイントの「つくらなくちゃ!もらわなくちゃ!」の新聞全面広告が出た。我が家で購読している朝日と東京の二紙にはあったのだが、他紙はどうだったのか。しつこい、と言われてみても、「書かなくちゃ!」

マイナポイントの昨年夏以来、洪水のような広告の異様さは、多くの読者の顰蹙を買っているのではないか。昨年も、同じことを書いていたのだが。

マイナンバーカード、このCMの洪水はなんだ?!(2021年10月15日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/10/post-8b9bd0.html

 先週8月31日の東京新聞は「社説」で「デジタル庁1年 暮らしの利便性第一に」の見出しのもと、デジタル庁の最優先課題のマイナンバーカードの普及が5割程度にとどまるのは、「国民が利便性を感じず、個人情報漏えいの懸念が拭い切れないからだ。カード普及を目指すなら、ポイント還元ではなく、制度の信頼性向上に努めるのが先決だ」と述べる。
 同じ紙面の投書欄にも「〈マイナ〉安全性を示せ」(山崎猛)と題して「国民がマイナカードに慎重な理由は個人情報の管理に不安があるからである」として「安全性を示さずにCMやお金で釣るとは国民をばかにした話である」と結んだ発言があった。
 さらに、「デジタル庁発足から1年 信頼性・透明性道半ば」(山口登史)の見出しで、マイナンバーカードの普及率が47%に留まる理由として、個人情報漏えいと国家による監視強化を懸念する記事もある。現在、デジタル庁職員750人の内250人が民間出身であり、庁内の有識者会議の議事録が非公開であるというのだから、その透明性が確保できないのは当然だろう。
 そして、9月3日の全面広告だったのであり、同日の「時事川柳」にはつぎのような一句もあるではないか。

・ひょっとして 支配の道具じゃ あるマイナ(川崎市 じゅんきち)

 朝日新聞は、9月3日の全面広告の前日9月2日、「1年〈何でもできるデジ庁〉の現実」の見出しで、デジタル庁の一年を振り返って、「マイナ保険証」めぐっての厚労省との壁、行政自体のデジタル化も人員不足ということで進まない作業などを伝えるのみで、7月13日の「社説」では、「政府が、自治体ごとのマイナンバーカードの交付率を、地方交付税の額に反映させる方針を打ち出した。住民がカードを取得した率が高い自治体には、交付税の配分を増やす。先月閣議決定した「デジタル田園都市国家構想」の基本方針に盛り込まれた」と報じ、「交付税は、すべての自治体が一定の行政サービスを行う財源を保障するために、国が自治体の代わりに徴収し、財源の不均衡を調整するものだ。この「地方固有の財源」を、国策の推進に用いるのは、明らかに交付税の精神に反する。 なぜここまで理の通らないことをしようとするのか」と疑問を呈している。

 8月31日の毎日新聞は「自治体間競争 あおる国 伸び悩むマイナンバーカード」に見出しで、「地方交付税の算定にカード交付率を反映し、交付率自治体には支給額を上乗せすることを検討している」と伝える。総務省は、22年度からホームページで全国すべての自治体の交付率が公開され、公布先進地域として、上位10位までが【特別区・市】【町村】【都道府県】別にトップに掲載されているのが下の表である。

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総務省/マイナンバーカードの市区町村別交付枚数等について(令和47月末時点)
https://www.soumu.go.jp/main_content/000828898.pdf

 ちなみに、佐倉市も以下のように表示されている。予備校の模擬試験成績発表の掲示板を思い出すし、かつて、ハンセン病者強制隔離政策の一環として「無らい県運動」と称して実施されたハンセン病者隔離を実施した歴史を想起する。丁目ごとに、マイナンバーカード未取得者リストができたりして・・・。佐倉市は41.5%であった。

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 そして、洪水のようなCMの財源といえば、なかなかずばりの数字は出てこないのがもどかしい。

「21年度補正デジタル予算は2.8兆円 マイナポイントだけでない増強点」「日経コンピュータ」(2021年12月23日)によれば、以下の数字になる。
 日経コンピュータが集計した主なデジタル関連項目の総額は2兆8616億7100万円と、過去最大の規模に達し、このうち6割強の約1兆8486億円は、1人当たり最大2万円分を付与するマイナポイント事業であり、マイナンバーカードの普及・普及・促進事業に346億円を計上している。デジタル庁にはマイナンバーカードのシステム整備に101億円が計上されているという。 2022年度の当初予算では、総務省のマイナンバーカードの交付・申請・促進には1064億円(前年度比0.8%増)、デジタル庁のマイナンバーカード制度の推進に4. 7億円(前年度比74%増)ということになっている。当初と補正の落差は理解に苦しむのだが、こんなデータもある。
 日経クロステックの集計ではデジタル関連は総額2兆8616億7100万円だった。補正予算と一体化した2021年12月~2023年3月までの「16カ月予算」で見ると、岸田政権は総額4.1兆円強をデジタル分野に投入する。1年前に一体で編成した「15カ月予算」(2020年度第3次補正予算と2021年度当初予算)で投じた1.7兆円の2.5倍近い規模に拡大する(2022年1月4日)。

 あの執拗なCMの財源はと、昨年も、総務省の担当(自治行政局住民制度課マイナンバー制度支援室)に質問したが、広告代理店に聞かねばわからない?!というのだった。新聞社もテレビ局も、マイナンバー制度についてあれこれは言うものの、政府は巨大広告の大事なスポンサーなので、正面から批判することはしない。メディアの権力監視機能は、すでに翼をもがれているようなものではないか。
 少し古いデータなのだが、2020年9月にマイナポイントがスタートしたころ、その広報費として政府が計上しているのは、なんと53億8000万円。しかも、すでに約1カ月でその約半分となる約27億円がかけられているというのだ(『リテラ』2020年9月24日)。

