2022年5月17日 (火)

岩波ホール、さようなら~「メイド・イン・バングラデシュ」を見る

   東京に出たついでに、思い切って、岩波ホールに寄ってみた。上映時間もちょうどいいので、予備知識もなく飛び込んだ。 整理券に従って入館したが、観客は30人程度か。7月には閉館と聞けば、なおさらさびしい。熱心に通ったというわけでもないが、大昔の映画ファンとしては、やはり悔しさもある。

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岩波ホールはこの神保町ビルの10階にある。

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廊下の壁には、これまでの上映映画のポスターがびっしりと展示されていた。

 

「メイド・イン・バングラデシュ」(2019年、フランス・バングラデシュ・デンマーク・ポルトガル)

 バングラデシュのダッカには、世界の衣料品メーカーの多くの縫製工場が集中している。というより、各国のメーカーは、安い素材と工賃によって安く仕上げるために、安い労働力の得られる他国に多数の系列工場を抱えている。メイド・イン・バングラデシュの衣料品が世界に出回っているのだが、その縫製工場の劣悪な労働環境の中、低賃金で働く、縫製工場の一人の女性労働者が、仲間たちと、さまざまな苦難に遭いながら、労働組合を立ち上げるストーリーである。

   教室のような狭い場所に、三、四十人の若い女性たちが古いミシンでTシャツを縫い上げてゆく。その縫製工場では、アイロン室からの失火で火事になったり、夜勤の末、扇風機も止められたミシンの下の床でごろ寝をさせられたり、賃金や残業代の遅配は日常的だったりする上、男性監督の監視もきびしい。1日にTシャツ1600枚以上仕上げながら、月給がその2・3枚分という過酷さなのだ。地方からダッカに来て、色々な職場を転々としながら、いまの工場に勤める23歳の主人公は、家庭では、無職の夫を養う苦しい暮らしだった。
  工場近くで出会った、労働者支援団体の女性から、工場の実態を知りたい、お礼も出すからと声を掛けられる。出向いた彼女は、支援者から労働法や労働者の権利について教えられ、署名を集めれば組合が作れると勧められる。与えられたスマホを使い、工場の実態や経営者の発言などを記録するようにもなる。労働法を学び、集会にも参加、署名も集まり、監督官庁の労務省?への組合結成申請にまでこぎつける。条件が満たしているのに、なかなか認可が下りず、何度も役所に通うが、上司のところで止まっているらしいと知る。家に帰れば、職を得た夫からは、もう働かなくてもよい、組合を作るなんてやめろ、とまで、暴力を振るわれもする。
 いつまでも組合認可が下りない役所で、受付を突破、幹部の部屋になだれ込んで、なぜ認可が下りないのか詰め寄ると「外からの・・・業者からの圧力があって・・・」と言いよどむ。そこからが彼女の底力というか、勇気というか、スマホで録音した発言を言質にとって、とうとう書類にサインをさせるのだった。 
 映画は、そこで終わり、そこからも苦難が続くであるだろうに、彼女は、成し遂げたという力強い眼差しながら、かすかな笑みを浮かべるのだった。

   ドキュメンタリータッチに徹したという監督のルバイヤット・ホセインは、足踏みミシンで、黙々と縫い続ける女性たち、主人公の住む街の狭い路地、そして家賃の支払いもままならない暗くて狭い家、家主とて、やっとテレビが置ける程度の貧しさ・・・を丹念に描いている。路地に行き来する人たち、サッカーボールをただ転がしているだけの子どもたち。仕事を終えた主人公たちは、みな若い、恋の話にも興じながら家路につく・・・、 印象深い場面がよみがえる。

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監督、主人公のモデルは語る

 2020年に来日したとき、監督は、インタビューで、縫製工場で働くのは女性が80%を占め、平均年齢は25歳、2013年頃の状況だったと語る。その後、たしかに、月給は2倍、シャツ4枚分程度にはなったが、現在の縫製工場は機械化が進み、そこで働くのは男性が多くなり、女性の失業者が増えているともいう。なお、業者と政府の癒着という構図も映画では描かれているが、主人公に詰め寄られた役人のモデルは、政府から解雇され、いまは労働者の支援をしているとのことであった。この映画製作の動機は、主人公のモデル、活動家のダリヤ・アクター・ドリに出会ったことにあり、そこから調査や取材も始めたという。

 一方、モデルとなったダリヤ・アクター・ドリも、同年、来日した折に、「私は工場の仕事に誇りを持って働いてきました。それなのに解雇されかけた。労働者の権利を守るためには、今、自分が動かなければいけない。後に続く若い人たちの夢や希望まで潰えてしまう。自分1人のための戦いではないと思ったから、苦しくても続けられたのだと思います」と語り、映画で描かれているよりも、私の労組の活動に対し、夫は、協力的ではなく、離婚したとも語っている。

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振り返って、日本の場合~ユニクロは大丈夫?

