2021年1月 5日 (火)

「朝日歌壇」の今昔

  繰り返しになる部分もあるかもしれないが、私が会員である『ポトナム』という雑誌の「歌壇時評」として書いたものである。

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 近頃、「新聞歌壇」の様相が気になって、手元にあった古い本を読み返してみた(『斎藤茂吉選・朝日歌壇 第一集』(朝日新聞社編刊 一九五四年)。四八年八月から五三年二月の入選作品集で、茂吉は、死の直前まで選者を務め、以後は結城哀草果に引継がれた。「カーマストラ戦ひの日に讀みしことも我がひそかなる悲しみとしつ」(清水房雄 一九四八年八月)、「進駐軍宿舎のあたり夜の空つねに明るくここより見ゆる(吉村睦人 一九五〇年五月)が目に留まった。清水は三八年に、吉村は四九年に「アララギ」入会、ともに土屋文明の選を受けているが、「アララギ」会員はもっといたかもしれない。「ポトナム」会員では、四七年入会の吉田邦治、五四年入会の林安一の作品を見出すことができる。

・ふる里の木野山驛は新しき薪に埋れ今し貨車来る
(岡山 吉田邦治)(一九五一年六月)

・寺を継ぐ僧は未だに歳若く村の教師の職を捨てざる
(長野 林安一)(一九五一年一〇月)

 「朝日歌壇」が五島美代子・宮柊二・近藤芳美の共選となるのは一九五五年、前川佐美雄が加わり四選者となったのは一九七〇年。『朝日歌壇共選二十年秀歌選』(朝日新聞東京本社学芸部編 朝日ソノラマ 一九七六年)の「序」では、共選のねらいは、広い読者層から、日々の生活の中から湧き上がる平明率直な歌を取り上げることだと記す。この「朝日歌壇」からは、次のような歌人も巣立つ。

・夜の団交勝利のごとく伝えられ帰る工員らに門開けてやる
(仙台 佐藤通雅/近藤選)(一九六一年)

・苦しかりし試験終わりぬ頭より湯をふんだんに今宵は浴ぶる
(東京 日賀志康彦(高野公彦)/宮・近藤選)(一九六四年)

・爪立てて「同志よ黙秘を」と刻み来し我が房の壁今宵誰が見む
(吹田 道浦母都子/五島・宮選)(一九七一年)

・祖母と呼び孫と呼ばれし事もなく見知らぬ祖国に果てしを知りし
(上野 李正子。宮・近藤選)(一九七三年)

  現在の「朝日歌壇」は、馬場あき子、佐佐木幸綱、高野公彦、永田和宏による共選が続き、たしかに「平明率直」な歌が多く採られている。遡れば、大堀昭平、島秋人という獄中歌人に、死刑囚坂口弘、米国での終身刑囚郷隼人、ホームレス公田耕一が続き、現在は十亀弘史らの入選作が注目されている。入選者の常連化、話題性の高い作者の入選作が目立つのは共通点といえる。この傾向に輪をかけたのが、常連入選者に幼児や小中高校生が登場したことである。彼らの成長を見守るかのような選歌が続き、その短歌を題材にした入選作も登場、松田梨子・わこ姉妹、山添聖子・葵・そうすけ一家などは、まさにアイドルと化し、しばし盛りあがるのである。「新聞歌壇」のサロン化といってもいいかもしれない。もう一つの変化は、短歌が時代を反映するというのは当然ながら、反応が早い「時局詠」「社会詠」が多くなったことである。東日本大震災の頃からか、原発事故・災害、安保体制への不安、新型コロナウイルスの恐怖、日本学術会議への圧力などのテーマの歌が続出するという現象である。上記二冊の時代を通して、「時局詠」的なものは決して多くはなかった。短歌入門者の通過点、修練の場という役割を担ってきた「新聞歌壇」、短歌と一般読者を結ぶチャンネルとして親しまれてきた「新聞歌壇」はどこへ行くのか。月二回の「時評」は、逆に、執筆者の師弟関係や仲間内でのオマージュ、「歌壇」にしか通じない、社会性のないテーマが多いのも気なるところだった。(「歌壇時評」『ポトナム』2021年1月号所収)

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左側の『朝日歌壇 共選二十年』は、横長の本で、初年1955年の頁を開くと、右側には一年の主な出来事が知るされている。冒頭に「テレビ、洗濯機、ミキサーなど家庭電化時代始まる。マンボスタイルが流行」とある。入選作の1頁目には、つぎの1首があった
・未来にもわれにも向いて走りつつ届かぬ星の光あるべし(東京)石本隆一 五島選

