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2007年8月31日 (金)

「自治会費からの寄付・募金は無効」の判決を読んで―自治会費の上乗せ徴収・自治会強制加入はやっぱりおかしい

1.高裁の無効判決とは―希望が丘自治会の場合

824日、大阪高裁は、赤い羽根共同募金や日赤への寄付を自治会費で徴収できるかが争われた訴訟で、「事実上の強制で思想、信条の自由を侵害する」として自治会の決議を無効とする判決を言い渡した。この判決には、数年前の自治会役員当時のことを思い起させられた。会計担当だった1年目に、自治会費とともに募金や寄付、社会福祉協議会会費を班長さんに集金してもらうことに抵抗を覚えたのだった。あらかじめ金額が記入された領収書をもって募金や寄付を集めるなんて、やっぱりおかしいと。今回の判決について地元の新聞は、全国紙よりもやや詳しく、つぎのように伝える。

甲賀・自治会費訴訟で高裁判決

赤い羽根共同募金など募金や寄付金を自治会費に含めて強制徴収するのは違憲などとして、滋賀県甲賀市甲南町の住民5人が、加入する希望ケ丘自治会に、募金や寄付金分を会費に上乗せした決議の無効などを求めた訴訟の控訴審判決が24日、大阪高裁であり、大谷正治裁判長は「決議は憲法の思想、信条の自由を侵害し、民法の公序良俗に違反する」と一審判決を破棄し、決議を無効とする住民勝訴の逆転判決を言い渡した。
 大谷裁判長は「募金は任意で行われるべきで、強制されるべきではない」と判断し、「集金の負担解消を理由に会費化すること自体、多様な価値観の会員がいることを無視し、募金の趣旨にも反する」とした。憲法は私人間の問題に適用されないとしながらも、実質的に違憲と指摘した。判決によると、自治会は赤い羽根共同募金や小中学校の後援会への寄付金などを住民から任意で集めていたが、昨年3月の総会で年会費を6000円から8000円に値上げし、増額分を募金や寄付金に充てる決議をした。昨年11月に大津地裁は「自治会は任意団体で、私人間の問題である」として棄却した。
 原告の一人、山田克さん(68)は「強制徴収はおかしいと思っていても、福祉や善意のためと言われると意見しづらい。判決で、ようやくもやもやが晴れた」と喜んだ。自治会長の伊藤忠雄さん(71)は「約940世帯ある上に高齢者も多く、各家を1軒ずつ回って徴収するのは負担が大きい。裁判所は現状を分かっていない」と話した。(「京都新聞」2007826)

2.私たちの自治会でも、似たようなことが・・・

 数年前まで、私たちの自治会では、毎年5月頃、新班長さんは、自治会費前期分(1800円)と日赤への「社資募集」に応えて1500円、社会福祉協議会会費500円の領収書を持ち、各戸をまわっていた。秋になると、自治会費後期分、赤い羽根共同募金、年末には歳末助け合いの募金を班長さんが集約する仕組みになっていた。夏祭りの参加費800円もあった。班長はまさに1年を通じて「集金人」となる覚悟を余儀なくされた。

 それまで、私は、日赤などへの寄付は個人的に断っていたが、毎年、班長さんにそれを言うのにはかなりの勇気が要った。一緒に役員となった人たちのなかには、当地に引っ越してきて、自治会が領収書をもって寄付を集めるのを知って驚いた人、ボランテイアの精神に反すると怒る人もいた。そして、私の役員2年目のとき、役員会や班長会議で議論の末、日赤支部からの回覧文書を自由意志の寄付であることを強調するものに変えてもらい、社会福祉協議会会費についても自治会独自の文書を作成して、丈夫な封筒を用意して、回覧方式・手渡し励行での「募金」に変更した。同時に日赤社員や社協会員になりたい人の道も残した。班長さんはもちろん、多くの会員からは「よくやった」と励まされたのだが、なかには、日赤の活動や福祉活動に自治会が積極的に協力しないのはけしからんと抗議してくる会員もいた。それから数年、その方式が定着し、募金総額は徴収時代よりももちろん減ったのだが、ちょうど半減したあたりの額で横ばいとなっていた。

 3.それにしても、社会福祉協議会って、なに?
 
ところが、会費納入率が伸び悩んでいた、私たちの市の社会福祉協議会が、妙な手を使って当自治会に攻勢をかけてきたのである。地区社協の理事たちは、お宅の自治会のような例は市内でも珍しく、何とか会員獲得に協力してほしい、と。ついては、今度社協がはじめる高齢者・障害者の移送サービスは、会員資格がないとサービスを受けられないことになっているから、出来れば全世帯、社協会員となるような方策をとるようにと自治会役員に迫ったらしい。事情がのみ込めない役員たちは、自治会の会員が社協のサービスからはずされては大変と、前のように班長さんに集金を頼まねばと、年度替りの総会に臨んだのだ。
 私は、そもそも、社会福祉協議会なる組織自体に何かと疑問を持っていたので、それならばと、少し腰を据えて社協の財政・人事・事業内容などを調査し、他の自治体とも比較してみることにした。社会福祉協議会は、他の社会福祉法人と横並びの組織となり、自治体の施設管理などに指定管理者制度が導入されて以来、その性格は変わりながら、いまだ、多くの「特典」を持っていることが問題なのである。私の調査の結果の一部は、以下をクリックして見て欲しい。  http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatahe46.doc