 最近、中国の新疆ウイグルスで過酷な労働条件のもとに生産されたワタを使用しているとされたユニクロが問題視され、会社側は、その否定に必死であった。ちなみに、ファストリテイリングの2022年3月現在の「生産パートナー工場リスト」によれば453工場のうち約半分の239工場が中国にあり、ベトナムが58、その次がバングラデシュの30、続いて日本22、カンボジア、インドネシア、ポルトガルと続く(間接取引、直接取引を含む)。「主要素材工場リスト」(91工場)には中国50、ベトナム10、インドネシア8、日本6、・・・バングラデシュ3と続く。
ファストリテイリングホームページ、参照。
https://www.fastretailing.com/jp/sustainability/labor/list.htm

 それでは、ZALA、GAP、H&Mなどの大手アパレルの場合はどうなんだろうか。わたしも、自分や家族の衣類のタグを見るようになった。自分の下着などは、ほとんど生活クラブ生協から購入しているつもりだが、かつて購入した衣類では、もちろん日本製が多いのだが、ほかでは、メイド・イン・中国が多く、ベトナム、韓国なども見受けられた。

 映画を見始めたとき、これは日本の『女工哀史』か、紡績工場や製糸工場の「女工」ではないかの感想を持った。組合結成の話になると、いまの日本の働く人たちの非正規の割合、その待遇の低さ、正社員、正職員であっても、その労働組合の加入率は、私たちが働いていた頃には想像もつかないくらい、極端に低くなってしまった現実がある。
 働き方改革? 多様な働き方? 選択肢が広がった? 一億総活躍? 高度プロフェッショナル制度? 同一労働同一賃金? コトバだけは踊るが、その実態は、働く者が一番よく知っているはずではないか。
 それなのに、日本では、労働組合は働く者から遠ざかり、働く者の労働組合離れが主流になってしまった。そして、組合の必要性を身をもって体験した人たちにより、各業界でユニオンなどが結成されることが多くなり、活動を続けている。

 近くの工業団地のアマゾンや食品会社のシャトルバスから降りて来る働き終えた人たちが、黙々と駅へと急ぐのを目にすることがある。外国の人も多い。三交代制とも聞く人たちの労働環境を思わずにはいられない。「メイド・イン・バングラデシュ」が外国の話には思えないでいる。

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2022年5月12日 (木)

”短歌ブーム”がやってくる?短歌は商売になるのか

 けさ、遅い朝食のかたわら、テレビのチャンネルをまわしていると、なんと、短歌が話題になっている。「『サラダ記念日』以来の短歌ブームが必ずやってくる」と断言するのは『短歌研究』の編集長だった。「スッキリ」のようなワイド番組に短歌雑誌の編集長が登場するのも珍しい。

 岡本真帆(32)という人の歌集『水上バス浅草行き』(ナナクロ社 2022年3月)が、歌集ではめったになく、8000部も売れていて、書店でのサイン会や大手書店の短歌コーナーが紹介されていた。

・ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし

 という一首が紹介されていたが、「におわせ満載の、あるある短歌」で、正直、あまり好きにはなれない。ジェンダーの視点から見ると、眉をひそめそうな一首である。当然、俵万智も登場し、なぜ短歌がブームになったのかを聞かれて、SNSの影響が大きいという。やや不正確だが、短い言葉での表現の過程で、心も豊かになるといった趣旨のことを述べていた。歌集を読まずに申し訳ないが、岡本短歌も俵万智のかろやかさの流れをくむものであって、わかりやすいのは確かなようだ。

 歌壇には、もう一つの短歌ブームがあるようで、表現上では、口語で平明だが、一首として、私などには「意味不明」な短歌がもてはやされている。

 ところで、番組には、木下龍也という人の、注文に応じて短歌一首を1万1000円で売っている?様子も放映されていた。この歌人については、新聞等でも紹介されていた。依頼者の、いまの自分の状況や気持ちを短歌にしてほしいというオファーに応える短歌を作り、依頼者を励ましている現実があるという。なかには、その一首を「お守り」のようにしているという依頼者も登場している。

 要するに、お題に添って短歌を詠み、それを仕事にもしているのだが、現代の短歌のありようとして、「題詠」というのに、私は、いささか違和感を持っている。短歌の学習過程やゲームとしての題詠はあるのかもしれないが、本当の短歌の姿なのだろうか。というのも、戦時下において、著名歌人の多くが、「戦果」に応じて短歌を詠み、戦意高揚に貢献したという歴史、現代にあっても、天皇の決めた「御題」に従って、天皇に詠進するという「歌会始」の存在が、私には暗い影を落としているからである。

 短歌は、他人に注文するものではなく、多くの短歌との出会いの中から、自分の座右の一首を見つけるのを楽しみ、自らも詠んで、革まる気持ちを確かめるものではないかと。

 木下さんには数十件のオファーがあると言い、岡本さんのツイッターには「お仕事の連絡は・・・」などとあった。

庭の半分ほどを占めてしまう一本のヤマボウシ。どんな鳥なのだろう、この茂みの中でしきりに鳴いているようだった。

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2022年5月 3日 (火)

<国策メディア>を見究めるには―『国策紙芝居ー地域への視点・植民地の経験』を読んで

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下段は裏表紙

 最近、神奈川大学の非文字資料研究センターからブックレット『国策紙芝居―地域への視点・植民地の経験』(大串潤児編 神奈川大学評論ブックレットシリーズ41、御茶の水書房 2022年3月)をお送りいただいた。数年前に、神奈川大学での「国策紙芝居」の研究会に参加し、その後のシンポジウムには参加はできなかったが、非文字資料研究センター編著の『国策紙芝居からみる日本の戦争』(勉成出版 2018年2月)をいただき、当ブログにも何回か紹介しているので、ご覧いただければ幸いである。今回の、上記『国策紙芝居―地域への視点・植民地の経験』は、ブックレットながら、地域や植民地の現場を訪ね、資料を発掘し、戦時下の体験者の証言も収め、大変興味深く、充実した内容に思えた。