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2021年1月 2日 (土)

新春 2021年

新年のご挨拶申し上げます。
いつもお訪ねくださり、ありがとうございます。
不安が多い新春を迎えました。
一日も早く、当たり前の暮らしができるようにと願っています。
拙い歩みですが、第四歌集をまとめることができればと準備中です。
ともかく、今は命を守ることに自らも努め、
政府や自治体には、実のある対策を求めたいと思います。

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イチジクのえさ台にやってくるヒヨドリ、大きい方の愛媛の「紅まどんな」と「佐賀美人」を前に迷う、というより、メジロが来ないように監視しているのかもしれない。つぎは、ガラス戸越しでなく、撮りたいのだが

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2020年12月25日 (金)

医療体制ひっ迫は、わが身にもー首相も、前首相も、しどろもどろの中・・・

<大学病院からの「転医」(逆紹介)のお願い>とは!

 昨日は、クリスマス・イブというのに、新型ウイルスの新感染者数は、東京都888人、千葉県234人、全国でも過去の記録を更新した。精一杯「自粛」をしているものの不安は募るばかりである。

 それに追い打ちをかけるように、昨日、3か月に一度、高血圧ほかの症状などで通院していた大学病院から下のような「通知」をもらい、医師より、つぎの診察日まで、「転医」先を探しておいてください、言われた。ここ10年近く、担当の先生は替わったものの、体調や他の症状に不安があれば、すぐに検査もしていただいていて、それも安心材料になっていた。突然、「かかりつけ医」といわれても、佐倉市に転居して30年以上、風邪だ、ヘルペスだ、怪我をしては、お世話になっていた、近くの医院が、この1月に閉院してしまったのである。そんな事情を話して、何とか続けてお願いできないだろうかと言ってみても、「国の方針」「病状としては数値が安定している」からと聞き入れてもらえなかった。

 「高度急性期病院」として地域医療を守るためと言われてみても、高齢者の診療抑制、不安拡大を助長することにならないだろうか。「国民の命と暮らしを守る」はずの政府の、いまの体たらく。後期高齢者の医療費負担倍増と言いながら、オリンピック開催、デジタル化、国土強靭化、イージスアショア代替などの予算が幅を利かす来年度予算。会食をハシゴする首相、情報収集なら、官邸の会議室やったらいいものを、高級店でのグルメ三昧には、あきれるばかりである。

イブの夕方6時からは、安倍前首相が、桜を見る会前夜祭の件で不起訴になったからと、記者会見をやっていた。「秘書が、秘書が、前任の秘書が・・・」「内閣総理大臣としての職務に専念していたから、前夜祭のことなどあずかり知らない」「信頼を取り戻すのが政治的責任」とやら。「謝罪」とは、軽く頭を下げるだけと心得ているらしい。平河クラブという記者団からは、再登板は?派閥の行方は?なんていう質問が出る和やかさであった。

 先の「かかりつけ医」の医院の閉院と、やはり通っていた近くの歯科、眼科の医院も、先生の高齢化で閉まってしまった。かつてのニュータウンの新住民の私たちも年老いたし、街全体の高齢化も著しい。住民自治会も、班長ができないから、メリットがないからと、退会する人も多く、心細い。来年は、我が家にも班長の番が回ってくる。

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2020年12月14日 (月)

憲法9条をまもりたい、この一年

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ダウンロード - news41.pdf

ダウンロード - news42.pdf

 地元の千葉県佐倉市で、「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」が発足したのが2006年の夏でした。以来、参加して、細々と活動を続けて、かれこれ15年にもなろうとしています。会員の出で入り、活動の波は見られましたが、この12月、ニュース42号を発行しました。執筆者、編集者、印刷・配布する者の協力、そして読者の方々の声の賜物かと思います。会のブログも開設して、ニュースも見られるようにしているのですが、アクセスが多いとは言えません。私のこのブログでも活動の一端は報告することもありましたが、ひとまず、最近のニュースをpdfでご覧いただきたいと思います。世話人の数も決して多いとは言えませんが、高塚一成代表はじめ個性的な面々で、外部の執筆者もヴァラエティに富んでいるのではないでしょうか。ご覧いただければ幸いです。

 

以下の「まもりたい会ブログ」へのコメントも大歓迎です。

http://sakurasizu9jo.cocolog-nifty.com/blog#_ga=2.163444668.1416867920.1607654709-1871852642.1550293945

