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2007年3月27日 (火)

マイリスト「短歌の森」に『戦後における昭和天皇の短歌―その政治的メッセージとは(3)

今回は、「敗戦直後に天皇が詠んだ四首の行方」と題して検証したい。
・海の外の陸に小島にのこる民のうへ安かれとただいのるなり

敗戦直後に天皇が詠み、新聞発表された一首であるが、この一首には他の原作があったらしい。どういう経緯でこの表現に落ち着いたのか。また、同時に他にも三首詠まれたとするが、国民が知るのはずっと後のことである。天皇の短歌が歌集に収まったり、除かれたりする思惑や操作をたどってみたい。

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2007年3月23日 (金)

映画『日本の青空』を見て

たった一枚の前売り券だったが

春分の日とて、結構寒い朝だったが、新憲法制定秘話とでもいえる『日本の青空』上映日、午前の部に、佐倉市民音楽ホールまで出かけた。ホールは9割方の埋まりようで、なんとなくほっとした。このところ、NHKETV特集やニュース23でも取り上げられた鈴木安蔵が主人公の劇映画である。個人や団体のカンパによっての制作が早くより話題とはなっていた。私はたった1枚の前売りを買ったに過ぎないが。

敗戦直後、194510月末に経済学者の高野岩三郎(加藤剛)の提唱でスタートした憲法学者鈴木安蔵(高橋和也、私は男闘呼組時代の彼を知らない)ら民間の識者グループによる「憲法調査会」、1226日には練り上げた「憲法草案要綱」を政府とGHQに提出した。民主的な憲法としての先進性は、GHQ草案の下敷きにもなったことが次第に明らかにされていく。新しい憲法がGHQから一方的に押し付けられたものでないことをいくつかの挿話で淡々とつづっていく。その物語を進めるのが、出版社の若い女性派遣社員(田丸麻紀)と恋人のフリーターだ。少し頼りないのだが、親しみやすい目線なのかもしれない。

わが青春?の思い出とともに

鈴木安蔵をめぐるわずかな思い出を、このブログにも書いたが、映画を見て否応なくわが青春時代を思い起こさせられた。狂言回しの若い2人が調べに出かけた先が、国立国会図書館であった。国立国会図書館は私が結婚前の11年間勤めた職場である。しかも、憲政資料室は、私が属していたレファレンス部局の法律政治課付きの特別室であった。この課には、もう一つ幣原(喜重郎)平和文庫という特別室もあった。毎週土曜日の午後の利用者のために、少人数で切り盛りしていた「ケンセイ」や「シデハラ」の超勤要員としてローテーションで出向くことが多かった。その憲政資料室には、現在、占領期のGHQ検閲資料「プランゲ文庫」のマイクロフィッシュの閲覧に時々出かけている。幣原「平和」文庫と名づけられた所以は、戦時・講和外交のベテランであったからか、憲法9条が幣原・マッカーサー会談の結果であったからか、図書館職員になったときの研修で聞いたか聞かなかったか、とうに忘れてはいるが、天皇制維持との関係で9条がその会談で議題になったことは確かなようである。

映画で加藤剛ふんする高野岩三郎の「民間でもいくつかの憲法草案が手がけられている・・・」というセリフの中に、「文理大の稲田正次先生も憲法草案を起草しているらしい・・・」というくだりがあった。私が稲田先生の憲法の講義を受けたのは1959年から。当時も、明治憲法制定史が専門の先生が日本国憲法案を起草した話は聞いたことがあったが、私のみならず学生たちはたいした関心を示さなかったのも確かだ。いま、あらためて調べてみると、稲田私案は19451224日に、政府の憲法問題調査委員会(松本丞治委員長)に宮沢俊義委員を通じて提出、その内容は英国にならって君民同治主義、米国を習って人権保障の拡充を主眼とし、条文化にあたっては尾崎行雄、岩波茂雄、海野晋吉らと憲法懇談会を設け、19463月に国務相に提出している。立法権を天皇と議会に認め、新たな参議院の設置、違憲審査権などが大きな特徴としてあげられている。

