マイリスト「短歌の森」に「戦後における昭和天皇の短歌―その政治的メッセージ性とは(4)」を登載しました
昭和天皇の「松上雪」をめぐって
・ふりつもる雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ(年歌会始「松上雪」)この昭和天皇の一首をめぐって、今日までさまざまな読み方をされてきた。たとえば、沈没した戦艦武蔵から奇跡的に生還した元少年兵渡辺清は著書「砕かれた神」において・・・、また小泉元首相は、施政方針演説で・・・。
昭和天皇の「松上雪」をめぐって
・ふりつもる雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ(年歌会始「松上雪」)この昭和天皇の一首をめぐって、今日までさまざまな読み方をされてきた。たとえば、沈没した戦艦武蔵から奇跡的に生還した元少年兵渡辺清は著書「砕かれた神」において・・・、また小泉元首相は、施政方針演説で・・・。
一泊の旅、横浜へ―急いで調べたいことがあった
元町汐汲坂ガーデンのラブラドール
放送ライブラリーで考えたこと
「GHQ原爆プレスコード」(中国放送1980年放映)
「神と原爆浦上カトリック被爆者の55年」(長崎放送2000年放映)
「言葉の戦士 黒岩涙香と秋山定輔―明治新聞人の気概を知りたい」展
雨の中華街、夜の埠頭
朝の大桟橋―鯨のせなか
クスノキは残った―横浜開港資料館
CAFE de la PRESSEのランチ
「可決、先にありき」ではないか!
憲法改正手続きを定める国民投票法案が、4月13日衆院を通過した。3月15日衆院憲法調査特別委員会での3月22日公聴会開催決定、4月12日の委員会での強行採決。衆院通過の夜、私はユーカリが丘に住む知人から、この自公多数の暴挙に「さくら・志津憲法をまもりたい会」はどんな抗議をするのか、というメールをいただいた。テレビのニュースに怒るしかなかった私は返事に窮し、残念ながら、今月下旬のニュース発行と5月3日の街頭活動の計画をお知らせするしかなかった。
有効投票の過半数で改憲できるなんて?
この手続き法案の審議過程で、このような拙速をなぜ許してしまったのか。あの形式的な一日だけの公聴会ってナンだったのかと思うし、すでに今年2月には自公の国会関係幹部の間で自公の単独審議・可決もやむなしの合意があり、「可決、先にありき」があまりにも露骨であったのだ。また、その内容においても問題は多い。例えば1)将来もし憲法改正原案が両院の3分の2以上の賛成を得、国民投票に問われるとして、「広報協議会」が立ち上げられ、60~180日間の周知・広報が展開される。その協議会委員の員数も国会議員の政党分布に拠る。2)投票日の2週間前までは、ラジオ・テレビのCMには規制がないから改憲派の財力が物を言うのは必至だ。そのCMの中身だって課題は多い。3)改憲が成立するのは有効投票数の過半数を超えればよいとしているから、投票率が低い場合は絶対数が極端に少なくても改憲が可能になる。今回の法案では最低投票率の設定がないからだ。私は、60年以上守り続けた憲法なのだから、変えるとしても有権者数の過半数は必要だとさえ考える。他にも公務員の活動規制、内閣の改憲原案提出権なども重い課題だ。少なくとも参院では慎重な論議のうえ、白紙に戻し廃案にしてほしい。
廃案の意思表示を!