 

 

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2020年12月13日 (日)

小泉苳三、そして小川太郎のこと

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イチジクの根方に十両?が赤い実をつけていた。後ろにはすでにスイセンの葉が見えていた

 

 「岸上大作展」の記事を書いていて、思い出したことがあった。

 『血と雨の墓標 評伝岸上大作』の著がある小川太郎は、その出版から2年足らずの2001年8月に59歳で自死してしまった。たぶん、2000年前後のことであったと記憶するのだが、面識のない小川から、突然電話をもらったのである。拙著『短歌と天皇制』の話から始まったのだが、用件は、私が所属している『ポトナム』を1922年に創刊した小泉苳三の件だった。小泉苳三(1894~1956)は、『夕潮』『くさふぢ』『山西戦線(従軍歌集)』の歌集を持ち、敗戦時、立命館大学教授であったが、戦前は、京城の高等女学校や北京師範学校など勤務地を変えながらも、近代短歌史の資料収集に努め、「資料大成」や数多くの論文を発表していた。ところが、1947年の政令62号「教職員の除去、就職禁止及び復職等に関する勅令を改正する政令」、ポツダム宣言受諾による、いわゆる公職追放によって、失職したのである。「戦時下で、翼賛的な短歌を作り、社会的活動もしてきた歌人たちが、誰ひとり、この「追放」になっていないのに、どうして小泉だけが対象になったのかを調べたい、事情を知っているか」という問い合わせだった。かねがね、私も疑問には思っていたが、年譜などを見ても、上記の政令によって「教員不適格者」となったことはわかり、1952年の「教職員の除去、就職禁止に関する政令を廃止する法律」を待たずに、1951年に復職したらしいことしか知らなかった。『ポトナム』には、立命館大学関係者は、多かったのだが、その事情について話されることも書かれることもなかった。
 私は、役に立つ情報は持ち合わせていなかったが、当時の『ポトナム』代表が、戦後まもなく入会の同人で、苳三の甥にあたるKさんだったので、断りもなしに、Kさんを紹介してしまった。小川さんから連絡を受けたKさんは、不快な思いをされた由、私は、反省するばかりであった。そして、まもなく小川太郎さんの訃報に接し、苳三の調査は進んでいたのだろうか、私も本気で調べればよかったのかとも思ったが、以降、調べる気力を失っていたのが正直なところだった。
 しかし、苳三の最後の著作『近代短歌史 明治篇』(1955年6月)を調べ物で開くたびに、息子を戦死で失い、「追放」されながらも、上記著書を出版した翌年1956年11月に急逝した小泉苳三を、そして小川太郎をも思い起こすのであった。

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ヤマボウシの葉が落ちた後、現れたのが、やはり鳥の巣であった。葉が茂っている間、たぶんヒヨドリが辺りを飛んでいたのを見ていたのだが・・・

 

 

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2020年12月11日 (金)

岸上大作、没後60年の今

 12月5日から、「岸上大作展」が姫路文学館で開かれている(来年3月21日まで)。没後60年記念ということで、岸上の命日にもあたる日にオープンしたのだが、当分出かけられそうにもない。没後40年の「’60年ある青春の記録 歌人岸上大作展」(姫路文学館 1999年10月8日~11月28日)に出かけたことや1960年当時の大学歌人会、私自身のことを、当ブログにも書いたのは、今年の初めだった。

◇60年前の1960年、50年前の1970年、いま何が変わったのか(1)私の1960年(2020年1月25日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/01/post-8ad825.html

 上記1999年の「展示カタログ」には、高瀬隆和編による詳細な「岸上大作著作目録」「岸上大作文献目録」が掲載されている。岸上について書かれた関係文献を見ていると、没後も途切れることなく、短歌雑誌のみならず雑誌や新聞で、さまざまな形で報じられ、その作品が鑑賞され、回顧されていることがわかる。高校の国語の教科書の短歌教材として採録されるようになっていた。

・かがまりてコンロの赤き火をおこす母とふたりの夢つくるため

・アパートの庭にわずかな夏草を子等替りばんこで転がりに来る
(高等学校校「国語Ⅰ」三省堂)

・美しき誤算のひとつわれのみのが昂ぶりて逢い重ねしことも

・裸木深くナイフ刺したり失いしひとつのの言葉埋めんとして
(高等学校「国語Ⅰ」旺文社)

