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2006年2月28日 (火)

土地区画整理事業における住民参加(2)―行政と業務代行のはさまで―

杜撰な資金計画

こうした不備を縫って、これまたいわば、時代遅れの土地区画整理組合方式の開発、さらに、業務代行方式の運営・施工は、バブル時代の申し子に過ぎず、さまざまな破綻を見せている。行政は、事業自体の成功・破綻を左右する資金計画に一切踏み込まず、いわば言いなりを黙認しているのが、私の知る現状である。最近、千葉県流山市三輪野山の道路建設計画について都市計画審議会には、建設反対の意見書が千通以上届けられたにもかかわらず、審議会は住民との信頼関係回復、環境対策を講ずるという曖昧な付帯意見を付して原案通り可決してしまった。つくばエクスプレス開通の陰に進む住民無視の構造をここでも見る思いがする。

当地の組合認可時の資金計画の保留地処分価格は、私たち住民の意見、要望書などで、周辺の土地の実勢価格と大きな隔たりがあり、処分不可能となり清算が危ぶまれることを繰り返し指摘した。ところが行政は、今後地価がさらに値下がりして資金計画に狂いが起っても、事業計画の手直しで対応すれば問題はないと強弁し、認可した。案の定、組合は認可後1年も経たずして、総事業費162億を89億に縮小するという大幅な資金計画の変更をおこなった。最初の資金計画の根拠は何であったのか、事業計画の何を縮小するのか、工事内容の安全性を問いただせば答えに窮し、区画整理事業の工事内容は、レベルを落とせばなんとでもなるとさえ、行政は言い放った。組合は保留地処分価格設定の誤りに気づき、組合理事によれば銀行借入金が予定通り運ばないこともあって、縮小を余儀なくされたことになる。この時勢、当然の成り行きであったが、事業計画・資金計画自体の甘さのツケは誰がかぶるのか。

そして、安上がりの工事内容は、てきめんに周辺住民の環境に影響を及ぼした。地元開発業者である業務代行が自分の所有地に放置した産廃は、トラック800台近くにも及び、その残土で盛り土の造成がなされた。さらに、別の工区では、産廃の山を崩し、大きなコンクリート塊、金屑、シート、木材などをより分けただけで、公園予定地に埋め込もうとした。急斜面の盛り土は、1昼夜70100ミリ程度の雨で崩落、モノレール軌道に流れ込んだのである。傾斜10度弱の9m道路では車椅子の移動は不可能だし、自転車通行は乗ったままでは危険で、車を押して上り下りしなければならないこともわかった。

暑い夏、署名や議員回りに奔走して

盛り土出現以来、ともかく私たち対策協議会は組合に4回の住民説明会を開かせた。回を追って住民の情報も多くなり、参加者の熱意も高まり、組合の運営や工事内容、説明自体にも破綻が顕著になってきた。組合は4回目の最後に一方的に説明会を打ち切った。住民代表の少人数の話合いには応ずると逃げる組合を、もう一度住民との話合いのテーブルに引き出すにはどうしたらいいのだろうか。住民運動などとは縁遠い私たち住民が何度も集まって計画したのは「盛り土を元に戻せ、適正な産廃処理をせよ」などを趣旨とする署名運動と「組合は住民との話合いに応じよ」との請願を9月市議会に提出することであった。

地元選出の市議会議員回りをして請願の紹介議員になってもらうことを当面の目標とした。600世帯の私たち自治会と100世帯近いマンション入居者を対象にした署名運動。署名の趣旨、表現、集め方などについて対策協メンバーの中でもさまざまな論議があったが、最終的には、自治会の班長会議で了承しての文面でスタートした。自治会では7割以上の世帯、マンションでは4割の世帯の賛同を得た。そして、8月末日、9月市議会開会直前に渡貫市長と組合に署名簿を手渡すことができ、コピーを堂本県知事にも届けたのであった。

 暑い夏、お盆休みもいとわず、地元にかかわりのある議員との面談、全ての会派の議員との面談を目指した。30人いる議員の内、半数弱の議員と話し合ったが、請願の紹介議員を依頼すると、7人以外は、お互いに様子を探り合って即答がえられないまま、提出期限を迎えてしまった。多数決での採択を目標にして、請願が未提出に終わったのは残念であった。後から考えれば、採択が少数であっても提出の意義はあったのかもしれない。個人的にはそんな風に考えたのだが、対策協メンバーの多くは不採択になると今後への影響が大きいというものだった。地元企業の業務代行との関係を考えた議員も多かったのか。中には、臆面もなく、業務代行の代弁者のような発言をする議員もいた。議員の中には組合の地権者もいて、同僚議員への遠慮があったのかもしれない。

しかし、暑いさなか、都合のつくメンバーが集まっては、盛り土の崩落写真や対策協ニュースなどを携えて議員回りをしたことは、決して無駄ではなかった。9月議会では、3つの会派の3人の議員が、井野東土地区画整理組合と住民との話合い続行、盛り土の危険性などについて質問をしてくれたのである。組合と住民との話合いについて行政が仲介する、盛り土の安全性について配慮をさせるという回答を市長から引き出したのである。

話合いの続行―住民参加、一つのかたち

200510月からは、市を仲介者として、組合と対策協メンバーとの話合いがスタートした。まずは、盛り土の安全性と盛り土による周辺住民の眺望権の侵害や圧迫感の緩和のため、その高さをもとの地山線に戻すという要請から始まった。組合からは、私たちの要請は、コスト面と土地の有効利用面から不可能だとの回答がもたらされた。さらに交渉の結果、組合は、限定的に50センチ下げる案が精一杯だと、盛り土崩落の改修工事の一部手直し案で間に合わせようとして、住民はもとより、行政からも検討に値しないと突き放された。

そして、いまは、さらに高さ1m、奥行き10mの盛り土削減が最終案だと硬直的である。しかし、その根拠がさっぱり示されない。コスト、造成後の建築計画がネックになっているわけではない、と曖昧なのだ。さらに、「この国土が狭い日本の都市計画で、周辺の環境や眺望権などを配慮する必要はない」とまで、業務代行業者と組合幹部が公言するのを聞いて情けなくなってしまった。しかも、件の工区の換地では、業務代行の所有になる特約がすでに組合と交わされているという。そこにはいくつかの高齢者福祉施設を集める構想も公表した。

