2025年5月18日 (日)

高良真実『はじめての近現代短歌史』読後~“若い人”の「短歌史」へ

 遅ればせながら、高良真実『はじめての近現代短歌史』(草思社 2024年12月)を読んでみた。これまでときどき見かけた書評や感想では大方、好評であったように思う。明治以降の作品を中心とした、その解釈や時代背景もわかるハンディな「近現代短歌史」として評価され、巻末の「参考文献一覧」の量にも圧倒されたようであった。

 私が驚いたのだが、著者が1997年生まれというから二十代後半ながら、近現代の短歌通史を書こうと思い立ったことだった。著者が「本書は、これまで多大な気力と体力とお金を学んでいくものであった短歌史を、できるだけわかりやすく、簡潔に伝えることを目的としています」(「はじめに」)と述べ、かなり気合が入っていることは確かである。

 これまでの短歌史が、男性歌人による、男性歌人が中心の、評論や論争に偏りがちな通史であったことなどを考え合わせれば、たしかに、若い女性歌人を書き手とする女性歌人・作品が多く語られる短歌史であったのは間違いない。また、「短歌史は秀歌の歴史である」に見るような割り切りのよさは、随所に迷いのない文章となって、明快さを際立たせている。著者は、作品を抄出するのに、全集や選集、あるいはアンソロジーなどからではなく、歌集を典拠にしていることも伺える。そして、今世紀に入ってから活躍し始めた若い歌人たちを対象にしている点も、これまでにはない特徴である

 ここからが、私の“注文の多い”読後感になる。

時代区分において元号と西暦が混在するのはなぜか

「第一部 作品でさかのぼる短歌史」では、一九〇〇年代から二〇二一年以降の120年余の間を十年刻みで、各年代に数首をあげて鑑賞している。十年刻みにどんな意味があるのかは不明だが、多分便宜的なものかもしれない。二〇二〇年代からさかのぼるという試みも一興である。まず直面する今世紀の若い世代の歌人の作品には、「ほう」といった驚きもあり、興味深い作品もあった。
 ところが、「第二部トピックで読み解く短歌史」になると、「明治時代の短歌/大正時代の短歌/昭和の短歌1(~昭和二〇年)/昭和の短歌2(昭和二〇~三〇年代)/昭和の短歌3(昭和四〇年代以降)/九〇年~ゼロ年代の短歌/テン年代以降の短歌」の七章に分けられる。「テン年代」?最初はなんのことかわからなかったのだが、二〇一〇年代を表すらしい。 
 近代以降の短歌史の時代区分について、ここでは詳しく述べないが、小泉苳三の『近代短歌史・明治篇』の区分の流れを汲んだ木俣修、篠弘の幾冊かの短歌通史では、
元号を用いて、明治、大正、昭和の区分がなされている(拙著「近代短歌史の時代区分」『短歌と天皇制』風媒社1988年10月)。中井英夫『黒衣の短歌史』でも1945年8月敗戦以降の短い期間ながら、昭和の年代を用いている。しかし、1997年生まれの著者が、「平成」「令和」の時代区分を用いることがなかったのは当然のことながら、なぜ「昭和」にこだわっているのかが不思議にも思われた。今の若い人たちに、昭和何年といっても、今から何年前のことかが、すぐには「計算」できないのではないか。
 かつて、私が篠弘の『対論形式による現代短歌史の争点』(短歌研究社 1998年12月)の企画に参加した折、篠弘の『現代短歌史Ⅰ~Ⅲ』の中で、西暦と元号表記が混在することは、今後の若い世代には、わかりにくく、読者に混乱を招くのではないかと指摘したことがあった。上記『争点』の「はしがき」において「当初の対論者の一人である内野光子氏のサゼッションより昭和の年号をやめ、原則として西暦を使用した。年号のイメージが有効であったのは昭和四〇年ごろまでであって、たしかに本書のこれからの読者には西暦がふさわしい」と書かれてから、四半世紀も経っている。

 いまだに、公文書は原則元号表記だし、若い人からの年賀状で「令和」表記であったりして戸惑うこともあるのも事実ではある。 本書の著者には、短歌史を西暦で整理してもらいたかった。 

・女性歌人・作品の扱われ方について

冒頭にも書いたように、たしかに、本書は、女性歌人・作品が多く語られる短歌史であったが、「第二章大正時代の短歌」における「女性歌人はどこへ行ったのか」、「第四章昭和の短歌2(昭和二〇~三〇年代)における「女人短歌・女歌論」「戦後の女性短歌」、「第五章昭和の短歌3(昭和四〇年代以降)」において「七〇年代の『女歌』論リバイバル」「八〇年代女性シンポジウムの時代」という枠内で語られている。こうした扱い方は、篠『現代短歌史』三部作における女性歌人や作品の扱い方を踏襲しているのではないかと思われるのだ。同書も、各章の一節として「女歌」をまとめ、さまざまな章の一部に中城ふみ子をはじめ女性著名歌人の作品が紹介されるという構成であった。

・「見えなくされていた」のは女性歌人や作品ばかりではなかったのではないか

 女性歌人や作品に多くのページを割いているというが、明治・大正・昭和前期、本書での「第二部トピックで読み解く短歌史」の「第二章大正時代の短歌」の中で、やや自虐的に「女性歌人はどこへ行ったのか」と題した第五節で、与謝野晶子、今井邦子、若山喜志子、片山廣子が初めて登場するが、女性には性別のイメージが張り付いていて、その存在を「見えなくされていた」という。この間のプロレタリア短歌時代の五島、山田あき、館山一子、あるいは無産運動の中で、短歌や評論も残している阿部静枝がおり、戦後は、各人異なる道を歩んだことなどにも言及が欲しかった。『新風十人』に参加していた五島美代子と斎藤史に触れるのみであった。
「見えなくされていた」のは、女性歌人ばかりでなく、治安維持法などによる言論弾圧、戦争協力を強制された日本文学報国会、植民地における皇民化教育の一環としての日本語教育やそこの登場する短歌なども、あえて見えにくくする体制側の工夫があった。戦後に書かれた短歌史こそ、そこに陽をあてるべきだったのに、見えにくかった部分は、どんどん薄められ、歌人たちの回顧でもまるで「なかったこと」のように語り継がれて、フェイドアウトしてゆくことを、著者は知らないわけではないだろう。敗戦後の米軍による占領期における、それこそ「見えなくされた」言論統制においても同様のことが言えるが、占領期の歌人の対応は素通りされている。