 今世紀に入ってからも、遺歌集『意志表示』が文学全集類に収められ、その作品がアンソロジーに収められ、愛読者は決して少なくはない。『意志表示』(白玉書房 1961年6月20日)の初版が古書店で高値がつけられてもいる。私の手元にも「岸上大作再発見 没後40年」特集(『短歌往来』1999年10月)、「岸上大作」特集(『現代短歌』2017年9月)があり、また、最近、「没後六〇年岸上大作」特集をしている『月光』(2020年11月)をいただいたばかりであった。そして、きのうは、購入した、今回の「岸上大作展」のカタログが届いたのである。

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ただいま開催中の「岸上大作展」のチラシ

 1960年、国学院大学の学生だった岸上大作(1939~1960)は、保守的な校風の中で、短歌研究会活動とともに、安保条約改定反対闘争にも参加し、全学連の主流派でもあり、過激派とも呼ばれていた集会やデモにも参加するようになっていた。その渦中で詠まれた作品は、『短歌研究』1960年9月号には、新人賞の推薦作として「意志表示」が、11月号には「しゅったつ」が掲載され、『短歌』10月号には「座談会・明日をひらく」に、稲垣留女、小野茂樹、清原日出夫とともに参加、11月号「寺山修司論」、12月号には作品「十月の理由」が掲載されるという、私などには、実に華々しい、目を見張るような活躍に思えた。そんな矢先の、1960年も押しつまったある日、岸上の自死を知らされたときは、やはり衝撃が走った。いったい何があったのだろうという思いだった。その後、短歌雑誌などで「恋と革命に殉じた青年歌人」などと喧伝され、死の直前まで書き続けていたという、長い、長い遺書を読んでも、失恋したことは十分わかったが、革命に殉じたとはとても思えなかったし、日本には革命など起こりようもなかった状況が読めなかったのだろうか、とも。父親が敗戦の翌年、内地に帰還したものの、途上で病死し、母子家庭で育った生い立ちを知る。しかし、文学少年だった岸上の、上京後の学生生活の日記から見えてくる「恋」も「革命」も、命を懸けるほどのものだったのか、私などには想像が及ばなかった。正直、母親、妹への、あるいは友人たち、片思いの女性たちへの、一種の「甘え」のようにも思えたのだ。

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1961年2月号『短歌』は吉井勇と岸上大作の追悼号になった

 いろいろな追悼文や岸上についてのエッセイを私が読んだ限りながら、いま、私が一番、しっくりと共感できたのは、大下一真「岸上大作の自己レトリック」(『まひる野』2000年2月)であった。『まひる野』は、岸上が1955年7月に入会、59年12月まで会員であった短歌結社誌で、大下は、いま同誌の編集人を務めている。大下は、「歌人岸上大作と人間岸上大作との差異・落差」を、作品や評伝、証言によって検証し、「暴露趣味ではない。興味あるのは、失恋し続け、デモの現場では恐怖心からスクラムを組んだ腕を振り払って外れたがった男が、いかに<恋と革命に殉じた>格好良い青年になり、文学史上に残り得たか」をたどるのである。

・意志表示せまり声なきこえを背にたた掌の中にマッチ擦るのみ

・血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくす

 没後40年の展示会と同時に、小川太郎は『血と雨の墓標 評伝岸上大作』(神戸新聞総合出版センター 1999年10月)を出版し、綿密な取材で岸上の実像に迫った。そして、その展示会でのイベントでは、強引なまでの片思いの最後の相手であった人、沢口芙美との公開対談で聞き手を務めたのであった。沢口は、「人様の前で岸上について話すのははじめて」と語っていた(「<自殺>の後を生きて―佐藤通雅様」『短歌往来』1999年10月)。すでにある程度の気持ちの整理はできていたのだろう。

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20年前の「岸上大作展」チラシの裏、右下のイベントの冒頭が沢口・小川の対談が予告されている

 それから20年、上記『月光』の特集には、沢口の「小説 風の鳴る日は・・・」が掲載されていた。「小説」とはいえ、当時の時代背景とともに、大学生活の中で岸上との経緯が克明に描かれていた。私は初めて読んだが、すでに「NEO APRES GUERRE」という同人誌の創刊号(1967年11月)に発表されたものの再掲らしい。沢口は、この時点ですでに、「小説」という形で、すべて仮名としながらも、記録として残していたのである。少し驚いたりもしたのであった。