 一方で、共同通信によれば、取得者に最大2万円ぶんのポイントが付与される2022年6月にスタートした「マイナポイント第2弾」の事業には、総務省が約1兆4000億円の予算を確保しているが、カードの新規取得者が伸びないため、約6000億円余り、9月末の期限延長もあり得ると、報じている(「予算が6000億円残余「マイナカード」普及しない理由は「メリット感じない」…身分証明書にならない事態も」『Flash』 2022年8月28日)。ちなみに、8月25日現在、交付率が5割を超えたと総務省が発表したという。
 依然として、広告費の全貌は、わからないでいる。

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たった一本のヤマボウシの実が庭一杯に。

 

 

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2022年8月31日 (水)

図書館が危ない!司書という仕事

 もう、終活の方が迫っているのだが、たまに外出して、車内で就活スーツの女子学生に出会うと、「頑張ってね」との思いが募る。かれこれ60年前の就活について思い出しては、危ない橋を渡ってきたものだと、思い返す昨今である。

 つい最近、ネット上で、つぎのような見出しの記事に出会った。神戸新聞の「まいどなニュース」である。

「手取り9万8000円では暮らせない」非正規図書館員の訴え 知っていますか図書館の“現実”
8/26(金) 19:30配信
https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/omoshiro/202208/0015586692.shtml

 30年近く、図書館職員として働いていてきた身としては、やはり気になる見出しだった。最近、古巣でもある国立国会図書館の資料はデジタル化されて、検索や遠隔複写、個人配信の資料も増えたので、よく利用する。買ってもいいかな、と思う本は、まず、地元の公共図書館の所蔵を調べて、なるべく借りて読むようにしている。新刊のベストセラーものは、ブームが去ってからでないとまず借りられない。所蔵してない古い図書や学術書を読みたい場合は、相互利用制度によって他館から貸し出してもらい、多くは自宅に持ち帰って利用する。現代詩歌文学館などは、雑誌などでも貸出してもらえるが、自宅には持ち帰れず、館内閲覧・コピーしかできないながら、大いに助かっている。 
   こうして、近くの市立図書館を利用していて思うのは、カウンターの女性がよく変わることだった。市の広報で、一年限りの、いわゆる「会計年度任用職員」募集の記事のなかに、保育士、栄養士、看護師、保健師などとともに図書館職員の募集も見かけたことがある。「任期付き職員」の募集もあって、こちらの方は2年とやや長期で、待遇も職員並みとあるが、図書館職員の募集記事は見かけない。

   冒頭の「まいどなニュース」によれば、日本図書館協会の統計では、全国の公共図書館3316館の専任職員(いわゆる正規職員)の数はここ20年、減少傾向にあり、2001年には1万5347人だったのが2021年には9459人に減少、逆に、非正規職員は、職員全体の7割を占め、その9割が女性だというのである。
   30年近く前ながら、私の最後の職場だった千葉県の新設大学の図書館では、退職時、私を含めて職員二人に、アルバイト三人だった。その後どうなったか。その前に、11年間働いていた名古屋の短大図書館では、職員四人、バイト二人であった。ここは、すでに四年制大学になって久しく、新館も完成、学部新設でキャンパスは二つなったが、その後の状況はわからない。国公立大学の図書館でも、非正規職員の激増が伝えられている。

  地元の佐倉市立図書館の場合、2021年、「令和3年度の当初予算」で見てみよう。図書館としては分館を入れて4館の職員の21人分の給与・手当・共済費併せて人件費総額約1億8972万円、会計年度任用の図書整理員42人分の報酬・手当・共済費は、図書館の一般事務費のなかに約6638万円計上されている。総額を人数で割れば、ざっくり、職員856万、非正規158万と待遇の差は、信じられないほど歴然としていた。税金や共済費が天引きされるわけだから、冒頭の記事にある「手取り9万8000円」という実態に近いのではないか。
   市立図書館のみならず、学校司書の場合も、状況はかなりきびしい。佐倉市は小学校23校、中学校11校あるが、「学校図書館活性化事業/令和3年度」の説明書によると、会計年度任用職員は11人、1校当たり年間勤務数平均50日、月平均25時間という数字が示されている。報酬・手当などを合わせて1177万円になる。1人が1週間で3校を回るという目まぐるしさ、佐倉市は各校の司書配置などは念頭にないらしい。

 また、佐倉市の2021年6月市議会での質疑によれば、2021年4月1日現在、佐倉市の市職員が1006人、会計年度任用職員は63種職、819人に及ぶという(6月16日、萩原陽子議員)。図書館は、21人の職員、非正規42人なのだから、正職員は3分の1ということで、全国平均でもある。非正規職員採用を通り越して、図書館の民間委託が隣の印西市で検討を始めているという。全国的には、すでに、ツタヤが委託されて運営する公共図書館もある。佐倉市においても、学校用務員、学童保育所は、すでに、民間委託が定着してしまったようだし、近くの学童保育所は、まとめて地元開発業者のグループ会社が指定管理者になっている。政府は、「働き方改革」、「人への投資」とかを口にするが、家庭や学校でのいじめや虐待の対応の無責任さ、教員の超過勤務・人手不足、奨学金返済困難者の激増、若手研究者の任期付き採用などが引き起こすさまざまな悲劇が明らかになると、具体的な解決策が示されないまま「再発防止」とか「第三者機関設置」とかでやり過ごすことが多い。「人への投資」というならば、国民の健康・福祉、教育・研究が基本であろうに、行政の手抜き・無為無策とさえ思われる事案、企業の都合が優先されてしまう無力感に苛まれる昨今である。