今回通過の国民投票法案の骨子は何かについてメディアはその問題点を事前にきちんと報道してこなかった。いつものパターンながら、通過してから、俄然解説的な報道が増したりする。おまけに、温家宝中国首相の国会演説やアメリカでの松坂・イチロー対決の日にあわせ、さらには34年前の北朝鮮拉致事件でさえこの時期に公表というのは、国民投票法案の関連報道時間・紙面を作為的に減らして、相対化させようとしているのではないかと勘ぐりたくさえなる。こうした状況の中で、今度の市長・市議選挙においても、改憲問題をどう考えるかを判断材料の一つにした。夏の参院選挙でもそうだ。市民が自由に改憲問題について語り合える場を作り出していくことが重要だと思うし、本誌もそんな役割を担いたい。 メールをくださったユーカリが丘の知人は、翌日、国会議事堂まで出かけ、抗議の意思を表示されたそうだ。私には少々耳の痛いことだった。(4月18日記)(『さくら・志津憲法9条をまもりたい会ニュース』5号 2007年 5月所収)
研究所のサクラ
高尾山のそばに名所があるのよ、から始まった太極拳メンバー5人のお花見ツアーである。見ごろ、日程、交通などは若いメンバーにおまかせ。バス停7時40分集合、お弁当も現地で買いましょうと。本八幡からの都営新宿線、京王線の調布乗換えで高尾駅下車、10時25分。目的地はどうも多摩森林科学園というところらしい。熟年の男女が列をなして歩道をふさぐ。甲州街道の国道20号線の角にあるコンビニに入って昼食を調達、トイレも拝借。10分ほど歩いた入り口で400円の入場料と引き換えにもらった冊子には、「この森林はすべて研究施設であって、公園ではありません」とある。順路に従えば両側に広がる樹林の中で、さまざまな色合いのサクラが競うように咲き誇る。根方の名札と幹に括りつけられた小さな名札をみれば、御車返し(ミクルマガエシ)、駒繫(コマツナギ)、白妙(シロタエ)、御衣黄(ギョイコウ)、衣通姫(ソトオリヒメ)・・・、これまで聞いたこともないようなみやびな名前が並ぶ。梢にたわわな大輪の花に名札を読み直したり、濃い紅色の花に見入ったり、ソメイヨシノ・カワズサクラ・オオシマサクラ・ウスズミなど名札に出会ってほっとしたりしながら、谷あいから山への細い散策路を行く。250種1700本以上のサクラの保存林は森林総合研究所の観察の対象というわけである。このあたり一帯は、小田原の北条氏が南下してきた武田軍を迎え撃った古戦場だという。そういえば駅前の店には風林火山の小旗をつけたみやげ物を売っていた。江川太郎左衛門が治めていた地でもあったが、明治になって宮内省に編入、1921年帝室林野管理局の試験場となった。たしか、敗戦直後の昭和天皇は「帝室林野局の農林省移管」と題する短歌を数首詠んでいるはずだ。移管が1947年4月、新憲法施行5月3日の直前だったろうから、天皇自身の身の振り方が落着して安堵と余裕が感じられる短歌でもあった。
・ うつくしき森をたもちてわざはいの民におよぶをさけよとぞおもふ
・料の森にながくつかへし人々のいたつきおもふ我はふかくも
登りきったところからは八王子市街も望める。本格的な望遠カメラと三脚を担いだカメラマンが行き交い、見どころとなればカメラマンが並び、人の流れをせき止めることもある。ところどころに設置された丸太のベンチの一つに陣取り、コンビニ弁当を開けば、崖に群生するスミレやムラサキケマンの花にも気付く。ときどき野イチゴが白い花を咲かせている。弁当のゴミを捨てるところがとうとう見つからなかった。持ち帰れということなのだろう。
今回は樹木園や森の科学館の見学は省略して、歩くにはちょうどよい花曇りとて、せっかくなので多摩御陵まで足を伸ばすことになった。
参道のミツバツツジ