「国策紙芝居」というのがあった~見渡せば「国策メディア」ばかり・・・にならないために(2013年12月6日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/12/post-1e1c.html

『国策紙芝居からみる日本の戦争』のページを繰って(1)(2)(2018年3月28日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/03/post-16d3.html

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2018/03/post-1aed.html

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 私の紙芝居体験は、敗戦直後の街頭紙芝居であった。もう記憶もあいまいになっているのだが、銭湯の横の路地に、毎日自転車でやって来るおじさんは、太鼓をたたいて、辺りの子どもたちに知らせてまわる。空き地で遊んでいた子も、家から出てくる子も駆けつけて、いつも10人以上は集まっていたように思う。たしか10円で紙芝居の台の下の箱のイモ飴を割りばしのような棒に絡めて売ってから、紙芝居が始まるのだった。冒険もの、母もの、時代ものが定番ではなかったか、みな続きものだから、毎回通う羽目になる。おじさんのセリフと演技、太鼓に、思わず息をのみ、また涙することもあった。当時は、小遣いなどはもちろん持たせてもらわないから、私は、その都度、店に立つ、父や兄から5円?10円硬貨?をもらって駆け付けたように思う。たしかにアメを買わない子も一緒だったから、おじさんも黙認?していたようだった。

 上記の書によれば、この時代の街頭紙芝居は、第二次の戦後復興期の紙芝居ブームのさなかだったらしい。そして、第一次のブームというのが、一九三五年前後から始まる、戦意高揚、戦争協力を主旨とする「国策紙芝居」の時代だった。「国策紙芝居」は対極として、便乗絶叫型と家族愛型があり、前者の典型として近藤日出造の「敵だ!倒すぞ米英を」(大政翼賛会宣伝部 1942年12月)であり、後者の典型が国分一太郎脚本の「チョコレートと兵隊」(日本教育画劇 1941年7月)であったという(13頁)。近藤も新聞紙上の漫画で、国分も作文教育で、戦後に目覚ましい活躍をしていた人物として、私も記憶している。 
 本書は、サブタイトルにもあるように、国内では、北海道札幌市京極町、水上町、須坂市、但馬市出石町、豊岡市、亀岡市、大津市、福岡県朝倉市などでの現地調査により、資料館や収集家を訪ね、紙芝居の発掘や体験者からの聞き取りを行い、台湾での調査も実施した成果、韓国の研究者とも連携して、植民地での紙芝居研究が収められている。

 私は、かつて「台湾萬葉集」や「日本占領下の台湾における天皇制とメデイア」についての論稿を執筆したことがあるが、「紙芝居」まで、その視野になかったので、多くを教えられた次第である。

 いまの日本では、多くは、幼稚園、保育園などで、紙芝居を演じられることが多い。大人たちは、紙芝居ならぬテレビやスマホをはじめ、インターネットを筆頭にさまざまなメデイアを通じて、大量の情報を得る便利さの中で暮らしている。しかし、その反面、情報操作も多様化、国際化が進行し、知らない間に、操作された、限られた情報を与えられ続けている状況にあるともいえる。ふたたび「国策メディア」に組み込まれないように、「不断の努力」が必要だと思い知らされるのだった。

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憲法記念日に開いた垣根のテッセン、レッドロビンの茂みの中で

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2022年4月23日 (土)

五月三日は、何の日?まさか・・・

 8月15日前後に、さまざまなメディアが<終戦>特集を組むのを「八月ジャーナリズム」と呼び、この時期に集中して、活字メディアでは、平和や戦争を考える特集や連載記事が企画され、テレビでは、ドキュメンタリーやドラマが放映される。しかし、近年はそれも、風化の一途をたどっているのではないか。
 そして、四月末から五月といえば、コロナ禍前であれば、世の中はゴールデンウィークながら、近年では、何日が何の日で休みなのかが分かりづらいし、曖昧になっているのではないか。それでも、5月3日の憲法記念日と5月5日の子どもの日というのは、定着し、それにかかわる情報もメディアをにぎわしているように思っていた。
 ところが、最近、ちょっとした出来事に遭遇した。私が、定期に通院している病院、この地での中核病院といってもいいかもしれない病院が発行している「毎月のお知らせ」のようなリーフレットがあり、診療日と担当医師の一覧とともに、季節の健康情報などが記されている。帰宅後、4月号の最終頁のカレンダーを見て「?」と一瞬目を疑ったのである。下をご覧ください。
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 なんと、5月3日がこともあろうに「建国記念日」となっているではないか。このミスが誰にも気づかれずに印刷され、積み置かれ、多くの人の手に渡っているはずである。余計なこととは思えず、私は、病院の広報に電話して、「訂正」を要望した。「ご連絡ありがとうございます」と、事務的な言葉が返ってきた。次の通院日に、カウンターに積んである4月号を覗いてみたが、やはり「建国記念日」のままであった。ことほど左様に「憲法記念日」は地に落ちてしまったのか。日本の憲法教育、護憲運動は何であったのかと思うと力が抜ける思いだった。

 短歌ジャーナリズムでも、一部の雑誌が、五月号に<憲法>特集を組む。『新日本歌人』という雑誌から<平和の危機に「日本国憲法」を考える>というテーマで短歌五首と200字コメントの依頼があった。連日、ロシアのウクライナ侵略の惨状を目の当たりにし、思わず寄稿したのが以下であった。