いま、全国的にも開発業者は、住宅地・マンション・リゾート開発だけでは立ち行かなくなったため、その商いは多様化せざるを得ないだろう。当地の地元業者、組合の業務代行も、踏み出したホテル業の業績も伸びず、福祉産業へと大きくシフト、福祉施設を複合的に集めようとするゾーンを「福祉の街」構想として打ち出している。素人目にもノーマライゼイションとはあきらかに逆行するものではないか。残念ながら、日本の福祉産業のウサン臭さをぬぐいきれないのである。

私たちの組合との交渉の着地点はいまだ見えない。しかし、これまで仲介役を務めている市の担当者の努力に感謝しつつも、不安も大きい。話合いの先には、用途地域変更の縦覧、意見提出、都市計画審議会の答申などのスケジュールもある。

土地区画整理事業区域に接する従来の戸建ての住民、マンションの住民の住環境の劣化から少しでも守るために、行政、組合、業務代行、施工会社などとの交渉は続くだろう。不安は大きいが、結局は住民が結束することの大切さを痛切に感じる。今後も続きをレポートしたい。

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2006年2月26日 (日)

土地区画整理事業における住民参加(1)―行政と業務代行のはざまで―

住民がついに立ち上がった

 都市計画事業における住民参加が叫ばれて久しい。現在の法制度において住民参加制度はどれほど機能しているのか、していないのかを私の住んでいる千葉県佐倉市の井野東開発の例からたどってみたい。

 私たち家族が住み始めて18年になる「ユーカリが丘ニュー・タウン」は土地区画整理事業組合による開発で、いま揺れている。かつてのニュー・タウン開発業者「山万」は、自社の後発開発事業区域48ha(㌶)を土地区画整理組合方式の開発に乗り換えて業務代行におさまった経緯がある。

 2005年の春、認可されて3年弱、私の住む街区に接する工区の高い柵がはずされると、生活道路から6m以上の盛り土とその上を走る傾斜10度に近い9m道路が出現した。認可前後に開催された住民説明会では平面図一枚を配っての工事手順や日程の説明に終始した。宅盤や道路の高さには一切触れなかった。工区の北側には道路とモノレールの軌道をはさんで、数年前、業務代行である山万が建設・販売した8階建てマンションがある。そこの入居者たちも、購入時、公園とか一戸建てができるとの説明を受け、南側の窓いっぱいに盛り土しか見えなくなる話は聞いていないと怒った。とくに34階までの入居者の声が大きかった。

そして、その直後に佐倉市まちづくり課から自治会に、その工区の用途地域変更計画(第1種低層住居専用から第1種中高層住居専用へ)の縦覧予告の掲示用ポスター3枚が届けられ、周辺住民の怒りは爆発したのだ。

住民は自治会を中心に対策協議会を立ち上げ、組合と行政と交渉を始めるに至った。そして、組合は住民説明会の一方的な打ち切り、開発前から工区にあった山万の産廃の処理費を組合の負担に押し付けた問題、モノレール軌道沿いの盛り土の2回の崩落という事態を引き起こしたのである。 

住民参加を名ばかりにしてはならない

2000年、組合準備会の段階で、事業区域の市街化調整区域をはずすにあたり、千葉県による縦覧後の公聴会、意見提出の機会があった。佐倉市都市計画審議会への意見書提出の機会もあった。さらに、組合認可に先立って、事業計画に関する意見提出、口頭陳述の手続きも経た。反対意見は、人口減少期に里山や緑地を失ってまで市街化調整区域をはずす必要性、開発区域のほぼ中央を走る1.6kmの1970年代に計画の都市計画道路の必要性、保留地処分価格の法外に高い設定による資金計画の杜撰さに起因するものであった。市民からの積極的な賛成意見は数が少なく、国道の渋滞対策、後継者もなく荒れたままの土地を住宅地に変えられたら、子孫や町の発展にも役立つと考える零細地権者のものだった。

さらに、認可の申請過程では、周辺自治会から事業計画見直しの要望書、周辺住民有志の意見書も提出されたが、20027月、県は組合準備会提出の事業計画になんの修正もなく組合を認可した。

私は、個人的に、ある時期は自治会役員として、住民参加のすべての機会にかかわり、意見を述べ、提出し、要望を述べた。が、それはむしろ徒労に近かった。県・市の担当者がたびたび口にするのが、決まって「法令に違反していないかぎり、早く認可しないと逆に損害賠償で訴えられる」というセリフだった。「住民参加」とは名ばかりで、行政には初めから、住民の意見を聞く姿勢がなかったというほかない。私たち住民の意見提出などの手続きはセレモニーといっても過言ではないだろう。

というのもが現在の住民参加制度には重大な不備があるのである。都市計画策定にあたって、住民の代表である議会の役割が法律で決まっていないこと、わずかに議員・専門家・市民代表からなる都市計画審議会がかかわる場面があるに過ぎないこと。公聴会の開催にしても任意であり、その時期も明確に規定されていない。さらに、意見提出についての対応が規定されていない。(頼あゆみ・柴田翼「都市整備における行政と住民の合意形成の円滑化に関する研究(中間報告)―都市計画策定における住民参加制度の日独仏比較」『国土交通政策研究』20号、20036月、参照)

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2006年2月17日 (金)

内野光子著作目録 2001~

2000年以前の著作目録は『現代短歌と天皇制』に収録*

(ゴシックは図書を示す)

『現代短歌と天皇制』(風媒社) 20012

私の書誌作成歴―『現代短歌と天皇制』収録書誌にいたるまで  

文献探索2000  20012

インタビュー内野光子氏に聞く『現代短歌と天皇制』      

図書新聞    2001317

敗戦前後の阿部静枝―その短歌評論を中心に         

 ポトナム    20014

試写室への招待『現代短歌と天皇制』            

 路上89 20016 

女性歌人の着物姿より大切なものは何か(ここがヘンだよ、歌壇にひと言)

   短歌      20016 

坂のある町                         

大法輪     2001.7

起ちあがる声(『平和万葉集』を読む⑦)           

 新日本歌人   2001.7. 

