2008年7月20日 (日)

<竹山広20・8・9以降>アンケートに答えました  

「短歌往来」8月号の竹山広特集の私のアンケートの回答です。

評論は三枝昂之と森本平の2本と年譜(馬場昭徳)と50首抄(佐藤通雅)でした。

①竹山広の3首を上げて下さい。

核反対の立看板を引き倒す風あれば風を敵として坐る(『葉桜の丘』)

無用なる天皇制といふ論にこころ傾きて七十となる(『残響』)

傲る者を無力なものとなしたまふ神よと讃ふ日日の祈りに(『遐年』)

竹山短歌の魅力について自由に記して下さい。

 竹山短歌の鑑賞に欠かせないキーワードである「核」「天皇」「神」について直截的なメッセージが込められている三首をあげた。竹山の原爆詠の背景として長い沈黙と決断があったことはすでに知られている。長崎での被爆以来、作歌自体を中断していたが、一九五五年以降は断続的に原爆詠を詠みつづけている。年譜には、一九八四年「この年から、市民による核実験反対の座り込みに参加」とあり、実践する者の底力を見せ、同時期に「うすにごる反・反核の歌にあそぶ岡井隆もさびしかるべし」がある。一九六一年に天皇の巡幸を迎えたときの「現つ神にあらず人民にまたあらず機関車二輌みがきつらねて」(『とこしへの川』)以来、天皇(制)を繰り返し詠み続ける。また、佐藤通雅は、竹山の信仰について永井隆との比較で言及するが、私も永井の通俗性と原爆投下「神の摂理」論、「長崎の鐘」出版をめぐる米占領軍との経緯を知り、竹山の「神」との距離が貴重なものに思えた。

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2008年7月 2日 (水)

節度を失くした歌人たち―夫婦で選者、歌会始の話題づくりか

選者は若返った?が

71日、来年1月の歌会始の選者が宮内庁から発表された。岡井隆(80)、篠弘(75)、三枝昂之(64歳)、永田和宏、河野裕子ということだ。1979年、戦中派歌人として選者入りした後、今年まで30年近く選者をつとめていた岡野弘彦(84歳)が引退し、あらたに河野裕子が選者になった。一番若い永田が61歳で、河野も同年というから大幅に若返ったことになる。

それ以上に驚いたのが、永田と河野は夫婦歌人で有名でもあった。かつて、私は「夫婦や家族で売り出す歌人たち―そのプライバシーと引き換えに」と題して「永田和宏一家」にも触れ、時評を書いたことがある(『現代短歌と天皇制』2001年 収録)。そこでは、つぎのようにも記している。

 

夫婦で、親子で、そして家族で歌人というのも悪くはないが、途中で妻が夫の結社に乗り換えたり、夫婦で一体となって結社を取りしきったり、主宰者の夫の没後は妻や子どもが結社を引き継いだりするのは、稽古事の家元や老舗の暖簾の世界でもあろう。自立した文学者や文学を志すグループのすることだろうかと、ときどき不思議に思うことがある。(中略)主宰者への貢献度により擬似家族のような「弟子」を育てる例もある。こうした狭い場での「短歌の再生産」が短歌の衰退に拍車をかけなければいいが。

 たかが歌会始の選者に、それほど目くじら立てることもないというのが、「大人」の態度なのだろう。長い間、歌会始の選者人事をおそらく仕切っていた、木俣修、岡野弘彦に続くのは、岡井隆なのだろうか。今回の人事は、御用掛り、選者を退いた岡野の重石が取れた後の岡井の主導権が実を結んだとも見える。木俣、岡野時代は、それでも、選者の出身結社のバランスなどへの配慮も若干目に見えていた。今回の河野登用には、もうそんな配慮は投げ打って、夫婦選者という話題性を優先したと思われるのだ。

しかし、今回の出来事に限らず、歌人に節度を失くしたというのか、節操がないというのか、開き直る傾向が昨今露骨になった事態をどう理解したらいいのだろう。いや、政治家や官僚の世界も同じかもしれない。歌人にも歌人の利権が廻りめぐっているのではないかと思われるのだ。島田修三はかつて歌壇における互酬性とも称した。日常的な短歌の批評や評論の世界でも、歌壇ジャーナルにおける夫婦や結社内での内輪褒めの横行、歌人同士のエールの交歓が顕著なのである。