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2022年4月 9日 (土)

1922 -2022 年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(2)

 ほんとは『ポトナム』の歴史を少しでも伝えねばと思いつつ、いまは、ポトナム私史として、嫌われるのを承知で、あまりにも個人的な記録になってしまうかもしれない。

 私が、ポトナムに文章らしきものを初めて寄稿したのは、カール・サンドバーグ(1878~1967)の『シカゴ詩集』についてであったと思う(「『シカゴ詩集』について1~2」1964年8月~9月)。英文科出身で中学校の英語教師をしていた次兄の話を聞いて、『シカゴ詩集』(1916年)を岩波文庫の安藤一郎訳(1957年)で読み、いたく刺激されたのを覚えている。サンドバーグは、スウェーデンからの移民の子として生まれ、さまざまな職に就き、放浪もし、入隊もする。私淑していたP・G・ライト教授の影響で民主社会党員としても活動、20世紀初頭から、シカゴでの新聞記者生活が長い。「霧」といった、短い抒情的な詩も好きだが、「でっかい肩の都市」シカゴの文明と野蛮が交差する繁栄と猥雑を歌い、反戦・反軍を訴える。

 戦争

 昔の戦争では馬蹄の響きと軍歌の足音。

 今日の戦争ではモーターの唸りとゴムタイヤの騒音。

 未来の戦争では人間の頭では夢想だにされなかった無音の車輪

 と棒の擦過。・・・

「戦争」と題する、上のような一節もあった。過去の戦争と21世紀の戦争は、ない交ぜとなって、遠く離れた地からの砲弾は、住居や病院、劇場を破壊し、原発まで襲う。戦車や銃は、人間をなぎ倒して行く・・・。サンドバーグはもちろん、現代の人間でさえも夢想だにしなかった戦争が止められない現実を目の当たりにして、再読しているところである。そして、ほぼ同時代のベンシャーンの重い画集も取り出して眺めている昨今でもある。
 1970年に、「冬の手紙」30首で、前述の白楊賞を受賞、1971年7月に、第一歌集『冬の手紙』(五月書房)を上梓した。

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『ポトナム』550号(1972年2月)は、『冬の手紙』批評特集を組んでいただいた。評者は、大島史洋、佐佐木幸綱、森山晴美、菅野昭彦、島田修二、岩田正さんの六人であった。『閃』17号(1972年1月)では、田谷鋭、藤田武、水落博、西村尚、近藤和中、佐藤通雅さんの六人であった。当時「閃の会」代表の増田文子さんらの尽力で、お願いできたメンバーであった。励ましや叱声を受けたスタートではあったが、ようやくたどり着いたのが今日となると、忸怩たる思いである。

 1970年代に入って、『ポトナム』には、つぎのような論稿を発表した。静枝追悼号の年譜と解題は、荻原欣子さんとの共同作業であった。

・戦時末期における短歌弾圧 1973年6月

・占領期における言論統制  1973年9月

・阿部静枝著作解題・著作年譜 1975年2月(阿部静枝追悼号)

 1980年代に入ると、歌壇時評や作品合評などにもたびたび参加するようになり、2006年来の和田周三、芝谷幸子、安森敏隆代表時代は毎月エッセイを寄稿することもあり、苦しかったときもあったが、現在は、年に数回の時評などを担当、論争のきっかけにもなったりして、執筆の際の緊張は続いている。

 一方、その傍ら同人誌『風景』(醍醐志万子編集発行)に連載の「歌会始と現代短歌」(1983年10月~1988年1月)と合わせて、1988年10月には『短歌と天皇制』(風媒社)を上梓することができた。昭和天皇重病報道で、さまざまな規制がされる中だったが、決して便乗のキワモノでないことを短歌雑誌以外の月刊誌・週刊誌、全国紙・地方紙などの書評で論じてくださったのはありがたいことだった。以来、私のメインテーマの一つとなり、『現代短歌と天皇制(風媒社 2001年)『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房 2013年)につなげることができ、「祝歌を寄せたい歌人たち1~4」(1993年9月~12月)、「戦後64年、「歌会始」の現実」(2009年8月)なども収録することができた。

 また、2000年1月より一年間、『図書新聞』に「短歌クロニクル」欄で歌壇時評を担当したことが縁で「インタビュー内野光子氏に聞く<現代短歌と天皇制>」という一面・二面にわたる特集記事を組んでいただいたことも忘れがたい。同じ頃、立教大学の五十嵐暁郎さんの呼びかけで、「天皇制研究会」に参加、遅れた出版ではあったが『象徴天皇の現在』(世織書房 2008年)にも参加できた。研究会では、二次会も含めて、共同通信社在職中の高橋紘さんらの貴重な話が楽しみでもあった。

 なお、『ポトナム』で、阿部静枝の晩年に指導を受けたこともあって、女性歌人への関心もあったからか、阿木津英さんの呼びかけで立ち上がった女性短歌史の研究会に参加、2001年には、阿木津さん、小林とし子さんとの共著『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史1945-1953』(砂小屋書房)でも、私は、阿部静枝らに、言及している。なお、この書は、石原都政最後の東京女性財団の出版助成を受けることができた。そして、つぎのような論稿も、今回の記念号の阿部静枝稿につなげることができた。

・阿部静枝―敗戦前後の軌跡 1997年6月

・内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか(上・下)2006年1月~2月

・戦時下の女性雑誌における「短歌欄」と歌人たち―『新女苑』を中心に 2017年4月(創刊95周年記念号)             

