2009年11月 6日 (金)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<8> グリーグの家へ

郵便局が見つからない

 今朝のベルゲンは風が強く、公園の落ち葉は舞い、通学・通勤の人々は足早に歩いている。フロムで若干買い込んだ土産や旅の前半の荷物を送り返しておこうと、朝一番で宿にも近い郵便局に出かけた。ところが、地図で示されているあたりを何度回ってみても見当たらず、女子学生に尋ねたところ、従いてきて、との言葉に追いかけると、ビルの小さな入り口を示して、入れという。彼女はすでに先を急いで去って行った。ともかくそこは、どの店もまだ、開店準備に忙しい小規模のショッピングモールだった。エスカレーター脇の案内板にはたしかに郵便局〒のマークがあった。2階に上がってみれば、あったあった、9時オープンという。送料込みの日本行きのダンボール箱を買って、ホテルに戻った。ようやく、発送のひと仕事?を終えて、きょうは何が何でもグリーグの家を目指す。

歩けども、歩けども

案内書によれば、20233050系のバスであればよいという。下車駅Hopsbroenへは20分足らずで着いた。降りる客もなく、運転手のいう道を歩き出す。時々車や自転車とは遭うものの、歩いている人はいない。何の変哲もない田舎道をひたすら歩くが、“グリーグ”の文字はどこにもない。停まっていたトラックの運転手に、ガレージに車を入れる女性に、疾走する自転車を留めてまで尋ねてみるが、方向としては間違ってはいないらしい。途中、大きな立体交差のロータリーも見える。20分以上歩いたところで、ようやくGrieg Museumの看板があって、並木道をしばらく行ったところに人影と建物が見え、ほっとするのだった。1995年オープンの博物館にはいろいろな工夫もしてあって、外国人の私たちにも親しみやすい。私の好きな?年表の壁の前で、写真に収まる。グリーグの住まいには、ゆかりの家具や食器や写真などが展示されていた。

グリーグ(18431907年)は、ライプツィヒ音楽院では伝統的な作曲家はもちろん新しい作曲家についても学んだが、ノルウェーらしさを目指し、コペンハーゲンでは多くの作曲家やアンデルセンにも出会い、生涯の伴侶ニーナにもめぐりあう。後、クリスチャニア(現在のオスロ)に居を移し、ピアノ教師の傍ら数々の名曲を残す。「ペール・ギュント」はじめ、イプセンとの仕事も代表的な作品となっている。1885年、ニーナとともにベルゲンから約8キロのこの地に新居を構え、トロルハウゲン(妖精の丘)と名付けたという。晩年もチャイコフスキー、ブラームス、リスト、サンサーンスら、多くの作曲家と交流を深め、バルトーク、ラヴェル、ドビッシーなどには大きな影響を与えたという。

博物館には、イプセンの肖像画も描いているE.Wereckioldの作品やダール、クロ-グの絵も飾られていたので、学生らしい案内ボランティアに、画家たちとの交流について質問すると、「あなた方はアーティストか」と逆に尋ねられてしまう。湖の方に下っていくと、途中にコンサートホールがあり、その先に作曲小屋があった。若い女性から遠慮がちに写真を撮ってくれますかとデジカメを渡される。それならばと私たちも撮ってもらい、尋ねたところアメリカからとのことだった。カフェでの食事の間、ずいぶんと迷っていたようだが、連れ合いは昼のコンサートを聴いていきたいといい、博物館入館とコンサートチケットとのセットに交換してくる。それぞれリンゴケーキとワッフルとお茶で軽く済まし、先ほどのホールに入って、階段状の客席から見ると、舞台の奥の窓には、湖水と山が一枚の絵のようにおさまり、グランドピアノのシルエットが素晴らしかった。30人ほどの聴衆のなかには、作曲小屋で出会った女性もいた。今日のピアニストはRune Alverさんでやさしい声のおしゃべりも心地よく?癒しのひとときではあった。

帰りは、余裕のウォーキング気分で、バス停まで苦にならなかった。

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 ベルゲン大学とスーパー総菜売り場

夕方の5時過ぎにはホテルに帰り、夕食まではと散歩に出た。ホテルの横の大通りを上ると国民劇場にぶつかる。気ままに歩いているといつの間にかベルゲン大学のキャンパスに入ったらしい。街との境などないかのようだ。ヨハネス教会と向かい合っているベルゲン(文化歴史)博物館はもう閉館、ここではベルゲン鉄道開通100年記念展が開催中ではあったが、もう明日はベルゲンを発つ。

ベルゲン最後の夜は、気楽にビールと惣菜を持ち込み、ホテルで済まそうということになった。近くのスーパーは大変な混雑ではあった。欲しいものをかごに入れてゆくのだが、スモークサーモンと白身のお寿司、すり身の揚げ物、マスカット、プラムにビールとミネラルウオーター・・・と、ややわびしい品選びではあったが、ともども、満足の末、ひと眠り、荷物整理はまた後回しになってしまった。

明日は、最後の宿泊地コペンハーゲンへ飛ぶ。

(順序が逆になりましたが、続きをお読みの方は、<1><2>にお戻りいただければ幸いです)

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2009年11月 5日 (木)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<7> フィヨルドヘ