『現代短歌と天皇制』出版のあとさき1~5 

 風景9397 2001720023 

『現代短歌と天皇制』出版余話               

  大塚会会報   20018

戦後短歌をめぐって(シンポジウム<現代短歌を問う>短歌と戦争・誌上参加)

   短詩形文学   20018 

女性歌人たちの敗戦前後―短歌雑誌・女性雑誌における位置づけをめぐって

   阿木津英・小林とし子との共著『扉を開く女たち』(砂子屋書房)所収  

20019

書評『昭和短歌の再検討』歌壇の現状把握は的確だが・・   

図書新聞    200198

短歌メディアは「老い」をどうとらえてきたか       

   短歌      200112

書評『海越えてなお』(小塩卓也)-海外在住者の短歌ワールドを知る楽しさ

図書新聞    2002313

『ポトナム』時代の坪野哲久                

月光76  20022 

書評・田中綾著『権力と抒情詩』              

短歌往来    20025 

座談会「大塚金之助の短歌を語る」(武田弘之・水野昌雄・三井修)             

大塚会会報   20025

書評・古島哲朗著『現代短歌を<立見席>から読むⅡ』-批判精神、持続の貴重さ

短歌ミューズ  2002.新緑号

勲章が欲しい歌人たち12 

  風景100101  2002911

書評・碓田のぼる著『占領軍検閲と戦後短歌・続評伝渡辺順三』 

短歌新聞    2002610

短歌作品・遺影のコサージュ(八首)

  短歌朝日    2002.9・10

書評・坪野荒雄『戦ひは勝つべきなれや―歌人坪野哲久の銃後

―哲久を継ぐ者の苦悩と矜持と 

短歌往来    200210 

ベルギーそしてパリー近代歌人の足跡をたどる12  

 風景103104  200335

辞書・事典と私、基本的な情報は、やはり          

図書新聞    200345

書評『大正天皇の<文学>』(田所泉)

―天皇の和歌、その内心を探ることの危うさ

  図書新聞    2003524

スイスからウイーンへ12 

  風景106~107 2003911

天皇の短歌は何を語るのか―その政治的メッセージ性      

短歌往来   20042 

天皇の短歌の政策補完性―福祉・環境・防災政策の貧弱さは超えられない

  風景109 20043 

天皇の短歌は国民に何を伝えるのか、その濃厚な政治的メッセージ

―沖縄・平和への願いは届くのか

  風景110 20045 

歌集『野の記憶』(ながらみ書房)  2004.6

家族愛―子へ        

『あなたに贈る愛の花束・短歌』(北冥社編刊)  20046

会員文庫・歌集『野の記憶』(醍醐光子)   

国立国会図書館OB会会報35 200491

溢れ出た女たちの戦争詠―若山喜志子と斎藤史の場合

  渡辺澄子ほか編『女たちの戦争責任』(東京堂出版)所収  2004.9

「くれなゐ」考―喜志子と苳三と

  風景113   200411

書評『無限』(市原克敏著)の果てに

  林間 200412.

八人歌評(小中英之『過客』)  

   梧葉      2004.秋号

新聞私史 

  風景114  2005.1

書評『ヨコスカ』(梅田悦子著)

  短歌往来    2005. 2

“婦人雑誌”に登場した歌人たち―「溢れ出た女たちの戦争詠」補遺

  風景115 20054

書評『歌と戦争』(櫻本富雄著)                

 図書新聞   2005611

短歌作品・花のひいらぎ(8首)

  短歌往来    2005.7

正田篠枝(女性は戦いをどう歌ってきたか・特集)  

  短歌研究    20058

戦争を語ろう・現在進行中の戦争について、できること 

  85  200510

書評『昭和天皇の<文学>』(田所泉著)         

  図書新聞    20051119

[詩歌句・短歌手帳] 20042005年版 各一首  

 200412~                                                                                                               

内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか(上)(下)

  ポトナム    200612

歌人の妻たち、どう歌われたか・高安国世 

  ポトナム   20063

歌人の妻たち、どう歌われたか・太田水穂1・2 

  ポトナム   200645

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書評『昭和天皇の文学』(田所泉著)

『昭和天皇の<文学>』書評

天皇の「和歌」は「公文書」ではなかったか

本書の第一部には、一九九七年刊行の『昭和天皇の和歌』(創樹社)を収め、後半の第二部には、「昭和天皇の表層と深層」と題して、その後『新日本文学』などに発表した論文と書き下ろしの論考を収めている。二〇〇三年刊行の『大正天皇の<文学>』と対をなすものでもある。昭和天皇が、皇室伝来の発信方法である「和歌」に盛り込もうとした気持ちや思想を、「何を、いつ、どのように詠んだか」によって分析しようとする著者のスタンスは旧著以来変わらない。作品鑑賞、文学的アプローチを「あえてとらなかった」という。皇族の作品ということだけで、心情的で、史実を曲げてまでの「深読み」が横行するなか、警鐘の書でもあろう。

第一部は、昭和天皇の短歌を主題別に天・地・人・心の章に分けるが、並ぶ「声調」の章では、破調、とくに字余りの和歌に着目しているのが興味深い。没後の御製集『おほうなばら』(一九九二年)の収録八六五首のうち三六〇首に及ぶといい、人名・地名・動植物名などを几帳面に詠み込んでいることがそのおもな理由であり、それが昭和天皇の和歌の特色でもある。敗戦前後で変わらぬ「声調」が昭和天皇の個性の強靭さをも物語っている、とも分析する。

・この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひは深し

(八月十五日 一九八六年)

この歌は、日付を添えて、一九八六年の作品として前記御製集に収められた、天皇晩年の一首である。その前年の八月一五日、官房長官の私的諮問機関の懇談会の報告を受けて、中曽根康弘は首相として初めての「公式」参拝に踏み切った。一九七九年に発覚したA級戦犯合祀問題も絡まり、アジア諸国の反発が強まり、一九八六年からは中曽根首相の公式参拝はもちろん、以降、歴代首相においても参拝自体が見合わされていた。そんな前後の事実の背景もあるのだが、著者は、この一首について、徳川義寛『侍従長の遺言』(一九九七年)における「合祀がおかしいとも、それでごたつくのがおかしいとも、どちらともとれるようなものにしていただいた」のくだりを紹介し、天皇の歌に手を加え、「政治性を帯びたものにならないよう」にする配慮があったとする(一二九~一三〇頁)。