・女性歌人の評価は変わったのか―『短歌研究』『短歌』の数字から見る 2020年4月                       

 そして、あわせて、現在参加している「新・フェミニズム批評の会」での報告を経て、以下の論集に静枝論を寄稿することができた。

・阿部静枝の短歌は何が変わったのか~無産女性運動から翼賛へ(『昭和前期女性文学論』翰林書房 2016年)  

・阿部静枝の戦後~歌集『霜の道』と評論活動をめぐって(『昭和後期女性文学論』 翰林書房 2020年)

 私にとっての『ポトナム』は、生涯の師であり、友であり続けるだろう。

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左『ポトナム』816号(1994年4月)は、「小泉苳三生誕百年記念特集号」で、「小泉苳三著作解題」を寄稿、「小泉苳三資料年表」を相良俊暁さんとの共編で作成している。右『ポトナム』586号(1975年2月)は、前述の「阿部静枝追悼」特集であった。

 

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2022年4月 6日 (水)

1922~2022年、『ポトナム』創刊100周年記念号が出ました(1)

 1960年、私が入会した短歌会『ポトナム』が、この4月で創刊100年を迎えた。1922年4月、朝鮮の京城で、京城高等女学校教諭の小泉苳三らにより、植民地で生まれた雑誌である。100年といえば、1922年3月3日、部落差別を掲げ、水平社が京都で創立大会を開き、7月15日に非合法下で日本共産党が結成されている。ともに、紆余曲折があって今日に至っている。
 そして、1922年12月30日には、ロシア、南コーカサス、ウクライナ、ベラルーシを統合したソビエト連邦が成立していたのである。1924年レーニンの死後、スターリンが政権に就き、大粛清が実施され、1991 年のソ連崩壊とともにウクライナは独立した。いまのウクライナは、少なくともこの100年の歴史を背負っていることを知る。

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 そんな100年を思いながら、振り返ってみたい。この記念号の締め切りは一年前ほどにさかのぼるが、編集部の皆さんの尽力には計り知れないものがある。私は、文章としては、以下を寄稿している。これは、昨年2021年3月号の『阿部静枝の戦後~歌人、評論家、政治家としての足跡<1>付「阿部静枝著作年表<1945~>及び「阿部静枝関係参考文献一覧」に続くもので、面倒な年表は、協和印刷の方にも工夫をしていただいた。2回分の本文と年表1945-50年は以下の通りである。ただし、草稿をpdf化しているので、本文は縦組み、年表は横組みという雑誌の体裁とは異なる。まだ、1950年までなので、没年の1974年までだいぶ残っている。

・阿部静枝の戦後歌人、評論家、政治家としての足跡<2>付「阿部静枝著作年表<1945~>」及び「阿部静枝関係参考文献一覧」

ダウンロード - sizuenosengohonbun12.pdf

ダウンロード - sizuenenpyo194550.pdf

 

 歌詠みのブログにしては、自分の歌がさっぱり登場しないではないか、とよく言われるのだが、今回は、3か所に発表していることもあって、思い切って載せることにした。ご笑覧いただければありがたい。Img244

 今回、歴代の「白楊賞」受賞者の一人として、新作8首を寄稿した。誌名の『ポトナム』は朝鮮語で、「白楊」を意味するところから、「白楊賞」と名付けられたらしい。また、つぎの「窓という窓」は、記念号のアンソロジーという企画で、新旧問わず10首ということだったので、昨年出版した第4歌集『野にかかる橋』から選んだ旧作である。横組みの6首は、普段通りの4月号詠草稿である。

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風呂敷に『少年朝日年鑑』を携え通学の日々のありしを

結膜炎病みてプールは見学となりし六年の夏の水しぶき

旧友の営む地下喫茶室もうクラス会は最後かもしれぬ

平和通り進みて細き路地に入り旧島田邸「池袋の森」へ

池袋西武デパート店内を堤清二はひとりめぐりき

北口は「西口(北)」に変わりいて事件のありしホテルはどこか

 

下は、今回の記念号のグラビアから、記念号の表紙をコピーしてみた。(続く)

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2022年4月 2日 (土)

108兆円予算、好きに使ってもらっては困ります

 はや、もう四月、我が家に「新年度」という感覚はないが、3月22日、岸田総理は、閣議決定通りの新年度予算107.6兆円が成立したと頭を下げていた。税収65.2兆円に対して国債が36.9兆円という借金は増えるばかりだし、歳出では国債の償還と利払いで歳出全体の4分の1近い24・3兆円を占めるという最悪の財政が続いている。国債依存率は、補正でもっと増える可能性もあり、日本の国家財政における国債の占める位置は異常ではないか。

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日本経済新聞(2021年12 月24日)より

 報道では、新年度予算について、岸田総理は、デジタル、気候変動、イノベーション、科学技術、人への投資をはかり、「成長と分配の好循環」の持続可能性を自負しているらしいが、ケタの違う防衛費5.4兆円もわすれてはいけない。新年度予算のポイントとしての次の予算が、実際どのように使われ、あるいは使われずに残されるのかが、重要である。

①コロナ感染対策            95億
②看護・介護者賃金3%引き上げ     395億
③住民税非課税世帯学生らの授業料減免 
6211億
④脱炭素               1468億
(電気自動車155億、省エネ住宅1113億、自治体支援200億)
⑤デジタル田園都市国家構想      1000億