 「光栄」の裏側 

 一方、選者を引き受けた河野は、コメントで「喜んで引き受けました。大変光栄です」「女性が1人入ることで、暮らしの現場の感じや手触りが反映できれば」と語ったという(『東京新聞』200871日)。ここでの「光栄」発言の背後には、歌会始の天皇制、皇室、国家との親密性が尾を引いている。1993年選者就任の際の岡井隆の弁に、歌会始とて、全国規模の最大の短歌コンクールであって、新聞歌壇の延長に過ぎない旨の発言があったと記憶するが、現在にあっても、決してそうは言い切れない「蜜」が歌会始には潜んでいるのだろう。また、河野は、久しぶりに一席を確保した女性選者の存在をアピールもするが、歌会始の女性選者の役割というのは、歌壇ヒエラルヒーの男社会の「紅一点」に過ぎないのではないか。歌壇人口、結社や歌壇ジャーナリズムを支えている女性たちの絶対数に比べたら、女性選者の数は男性と逆転するかもしれない状況なのだ。 

敗戦後の歌会始の選者に現代歌人が登用されて60年が経つ。それでも、宮内庁という国の機関が主催する皇室行事歌会始の選者というステイタスは、いまだに多くの歌人たちを魅了してやまない、ということなのだろう。短歌の文学としての自立は、ないものねだりなのかもしれない。

 

 

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2008年6月29日 (日)

マイリスト「短歌の森」に「短歌の<朗読>を巡って(5)戦時下の<短歌朗読>を登載しました

1942年5月に発足した日本文学報国会の機関紙『文学報国』(タブロイド版)から、「朗読文学」関係の動向を探ってみた。朗読文学がもてはやされた、その原因は当時の「紙不足」に発していたらしい。紙不足を理由に「代用」「間に合わせ」の朗読であってはいけない、「正しい日本語」「うつくしい国語」の純化を図るのが真の目的であると・・・。「短歌朗読」はどのように進められようとしていたか。

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2008年6月28日 (土)

見逃せなかった「芸術都市パリの100年展」

 パリには2度しか行ってない。それも合わせて1週間程度だったか。まだまだ訪ねたいところはたくさんあって、できるならしばらく暮らしてみたい。官庁街の退け時、決して疲れてはいないおしゃれな女性たち、墓地のベンチでくつろぐお年寄りたち、日本の事情とは少し違うように思えた。時間に追われることなく、美術館や公園でのんびりしたあと、スーパーで夕食の食材を買込んで、思いっきり日本食を作ってみたい。そんな夢はかないそうにもないが、芸術家たちが見たパリ、暮らしたパリ、それも1830年-1930年の100年に焦点を合わせた展覧会が開催中なのだ。都の美術館は65歳以上がシルバー料金なので、保険証も忘れずに持って来た。JR上野駅公園口前では、呼び込みをやっているではないか。65歳以上の方、本日は無料です、と。

 セーヌ川にかかる橋の名前が覚えられない。隅田川にかかる橋もなかなか覚えられないのだからと、あきらめた。

 「パート1・パリ、古きものと新しきもの―理想の都市づくり」

 最初の作品がカミーユ・コローの「ジェーヴル河岸から眺めたシャンジュ橋」である。シャンジュ橋(両替橋)はシテ島の最高裁判所と市立病院に挟まれた道に通じる。絵の右手奥にはノートルダム寺院の尖塔が見え、左端から高い壁が続き、風景画の構図の基本を見るようだ。作品一覧によれば、1830年頃描かれ、今回の展示では一番古い。大改造前のパリの雰囲気が伝わってくるような一枚であった。進むとクロード・モネ「テュイルリー」(1876年)。ルーブル美術館の広場に続くこの広い公園は、ホテルの近くだったので、よく通り抜けたのだが、むしろ埃っぽい街中の平凡な公園に思えた。作品は、田園の一画のような、新緑が日差しに映えるのどかな公園である。マルモッタンで求めた絵葉書がまだファイルに残っているはずだ。そして、その隣の横長の点描画は、ポール・シニヤックの「ボン・デザール橋(芸術橋)」(1928年)。左手河岸のあざやかな黄葉、橋を渡った右手には、紅葉の間からルーブルの屋根が見え隠れする。パート1の後半は、オルセー美術館のコレクションから、エッフェル塔の建設過程がわかるが多数の写真が展示されていた。建設当時、賛否両論があり、1889年完成時も20年後には取り壊されるはずであったのが、今日に至っているという。観光客ばかりでなく、市民にも愛され続けた証かもしれない。