 それにしても、亡くなるまで、岸上関係の資料の収集や保存に意を尽くしていた高瀬隆和や姫路文学館の岸上大作の常設コーナーや記念展示会の企画に深く、熱くかかわってこられた学芸員の方には、敬意を表したい気持である(竹廣裕子「岸上大作との三十年」『月光』2020年11月)。私は、岸上の短歌や生活信条に納得できない部分があるにもかかわらず、同世代として、気になる歌人であることには変わりはない。

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『月光』65号(2020年11月)は「没後六〇年 岸上大作」特集だった

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高瀬隆和『岸上大作の歌』(雁書館 2004年3月)、岸上はよき友人に恵まれていたな、と思う

(気持ちとしては、人名には「さん」を付したかったが、敬称は略している)

 

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2020年12月 2日 (水)

半端といえば、半端!?議会開設130年記念式典に参加しなかった共産党?

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この式典には、皇族からは、天皇夫妻と秋篠宮夫妻の長女眞子さんが参加していた。100周年、120周年の時は、天皇夫妻以外には秋篠宮夫妻が参列していた。

 11月29日、議会開設130年に当たり、参議院議場では、記念式典が開かれていた。130年前の11月29日帝国議会の会意識が開かれたことから、10年ごとの記念式典の一環として開催、今年の参加者は、新型ウィルス感染対策から、各党の代表者に限られた。感染者の急激な拡大のニュースなどに隠れ、あまり大きくは報道されなかった。

 その日のお昼のNHKニュースでは、天皇の「おことば」と首相らの式辞を伝えた後、その末尾で、つぎのように報じた。

 「一方、共産党は、「戦前の帝国議会を踏襲した、天皇中心のやり方になっており戦後の国会と区別して行うべきだ」などとして、式典を欠席しました。」

 また、「読売新聞」も、その記事の末尾で、つぎのように伝えている。

「式典は新型コロナの感染防止のため、出席者を絞り、国歌は斉唱せずに演奏のみが行われた。共産党は「戦前の帝国議会を踏襲した天皇中心のやり方になっている」などとして欠席した」

 国歌の演奏は、芸大のフィルハーモニアが担当したらしい。ここでも、共産党の対応が短く報じられていた。

 ところが、「赤旗」の電子版には、つぎのような記事が掲載されていた。

「議会開設130年記念式典」開催2020年12月1日(火) 「国会は29日、参議院議場で「議会開設130年記念式典」を開催しました。1890年の帝国議会開設から130年となったことを受けたもの。式典には、式典委員(議院運営委員)の日本共産党の塩川鉄也衆院議員が出席しました。 日本共産党は、戦前の帝国議会の時代と戦後の国民主権の国会の歴史とは厳格に区別する必要があるとの見地から、戦前と戦後の歴史をひとくくりに記念する式典のあり方を批判してきました。」

 ここで思い起こすのは、それまで、天皇の臨席、「おことば」で始まる開会式への参加を拒んできた共産党議員が、2016年の通常国会から参加するようになった一件である。当ブログの以下の記事に詳しいが、その参加に至った経緯が、依然として明確ではない。議場から、議長席からも一段と高い「玉座」から述べる「おことば」によって開会されるのと、国会開設130年記念式典で玉座から述べる「おことば」―「国内外の諸情勢に思いを致すとき、国会が、国権の最高機関として、国の繁栄と世界の平和のために果たすべき責務は、ますます重要になってきていると思います」とは何が違うというのだろう。

 2015年末、開会式参加の弁として、天皇が高い席から「おことば」を述べる点を批判しつつ、天皇の「おことば」が「儀礼的、形式的な発言が慣例として定着した」ことを理由として述べていた。また、志位委員長が「共産党は天皇制に反対していると誤解されたくない」からとも述べていたことも忘れてはならないだろう。「玉座から述べる」方法も「おことば」の内容からしても、両者の違いはどこにあるのだろう。今回の対応との整合性、一貫性が問われるのではないか。民主主義的な議会制度と現在の「(象徴)天皇制」との共存が可能なのかという基本的な問題を、ただ、先送りにしているのに過ぎないのではないか。

◇ことしのクリスマス・イブは(2)(3)~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった!(その1)(その2)2015年12月27日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-6623.html

2015年12月28日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/2-2dd0.html

 

 

 

 

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何もかも半端な~自粛か停止?結婚と婚約は違う?・・・・

自粛?停止?基礎疾患? 

