ユトリロ展―雪のモンマルトルは知らないけれど
初めての千葉県立美術館
千葉寺の歌会の帰りに、県立美術館のユトリロ展に寄ってみた。この日は、歌会のお世話役のMさん、Kさんもお付き合い下さるという。というより、Mさんの車で案内していただいた格好で、浅井忠、彫刻の立像に迎えられての入館。なんと65歳以上の私一人が800円の入館料が無料だったので、申し訳ないような成り行きとなった。千葉県に住んで、かれこれ20年経つというのに、県立美術館は初めてだった。
今回の「モーリス・ユトリロ―モンマルトルの詩情」(2007年7月14日~8月26日)は、油彩を中心に80点余を集めてのこじんまりした展覧会らしい。数年前訪ねた、あの雑然としたモンマルトルの路地やそれにつながる広場は、ユトリロの時代はどんな風だったのか。興趣のわくところだった。今回、ユトリロの複雑な生い立ちとそれに伴う色調の変化などを知っていっそうの関心を寄せることになった。
波乱に満ちたユトリロとその母の生涯
広々とした展示室は、どちら側からが順路なのか戸惑うほどである。モーリスは、1883年、スザンヌ・ヴァラドンを母とし生まれたが、実父は定かではない。母は、ルノアールやシャヴァンヌ、ロートレックらのモデルをつとめている。同棲していたロートレックに彼女自身のデッサンの才能を見出され、ドガの下で油彩を学び、画家としても名を成す。が、その奔放な生き方は、息子のモーリスにも影を落とし、十代半ばからアルコール中毒となり、治療のために絵を描くようになったともいわれている。酒癖による精神的な病弊は生涯付きまとうことになるが、ピサロの影響を受け、やがて独特の画風を確立した。サロン・ドートンヌの出品は1909年だったが、いわゆる「白の時代」がしばらく続く。今回の展示もこの時代の作品が多く、モンマルトルのノルヴァン通り、アベス広場やラパン・アジルなどがしきりに描かれる。くすんだ白い漆喰の壁面にこめられた哀切が、私には気に入ったのである。私がこれまで知る作品の多くは、この系列に入るものではなかったか。
母ヴァラドンは息子のモーリスより年下のユッテルと同棲・結婚、二人は、入退院を繰返えすモーリスの画家としてのマネージャー的存在となり、絵を描かせては画商に売り渡すという生活が続いたらしい。1910年代半ば、モーリスは、いわゆる「色彩の時代」に入る。雪景色の遠景にサクレ・クール寺院を描いても、どの白い壁にも日が当たっているこのような錯覚を覚え、あざやかな赤い看板、朱色の屋根、青い窓が点在するようになって、ひと目であざやかさが印象づけられる。人物を描くことをしなかったモーリスだが、街に配する人々の中には、必ず腰の張った女性が後ろ向きに連れ立っている。解説には、彼の女性への嫌悪感の表れだとあったが・・・。
やがて、母は、モーリス・ユトリロの行く末を心配し、年上の未亡人と結婚をさせたといい、直後に不慮の死を遂げる。モーリス夫人は、夫モーリスに水で薄めたワインをのませながら、せっせと絵をかかせたと、この日の展示にも説明されていた。1955年没するまで、遠近法の透視図のような構図の作品は生涯を通じておびただしい数になるのだろう。また、ラパン・アジルの絵などは350枚近くを描いているという。晩年の作品の街の絵には、まるで定規で遠近法を描いたように見えるものも登場するようになった。路上に張り出したカフェであったろうか、うつろな目でカメラを見つめる晩年のモーリス・ユトリロの写真が忘れられない。
もう一度めぐりたいモンマルトル
2002年秋、はじめて訪れたパリ。ほぼ1日かけてめぐったモンマルトルだったが、あとで振り返ってみると、ガイドブック頼りのぶらぶら歩きでは、見落としたものが多い。地下鉄のラマルク・コランクール駅から少しの坂を上って行くと出会ったのが、パリ市内に唯一残るぶどう園だったらしい。私たちが訪れた日の翌日がワイン祭りということで、その周辺は準備でおおわらわであった。警備用の鉄柵や舞台が設えられ、警官が巡回していた。その目の前にユトリロが好んで描いたラパン・アジルがあったのだが、いっこうに覚えがない。また、ぶどう園に囲まれるように建っていたモンマルトル美術館は、時間がないからと素通りしたのを覚えている。あまり人通りのないサン・ピエール教会を回ってサクレ・クール寺院への坂をひたすら上り、展望台に着いたとき、そこにひらけたパリ市内の展望と階段に点在する人の多さに驚いたものだった。
下りてきたテルトル広場は雑踏にも近い有様だったが、連れ合いが迷った末、小さな絵を買ったり、近くでサンドイッチとタルトのケーキでお茶をのんだりして、だいぶ時間をとったような気がする。ダリ美術館も「今は結構」と通り過ぎたのだが、「アトリエ洗濯船跡」の記憶はない。ただ、モンマルトル墓地では、だいぶウロウロしながら、多くのフランス文人に敬意を表した。ゾラ、ハイネ、ドガ、スタンダール・・・。いずれも探し当てるのに戸惑った記憶がよみがえる。まるで公園みたいな墓地で、ところどころのベンチでお年寄りがおしゃべりし、陸橋のすぐ近くの墓地などは、家族連れの墓参姿もあって、どの区画も、御影石に彫られた十字架は周辺の植え込みの花に囲まれ、中には新しい供花が置かれていたところもあった。今はどことも特定できないのだが、石段と踊り場が幾重にもなって下ってゆく坂の真ん中に街灯が連なる風景が気に入って、大きく引き伸ばした写真を飾っている。
帰りは、アベス駅から地下鉄に乗ったのだが、なんと目の前で、改札口をよじ登って不正入場する人に出遭ってしまった。あの地下鉄にしても、鉄道にしても、乗車方法に慣れなかっただけに、いつも知らない間に不正乗車しているのではないかという不安が付きまとったが、ストレートなこの不正に驚いたのだった。
モーリス・ユトリロは、先のぶどう園の近くにあるサン・ヴァンサン墓地に眠る。もう一度訪ねたいモンマルトルではある。
(2007年7月21日)
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