『すてきなあなたへ』は何を目指すのか~50号記念!読者とのおしゃべり会
井野中の桜が、もう三部咲きにもなった 3 月 8 日昼下がり、宮ノ台 1 丁目の「諸古羅亭」にて、 何かと声をかけてくださる『すてきなあなたへ』の読者、日ごろ配布などで協力いただいている 方々と編集部との交流会を開催した。出席は総勢 14 人、女性 9 人だった。お住まいから言えば、 宮ノ台、ユーカリが丘、中志津、臼井、稲荷台、白銀にわたった。会場のお店は、元公文教室を 改装して、アンテイークなテーブル、蓄音機、カメラ、和食器、和服などがあしらわれ、オーナー手作りのチョコレートケーキに珈琲もおかわり出来るというしゃれた喫茶室だ。まだ、昭和の 内裏様とかなり古い小さなお雛様が飾られていた。なかなかにぎやかなおしゃべり会となった。 編集部からは、まず、創刊 1998 年 1 月、「主婦という名で束ねないでください」と地域の情報 とオピニオンの発信を目指して宮ノ台井戸端会議の 4 人で立ち上げた沿革から話し始める。1999 年度には佐倉市の「“夢のまちづくり”さぽーと事業」として補助金の交付を受けたが、以降は、 わずか 1600 部の発行ながら、誘いの多かった広告もとらず、スタッフ 4 人と有志のカンパで乗 り切ってきた。
2002 年 7 月、30 号より菅沼正子さんの「映画招待席」を新設。現在は 3 人のス タッフが編集・印刷・配布を分担している。宮ノ台全域への戸別配布に加えて、近隣のコミセン、 公民館などの公共施設、郵便局などに配置をお願いしている。今後は、独立したブログを立ち上 げ、インターネット上の発信も実現したい旨も明らかにした。 創刊時のスタッフからは、期せずして、1996 年ころ、自治会執行部による拙速な自治会館建設 案に端を発し、湧き起こった反対運動を実らせた住民としての体験を大切にしたかった思いが語 られた。『すてきなあなたへ』という誌名の提案者でもあった I さんは、その後、引っ越された が、久しぶりに顔をみせてくれた。なお、当初参加予定だった「映画招待席」の執筆者菅沼正子 さんが急用のため欠席となり、私も久しぶりに会えるのを楽しみにしていたが残念だった。菅沼 さんは、私の大学時代の同級生のお連れ合いで、知り合ったときは、すでに『スクリーン』の記 者として活躍していた。その後フリーの映画評論家となって、『スター55』(1996年)『女 と男の愛の風景』(1996年)『エンドマークのあとで』(2001年)などの著書を持ち、数 年前、ラジオ深夜便土曜日には、宇田川清江さんと掛け合いの映画音楽コーナーに出演していた。
参加者には自己紹介を兼ねて、『すてきなあなたへ』とのかかわり、読んでの感想などを話してもらった。後のフリートーキングは、談論風発、地域のミニコミ誌のあり方、市民運動のあり 方、市政・国政批判にまで及び、ご自分たちの経験を交えての話は熱く、力がこもっていた。『すてきなあなたへ』に直接触れる感想や意見は、50 号に載せるべく、ただいま整理中である。 今回のおしゃべり会で、印象に残った意見と私の感想を書きとめておこうと思う。出席の男性 の多くは、いずれもすでに仕事は退き、数年前から佐倉市の市政を監視しようと発足した会の 方々で、年4回の市議会傍聴、その報告を兼ねたミニコミ誌を刊行している。継続的に読んでい たわけではないが、佐倉市の広報や「市議会だより」ではわからない部分への切込みが鋭い。 お一人からは、私たちのミニコミ誌の情報の確かさと発信の熱意には共感するが、何か具体的 に行動に移しているのか、という問いかけのようだった。配布にしても、一方的な戸別配達より、 街頭で顔の見える相手に手渡しする方が反応も分かって有効ではないかと。 私たちのミニコミ誌の創刊の主旨からして、ミニコミ誌での発信を続けながら、スタッフは全員、自治会の役員となり数年にわたって深くかかわった。一人は連絡長を務めた後は、福祉委員、 防災委員、井野東開発対策協委員として行政と地域のあり方を探り続けている。一人は、地区計画策定委員となり、長い間、地権者の一人であるデイベロッパーのしたたかさを目の当たりにしながら、条例化に努力、最近では地域協働によるまちづくりの懇談会公募委員を務めた。私自身 は、自治会長を2期務め、他の役員とともに役員選出の改善、広報の拡充、社協・日赤会費納入 の自由化などともに、井野東開発の情報開示・行政への要望・広報などに努めた。近々では、情 報公開審議会公募委員、井野東開発対策協委員などを務めている。いずれも3人は地元自治会や 審議委員などを務めることによって行政とかかわらざるを得ず、行政を監視するとともに、改革 をめざしたいという思いは根強い。行政の壁は厚いが、根気よく持続する力が決め手となるだろ う。そうした場で得た情報は、ミニコミ誌の記事にもかなり反映されていると思う。
参加者のお一人は、職場のしがらみから解放された退職後、はじめて自由に発言や行動が出来るようになった。団塊の世代の人には頑張ってもらいたいという主旨のことを話された。ウーン、 これは少しちがうのではないか。うまくはいえないけれど、そのときになって、どんなに自由に 過激なことを言われても、もう遅い。第一「安全地帯」からものを言ったところで、どのくらい 説得力があるものか、という疑問すらよぎる。現役時代は会社に奉仕し、退職後は地域にデビュ ーして世のために貢献するという構図の限界が見えはしないか。「気付いたときから立ち上がる」 精神が大事ではないのかな、と思う。「そりゃ、理想論!理想は分かるけどね」と一蹴されたのだが。「会社の中心で反体制を叫べ」といっているわけではない。一人でも、家族の中でも、地 域においてでも、できることはたくさんあるはずなのに。私の周辺の女性はすでにそれらを会得している場合が多いような気がする。もっとも、退職後はいきなり、そば打ち、防犯パトロール に精を出し、地域の役職について、行政の下請けに嬉々としている人たちは論外なのだが。
店を出ての帰り道、宮ノ台から引っ越された I さんと話しに夢中になっていると、道路の向う から呼び止められた。なんと野菜の引き売りをされている井野の石川昭次さんではないか。なにやら腕にいっぱい野菜を抱え、「これ、持っていけ」というのだ。よく見ると根っこが紅色鮮やかなほうれん草と巨大なブロッコリーである。石川さんは、私たちのミニコミ誌のインタビュー にも登場願ったことがあり、なかなかきびしい読者でもある。農薬に工夫をし、佐倉炭の伝統を 守る炭焼きもし、かつては政府の減反政策に自らの田んぼに「コメクエクエ」などの稲文字で抗議を続けてきた気骨の人でもある。Iさんも宮ノ台に住んでいたころは、週 1 度回ってくる石川 さん夫妻から野菜を買っていた。仕事で忙しかったかもしれないが、石川さんも今日のおしゃべり会に声をかけるべきだった、と気付くのだった。(3 月 10 日記)
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