 司書として働く人たちは、熱心で使命感をもっている人が多い。箱モノとしての図書館ではなく、蔵書構成、整理、選書、レファレンス、出納業務などを利用者目線でこなすためには、暮らしのできる報酬とともに、安心して、長期展望のもとで働き、研鑽できる環境が必要で、ときには他館の利用者となってみる余裕があってもよいはずである。

 新町にある佐倉図書館が、移転新築されて、来年3月には開館予定であるというが、その建設費25億が30億に膨らみ、総額37憶5000万円になるという。総合施設の中の地下スペースが図書館になるとして、市民団体が反対運動をする過程で、様々な問題が浮上、いま裁判にもなっている。そして、こともあろうに、新館の新規購入は、ヤングアダルト用と大型絵本に限るという方針が打ち出されていることがわかった。何を考えているのか、図書館は崩壊の道を歩んでいる。

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「佐倉図書館等新町活性化複合施設実施設計」のパースの一枚。この入り口のキャノピーだけでも5000万円、いまでも、必要性と安全性を問い続けたい。

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「よりよい佐倉図書館が欲しい会」の会報53号には、姿を現したキャノピーの写真が右下に収められている。なんときゃしゃな造りで、風雨に耐えられるのだろうか。城下町?佐倉に似合いそうもないではないか。

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2022年8月26日 (金)

『論潮』15号に寄稿しました~GHQの検閲下の短歌雑誌に見る<天皇><天皇制>

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 一昨年、岡村知子さんから『杉原一司歌集』を送っていただいたご縁で、日本近代文学の女性研究者を支援する同人誌『論潮』を知った。八月発行の15号に、お誘いいただき、ゲストとして、かなり長文の拙稿を掲載していただいた。これまで、雑誌やブログに断片的に書いてきたものだが、何とか、まとめることができたのは、ありがたいことだった。

<内容>
研究ノート・GHQの検閲下の短歌雑誌に見る<天皇><天皇制>90~128頁

はじめに
一 『短歌研究』一九四五年九月号に見る敗戦
二 天皇の「声」はどう詠まれたか
三 検閲下の「第二芸術論」
四 『アララギ』一九四七年一月号に見る「天皇」と「天皇制」
五 『八雲』登場
六 語りたがらない歌人たち
  内務省の検閲とGHQの検閲
  歌人はGHQの検閲をどう受け止めていたのか
  語り出す歌人たち

<関連拙著>
・「占領期における言論統制――歌人は検閲をいかに受けとめたか」

・『ポトナム』19739月、『短歌と天皇制』風媒社198810月、所収。

・「被占領下における短歌の検閲」『短歌往来』18873月、『現代短歌と天皇制』風媒社 20012月、所収

・元号が変わるというけれど、―73年の意味()~(9)―敗戦直後の短歌雑誌に見る<短歌と天皇制>(1)~(5
  2018年107日~115

https://app.cocolog-nifty.com/cms/blogs/190233/entries/90067631

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/7352-e1cf.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/736-7809.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/10/73-4720.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/11/735-edf2.html

・「占領軍による検閲の痕跡」『斎藤史『朱天』から『うたのゆくへ』の時代』 一葉社 2019年1月

・『プレス・コードの影』(中根誠著)書評「警鐘の書」『歌壇』20217

・『プレス・コードの影』(中根誠著)書評「表現の自由とは」『うた新聞』20218

 

 

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2022年8月19日 (金)

マイナポイントのCMに、いったい、いくらかけているのか

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 このところ、「マイナポイント第2弾」のCMが目に余る。5月の本ブログでも触れたが、館ひろしや新庄らの動員に、さらに松坂大輔が加わっての新聞やテレビ、ネット上CMがすごい勢いで流れている。政府は、2万円というポイントをぶら下げて、マイナンバー制度の普及を図りたい一心らしい。 さらに、マイナンバーカードと健康保険証の一体化を義務づけ、2024年度には従来の保険証を廃止!とまで厚労省は目論んでいる。

マイナンバーカード、ここまでやるの?また始まったマイナポイント

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/05/post-fd7ddf.html

  一方、日本医師会の会長は、日程的には到底無理だとの認識を示し、実態としては、システムの導入・運用可能な医療機関や薬局は、7月末日時点で26.1%だというから、ようやく4分の一というところである。なぜそんなに急ぐのか。
   デジタル化で、医療体制は充実するのか。本来、患者の生命、安全が一番のはずだ。安心して子どもが産める病院は減り、高齢者の医療費負担を倍にして、診療抑制を図ろうとしているのが露骨である。少子化対策、健康寿命の延伸とは真逆の政策でしかない。
   マイナンバーカード促進の蔭で、デジタル化のための機器・システム導入業者、広告業界と政府、政治家たちの間で、よもやあやしい、黒いカネが動いてはいないか、そんな不安もよぎる。

   コロナ感染者数の激増、死亡者・重症者の増加、医療体制ひっ迫が、繰り返されているにもかかわらず、コロナ対策の緩和は無為無策に等しいのではないか。自宅療養者の死亡の増加、トリアージによって、見捨てられる命の危機にさらされている国民がいる。

マイナ保険証導入より、先になすべきことがあるはずである。

 

 

 

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2022年8月12日 (金)

