戦後62年、たかが「歌会始」、されど「歌会始」、の現実(1)(2)
戦後62年、たかが「歌会始」、されど「歌会始」の現実(1)
いま、岡野弘彦の昭和天皇靖国合祀反対発言の記事
もともと小さな短歌の世界ではあるが、たかが「歌会始」の選者がなによ、とささやかれるのを聞いたこともある。歌壇人の、そして歌壇ジャーナリズムの一見、無関心を装う静けさは不気味ではある。しかし、歌会始選者や周辺の歌人たちがさりげなく、発信していた、あるいは発信している情報が興味深い。
最近では、昭和天皇靖国参拝に関する共同通信配信「昭和天皇のA級合祀反対 <関係国との禍根残す> 元侍従長発言、歌人に語る」(2007年8月4日『東京新聞』朝刊による)という記事や『毎日新聞』「A級戦犯合祀<靖国の性格変わる>昭和天皇<不快感>の理由 元侍従長が歌人に明かす」(2007年8月4日夕刊)という記事があった。この「歌人」というのが、いわば「歌会始」のキーパーソンでもある岡野弘彦である。見出しだけでは内容が分かりにくいが、昭和天皇が靖国神社に参拝しなくなったのは、A級戦犯合祀に不快感を示し、その理由として、「戦死者の霊を鎮めるという靖国の性格が変わる」「戦争に関係した国との間に将来禍根を残す」の2点をあげ、故元侍従長徳川義寛に語っていたことを、1986年頃、徳川は岡野弘彦に明かしていた・・・、というものだ。すでに故富田朝彦元宮内庁長官のメモに、昭和天皇のA級戦犯合祀への不快感を示していたことが、『日本経済新聞』(2006年7月20日朝刊)の記事になっており、いわば、それを跡付ける形の記事であった。昭和天皇の側近による日記やメモというのが持ち出されて「陛下のお気持ち」「昭和史の真実」が忖度されるのが、「8月ジャーナリズム」の一つの形となりつつある。いずれも「伝聞」の域を出ないものであり、今回にいたっては、「伝聞の伝聞」であった。私は、その経緯を記すという『四季の歌-昭和天皇御製集』(御製謹書集、同朋舎 2006年)の岡野弘彦解説は未見である。
昭和天皇、没後の歌集「おほうなはら」には1961年8月15日の日付のある作品として「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」がある。この「うれひ」をめぐって侍従長だった徳川義寛と当時から天皇に短歌の指導を行っていた岡野弘彦とのやり取りのなかで、上記2点が天皇の真意とされたが、当時の政局から表現は曖昧なものに留めたという点にも触れている。これまでも徳川義寛『侍従長の遺言』(岩井克巳解説 朝日新聞社 1997年)において天皇の短歌発表の折の配慮、操作が取りざたされている一件ではある。ちなみに、1985年8月15日の中曽根康弘首相の靖国参拝は外交上の問題になり、翌年からは参拝をしていない。
今回の記事は、岡野弘彦の天皇への親密性を示す発信だったのか、あるいは『四季の歌』の宣伝だったのか、などの思いがよぎる。靖国神社参拝問題への警鐘のつもりだったのか。いずれにしても、確かめようのない、昭和天皇の発言を政治的に利用する意図やそれに乗じるメディアの背後が気がかりではある。首相の靖国神社参拝問題ないし関連問題は、天皇の発言云々、天皇の短歌一首の解釈や背景で決着をつける問題ではなく、私たち日本人の歴史認識と政教分離、信教の自由など基本的人権問題を解明する方が先決であり、重要なはずである。
戦後62年、たかが「歌会始」、されど「歌会始」の現実(2)三枝昂之選者就任
2007年7月1日、来年の歌会始の選者が新聞で発表された。その折、次のような趣旨のコメントを私は自身のブログに載せている。
その人選は、やはりというか、近頃「総力を挙げて」岡野弘彦に肩入れをしていた感があった三枝が選者入りを果たした、との思いが私には強い。 誰が選者になろうと、もう歌壇では誰もがものを言わなくなった。歌人たちの多くが、選者になることを大して重要視していないのか、選者になった歌人を無視しているのか、といえば、決してそんな状況とは思えない。 私は、歌壇の会に参加することはめったにないのだが、最近、ある小さな会で「岡井隆が歌会始の選者になったときは、『未来』を辞めた人や批判する人が多かったのに、永田や篠がなったときは、どうして誰も何もいわないのか。岡井の弟子として悔しい」という発言を聞いて少しびっくりしたことがあった。そして、このたびの三枝である。歌壇の反応は、これまで以上に鈍いことになるだろう。
また、別のアンケート「歌人55人に聞く、憲法改正・現代短歌」で、私は次のように記した。(『新日本歌人』2007年5月)。その後半部分を引用する。