・なぜ「男性中心の歴史をなぞる結果」になったのか

 著者が「おわりに」で、述べるように「エリート歌人の作品を引き、かつ男性中心の歴史をなぞる結果」になったのだろうか。 近現代の短歌を支えてきた、いわば、短歌の裾野の人々への目配りが見えにくかった。たとえば、短歌総合誌に登場する「エリート歌人」ではない多くの読者、新聞歌壇の選者と読者、減少したとは言え多くの結社を支えてきた編集者や同人、現代歌人協会・日本歌人クラブによる活動と「国民文化祭」、歌壇における「歌会始」の果たす役割などにも目を向けるべきではなかったか。そういう意味では、1970年代半ば、「昭和五十年」というくくりではあったものの、講談社による『昭和萬葉集』の刊行は、短歌の裾野の人々の「秀歌」を掬い上げ、短歌自体の持つ「記録性」の重要性を再認識させたはずである。「トピック」からも外されているようで、残念なことの一つであった。

 いまは、もうこの辺で。
 短歌史に取り組んだ著者の意欲には、敬意しかない。資料の探索も丁寧ではある。「短歌史」という「読み物」としては、面倒なこともなく読みやすかった。「第六章九〇年代~ゼロ世代の短歌」「第七章テン年代以降の短歌」では、初めて知ることも多く、これまでモヤモヤしていたことが整理されたこともあった。欲張らずに、今世紀以降にかぎっての、著者にとっては同時代の「短歌史」をぜひまとめて欲しいと思った。さらに、「短歌史」となれば、「参考文献一覧」ではなく、文中に「注」として典拠を示すのが大事なのではないか。

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イロハモミジの翼のような若葉は、やがて種子を運ぶという。花も咲くというが、まだ見えていない。ベランダから。

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隣接の「さくら庭園」には、様々な樹木に接することができる。手入れされた芝生も心地よいが、松の木の根方に揺れるブタクサもヒメジヨもかわいらしい

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2025年5月 9日 (金)

“若い人”の歌集から~戸惑いながら刺激を受ける

 私のような高齢者に、ときどき、若い人の歌集が舞い込んだりする。「若い」といっても歌集をお送りくださる方たちの大方は私より若いわけなのだが、子ども世代、孫世代にもあたる人たちの歌集には、戸惑うことも多いが、刺激を受けることもある。私は歌集を評するというのは苦手で、つい突っ込みたくなる。世代の違いを忘れて、それって違うだろう、どこか疲れてしまう、みたいなことになりがちで、その作品の良い点というのがなかなか見いだせない、読みの弱さがある。しかし、素直にいい歌だなあ、こんなこともあるんだ、ここまでは気付かなかった、私にもよくある「あるある」といった、広い意味の「共感」を見出すことは楽しい。著者の意図とは大きく外れたとしても。

山中千瀬『死なない猫を継ぐ』(典々堂 2025年1月)

「あ」を補う赤字を入れる「たたかい」と「家庭」きらきら並ぶ紙面に

相似形の影を踏み合いこれからもあたしたちひとりひとりがひとり

あたたかいほうがコピーだからちゃんと冷たいほうの原紙に印を 

屋良健一郎『KOZA』(ながらみ書房 2025年3月)

戦没者追悼式の壇に立つ首相に向かう百のケータイ

閉館の曲の流るる図書館の外に雪後の雨降りており
(二〇二三年年六月、普天間フライトラインフェア)
オスプレイの前に顔出しパネルありて沖縄人が次々顔出す

嵯峨直樹『TOWER』(現代短歌社 2025年4月) 

辛辣な言葉を放ちあいながら小さな影はかけ橋わたる

テーブルのクリアファイルに陽は当たり細く鋭い傷あと光る

ゆうやみに銀のてかりをまといつつ高架を走る通勤電車

小林理央『金魚すくいのように』(角川書店 2025年4月)

出張で読める地名が増えてゆくことに楽しみを見出す始末

図書館の机に伏せて寝るようなノスタルジーを抱えて歩く

不意打ちの真夏の雹は池袋の街ごとわたしをかきまぜてった

 小林さんは1999年生まれ、「物語の中から自分をゆっくりと引っ張りあげてしおりをはさむ」なんて、硬い本を読んでいても、いまの私と変わらないじゃないかと、若返った気にもなる。

 

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桜並木は雨上がりの新緑の散策路になった。右手が施設の1号棟。

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隣接のさくら庭園から堀田邸を望む。手前の木には、大きなカタツムリが。5月10日撮影

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2025年5月 6日 (火)

宮城晴美さん講演を聴いた~沖縄における門中制度の遺制

 

沖縄における「集団自決」についての記事を書くにあたって、以下のような「沖縄タイムス」の記事を知った。

「男性だけの家族で『集団自決』は起きていない」 沖縄女性史家・宮城晴美さん調査 犠牲者の8割超...(『沖縄タイムス』2025年4月6日)https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1559089

沖縄女性史の研究者である宮城晴美さんの調査によると、下記の表のように、「沖縄の『集団自決』の犠牲者の8割以上が女性や12歳以下のこどもであったという。ここには、日本の家父長制が大きく影響していて「『米軍に襲われ純潔性を失うよりは、死んだ方がまし』との考えも植え付け、男性が女性や子をあやめる土壌をつくったという」

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 といえば、さきの集団自決についての当ブログ記事でも触れた、曽野綾子撰文による「戦跡碑」にあった「一家は或いは、 車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。」の一文を思い起こす。

 折も折、宮崎晴美さんが「沖縄と天皇制」について講演するという。WAM(女たちの戦争と平和資料館、新宿区西早稲田)は、毎年4月29日「昭和の日」は、祝わない日の一つとして、講演会を開いている。オンデマンド配信で視聴することにした。