明治天皇・皇后の陵は、桃山御陵と呼ばれ、連れ合いが京都に単身赴任しているときの住まいが、桃山町泰長老であったこともあって、何度か訪ねたことがある。御陵と聞けばあの広大な玉砂利の参道と深い木立を思い出す。大正天皇・貞明皇后、昭和天皇・香淳皇后の陵は、ここ八王子にあって、天皇陵としては初めて関東地方に置かれたことになる。通称は多摩御陵だが、武蔵野陵墓地と呼ばれ、案内板などもそう書かれている。いずれは訪ねたいところであった。森林科学園を出、高尾街道に沿ってすぐに南浅川を越える大きな橋がある。土手沿いにはしばらく見事な枝垂れサクラが続くが、橋は渡らずに、陵の杜に沿った路地を進むとケヤキ並木の参道に出る。たしかに広い参道だが、桃山のそれには及ばない。正面に大正天皇、その東側には貞明皇后の陵、上円下方墳で、大きな台座に白いお饅頭がのっているような格好で、白木の鳥居が時を刻む。参拝の人はまばらだが、「何の説明もないじゃないか。こんな石一つでは、いつ亡くなったかもわからねえ。若いヤツにはなおさらわかるまい」とぼやいていた年配の男性がいた。たしかに、陵の右手に「大正天皇陵」の石碑が建つだけで、案内板があるわけではない。他の三基の陵も同じ。事務所でパンフレットを配っているわけでもなさそうだ。そっけないものだな、と私も感じる一方、これでいいのだろうとも思う。参道沿いには、木々の芽吹きがはじまるなか、いちだんとあざやかなピンクの花をつけている潅木がある。葉よりも先に花をつけるツツジ、ミツバツツジと教えてもらう。
予報どおり、なんとなくあやしい空模様に帰路を急ぐことになった。それでも民家の庭などをのぞきながらこんなところに住むのも悪くないね、などと勝手を言いながら歩く。この辺りは「廿里町」と書いて「トドリチョウ」と読むらしい。秩父から10里、鎌倉から10里に位置するからというのが由来だ。帰宅後、ネットで調べると、この町は、森林科学園・御陵と南浅川の間にあって、二つの南側を包むように広がる面白い形をしている。さらに、東へと南淺川沿いに進むと陵南公園があり、サクラの名所でもあるらしい。1927年に完成した多摩御陵の参拝者のために、1931年に御陵線が開通したのだが、1945年1月には運行休止となり、そのまま廃線になったという。当時の橋梁などが残っているそうで、ネット上には、鉄道マニアによるレポートも多い。たんなるノスタルジアだけでなく、私も今度は、少々調べた上で、ゆっくり出かけてみたいものである。
雨がぽつりと落ち始めた5時10分、帰宅、長い一日であった。
(2007年4月11日)
『砕かれた神』に引き込まれる
昨日と打って変わっての穏やかな日差しにほっとするが、きょうは、東京の病院に内視鏡検査結果を聞きに行かねばならない。時間指定なしの予約だからと覚悟をして持参したのは、読み損なっていた文庫本、渡辺清(1925~1981年)の『砕かれた神』だった。沈没した戦艦「武蔵」から奇跡的に生還した、20歳の元少年兵が敗戦直後に書いたという日記である。8・15の2週間後には、富士山麓の一家で農業を営む生家に復員するが、集落19軒のうち、半数の家から戦死者を出しており、自分だけ生きて帰ってきた自責の念に加えて、村人をはじめ、中央の政治家や軍人、天皇の変わり身の早さに苛まれながら、懊悩する日々を送るさまが見て取れる。固有名詞が錯綜するのが日常というものなのだろう。天皇のためにすべてを捧げてきた兵士として、敗戦後の天皇の去就は彼にとっては理解しがたく、国民へ謝罪する方法として自決か退位が当然と信じている彼の気持ちは、天皇とマッカーサーが並んだ報道写真をみて頂点に達する・・・。2時間待って名を呼ばれ、まさに3分もかからない検査結果説明。『砕かれた神』の迫力と「異常なし」の結果に免じて、気持ちをおさめ、病院を出た。
ついでに上野の葉桜と展覧会と
パリのオルセー美術館には二度ほど訪ねているが、いずれも2・3時間余りのことなので、また出かけたいと思っている。思い出の名画と東京で出会うのも一興であろうと、桜は大方散ってしまった上野公園に入るが、会期末の都美術館はとてもそんな雰囲気ではない。入場5分待ちまではよかったが、部屋によっては満員電車並みの混みようである。人の肩越しの絵にはいらいらしながらも、すいているところから気ままに覗いて歩く。カタログはやたら重いので購入しないことにしているし、音声ガイドもまず借りたことはない。