あるメディアは、東京の空襲とイラクの戦火をだぶらせた反戦歌集と称えた『バグダッド燃ゆ』の著者、岡野弘彦が天皇や皇族の歌の指南役を引き受けたことを「不思議といえば不思議」と評した(「特集ワイド」『毎日新聞』夕刊 2007年2月26日)。三枝昂之は、この岡野の歌集は日本近代百三十年・戦後六十年・アメリカに対する<たった一人の総力戦>であると讃え、「改めて考えると、岡野氏は不思議な存在である。宮内庁の御用係を務め、芸術院会員で・・・」と記す(『相聞』39号)。「不思議」の一言で安易に受容している歌壇が抱える問題は大きい。
私は、三枝の評論や評伝における精力的な資料探索と緻密な分析に敬意を表している。第七歌集『甲州百目』の「あとがき」で自著『前川佐美雄論』に触れ、短歌の戦中戦後を考えるにあたって、次のように語る。
「敗戦期の<時局便乗批判>から歌人たちの戦中をもう少し自由にしたい、と願うのである。戦中に悲哀を感じる目は、敗戦期にも同じ悲哀を感じる目でありたい」
さらに、いわゆる「被占領期」における歌人のあり方にも着目し、『昭和短歌の精神史』(2005年)では、「大東亜共栄圏」の神話も戦後民主主義の神話も排して、戦争期と占領期を一つの視点で描き通すこと、を心がけたという。さらに、次のようにも述べる。
「振り返って思うに、歌人たちは困難な時代をよく担い、そして嘆き、日々の暮らしの襞を掬いあげて作品化した。まず昭和の初期にタイムスリップしてし、当時の新聞や文献を傍らに置きながら歌を読み継ぎ、私はそのことを痛感しつづけた。本書はそうした歌人と作品への共感の書でもある。(中略)通史の緻密さには欠けるが、歌人たちがなにを願いなにを悲しんだか、その精神の太い軌跡は提示できたと思う」
また、第九歌集『天目』(2005年)の「あとがき」では、さらに分かりやすい形で示す。
「戦中の歌人と向き合うときに心しなければならないのは、平成の安全地帯で<彼らは時局に呑まれた、便乗した>といった訳知り顔をしないことである。既存のフィルターを排して、自分に見える風景をあるがままに描くことこそ、先達と向き合うときのわが心構えである」
歌人たちの残した著作や行動を丹念に跡付ける作業をしたことがある者にとって、世に溢れる「史実」の歪みにいらだつことは否定しがたい。体験にもとづく三枝の言説は一面において説得力がある。残された作品、散文をはじめ、日記、手帳のメモ、自らのインタビュー記録など、刊行・未刊も問わず資料を博捜し、駆使している努力は、評価したい。しかし、ここには「<時局便乗批判>から歌人たちの戦中をもう少し自由にしたい」、「平成の安全地帯で<彼らは時期に呑まれた、便乗した>といった訳知り顔をしないことである」の言にあるように、自らの<フィルター>を通してしまっていることである。フィクションであろうと、ノンフィクションであろうと表現者が残したものに接するときの心構えは、「白紙」であってほしいのだ。最初から一つの結論を、仮説を持って臨むことは、相当の弊害があることは自覚しなくてはならない。仮説こそが研究の原動力という見方もあるが、データを読み込むときの謙虚さが要求されるのではないかと思う。
一人の表現者の著作や発言を読むとき、心がけるべきは、断片的に読むのではなく、時系列で、そして同時横断的に、トータルに接するよう努めることだと思っている。そしてその整合性に着目したい。さらに、出来うるかぎり、というよりその表現者が、その当時、どのような行動に出たか、出なかったのか、の軌跡をたどることが鍵だと思っている。残された著作や発言の評価に大きくかかかわる要素、というよりその表現者の「すべて」が集約されているからだ。「作品や書いたものだけではアテにならない」というのが、幸か不幸か、私のわずかな体験から得た教訓でもある。
三枝が強調するように、「戦争期・占領期」を一つの視点で描き出すことの重要性が問われる。私はかつて「敗戦・8月15日」を境に、歌人たちがどう変わったのか、変わらなかったのかを見極めたいという思いから、女性歌人たちを中心に、著作を読み込んだことがあった。私は、自戒しながらも一つの思い入れをもって読み進めた記憶があるのだが、結果は見事に裏切られて、思いがけない結論となったのである(「女性歌人たちの敗戦前後」『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史1945~1953』2001年)。
とにもかくにも、「平成という<安全地帯>で」、三枝は「歌会始」選者という選択をしたことになる。私たちはいま、生活者としても、表現者としても、さまざまな選択を迫られている日常にあって、現代が<安全地帯>という認識には、いささか驚いたのだが。(2007年8月23日)
| 固定リンク
« マイリスト「野の記憶―日記から」に「憲法改正論議、最近の世論調査に見る」を載せました | トップページ | 「自治会費からの寄付・募金は無効」の判決を読んで―自治会費の上乗せ徴収・自治会強制加入はやっぱりおかしい »
コメント