 宮城さんは、1879年(明治12年)の琉球処分、教育による同化政策、1886年、官民一体となっての皇民化教育から説き始めるが、その中で、王国時代からの「門中制度」が果たした役割に着目する。「門中制度」とは、当時の士族層が男性血統による嫡子相続を固守する父系血族集団で、儒教思想を基盤とする、いわば琉球版家父長制といわれている。結婚も家格を重視、親同士が決めるという。一方、一般の平民は、所有権のない土地を耕作するので相続は生ぜず、男女平等、結婚は「モウ遊び」と呼ばれる自由恋愛だったという。1898年1月、北海道、小笠原諸島と共に沖縄にも徴兵令が施行され、7月に民法が公布された。士族層にとっては、門中制度が民法によって法制化され、歓迎され、平民に対しては、日本語教育、琉装廃止、モウ遊び禁止、改名運動など、同化政策は強化されていった。

 昭和期に入ると、県民自らの日本風の改姓・改名運動や方言撲滅運動が見られた。戦争末期の沖縄戦において、集団自決がなされたのは、軍民一体となっての軍事活動がなされていたので、日本軍は、敵への投降はスパイとなって機密が漏れるのを怖れるということで厳禁、女性は強姦されるか慰安婦になるとの恐怖に陥れた。そして日本軍は、地元の指導者を伝令として、家長に集団自決を命じた。結果、男性家長は妻子・母・姉妹を殺めることになった。

 1945年9月7日、米軍と日本軍の降伏文書調印により、米軍単独の沖縄占領が始まり、1947年9月20日のいわゆる「天皇メッセージ」により、米軍の占領は長期固定化した。新民法により女性は解放されたはずだが、その実態は 良妻賢母教育がなされていた。「祖国復帰」運動は、「日の丸」と一体となっているという中で、1972年本土に復するが、米軍基地は、むしろ強化の一途をたどる。しかし1975年の国際婦人年を境に女性たちが声を上げ始めたという。にもかかわらず、男性の場合は、長男は県外に出にくかったり、次男・三男は養子に出され、女性の場合、親の位牌を継げず相続できないこともあったり、結婚すると男子の出産を要求されたりする。1985年以降、離婚率が全国一位といった実態もあるという。(注)

(注)ここでいう離婚率は、人口1000人当たり の離婚件数か。婚姻件数の離婚件数を比べての割合は相対離婚率というらしいが、これも沖縄県は上位を占める。

 宮城さんは、こうした「家」制度、「門中制度」の遺制が根づいている現状を「疑似天皇制」名付けている。私が沖縄を訪ねた折、亀甲墓を見かけたり、清明祭の話を聞いたりして、沖縄では祖先を大事にする人たちが多いんだと言った認識しかなかったが、その根底には、「門中制度」あったのだと、いまさらながら知るのだった。

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宮城さんの講演当日のレジメより

 平成期の天皇が、「八・八・八・六」を基調とする、沖縄の短歌「琉歌」を作っていたことと、琉球処分以降、政府による皇民化教育の一手段として、日本語教育、方言撲滅、標準語励行運動などの母語奪ってきた歴史との整合性を思わずにはいられない。

  なお、宮城さんの講演は、「wamセミナー天皇制を考える」シリーズの第17回目であった。WAMが祝わない日は、4月29日のほか、2月11日、2月23日、11月3日である。ちなみに、私は、第3回2021年2月23日に「〈歌会始〉が強化する天皇制」について話している。

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 「ナイチャーと結婚するな」と妹に相撲を見つつ祖父が言うなり
 帰ること無かりし祖父のふるさとは平らかにして米軍機並む
   屋良健一郎歌集『KOZA』(ながらみ書房 2025年3月)

  

 

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2025年5月 2日 (金)

4月29日は祝日だった~「昭和の日」はどのようにして決まったのか。

   連休も後半に入るが、この頃、休日や曜日の感覚がわからなくことがあって、これでは認知症の検査もおぼつかないかもしれない。4月29日などは、忘れて郵便局に出かけたりして、あとから「天皇誕生日」だったと気が付く始末。いや、カレンダーには「昭和の日」とある。そう、「みどりの日」が5月4日に移動して、「昭和の日」になったんだっけ。いったいいつからだっけ。その頃はもう退職していたから、休日が増えた恩恵にはあずかっていない。「昭和の日」となるまでの与野党の攻防を、おぼろげながら思い出した。戦前はもちろん「天長節」、戦後は、以下のような変遷をたどる。

1948~1988年 天皇誕生日

1989~2006年 みどりの日

2007年~   昭和の日   

 なんだか、怪しげな「祝日」だったんだ。大正天皇の誕生日8月31日、平成期の天皇誕生日12月23日は、いまは、祝日にはなっていない。明治天皇誕生日の11月3日は、戦後、「文化の日」になって、祝日として残った。

 昭和から平成の代替わりで、昭和天皇の誕生日が「みどりの日」として残され、さらに「昭和の日」となった。前の天皇の誕生日を祝日にし続けたら、祝日だらけになってしまう。さらに、「昭和」の名を残すとしたら、国民主権、象徴天皇制の憲法は何だったのか。戦前に逆戻りの感さえする。なぜ、「昭和の日」になったのか、少し調べてみた。
 それぞれ、「国民の祝日に関する法律」(以下祝日法)の改正によるものだが、現在の法律では、「昭和の日」(4月29日)は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日であり、「みどりの日」(5月4日)「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」日とある。

 4月29日が「みどりの日」とする趣旨を、1989年当時の小渕恵三官房長官は、私的諮問機関で有識者らによる「皇位継承に伴う国民の祝日に関する法律改正に関する懇談会」の意見を踏まえて、以下のように答えている。

「飛躍的な経済成長の結果、我が国の国民生活は、物質的にはほぼ満足し得る水準に達したものと考えられますが、これからは、これまでにも増して心の潤いやゆとりといった心の豊かさを涵養することが求められています。我が国は緑豊かな自然を持った国であることにかんがみ、この自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな、心をはぐくむことを願い、「みどりの日」として国民の祝日とする」(衆議院 内閣委員会 平成元年2月10日)