今回の構成は、「19世紀 芸術家たちの楽園」と副題が付いているだけに、私が興味を持ったのは、画家たちの家庭環境に焦点をあてた「Ⅰ.親密な時間」と表情豊かな画家たちの静かなたたずまいを伝える「Ⅳ.芸術家の生活―アトリエ・モデル・友人」の作品群であった。ベルト・モリゾの「ゆりかご」のモデルは彼女の姉と姪という。ドガは踊り子ばかりを描いていたわけではなく、家族へのまなざしがあたたかい。スイスの画家ヴァロットンの童画を思わせるような「ボール」は、公園の一角でもあるのだろうか、つば広の黄色の帽子をかぶった女の子が赤い小さなボールを追っている姿が俯瞰で捉えられている。画面の上半分は大きく枝を伸ばした樹木とその蔭が暗い。その広い蔭の端から2人の婦人が女の子を見守ってでもいるのか、小さく描かれている。初めて知った絵ながらどこか懐かしい。
「芸術家の生活」のもとに集められたのは、アンリ・ファンタン・ラトゥール描く、マネのアトリエに集う画家たちの群像。説明を読んでみると、カンバスに向うマネのめぐりにはモネ、長身のバジール、エミール・ゾラ、マネの背後からカンバスをのぞくルノワールもいる。バジールが描いた自分のアトリエには、自身を中央に描くとともに、マネ、モネ、左手の階段の途中のゾラと下に座るルノワールとが話し合っている様子が描かれている。右端でピアノをひくのは画家たちの共通の友人のメートルがいる。彼らが、熱く語り合った後のふとした瞬間なのだろうか、各人の姿勢と表情は異なるが、自然で自在ながら満足げなのである。ルノアールが描くモネ、バジール。マネが描くベルト・モリゾ、ドガが描くマネの肖像。そして、会場には幾枚かの自画像も散在するが、その表情の厳しさに息詰まるような緊張感がもたらされる。
部屋の隅に立つ係員はお客に聞かれたのか、今回の出品作はいつパリに戻るのかをケイタイで問い合わせているのに出遭った。たしかに海外出張で“お留守”の名画も多いにちがいないが、それもいいではないか。私にはこの都美術館が高齢者優待の入場料800円なのがありがたかった。
ついでのついで、国立博物館へ
数十年ぶりの、青い屋根の表慶館。案内板に拠れば、1908年、大正天皇の成婚記念だったというから、まさに明治の西洋館であった。目当ては、「レオナルド・ダ・ヴィンチ―天才の実像」展なのだが、春休みも最後とあって、やはり相当の混みようである。ダ・ヴィンチコードの小説も映画も知らないが、レオナルドに敬意を表しての1500円は高いかな。他分野での天才的な業績の一部を模型で見せるような仕掛けである。第1会場の「受胎告知」の細部にわたる説明にもあまり興味がわかなかった。
レオナルド・ダ・ヴィンチで思い出すのは、中学校の美術の伊東正明先生だ。一水会にも所属する水彩画を得意とする先生だった。1年次の担任でもあった。今は廃校の池袋第5小学校では、5・6年の担任が絵の好きな、後、白日会で活躍する乙黒久先生だったこともあり、入学後は美術部に入った。美術部では、それまで使用した画用紙の何倍かの大きさで、西洋の名画の模写をさせられたことを覚えているが、何か考えていたこととちがって、すぐに退部してしまった。とても純粋な心の持ち主の先生であることは分かったが、天才とか、優秀だとか、歴史に残る傑作とか少しオーバーな表現が目立つ美術史の授業が印象に残っている。そこに登場したレオナルド・ダ・ヴィンチ、先生はその天才振りを熱心に語ったのだったが、レオナルドが教皇軍の軍事顧問になって武器や戦車を考案したしたことをどこかで聞きかじった私は、単純にそれを残念がる感想文を書いた記憶がある。多弁な先生の赤ペンの1行が思い出せないのだが、あのころの先生はまだ若かったのだ。今回、伊東先生の名をネットで調べたら、1963年会員推薦、1973年会員佳作賞を受け、一水会創立50年の1988年すでに他界されていることが分かった。レオナルドの滑車も人体図もあまり身に入らなかった。鶯谷駅への近道は相変わらず、寺の石塀が重い、さびしく灯篭が傾いていたりしていたが、下水道再構築工事の真っ最中でもあった。
(2007年4月5日)
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