 「パート2・パリの市民生活の哀歓」

 風刺画家として知られるオノレ・ドーミエの石版画が大半を占める。1830年代から50年代の制作だから、日本で言えば江戸時代末期、パリの風俗資料としても貴重なものなのだろう。また、絵画では肖像が多く、ルノアールの上品な「ニニ・ロペスの肖像」(1876年)、藤田嗣治の愛らしい少女像1920年頃)が眼にとまった。

 「パート3・パリジャンとパリジェンヌ―男と女のドラマⅠ」(絵画)

 「パート4・パリジャンとパリジェンヌ―男と女のドラマⅡ」(彫刻)

 この会場で、シュザンヌ・ヴァラドンの絵が5点も見られてことは、想定外の収穫であった。昨年の夏、ユトリロ展にでかけたとき、18歳のとき父親が不明のまま、彼を生み、シャヴァンヌ、ロートレック、ドガ、ルノワールら錚錚たる画家たちのモデルをつとめたが、自らも絵筆を握ったシュザンヌ・ヴァラドンを知った。(当ブログ2007721日「モンマルトルの冬は知らないけれど」参照)の独特のくすんだ色調とは違って、輪郭も色彩も明確な、力強いタッチの絵なのだ。若いときのデッサンの自画像(1883)は、18歳、ユトリロ出産の前後か、目元と口元、顎にかけて、意志の強さが感じられる。ロートレックとはモデル以上の関係があったといい、作曲家のエリック・サテイとは半年ほど暮らしたといい、今回、そのサテイの肖像画(189293年)もポンピドー・センターから出品されていた。「もの思いのユトリロ」(1911年)には、わが息子ながら突き放した目でとらえられたユトリロも登場する。波乱に満ちた画家の母と息子、母は1938年に、ユトリロは1955年に没している。

 彫刻は、ロダン、ブールデル、マイヨールのブロンズが15点ほどあった。ロダンによるカミーユ・クローデルの肖像を見ていると、ロダンと別離後のカミーユ・クローデルの過酷な半生を思い起こし、ユトリロの母のような強靭さがないと、女が自立した芸術家として生きにくい時代を思わずにいられなかった。

 「パート5・パリから見た田園へのあこがれ」

 ここでは、モーリス・ドニのプチ・パレ美術館天井画の下絵ながら「フランス美術の歴史」シリーズは、各時代の代表作の特徴を捉えていて楽しそうだ。

会場の一画にあった、パリ市街のパノラマの模型が結構楽しめたし、総じていつになく時間がかかった展覧会だった。

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2008年6月27日 (金)

『象徴天皇の現在』(世織書房)に書いています

数年前に、再校を返送してから音沙汰がなかったので、半ばあきらめてもいたのだが、一昨日『象徴天皇の現在』(五十嵐暁郎編 世織書房)が届いた。2008年6月28日が発行日となっている。編者の五十嵐先生の「あとがき」にもあるように、この論文集の始まりは十二年前にさかのぼる。当時、私は、30余年の勤めを退き、立教大学社会学部の院生であった。指導教授の一人、服部孝章先生の紹介で、法学部の五十嵐先生が立ち上げたばかりの象徴天皇制研究会に参加することになった。10人近いメンバーが交代でレポートをする研究会が、私には毎回新鮮で楽しかった。ほとんどが研究職に就かれている方たちなのに、なぜかリラックスして通ったことを思い出す。若手では、最初の頃は原武史氏も参加されていたし、川島高峰氏は皆勤ではなかったか。五十嵐先生は、松本三之介門下だったので、数十年前同期生に誘われて参加したゼミ旅行でご一緒したこともある。同世代の高橋紘氏は、当時MXテレビにいらしたが、共同通信社時代は、宮内庁記者クラブに長かったこともあって、とても紳士的な方であった。今は、大学教授として、皇室問題ではテレビにもときどき登場されている。記者駆け出し時代は、池袋警察が担当なこともあり、昔の池袋界隈に詳しく、話が盛り上がったこともある。研究会の2次会「放課後」の多くは、池袋西口の「がんぴ」だった。

