マイリスト「短歌の森」に「『批評と礼節』をめぐって、少し考えたこと」を載せました。
今年に入って、佐佐木幸綱の作品時評(短歌研究07年1月号)の短歌の「読み」をめぐって、論争が起きている。佐佐木評に松村正直が疑問(短歌年3月号)を呈し、佐佐木が「批評と礼節」(短歌4月号)と題して反論しているのだが、その内容が題にある「礼節」にかなうものかどうか、私には疑問に思われた。青磁社のホームページ上の大辻隆弘・吉川宏志による「週刊時評」もそれに参入した。健全な論争が育たない「歌壇」でどんな軌跡を残すのか。
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コメント
コメントさせていただきます。
佐佐木氏は、批判されることにまったく慣れていない、というのが何よりの印象。あの逆上ぶり(論理の性急さと矛盾、言葉遣いの下品さ)がそれを物語っています。なぜ慣れていないのか、要因は容易に推測できますが、それはここで述べるまでもないでしょう。
一つだけ指摘すれば、「俺は行かない」以降、彼は重大な勘違いをしてきた、しているのではないかということ。自らの足許をけっして疑ったことのない者特有の、ものの言い方(断定)です。おそらく自分の「革新性」を信じて疑ったことがないのでしょう。それゆえ、論争相手に対して、いとも容易く「保守反動」を言い得る。
しかし実は、自らの「革新性」とは、日常のごく具体事のなかで、日々試されています。たとえば、妻は私を「さん」付けで呼ぶのに、私は妻を呼び捨てにしてしまう、というようなこと。そのようなこと一つ一つが、「革新性」のいわば審級であります。だから、「革新」であることに終わりなどあり得ない。佐佐木氏の場合、まるで「俺は行かない」で終わってしまったかのようです。それが免罪符とでもいうように。「成功体験」のあるひとが陥りやすい罠、とも。
氏は自省的なタイプに遠い人、と言ってしまえば話は簡単なのですが、今回のように周りが不愉快なおもいをします。「心の花」の勇気ある誰かが、「体を張って」諌めるべきなのです。「論争のできる普通のひと」であれ、と。
投稿: 鈴木さとる | 2007年6月13日 (水) 19時04分
参考になります。
この論争注目します。
よくおじゃまするサイトに登録させて頂きました。
投稿: 大津留公彦 | 2007年6月13日 (水) 00時51分