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2007年7月28日 (土)

池袋の今昔、兄たちから一人残されて

 

平和通りから重林寺へ

今年の春には、62歳で他界した次兄の十三回忌が、先日は、長兄の三回忌が命日に先立って執り行われた。

1926年(大正15年)生まれの長兄は、1945年4月13日の池袋の空襲で焼け出された以外は、池袋の生家を離れることはなかった。8月の敗戦がなければ薬専を繰り上げ卒業して兵役に就くはずだったという。大正末期に開業した父と、敗戦後は西口の平和通りと名づけられた商店街で、薬局を営み、一家を支えた。私は1970年代初めに家を離れたので、巣鴨プリズンがサンシャインになったのも、西武のスケートリンクが清掃工場になったのも、その経過を、この目で確かめられてはいない。川越街道沿いに高速5号ができたのは何時のことだったのだろう。近年では、母校の池袋第五小学校の名が統廃合により消えて、池袋小学校になっていた。

その長兄の三回忌が、重林寺で行われた。池袋北口から平和通りにある生家を過ぎて川越街道を渡ったところが山門である。子どもの頃からなじみのあるお寺というより、私にとっては、小学校1年生のとき、半年間は通った仮校舎であった。法要が営まれた本堂は、当時ようやく焼け残ったという感じのお堂で、背中あわせで二つの教室として使っていた。少し離れた鐘楼で給食の煮炊きが行われていたように思う。境内では秋の運動会らしいこともやったし、学芸会では、母の襦袢をほどき、ジャンパースカートを縫ってもらった記憶がよみがえる。大学時代は、小学校の恩師の紹介で、参道近くにあった漬物屋さんの小学生の家庭教師をやったこともある。今では、庭園の高木の向うには高速道路が走り、植栽はよく手入れがされていて、ボタン、サクラ、ツツジなど四季折々の花が楽しめるらしい。

重林寺は、真言宗豊山派で、総本山が奈良の長谷寺、大本山が東京の護国寺だということも最近知った。さらに、今住んでいる佐倉の家から除夜の鐘がよく聞こえる距離にある、一番近いお寺も千手院といって、真言宗豊山派である。私たち兄妹は、叱られそうだが、いずれも生家の宗旨や家紋にはまったく関心がなく、父母の葬儀のときや墓地を選ぶときに戸惑ったほどである。長兄の葬儀のときも、義姉や姪たちも身近なというだけで重林寺に即決し、以後の法事もお願いしている次第で、私もこうしてたびたび訪れることになった縁を不思議に思う。

 

大山の水道タンクから日大病院へ

 長兄の晩年の一年半、治療のため通院や入院をしたのは、日大板橋病院であった。何度かの入院の際には池袋西口ロータリーから国際興業バスの日大病院行に乗って、見舞いに通うのが週何日かの日課となった。私の住まいからは2時間近くかかったが、病状や治療法、医師などの情報をインターネットで調べてくれ、と夜更けの病室から電話がかかってくることもあった。兄の気持ちを思うと辛いものがあり、とにかく翌日の朝、駆けつけたりもした。

バスは、アゼリア通りを進んで祥雲寺を過ぎ、要町病院を右に見て山手通りを越える。要町小学校を過ぎて、板橋高校までは、地下鉄有楽町線の地上を走っていることになる。その角を右に折れると、見えてくるのが水道タンクであった。ドーム型の屋根、アーチ型の窓、最初の入院のときは、水道タンクの周辺に囲いがしっかりとされて、立ち入り禁止の札が下がっていたが、一昨年の夏には、解体が始まったのである。小学校の頃、この水道タンクは、数回遊びに来た記憶もある、懐かしい場所だ。