 なお、懇談会では「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから「緑』にちなむ名がふさわしい」との意見が大勢を占めたという。この「みどりの日」を、2007年に政府案の「昭和の日」に改める祝日法案が成立するまでにはかなりの曲折があった。2000年、2003年の二度の廃案を経て、2004年、自民・公明が提出、2005年4月、衆議院で民主党が賛成に転じて可決、参議院を経て成立、2007年施行となった。この間、日本共産党、社民党は反対している。

 内閣府による「昭和の日」についての説明では、「(前略)60年余りに及ぶ昭和の時代は、未曽有の激動と変革、苦難と復興の時代でした。今日の日本は、このような時代の礎の上に築かれたものであり、昭和の時代を顧み、歴史的教訓を酌み取ることによって、平和国家、日本のあり方に思いをいたし、未来への指針を学び取ることは、我が国の将来にとって極めて意義深いことです。こうした観点から、昭和の時代に天皇誕生日として広く国民に親しまれ、この時代を象徴する4月29日を昭和の日」にする、とある(「各「国民の祝日」」について」)

 しかし、ここには、昭和天皇の時代を「未曽有の激動と変革、苦難と復興の時代」としか捉えておらず、長きにわたった日中戦争、そして、アジア太平洋戦争下における昭和天皇の果たした役割、責任についての言及や反省もなく、「激動」と「苦難」という認識のまま、「昭和の日」としている点に、大いなる疑問が残る。祝日法第一条に「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける」とあり、「国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日」となり得るのかを、もう一度考え直さねばならないのではないか。

 昭和天皇誕生日の「昭和の日」には春の叙勲が、明治天皇誕生日の「文化の日」には、秋の叙勲が発令され、文化勲章の授章式が行われている。政府が決める叙勲や授章を「天皇誕生日」に絡めているのは、戦前の天皇制の遺制と言っていいだろう。

 そういえば、来年2026年にむけて、「昭和100年」というくくりで、近頃、マス・メディアの特集が組まれているのを目にする。メディアが勝手に名付けたものかと思っていたところ、なんと「明治100年」の時と同様に、政府は、本気で、昨年末から、大掛かりな記念事業を行うつもりですすめている。いくら転居でガタガタしていたとはいえ、うかつであった。

 内閣官房「昭和100年」関連施策推進室による「「昭和100年」関連施策について」https://www.soumu.go.jp/main_content/000990655.pdf)には、以下のような段落がある。

「昭和を逞(たくま)しく生きた先人たちの叡智(えいち)と努力の結晶であり、令和を生きる我々は、昭和の先人たちが築いた「豊かさ」の土台に立ち、その叡智(えいち)と努力に学びながら、歴史の流れの先にある、我が国の新たな姿・価値観を模索していくことが必要である。現在、国民の約7割が昭和以前の生まれ、約3割が平成以降の生まれとなっている。今日の我が国は、少子高齢化の進展、感染症の脅威、地球規模の気候変動やそれに伴う自然災害の激甚化など昭和期とは異なる多くの課題や、戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に直面している。こうした中、「昭和100年」を契機に昭和を顧み、先人の躍動に学び、昭和の記憶を共有することは、平成以降の生まれの世代にとっても新たな発見のきっかけとなり、また、世代を超えた理解・共感を生むとともに、リスクや課題に適切に対処しながら、幸せや生きがいを実感でき、希望あふれる未来を切り拓(ひら)く機会になる。さらに、いつの時代にあっても忘れてはならない平和の誓いを継承し、将来にわたる国際社会の安定と繁栄への貢献につなげていく機会になる」

 なんとも白々しい美辞麗句による「昭和讃歌」ではないか。「昭和の先人たちが築いた「豊かさ」の土台に立ち、その叡智(えいち)と努力に学びながら」「昭和を顧み、先人の躍動に学び、昭和の記憶を共有する」などはNHKの「プロジェクトX」のコンセプト、ナレーションを想起する。

 ああ、気を緩めてはいけないと、肝に銘じた『昭和の日』であった。

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昔の職場の友人二人が訪ねてくださり、しばし歓談ののち、「旧堀田邸」「さくら庭園」へ散歩に出ると、見事な藤に出会った。

 

 

 

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2025年4月21日 (月)

映画「グリーンブック」を見て

 映画サークル主催による映画会が開かれた。1月の入居以来3回目となる。2月は「最高の人生の見つけ方」、3月は「家族はつらいよⅢ 妻よ薔薇のように」であり、洋画と邦画を交代で上映して来たらしい。

「最高の人生の見つけ方」(ロブ・ライナー監督 2007年)、余命半年と宣告を受けた自動車工場の工員のモーガン・フリーマンと実業家で金持ちでもあるジャック・ニコルソンが病院で同室となる。慌てふためくニコルソンと冷静で、博識なフリーマンとは、何かと騒動を起こすのだが、フリーマンが、死ぬまでやっておきたいことのリストを認めているのを知ってから、二人がそれらを一つ一つ実行してゆく物語といっていい。原題は“Bucket Lsit”(棺桶リスト)というのだから、かなりそっけない。ニコルソンの資金あっての一種のアメリカンドリームに思えたが、興行成績は良かったという。日本でも同じ題名のリメイク版が吉永小百合・天海祐希で製作されている(犬童一心監督 2019年)らしい。

「家族はつらいよⅢ」は、山田洋次監督のシリーズ物で、贅沢な俳優陣で繰り広げられるホームドラマ。一家の大黒柱の主婦夏川結衣が、ある一件で、家出するとどんなことになるか、家事労働の評価を問うみたいな解説もあったが、映画の結末では、おそらく、何も変わらずに、元のさやに戻るハッピーエンドではなかったか。