 上記は、目玉というにしては、②の看護・介護者賃金引き上げにしてもケタが違うし、③は授業料減免の申請条件や手続きがネックにならないか、④に至っては、関連企業の支援になっていても、生活困窮者には、まったく縁がない。⑤となると、トヨタあたりが熱心らしいが、地方の活性化の名のもとに、自然と人間との長い歴史をほんとに変えられるものなのか、私などは信じられない世界ではある。①のコロナ対策にしても、アベノマスク関連の無駄遣い、見切り発車のコロナ治療薬アビガンへの投資、自宅療養者の不安などは、仕方がなかったことなのか。本来の目的を果たす使われ方をするのだろうか、不安は尽きない。不祥事が起きれば、会社も、行政も、大学も、第三者委員会とやらが設置されるが、「自浄」作用が機能しないことが当たり前になってしまったのか。

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旧聞に属するが、 お彼岸の中日だったか、やや肌寒い夜、自転車置き場に、黒い動くもの・・・。私の手を広げたほどの大きさだ。懐中電灯に驚く様子もない。ウシガエル? カエルなら近くの中学校のプール辺りでよく鳴いているし、遠くの田んぼに水が入る頃には、その声が聞こえてくるのは毎年のこと。しかし、ウシガエルの声は、ちょっとそれとは違う。それにしても愛らしい顔をしているではないか。ともかく、水辺がよかろうと、夫は、塵取りに乗せて、中学校のプール沿いの垣根の下にと置きに行った。我が家への珍客、彼岸の夜の訪問者だった。

 

 

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2022年3月31日 (木)

佐倉市のニュータウンは、いま~お花見がてら、街の今昔を思う

 今日を逃すと、散ってしまうような気もして、ご近所の桜を見てみようと散歩に出た。

 近くの調整池辺りは、土地区画整理組合と言っても地元の開発業者「山万」によって、公園として整備され、接した工区に、いまは、戸建て、マンション、高齢者施設、小ぶりの商業施設が並ぶ。四半世紀も前になるが、自治会館建設をめぐって、住民を二分するような事態が起こって、夫婦ともども、この地区の住民自治会とかかわることになった。開発に伴う「自然環境の保全」「地区計画」「住居地域の安全」「道路整備」・・・などをめぐって、業者、市役所、県庁などとの交渉が続いた時期もあった。街のあちこちに、さまざまな思い出がまつわるのだった。

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  正面が井野村の鎮守「八社大神」と井野城跡の森。浅間神社の小さな鳥居も見える。この北部調整池が作られる前は、八社の森を囲むように田んぼだったそうで、近くの井野中学校辺りが、腰までつかるほどの一番深い田んぼだったという。いま宮の杜公園となり、森の向こう側に、マンション、手前左側に戸建て住宅が並ぶ。この写真を撮っている私の背後は、木々に囲まれるように井野の集落が残されている。竹林に沿った坂道を上ると三叉路の左手に井野の自治会館があり、その前の桜の木には「井野の辻切り」として有名なワラで作った龍が昇っている。いまは八か所の辻、辻でこの龍が集落の安全を守っているという。毎年1月に新しい龍と替えられ、家家の門にも小さな龍が掲げられている。Img_0883

 三叉路を左に行けば、豊山派の千手院があり、まっすぐ進めば志津へ。引っ越してきた1988年には、まだ、志津駅から千手院前が終点の路線バスが走っていた。

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 さらに、進むと、右手に庚申塚がある。大小五つの庚申塔が並ぶ。小さめの手前が、一番古くて寛政4年(1792年)とあり、まさに寛政の改革の時代である。奥にあるのが天保8年(1837年)、一番奥に見えるのが、万延元年(1860年)で、手前の正面に石像の姿がある塔と蔭にある2基が大正年間とある。

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   再び、八社大神に戻る。このあたりはイノシシが出ることもあるらしく警告の看板が出ている。左手の八社の森の切り株が何本か見える。この木々の伐採については、いろいろあった。開発業者が、八社の井野の氏子たちからの依頼で、八社の森の枯れ木・古木などの伐採と参道・駐車場整備の工事を開始すると、突然、近辺の住民に知らされた。八社の森の環境が気に入って住宅を購入したばかりという人たちは、最後の一戸売れた途端に工事を始めるとはと、怒り心頭であった。自治会・住民有志と何回かの交渉の末、200本伐採予定が70本で済んだし、参道の変更や駐車場の台数・運用変更などを経て落着した。