「大谷口給水塔」と呼ばれる、このタンクは、関東大震災後、郊外の急激な人口増に対応するために敷かれた「荒玉水道」の終点で、多摩川の水を砧から野方を経てこの地に運んだ。1931年竣工、1972年老朽化のため使用されなくなった後もその姿は、昭和の面影を残す建造物として、地域でのシンボル的存在であった。周辺の再開発も進み、2005年解体に至り、大谷口給水所として建て替えられるという。設計者は、「近代衛生工学の礎を築いた中島鋭治」とも言われているが、どうも正確ではなく、ネット上ではちょっとした話題になったらしい。写真の一枚も撮っておけばよかったとも思う。まだ、解体工事の途中であった20056月、長兄は日大板橋病院から椎名町駅に近い恭和記念病院へと転院、長期療養体制に入ってまもなく8月に他界した。解体後はどうなっているのかは知らない。

その恭和記念病院なのだが、山手通りの要町病院とは逆の方向にあり、先の重林寺の三回忌法要後、小平霊園への墓参に向うバスの窓からその看板は見えた。ところが、病院の玄関は閉められ、お知らせの張り紙が見えたのである。姪の一人は、この間、車で通り過ぎたときも閉まっていたよ、という。当時の病院のホームページではイタリアの病院の雰囲気を重んじたといい、食事にも気を配り、高齢者医療の試みなども紹介していた。いったい何が起ったのだろうか。帰宅後ネットで調べてみると、今年2月に東京地裁で破産手続きの開始決定を受けていた。法人は1976年に設立、恭和記念病院では訪問看護ステーションも運営していたが、診療報酬マイナス改定などの医療制度改革を乗り切れなかった、とある。2年前のあの日、担当の若い茶髪の先生に「お忙しいのに申し訳ないですが、朝夕、顔を見せていただくと兄も安心するようなので、できる限りお願いします」とのお願いに、先生は「お部屋は覗いてはいますが、いつもお休みになっているんです」とのやり取りをしていた矢先、急変したのだ。長兄の最期を託した病院が、すでに消えていたなんて。

 

数年前、池袋西口の芳林堂書店の閉店を聞いたときの寂しさとは、また違った思いが突き上げてくるのだった。(2007年7月29日)

 

 

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2007年7月22日 (日)

ユトリロ展―雪のモンマルトルは知らないけれど

初めての千葉県立美術館

 千葉寺の歌会の帰りに、県立美術館のユトリロ展に寄ってみた。この日は、歌会のお世話役のMさん、Kさんもお付き合い下さるという。というより、Mさんの車で案内していただいた格好で、浅井忠、彫刻の立像に迎えられての入館。なんと65歳以上の私一人が800円の入館料が無料だったので、申し訳ないような成り行きとなった。千葉県に住んで、かれこれ20年経つというのに、県立美術館は初めてだった。

 今回の「モーリス・ユトリロ―モンマルトルの詩情」(2007714日~826日)は、油彩を中心に80点余を集めてのこじんまりした展覧会らしい。数年前訪ねた、あの雑然としたモンマルトルの路地やそれにつながる広場は、ユトリロの時代はどんな風だったのか。興趣のわくところだった。今回、ユトリロの複雑な生い立ちとそれに伴う色調の変化などを知っていっそうの関心を寄せることになった。

波乱に満ちたユトリロとその母の生涯

 広々とした展示室は、どちら側からが順路なのか戸惑うほどである。モーリスは、1883年、スザンヌ・ヴァラドンを母とし生まれたが、実父は定かではない。母は、ルノアールやシャヴァンヌ、ロートレックらのモデルをつとめている。同棲していたロートレックに彼女自身のデッサンの才能を見出され、ドガの下で油彩を学び、画家としても名を成す。が、その奔放な生き方は、息子のモーリスにも影を落とし、十代半ばからアルコール中毒となり、治療のために絵を描くようになったともいわれている。酒癖による精神的な病弊は生涯付きまとうことになるが、ピサロの影響を受け、やがて独特の画風を確立した。サロン・ドートンヌの出品は1909年だったが、いわゆる「白の時代」がしばらく続く。今回の展示もこの時代の作品が多く、モンマルトルのノルヴァン通り、アベス広場やラパン・アジルなどがしきりに描かれる。くすんだ白い漆喰の壁面にこめられた哀切が、私には気に入ったのである。私がこれまで知る作品の多くは、この系列に入るものではなかったか。