忘れてはいけない、覚えているうちに(4)小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<2>

   そして、冒頭の件にもどって、苳三は、なぜ、公職追放に至ったのか。

 その経緯は、『ポトナム』の一般会員には、なかなか伝わってこなかった。未見ながら、平成の初め、1989年、『立命館文学』(511号1989年6月)に、苳三の立命館での教え子である白川静が、その「真相」を明かしているとのことであった。以降1990年代になると、苳三について書かれた文献は、その経緯に言及するようになった。後掲の和田周三、大西公哉によるものだった。2000年代になると、白川静により詳細な経緯が知らされるようになった。

参考文献⑨⑩によると、
苳三は、「中川(*小十郎、立命館創立者)総長の意を承けて北京師範大学の日本語教授として赴任され、相互の親善に努力されたことがあり、東亜の問題にも深い関心を持たれていた。それで支那事変が勃発すると、その前線の視察を希望され、軍の特別の配慮(*陸軍省嘱託)で、河北、河南から南京に及ぶまで、すべての前線を巡られた」 *は筆者注
 とあり、『山西前線』から、つぎの二首をあげて、

 〇〇の敵沈みたる沼の水青くよどみて枯草うかぶ
 〇〇の死骸埋まれる泥沼の枯草を吹く風ひびきつつ
  *1939年3月6日作。○は伏字。(下関馬太路附近)「揚子江遡行(中支篇)」

 「この歌集において、あくまでも歌人としての立場を貫かれた。この一巻を掩うものは、あくまでも悲涼にして寂寥なる戦争の実相にせまり、これを哀しむ歌人の立場である。」として、「このような歌集が、どうして戦争を謳歌するものと解釈され、不適格の理由とされ、不適格の理由とされたのだろうか。その理由は、先生の歌や歌人としての行動にあるのではない。それはおそらく、学内の事情が根底にあったのであろうと思われる。」

 参考文献⑩の白川静「苳三先生遺事」では、さらに詳しく、つぎのような状況が記されている。

 「大学に禁衛隊を組織して京都御所の禁衛に任じ、そのことを教学の方針としていたので、もっとも右傾的な大学とみなされ、その存続が懸念されていた。それで、相当数の非適格者を出すことが、いわば免責の条件であるように考えられていた。」(253頁) 

 学内では、民主化が急がれ、進歩派とされる人たちと保身をはかるかつての陣営とが入り乱れるなか、学内の教職員適格審査委員会についてつぎのように述べる。

「故中川総長の信望がもっとも篤かった小泉先生が、その標的とされた。審査委員会は、先生の『山西前線』の巻末の一首<東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦(いくさ)なからしめ>をあげて、『本書最終歌集は、所謂支那事変は、東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ一首である』

 としたが、この一首が、戦争の悲惨を哀しみ、ひたすらに戦争を否定する願望を歌ったものであることは、余りにも明白であり、この程度の理解力で先生の歌業の適否を判断し得るものではない」(254頁)と訴える。その後、白川ら教え子たち17名により再審要求書が中央審査会に提出されたが、覆されることはなかった。


 では、『山西前線』とはどんな歌集だったのだろうか。
 1938年12月12日に陸軍省嘱託に任ぜられ、22日に日本の○を出港し、28日北支の○港から上陸している。北支篇・山西前線篇一・山西前線篇二・中支篇からなり、天津・北京から前線に入り、兵士たちの戦闘の過酷さ哀歓をともにした記録的要素の高い歌を詠む。当時の立命館総長中川小十郎と支那派遣軍総参謀長板垣征四郎の序文が付されている。そして、この歌集の序歌と巻頭の一首をあげてみる。

戈(ほこ)とりて兵つぎつぎに出(い)で征(ゆ)けりおほけなきかなやペン取りて吾は(序歌) 
心ふかく願ひゐたりし従軍を許されて我の出征(いでゆ)かんとす(従軍行)

 従軍中の1月中旬からは半月以上の野戦病院での闘病生活を経験するが、南京、上海を経て、1939年4月1日に帰国する。巻末には「聖戦」と題する五首があり、最後の一首が「東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦(いくさ)なからしめ」であったのである。
 そこで、ほんとうに、先の一首だけが教職不適格の理由であったのだろうか。不適格判定がなされた年月日、判定の法的根拠は、『ポトナム』の記念号の年表や小泉苳三を論じた文献・年譜には記載がなく、あるのは、1947年6月に「昭和22年政令62号第3条第1項」(*1947年5月21日)によって職を免ぜられた、という記述である。その後の⑦の『立命館百年史』及び⑨⑩の白川静の文献により、判定月日が1946年10月26日であることがわかった。46年10月26日に判定され、翌47年6月に「教職不適格者」として「指定を受けた者が教職に在るときは、これを教職から去らしめるものとする」というのが上記政令の第3条第1項であった。
 上記の判定内容についてとなると、前述の白川文献と『立命館百年史』にあるつぎのような記述で知ることしかできなかった。しかも、『百年史』の方は『京都新聞』(1946年10月29日)の引用であった。

「小泉藤造(苳三)教授(国文学) 従軍歌集を出版し侵略主義宣伝に寄与」

  そして、⑪の来嶋による資料の提供で、全貌が明らかになってきた。苳三から窪田空穂にあてた「再審査請求」するに際して「御見解を御示し下され度御願ひ申上候」という手紙とともに学内の教職員適格審査委員会委員長名による「判定書」と苳三自身による再審査請求のための「解釈草稿」を読むことができたのである。「判定書」の理由部分は、画像では読みにくいので核心部分を引用する。『山西前線』の刊行経緯を述べた後、つぎのように述べる。

 「本書(*『山西前線』)によれば氏の従軍は他からの強制といふが如き事に由るのではなく、自らの希望に出たものである事は明らかであり且本書最終歌(東亜の民族ここに闘へりふたたびかかる戦なからしむ)は、所謂支那事変は東亜に再び戦なからしむる聖戦であるとの意味をもつ一首となつてゐる」