 今回の「グリーンブック」(ピーター・ファレリー監督 2018年)は原題のままで、それは、黒人専用ホテルや店のリストを掲載するガイドブックだったのである。実話に基づくもので、アフリカ系のピアニスト(マハーシャラ・アリ)と彼のコンサートツアーのために雇われたイタリア系白人の運転手(ヴィゴ・モーテンセン)とによるアメリカ南部が舞台のロードムービー。時代は1962年の設定で、1876年から1964年の公民権法制定まで南部各州には、人種差別的内容を含む州法が存在していた。これらの人種差別の法律は、ホテルやレストラン、公共施設に至るまで、白人が有色人種を分離することを合法としていたので、演奏先の先々でさまざまな迫害を受けるのだが、ピアニストは、あるときは毅然として抵抗し、あるときは迫害に耐えるのだった。私は、いまさらながら、さまざまな差別、迫害の実態を知って、いささか驚くのだが、2020年、警官の黒人男性殺人事件の記憶は新しい。トランプ政権下で、多様性が否定され、差別が助長されているのを目の当たりにすると、人種差別は、決して解消はされてないことも知るのだった。

 映画では、紳士的で高踏的にも思えたピアニストと庶民的で粗野にも思える運転手は、互いに認め合い、理解を深めてゆく。一つ興味深かったのは、ピアにストへの迫害に、つい暴力をふるってしまった運転手が拘束され、ピアニストもろとも警察に留置されてしまう。ピアニストが弁護士と連絡を取ると、ただちに釈放するよう電話が入り、一件落着するのだが、当時の司法長官ロバート・ケネディの名が交わされる?場面があった。そういえば、ロバート・ケネディは、黒人差別による事件には厳しく臨んでいたのではなかったか。実話だったのか、少し話が出来過ぎてる感?もあった。

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運転手の旅先からニューヨークへの妻への約束の手紙、添削や代筆までするピアニストは、たばこもやらず、ケンタッキーのチキンも食べたことがなかった。

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写真は1940年版のグリーンブック(COURTESY NEW YORK PUBLIC LIBRARY)
ニューヨークの郵便配達員だったビクター・ヒューゴ・グリーンが1936年に創刊したグリーンブックには、自動車で旅行する黒人が安全に利用できる施設が掲載されていた。1967年まで、毎年のように刊行されていた。

施設が主催する映画会も、近く再開するとのことで、楽しみにしている。 

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2025年4月19日 (土)

東京新聞はなぜ、「空気を読み過ぎる」のか?!

  当ブログの前記事「女性天皇・女系天皇に期待する人たちへ、その先を考えてみたい。」(4月14日)は、4月11日の東京新聞社説「皇位巡る議論 安定的な継承のために」が「女性・女系天皇を認めることは、男女同権を目指す社会の在り方とも一致する」として「女性・女系天皇」容認に踏み切った論調への批判であった。

  そして今日4月19日の「社説」下の「ぎろんの森」は「皇位継承策と国民の支持」と題して、読者から多くの意見が届き、「そのほとんどが『社説は国民の常識・感情に寄り添ったものだ』などと賛意を示すものだった」という。この記事でも、共同通信の世論調査をあげて女性天皇を認めることに計90%が賛同し、女性皇族が皇族以外の男性と結婚して生まれた子が皇位を継ぐ「女系天皇」にも84%が賛成です」として、末尾に憲法の第一条をあげ、「主権者である国民の意見とかけ離れ、理解と支持が得られないような制度は安定的とは言えません。国民代表である国会議員は、そのことを忘れてはなりません。東京新聞は引き続き、読者と共に考え、主張すべきを主張していきます。」と結んでいる。

  しかし、当ブログの前記事でも書いているように、日本国憲法第一章にある「天皇」に「女性天皇」ないし「女系天皇」となる人を当てはめてみればわかる通り、基本的人権が認められないばかりでなく、慣習や慣例にしばられ、“宗教的”な振る舞いや行事への参加が強制されることになるのはないか。「皇后」という立場であっても、そこを突破する過程で失語症や適応障害という病に直面したのである。

  少し立ち止まってみれば、「女性天皇」や「女系天皇」が可能となれば、民主的な、男女平等の皇室制度が実現するかのような言説は、幻想に過ぎないのではないかと思う。その辺のことをスルーして、世論調査に追従するのみでは、ポピュリズムに堕した論調といってもよい。

  いま、「東京新聞はなぜ、空気を読まないのか」(菅沼堅吾著 東京新聞 2025年1月)という本が、広告によく登場する。著者は、東日本大震災発生当時の東京新聞の編集局幹部で、「空気を読まず、読者に知らせるべきことを果敢の報じる」ジャーナリストの神髄を示す回顧録、ということである。

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  先の「ぎろんの森」の結語でもある「東京新聞は引き続き、読者と共に考え、主張すべきを主張していきます。」というが、天皇制になると、あまりにもストレートに「空気を読む」「空気を読み過ぎる」論調になってしまうのは「なぜ」なのか。

 ところで、私はかつて、かつて、「時代の<空気を読む>ことの危うさ」(『短歌研究』2009年6月)という題で、書いたエッセイがあることを思い出した。「空気が読めない」といういい方が流行していた頃のことではなかったか。「空気が読めない人」をKYなどと呼ぶことも流行っていたようだ。

ご参考までに。

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『短歌研究』2009年6月号より

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2025年4月14日 (月)

女性天皇・女系天皇に期待する人たちへ、その先を考えてみたい。

  4月11日の『東京新聞』の社説の一つが「皇位継承を巡る議論 安定的な継承のために」と言うものだった。国会での議論がなかなか決着を見ない中、社説は、「世論調査では女性天皇を容認する人は約9割、女系天皇は約8割に上る」として「世界では女性の王位継承はすでに一般的。日本でも女性・女系天皇を認めることは、男女同権を目指す社会のあり方とも一致する。何より、皇位の安定的な継承と国民の支持を優先して考えたい。」と結んでいる。

  しかし、天皇制自体が、男系男子を強固に守って、といっても婚外子男子でつなげてきた実にあやしげな「万世一系」の皇統ではないか。日本国憲法における「皇位の継承」は「世襲」とのみと記され、あとは「皇室典範」に委ねているわけだから、女性天皇も女系天皇も、皇室典範の改正で可能ではある。といって、そこに女性天皇が出現したとしても、たとえば、ひたすら前例を踏襲するばかりであった即位礼、大嘗祭などにおいて「男女」を置き換えて実現しようとしたらどうなるのかなど、ちょっと想像しがたい。世論調査における女性天皇・女系天皇を「容認」する人たちの多くは、まさに「容認」であって、「男女平等なんだから女性天皇・女系天皇があってもいいじゃない」といった流れでの回答ではなかったか。