ちなみに、天皇の作歌過程に手が入ったり、公表時期を操作したり、公表を控えた歌が別の資料から見出されたりといった事実は、侍従次長だった木下道雄、侍従長だった入江相政など、いわば側近の日記にもいくつか散見できる。

著者はさらに、第二部収録の「プロパガンダとしての『御製』」において、敗戦直後二年間の昭和天皇の「和歌」がどのように制作され、流布されたかを照射することによって、変容しつつも連綿と続く「天皇制」とそれに貢献したマス・メディアの役割に言及する。また、「くやしくもあるか昭和天皇」においては、つぎの二首を手がかりに「公式に戦争責任を認めたことがなかった。開戦責任はもとより、敗戦責任も」(二四六頁)認めたことのない昭和天皇の「くやしさ」とは何であったのかと心の深層を読み解こうとする。

     戦をとどめえざりしくちをしさななそぢになる今もなほおもふ

(一九七一年)

・やすらけき世を祈りしもいまだならずくやしくもあるかきざしみゆれど

  (八月十五日 全国戦没者追悼式 一九八八年)

 

読み解いても、読み解いてもなお闇を残し、心の襞には分け入ることができない著者の戸惑いは、公表された歌が「天皇制」の維持・「天皇」の存在を内容とする「公文書」と割り切らないところに原因するのではなかったか、と私は思っている。序章「動機と方法」において、著者が「和歌」にこだわるのは、詔勅などの文書、生物学関係著作、記者会見記録、側近によって残された発言などに比べ、「和歌」こそがその作品数、時機に合わせた公表など、代作者の存在を否定する傍証があるからだという(二〇頁)。しかし、著者自らも検証しているように、代作はなくとも、制作・公表過程が分かりにくく、作品の修整、公表作品の選択、公表時期の操作などの痕跡はあるのだから、私は、天皇の「和歌」も「公文書」とみなされるのではないかと考えている。たった三十一文字の、いや字余りも多い「公文書」である昭和天皇の「和歌」が「文学」たり得るのは作者が皇籍を離れ、自由な批評に曝されたときではないのか、と思うのが本書への率直な感想であった。

(『図書新聞』20051119日掲載)

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書評『歌と戦争』(櫻本富雄著)

<『歌と戦争―みんなが軍歌をうたっていた』>書評
歌と権力との親密な関係―容認してしまう人々への警鐘

 

敗戦直後、疎開先から焼け跡のバラックに移り住んだ筆者の家族は、停電になるとよく歌を歌った。小学校低学年であった私は「みかんの花咲く丘」や「とんがり帽子」を、年の離れた兄たちは「りんごの歌」(サトウハチロー作詞/万城目正作曲)をはじめ「湯の町エレジー」(野村俊夫/古賀政男)「三百六十五夜」(西条八十/古賀政男)「東京の屋根の下」(佐伯孝夫/服部良一)などを好んで歌った。父が得意の「ゴンドラの歌」や母が歌う「船頭小唄」はあまり好きになれなかったことなどを思い出す。

本書は、戦時下の軍歌や戦意昂揚の歌の数々を担った作詞家・作曲家・歌手たちのほとんどが、間断なく、上記のような敗戦後の歌謡曲の担い手として活動している事実を検証し、歌に関わる表現活動の責任を問う、力のこもった著作である。それらの表現活動に介在した軍部、役所、新聞社などとあわせてレコード、ラジオ、映画などのメディアにかかわった人々を照射し、戦時下の「歌」の全体像とその本質に迫る書でもある。第一部軍歌の本流・公募歌、第二部戦時下の音楽社会、第三部翼賛に邁進した作詞家と作曲家たち、第四部子供の軍歌・浸透する翼賛運動、から構成される。

いわば「仕掛け人」たる主催者が発信する「公募歌」が隆盛を極めるのもこの時代の特色である。第一部では一九三七年から一九四五年までの「公募歌」が時系列で分析されているが、そのリストを一覧するだけも息苦しさを覚える。大本営発表の「勝ち戦」やその犠牲者を称える戦時歌謡が目白押しで、入選作を補作したり、自らの詩を提供したりした作詞家のサトウハチロー、西条八十、野村俊夫、佐伯孝夫らの名前が幾度となく登場し、戦時下に没した佐藤惣之助、北原白秋もその晩年の足跡をしっかりと残している。曲の方も、古賀政男、古関裕而、服部良一、万城目正、中山晋平ら一部の作曲家にかなり集中していることが明らかになる。第二部では、NHKラジオによる「放送軍歌」、「国民歌謡」の放送、官製の音楽会や合唱会の開催による普及活動、歌手たちが果たした役割などを掘り下げる。第三部では、上記の作詞家・作曲家らを個々の人物中心にその表現活動と責任を追及する。なかでも、音楽界のリーダー的存在であった、山田耕筰、堀内敬三らの「活躍」ぶりには目を見張るものがある。日曜日の朝、堀内敬三の名曲解説「音楽の泉」を親しく聞いていた世代としてはかなり衝撃的な内容であった。第四部では、「少国民」世代である著者の実体験も交えて、子供たちが歌った歌、歌わなかった歌、歌わされた歌などが紹介される。戦時下における児童文化人を総動員した「日本少国民文化協会」とNHKが共催で「ミンナウタヘ」大会なるものが全国的に展開され、「日本のあしおと」「進め少国民」「愛国行進曲」など五曲が課題曲とされた。大会の趣旨には「放送により全国の少国民をして同一歌曲を同一時に唱和せしめ音楽を通して少国民の団結を強化し大東亜建設の意気を旺盛ならしめ併せて歌唱力の向上に資せんとす」と記されているという。現在の教育現場における「君が代」の強制、声量調査などにみる体質との共通性を見出し、慄然とするのである。

著者が「あとがき」でも述べる「戦時下の文化人が各自の戦中言動(表現活動)を、戦後どのように継承し、それを自己の人間としての営為にどう反映しているか、いないか。戦後の文化人が、そのような文化人の言動をどのように評価しているか、いないか」の検証は、執拗なまでの資料博捜に支えられている。さらに、著者は、ことさらに事実認識と歴史認識を区別した上、持って廻ったような難解な言い回しでの自著への批判や「権力の走狗として率先して旗振りをした者と、動員されてしまった者との責任の質の違いを明確にする必要」を強調してその表現責任を限りなく曖昧にして認めようとしない言説への目もきびしい。