ベルゲン鉄道からフロム鉄道へ

西向きのホテルの部屋から見たベルゲンの日没は9時、街のざわめきは深夜に及んだが、朝は意外と早いのに驚く。私たちは、大きな荷物はホテルに預けて、ベルゲン中央駅に早めに向かう。日本の旅行社で用意したフィヨルド周遊券のバリデ-ションという点検の手続きを経なければならない。結構行列ができていたが、このオフィスのパンフレットで、ベルゲン鉄道が今年11月で開通100年になると知った。記念の絵ハガキも何枚かゲットして、840分ミュルダルに向かう。約2時間、列車は、Daleダーレ、 Bolstadoyriボルスターオイリ、 Evangerエヴァンゲルとフィヨルドの谷や湖水に迫ったり離れたりしながら進む。どの駅も似たようなオレンジ色の小さな駅舎、ヴォスVossから乗り込む観光客も多く、以後は各駅停車となり、長いトンネル(Gravhals)を抜けるとミュルダルだった。雪渓が残る峰々を見上げながら、数分の待ち合わせでフロム鉄道に乗り換えた。深緑の斜面が窓に迫り、眼下の湖水に安らげば、突然岩山が現れ、遠い連山には雪が光る、といった沿線の展望はめまぐるしい。赤い実をびっしりつけた木はなんというのだろう。しばらくして、列車は突然停まって、乗客が降り始めるではないか。背の高い車掌が降りた客を誘導しているので、私たちも木製のホームを進んでゆくと、そこには思いがけず、目の前にすごい水量の滝がしぶきを上げていた。展望台の先まで進むとしぶきはもう雨のようで、床はびしょぬれで滑りそうでもあった。何段にもなった瀑布の右手にはかつての水力発電所の建物が見え、その先の崖の上では、薄物をまとった女性が踊っているような・・・、観光のために仕組んだことらしいが、これは少しやり過ぎでは?車掌の合図で乗客たちは再び列車に乗り込んだ。滝の段差は94mの由。あっという間の50分でフロムに到着した。幾筋かの細い滝を擁した山を背景に赤や朱の家が点在する集落こそ、フロム鉄道の終着駅。人口400人、年間の観光客3万人という村でもある。早めのチェックインをしたのは、正面のガラス張りの窓が目立つホテル・フレットハイムだった。波止場には大きな客船が停泊、すぐにフィヨルド観光に出かける人たちもいる。ホテルで一休みした後、昼食をと辺りをめぐり、結局バイキング方式のレストランに入った。あったかい紅茶がありがたかった。ホテルの夕食での日本人客は私たちのほか、やはり熟年のご夫婦だった。白ワインがほどよくまわった私の夜は早かった。

そしてフィヨルドへ      

周遊券の日程では、午後にフロムを発つ予定であったが、これ以上留まることもないね、と朝一番の遊覧船に乗ることにした。セーターは着込んだものの、薄い上着でもなお寒い。乗船前にお土産屋さんをひとめぐり、どうも気になったのが鉄道博物館であったが、もちろんまだ開館していないので、窓から覗いて鉄道100年の歴史に思いを馳せた。

争うようにして乗船した連れ合いは、甲板の先に席を取って手招きしているではないか。フィヨルドの谷の空気はめっぽう冷たい。留守をするので声をかけた隣家の奥さんが、2年前の北欧旅行の体験から厚手の上着は持って行った方がいいですよ、の言葉を思い出す。いっそう船室に入りたいくらいだったが、熱い缶コーヒーで陣取っていた。連れ合いは席のあたたまる間もなく、撮影に忙しい。地図で見るとノルウェーの西海岸からは一番長いソグネフィヨルドの、一番奥まったアウルランフィヨルドからナーロイフィヨルドへと船は進んでいる。迫る斜面、絶壁の岩、重なる山々を背景に、湖水のような静かな水面を滑るように船は進む。左右には、時折、頂き付近からのジグザグの滝、直接に水面に落下する滝、急斜面から岸にかけて家が点在する集落が見えたりする。集落の真ん中に教会と墓地が見てとれるところもあれば、船着き場付近に数軒の家しか見えないこともある。道路がない集落、夏季しか人が住まない農場もあり、村びとたちの営みを思うと気が遠くなりそうな世界だった。1時間余のクルーズを終えて降りたグドヴァンゲンではようやく日が射してきてホッとする。

 グドヴァンゲンは、フィヨルド観光船の寄港地、今はバスでナーロイ渓谷沿いにスタールヘイムに向かう出発点である。1140分発、乗客は156人、急こう配のジグザグを登り切ったところでバスは停まり、乗客らは、赤茶色の建物になだれ込む。ホテルの売店を突っ切ったところの展望台に案内される。眼下の渓谷と集落、ま向かいの山並みを堪能させてもらったサプライズだった。案内書によれば、これも観光客へのお決まりのサービスらしい。ドイツや北欧の王族たちに愛されたリゾート地だったという。

思いがけずヴォスの展望台にて

再び国道13号線をひた走り、オッペンハイム湖や幾つかの湖水を左右に、草原やスキー場らしい斜面が続く。正面の峰々の尾根には雪渓が光る。フロムを早く発った分、ヴォスで数時間過ごせそうだ。ロッカーに荷物を預け、まず昼食をと思うが、店がない。ホテルという気にもなれず、結局駅構内のカフェで済ますことになった。駅のホームの端にある陸橋には、ケーブルカーの矢印がある。階段も手すりもすっかりさびているわびしい橋を渡ると、傾斜地に点在する住宅、どの家も色とりどりの花を咲かせ、庭には、大きなパラソルを逆さにしたような放射線状の物干しに洗濯物がいっぱいであった。斜面の上の家々のメールボックスは、坂の上り口にまとめて設置されているから、郵便物はここまでしか配達しないのだろう。眼下には、線路と国道と雄大な山並みと湖水が見下ろせる。ケーブルの駅にはそれでも人はいた。56人も乗ればいっぱいのケーブルカーは無人運転で急傾斜に差し掛かると、大きく揺れておそろしい。山頂駅に着けば係員がドアを開けてくれて、なぜかホッとする。発着所付近には羊が放牧されているが、足元の大きな糞には要注意ながら、目の前に展けたパノラマには息をのむ。先ほど訪ねた教会が小さく見える。駅の周辺にわずかに続くヴォスの家並み、湖畔からゆったりした草原には何の競技場だろうか、土色のグラウンドが幾つも点在しているのがわかる。展望台でぼんやりしていると、何本かのケーブルカーをやり過ごしようやく下山、それでも、ひと電車早くベルゲンに帰れそうである。

(フィヨルド遊覧船から)

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(ヴォス、ケーブル山頂駅展望台から)