今回の論文集に、私はつぎのようなテーマで執筆している。このブログでも紹介済みのように、『ポトナム』という短歌結社誌にその一部をすでに発表している。

第6章    昭和天皇の短歌は国民に何を伝えたか―象徴天皇制下におけるそのメッセージ性と政治的機能(239255頁)

はじめに

1.天皇の短歌発信の場としての歌会始

2.天皇の短歌は国民の天皇像形成にどれほど役に立ったのか

これを執筆していた頃は、ちょうど『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)のまとめにかかっていた。もちろん、上記の論文は収録されていない。私の書くものに「天皇の短歌」作品自体がまったく登場しないのはなぜか、の指摘をよく受けていたので、この論文では、昭和天皇の短歌作品に即した形で、論を進めるようつとめた。これまでの著の繰り返しの部分もあるが、歌会始戦後史における選者と歌壇の関係、選者と国家権力の関係などにも言及している。関心のある方は、ぜひ身近な図書館にリクエストしてほしい。それに、以下の収録論文は、天皇周辺における知らなかった出来事、知っている事柄でも、脈絡をたどって分析している論文が多く、あらためて読み返し、興味深かった。服部先生、原氏、高島氏の論文がないのは寂しいけれど、ぜひ一読をお勧めしたい。

序論   現代日本と象徴天皇(五十嵐暁郎)

第1章              象徴天皇と政権党(五十嵐暁郎)

第2章              胸に一物―評論家における「昭和天皇の戦争責任」論(ボブ・T・ワカバヤシ)

第3章              天皇制文化の復活と民族派の運動(ケネス・J・ルオフ)

第4章              皇太子訪米と60年安保―外交文書にみる「皇室外交の政治利用」(高橋紘)

第5章              戦後日米関係と「天皇外交」―占領終結後を中心に(吉次公介)

6章  (内野光子)*上記参照

7章  日本民族宗教としての天皇制―日常意識の中の天皇制モジュール(栗原彬)

院生時代、法学部の栗原彬先生のゼミにも潜り込み、原書を読んでのレポートはお手上げで迷惑をかけたことがある。ベネデイクト・アンダーソンの『想像の共同体』などもここで知り、基礎学力のない自分を思い知った場所でもある。先生は、現代短歌にも関心をお持ちであることはあとで知った。今回の論文でも、岡野弘彦、上田三四二の昭和天皇追悼歌を俎上にのせている

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2008年6月23日 (月)

旧著『現代短歌と天皇制』が紹介されました

 出版後7年を経た『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)が、最近いくつかの文献で紹介されているのに接し、正直、少し元気も出、うれしいことだった。ありがとうございます。

①大野道夫:短歌と天皇制論議に思う ( 『短歌・俳句の社会学』 はる書房 2008年3月、所収)
 これは出版直後の大野氏執筆の「時評」(『歌壇』 2001年5月号)が著書に再録されたのである。『現代短歌と天皇制』の第2章「歌会始と現代短歌」の中で、私が古橋信孝「短歌形式と天皇制」(『短歌と日本人Ⅱ』岩波書店 1999年)への反論を展開した二つのエッセイを対象に、論評をしている。国文学界、古代文学の「鉄人」とも評されていた古橋氏への私の反論は、無謀にも近かったのかもしれず、この反論に触れる論者は少なかったのだ。古橋氏の批判というのは、私の旧著『短歌と天皇制』(風媒社 1988年)の冒頭の一部を恣意的に取り出して、全体を読もうとしない、「ためにする」批判に思われた。大野氏の時評は、私の<激昂>にも近い反論を真正面から読まれていることがわかり、私をかなり冷静にさせてくれたことなどを思い起こす。

②橋本三郎:短歌と現代(4)天皇制と短歌 (『短詩形文学』 2008年4月号)
 『現代短歌と天皇制』とあわせて旧著『短歌と天皇制』とが紹介されていた。勉強不足で、私は橋本氏の名前を知らなかった。1950年代から60年代にかけて、『現代短歌』や『樹木』で活躍された論客であったことも初めて知った。そしてその主たるテーマは、「前衛短歌」批判であり、岡井隆批判でもあったことは、最近、橋本氏から頂いた著書『いい短歌とは何か』(光陽出版社 2003年)で知った。その著書の「あとがき」で、すでに、私の二つの旧著が紹介されていることも知ったのである。本を出すということは、多くの未知の読者と出会っているというありがたさと責任の重さを同時に味あうことなのだろう。身のひきしまる思いであった。