  2021年の有識者会儀のまとめた二案(①女性皇族が結婚しても皇族の身分を残す ②旧宮家の男系男子を養子に迎える)は、どちらにしても、安定的な皇位継承には直結するものではない。いずれも、女性皇族の基本的人権、第14条1項の「法の下の平等」と第24条1・2項の「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」違反するものであって、国会での議論に値する案とは言えない。②案について各党の対応が分かれているというが、第14条2項の「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」との整合性をどう考えているのか。この二案を前に議論しているという超党派の「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に基づく政府における検討結果の報告を受けた立法府の対応に関する全体会議」は結論を出せるのか。

 『東京新聞』の社説も、憲法の平等原則に立ち返ることなく「日本でも女性・女系天皇を認めることは、男女同権を目指す社会のあり方とも一致する。」と主張するのは余りにも拙速ではないのか。

  同日の4月11日『朝日新聞』のオピニオン欄で「国連委拠出金除外の波紋」について3人の論者に語らせている。国連女性差別撤廃委員会から「女性差別に該当する皇室典範の改正」を勧告された報復として拠出金使途から除外するという外務省の対応について、「憲法学者」西村裕一は、「皇室と女性差別を考える時」と題して「外務省の対応の是非はともかく」と留保して「皇室典範の規定が女性差別に該当しないという政府の説明それ自体は、憲法学の有力な立場に沿う」そうだ。一方、「天皇制自体が差別的なのだから、その中での女性差別は憲法や条約の問題ではない」という奥平康弘説が憲法学界では有力」だ という。メディアによく登場する長谷部恭男や木村草太などは、天皇制を憲法の「番外地」としているのだが、有力だという奥平説との関係はどうなのだろうか、素人にはわかりにくい。

 記事では、論者は「数年前に起きたある女性皇族の離脱劇」として、眞子さんを例として「問われるべきは、女性を犠牲にして成立している現在の皇室制度が“平和で民主的な日本国”の象徴を支える制度としてふさわしいと言えるかでなければならない」と続ける。しかし、“平和で民主的な日本国”にふさわしい「皇室制度」はあり得るのだろうか。もはや制度の問題ではなく、「日本国憲法第第一章天皇」と「平和で民主的な日本国」が両立し得るのかが問われるべきではないのか。この「第一章」があることによって、様々な場面で「平等」はなし崩し的にひずみを来し、「国事行為」という名のもとに、「公的行為」拡大の過程で、時の政府は、その「権威」を利用して来たと言ってもいいのではないか。それを受け入れてしまっている国民もいる。

 「憲法学者」には、「第一章」の位置づけと今後あるべき姿を明確に示してほしい、と願ってやまない。同時に、私たち国民も「いいんじゃない」で済ますことなく、真摯に向き合いたい。 

以下の当ブログ記事もご参考までに。
「皇族数の“確保”って、いうけれど・・・。」2025年3月21日

 「“安定的な”皇位継承というけれど・・・会議はどうなる?」2025年3月22日

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4月8日、ベランダ先の枝垂れ桜は満開を迎えるとあっという間に散り始めた。

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4月14日、芽吹き始めた木々の下で。

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2025年4月12日 (土)

沖縄の渡嘉敷島の「戦没者」慰霊祭に思う~住民を守らなかった日本軍

  先月3月29日、『東京新聞』に「2025戦後80年」シリーズとして、「『二度と戦争やめて』沖縄・渡嘉敷島 戦没者の鎮魂祈る」という小さな記事があった。「集団自決」で亡くなったとされる330人の慰霊碑「白玉之塔」の前での慰霊祭に約100人が参加、戦没者の鎮魂を祈ったとし、それに続いて「集団自決」の模様を以下のように伝えていた。

「米軍は1945年3月27日、渡嘉敷島に上陸。島北端の山中に逃げた住民は28日、集団自決に追い込まれた。鎌で切りつけたり、縄で首を絞めたりして、肉親同士が殺し合った」

 簡潔で、間違ってはいないと思われる記事なのだが、私たちが、渡嘉敷島の現地での見聞や書物の記述とは、ずいぶんと違っているように思えた。
 私たちが、渡嘉敷島を訪ねたのは2017年2月6日、那覇港から、欠航の合間を縫って、ようやく渡ったのだった。高波にも見舞われながらの70分の船旅、日帰りの強行軍だったが、タクシーの運転手兼ガイドさんの女性の案内でかなり精力的にまわったのではなかったか。

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   記事に「島北端の山中」とあるが、現在は、起伏こそあるが、広がる草原の先には、「国立沖縄市青少年交流の家」があり、野球場も見渡せ、海に向かえば、座間味島、阿嘉島も見える。のどかな光景なのだが、1960年、米軍がミサイル配備の基地建設のため、辺りの山は削られ、谷を埋め、地形は一変したという。69年に基地は閉鎖され、本土復帰の数年後に返還されたというのだ。もともとニシヤマと呼ばれたこの山間の地で、「集団自決」という凄惨な殺戮が繰り広げられたのである。現在は、1993年3月28日に建てられた「集団自決跡地」の碑がある。敗戦直後の1951年3月28日には「白玉之塔」は建てられていたのだが、米軍の基地建設のため接収され、現在の位置に移設されていた。

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   現在では、体験者の多くの証言により、渡嘉敷での「集団自決」は、軍の命令や関与があったことは明らかになっている。以下の証言でも、日本軍は住民を守るどころか、殺人や自決に至らしめたのである。

例えば、『沖縄タイムス』の社説にもあるように、軍は「敵に捕まった場合の投降も事実上禁止されたほか、「米軍に捕らえられれば女は辱められ、男は股割きにされる」という恐怖を住民に植え付けたのである」とし、一人の男性の証言をつぎのように続けている。