この稲田懇談会私案は35日に発表というから、まさに、政府がGHQ案に基づいた政府原案―松本調査委員会案をGHQに提出、その場で協議を開始、30時間余に及ぶ委員会とGHQ間の攻防のさなかでもあったのだ。36日には、日本政府の「憲法改正要綱草案」として成立、発表という経緯がある。

白州次郎は格好よく描かれてはいたが・・・

映画では、この30時間余の攻防をかなりの時間を割いて再現していた。政府原案をあきらめざるを得ないと悟った松本委員長は中座し、あとは草案起草実務担当の法制局部長の佐藤達夫、内閣終戦連絡事務局次長でもあり、通訳を務めていた白州次郎(宍戸開)らがその任にあたる。

白州次郎は、近衛秀麿、吉田茂とも親しく、政界・財界に確固たる存在感を示したというが、妻で、日本文化に造詣の深いエッセイスト白州正子とともに、最近は熱烈なファンも多い夫婦である。その貴族趣味は私には無縁であるが、当時では珍しく、語学堪能の上、国際感覚を身に着け、上流の品格を備えもった人物であったのだろうか。映画ではややミスキャストの感は免れないが。

 映画を見終わった、その日の午後、同じ町内の友人から、電話が入った。「いま、白州次郎を読んでいるんだけど、憲法のことで分からないことが出てきたの」という。何という偶然!『白州次郎―占領を背負った男』(北康利著 講談社 2006年)というその本も面白そうだ。少し前に読んだ半藤一利『昭和史』も厚い割には、講演風で読みやすかったが、白州などは何と書かれていたものか、また、ページを繰ってみよう。

今回は都留重人と鈴木安蔵に会いに来る場面のハーバート・ノーマン。いつも気に掛っている人物なのでいずれしっかり調べたい。 (2007323日)

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2007年3月21日 (水)

マイリスト「野の記憶―日記から」に「ディベロッパーに取り込まれるメディア」を登載しました

3月14日朝、朝日新聞の2頁全面の山万の広告に驚いた。その内容にもまた驚かされるのだが・・・
(目次)
毎度おなじみのイメージ広告
スポンサーに取り込まれるメディア・研究者たち
地元開発業者と自治会と住民と・・・
広告媒体としてのメディアの責任

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2007年3月17日 (土)

マイリスト「すてきなあなたへ」に50号を登載しました

1998年1月に、地域の主婦4人で創刊したミニコミ誌「すてきなあなたへ」が50号を迎えました。読者との交流会を開きその模様も収録しました。
(目次)
こんな市長がほしい!!―前我孫子市長、福嶋さんの話を聴く―
歳末の香港~~”黄金の豚年”を迎える
菅沼正子の映画招待席 No.22「オールザキングスメン」―人間の権力欲とは、どこまでおぞましいものなのか―
50号記念!読者とのおしゃべり会~これからの「すてきなあなたへ」、たくさんの意見をありがとう
編集後記

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2007年3月11日 (日)

昨3月10日は忙しいことに・・・

昨日3月10日は、朝から忙しいことになった。飼い犬ウメの散歩を終えて、近くの公園で40分ほどの太極拳に参加。六段錦で天を突くとき、一片の雲もない空の青さに心洗われるような気分がなんとも爽快だった。

千葉市の短歌の仲間からのファックスで、「けさの大岡信『折々のうた』に醍醐志万子さんの作品が載っていました」とのこと。あわてて朝日新聞を抜き出しての一面。作者の醍醐は連れ合いの長姉で、先ごろ、生家の丹波篠山よりわが家から5分ほどのマンションに転居したばかり。直後に刊行された9番目の歌集『塩と薔薇』(第1歌集から第4歌集までの自選500首収録)から「人の負ひ目やすやす衝ける幼子を幼子のゆゑわれはゆるさず」の一首が採られていた。さっそく本人に電話とファックス、朝日新聞は購読していないので、販売店に配達を頼む。普段の私の日課から言えば、4紙の朝刊を読み始めるのは11時ごろからだから、ファックスはありがたかった。