著者は、これまで、さまざまな分野の文化人たちの表現者としての責任を問い続けてきた。資料の発掘・収集にかける熱意と経済的負担は計り知れず、大学を根拠地としない「野」にある研究者であるところにも着目したい。たった六〇数年前までの日中戦争の時代の「不都合」を振り返ろうとしない、そればかりか「なかったことに」したい人たちが勢いづいている昨今、このような著作が生まれたことは意義深い。また、本書は著者のホームページ「空席通信」上の連載をまとめたものであるが、今後の精力的な取り組みにも期待したい。

なお、同じ曲名や人名が数か所で語られることが多いので、整理の上、相互参照や索引が付せられていたら、より読みやすかったかもしれない。

(『図書新聞』2005年6月11日掲載)

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2006年2月15日 (水)

戦争を語ろう

少しさかのぼりますが、200510月に発表したものです。

シリーズ「戦争を語ろう」

現在進行中の戦争について、できること 

     

はじめに

一九四五年九月の専門学校の繰上げ卒業を目前に敗戦を迎えた長兄は一九歳だった。空襲のさなかの東京で父と兄は池袋の小さな店を守るのが精一杯であったろう。四月一三日の空襲で池袋の家は焼出、小学生だった次兄はすでに「縁故疎開」しており、母と私も後を追って母の生家に転がり込んでいた。千葉県佐原の駅で再会した父も長兄もよれよれの姿で、荷物といえば端が焼け焦げた小さな肩掛けかばんと一本の手ぬぐいだけだった。父と兄は、はぐれないようにと手ぬぐいで手と手を結び、焼夷弾の落ちる川越街道を板橋の農家まで走りに走ったという。これはあとで知ったことだが、父が残した書類の中から、一九四五年四月一四日付け池袋警察署長名発行の「罹災証明書」が出てきた。

そんな当時のことも長兄から聞いておきたかったのだが、その兄も六〇回目の八月一五日を迎える直前、闘病の末、他界した。最後の入院となった三ヵ月間、週に二・三回は見舞いながら、そういった話は持ち出さずじまいとなった。兄の葬儀が行われたのは川越街道沿いの重林寺会館であったが、その重林寺が疎開先から戻った私が通った小学校の仮校舎だったのだ。一九四六年、その本堂に長い机を並べ、前後の壁に黒板を立てかけて二教室とし、鐘楼ではお母さんたちが給食の煮炊きをしていたのを覚えている。手洗いは墓地のそばに粗末なものが建っていたのを思い出す。

私は一九四〇年生まれだから、太平洋戦争についても、わずかな体験、いや記憶しか持ち合わせていない。一九四五年八月十五日以降の戦後体験こそが私自身が語れる「戦争」なのだと思う。しかし、その体験すら記憶の闇に消えようとしているのがわかる昨今となった。断片的に書き散らしたものはあっても、系統的な記録がないと焦りつつ、とりあえず、遡及的に、逆年順にでもいいではないかと考えるようになった。

そして、私が「先の戦争」について書き終える日の到来を願いつつ、いまは、進行中の戦争について、私自身ならびに周辺での出来事を書き記しておきたい。

意見広告、2004122

 二〇〇四年一二月二日は、私にとって忘れがたい日となるだろう。

つぎのような顛末がある。二〇〇四年四月、イラクで拘束された若い日本人三人が無事解放されて帰国した。さらにジャーナリストの男性二人も拘束されたが、解放され帰国した。その折、政府・メデイア主導の「自己責任論」による彼らへのバッシングはすさまじいものがあった。テレビの前でいくら「おかしいぞ」と異議を唱えていても何も変わらない。そんな風に夫も考えたのだろう。職場の大学で有志たちと「イラクから帰国された5人をサポートする会」をネット上で立ちあげた。バッシングの理不尽と(政府から)請求されている帰国時の航空運賃一九八万円)のカンパを訴えたところ、六〇〇〇人を超える署名と多数のメッセージが寄せられた。五一一万円を超える募金も集まった。この間、議員会館内の二回の記者発表と集会、政府への申し入れ、七月二四日東大の階段教室を会場にシンポジウムを開催し、テレビ朝日「朝まで生テレビ」の自己責任バッシング誘導アンケートの不当を申し入れ、中止させるなどの活動がなされた。集会には、イラクで拘束された、郡山総一郎さん、渡辺修好さん、シンポには高遠菜穂子さん、世話人会には今井紀明さんなどが飛び入りで参加し、元気なメッセージが発信された。そして、あからさまな自己責任論によるバッシングもやや流れを変えてきたような様相が、メデイアなどによって報じられるようになった。

しかし、イラク戦争の状況はいっこうに変わらず、戦争の犠牲者は日々増加している。さらに、アメリカ軍によるイラク人捕虜虐待が明らかになり、アメリカ軍によるファルージャでは虐殺にも近い無差別攻撃が続き、日本の自衛隊の派遣延長が実施されようとしていた。そのさなか、活動を終えようとした「サポートする会」の世話人メンバーに市民運動グループの代表者などが加わり、「自衛隊のイラク派遣を打ち切るよう求めます」の意見広告を新聞に出すという活動が展開された。要綱がまとまったのは一一月中旬を過ぎてからであり、今回は毎日新聞朝刊の全面広告料金八〇〇万円という高額の目標がある。延長期限の一二月一四日、閣議決定日程の前でなくてはならない、という厳しさがあった。私個人も世話人の一人の傍らにいながら、新聞への意見広告にどれほどの効果があるのか、カンパの目標額はかなりきついのではないかという不安がつきまとった。しかし始まった以上は成功させなければならないという思いは世話人たちと一緒だった。夫は、再び睡眠時間二・三時間の生活が始まった。郵便振込の通知や銀行振込の記帳に緊張する日々である。私も昔の職場の友人たち、短歌の仲間たち、自治会活動をともにした町内の人たち、大学やゼミの友人や恩師にいたるまで、声をかけさせてもらった。しかし、誰にでも声がかけられるものではない。ずいぶんと迷いながら、話をし、手紙をし、電話をし、ファックスをした。ネット上で知っていたという人、声をかけてくれてありがとうという人、黙って振り込んでくれる人、さまざまであったが、ほとんどの方に協力していただくことができた。この間、ゼミの先生を囲む小さな飲み会があったので恐る恐るチラシを見せたところ、近代政治思想史専攻の八〇歳に近いM先生、私が退職後社会人入学したとき天皇制研究会に誘ってくれたI先生、その日初めてお会いしたゼミの先輩のM先生、「こんなことしかできないから」と快く協力してくださったのはありがたかった。刻々と入る募金情報、直接お願いしたわけではないのに、国会図書館時代の懐かしい名前があったので 電話を入れてみると、なんと毎日新聞の小さな記事を見てとのことだった。こういう思いがけない出会いもこの上なくうれしいできごとだった。娘は、名前は出さなくていいよ、とボーナス前だというのに思いがけない大枚を振り込んでくれた。