要するに、お金は必死に集めるが、その出口たる支出については曖昧な点がいくつも出てきた。会員でないと社協のサービスが受けられないなどと、人件費の大方の1億近くを市からの助成金でまかなっている社協がいうことではない。そんなルールを持つ社協は県下でも皆無であったのだ。自治会の有志で、市の担当課にこんな社協に人件費助成や委託費を出すのはおかしいと抗議をしたところ、いつのまにか移送サービスの会員資格云々は沙汰ヤミになった。しかし、その後も自治体と社会福祉協議会の癒着振りは続き、「市民協働」をかかげて、地域の自治会を含めた諸団体を束ねる「まちづくり協議会」の核に社協を据えているのである。自治体の仕事を社協に丸投げした格好である。少なくとも自治会が社協に束ねられる必然性はなく、自治体は、市民・住民の声を幾重ものバリアで堰きとめようとする意図がミエミエなのである。

 4.というわけで、今回の判決は・・・
 
自治会が、日赤や社協の下請け集金人、自治会費に上乗せ徴収人になることは、判決で言うように、思想・信条の自由に違反するし、自治会の「自治」の由縁からしても間違っているのではないか。また今回の高裁判決は、自治会と会員とのいわば民vs民のトラブルには立ち入らないという大津地裁判決に、一歩踏み込んだことにも敬意を表したい。

今回の判決後、被告の自治会長は、自治会として日赤や赤い羽根に募金に協力することを前提としながら、「高齢者も多く、1軒ずつ各戸を回って徴収するのは負担が大きいという実情を裁判所は分かって欲しい」とコメントするが、町内会や自治会を通しての募金システムは福祉への善意とは無縁であり、建前からも、実態からも適切でなかったことを示していよう。

 5.自治会加入が「住民の義務」って?
 私たちが住む戸建ての団地から2キロ弱離れた駅前のマンションに引っ越した友人がいる。期せずして運転免許証を持たない主婦だったのだが、スーパーや商業施設に隣接し、病院やクリニックにも近く、庭の手入れからも解放されたという。冷暖房費はだいぶ節約になっているし、特急こそ停車しないが、京成電車の駅が近いのは、夫や子供たちの通勤・通学に都合がよい、と喜んでいた。そんな彼女から聞いたところでは、マンションの管理組合はあるけど、自治会が無いようなもので、加入している世帯は、おそらく2割程度だから、回覧板もなく、掲示板にお知らせが張られる程度だという。ところが、20064月から、管理費から一括して自治会費が支払われ、マンションの住人は自動的に自治会に加入することになり、自治会費に上乗せという言い方ではなく、負担はかけず管理費から捻出したという言い方であった。管理費の値上りがあったか否かは聞きそびれている。マンションのオーナーは、ニュータウン一帯のディベロッパー山万である。この業者は「住民・行政・業者の三位一体」による「安心・安全、福祉の街づくり」を標榜する。これまでも自治会の連合体である自治会協議会は、開発過程の要所要所でよく利用されてきた、というのが私の実感である。自治会役員は、賀詞交換会やさまざまな業者のイベントに招待されるが、肝心の開発計画を正確に、詳細に知らされることないために、いつも各所でさまざまなトラブルが発生しているのが現状である。そうした位置づけの自治会をマンションのオーナーでもある山万は、その幹部が広告や新聞取材において「住宅購入に際して、自治会加入は義務になっている」(H専務取締役談「とれんどサーチ・安心で売るニュータウン」『朝日新聞』2007819日)と胸を張る。「住民の方には自治会へ全員参加をお願いしています」(S代表取締役発言、広告「理想の子育て・環境について考える―千葉佐倉・ユーカリが丘での子育て街づくり」『朝日新聞』2007314日)と言い切るディベロッパーって何者なのか。ここには、自治会とディベロッパーのただならぬ関係が露呈されているではないか。本来、住民の自治会は、文字通り住民の自治組織であって、行政や業者のための組織ではないはずである。しかし、残念ながら私たちの街では、こんなことがまかり通っているのである。

2012年5月21日補記: 

以下をクリックしていただくと、最新の<募金・寄付><自治会><社協>

<日赤>関連記事及びリンク先ががまとめて表示されますので、ご利用ください。

 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/cat20187440/index.html

 

(補記)8月24日の大阪高裁判決は、自治会側から上告されたが、2008年4月3日の最高裁決定により上告棄却され、高裁判決が確定して、自治会の寄付の自治会費上乗せ決議は無効となった。2008年4月4日の本ブログ記事をご参照ください。

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2007年8月23日 (木)

戦後62年、たかが「歌会始」、されど「歌会始」、の現実(1)(2)

戦後62年、たかが「歌会始」、されど「歌会始」の現実(1)                            