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2009年11月 2日 (月)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<6> ベルゲン美術館

1035分発のオスロからベルゲンへのSAS便は、搭乗ゲイトが変更になり、離陸が大幅に遅れたにもかかわらず、ほぼ予定通りベルゲン空港に着く。小雨のなか、乗り込んだバスの運転手にはまずホテル名を告げた。降ろされた広場前では、人群れとマイクの声に驚いたが、演説をしているのは女性党首という雰囲気で、正面の大きな画面にも映し出されていた。これは後で知ったことだが国政選挙が間近いのだった。いったい誰だったのだろう。そういえば、日本の選挙はどうなっているのか。娘からのメールによれば、麻生首相がまた失言をしたらしい。それに、家の近くの京成の駅前にまで演説に行ったらしいよ、と。当選危うしの2代目議員が招んだのでは。

ホテル前のフェスト広場に接した大きな池の端に3棟のベルゲン美術館が続いている。やや遅い昼食は、迷わず美術館カフェに決めた。窓から望める池の水面を打つ雨脚はまた強くなってきた。テーブルのセッティングがユニークで、空いているテーブルには、フォークとスプーンが羽を広げたようにセットされ、グラスの鳥が今にも飛び立とうしているようであった。 

ベルゲン美術館は、大きな三つのコレクションから成り立っているらしい。一つは中世のヨーロッパ美術が中心のThe city art collectionであり、一つは、R.ステナーセン(Rorf Stenersen,18991978)コレクションで、ミロ、ピカソ、パウル・クレーから現代に至るまでのインターナショナルなフロアとダールを核にしたフロアなどに分かれて展示がなされている。タワーのある、この美術館は今回大急ぎでしか見られなかった。比較的時間をかけて私たちが見たのは、もう一つのコレクションで、実業家R.メイヤー(Rasmus Meyer18581916)963点にも及ぶコレクションの一部だった。美術館自体もこの地に建造し、1924年にオープンしている。ノルウェーの絵画の歴史がたどれるような展示であり、各部屋には解説のプリントがノルウェー語と英語版の2種が用意されているが、その場で読める量ではなく、部屋によっては英語版がなくなっていることもあった。1階は、1819世紀のインテリアや家具が展示されている部屋も多く、ダール、グード、エッカーズベルクらのノルウェーの風景や暮らしを描いた作品が続く。2階に上がった踊り場には、イプセンの大きな肖像画(1896 年、Evik Werenskiold)が掲げられていた。17室には、先にもふれたH.BackerとクローグC.krohgの作品が集められていた。ここには、オスロの美術館では撮影できなかったクローグの“The Fight for Survival”1890)の異なったバージョンだろうか、もう一度出会うことができた。また、ムンクの前半期の絵画や版画が2021室に集められていた。初期の作品、Girl sitting on a bed(Morning,1884)  Inger on the beach(Summer night,1889) Sick girl(1892)など家族の死や病をモチーフとするものが多い。1890年に入り、パリモネやゴッホの印象派に出会い、スーラーやゴーガンにも影響を受けたらしく、Spring day on Karl Johan (1891)などはまさに点描だし、セーヌ川をスーラー風に描いた作品を先のムンク美術館で見てもいる。さまざまな手法を取り入れてノルウェー絵画からの脱却を試みていた時代という。このころ、マドンナも幾度となく描かれ、Woman in three stages (1894)Four age in life(1902)では、3世代―青年期・熟年期・老年期の女性、4世代―さらに幼年期の少女を一枚の絵に描く手法がとられている。これらの絵がどんなメッセージを発信しているのか、私にはやや不明確ながら、ムンクとも親しかったイプセンは男性や家庭から解放された「新しい強い女性」を描いていた時代でもあった。1900年代に入ると、しばしば滞在していたオスロの南東にあたる海辺の村、オースカーストランドでは、カラフルな衣装をまとった少女たちが、また橋の上の少女たちが描かれ始める。神経症を病み、療養しながらの後半期の制作も多くこの時期までのモチーフに拠るのではないか。

ベルゲン美術館にもまだまだ見残した名画は多い。
 いつまでも昼下がりのような夕方は、ここは見逃せないと、ベルゲン港の北側に沿ったブリッゲン地区へと出かけた。中世のハンザ同盟の隆盛を今に伝える木造の家並みは、奥行きも深い。様々な店や工房がどこまでも続く趣が魅力的だった。とある店で、私にしてはかなり思い切った値の毛糸のマフラーを買ってしまったのだ。

明日は、ベルゲンを離れて、フィヨルド観光のためフロム一泊の小旅行となる。

(上)クローク:The fight for survival

(下)ムンク:Four age  in life

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2009年10月30日 (金)

神田の古本まつり、行ってきました

 今年は、50回目になるという。1029日、ちょうど東京での用事が午前中に済んだので、「九段下」での途中下車となった。数年前の青空市は、透明なビニールシートをすっぽりかぶった本棚、こちらも傘をさしての渉猟は、やや苦しかったが、きょうは暑いくらいの快晴、人出も多い。何がなんでもという目当てはなかったのだが、かつて図書館で利用していた『入江相政日記』全6巻が5000円だった。これからも少し使いたいので、地元の図書館への往復、コピーの手間を思って、買うことにした。5000円以上買えば宅急便が無料というので、帰りの荷物の心配なく気軽に数冊選ぶことができた。本の回廊に沿いながら、途中の店にも入りながら楽しい時間を過ごすことができた。行きそびれた、買いそびれた、あるいは近頃はめったに買うこともない美術展のカタログは、ほぼ1000円を出せば入手できる。東京の図書館勤めの若いころ、神保町には12か月に1回は寄り道していた気がする。欲しい画集がある店に何度か訪ねては、買わずに帰った思い出もある。新刊本が思いがけず安く手に入って得した気分になったこともある。どうしても確かめたかった図書館での欠本、雑誌の端本を見つけたこともあった。