 母ヴァラドンは息子のモーリスより年下のユッテルと同棲・結婚、二人は、入退院を繰返えすモーリスの画家としてのマネージャー的存在となり、絵を描かせては画商に売り渡すという生活が続いたらしい。1910年代半ば、モーリスは、いわゆる「色彩の時代」に入る。雪景色の遠景にサクレ・クール寺院を描いても、どの白い壁にも日が当たっているこのような錯覚を覚え、あざやかな赤い看板、朱色の屋根、青い窓が点在するようになって、ひと目であざやかさが印象づけられる。人物を描くことをしなかったモーリスだが、街に配する人々の中には、必ず腰の張った女性が後ろ向きに連れ立っている。解説には、彼の女性への嫌悪感の表れだとあったが・・・。

 やがて、母は、モーリス・ユトリロの行く末を心配し、年上の未亡人と結婚をさせたといい、直後に不慮の死を遂げる。モーリス夫人は、夫モーリスに水で薄めたワインをのませながら、せっせと絵をかかせたと、この日の展示にも説明されていた。1955年没するまで、遠近法の透視図のような構図の作品は生涯を通じておびただしい数になるのだろう。また、ラパン・アジルの絵などは350枚近くを描いているという。晩年の作品の街の絵には、まるで定規で遠近法を描いたように見えるものも登場するようになった。路上に張り出したカフェであったろうか、うつろな目でカメラを見つめる晩年のモーリス・ユトリロの写真が忘れられない。

もう一度めぐりたいモンマルトル

 2002年秋、はじめて訪れたパリ。ほぼ1日かけてめぐったモンマルトルだったが、あとで振り返ってみると、ガイドブック頼りのぶらぶら歩きでは、見落としたものが多い。地下鉄のラマルク・コランクール駅から少しの坂を上って行くと出会ったのが、パリ市内に唯一残るぶどう園だったらしい。私たちが訪れた日の翌日がワイン祭りということで、その周辺は準備でおおわらわであった。警備用の鉄柵や舞台が設えられ、警官が巡回していた。その目の前にユトリロが好んで描いたラパン・アジルがあったのだが、いっこうに覚えがない。また、ぶどう園に囲まれるように建っていたモンマルトル美術館は、時間がないからと素通りしたのを覚えている。あまり人通りのないサン・ピエール教会を回ってサクレ・クール寺院への坂をひたすら上り、展望台に着いたとき、そこにひらけたパリ市内の展望と階段に点在する人の多さに驚いたものだった。

下りてきたテルトル広場は雑踏にも近い有様だったが、連れ合いが迷った末、小さな絵を買ったり、近くでサンドイッチとタルトのケーキでお茶をのんだりして、だいぶ時間をとったような気がする。ダリ美術館も「今は結構」と通り過ぎたのだが、「アトリエ洗濯船跡」の記憶はない。ただ、モンマルトル墓地では、だいぶウロウロしながら、多くのフランス文人に敬意を表した。ゾラ、ハイネ、ドガ、スタンダール・・・。いずれも探し当てるのに戸惑った記憶がよみがえる。まるで公園みたいな墓地で、ところどころのベンチでお年寄りがおしゃべりし、陸橋のすぐ近くの墓地などは、家族連れの墓参姿もあって、どの区画も、御影石に彫られた十字架は周辺の植え込みの花に囲まれ、中には新しい供花が置かれていたところもあった。今はどことも特定できないのだが、石段と踊り場が幾重にもなって下ってゆく坂の真ん中に街灯が連なる風景が気に入って、大きく引き伸ばした写真を飾っている。

 帰りは、アベス駅から地下鉄に乗ったのだが、なんと目の前で、改札口をよじ登って不正入場する人に出遭ってしまった。あの地下鉄にしても、鉄道にしても、乗車方法に慣れなかっただけに、いつも知らない間に不正乗車しているのではないかという不安が付きまとったが、ストレートなこの不正に驚いたのだった。

 モーリス・ユトリロは、先のぶどう園の近くにあるサン・ヴァンサン墓地に眠る。もう一度訪ねたいモンマルトルではある。

2007721日)