「あの日。金城さんの家族5人がいた壕では村長の「天皇陛下万歳」三唱が合図となりあちこちで手りゅう弾が爆発した。金城さんは、死にきれなかった妻子を小木でめった打ちにする男性の姿を見て「やるべきことが分かった」という。兄と2人で泣き叫びながら母と弟妹の頭に石を打ち下ろした。」(「[沖縄戦80年]慶良間「集団自決」悲劇の背景に軍の存在」2025年3月26日)

  同じく地元紙の『琉球新報』は、慰霊祭の記事ではつぎのように伝えている。

「1945年3月27日、渡嘉敷島に米軍が上陸し、住民は日本軍の命令で北山(にしやま)に集められた。翌28日に「集団自決」が起き、当時の村民の4割に当たる330人が犠牲となった。」(「渡嘉敷島「集団自決」80年の慰霊祭 刻まれた肉親の名を呼ぶ 沖縄戦」『琉球新報』 2025年03月28日)

『読売新聞オンライン』では、死んだふりをして難を逃れた女性の証言としてつぎのように伝えている。

「隣の座間味島(座間味村)に米軍が侵攻した翌日の3月27日、集落に「米軍が攻めてくる」といううわさが広がり、家族や知人らと山へ逃げ込んだ。夜通し歩き続け、日本軍の拠点にたどり着いたが、兵士に立ち入りを拒まれた。」(「沖縄戦で恐慌状態になり「親族同士で殺し合い」2025年3月27日」

 ところが、総務省がまとめた「渡嘉敷村における戦災の状況」では、「集団自決」について、以下のように記されている。

「日本軍の特攻部隊と、住民は山の中に逃げこんだ。パニック状態におちいった人々は避難の場所を失い、北端の北山(にしやま)に追込まれ、3月28日、かねて指示されていたとおりに、集団を組んで自決した。手留弾、小銃、かま、くわ、かみそりなどを持っている者はまだいい方で、武器も刃物ももちあわせのない者は、縄で首を絞めたり、山火事の中に飛込んだり、この世のできごととは思えない凄惨な光景の中で、自ら生命を断っていったのである」(総務省「(沖縄県)渡嘉敷村における戦災の状況」『一般戦災死没者追悼』所収)

 なお、渡嘉敷村のホームページ「慶良間諸島の沖縄戦」にも、上記と全く同文の段落があるので、総務省は、このページから一部を引用したものと思われるが、どうしたわけか、段落の冒頭部分「物量に劣る日本軍の特攻部隊と・・・」の「物量に劣る」が省かれている。総務省は、こんな姑息な「忖度」までを“日本軍”にするのかと。

 しかし、渡嘉敷村HPでも、「かねて指示されていたとおりに」というが、「いつ」「誰」が不明である上、「母と弟妹」は殺されたのであって、「自ら生命を断っていったのである」は、多く証言から、事実に反する記述ではないかと思う。さらに、同じHP上には、「大東亜戦争及び沖縄戦における本村関係者全戦没者数」の一覧表の欄外に*を付した「注意書」?では以下のような記述があるのである。

「狭小なる沖縄周辺の離島において、米軍が上陸直前又は上陸直後に警備隊長は日頃の計画に基づいて島民を一箇所に集合を命じ「住民は男、女老若を問わず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以て対抗できる処までは対抗し癒々と言う時にはいさぎよく死に花を咲かせ」と自決命令を下したために住民はその命をそのまま信じ集団自決をなしたるものである。」

 渡嘉敷村HPにおけるこれらの齟齬を担当だという村の教育委員会に尋ねたところ、古いことなのでわからない、とのことだった。
「慶良間諸島の沖縄戦」
https://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/material/files/group/1/jiketsu01.pdf

 渡嘉敷島では驚かされた一件があった。曽野綾子撰文による「戦跡碑」である。かねてより保守の論客としても知られる作家の曽野綾子(1931~2025年2月)の撰文の一部を見てみたい。

「(前略)3 月 27 日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所 に集結したが、翌 28 日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、 車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。この日の前後に 394 人の島民の命が失われた。 その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。(中略)  315 名の将兵のうち 18 名は栄養失調のために死亡し、 52 名は、 米軍の攻撃により戦死した。 昭和 20 年 8 月 23 日、軍は命令により降伏した」(全文参照「戦争の悲劇的結末への宣誓」観光庁「地域観光資源の多言語解説文データベース」https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/H30-01471.html

「力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは 愛であった。」という唐突な「愛」への疑問はぬぐいようもなく、家族による「殺人」に至らしめた要因をも「家族愛」「家族制度」に包み込んでしまっている。

 さらに、撰文末尾近くの将兵の死因にも言及する。住民の「集団自決」と将兵たちのその徹底抗戦を賛美するかのような書きぶりだが、栄養失調や戦死した犠牲者は浮かばれず、その遺族の口惜しさは格別だろう。ともかく、生き残った割合は、住民より将兵の方がはるかに高いのである。日本軍は住民を守るどころか「集団自決」という「殺戮」後に、抗戦していたことになる。

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 総務省や観光庁の公式見解がまかり通っている現実と、いまここでは触れないが、教科書検定問題の決着は、「歴史を正しく次代に継承すること」とは真逆の道をたどっていると言っていいだろう。

 戦争や戦場の悲惨さを伝えることは重要だし、平和を祈る気持ちも大切にしなければならないが、メディアも「識者」も、なぜそのような戦争が始まったのか、戦場や銃後での理不尽な死者たちにも、しかと目を向けるべきだろう。安易に「戦没者」とひとくくりに出来ない死者たちがいることも私たちは知る必要があるのではないかと思う。

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 ガイドさんと話に夢中になっていて、「白玉之塔」に参るのを失念してしまった。

 

以下の過去記事もご覧いただければと、ご参考までに。

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(3)2017年2月19日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/3-e774.html

冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(4)渡嘉敷村の戦没者、集団自決者の数字が錯綜する、その背景2017年2月22日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-0e0c.html

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2025年4月 8日 (火)