広告の最終紙面編集、賛同者募金者名簿の打ち込み・整理は、数人の世話人の個人的作業となる。工学部院生Oさんは、研究室で朝の五時まで名簿整理にあたった。そして迎えた一二月二日の全面意見広告、東京版では第六面である。天木直人さん、高遠菜穂子さんの写真とメッセージ、自衛隊の給水活動の実態を伝えるグラフ、復興支援という戦場の写真、小泉首相のついこの間の発言との齟齬を糾弾、等々。何よりも一〇〇〇名を超える賛同者の名前は圧巻で、この名簿一覧を初めて目にしたときの感動は忘れがたい。 世話人たちの名前が小さすぎたのでは、との声も。カンパもあと一息、七〇〇万を超えた。

 翌一二月三日は、臨時国会閉幕の日でもあったが、急に決まった議員会館会議室での記者発表・報告集会にはマスコミ、議員秘書を含めると四〇人にも及んだ。

2005110日、成人の日、日比谷に集う

 何十年ぶりだろう、日比谷公園。大噴水の周りには、新しいベンチ、いつかテレビで紹介されていた「思い出ベンチ」が並んでいた。夫は、日向ぼっこをしている野良猫たちに声を掛けているが、私は、思い出ベンチの方に引き寄せられる。ベンチの思い出こそないが、昭和二〇年代、池袋第五小学校時代、日比谷公会堂での合唱コンクールで、

豊島区

代表で舞台に上がったことがある。実に熱心な先生がいらしたのだ。学生時代や東京で働いていた時にはさまざまな集会で来たことがある野外音楽堂、すり鉢状に並んだいすの列は、冬の陽を浴び、当時の面影を残していた。

三連休の最終日、天気はすばらしいが、冷え込みはきびしい。松本楼のランチも魅力で、夫に誘われ、「変えよう!強制の教育 学校に自由の風を 大集会」の日比谷公会堂にやってきた。一時間前の開場を待つ人、ビラをまく人、「弁護士」の赤い腕章をした数人も立つ、ものものしい雰囲気の入口付近。懐かしい思いに浸るのは束の間、おびただしい数のチラシには、教育現場のなまなましさ、恐ろしさが立ち上がり、これらの現実に抗い、戦っている人々の姿が重なる。始まった舞台の八人のリレートークで、地域と立場を超えた、重い現実が語られ、アピールが続く。君が代を拒み、処分にさらされた教師本人や支援の教師たちによる朗読劇「学校現場から」のドキュメントは、どんなテレビ番組よりも迫力があって、今日の君が代問題の沿革を浮き彫りにしていた。李正美さんの歌声に魅了され、「新しい歴史教科書」を使っての体当たり寸劇に大笑いした。青木悦さん、高橋哲哉さんの講演も会場の熱気に圧倒され気味であった。最後に活動現場からの六人の短いながらも力強いアピールに、一九〇〇人の参加者は三時間にわたる集会の疲れも吹っ飛んだのではないだろうか。しかし、翌朝の新聞には、一行の記事も出なかったが、しばらくして、赤旗の一面トップに載っていたよ、と友人からのメールが届くのだった。

200525日、「ぜんぶ」見せられなかった集会

 その日の集会は午後二時からであったが、夫とともに八時半には家を出た。今日の集会はもともとが二〇〇一年放映NHK・ETV特集番組の改変問題を裁判で戦っているVAWWネット(戦争と女性への暴力日本ネットワーク。従軍慰安婦問題における天皇の責任を女性国際戦犯法廷で問うなどの活動を続けている団体)が、カット前後のフィルムを「ぜんぶ見せます」のキャッチフレーズのもと番組自体を検証しようという企画であった。NHKへの政治圧力介入問題で、東大教員有志が「政治の介入排除、報道の自由を守れ」という趣旨の声明を出していたところから、会場を借りられないかとの打診があったらしい。「ぜんぶ見せます」のチラシはなかなか元気のいいものだったが、番組をそのまま流すのは著作権に違反するとか、日常のNHKでは考えられないような横槍が入った。番組の海賊版でビジネスをするわけでもないし、観覧料をとるわけでもない。後から考えると、ラグビーの試合中継直前に審判の胸にある「朝日新聞」のロゴがあることに気づき、一時中継断念にいたったラグビー協会とのトラブルにおける「朝日新聞憎し」の子供じみたNHKの仕打ちと共通する。集会が近づくと、大学の事務局にはさまざまな嫌がらせ・中傷・妨害などの電話やファックス、メールが入ったそうだ。

会場控え室には院生のOさんも駆けつけての進行表や分担表作成、夫は共催のVAWWネットの面々、弁護士などと打合せを始めた。同時に会場前に一二時集合のボランティアの方々は直ちに受付、案内、警備などの配置についた。VAWWネットのメンバーは手慣れたもので、来るかもしれない右翼には「にこやかに、しかし毅然と、お引き取り願え」という。赤門から会場のある建物周辺入り口、受付近辺には、いろいろ年代の男性たちが立ち並んだ。どういう人たちなのか、彼らと親しげに話す人に恐る恐る聞いてみると、「“はんてんれん”ですよ」という。「ハンテンレン?」、「反天連」、反天皇制のサークルの人たちだという。心強い反面、妙な雰囲気でもある。総括しているのが天野さんと名乗っていらしたから、反天皇制の著書を何冊か出されている天野恵一氏にちがいないと納得した。