 そういえば、この工区の造成時には、産廃の捨て場にもなっていた雑木林から、トラック800台分が搬出されたことが確認された。そこに盛り土がなされ、その危険性に加えて、マンションや高齢者施設建設に伴う日照時間の減少、工事中の振動・騒音、通学路の安全性など近隣の住宅に与える影響などをめぐっても、さまざまな交渉が長期間なされた。マンションの階数と戸数自体を減らし、高齢者施設の階数や部屋数を減らすことで、日照時間を延ばすことができた。盛り土については、工事中、大雨で植栽ごと流されたこともあった。マンションの目の前の商業施設をめぐっては、24時間営業を売りにするスーパーを招致したものの、営業時間はどんどん短縮、10年で撤退していった。いまは、10時~18時の生鮮食品に限っての店が入ってホッとしているところだが、続いてくれることを願うばかりである。
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 ゆっくり、ゆっくり歩いて4800歩、近くの公園に戻った。この公園には、新しい自治会館が完成、オープンを待つばかりとなった。そもそも、地域にかかわるようになったきっかけが自治会館建設問題だった。ニュータウンながら、昔のムラ意識丸出しの自治会の役員会から、突如、いまある他の自治会と共用の自治会館に加えてもう一つ近くに建設するから、その資金の一部として、各戸3万円を徴収するとの回覧がまわってきたのである。それに怒った主婦たちが調べていくと、その建設に至る手続き、建設費予算の杜撰さ、建設予定地の立地の悪さ、開発業者との関係など次々に問題が浮上し、情報合戦もすさまじく?住民を二分するような状況の中、臨時総会では150対300という大差で、会館建設自体が否決されたという経緯があった。その後、地域住民の高齢化に伴い、近いところに自治会館が欲しいという要望も多く、近隣二つの自治会の協力のもと、建設委員会の粘り強い交渉で、公園内の建設が決まったのだった。公園内の施設建設は公園緑地法などのハードルが高いことは承知していたが、ともかく完成に至ったことはありがたく、大いに利用したいものと思っている  Img243_20220331105601

 上記自治会会館問題が落着した後、いささか機運が盛り上がったこともあったのだろう、知り合った主婦たち4人で、ミニコミ誌を出すことにした。1998年1月、その創刊号の「創刊のことば」は、いま読むと気恥ずかしいばかりではあるが、まだ、当時はみな若かった。新川和江の「わたしを束ねないで」の一節になぞらえて「わたしを束ねないでください、主婦という名で」で結んでいる。拡大して読んでいただけるとありがたい。また、小さな記事「宮ノ台むかしばなし」には、きょうの散歩コースの辺りにも触れている。また、1999年度には、佐倉市の「夢のまちづくりさぽーと事業」の助成(16万円)を受けて、自然観察会などの行事や地域の要人?のインタビューなど行い、ミニコミも毎月のように出していた奮闘の時期もあった。

 なお、「すてきなあなたへ」の47号からは、このブログの左欄から読むことができる。1~70号まで、ミニコミ誌の収集・利用を進める立教大学の共生社会研究センターで保管していただいている。2015年、スタッフの事情により、70号をもって終刊となったが、「終刊のことば」はない。<3月30日記>

 

 

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2022年3月22日 (火)

『津田梅子―科学への道、大学の夢』(古川安)を読む~津田梅子は何と闘ったのか

 東大出版会のPR誌「UP」3月号に載っていた著者古川安氏の「ブリンマーと津田梅子と私」という執筆余話を読んで、本書を読みたくなった。新刊なので、どうかなと思ったが、市立図書館ですんなり借りることができた。

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1892年6月、再留学時の写真と思われる、の説明がある

 津田梅子(1864~1929)が、1871年、北海道開拓使による女子留学生五人の内の一人としてアメリカへ渡ったのが七歳で、最年少であった。歴史の教科書で知ってはいたものの想像がつかない世界だった。アメリカの家庭において11年にわたる中等教育を受けて、帰国後、華族女学校の英語教師などに就き、1900年女子英学塾(後の津田塾大学)を創立、女子の高等教育の向上、「職業婦人」の育成を目指した、近代日本の教育史や女性史には必ず登場する女性である。かつて大庭みな子による伝記『津田梅子』(朝日新聞社 1990年)を読んだことがあった。梅子は短歌を詠んでいないかなという関心からだったが、どうも、短歌とは縁がなかったようだ。

  本書の著者は、科学史が専攻の研究者で、サバティカル休暇でペンシルバニア大学に留学中に、従来の梅子の伝記ではあまり語られることのなかったブリンマー大学に再留学し、生物学を学んだ三年間に関心を深めたという。学業に専念し、研究者としての成果を上げ、後に、ノーベル賞を受けるトマス・H・モーガン教授の指導の下、共著の論文を公表していたことも知り、さらに丹念に調べていくうちに本書を書くに至ったという。
  本書を読み始めると、梅子が1882年17歳で帰国後、就いた英語教師や日本での女性の地位の低さに落胆、葛藤の末、1889年、再び留学を決意、華族女学校からの官費により92年までの三年間、フィラデルフィア市近郊のブリンマー大学で、生物学を学びながら、教育現場の視察などにも熱心だったことがわかる。ブリンマー大学ほかアメリカの大学のコレクションやアーカイブに残された資料、津田塾大学津田梅子資料室、学習院アーカイブ、宮内庁の公文書館などの資料を駆使してしての渾身の津田梅子の伝記である。ブリンマー大学からは、研究者として残ることを勧められながらも、帰国していたこともわかる。もし続けていたら、日本の女性科学者の嚆矢になっていたかもしれない。当時の梅子の心情は、どうであったのか、興味深いところでもある。
 それにしても、最初に留学した折の船旅を共にした岩倉具視使節団一行の一人伊藤博文との交情、アメリカでの育ての親ともいうべきプロテスタント教徒のランマン夫妻、ともに帰国した山川(大山)捨松、永井(瓜生)繁子との友情、迎えた少弁務使の森有礼との出会い、華族女学校の下田歌子、女子英学塾の創立に尽力した新渡戸稲造、星野あい・山川菊栄らとの師弟愛・・・。実に多くの人たちとの交流、支援があったこともわかってくる。