 ちなみに、上記のほか購入したのは以下の通りだが、できれば期間中にもう一度などと考えている。

①詩と歌謡の作り方 佐藤惣之助 新潮社 1938年(500円)

②わが文学体験 窪田空穂 岩浪文庫 1999年(300円)

③カフカの恋人ミレナ M.ブーバー・ノイマン著 田中昌子訳 平凡社ライブラリー 1993年(900円)

④現代のエスプリ・天皇制 至文堂 1970年(500円)

⑤昭和史片鱗 横溝光暉 経済往来社 1974(?円)

⑥戦艦武蔵の最期 渡辺清 朝日選書 1982年(400円)

⑦戦争とテレビ ブルース・カミングス著 渡辺将人訳 みすず書房 2004年(1800円)

⑧芸術新潮・特集画家たちの「戦争」 19958月号(525円)

⑨別冊太陽・子どもの昭和史昭和十年~二十年 19868月 平凡社(840円)

 佐藤惣之助は、白樺派の影響を受けた詩人としてスタートしたが、いわゆる戦時歌謡の作詞家として名を馳せた。横溝光暉は、戦前の内務官僚で、情報局部長、県知事、京城日報社長などに就いている。

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インターネット「歌壇」はどうなるか(5)既成短歌メディアの動向

 いま届いた『短歌往来』八月号にも「ネット社会の新人たち」の特集が組まれていた。平成に入ってからの二〇年間の角川『短歌年鑑』の目次を眺めてみた。恒例の「回顧と展望」(作品展望はのぞく)の執筆者はほとんど固定化している。さらに、いわゆるライトヴァース世代を経て、インターネット世代の担い手とされる執筆者も固定しているのがわかった。一九九五年一二月発行「平成八年度版」が穂村弘の最初の登場であった。しばらくブランク後、二〇〇一年度(〇四年、〇八年度を除く)からは、穂村、加藤、穂村、穂村、加藤という感じの執筆ぶりである。他の執筆者にも「インターネットと短歌」に触れる執筆者はいるのだが、上記のデータは、既成の短歌総合誌が彼らに発言の場をいつ与え出したのか、を探る一例にすぎない。二〇〇九年度版では、穂村が座談会(岡井隆・馬場あき子・高野公彦)に参加、加藤治郎が「時評への回復」を執筆している。

月刊『短歌』においては、穂村が「特集・近頃の現代短歌を考える」(一九九二年八月)などへの参加、一九九八年九月「<わがまま>について」(特集・文語と比べる口語を生かす)を執筆し、坂井修一は「マルチメデイアと短歌」(一九九五年一〇月)を寄稿している。二〇〇二年二月には穂村と情報通信の研究者でもある坂井・鵜飼康東による座談会「インターネットは短歌を変えるか―新しい時代の歌のあり方は?」が登場し、インターネットの可能性を強調している。

 また『短歌研究』では、一九九二年二月「歌人のための『コンピュータ学』」を執筆した穂村が「短歌レトリックへの招待」(一九九三年一一月)などへ執筆、先にみたように電子会議室やリンク集が定着する世紀末を経て、『短歌研究』は、坂井修一・加藤治郎・穂村弘編集による『うたう』(『短歌研究』臨時増刊号 二〇〇一年一月)を刊行した。メール投稿、選者との双方向通信を取り入れた「うたう☆クラブ」を翌二〇〇一年五月から本誌に定着させ、現在も続いている。「インターネット短歌」の既成短歌メディアの受容が決定的になった象徴的な出来事だったと思う。「うたう☆クラブ」のコーチは、現在、月替わりで加藤治郎・小島ゆかり・栗木京子・穂村弘が務め、メールで応募してきた作品の選歌と改作指導を行い、その改作過程のやり取りを誌上で公開するのが特徴である。投稿に付されている年齢からみると、もちろん若い投稿者が多いが、四〇~七〇代も見受けられる。従来からの「短歌研究詠草」欄への投稿者の数や年齢層の傾向とは違いを見せる。また、一九九九年から二〇〇〇年にかけては、「座談会・個人的体感の世代」の連載があり、加藤治郎・坂井修一をホストに若い世代のゲストを迎えて、短歌のインターネットへの傾斜にも目配りがみえる。

さらに、『歌壇』にも、インターネット関連特集や記事が多くなる。一九九九年五月「若者うたの現在」、同年一二月、荻原裕幸と穂村との対談「口語短歌の現在、未来」が組まれ、二〇〇〇年一月からの連載「サイクルエッセイ・コミュニケーション・歌人同士」では、坂井修一・加藤治郎・穂村弘・荻原裕幸が月替わりで登場する。必ずしもインターネットにかかわるエッセイだけではないのだが、これも、既成メディアのインターネット「歌壇」への配慮がうかがえる。また、二〇〇〇年一一月には、「アンケート・短歌界をゆるがした重大事件」を特集、三一人に五大事件を順番にあげさせている。正岡子規の短歌革新、与謝野晶子の出現、第二芸術論、前衛短歌運動、俵万智現象、アララギ解散などが定番であるなか、佐藤通雅が「パソコン歌会の出現」、真野少が「インターネットの出現」をあげているのを記憶に留めておきたい。

 二〇〇〇年には、穂村弘が『短歌という爆弾―今すぐ歌人になりたいあなたのために』(三月 小学館)東直子・澤田康彦との共著で『短歌はプロに訊け!』(四月 本の雑誌社)を出版し、いずれも一般の取次ルートにのる出版社であり、若ものの短歌入門書として売上げを伸ばした年でもあった。

なお、既成の短歌メディアのなかで、特に重要な役割を果たすことになったのがラジオ、テレビであったも忘れてはならないだろう。さらに情報の送受信のツールとして、パソコンのみならずケータイ(電話)が利用されるようになったことに着目したい。