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来嶋靖生「ある手紙からー小泉苳三〈教職追放の闇〉」『ポトナム』90周年記念 2012年4月

 これに続き、「更に氏の主宰するポトナム誌には」として、誌上に発表された、「撃ちてしやまむ」「八紘一宇の理念ぞ輝け」などと歌う六首を無記名であげ、「もとより以上は和歌によるとはいへ、その和歌を通して、また上記の行動によつて侵略主義の宣伝に積極的に協力したもの、もしくはこの種の傾向に迎合したもので」明らかに法令に該当する者と認められるので「教職不適格と判定する」としていた。「判定書」の後半には、苳三が主宰する『ポトナム』に発表された六首が具体的に引用されていたことを知った。この部分への言及がなかったのは、六首の作者へ同人たちへの配慮であったのだろうか。
 一方、苳三は、判定理由について、当時発表していた著述論文などには一切触れず、「私が歌人として中国に旅行し、その歌集山西前線を刊行したこと、及び戦争中の多数の作品の中から僅か六首の歌をとりあげて、私への不適格の理由としてゐる。私が中国に旅行したのは、戦争といふ現実を、国民として身を以て体験し、真実を歌はうとする文学的な要求からであった。戦場を通るには、軍の取り計らひがなくては不可能であつたことは、常識的にも分る筈である。旅行の目的は、私の実際の作品によつて実証されてゐる。(後略)」と「判定」へ反論をしている。
 来嶋は、苳三の依頼に空穂がどう対応したかは不明としていたが、白川文献によれば、前述の17名による再審査請求書とは別に、窪田空穂・頴田島一二郎の両名が個人として「意見書」を中央審査会に提出していたことが明らかになっている。
 なお、上記大学の教職員適格審査委員会による苳三に対する「判定」根拠法令は、「教職員の除去・就職禁止及び復職の件(昭和21年勅令263号)」(*1946年5月7日)と同時に、この勅令を受けた「教職員の除去・就職禁止及び復職の件の施行に関する件(閣令・文部省令1号)」の範囲を定めた「別表第一」の「一の1」によるのではないかと思う。来嶋文献では、「別表第1の11号」と読めるが、別表第一には11号がない。「別表第一」の「一の1号」は、以下の通りであった。

「一 講義・講演・著述・論文等言論その他の行動によつて、左の各号に当たる者。」
 侵略主義あるひは好戦的国家主義を鼓吹し、又はその宣伝に積極的に協力した者及び学説を以て大亜細亜政策、東亜新秩序

 1.その他これに類似した政策や、満州事変、支那事変又は今次の戦争に理念的基礎を与えた者。」

 ここで、GHQによる公職追放の流れと立命館大学の対応と小泉苳三の動向以下のような年表にまとめてみた。

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  苳三は、1951年報道などにより、追放解除が近いことを知ると、夏には、つぎのように歌う。その後に歌われた、わずかな追放関係短歌から選んでみた。いずれも『くさふぢ以後』からである。

歌作による被追放者は一人のみその一人ぞと吾はつぶやく
追放解除の訴願を説く友に吾は答へず成り行くままに
省みて四年過ぎしと思ひをりあわただしくてありし月日を
天皇制を倒せ学長を守れといふビラ貼りてあり門の入口に
(*以上1951年作)
図書館の暗きに歌書を調べをり久しく見ざりしこの棚の書を
(*1952年作)
正面の図書館楼上の大時計過ぎゆく時を正しく指し居り
(*1953年作)
病み臥してかなしきおもひ極ればそのまま眠に入れよとねがふ
(*1954年作)
追放解除の後の生活がやや落ちつくに病み弱くなれり
(*1955年作)

 最初の3首は、口惜しさとあきらめがないまぜになった心境だろうか。4首目は、1951年9月に追放の指定解除がなされた後の年末、かつての職場の立命館大学を訪れた折の作で、「R大学 十二月八日」の小題を持つ一連の冒頭歌である。敗戦直後から立命館大学学長に就任し、大学の民主化を目指した末川博を詠んだものである。末川は、1933年いわゆる「滝川事件」で京大を辞職し、大阪商科大学教授となっていたが、前述のように乞われて立命館大学学長となって、数々の大学民主化を図ったとして有名である。しかし、苳三にとっては「教書不適格者」と「判定」した最高責任者であった。前述の『立命館百年史 通史2』によれば、「巣鴨入りで石原を失った末川が強力なリーダーシップを発揮したことはほぼ間違いであろう。」とも。さらに続けて「適格審査に末川の意向がどれだけ影響を及ぼしたかを語る資料は残されていないが」としながら「末川の勇み足ともいわれたような事件も起こっている」として、1946年10月の教職不適格者判定と同時に、休職処分としてしまったことをあげている(113頁)。本来ならば、「判定」後、指定が決定するまでは、身分保留にしなければならい制度であったのである
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 小泉苳三は、2回ほど登場した、大岡信「折々のうた」。上段の歌は、上記の1首目、学内の教職員適格審査委員会は「烏合の衆」とまで評されている(2007年2月23日)。