 Go to トラベルで、東京を除外するか否かで、小池都知事と菅総理が綱引き続いていたが、12月1日の夕方、緊急会談を開いたといい、急展開ともいうが、どんな結論が出たかと思ったら、65歳以上の高齢者と基礎疾患を持つ者への東京発着の「自粛」を求めることで合意したという。それも「短期集中」?で12月半ばまでなのか。いや「停止」なのだともいう、これもあいまいなままで、都と政府の妥協の産物で、感染拡大への歯止めにはならない。旅行業界の現場の混乱は必至だろう。第一、高齢者や基礎疾患のある人は、都内でも他県でも、Go toの利用どころか、必要不可欠な外出、会合、通院、買い物や近親の葬儀さえも控えているのが現状ではないのか。

 政府にしても、新型ウイルス新規感染者も重症者も死者も急増している東京都にしても、医療体制がひっ迫してきている現実を見れば、いまや「危機感」を持って対応する状況ではないはずだ。「危機」ではなく、まさに、「危機」のさなかにあるという認識が全く感じられない。第一波、第二波の時期から、秋冬を控えて、医療体制の脆弱さが指摘され、対策の重要性の声が高かったにもかかわらず、「経済を回す」ことが強調されたまま、今日に至ってしまった。そもそも、与野党を問わず、10万円の一律特別給付金で、経済支援、消費喚起をという発想自体が愚策であったことを反省すべきではないか。失職などによる生活困窮者への生活支援、休業・営業時短要請などへの経済支援を優先すべきはずであった。愚策の最たるものは、感染予防には不織布マスクより数段劣る、小ぶりのガーゼマスク2枚の全戸配布に予算と労力を割いたことに象徴されよう。私にしても、マスク、消毒、手洗い、三密はもうわかった。「自助」はすでに限界にきているのではないか。その後の対策も、後手、後手の小出しで、半端きわまりなく、国民の不安は募るばかりである。

菅・小池の溝(ANN)
https://yahoo.jp/Xpcmir

 

結婚と婚約は違う?

 秋篠宮の誕生日に先立って11月20日行われた記者会見の内容が、11月30日の朝刊で一斉に報じられた。その中で、一番注目されたのが、長女眞子さんの結婚問題だったのではないか。憲法24条まで持ち出して、結婚は両性の合意のみによって成立するので、二人の結婚は容認するが、「結婚」と「婚約」とは違う?との発言が記者会見の最後になされていた。

「そうですね。どの段階というのがいろいろあるかもしれませんけれども,私は,特に結婚と婚約は違いますから,結婚については本当にしっかりした確固たる意志があれば,それを尊重するべきだと私は思います。これはやはり両性の合意のみに基づくということがある以上,そうでないというふうには私はやはりできないです。よろしいでしょうか。」

 その意味するところは明確ではない。世間では、婚約といえば、両者の結婚を前提になされるものと理解されていると思うが、皇室では違うらしい。「皇室ジャーナリスト」によれば、皇族の婚約は、家と家との約束を意味する「結納」にあたる「納采の儀」を経ることによって成立するのが慣例らしい。もちろん、法律的な根拠があるわけでなく、あくまで私的な行事である。ということは、両者の合意による結婚は容認するが、家と家との、しかも、「結納」という前近代的な慣習でもある「納采の儀」の困難さを示唆すること自体、秋篠宮の発言にも矛盾がある。眞子さんにとっても、「お気持ち」など国民向けに公表する必要もなく、秋篠宮もせめて「結婚は認めるので、あとは、両者で自立してやってくれ、一時金は当てにするものではない」とでも明言したら、国民は一番納得するのではなかったか。

2020年11月20日秋篠宮記者会見の模様(宮内庁)
https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/39#TOP

 

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2020年11月22日 (日)

奈良・京都には何回か来ているはずなのに(3)

尹東柱の詩碑を訪ねて

 翌日、11月14日は、午後2時過ぎの新幹線をとっているので、午前中はフリーだった。まさに紅葉の季節、外国人観光客も少ない、この時期、出かけたいところもあったが、欲張らず、ホテルの目の前の京都御所に行ってみることにした。大した予備知識もないままなのだが、前日の「皇室の名宝」展の続編ともなろうか。
 ちょっとその前に、同志社大学の今出川キャンパスに尹東柱の詩碑があるはずと、出かけてみると、この時期ながら、キャンパスは出入り自由とのことだった。新島襄の「良心碑」やレンガの建物を縫っていくと、その詩碑は、礼拝堂とハリス理化学館のあいだの木陰にあった。
 