インターネットが短歌や歌壇に与えた影響の一つは、穂村や枡野の著書が商業ベースに乗り、文庫化などを果たしている事実である。インターネット「歌壇」での活動を背景に、または足がかりにして、歌人たちが短歌メディアを超えた種々のメデイアに登場した。ネット「歌壇」にかぎらず、いわゆる著名歌人たちも、とくにテレビやラジオへの、他のメディアへの露出などの相乗効果によって、特定の限られた歌人たちが、その商品価値を高めることになった。来嶋靖生も「各雑誌は歌人を商品にしすぎるのではないか」と(短歌)総合雑誌の「志」を問うている(「混沌の行方」『短歌現代』二〇〇九年九月)。

歌人の肩書でメディアでの活躍が目覚ましかった枡野浩一は、一九九五年の角川短歌賞において応募作「フリーライターをやめる50の方法」で選考委員の最高得票を得ながら受賞を逃したことを「売り」にメディアに登場した。一九九七年、コミック誌に「マスノ短歌教」連載開始、第一歌集『てのりくじら』(一九九七年 実業乃日本社)も話題になる。二〇〇〇年五月九日からNHK総合「スタジオパークからこんにちは・枡野浩一の短歌」に出演、以降、同番組のコーナー「かんたん短歌塾」として好評を博した(以降、番組情報は主にNHKアーカイブの保存番組検索による)。枡野が案内役をつとめた「ETV2001・電脳短歌の世界へようこそ」(NHK教育二〇〇一年一月一七日)は再々放送され、反響は大きかったものと思われる。以後も「課外授業ようこそ先輩」、「<かんたん短歌>はムズカシイ?」(NHK総合)ほか、「新・真夜中の王国」「週刊ブックレビュー」、「真剣・10代しゃべり場」(いずれもNHK)などへ出演、マルチタレントとしての足跡を残した。この間、歌集『ますの。』(実業乃日本社 一九九九年)と「ますの短歌教」をまとめた『かんたん短歌の作り方』(筑摩書房 二〇〇〇年一一月)を刊行し、若者たちの短歌入門書としてベストセラーになった。これらの著作をきっかけに加藤千恵、佐藤真由美、天野慶らを育てたと枡野は自らのブログに記す。二〇〇三年五月、荻原裕幸を編集長とする『短歌ヴァーサス』(風媒社)の創刊号は「枡野浩一の短歌ワールド」という特集であった。

また、既成歌壇とネット「歌壇」との間のメッセンジャーだった加藤治郎は、一九九六年夏、短歌の世界においてインターネットがコミュニケーションの場として機能することによって「主宰者を頂点とした結社のピラミッド構造は揺らぐだろう。リンクした歌人同士は対等になるだろう。情報の、そして精神的な結びつきは、結社の会員より」深くなり、雑誌を出す意味は薄れていき、歌人は一人の作家として自立するだろう、と予言をしていた(『短歌四季』)。また、結社の効用として「師弟関係」と「教育的強制力」をあげ、前者とインターネットによる歌人の自立性とは矛盾を擁し、インターネット上では後者を補完できることも示唆していた(「歌のコミュニテイー」『歌壇』二〇〇〇年二月)。さらに、大辻隆弘が指摘するように、加藤のインターネット観は微妙に変化する(「重力への希求」『短歌四季』二〇〇三年八月)。あるシンポジウムで加藤は「ネットは現代短歌の世界への入り口。いろいろな楽しみ方もあっていいし、そこから本格的な活動を考えるなら結社という選択もありでは」と発言している(『中日新聞』二〇〇三年六月一八日)。二〇〇三年加藤自身『未来』の選者になり、被選歌者によるサイト「彗星集」が始まり、二〇〇五年「毎日歌壇」選者、二〇〇九年四月「NHK短歌」講師に就任するに至った。この間、いわば「結社内結社」をすら是認するようになっていた(インタビュー「〈うたう世代〉以後の現代短歌」『短歌ヴァーサス』三号 二〇〇四年四月)。

(『ポトナム』200910月号、11月号所収)

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2009年10月29日 (木)

TBS「噂の現場」を見ましたか~再び佐倉市へ、志津霊園問題

       

日曜(1025日)の午後、久しぶりに「噂の東京マガジン」はなにをやってるいるかな、とテレビをつけてみたら、いきなり「きょうは、匿名で投書頂きました、佐倉市の都市計画道路が・・・」との声がまず飛び込んできた。佐倉市の市政史上の最大の汚点でもある「15億円が消えた志津霊園問題」がきょうの「噂の現場」らしい。ちょうどそのとき、近所の友人から「いま、6チャンネルつけてみて」との電話が入った。 番組では、15年前にも同じ「噂の現場」で志津霊園問題をレポートしたことを伝え、当時のVTRが流れた。レポーターの笑福亭笑瓶37歳が登場、他のコメンテーターもみな若い。「私はこんなに変わってしまったが、15年前とまったく変わらず、いまだに開通していない都市計画道路がある」と、笑瓶のきょうのレポートが始まる。

                                                                                                                                         