 5首目は、すでに1940年苳三が自ら収集した近代短歌史の膨大な資料の大半を寄贈していた立命館大学図書館を訪ねた折の作である。埃をかぶっていたり、見当たらない図書もあったりしているのを嘆く一連の一首である。この資料群は、没後にも遺族から立命館大学図書館に追加寄贈され、「白楊荘文庫」と名付けられ、現在も、近代短歌資料の貴重な文庫として利用されている。この文庫については、参考文献⑬に詳しい。6首目は、指定解除後、関西学院大学教授となり、あたらしい職場となるキャンパスの図書館の時計塔を歌っているが、学究としての意欲をも伺わせる一首ではないだろうか。晩年の作となる最後の二首は、自らの病や出版社経営上の苦境などが重なって、さびしい死を遂げる前兆のような気がしてならない。
 戦中・戦後を変わり身早く、強引に生き抜いてきた歌人たちもいる。戦犯と称される政治家たちが再登場するのをやすやす受け入れてしまった国民の在り様、戦前回帰や保守一強を願う人たちがいることを目の当たりにする昨今ではある。ほんとうに責任をとるべきだった人たちがいたことを忘れてはならないだろう。 
 これまで、私自身、曖昧にやり過ごしてきたことが、『ポトナム』創刊100周年記念を機に、少しはっきりしてきたのでなかったか。

<参考文献>

①岡部文夫「ポトナム回顧」『ポトナム』1954年11月/中野嘉一『新短歌の歴史』昭森社 1967年5月(再版)
②新津亨「回想のプロ短歌」/内野光子「小泉苳三著作年表・編著書解題」、ともに『ポトナム』600号記念特集 1976年4月
③和田周三「小泉苳三の軌跡」/大西公哉「創刊より復刊まで」、ともに『ポトナム』800号記念特集 1992年12月
④和田周三「小泉苳三・人と学芸」/内野光子・相楽俊暁「小泉苳三資料年表」、ともに『ポトナム』小泉苳三生誕百年記念   1994年4月
⑤和田繁二郎(周三)「小泉苳三先生の人と学問」『立命館文学論究日本文学』61号 1995年3月
⑥大西公哉「山川を越えては越えて―ポトナム七十五年小史/ 和田周三「小泉苳三歌集『山西前線』」、ともに『ポトナム』創刊75周年記念特集 1997年4月、所収
⑦『立命館百年史 通史』1・2 同編纂委員会編刊 1999年3月、2006年3月
⑧拙著「ポトナム時代の坪野哲久」『月光』2002年2月(『天皇の短歌は何を語るのか』所収)
⑨白川静「小泉先生の不適格審査について」/片山貞美ほか「小泉苳三の歌」(小議会)」、 ともに『短歌現代』2002年11月、所収
⑩白川静「苳三先生遺事」/白川静「小泉先生の不適格審査について」(栞文、⑨の再録)/上田博「生命ありてこの草山の草をしき」、ともに「『小泉苳三全歌集』2004年4月
⑪来嶋靖生「ある手紙から 小泉苳三<教職追放>の謎」『ポトナム』90周年記念特集 2012年4月
⑫安森敏隆「小泉苳三論―『山西前線』を読む」『同志社女子大学日本語日本文学』2012年6月
⑬中西健治「白楊荘文庫のいま」『ポトナム』創刊100周年記念特集 2022年4月

ほか『ポトナム』記念号・追悼号など。

           <再掲>

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ポトナム短歌会と立命館大学図書館・白川静東洋文字文化研究所との共催で『ポトナム』創刊百周年記念の展覧会が開催されている。立命館大学図書館の特殊コレクション「白楊荘文庫(旧小泉苳三所蔵資料)を中心とした展示となっている。衣笠キャンパスでの開催は終わったが、現在は大阪いばらきキャンパスで開催中、10月7日からは、びわこ・くさつキャンパスでで開催される。私も、コロナ感染が収まったら、ぜひ出かけたいと思っている。お近くの方は、ぜひ立ち寄ってみてください。

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2022年8月10日 (水)

忘れてはいけない、覚えているうちに(3) 小泉苳三~公職追放になった、たった一人の歌人<1>

 今年の4月、私が会員となっているポトナム短歌会の『ポトナム』が創刊百周年を迎え、その記念号が出た。そのついでに、さまざまな思い出をつづったのが、当ブログのつぎの2件であった。

1922~2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)(2)
(2022年4月6日、9日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-559b22.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2022/04/post-a2076e.html

 また、今月は、『ポトナム』百周年について書く機会があった。あらためて、手元にある、これまでの何冊かの記念号や『昭和萬葉集』選歌の折、使用した戦前の『ポトナム』のコピーを持ち出し、頁を繰っていると、立ち止まることばかりである。今回の依頼稿でも詳しくは触れることができなかったのは、1922年『ポトナム』を創刊した小泉苳三(1894~1956)の敗戦後の公職追放についてであった。これまで、気にはなっていたので、若干の資料も集めていた。その一部でも記録にとどめておきたいと思ったのである。実は、2年前にも、故小川太郎さんからの電話の思い出にかかわり、この件に触れてはいる。

小泉苳三、そして小川太郎のこと(2020年12月13日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/12/post-691047.html

 私は、1960年ポトナム短歌会に入会しているので、苳三の生前を知らないが、『ポトナム』600号記念(1976年4月)に、図書館勤めをしていたこともあってか、編集部からの依頼で「小泉苳三著作年表」と「著作解題」を発表している。もちろん公職追放の件は知ってはいた。ただ、『(従軍歌集)山西戦線』(1940年5月)の一冊をもって、なぜ、立命館大学教授の職を追われなければならなかったのか。戦意高揚の短歌を発表し、歌集も出版していた歌人はたくさんいたのに、なぜ苳三だけがという漠然とした疑問はもっていたが、その歌集も真面目には読んでいなかった。

