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2007年4月 7日 (土)

上野の葉桜と展覧会と

『砕かれた神』に引き込まれる

昨日と打って変わっての穏やかな日差しにほっとするが、きょうは、東京の病院に内視鏡検査結果を聞きに行かねばならない。時間指定なしの予約だからと覚悟をして持参したのは、読み損なっていた文庫本、渡辺清(19251981年)の『砕かれた神』だった。沈没した戦艦「武蔵」から奇跡的に生還した、20歳の元少年兵が敗戦直後に書いたという日記である。8152週間後には、富士山麓の一家で農業を営む生家に復員するが、集落19軒のうち、半数の家から戦死者を出しており、自分だけ生きて帰ってきた自責の念に加えて、村人をはじめ、中央の政治家や軍人、天皇の変わり身の早さに苛まれながら、懊悩する日々を送るさまが見て取れる。固有名詞が錯綜するのが日常というものなのだろう。天皇のためにすべてを捧げてきた兵士として、敗戦後の天皇の去就は彼にとっては理解しがたく、国民へ謝罪する方法として自決か退位が当然と信じている彼の気持ちは、天皇とマッカーサーが並んだ報道写真をみて頂点に達する・・・。2時間待って名を呼ばれ、まさに3分もかからない検査結果説明。『砕かれた神』の迫力と「異常なし」の結果に免じて、気持ちをおさめ、病院を出た。

ついでに上野の葉桜と展覧会と
 パリのオルセー美術館には二度ほど訪ねているが、いずれも2・3時間余りのことなので、また出かけたいと思っている。思い出の名画と東京で出会うのも一興であろうと、桜は大方散ってしまった上野公園に入るが、会期末の都美術館はとてもそんな雰囲気ではない。入場5分待ちまではよかったが、部屋によっては満員電車並みの混みようである。人の肩越しの絵にはいらいらしながらも、すいているところから気ままに覗いて歩く。カタログはやたら重いので購入しないことにしているし、音声ガイドもまず借りたことはない。

今回の構成は、「19世紀 芸術家たちの楽園」と副題が付いているだけに、私が興味を持ったのは、画家たちの家庭環境に焦点をあてた「Ⅰ.親密な時間」と表情豊かな画家たちの静かなたたずまいを伝える「Ⅳ.芸術家の生活―アトリエ・モデル・友人」の作品群であった。ベルト・モリゾの「ゆりかご」のモデルは彼女の姉と姪という。ドガは踊り子ばかりを描いていたわけではなく、家族へのまなざしがあたたかい。スイスの画家ヴァロットンの童画を思わせるような「ボール」は、公園の一角でもあるのだろうか、つば広の黄色の帽子をかぶった女の子が赤い小さなボールを追っている姿が俯瞰で捉えられている。画面の上半分は大きく枝を伸ばした樹木とその蔭が暗い。その広い蔭の端から2人の婦人が女の子を見守ってでもいるのか、小さく描かれている。初めて知った絵ながらどこか懐かしい。

「芸術家の生活」のもとに集められたのは、アンリ・ファンタン・ラトゥール描く、マネのアトリエに集う画家たちの群像。説明を読んでみると、カンバスに向うマネのめぐりにはモネ、長身のバジール、エミール・ゾラ、マネの背後からカンバスをのぞくルノワールもいる。バジールが描いた自分のアトリエには、自身を中央に描くとともに、マネ、モネ、左手の階段の途中のゾラと下に座るルノワールとが話し合っている様子が描かれている。右端でピアノをひくのは画家たちの共通の友人のメートルがいる。彼らが、熱く語り合った後のふとした瞬間なのだろうか、各人の姿勢と表情は異なるが、自然で自在ながら満足げなのである。ルノアールが描くモネ、バジール。マネが描くベルト・モリゾ、ドガが描くマネの肖像。そして、会場には幾枚かの自画像も散在するが、その表情の厳しさに息詰まるような緊張感がもたらされる。