「志津霊園問題」って

志津霊園問題といっても、佐倉の人でも以外と知らない。以下は、私が市役所内の志津霊園対策室の資料や議会資料で少しおさらいをしてみた内容である。私の理解でのまとめとしてお読みいただきたい。1987年、水道道路の延長として、296号線のバイパス的な都市計画道路(上下2車線9m、両側歩道7mの幅16m、1日1万台の車両通行を想定)の約317mの事業認可がなされた。その道路予定地には志津霊園の一画、本昌寺の墓地があったので、その移転が急務となった。佐倉市は、本昌寺・墓地使用者らと直接交渉をせずに、檀家総代、石材店、市職員らによる志津霊園墓地移転対策協力会に墓地移転にかかわる事業を全面委任し、198890年、8回に分けて、153200万円を補償費として支払っていた。ところが、墓地の移転事業はいっこうに進まず、317mの内の122mがいつまでたってもつながらず、行き止まりになってしまった。佐倉市が協力会の会長・副会長職の檀家総代と石材店を告発したのが1994年だった。この間、市民の監査請求、市議会に幾度となく設置された特別委員会の調査、佐倉市の協力会会長・副会長を相手とした刑事告発の不起訴処分、住民による提訴の却下と続いた。その後も佐倉市と石材店石の宴(株)不動、芦沢建設、代替地地権者の間の訴訟などが入り乱れたが、その過程で協力会に渡った15億余の行方が調べられと、実際に移転事業に使われて形跡がなく使途不明のままであった。佐倉市が損害回復を目的とした民事訴訟ではいずれも勝訴しているが、結果的に取り戻せた額は、千数百万の単位でしかなかったらしい。大口では、本昌寺との基本合意による返還金1.5億円、協力会からの返還金25億円以外は取り戻せていない、とみてよい。市の調査では、領収書のある、支払先が判明した額は何に使ったかわからなくとも、使途不明金とは言わないらしい。たしかに代替地買収費として3.1億円は使用されているかもしれないが、その額は妥当なのか。また、現地の写真を見る限り、2.4億円かけて造成したとも思えない荒れ地であったし、石材店への墓石移転工事費4億円は依然として不明である。

こんなことになったのは誰の責任?

番組では、志津霊園対策室の取材は断られ、文書でしかやり取りしないようなことをいわれ、取材拒否をされていた。もっぱら市政資料室で調べたらしい。石材店を訪ねると、もうその名の会社はなく、かかわった元社長は出張中とのこと。また、「支払われた金で墓石等を買ったというが、現物がどこにもなかったんですよ」と渡貫博孝前市長はのんきなことを自宅の庭で語っていた。蕨現市長への取材では、市庁舎前で「これからお通夜に行く」と逃げる市長をスタッフが追えば「今、最終の詰めの段階だから、1~2か月は見守ってほしい」と去っていく様子が映し出されていた。 都市計画道路の行き止まりで、周辺道路への車の迂回は、住民にとっては危険極まりなく、地元自治会の人たちは、過去は過去として早く開通してほしいと話していた。佐倉市が協力会自体を訴えられなかったのは、協力会のメンバーに市の職員が複数入っていたからだろう、しかし、職員がいながら、ほとんど使途不明のまま15億円余のお金が8回にもわたって支払われた杜撰さ、怠慢の責任はだれが取るのか、がコメンテーターたちにも大きな疑問として残ったようだった。

責任をとったというけれど

番組では、触れられていなかったが、協力会に15億円余が渡った時期は198890年で、菊間健夫前々市長の時代だった。2年前にすでに亡くなっている。1975年来5期目にあたる1994年当時、市長・助役は自ら減給処分とし、他の理由もあって引責辞任しているという。その後、関係した職員15名に対しては減給・戒告・訓告処分がなされている。また、渡貫前市長になってまもない、1996年「勝田台・長熊線基金」条例により、志津霊園問題関係の返還金・回収金・寄付金をプールし、関連の支払いもこの基金からするようになった。これは笑ってしまうのだけれど、19977、関係の元職員、現職員94名から1880万円を集めて寄付をしている。これで、市役所の責任は一件落着ということにしたかったのだろうか。適当な軽い処分、職員一人の退職金にも満たない雀の涙の寄付金で、職務の怠慢、不作為を帳消しにするつもりなのかもしれないが、納税者の市民はとうてい納得できないだろう。国や県にしても同様のことは、いやというほど味わされているではないか。行政の無責任体制については私たちも真剣に監視し、仕組みを変えていかねばならないだろう。

「最終の詰め」というが、もう13億円余を積み上げる!

渡貫市長時代の2003年、本昌寺との基本合意では、振り出しに戻って墓地使用者の委任状を集めさせることから始めているらしい。また、蕨現市長になって、20081月、本昌寺に①以降、市が負担できる移転補償費と代替地造成費あわせて約13800万円を上限とすること ②寺から市へのこれまでの要求を撤回すること、などを申し入れ、寺も同意し、これを受けての「最終の詰め」ということらしい。来年度、このやりなおし事業に着手しても56年はかかるという。

たった120mの道路建設のために、15億と13億が費やされ、戻った額があったとても、訴訟費用、志津霊園問題対策室の人件費などを加算したら、どれほどの額になるのだろうか。それと、完成までの年月は、確実に四半世紀は超える。確かに相手が悪かったこともあるだろう。しかし、このロスの責任は、繰り返すようだが、協力会に職員を送りながら、佐倉市は、チェックもなしに15億円余を渡し続けたことにあることは明白なのだ。

                                                                                                     

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2009年10月19日 (月)

佐倉市補正予算の否決、その後―地方へのバラマキをどう受け止めるのか

                                                                                                                        

930日、佐倉市議会には、麻生政権のバラマキの一つだった「地域活性化・経済危機対策臨時交付金(09529日成立、総額1兆円)」の41600万円(予定)を主たる財源とする補正予算が提出された。40項目中の市議会議長公用車購入費692万円、ふるさと広場駐車場用地購入費7260万円、佐倉くさぶえの丘整備費5539万円などの必要性をめぐって紛糾の上、178000万円規模の補正予算自体が市長擁護派の賛成しか得られず否決された。議長車、駐車場用地購入など不要不急な事業まで計上され、そのムダ遣いや優先順位について指摘する新聞の投書や報道がなされていた。

1014日の臨時市議会でその補正予算が執行部より再提案されるというので、近所の友人と傍聴に出かけた。他に3人いらした。930日には20人以上の傍聴人がいたということなので、その割には少ないな、という感じだ。傍聴席に陣取ったものの市議会では開会宣言と会期(1日のみ)などの了承後、数分で会場を移して「全員協議会」に移行するという。

新たな手続きで全員協議会を傍聴するのだが、「全員協議会」の位置づけが今一つ分からない。議会規則などによれば、人事や臨時議会の折に開かれるらしく、大きな会議室にロの字型に議員が着席、その議長と相対する側に何十人という執行部、市長はじめ部長・課長らがずらりとすわり、壇上というものがない。傍聴人は入り口近くの壁際、数人の議員の背後に並ぶ格好だ。