 苳三の職歴や教職歴をみると、平たんではなかったようだ。東洋大学の夜間部を出て中学校教員の資格を得た後も、養魚、金魚養殖をやったり、朝鮮に渡ったりしている。福井県、埼玉県での中学校教諭を経て、1922年28歳で、京城の高等女学校教諭に赴任、現地で、百瀬千尋、頴田島一二郎、君島夜詩らと「ポトナム短歌会」を立ち上げ、4月に『ポトナム』を創刊している。東京に戻った後も、東京、新潟、長野県での国語科教諭の傍ら、作歌と大伴家持研究など国文学研究、『ポトナム』の運営を続け、1932年、38歳で、立命館大学専門学部の教授に就任する。1931年9月「満州事変」に端を発した日中戦争が拡大する。恐慌は深刻化し、農村不況の中、労働争議が頻発し、弾圧もきびしくなるが、プロレタリア短歌運動は活発であった。『ポトナム』の作品にも、口語・自由律短歌も多くなると、苳三は、プロレタリア短歌もシュールリアリズム短歌も、もはや「短歌の範疇を越える」ものとして排除し(『ポトナム』1931年5月)、坪野哲久と岡部文夫が去っている。1933年1月号において、「現実的新抒情主義」を提唱し、「ポトナム短歌会」という結社の指針を示した。現在でも、結社として、その理念を引き継いできているが、その内容はわかりにくい。要は、短歌は目の前の現実を歌うのではなく、「現実感」を詠んで、「抒情」を深めよということではないかと、私なりに理解している。
 戦争が激化し、短歌も歌人も「挙国一致」「聖戦」へと雪崩れてゆくのだが、苳三は、創刊した『ポトナム』、自ら創刊・編集した『立命館文学』や種々の雑誌、NHK大阪放送局などで近代・現代短歌研究の成果などを矢継ぎ早に発表している。1940~42年には、『明治大正短歌資料大成』全三巻を完成させ、近代短歌史研究の基本的資料となり、1955年6月に刊行された『近代短歌史(明治篇)』は、その後の短歌史研究には欠かせない文献となった。短歌史研究上の評価については、『ポトナム』同人の研究者、国崎望久太郎、和田周三、白川静、上田博、安森敏隆らにより、社外からは、木俣修、篠弘、佐佐木幸綱らによっても高く評価されている。
 生前の歌集には、①『夕潮』(1922年8月)②『くさふぢ』(1933年4月)③『(従軍歌集)山西戦線』((1940年4月)があり、没後には④『くさふぢ以後』(1960年11月)⑤『小泉苳三歌集』(1975年11月)⑥『小泉苳三全歌集』(2004年4月)が編まれた。④は、墓所のある法然院に歌碑建立した際の記念歌集で、①は全作品収録されたが、②③④については抄録であり、⑥は、①~④をすべて収録した上、略年譜、短歌初句索引、著書解題、資料として追悼号や記念号で発表された、和田周三、阿部静枝、小島清、君島夜詩、国崎望久太郎による苳三研究論文が収録されている。さらに、白川静と上田博による書下ろしの評伝も収録された。
 いまここで、私の気になる何首かを上げたいところだが、各歌集から一首だけにして、先を急ごう。

①『夕潮』「大正十年」
白楊(ポトナム)の直ぐ立つ枝はひそかなりひととき明き夕べの丘に(朝鮮へ)

②『くさふぢ』「桔梗集 自昭和五年至昭和七年」
わがちからかたむけて為(な)し来(きた)りつること再(ふたた)び継(つ)ぐ人あらむや(書庫)

③『山西前線』「山西前線篇二」
 最後まで壕に拠りしは河南学生義勇軍の一隊なりき(黄河々畔)

④『くさふぢ以後』「Ⅲ自昭和二十一年 至三十一年」
ある時は辛(から)きおもひに購ひし歌書の幾冊いづち散りけむ(一月八日)

(続く)

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ポトナム短歌会と立命館大学図書館・白川静と用文字文化研究所との共催で『ポトナム』創刊百周年記念の展覧会が開催されている。立命館大学図書館の特殊コレクション「白楊荘文庫(旧小泉苳三所蔵資料)を中心とした展示となっている。衣笠キャンパスでの開催は終わったが、現在は大阪いばらきキャンパスで開催中、10月7日からは、びわこ・くさつキャンパスでで開催される。私も、コロナ感染が収まったら、ぜひ出かけたいと思っている。お近くの方は、ぜひ立ち寄ってみてください。

 

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2022年7月22日 (金)

『朝日新聞』川柳欄への批判は何を意味するのか

 わたしは、長年、短歌を詠み、かかわってきた者ながら、新聞歌壇にはいろいろ物申したいこともあり、この欄でもたびたび書いてきた。最近は、毎日新聞や朝日新聞の川柳欄をのぞくことの方が多くなった。

・疑惑あった人が国葬そんな国

・利用され迷惑してる「民主主義」

・死してなお税金使う野辺送り

 7月16日の「朝日川柳」は「国葬」特集なのかな、とも思われた。短歌やブログ記事ではなかなか言えなかったことが、短い中に、凝縮されていると思った。

 安倍元首相の銃撃事件について、「民主主義への挑戦」といった捉え方に違和感を持ち、さらに、全額国費負担で「国葬」を行うとの政府にも疑問をもっていたからでもある。こうした川柳をもって、安倍元首相や政府方針を「揶揄」したのはけしからん、ということであれば、安倍批判や政府批判を封じることに通じはしまいか。政府への「忖度」が、言論の自由を大きく後退させ、自粛への道をたどらせたことは、遠くに、近くに体験してきたことである。  

