池袋の今昔、兄たちから一人残されて
平和通りから重林寺へ
今年の春には、62歳で他界した次兄の十三回忌が、先日は、長兄の三回忌が命日に先立って執り行われた。
1926年(大正15年)生まれの長兄は、1945年4月13日の池袋の空襲で焼け出された以外は、池袋の生家を離れることはなかった。8月の敗戦がなければ薬専を繰り上げ卒業して兵役に就くはずだったという。大正末期に開業した父と、敗戦後は西口の平和通りと名づけられた商店街で、薬局を営み、一家を支えた。私は1970年代初めに家を離れたので、巣鴨プリズンがサンシャインになったのも、西武のスケートリンクが清掃工場になったのも、その経過を、この目で確かめられてはいない。川越街道沿いに高速5号ができたのは何時のことだったのだろう。近年では、母校の池袋第五小学校の名が統廃合により消えて、池袋小学校になっていた。
その長兄の三回忌が、重林寺で行われた。池袋北口から平和通りにある生家を過ぎて川越街道を渡ったところが山門である。子どもの頃からなじみのあるお寺というより、私にとっては、小学校1年生のとき、半年間は通った仮校舎であった。法要が営まれた本堂は、当時ようやく焼け残ったという感じのお堂で、背中あわせで二つの教室として使っていた。少し離れた鐘楼で給食の煮炊きが行われていたように思う。境内では秋の運動会らしいこともやったし、学芸会では、母の襦袢をほどき、ジャンパースカートを縫ってもらった記憶がよみがえる。大学時代は、小学校の恩師の紹介で、参道近くにあった漬物屋さんの小学生の家庭教師をやったこともある。今では、庭園の高木の向うには高速道路が走り、植栽はよく手入れがされていて、ボタン、サクラ、ツツジなど四季折々の花が楽しめるらしい。
重林寺は、真言宗豊山派で、総本山が奈良の長谷寺、大本山が東京の護国寺だということも最近知った。さらに、今住んでいる佐倉の家から除夜の鐘がよく聞こえる距離にある、一番近いお寺も千手院といって、真言宗豊山派である。私たち兄妹は、叱られそうだが、いずれも生家の宗旨や家紋にはまったく関心がなく、父母の葬儀のときや墓地を選ぶときに戸惑ったほどである。長兄の葬儀のときも、義姉や姪たちも身近なというだけで重林寺に即決し、以後の法事もお願いしている次第で、私もこうしてたびたび訪れることになった縁を不思議に思う。
大山の水道タンクから日大病院へ
長兄の晩年の一年半、治療のため通院や入院をしたのは、日大板橋病院であった。何度かの入院の際には池袋西口ロータリーから国際興業バスの日大病院行に乗って、見舞いに通うのが週何日かの日課となった。私の住まいからは2時間近くかかったが、病状や治療法、医師などの情報をインターネットで調べてくれ、と夜更けの病室から電話がかかってくることもあった。兄の気持ちを思うと辛いものがあり、とにかく翌日の朝、駆けつけたりもした。
バスは、アゼリア通りを進んで祥雲寺を過ぎ、要町病院を右に見て山手通りを越える。要町小学校を過ぎて、板橋高校までは、地下鉄有楽町線の地上を走っていることになる。その角を右に折れると、見えてくるのが水道タンクであった。ドーム型の屋根、アーチ型の窓、最初の入院のときは、水道タンクの周辺に囲いがしっかりとされて、立ち入り禁止の札が下がっていたが、一昨年の夏には、解体が始まったのである。小学校の頃、この水道タンクは、数回遊びに来た記憶もある、懐かしい場所だ。
「大谷口給水塔」と呼ばれる、このタンクは、関東大震災後、郊外の急激な人口増に対応するために敷かれた「荒玉水道」の終点で、多摩川の水を砧から野方を経てこの地に運んだ。1931年竣工、1972年老朽化のため使用されなくなった後もその姿は、昭和の面影を残す建造物として、地域でのシンボル的存在であった。周辺の再開発も進み、2005年解体に至り、大谷口給水所として建て替えられるという。設計者は、「近代衛生工学の礎を築いた中島鋭治」とも言われているが、どうも正確ではなく、ネット上ではちょっとした話題になったらしい。写真の一枚も撮っておけばよかったとも思う。まだ、解体工事の途中であった2005年6月、長兄は日大板橋病院から椎名町駅に近い恭和記念病院へと転院、長期療養体制に入ってまもなく8月に他界した。解体後はどうなっているのかは知らない。
その恭和記念病院なのだが、山手通りの要町病院とは逆の方向にあり、先の重林寺の三回忌法要後、小平霊園への墓参に向うバスの窓からその看板は見えた。ところが、病院の玄関は閉められ、お知らせの張り紙が見えたのである。姪の一人は、この間、車で通り過ぎたときも閉まっていたよ、という。当時の病院のホームページではイタリアの病院の雰囲気を重んじたといい、食事にも気を配り、高齢者医療の試みなども紹介していた。いったい何が起ったのだろうか。帰宅後ネットで調べてみると、今年2月に東京地裁で破産手続きの開始決定を受けていた。法人は1976年に設立、恭和記念病院では訪問看護ステーションも運営していたが、診療報酬マイナス改定などの医療制度改革を乗り切れなかった、とある。2年前のあの日、担当の若い茶髪の先生に「お忙しいのに申し訳ないですが、朝夕、顔を見せていただくと兄も安心するようなので、できる限りお願いします」とのお願いに、先生は「お部屋は覗いてはいますが、いつもお休みになっているんです」とのやり取りをしていた矢先、急変したのだ。長兄の最期を託した病院が、すでに消えていたなんて。
数年前、池袋西口の芳林堂書店の閉店を聞いたときの寂しさとは、また違った思いが突き上げてくるのだった。(2007年7月29日)
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