③鈴木隆夫:『現代短歌と天皇制』 (『短歌研究』 2008年6月号) 
特集<歌人が選ぶ平成二十年間の歌集歌書100>の1冊として選定された。半頁ほどの紹介の後半で、鈴木氏は次のように述べる。「(短歌のもつ)<私性>を、作品・その他の表現活動・生活の三者を貫く姿勢に読み取れる心情と考える著者は、その<私性>の放棄が横行しはじめ、右傾化が著しくなっている現実のなかで、歌人ひとりひとりの<私性>の軌跡の振幅に着目したいと述べている。歌壇の閉鎖性と歌人の時代迎合を撃つこの書は、短歌を詠み、また読むことの意味を改めて考えさせてくれる。巻末の資料もその参考になる」ちなみに、編集部によれば、1889年1月~2008年春までに刊行された歌集歌書で、この時代に残すべきもの、読み継がれるべきものとして、200人の歌人にアンケートをとり、複数回答のあった注目すべき中から100冊を選定したという。

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2008年6月 5日 (木)

マイリスト「短歌の森」に「短歌の『朗読』、音声表現をめぐって―戦時下の短歌朗読2」を登載しました。

前回に続き、太平洋戦争下において、さまざまな形で出版された詩歌朗読用のテキストを紹介し、編者の意図や利用の実態について探ってみました。

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2008年6月 4日 (水)

「考える街。ユーカリが丘」って、ディベロッパーは何を考えているの(2)

これって記事、広告?

 「毎日新聞」の企画特集「役立つ住宅情報」は、首都圏を対象にしている広告記事で占められる。住宅メーカーやマンション業者の販売広告や情報記事が載る。紙面1頁分の構成としては一般記事と紛らわしいのが“特徴”といっていい。だから、唯一署名入りである住宅事情の時評的な「櫻井幸雄の住アドバイス」が特定業者を褒め上げる記事を書いても話し半分で読み流すことが多い。 

2008529日「櫻井幸雄の住アドバイス」の見出し「ユーカリが丘 まれに見る個性・先進性」が目を引いた。末尾の肩書きは「住宅ジャーナリスト」となっている。ユーカリが丘に20年も住んでいる者にとっては、ああ、「また山万がガンバッチャッテ」の思いが先に立つ。山万の開発手法やイメージ先行の広告を間近で見ている住民にはやや食傷気味のフレーズなのだ。

森と水に囲まれたァ~♪

このブログでも、何度か触れているのだが、私が住んでいる住宅街は、この業者が7割近く所有していて、業務代行を務める土地区画整理事業による開発区域に隣接している。宅地造成が完了した工区に、いま、14階のマンションが建設中で、日に日に積み上がるコンクリートの物体は、工事の騒音や振動とともに周辺の住民を不安に陥れている。私たちが住み始めた20数年前、マンションが建つあたり一帯は、戦国時代の井野城跡、鎮守の森に続く雑木林で、市街化調整区域だった。事業組合が認可されると、森は伐採、山は切り崩され、その切り土はくぼ地に盛られ、八社大神の境内の杜だけがお椀を伏せたように取り残され、造成された。その造成過程では、トラック800台分の産業廃棄物が持ち出されたという経緯も発覚した。30度に近い盛り土の傾斜地が2度にわたって崩れ落ち、幹線道路からのこの街区への導入路は傾斜10度に近い危ない橋だった。この盛り土の上に建設中のマンションは、ゴールデンウィークから「森と水、都市機能を備えた、環境共生・子育てを考えた」をキャッチフレーズに販売を開始した。周辺に残る森や水田は、30年以上前、ニュータウン開発当初、山万の買収に応じようしなかった農家の集落と田んぼだったのである。その農家の当主の一人は「われわれが守ってきた森と田んぼなのに、よく言うヨ」と苦笑するのだ。

スーパーがいつのまにコンビニに!