 大手新聞社やNHKは、たださえ、安倍元首相と旧統一教会との関係、政治家と統一教会との関係に、深く言及しないような報道内容が多い。もっぱら週刊誌やスポーツ紙が取材や調査にもとづく報道がなされるという展開になっている。テレビのワイド番組が、それを後追いするような形でもあることにいら立ちを覚える昨今である。

 朝日新聞社は19日、J-CASTニュースの取材に対し「掲載は選者の選句をふまえ、担当部署で最終的に判断しています」と経緯について説明。「朝日川柳につきましてのご指摘やご批判は重く、真摯に受け止めています」と述べ、「朝日新聞社はこれまでの紙面とデジタルの記事で、凶弾に倒れた安倍元首相の死を悼む気持ちをお伝えして参りました」とし、「様々な考え方や受け止めがあることを踏まえて、今後に生かしていきたいと考えています」と答えたという。どこか腰が引けたようなスタンスに思えた。さらに7月22日には、重大な訂正記事が載っていた。上記「利用され迷惑してる『民主主義』」の作者名が編集作業の過程で間違っていたというのである。なんとも「シマラナイ」話ではないか。

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二句目のの作者が、「群馬県 細堀勉」さんだったとの訂正記事があった(『朝日新聞』2022年7月22日)

 また、今回のNHKの報道姿勢について、当ブログでも若干触れたが、視聴者団体「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」は、7月19日、「犯罪捜査差の発表報道に偏せず、事件の社会的背景に迫る公正な調査報道を」とする要望書を提出した。番組のモニタリングから、容疑者の銃撃の動機についての解説や識者のコメント、安倍元首相の政治実績の情緒的な称揚、東日本大震災の復興政策、経済再生政策、安全保障政策において、事実と国民の意識とはいかに離反していたかの分析もない報道を指摘している。NHKはどう応えるのか。

 NHKには「政治マガジン」というサイトがある。事件後の関連記事には、安倍元首相と旧統一教会、政治家と旧統一教会の記事は一本も見当たらず、もっぱら警備体制、国葬に関する記事ばかりで、7月19日号の特集では「安倍晋三元首相銃撃事件<政治が貧困になる>」と題して、政治学者御厨貴へのインタビュー記事が掲載されている。「戦後日本が築き上げてきた民主主義が脅かされていると同時に、今後の政治全体の調和までもが失われる深刻な事態だと警鐘を鳴らした」という主旨で、今度の事件は「民主主義への挑戦」とのスタンスを展開している。NHKよ、どこへゆく。

 

 

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2022年7月18日 (月)

動機は明白になって来た~容疑者に「精神鑑定」は必要か

 安倍晋三元首相銃撃報道における容疑者と旧統一教会との関係、容疑者が「なぜ安倍をねらったのか」について、大手メディア、とくに、テレビの報道番組のスタンス、メインキャスターやコメンテイターの発言は、そろいもそろって、旧統一教会と安倍との関係を薄めよう、薄めようという意図が歴然としてきた。加えて、安倍の功績をたたえ、その上塗りをするものであった。安倍の銃撃事件と旧統一教会・政治家との関係は切り分けて考えないといけないとの論調も依然として有力である。

 NHKは、容疑者は旧統一教会と安倍が密接な関係があると「思い込み」によって犯行に及んだと「7時のニュース」では言い続けている。旧統一教会と容疑者の母親の寄付・金銭トラブルや安倍との関係は極力触れず、旧統一教会の記者会見後も 「宗教団体(世界平和統一家庭連合)」というのがテロップでの表示である。7月12日の「ニュースウオッチ9」ではこともあろうに、第一次・第二次安倍政権で、防衛大臣や党の副総裁を務めた高村正彦を登場させ、安倍晋三の“政治的功績”をるる述べさせた。そして「(安倍への)批判も確かにあったが、その評価は後世の史家に委ねられる」と締めくくり、MCの田中正良もなんと高村と同様に「事件の判断は歴史に委ねられる」と言い放った。メディアの機能不全、自殺行為にも等しい。ちなみに、高村は、弁護士時代、旧統一教会の訴訟代理人だった人である。政権・政治家への擁護がここまで露骨だと、視聴者の疑問をかえって深めてしまうだろう。

  テレビ朝日「報道ステーション」の大越健介は、容疑者がなぜ安倍を狙撃したのかは「理解不能」とまで明言した。日テレ「ウエークアップ」(7月16日)の野村修也は、安倍元首相の銃撃事件を「教団を壊滅させようと道具として利用した面もあるかもしれない」などと述べる。複数の局の番組で、田崎史郎は「政治家は、選挙で一票でも欲しいから、頼まれれば、祝辞やメッセージ、行事への参加も断れない」などとぬけぬけというではないか。

 そして、政府は、警備体制の不備を強調し、今後の強化を進めるといい、捜査当局は、容疑者の銃や火薬の製造やその性能をしきりに究明するのに熱心で、挙句の果て、奈良地検は、容疑者の動機には「飛躍」があり、刑事責任能力を調べるために本格的な「精神鑑定」を実施する方針を固めたという(毎日新聞7月17日)。容疑者の動機の解明、政治家と旧統一教会との長期間にわたる密接な関係究明からはますます離れてゆく様相がみえてきた。

 さらに、岸田首相は、早々と全額国費で、秋には、安倍晋三の「国葬」を実施すると表明し、憲法改正を突破しようという魂胆である。コロナ感染が収まらず、物価高騰に歯止めがかからず、経営苦の中小企業、生活苦の非正規雇用の人たち、医療費の負担増額が強いられる高齢者たちは、事件や人の死を利用した税金の無駄遣いを許せるわけがない。

 

 

 

 

 

 

 

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«忘れてはいけない、覚えているうちに(2)「告知版」というミニコミ誌があった