なるほどこの方が、議員の顔(背中)も、執行部の顔もよく見える。はじめの数十分は、財政課長による分厚い補正予算書を繰っての説明だった。私たちは、後で回収されるというその書類の頁を繰るのに忙しいばかりで、メモも取れない。どのくらいの意味があるのかな、と思っていると、ある議員から、今の説明は既に聞いているので、今回の変更点と理由を述べるだけでよい、との意見が出たが、これから申し上げます、と続行。議会にはよくあるパターンで、どうでもよい説明や答弁で時間を稼ぎ、質疑時間を短くする魂胆かと思いたくもなるほどだ。ようやく終わって、今回の提出案で何が変わったかといえば、投書にあった議長車購入費と坪単価が極端に市価を上回っていたという 駐車場用地購入費が削除されただけのものであった。削除の理由も「前回の市議会での議論を踏まえ」と曖昧だし、ほかの項目でも反対意見はあったのだから明確な理由とはならず、「この辺で手を打ってほしい」という感じだ。議員からは、2項目削除だけというのでは十分精査した結果とは思われない、削除分はどうするのか、返還するのか、他の項目で充当しないのか、項目の差し替え・入れ替えは今からでもできるはずだ、といった意見が出された。市の執行部は、2項目削除のほかは変更せず、成行きを見たいと固執した。しかし、ある議員の確認によれば県庁も内閣府も新政権下でのこの予算の締め切りは確定していないので変更は可能という。議長職権で県庁・内閣府に電話をして確認せよということになり休憩に入ったら、1時間に及んだ。電話だけなら数分で済むというのに。変更できることは確認したが、その先どうするか、会期を延ばして審議せよとか、全員協議会再開後、またすぐ休憩に入ってしまった。1時から始まった会議は4時になっていた。私はもうこれ以上傍聴する時間もないので、ここで退室。

結局再開後、議決が終わったのは午後7時頃だったらしい。結果、次回臨時市議会までに、削除分については他の事業を精査して有効な使い方を提案するという条件を付して、賛成多数で可決した。前回反対に回った保守の最大会派と公明党とあらたに共産党・新社会党が賛成したという。

可決された38項目を眺めてみると、18項目に、学校はじめ、各公共施設での地デジ対応機器の整備・購入費などが含まれていた。地デジ対応自体が、私には、なぜこの時期に一斉に実施ということへの疑問があり、不要不急の余分のことに思える。もっと大事な命にかかわる予算を本予算に組み込んでほしいくらいなのだ。消防署の耐震補強工事、排水路改修、グランド改修、新型インフルエンザ対策用資材、幼稚園の空調設備、保育園の改修・防犯カメラ、というのもあるが本当に市民生活に密着した、緊急を要するものなのかは文字面だけではわかりにくいのが正直なところだ。どの項目にも多大の人件費が伴う。

高額な項目には、小学校のデジタルテレビ・電子黒板・教務用パソコン購入などに6579万円、くさぶえの丘の整備費5539万円などがあるのだが、ウーン、どうなんだろうと考えてしまう。くさぶえの丘に関しては、この春に訪ねた折も、本ブログで書いたことなのだが、事業内容をみると疑問も残る。「バラ園の電線地中化、休憩施設の整備、ばら資料館の改装、地上デジタル放送設備工事等」となっている。くさぶえの丘全体の指定管理者は山万グループになっている。400円の入園料の割には施設が整備されていない。たしかに休憩施設は自動販売機だけであった。目玉のバラ園もマニアはいざ知らず、楽しめるという雰囲気ではなかった。ここの管理はさらにNPO法人バラ文化研究所に投げられている。今回の予算で資料館を土足で出入りできるようにし、電柱を地中化するという。どれほどの意味があるのかなあ。昼間のみ1時間に1本という循環バス、400円の入場料についても、またこうした野外施設の利用に市民がどれほど魅力を感じているのかなどについて再検討をした後でも遅くはないのではないか。所詮バラマキのつかみどり競争みたいな様相ではある。

さらに、執行部側に並んだ管理職の面々、この10数年来、イベントの実行委員、審議会委員としてずいぶんと対立もした担当者たち、自治会役員としてけんか腰の交渉をした担当者たち、開発にかかわる情報公開制度で何度か顔を合わせた担当者たち、みなさん出世されているようだった。なんと、となりの部屋でおびただしい数の職員が待機しているのにも驚いた。そんな暇があったら他の仕事をしてよ、と言いたいくらいだった。佐倉市2007年度統計によれば、普通会計決算のみで職員982人、平均給与年額686万(月額57万)というし、別に800人以上の臨時職員がいるというのだ。虚しさばかりがよぎる議会傍聴の半日だった。

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2009年10月10日 (土)

NHKでなぜこんなことが~女性天気予報士のカレンダー発売って?!

 1010日、今朝の「東京新聞」に、NHK女性天気予報士の来年のカレンダーが発売になるという記事があった。NHKもとうとうこんなことまでするようになったんだ。記事を読んでみると2007年から発売しているという。NHKの「天気予報に親しんでもらおう」という趣旨のコメントもついていた。

 NHKの天気予報は、どちらかというとよく見るほうかもしれない。野外からの中継であったり、いろんなフリップを入れ替え引き替え、相当ムリをしている民放の番組よりスタジオからの落ち着いた予報を望んでいたからだ。しかし、いつのころから、とくに夜7時のニュース最後のコーナーで、女性予報士の服装がファッションショーの様相を呈したり、他のコーナーで男性予報士が真赤なジャケットを着て現れたりするようになった。電子黒板かどうか知らないけれど、雨や雪、波だの、雲だの動く仕掛けを駆使して?予報を伝えるようになった。分かりやすさを狙ったのかもしれないが、手品を見ているわけではないし、第一、目まぐるしい。聞き取りやすい発声で、静止した画面でじっくりと予報を伝達するのが本分ではないのか。 天候の左右される仕事や家事の段取りを決めるため、あるいは旅行や出張先の天気も気になり、今の天候や少し先の推移が知りたいのが大方の目的だろう。各地の予報や1週間の予報などはむしろ静止画面を長くしてほしいくらいなのである。