さらに、このマンションの西に位置する私たちの家並みの多くは、日照時間が大幅に短縮されるのは必至。また、マンション入居者には、近接商業施設が必需だが、その建設が、狭い斜面地に私たち住宅街側に寄せて計画され、屋上に駐車場を設置するという。私たちの生活道路や通学路は、500戸以上の新マンション入居者や商業施設・新設公園などを利用する車輌の抜け道となり危険にさらされる。また、数年前、別のマンションの完成時にオープンした近接スーパーがすぐに撤退、コンビニに変わってしまったのを目の当たりにしている。入居者のお年よりは、スーパーがなくなるなんてだまされた、コンビニなんか用がない、と。そんなこんなで、私たち既設住宅街の自治会は環境保全のために、さまざまな要望を行政や山万に提出するのだが、都市計画や開発関係法令を楯になかなか応じようとしないのが実態である。脱法にも近い、法令をギリギリ、クリアすれば事足りるのか、そんな場面を何度も見せつけられている。かつての顧客だった私たち旧住民をこんなにもないがしろにしていいものなのだろうか。このディベロッパーのやることなすことに信頼が置けなくなっているのだ。

評論家って?

先の新聞の広告記事の執筆者「住宅ジャーナリスト」は、業者の宣伝文句そのままに「ニュータウンを何十年もかけて1社で開発するのは、私が知る限り日本ではユーカリが丘だけ」、保育所から老人ホームまで、住宅販売からリノベーションまで、「生涯不安なく生活できる街をというのも先進性の表れ」と書く。マンション販売開始にあわせて、55日に、山万は「住宅評論家櫻井幸男先生と巡る<街の見学会>と<マンション見学会>、櫻井先生がこっそり教えるマンション購入のためのセミナー」を実施したことを後で知った。ああ、やっぱり。

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2008年5月26日 (月)

マティスとボナール展―コート・ダジュールに思いを馳せて

リニューアル・オープン間もない川村美術館を訪ねた。オーナーの大日本インキが、この4月に社名をDICに変更した、という。京成佐倉駅前で乗る送迎バスが国道51号線から敷地の広い雑木林へと曲がるとき、いつも少しばかりワクワクするのはどうしてだろう。美術館までのアプローチは季節によってその風景を変える。きょうは、久しぶりの晴れ間に新緑がことのほか美しく、バスから降りれば、たちまち木々の精気につつまれる。

庭園の散策にも心動かされるのだが、きょうは時間がない。お目当ては、会期が残り少ないDIC創業100周年記念展「マティスとボナール―地中海の光の中へ」だ。常設展示室は申し訳ないが、レンブラント、ルノワール、モネ、シャガールもそそくさと、マーク・ロスコ、バーネット・ニューマンやロバート・ライマンの展示構成が変わったようにも思えたが、あそこまではなかなか透徹できないナ、の思いで数世紀を超えて通り過ぎる。

どちらかと言えば沈静した風景や静物画しか思い出せないボナールとマチスの接点がわからないまま会場に入る。年表によれば、19世紀半ば過ぎから20世紀半ば、日本で言えば、明治維新から敗戦直後まで、ほぼ同時代を生き、1910年代からともに南仏を拠点に制作していることがわかった。会場の、その拠点が示される地図を眺めていると、数年前、アビニヨンから乗ったTGVの車窓から見え隠れする地中海、マルセイユ、ツーロン、カンヌで乗り降りする人々、ニースのシミエで道に迷い、苦労してたどり着いたマチス美術館すらなつかしく思い出され、今回の展示の「地中海の光の中へ」の副題にも思いを馳せる。

第Ⅰ部、ピエール・ボナール(18671947)の初期の作品で、「ジャポニズムのナビ」とも呼ばれ、日本に傾倒していた時代でもあったというが、その影響を直接受けたと思われる作品が見当たらない。妻マルトの裸婦像や親しい友人たちとの交流場面が多いなか、楽譜集や詩集の装丁や挿絵、リトグラフであるが「パリ生活の諸相」シリーズ(1899)が目に止まった。

第Ⅱ部、アンリ・マチス(18691954)「フォーブの実験から成熟の時代へ」と銘打たれ、裸婦や踊り子の作品の多いなか、「ニースの室内、マルグリット・マティスとアンリエット・ダリカレール」(1920)は、マチスの娘とモデルがテーブルを挟んで座っている、静かだが不思議な雰囲気を漂わせている作品に思えた。