 定刻の二時には、三〇〇人の大教室はすでに満席。私は、開始前後、受付付近や赤門近くで二時間近く案内に立った。大学で同じ専攻だった、一期下の二人にも会えた。それぞれ、大学、高校で教師をつとめていたが、会うのは私の結婚式以来?である。在学時代は、数少ない女子学生同士、何かと励ましあった仲であった。短歌の研究会仲間も予定を変更して友人を連れての参加。また、『女たちの戦争責任』の在野からの数少ない執筆者であったHさんともネット上で知り合い、今日はじめてお会いする。赤門前では、案内板を持ちながら、飼い犬の話で盛り上がったのも、なんとなくおかしかった。夫がJALの機長組合の裁判を手伝ったことから、私も傍聴席で顔見知りになった機長さんが声をかけてくださった。会場に戻ると通路もいっぱいの盛況で、とくに妨害もなく、会は淡々と進められていた。女性国際戦犯法廷にかかわった弁護士の話はやや冗長すぎたが、法廷の記録映画では初めて教えられることも多かった。カットされた部分の検証には、もっと時間をかけたかった気がしないでもない。吉見俊哉教授、姜尚中教授のスピーチには短時間ながらまとまってはいたが、追っかけ的?ファンも多いらしく心得た登場・退場に拍手起こる。夫は、まさに裏方に徹していたが、最後の友好団体のアピールで、政治家への事前説明の廃止、放映番組の公開が約束されるまでは「受信料支払いを停止する会」の呼びかけを行った。やれやれ、ほんとうに無事に終了した。アメ横で軍払い下げの防弾チョッキでも買ってこようかと心配したのもうそのように穏やかに、熱気あふれるなかで解散した。しかし、VAWWネットの事務局が防護用と思われる大きな座布団を二枚、最前列の席に用意している現実もこの目で見てしまっている。ご苦労さん会もあるというが、私は犬が待つ家へと急ぐ。

 その後も、マスコミのニュースやワイド番組で、安倍晋三や中川昭一のキャンペーンのみが一方的に流され、露出度の高い彼ら、うそでも数言えば勝ちみたいな風潮が定着するのは、こうした問題の定番でもある。マス・メディアは自分自身の問題として、もっと持続して本質に迫って欲しい。

 集会の翌週二月八日は、NHK受信料支払い停止の会では、一〇人近く連れ立ってNHKへの要望申入れをおこなった。当初は

NHK記者クラブで記者会見をと、記者たちに進められたが、NHKはさすがに断ってきたそうだ。仕方なく、NHK前のホテルでの会見になったが、スポーツ紙、英字紙も含め、一〇社近い新聞社と日本テレビのカメラが入った。当日の午後から日テレ系のニュース専門チャンネルでは数時間にわたり一〇回近く流してくれていた。近所の友人からメールや電話が入ったが、地方ではどうだったのだろうか。翌日の新聞各紙では(読売・産経を除く)、どこもまじめに扱ってくれたし、その後、受信料、NHK問題に関連する特集などで取り上げてくれることもあったのはありがたいことだった。

夫は二月の半ば、発熱、とうとうダウンした。そばで見ていても、昨年来、総務省の審議委員“解職”問題、長野県外郭見直し委員会答申提出後の田中知事との問題、イラクでの拘束者支援・自己責任論によるバッシング問題、イラク派兵延長阻止運動など矢継ぎ早の活動となった。睡眠時間を極度に割いての、まさに身を削っての活動にハラハラしどうしだった。一年分の睡眠を取り戻すかのようによく眠っていた。

(『掌』85号、200510月に掲載)

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2006年2月13日 (月)

ミニコミ記事「母校が消えた」ほか

2006年2月13日

 今日より「内野光子のブログ」をはじめました。手始めに佐倉市女性井戸端会議によるミニコミ誌「すてきなあなたへ」最近3号分の私自身の執筆文を載せました。近く記事全文も公開する予定です。

卒業して半世紀!  母校が消えた?

 本当に久しぶりに、小学校のクラス会に出かけた。56年担任の恩師は、地方の師範学校卒業後上京し、小学校に赴任してはじめての卒業生が私たちであったという。先生は定年前に辞められてはいるが、日々画業に専念し、毎年デパートで開かれる個展も30回になる。クラス会でいつも話題になるのが、休日にはよく写生に連れ出してくださったことだ。近くの重林寺だったり、水道タンクだったり、豊島園だったりした。写生コンクールに入賞し、朝礼で校長先生から表彰された友人たちも多かった。また、学芸会では、先生の自作脚本による劇でクラスの友人たちの思いがけない能力や演技を引き出されるのを目の当たりにした。友人たちは、こうした「晴れがましさ」をいまだに語り続け、中には自分の進路に大きな影響を与えていたと述懐する。1クラスが60人を超えていた時代であった。

 話は飛ぶが、ここ数年、井野中のミニ教育集会に参加している。学校の教育実態や地域や家庭の教育力が検証される大事なチャンスと思うが、地域からの参加者が少ない上に、十年一日のごとく、「地域や家庭でも生徒たちは元気に挨拶していますか」という話に落ち着き、まずは挨拶からはじめましょう、と集会は締めくくられる。学校側も地域の声を聞こうという姿勢よりは、余計なことは口出しするな、当たり障りのないところで終わらせたいというスケジュール消化の意図が見え隠れする。井野中に入ると、たしかに声ばかりが大きい挨拶を浴びせられ、戸惑うことも多い。中学生と大人たちの間に、体育会系風の挨拶よりもっと大切なことがあるに違いないのだ。わが子が通学していた頃の井野中の教師の対応にも悩まされたが、そのときの雰囲気ともどこか違ってきている昨今である。

 クラス会では、私たちの母校が、今年、廃校になったと知らされた。近くの小学校と統合され、新たな校名でスタートしたという。昭和20年代の小学校や中学校は、教室に子供たちが溢れていた。家庭や地域にしても「明るく元気に」に挨拶などしていただろうか。私たちはいつもお腹をすかし、底が見えないほど汚れた銭湯の湯につかり、親の自転車が盗まれたとなれば、近所中が一緒になって探し、茶の間の6畳に夜はびっしりと布団が敷かれた。塾もない、パソコンもない、もちろんテレビもない放課後は日が落ちるまで外遊びに興じた。思春期になれば、ろくに返事もせず、抗い、時には荒れて、大人たちは「何も判っちゃいない」という気持ちを秘めながら成長していったような気がする。(M)

(「すてきなあなたへ」44号、2006年1月21日発行)

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     市議会の傍聴って、意外と面白いかも!