部屋の隅に立つ係員はお客に聞かれたのか、今回の出品作はいつパリに戻るのかをケイタイで問い合わせているのに出遭った。たしかに海外出張で“お留守”の名画も多いにちがいないが、それもいいではないか。私にはこの都美術館が高齢者優待の入場料800円なのがありがたかった。

ついでのついで、国立博物館へ
 数十年ぶりの、青い屋根の表慶館。案内板に拠れば、1908年、大正天皇の成婚記念だったというから、まさに明治の西洋館であった。目当ては、「レオナルド・ダ・ヴィンチ―天才の実像」展なのだが、春休みも最後とあって、やはり相当の混みようである。ダ・ヴィンチコードの小説も映画も知らないが、レオナルドに敬意を表しての1500円は高いかな。他分野での天才的な業績の一部を模型で見せるような仕掛けである。第1会場の「受胎告知」の細部にわたる説明にもあまり興味がわかなかった。

レオナルド・ダ・ヴィンチで思い出すのは、中学校の美術の伊東正明先生だ。一水会にも所属する水彩画を得意とする先生だった。1年次の担任でもあった。今は廃校の池袋第5小学校では、56年の担任が絵の好きな、後、白日会で活躍する乙黒久先生だったこともあり、入学後は美術部に入った。美術部では、それまで使用した画用紙の何倍かの大きさで、西洋の名画の模写をさせられたことを覚えているが、何か考えていたこととちがって、すぐに退部してしまった。とても純粋な心の持ち主の先生であることは分かったが、天才とか、優秀だとか、歴史に残る傑作とか少しオーバーな表現が目立つ美術史の授業が印象に残っている。そこに登場したレオナルド・ダ・ヴィンチ、先生はその天才振りを熱心に語ったのだったが、レオナルドが教皇軍の軍事顧問になって武器や戦車を考案したしたことをどこかで聞きかじった私は、単純にそれを残念がる感想文を書いた記憶がある。多弁な先生の赤ペンの1行が思い出せないのだが、あのころの先生はまだ若かったのだ。今回、伊東先生の名をネットで調べたら、1963年会員推薦、1973年会員佳作賞を受け、一水会創立50年の1988年すでに他界されていることが分かった。レオナルドの滑車も人体図もあまり身に入らなかった。鶯谷駅への近道は相変わらず、寺の石塀が重い、さびしく灯篭が傾いていたりしていたが、下水道再構築工事の真っ最中でもあった。

                        (200745日)

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コメント

いえいえ全然失礼なことなどないですよ。
記事にしてもらってるだけでも嬉しい限りです。

何せ伊東家の間でも変人で有名な人だったそうですから(笑)

いきなりコメントなどしてしまいすみませんでしたm(_ _)m

投稿: 伊東景仁 | 2008年3月23日 (日) 16時39分

伊東景仁様
思いがけないメールに驚くやらうれしいやら、ありがとうございます。当時の付属中学校は小学校から上がってくる生徒も多く、公立小学校から中学校に入学した私は、何かと戸惑うことも多く、自信を失いかけていました。1年のときの担任でもあった伊東先生には、褒めていただきながら育てていただいたように思います。同期の友人とは、数は少ないながら今でもたまにあっておしゃべりする交流が続いております。
それにしても、ブログでは先生に少し失礼な言い方もしてしまったのかなあ、と反省しています。取り急ぎ。

投稿: 内野光子 | 2008年3月23日 (日) 12時06分

初めまして、伊東景仁という者です。
苗字でお分かりかと思いますが、伊東正明の親族です。
僕からだと祖父の兄が正明です。

もう随分前になくなっているのに、話が聞けてよかったです。
実家にはたくさんの絵画が今も残っていまして、ちょうど僕が生まれたのが1988年なので、どんな人だったかも知らないままでした。

ありがとうございました。

投稿: 景仁 | 2008年3月23日 (日) 06時28分

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