 民放の女子アナウンサー人気の過熱化、タレント化と天気予報士のカレンダー発売との根っこは同じような気がしている。天気予報を身近にというならば、中身や方法で勝負してほしい。なぜ「女性」だけなの?素朴な疑問が去らない。

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2009年10月 8日 (木)

サクマ式ドロップス工場の思い出~池袋第5小学校のクラス会へ

 先週末、このところ毎年開いている小学校のクラス会に数年ぶりに参加した。5・6年担任の乙黒久先生は、池袋三越の画廊で毎年個展を開いていらした。この春の個展にも伺ったが、三越の閉店に伴い、30年間続いた個展もしばらく休まれるという。

 幹事の熱心な探索に、58名中かなりの消息がわかってきた。この日は、19人が出席、私の隣席は、池袋西口一帯で手広く不動産業を展開しているOクンだった。西口一帯が大きく様変わりしたのは、昭和50年代の区画整理の頃からだろうか。私が生家を離れたのが1972年、平和通りの2丁目側への道路拡張工事はまだ始まっていなかった。Oクンの家は2丁目の地主さんの一人で、その家にも近かったサクマ式ドロップス工場の話になった。昭和20年代の小学校時代、工場近辺に漂うドロップの甘い香りは、実に魅力的であった。紙芝居のおじさんの景品はイモアメだったし、アイスキャンデーはサッカリンの時代だった。Oクンの話によれば、「サクマ式」の「式」が付くのと付かないのがあるということだったので、後で調べてみると、不覚にも、ネット上では結構盛り上がっている話だった。

池袋に今でも本社があるのは、佐久間製菓のサクマ式ドロップスで、明治40年代創業のドロップ工場は、太平洋戦争下、砂糖の払底で廃業した。敗戦後まもなく元の番頭さん(?)が操業を再開したといい、元社長親族も恵比寿で操業を開始し、もめたらしい。その後、池袋の方は佐久間製菓として「サクマ式ドロップス」(赤缶)を継承、恵比寿の方はサクマ製菓を継承、商品名は「サクマドロップ」(青缶)とすることに落着して今日に及んでいるらしい。映画「火垂るの墓」のラストシーンのドロップの缶は戦前の「サクマ式ドロップス」だったのだろう。 

ドロップ工場の斜め前にあった「やよいパン」のパンは「やわらかいだけであまりおいしくなかったね」といえば、「あそこは学校給食のパンを一時手広く納入していたけど、やめたのはいつだったかな」と借地人でもあった経営者のその後の消息は知らないそうだ。

その近くの原医院の先生には、私の亡母が退院した後の最期をみとってもらっている。「あそこは跡取りが医者にならなくてね」ということだった。また、1971年、心筋梗塞で倒れた父が一日だけ入院して亡くなった1丁目の長汐病院は、今では高齢者専門のような病院になっているということだ。長汐さんは、町の開業医として信頼も厚く、長汐夫人は穏やかな方で亡母とはずいぶん親しかった。家にテレビがなかった頃、母と二人で、今の天皇の結婚パレード中継を長汐さんのお宅で見せてもらったという懐かしい思い出もある。

親兄弟がすでにない私が、そんなこんなの話ができるのは小学校のクラス会ならではであろう。この日の会場のメトロポリタンホテルも、国鉄官舎の跡地で、隣接して鉄道学校もあった。東京芸術劇場は豊島師範の跡地だった。もう少し目白寄りになると記憶も曖昧になる。

2次会は、Oクン経営の居酒屋であった。その近くの地上にあった「純喫茶フラミンゴ」が先ごろから空き店舗になっていたので聞いてみると、昨年の夏に閉店したという。数年前、母校の池袋第5小学校は統合でその校名はなくなり、池袋小学校になってしまった。「談話室滝沢」が閉店、「芳林堂書店」も閉店、「20世紀も遠くなりにけり」の思いしきりであった。

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2009年10月 6日 (火)

美術館とカフェと~ノルウェー、デンマーク早歩き<5>ノルウェー抵抗博物館

ノルウェー抵抗運動博物館へ

ムンク美術館からホテル近くに戻ったが、アーケル・ブリッゲの夕食には早い。まだ、まだ、日差しも残るなか、カール・ヨハン通りを横切って、アーケシュフース(Akershus)城へ向かった。昨夜雨の中で見上げた城壁の上へと登っていることになる。ノルウェー抵抗運動博物館があるはず。もっとも閉館時刻は過ぎていた。ドイツナチス軍に占領された時のレジスタンス運動に関する資料が展示してあるはずである。城内へと入る手前には、立派な厩舎があって、何頭かの馬が放たれていた。残る城壁に沿って登ると、博物館はあった。銃眼を持つ城壁にしっかりと囲まれた感じで、一つの門をくぐるとそこからは、オスロフィヨルドの港が一望できる。こんな観光地に抵抗運動博物館があるなんて、と思う一方、ナチスの残した傷跡も抵抗もノルウェー国民には深く刻まれているのだろう。中を見られず残念なことだった。昨夜雨の中、その前を行き来した市庁舎とオスロ平和センターが並ぶ。大きな客船や観光船がゆったりと出入りする。私たちがしきりにカメラのシャッターを押していると、地元のカップルの「撮ってあげましょう」との申し出にややテレながら並ぶのだった。連れ合いとの二人の写真というのは貴重なのだ。城壁のてっぺんの緩やかな坂を下ると、市庁舎前の広場に出る。まだ明るい夕方の8時近くだ。今日の抵抗運動博物館も、歴史博物館も入館はかなわなかったのが心残りではあった。明日はベルゲンに飛ぶ。

(ノルウェー抵抗運動博物館)

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