尹東柱(ユン・ドンジュ、1917~1945年2月16日)は、キリスト教信者一家の旧満州出身のコリアの詩人で、同志社大学留学中の1943年7月に、民族運動にかかわったとして、治安維持法違反容疑で逮捕、翌年、懲役2年の実刑判決を受けた。1945年2月16日福岡刑務所で死因不明で獄死している。尹東柱は、少年時代から詩作を続け、雑誌などに投稿していた。没後1948年に出版された詩文集「空と風と星と詩」は、多くの人に愛され、1980年代からは、日本語訳も何回か出版されて、知られるようになった。その後、同志社大学のコリアクラブなどが中心となって、1995年の命日に、この詩碑がたてられたという。

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門衛でもらったキャンパスマップ、詩碑は②礼拝堂と③ハリス理化学館の間との案内を受ける

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尹東柱詩碑、そばにはムクゲが植えられていた。その詩文は反射してよく撮れなかったのでネットから拝借したのが下記である

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左手前からハリス理化学館、至誠館、正面がクラーク記念館

 

京都御所へ、公開ながら発熱チェックと消毒と

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  今出川御門から京都御苑に入り、右手の近衛邸跡は児童公園になっていて、土曜日だけに親子連れでにぎわっていた。左手が桂宮邸跡ということで、正面に翔平門を見て、右手の角を曲がると京都御所への受付所が遠くに見えてくる。広い砂利道は気持ちはいいが、歩きにくい。受付では体温計測と手指消毒後、番号札を渡されての入場である。順路が決まっていて、係員があちこちに立っている。歩けるのは御所の南の半分ほどで、新旧の車寄せを経て、北の翔平門に対して南の正門は建礼門で、最も格式の高い門ということであった。紫宸殿の南庭に入る承明門があるが、見学者は、南東の隅にちょこっと入れるだけであった。北に進むと池があり、その前には小御所、蹴鞠の庭、御学問所があり、さらに北には御内庭があり、御常御殿と続き、天皇の生活の場が続く。紫宸殿の北にある清涼殿は、ただいま屋根の葺き替え中で、覗くこともできなかった。造営はいずれも16・7世紀、江戸時代のものが多いが、新御車寄せは、大正天皇の即位の礼のために建てられ、なかには小御所のように焼失のため1954年に建てられたものもある。40分ほどで回れただろうか。南東にはほぼ同じくらいの広さの大宮御所・仙洞御所があるが、参観には許可が必要で、桂離宮や修学院離宮と同じ扱いなのだろう。それにしても、御苑は広い。東西約700m南北約1300mの92ヘクタール、御所部分が11ヘクタールという。

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見学の順路は矢印の通りであった

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紫宸殿の南庭の隅から、後方に見えるのが工事中の清涼殿

 東京の皇居といえば、宮内庁管理部分が115ヘクタール、外苑など含めると230万ヘクタール。北の丸公園、東御苑と開放されてきたが、都心の115ヘクタールの緑地は貴重である。まだまだ、公開できる部分がある、というよりは、現在の天皇家の住まいもある約50へクタタールの赤坂御用地内に、皇族方がまとまって住むこともできるはずである。皇居が全面開放されれば、国民や都民の憩いの場所にもなり、災害時の避難所にもなるのではないか。用地不足でままならない、さまざまな施設もできるかもしれない。そんなことも考えてしまった御所見学だった。

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正面のイチョウの木は一条邸跡の角、その先が乾門であった

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金色に輝いていたイチョウの木を思わず見上げてしまった。足元の落ち葉は、意外と小さいものばかりで、前掲の順路写真の右下に並べてみた。モミジの葉よりよほど小さいのがわかる

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2020年11月20日 (金)

奈良・京都、何回か来ているはずなのに(2)

京都国立博物館「皇室の名宝」展へ

 新型ウイルス対策のため、見学は30分刻みの事前予約が必要とのことで、家を出る前に、当初は11月14日の午前中にと思ったが、すでに満杯だった。13日ならば、当日でも入館できる状況だったので、京都駅の観光案内所で確認、バスで博物館・三十三間堂前下車。私たちは、午後3時入館、制限している割には混んでいた。
  皇室の所蔵する美術品などは、平成になって、大方、三の丸尚蔵館に移管され、即位10年、成婚50年、改元などの記念展や、テーマを持った特別展が年に2・3回開催されていたのは知っていた。今年に入っては、「即位記念・令和の御代を迎えて」も開催されていたのだが、いずれにしても、そのテーマからして出かける意欲を失っていた。しかし、今回は、京都に行くついでながら、伊藤若冲と円山応挙がみられるということで出かけた。夫は、あまり乗り気ではなかったが、付き合ってもらうことにした。