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本書22~23頁から。右上:1871年渡米直後、ランマン夫妻の家にて。右下:1976年11歳頃。
左:1876年夏、フィラデルフィア万国博覧会で再会した、左から梅子、山川捨松、永井繁子。
                                                                                

 そういえば、梅子の父親の津田仙(1837~1908)は、私の住む佐倉市ゆかりの人である。佐倉藩の武士の家に生まれ、1861年江戸の武士の家の津田初子(1842~1909)と結婚、婿養子となり、夭折の子を含め五男七女を成し、梅子は次女であった。早くよりオランダやイギリスの医師から英語を学び、幕府の通訳として訪米したことから、アメリカの文化や農業に触れ、維新後は、外国人用ホテルで働き、西洋野菜アスパラガス、イチゴなどを栽培、1873年ウィーンの万国博博覧会に随行、オーストリアで農業技術を学び、1876年学農社農学校を起こし、農作物の栽培、販売、輸入、『農業雑誌』創刊など、農業技術の発展に努めている。それに先立ち1874年夫婦でメソジスト派の洗礼を受け、青山学院の前身である女子小学校、筑波大付属盲学校の前身である特殊学校の創立にかかわり、普連土学園の名付け親にもなり、女子教育の向上にも努めた。農学校の教師に内村鑑三らを迎え、卒業生には『農業雑誌』の編集人を務める巖本善治らを輩出、足尾鉱毒事件の田中正造を支援するといった、その活動と人脈の広さには目を見張るものがある。

 その津田仙を顕彰しようと、佐倉市では、命日の4月23日前後に、市内の全小中学校給食に、西洋野菜をふんだんに使った「津田仙メニュー」が供されている。それも大事だが、明治を駆け抜けた、いわば型破りともいえるの津田仙・梅子親子にも光を当ててほしいな、とも思う。

 なお、3月5日にテレビ朝日のドラマ「津田梅子―お札になった留学生」(脚本橋部敦子、監督藤田明二)が放映された。ドラマは、広瀬すず演ずる梅子の最初の留学後、そして二回目の留学後も日本の女性の地位の低さ、女性にとっての職業や結婚への男性の偏見と闘う姿、めげずに最初の留学同期の山川捨松、永井繁子との曲折を経ながらも熱く結ばれた友情、女子英学塾創立に至る時代に焦点が当てられていた。伊藤英明演ずる津田仙もたびたび登場するが、六歳の梅子を留学させる英断、仙の幅広い社会的活動とは裏腹に、旧態然とした家族観、結婚観などが梅子の活動のブレーキにもなっていたことにも触れていて興味深いものがあった。仙には二人の婚外子もいたという。ちなみに、佐倉藩旧堀田邸でのロケも行われたらしいが、舞台が佐倉というわけではない。衣裳考証さん、広瀬すずさん、頑張りましたね。伊藤博文役の田中圭、森有礼役のディーン・フジオカ、ご苦労様でした。二人とも暗殺されるのだが、ドラマではスルー?

 2024年、新5000円札は、樋口一葉から津田梅子に代わる。

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2022年3月5日放映、テレビ朝日ドラマ「津田梅子~お札になった留学生」のキャスト

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広瀬すずを真ん中に池田エライザ(山川捨松)、佐久間由衣(永井繁子)。広瀬以外、二人の女優を私は知らなかった。

 

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2022年3月17日 (木)

NHKは、余分な解説をするな、事実を正確に伝えよ!

  NHKの7時のニュースに合わせての首相記者会見には、もう、うんざりである。NHKは官邸の広報か、国営放送かと紛うばかりである。会見の内容も相変わらず具体性のないものだし、記者たちの質問もゆるい。そしてそれをスタジオでは、解説という名の後追い、繰り返しでしかない。時間をそのために延長しているにすぎない。
 もちろん、NHKに限るわけではない。民放も含めて、報道番組全体に言えることなのだが、そこに登場するコメンテイターや専門家のコメントほど役に立たないものはない、とつくづく思うようになった。

・予報士の横でごちゃごちゃうざいアナ(勝浦 ナメロー)

「仲畑流万能川柳」(『毎日新聞』2022年2月26日)の入選作である。かねてより、7時のNHKニュースの最後の天気予報を見ていて、予報士が地図を見ながら解説している途中で、左側に立つアナウンサーが、合の手を入れるというか、言わずもがなのセリフを発するのが、まさにうるさく「うざかった」のである。「ふれあいセンター」にも伝えたが、いっこうに改まらなかった。それがなんと、今年の2月からか、そんな場面がぴたりとなくなったので、「晴々とした」?気持ちで予報を聞くことができるようになった。
 ついでながら、女性の予報士が、毎晩、とっかえひっかえの衣装や髪形で登場するのにも、私など不快感を覚えていた。コツコツとハイヒールで天気図のパネルに近づいたり、離れたりするのも気になっていた。そうかと思えば、マタニティ服で登場すること自体には応援したい気持ちなのだが、二度と同じ服は着ませんみたいなコンセプト?のファッションにも違和感があった。気象情報は、まさに淡々と正確な情報をわかりやすく伝えるのが命だろう。余分な情報発信はやめて欲しい。

 事件や情勢が深刻であればあるほど、マス・メディアの発する情報や言葉は重要になって来る。
 そして川柳はむずかしい!!ナメローさんから拝借して。

・現地からの画面にゴチャゴチャうざい“専門家”

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例年より少し遅く咲き出したスイセン、エサ台には、つがいの?ヒヨドリが交代でやってきた。

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