沖縄の「チビチリガマ慰霊祭」に思う

  4月6日の全国紙の朝刊は、沖縄県読谷村のチビチリガマで5日に行われた慰霊祭について報じていた。『朝日新聞』は「戦後80年」のシリーズとして「<集団自決>の地 語り継ぐ」、『東京新聞』は「2025年戦後80年」のシリーズとして「集団自決の過ち 繰り返さない」という記事だった。慰霊祭は、遺族会により行われ、生存者の参列はなく、遺族30人を含む約100人が参列している。1945年4月1日、米軍の沖縄本島への上陸が始まり、追い詰められてガマに避難した住民140人は、4月2日、住民同士や家族同士で殺し合った末、83人が犠牲となり、その6割が18歳以下だった。いわゆる「集団自決」による犠牲者だった。そうした中で生き残った者は「戦後長く口を閉ざし、証言するようになったのは80年代以降」(『朝日新聞』)だった。

   私たち夫婦が、このチビチリガマを訪ねたのは、2014年11月だった。ガイドも務める運転手さんによれば、米兵に突撃して射殺された2人を含み、狭い壕内で毛布に火が放たれもして、毒薬の注射や自決などにより85人が命を落とした。赤ちゃんの泣き声は、敵に居所を知らせるから、早くここを出るなり、殺せと兵士たちに迫られた母親もいたという。

  体験者の証言や聞き取り、研究者による調査研究などによって、こうした真相がわかってきたのは1980年代で、1985年には遺族たちと地域住民により追悼の平和の像が完成した。が、間もなく何者かに破壊されたので、石の壁で囲われるようになったとのことだった。

  私たちがガマに着いたときは、修学旅行の高校生が来ていて、ガイドの女性が説明をしているところだった。少し壕に近づき手を合わせたい気もしたが、運転手さんは、高校生たちの邪魔にならないようにしましょう、とその場を離れたのだった。

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  では、なぜ集団自決がなされたのか、その背景を『朝日』は「皇民化教育や〈軍官民共生共死〉という軍の方針があった」と言い、『東京』は「日本軍の強制や誘導があり〈強制集団死〉とも呼ばれる」と伝えている。
  NHK沖縄放送局の4月5日のニュースでは、この集団自決の背景を「捕虜になることを許さないとした当時の教育や軍の方針などがあったと考えられています」と伝えた。

  では、その「軍の方針」「軍の強制」とは何だったのか。上記の記事では。その辺が不明確なのである。これまで、私は「軍官民共生共死」という「軍の方針」とはどんなものだったのか、をあまり深く調べもしなかったのだが、とくに、沖縄の日本軍において、実践されたようなのだ。

  石原昌家教授のインタビューによると、1944年8月に赴任した第32軍の牛島満司令官が、同月31日、全兵団長を集めて行った訓示は「最後の一兵に至るまで敢闘精神を堅持」「一木一草といえどもこれを戦力化すべし」と言うものだった。さらに、第32軍が44年11月18日に作成した「報道宣伝防諜(ぼうちょう)等に関する県民指導要綱」によって「軍官民共生共死の一体化」と称して、「住民は戦場に動員されたり、飛行場や陣地の構築にかり出されたりし、軍民が一体化する中で米英軍の激しい攻撃にさらされ、多くの命が失われた」という結果を招いたというのである(「『県民の総決起』強いた沖縄戦の実相 数千の証言集めた研究者に聞く」『朝日新聞』2023年7月13日)。

 よく言われる「軍人勅諭」「戦陣訓」だけでなく、沖縄には、さらに密接な形での軍の方針が住民を苦しめた。その上、兵士たちは恐怖を煽るばかりでなく、住民たちに手をかけ、住民たちも家族同士、住民同士の殺傷に及び、失われた命だったのである。「自決」というのは、自らの意思による、潔い自裁さえ思わせるが、現実は、それとは程遠い殺戮が展開されたのではなかったか。「集団自決」は「強制集団死」と言い替えられることも多いが、「誰に」強制されたかがやはり不明である。「軍の誘導や強制により」と書き添えられることも多いのだが、体験者の証言などからは、より切迫した恐怖感があったからとしか思えない。

 

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2025年4月 6日 (日)

少しはからだ動かさくちゃ、歩かなくちゃ、ダメでしょ。

  ようやく新しい暮らしにも慣れて、週3回の「はつらつ体操」というのに参加するようになった。施設では体の状態によっていくつかのメニューがあって、朝のラジオ体操と「はつらつ体操」は初級者向け(弱い)である。「はつらつ」の方は、何しろほとんどが椅子に座ってできるメニューで、右足を痛めている私にはありがたい。インストラクターは、女性二人、男性一人の日替わりらしい。 45分間で、準備体操、筋トレ・脳トレ・音楽に合わせてのリズム体操で終わる。最後に流される音楽は「人生いろいろ」「川の流れのように」などである。「脳トレ」というのが、私は苦手で、いまだにきちんとできたことがない。両手の左右を違えて動かす、手の動きに足の動きを組み合わせて、それぞれ違った動きをさせる。「いいですよ、できなくても大丈夫ですよ」とインストラクターはみなやさしいのだが。

 一昨日、連れ合いが、施設の東門からJR佐倉駅への近道があるらしいから、ちょっと歩いてくる、というので、私も、途中まではと歩き出した。なるほど、道は、タイヤの跡があるからようやく車が通れるほどの幅で、右手が石垣の上に鬱蒼とした林、左手が荒れた林や竹林が続く下りの坂道、どこまで続くのか、足元には、どんぐりのような木の実が散らばっていてぴしぴしと靴にあたる。引返すに引き返せなくなって、途中で小休止。左手には住宅が見えてきて、線路と道路に突き当たる。なんだ、県の合同庁舎が見えてきたのである。いつもバスで通る道に出る。地図を見ると「さくら庭園」の外回りを歩いてきたことになる。それでも3000歩少し。近頃にしては上出来なのである。

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 振り返るとこんな道なのだ。

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旧堀田邸から見た芝生の先にはこんな風に緑地が広がっていたのがわかる。V字型の緑地の左の内側に厚生園病院や特養などがあり、右手の先の内側に旧堀田邸があり、その先に施設があることがわかる。そもそも、もともとは、この一帯は堀田家の農事試験場であったという。Vの左の外側は長い坂道となる。

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