私自身のブログの更新がたまりにたまってしまって、何とかしなければと思っていた矢先、ちょっと心配なこともあって、人間ドックの予約もしなければならない。

午後、近くの犬友たちが「お宅のチビちゃんと同じメニエール病で倒れた13歳のラブラドールの飼い主」という知り合いを連れてきて、「チビちゃんが元気になった時の治療法などを聴きたい」という。この1月に2度目に倒れて、遂に亡くなった16歳のチビは、1年前突然メニエール病で倒れ、立ち上がることも、食事も排泄もままならなかったのだが、3週間くらいの投薬と点滴などにより立ち直った経緯がある。そして去年の春から秋にかけては、かなりの回復ぶりで、ご近所からもよく「治ってよかったね」と声をかけられていた。家での点滴係を務めた連れ合いも加わって、犬の介護の話しとなった。チビの祭壇の桃の花がだいぶ散ってきた。もう桜の季節がやってきたのだもの、亡くなってちょうど2ヶ月で経ったことになる。門の側ではウメが神妙な顔で、大人たちの立ち話に聞き入っていた?

『朝日新聞』2007年3月10日
「折々のうた」
(画面をクリックすると拡大表示されます)

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2007年3月10日 (土)

3月10日、東京大空襲から62年~わが家の罹災証明書発見~

今日、墨田区横綱公園の都慰霊堂で法要が開かれ、その様子はテレビや新聞でも報道されていた。それに先立つ39日には、東京大空襲遺族らが政府を相手取り、謝罪と賠償を求めて東京地裁に提訴した。民間人の戦争被害については、「すべての国民が等しく受忍しなければならない」とする1987年の最高裁判例はあるが、法の下の平等と外国の補償制度を軸に据えて、犠牲者の記録もないまま放置を続けた政府の責任を明らかにするという。この成り行きはしかと見守りたい。

 私が疎開先の千葉県佐原(現在香取市内)から眺めた遠い東京の赤い空、その記憶がぼんやりと甦るのだが、それがいつの空襲であったのか定かではない。当時、池袋で薬局を営んでいた父と薬学専門学校に通っていた長兄を残して、母は小学生の次兄と4歳の私を連れて、佐原の実家に疎開をしていたのだ。その後池袋の家は空襲で焼き落ち、その焼け跡に父と長兄はバラックを建て、薬局を再開したのが1946年春だったと思う。その年の7月に私たちも疎開先から戻って、久しぶりに家族全員揃っての暮らしが始まったことになる。

その池袋の家が何度目かの建て替えをしたとき、すでに父母は他界し、わたしも家を出ていたのだが、長兄から頼まれて、物置のガラクタを整理しに行ったことがある。その折持ち帰った荷物の中から、敗戦前後のわが家の記録とも言うべき書類がいくつも出てきた。私は書類の中から10センチ四方にも満たない、大きい罫紙を切った裏紙に空色インクの謄写文字が消えかかった「罹災証明書」を見つけた。私の生家が焼け落ちたのは、罹災月日昭和20年(1945年)413日とあり、はじめて知ったのだった。罹災地に家の住所、世帯主と罹災人員数、翌414日の日付で池袋警察署警部三好某の名と捺印があり、その朱色ばかりがやけに大きく鮮やかである(写真参照)。


 書類の中には、疎開先の佐原信用組合の昭和
20519日付け「報国貯金通帳」があり、519日に弐円、619日に弐円預け入れ、残高4円と記帳されているが、裏表紙の元利金領収欄が空欄である。ということは払い出しをしていないということだろうか。当時の4円って、どれほどのものだったのか、知りたくなった。

 

 池袋空襲罹災証明書
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報国貯金通帳
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マイリスト「野の記憶―日記から」に、「ミニコミ誌『すてきなあなたへ』は何を目指すのか~50号を記念して読者との交流会を開きました~」を登載しました

当ブログのマイリストに登載するミニコミ誌『すてきなあなたへ』が次号で50号を迎えます。それを記念して、日ごろ声をかけてくださる読者とのおしゃべり会を3月8日に開催しました。スタッフ3名とあわせて14人の参加者、スタッフの創刊の思いから始まり、読んでの感想が語られました。市政ウォッチの運動にかかわる読者からは、情報発信だけに終わっていいのかというきびしい意見も出されましたが・・・。

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