展示の構成は以下の通りであった。
第一章 皇室につどう書画 三の丸尚蔵館の名宝
 筆跡のもつ力/絵と紡ぐ物語/唐絵のあこがれ/近世絵画の百花繚乱
第二章 御所をめぐる色とかたち
  即位の風景
/漢に学び和をうみだす/天皇の姿と風雅/王朝物語の舞台

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出品目録とチケット

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恩命帖」(藤原佐理 982年)、矢の調達が整わなかったことの詫び状らしい。このコーナーには藤原定家の「更級日記」や「和歌懐紙」があった

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蒙古襲来絵詞」(13世紀)、このコーナーには、「「春日権現験記」〈1309年頃)もあり、前日、春日大社に参っていただけに興味深った

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私の高校時代の日本史教科書『新日本史』(池田教科書出版 1956年)にあった「蒙古襲来絵詞」(御物)とあり、『中学日本史』(清水書院 1951年)にもあった

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伊藤若冲「旭日鳳凰図」(1755年)

 若冲がブームになったのはいつごろだったか。2009年、即位20年ということで東京国立博物館で開催された「皇室の名宝~日本美の華」においては、「動植綵絵」30幅がすべて公開されていたという。2016年にも生誕300年で、大々的な展覧会が開かれていた。「動植綵絵」は元々相国寺に寄進されたものだったという。今回は、前期・後期あわせて8幅が展示されていて、下記の「南天雄鶏図」「菊花流水図」など4点を見ることができた。

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  私には近世の美術が興味深かった。大半は豪華な屏風であった。狩野永徳、海北友松、俵屋宗達、狩野探幽など、教科書に出てくる画家たちの作品が並ぶ。とくに、宗達の「扇面散図屏風」の意匠に目をとめた。宗達は、京都の町絵師で、料紙や扇も商ってもいたというが、生没年もはっきりしないらしい。弟子たちと工房のようなところで作品を描いていて、町民に人気があり、寺社や貴族からの依頼は後期になってからともいう。

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俵屋宗達「扇面散図屏風」八曲一双(17世紀)

 なお、「即位の風景」のコーナーには、江戸時代の天皇の即位の図を描いた屏風があった。なるほど、今回の即位の礼のテレビ中継で見覚えのある「高御座」を中央に描かれている絵は、現代よりよほど質素に思えた。わざわざ京都から運んでまでする儀式だったのだろうか。それに、このコーナーには、どこか真新しい屏風があったのでよく見ると、「令和度 主基地方風俗和歌屏風」といい、「和歌 永田和宏詠筆 絵 土屋礼一筆」と記されている。「なんだ、これは」というと唐突さであった。所蔵をよく見ると「宮内庁用度課」となっていた。すでに「名宝」なのかな、というのが率直な感想であった。京都の四季にちなんだ和歌の色紙は、屏風の上部の左右にあるので、文字は読めなかった。なお、悠紀地方の屏風は、「和歌 篠弘詠筆 田渕俊夫筆」とあり、前期に展示されたらしい。土屋礼一は、芸術院会員、日展副理事長、永田和宏は、歌会始選者である。

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「令和度 主基地方風俗和歌屏風」(和歌永田和宏詠筆 絵土屋礼一 2019年)。
大嘗祭では、天皇が大嘗宮の悠紀殿(ゆきでん)と主基殿(すきでん)でお米などの新穀を神前に供えるが、その新穀は東日本の「悠紀地方」と西日本の「主基地方」からそれぞれ納められることになっており、今回は栃木県と京都府が選ばれた。2019年11月の大饗の儀の調度品として披露されたという

 なお、出品目録を見ると、所蔵機関はほとんど三の丸尚蔵館なのだが、宮内庁書陵部などとともに「御物」となっているものがあった。御物とは、昭和天皇死去後の、天皇家の相続にあたって、美術品の評価が高く相続税がかかるので、「国有財産」「御由緒物」とに仕分け、その残りにあたる。国有財産になったものは三の丸尚蔵館に収められ、皇位に伴って伝えられるべき三種の神器や儀式関連文書や装身具が「御由緒物」となった。しかし、その仕分けの基準が曖昧で、貴重な美術品が含まれているようだ。なぜ、すべて国有財産にしなかったのだろう(森暢平『天皇家の財布』119~126頁)。
 夫とは、途中から別行動になり、先に出るという。ロダンの「考える人」の辺りで待っているとのメールが入っていた。

 

 

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