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2007年3月10日 (土)

3月10日、東京大空襲から62年~わが家の罹災証明書発見~

今日、墨田区横綱公園の都慰霊堂で法要が開かれ、その様子はテレビや新聞でも報道されていた。それに先立つ39日には、東京大空襲遺族らが政府を相手取り、謝罪と賠償を求めて東京地裁に提訴した。民間人の戦争被害については、「すべての国民が等しく受忍しなければならない」とする1987年の最高裁判例はあるが、法の下の平等と外国の補償制度を軸に据えて、犠牲者の記録もないまま放置を続けた政府の責任を明らかにするという。この成り行きはしかと見守りたい。

 私が疎開先の千葉県佐原(現在香取市内)から眺めた遠い東京の赤い空、その記憶がぼんやりと甦るのだが、それがいつの空襲であったのか定かではない。当時、池袋で薬局を営んでいた父と薬学専門学校に通っていた長兄を残して、母は小学生の次兄と4歳の私を連れて、佐原の実家に疎開をしていたのだ。その後池袋の家は空襲で焼き落ち、その焼け跡に父と長兄はバラックを建て、薬局を再開したのが1946年春だったと思う。その年の7月に私たちも疎開先から戻って、久しぶりに家族全員揃っての暮らしが始まったことになる。

その池袋の家が何度目かの建て替えをしたとき、すでに父母は他界し、わたしも家を出ていたのだが、長兄から頼まれて、物置のガラクタを整理しに行ったことがある。その折持ち帰った荷物の中から、敗戦前後のわが家の記録とも言うべき書類がいくつも出てきた。私は書類の中から10センチ四方にも満たない、大きい罫紙を切った裏紙に空色インクの謄写文字が消えかかった「罹災証明書」を見つけた。私の生家が焼け落ちたのは、罹災月日昭和20年(1945年)413日とあり、はじめて知ったのだった。罹災地に家の住所、世帯主と罹災人員数、翌414日の日付で池袋警察署警部三好某の名と捺印があり、その朱色ばかりがやけに大きく鮮やかである(写真参照)。


 書類の中には、疎開先の佐原信用組合の昭和
20519日付け「報国貯金通帳」があり、519日に弐円、619日に弐円預け入れ、残高4円と記帳されているが、裏表紙の元利金領収欄が空欄である。ということは払い出しをしていないということだろうか。当時の4円って、どれほどのものだったのか、知りたくなった。

 

 池袋空襲罹災証明書
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報国貯金通帳
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コメント


国民電波洗脳による、テレビ、新聞、週刊誌、ラジオ等の、嘘八百の洗脳情報と、嘘と騙しの仕掛けと、策略に満ち溢れた世の中で、思考停止状態にある日本人は、自分自身の脳、すなわち思考そのものを点検せよ! 騙しと、策略の煽動に乗せられるな! 我々はハッ、と気付いて、いや、待てよ! と立ち止まり、常に注意深く、用心深く、警戒し、疑いながら生きれば、騙されることはない。 全ての常識や事柄を疑うべきだ!

投稿: 脱国民洗脳はベンジャミン・フルフォード | 2020年6月22日 (月) 09時20分

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