―井野東区画整理組合の開発をめぐる質疑―

 9月市議会で、区画組合による井野東開発、中学校駅付近の盛り土が2回も崩落した。その件について2名の議員が質問するという。一般質問の内容は、議会開会前にあらかじめ発表される。質問事項は、市議会棟入り口に置いてあり、議会事務局では議員名簿や会派別名簿なども入手できる。

 913日当日、議会事務局に寄って記帳し、議場の傍聴席に入る。ときどき、CATVでみるあの無機質で退屈そうな演題を見下ろす。議員席は身を乗り出さないと見えない。慣れた傍聴人は少し袖の方にまわるらしい。議員席も横から見渡すことができるからだ。1年生議員は最前列、何期も務めている議員ほど後方の席になる。最後列で私語が目立ち、最前列には足を投げ出している、見覚えのある議員もいるではないか。テレビでは映ることのない光景である。

 10時から、道端園枝議員の質問。前半はアスベスト問題、後半で、井野東開発の問題を取り上げていた。説明会打ち切りの不当性と話合いの必要性、盛り土・産廃処理の安全性などに及んだ。市長や都市部長の答弁は歯切れが悪い。それでも盛り土の高さと傾斜を再考するよう組合を指導し、今後も指導する旨、明言した。組合・山万関係者も録音機を携えての傍聴であった。

 午後からの児玉正直議員の質問に備えて、市役所の食堂で、ラーメンを食べておく。議員は、組合の住民説明会や住民との話合いが頓挫していることに着目、マンション紛争に対応するために制定された佐倉市の「斡旋条例」―紛争の当事者の間に行政が入って調整・斡旋をはかる―のような立法政策を質したのだった。将来的に開発過程、土地造成における紛争解決にも適用できるようにしたい、というものだ。市長は、立法にはいたらないが、実績としてすでに斡旋の労をとった例もあるし、井野東の場合も担当が斡旋・調整に努めている、との答弁。たしかに、市の仲介で住民代表と組合との話合いが続いているのという。その成り行きを見守りたい。

 翌14日の藤崎良次議員の場合、事前提出の質問事項には、井野東の文字はなかったが、前日、市役所の担当課に立ち寄ったら、藤崎議員も調べていましたよ、とのことで、傍聴することになった。今日は組合関係の傍聴者もいない。議員は、盛り土崩落に対するモノレールの安全対策をただす中で、改修部分の具体的な数値を引き出したが、私たちもはじめて知る内容だった。

具体的な答弁を迫られる担当部長の発言には、よく間違いや不足があるらしく、事務局がひな壇の管理職の後ろを行き来してはメモを渡し、耳打ちをしているのがよく見えた。もっとまじめにやってくれ! 2日にわたる市議会傍聴、地元のことだったからか、緊張感もあって、貴重な体験だった。たまには市議会をウォッチせよ! (M

☆☆☆こんな映画も見てきました☆「ベアテの贈りもの」☆  この夏、岩波ホールで、「ベアテの贈りもの」(藤原智子監督)を見てきた。「女性が幸福にならならなければ、世界は平和になりません」が持論で、若き日、日本の憲法の起草に関わったベアテ・シロタ・ゴードンさんは、現在元気な81歳である。世界的なピアニスト、レオ・シロタの娘として在日も長かった。憲法24条「男女平等」を基点に日本の女性が残した足跡を人物中心に語るドキュメンタリー映画。“出演”した友人は、婦選会館資料室で資料の整理・検証にあたっているが、市川房枝の息の長い地道な活動を語っていた。懐かしさも手伝い、新憲法で育った私の生い立ちにも重なる一本だった。

 (「すてきなあなたへ」43号、2005年10月31日)

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井野東の開発は安全なのか

一晩70ミリの雨で崩れた盛り土  75日から6日にかけて、佐倉では70ミリ強の雨が降った。早朝、モノレールが宮ノ橋から中学校駅へのカーブをきるところ、アネシスマンションの前の盛り土が植栽ごと崩落していたのだ。宮ノ台3丁目側、中学校駅内側の盛り土も崩れた。717日組合の説明では、植栽のつつじを植え過ぎたこと、植栽がない方の崩落は土塁の上に水がたまったことが原因であったという。その後の復旧工事の物々しさ、いまひとつ納得いかないまま元に戻されている。そういえば、あの植栽は、「福祉の街」(青菅)にオープンする老健施設「優都苑」お披露目イベントの510日、直前のニワカ工事だったことを思い出す。

昨年7月から778台分の産廃を運び出す  今、井野東土地区画整理組合の事務所へ行けば、前記盛り土に二方囲まれた第4工区の産廃処理関係書類を見ることができる。だが、まさに閲覧のみで、コピー1枚とることができない。資料を「開示しています」と胸を張る組合、なぜ、複写がいけないのだろう?!閲覧の結果、かねてより私たちが心配していた、かつて投棄されていたテレビや冷蔵庫、自転車などの産廃の行方―コンクリートがら6,325トン、アスファルトがら598トン、金くず80トン、廃プラスチック60トン、木くず250トン、混合廃棄物90トン、トラックにして778台分もの産業廃棄物が昨年の7月から今年の1月にかけて中間処理場に運び出されていた。その残土66,000㎥がこの第4工区の造成に利用されているというわけだ。土質・水質検査の数値に問題はないという書類もあったが、投棄されていた産廃の量に圧倒され、正直なところ、「安心・安全」は吹っ飛んでしまった。いま、他の場所でも、同様のことが行われている。第3工区B(西谷津公園隣接)から産廃が運び出され、残土は第2工区(北公園隣接高台)の造成に利用されている。厳しいといわれている佐倉市の「残土条例」も、土地区画整理事業区域内では適用されない。「安心・安全」を標榜する山万が業務代行ならば、むろん工事費はかさむが、産廃を含む残土ごと処理場に処理を託すというより安全な方法はあったのである。

なぜ住民への説明会を打ち切ろうとするのか  717日の説明会で、ようやくわかりかけた盛り土の“経済性”。まだ解けない疑問や不安も多いなか、説明会終了間際の「以降、説明会は打ち切る」という組合側の暴言に住民は怒った。組合も、土地の7割を持つ地権者で業務代行の山万も、誠意をもって答えてほしい。

 (「すてきなあなたへ」42号、2005年8月18日発行)

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