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2007年5月30日 (水)

マイリスト「短歌の森」に「戦後における昭和天皇の短歌―その政治的メッセージとは(5)」を登載しました。

1946年の歌会始「松上雪」における昭和天皇の短歌を紹介したが、新聞に発表されたもう一首の皇族の短歌は、
・よのちりをしづめてふりししら雪をかざして立てる松のけだかさ
であり、これは、大正天皇の節子皇后、貞明皇太后の作であった。しかし、この作品が昭和天皇・皇后の合同歌集『あけぼの集』には、良子皇后の作品として収録されていることが指摘されているが、訂正されることもなく今日に至っているのをご存知だろうか。

今回は、さらに敗戦直後、昭和天皇の退位をめぐる状況の推移のなかで発表されて天皇の短歌を探ってみたい。

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2007年5月14日 (月)

中原中也と千葉寺と

久しぶりの港の見える丘公園、そして中原中也と

 娘は9連休で遠出の予定もないということで、5月4日、横浜で落ち合うことにした。夫は出来れば新聞博物館に寄りたいということだった。

 昼食は早めに駅近くで済ませ、私はビール一杯の赤い顔をからかわれながら、港の見える丘公園に向かう。これまで私はこのフランス山には来たことがなかったのではないか。いくつかの階段ルートが整備され、フランス領事館跡や再現された井戸汲み上げの風車も新緑の木立に映えていた。登りきった先の港の見える丘公園からはベイブリッジを山下公園とは反対側から眺めることになる。快晴に恵まれ、人も俄然多くなる。KKR(国家公務員共済保養所)の庭園では、新郎新婦が挨拶に回っているようだった。神奈川近代文学館では「中原中也と富永太郎展」開催中、私たち3人とも格別のファンではないが、せっかくなので覗いてみることにした。2人の少年時代の恵まれた環境や優等生ぶりが強調され、通信簿や習字が並べられていた。中原中也(19071937)の文学的出発点は短歌であり、「婦人画報」では小学校6年のときに入選しているといい、中学生になると、地元紙「防長新聞」歌壇への常連投稿者となった。15歳には友人2人と合同歌集『末黒野』を刊行している。初期短歌より。

    筆とりて手習させし我が母は今は我より拙しと云ふ

    芸術を遊びごとだと思つてるその心こそあはれなりけり

    遠ざかる港の町の灯は悲し夕の海を我が船はゆく

文学熱が昂じて中学三年で落第、山口県から京都の立命館中学に転校。ここでダダイスト高橋新吉の著書から強い影響を受け、富倉徳次郎、富永太郎らとの交流も始まり、年上の長谷川泰子と同棲し始めたのが17歳であった。泰子をめぐる小林秀雄とのラブフェアは、これまでも断片的に聞いたことはあった。この夭折の詩人が、終生、詩作のモチーフとなした一件といえる。中也の作品は、ことばが平明な上に、その抒情性が愛される所以なのだろう。私は、アンソロジーで読んだ作品は数編であり、忘れられないフレーズが断片的に浮かんでくる程度の読者であった。

中村古峡記念病院と中也の晩年

 今回の展示を見ていて、終盤、「千葉寺」、「中村古峡療養所」の文字が飛び込んできた。私が千葉寺のハーモニープラザの歌会に通い始めて5年になる。京成の千葉寺駅、手前の車窓からも見える「中村古峡記念病院」の看板も気になっていたが、千葉中央駅からバスで行くときは、「中村古峡記念病院前」という停留所も通る。通い始めのころは「中村古峡って?日本画家の名前?」と思わないではなかったが、そのままに通り過ぎていたことになる。そして、今回の展示で初めて知るところとなった。中也の最晩年、193710月、結核性脳膜炎で亡くなるのだが、その年の19日から215日まで、この病院の前身である中村古峡療養所に入院していたのだという。中也は、前年11月、幼い長男の病死以来ショックのため神経衰弱を患っていた。この療養所の院長中村古峡は、「作業訓練を中心に当時としては画期的な治療を実践しており、その治療の一環として療養所の全患者に日誌を書かせ、回収した日誌に毎日目を通し、批評や説得を書き込んで、患者の手元に返して」いたという(「新収蔵資料・療養日誌」『中原中也記念館館報』2003年)。1999年、研究者の手により、古峡の遺品の中から中也の日誌が発見され、『新編中原中也全集』に収録されたこともあって、結構一般の新聞でも記事になっていたらしい。千葉県民の私にしては少し気付くのが遅すぎたのかもしれない。「療養日誌」の発見は、中也研究者のみならず、読者にとっても興味深いものがある。さらに、その日誌には、中也の創作になる俚謡らしきものが残されていたのだ。方言を使った素朴な味わいのある詩編ではある。精神科の大部屋から神経科の個室に移ったというが、ここに見てとれる明るさと軽妙さは何であったのだろう。

丘の上サあがって
 丘の上サあがって、丘の上サあがって、
 千葉の街サ見たば、千葉の街サ見たばヨ、
 県庁の屋根の上に、県庁の屋根の上にヨ、
 緑のお碗が一つ、ふせてあった。
 そのお碗にヨ、その緑のお碗に、
 雨サ降ったば、雨サ降ったばヨ、
 つやがー出る、つやがー出る

(ちなみに、このドームの建物は1962年、老朽化と不便さにより取り壊されている)

正直なところ、私は中村古峡という人物の方にも魅力を感じる。東大で英文学を修め、夏目漱石の門下で朝日新聞社に勤めながら文学を志すが、40歳過ぎてから精神科医をめざし、大正期には日本精神医学会の主幹として『変態心理』を十年近く刊行し、昭和初期にはフロイトの精神分析を日本に紹介、1934年に千葉寺に療養所を開設したという。

立ち寄った展示会の一枚のキャプションから、思いがけない出会いと収穫があったことが私にはうれしかった。(2007514日)

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