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2007年7月 2日 (月)

つかの間の入江川せせらぎ緑道

  横浜に転居した娘が、近くにいい散歩道が見つかったからというので、新居の様子見がてら、この週末、連れ合いともども出かけた。泊まりがけは引越し以来である。川崎で待ち合わせ、オープン間もないというラゾーナのグルメ街での昼食となる。娘も初めてというイタリアン・レストランの雰囲気はなかなかのものであった。店内もショッピングセンター内も小さな子ども連れが多く、出生率1.0を割る佐倉との違いは歴然。京成沿線の佐倉住まいでは、美味しいパン屋さんもないよね、と18歳で佐倉を離れてしまった娘と一緒に夕飯の食材を求めた。カツオの棹をあぶってのタタキとアジの南蛮漬けで野菜をたくさんと摂ろうと、ヘルシーメニューに決まった。

 久しぶりにパソコンから解放されての一夜を過ごし、ゆっくりした朝であった。私だけは太極拳の八段錦・二四式のおさらいをした。朝食は、パンと珈琲、冷たいトマトと夕べの南蛮漬けである。

きょうのお目当ては、鶴見区の地図によれば、「入江川せせらぎ緑道」。歩道がない岸谷線を北に向うと第2京浜(国道1号)、その陸橋を越え、マンション、民家、商店が混在する東寺尾を進み、白幡神社の緑地を右に見て、向谷交番前の交差点の手前を左に折れる。緑道の両側にマンションや民家が迫り、せせこましい細い流れは、工場や家庭排水の浄水後の放流であるという。大きい鯉もすばしっこい小さな魚も、おびただしい数のザリガニ、ミズスマシもトンボもとにぎやかである。水辺にしゃがみこむザリガニ釣りの親子、ベンチに休む老夫婦、休日だけに犬の散歩にやってきた人も多い。カルガモのつがいやハトには親しみつつ、ゴイサギの白い冠羽をそよがせる姿は高貴にも見えた。同じ道を引き返し2キロ以上は歩いただろうか、途中で鶴見駅西口行きの市営バスに乗る。

家に戻ると、娘が同僚からコピーしたというビリー体操に挑戦してみるが、「ユル体操」に慣れている私はただちにダウン。お願いはしてあるものの、留守番の犬が心配になり、午後からの予定は変更して、きょうは、ラゾーナのベルギービールの店でのランチ。久しぶりの「家族団らん」も終ろうとしていた。                  (200772日)  

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2007年7月 1日 (日)

来年度の歌会始選者発表、やはり

きょう、71日の朝刊で、例年の通り来年度の歌会始の選者が発表になった。岡野弘彦(89歳)、岡井隆(79歳)、篠弘(74歳)、三枝昂之(63歳)、永田和宏(60歳)の5人で、安永蕗子に代わって三枝がなり、平均年齢を下げた形であるが、また、女性選者空白の時代に入ったといえようか。その人選は、やはりというか、近頃「総力を挙げて」岡野弘彦に肩入れをしていた感があった三枝が選者入りを果たした、との思いが私には強い。

 誰が選者になろうと、もう歌壇では誰もがものを言わなくなった。歌人たちの多くが、選者になることを大して重要視していないのか、選者になった歌人を無視しているのか、といえば、決してそんな状況とは思えない。

 私は、歌壇の会に参加することはめったにないのだが、最近、ある小さな会で「岡井隆が歌会始の選者になったときは、『未来』を辞めた人や批判する人が多かったのに、永田や篠がなったときは、どうして誰も何もいわないのか。岡井の弟子として悔しい」という趣旨の発言をする人がいて、少しびっくりしたことがあった。そして、このたびの三枝である。歌壇の反応は、これまで以上に鈍いことになるだろう。三枝の評論集『昭和短歌の精神史』はなにしろ六つの賞を受賞し、六冠を制したという言い方も飛び交っていたくらいで、歌集や評論集の刊行も華々しかった。しかし、その結果が歌会始の選者になったというのでは、あまりにもさびしいではないか。いや、選者になることの布石であったとすれば、実に見事というほかない。

 

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