 第Ⅲ部、ボナールの「昼食(マルトとジャン・テラス)」もマルトと行儀のよい青年との組み合わせが興味深い。カンヌ郊外のルネ・カネにアトリエを持つボナールには身近な風景でもあった「カンヌの港」は地味ながら惹かれる作品だった。第Ⅴ部、最晩年の「花咲くアーモンドの木」(194647)はカタログの表紙を飾っている代表作だけあって、ボナールの画風が集約されているようにも思えた。

 第Ⅳ部・第Ⅵ部、1930年代後半から40年代は、マチスらしい色調が躍動する作品が並ぶ。「黄色い服のオダリスク、アネモネ」(1937)、「日除けのある室内」(1942)、「赤い室内、青いテーブルの上の静物」(1947)は、朱や黄色などが南仏の明るさを思い起こさせる。同時代ながらモノクロに近い「仰向けに横たわる裸婦」(1946)の力強さや晩年に近い「プラタナス」(1951)の簡明さが、私には快かった。なお、最晩年の切り絵による、ブルー・ヌードや花のデザインは、今回少なかったけれど、ニースの美術館で見かけた数枚の絵葉書を買ってしまった。

 カタログの表紙のマチスの作品は「赤い室内、・・・」であったが、今回も買わずじまいだった。このブログを書きながら、ああ、買っておくべきだったと悔やまれもした。会場には、作品リストがなく不便したが、帰宅後、美術館のHPからプリントアウトしたものが、いま、役に立っている。準備不足を反省する1件であった。

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2008年5月19日 (月)

2008年5月3日は何をしていたか

はや、5月半ばも過ぎてしまったが、今年の憲法記念日は何をしていただろうか。

地元で「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」が立ち上げられて丸2年以上たつ。友人に勧められるままに世話人の一人となった。この会は、政治的な色合いがあまり明確でなく、9条をまもりたい、の一点で共通すればよいではないか、とゆるいのが特徴だ。会のニュースも9号まで出た。今年の憲法記念日は、何かやりたいね、少しでも若い人にアピールしたいね、と早くから準備に取り掛かった。私はお手伝いできなかったけれど、リーフレット作り、それに加えての栞作り、リーフレットに栞を挟んで手渡そうというのだ。リボンのついた栞の表には「9」のデザイン文字、裏面は九条の英語、中国語、イタリア語、スペイン語、フランス語などの各国語訳を載せている。

 53日に先立って、4月の下旬、地元にもっとも近い県立高校の校門前で、そのリーフレット配りを行った。一度は雨で流れ、二度目は、創立記念日と知らずに、部活で登校の生徒に少しばかり配って解散、三度目の正直というところで天気にも恵まれた。10人近くのメンバーで登校の生徒に手渡すのだが、自転車通学も多く、タイミングよく渡すのは結構難しい。真面目そうに見える生徒ほど、視線が合わず通り過ぎてしまう。友人同士おしゃべりしながらやってくる生徒たちは、手を伸ばしてくれる。集団で来るぞ、来るぞと構えていると、そのまま、隣のコンビニに入ってしまうこともある。腕章をつけた、見回りの先生も受取ってくれたという。用意した400部がなくなっていた。

 そして迎えた、53日、私たちは、地元の京成ユーカリが丘駅前のペデストリアン・デッキにメンバーはじめ20人以上が並んだ。会派を超えた、県議・市議も加わり、リレートークを背景に配ったリーフレット。時を同じくして、市内で9条を守る活動を続けている4団体もそれぞれ、沿線の志津駅、佐倉駅などで一斉行動に入っているはずなのだ。中高生には「きょうは憲法の日だよ、読んでみて」と、年配の方々には「憲法をまもろうという活動をしています」と、小さなお子さんを連れた家族連れには「憲法9条をまもりましょう、あちらでカブトやコイノボリの折り紙も配ってますよ」と。ケータイから目を離さずに通り過ぎる若い女性、そんなのカンケーネーといった風情のスーツ姿の青年、明らかに不機嫌な表情で避けてゆく年配の男性・・・。たった1時間の活動だったけれど、新聞社の世論調査での9条改正派の後退、名古屋高裁での自衛隊のイラク派遣違憲判決などに、背中を押されたのも事実だ。終了後は、隣の臼井駅で5団体集結しての一斉行動があったが、私は参加できず、心残りではあった。

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