いま、岡野弘彦の昭和天皇靖国合祀反対発言の記事

もともと小さな短歌の世界ではあるが、たかが「歌会始」の選者がなによ、とささやかれるのを聞いたこともある。歌壇人の、そして歌壇ジャーナリズムの一見、無関心を装う静けさは不気味ではある。しかし、歌会始選者や周辺の歌人たちがさりげなく、発信していた、あるいは発信している情報が興味深い。

最近では、昭和天皇靖国参拝に関する共同通信配信「昭和天皇のA級合祀反対 <関係国との禍根残す> 元侍従長発言、歌人に語る」(200784日『東京新聞』朝刊による)という記事や『毎日新聞』「A級戦犯合祀<靖国の性格変わる>昭和天皇<不快感>の理由 元侍従長が歌人に明かす」(200784日夕刊)という記事があった。この「歌人」というのが、いわば「歌会始」のキーパーソンでもある岡野弘彦である。見出しだけでは内容が分かりにくいが、昭和天皇が靖国神社に参拝しなくなったのは、A級戦犯合祀に不快感を示し、その理由として、「戦死者の霊を鎮めるという靖国の性格が変わる」「戦争に関係した国との間に将来禍根を残す」の2点をあげ、故元侍従長徳川義寛に語っていたことを、1986年頃、徳川は岡野弘彦に明かしていた・・・、というものだ。すでに故富田朝彦元宮内庁長官のメモに、昭和天皇のA級戦犯合祀への不快感を示していたことが、『日本経済新聞』(2006720日朝刊)の記事になっており、いわば、それを跡付ける形の記事であった。昭和天皇の側近による日記やメモというのが持ち出されて「陛下のお気持ち」「昭和史の真実」が忖度されるのが、「8月ジャーナリズム」の一つの形となりつつある。いずれも「伝聞」の域を出ないものであり、今回にいたっては、「伝聞の伝聞」であった。私は、その経緯を記すという『四季の歌-昭和天皇御製集』(御製謹書集、同朋舎 2006年)の岡野弘彦解説は未見である。

昭和天皇、没後の歌集「おほうなはら」には1961815日の日付のある作品として「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」がある。この「うれひ」をめぐって侍従長だった徳川義寛と当時から天皇に短歌の指導を行っていた岡野弘彦とのやり取りのなかで、上記2点が天皇の真意とされたが、当時の政局から表現は曖昧なものに留めたという点にも触れている。これまでも徳川義寛『侍従長の遺言』(岩井克巳解説 朝日新聞社 1997年)において天皇の短歌発表の折の配慮、操作が取りざたされている一件ではある。ちなみに、1985815日の中曽根康弘首相の靖国参拝は外交上の問題になり、翌年からは参拝をしていない。

今回の記事は、岡野弘彦の天皇への親密性を示す発信だったのか、あるいは『四季の歌』の宣伝だったのか、などの思いがよぎる。靖国神社参拝問題への警鐘のつもりだったのか。いずれにしても、確かめようのない、昭和天皇の発言を政治的に利用する意図やそれに乗じるメディアの背後が気がかりではある。首相の靖国神社参拝問題ないし関連問題は、天皇の発言云々、天皇の短歌一首の解釈や背景で決着をつける問題ではなく、私たち日本人の歴史認識と政教分離、信教の自由など基本的人権問題を解明する方が先決であり、重要なはずである。

戦後62年、たかが「歌会始」、されど「歌会始」の現実(2)三枝昂之選者就任                                

200771日、来年の歌会始の選者が新聞で発表された。その折、次のような趣旨のコメントを私は自身のブログに載せている。

その人選は、やはりというか、近頃「総力を挙げて」岡野弘彦に肩入れをしていた感があった三枝が選者入りを果たした、との思いが私には強い。 誰が選者になろうと、もう歌壇では誰もがものを言わなくなった。歌人たちの多くが、選者になることを大して重要視していないのか、選者になった歌人を無視しているのか、といえば、決してそんな状況とは思えない。 私は、歌壇の会に参加することはめったにないのだが、最近、ある小さな会で「岡井隆が歌会始の選者になったときは、『未来』を辞めた人や批判する人が多かったのに、永田や篠がなったときは、どうして誰も何もいわないのか。岡井の弟子として悔しい」という発言を聞いて少しびっくりしたことがあった。そして、このたびの三枝である。歌壇の反応は、これまで以上に鈍いことになるだろう。

また、別のアンケート「歌人55人に聞く、憲法改正・現代短歌」で、私は次のように記した。(『新日本歌人』20075月)。その後半部分を引用する。

   あるメディアは、東京の空襲とイラクの戦火をだぶらせた反戦歌集と称えた『バグダッド燃ゆ』の著者、岡野弘彦が天皇や皇族の歌の指南役を引き受けたことを「不思議といえば不思議」と評した(「特集ワイド」『毎日新聞』夕刊 2007226日)。三枝昂之は、この岡野の歌集は日本近代百三十年・戦後六十年・アメリカに対する<たった一人の総力戦>であると讃え、「改めて考えると、岡野氏は不思議な存在である。宮内庁の御用係を務め、芸術院会員で・・・」と記す(『相聞』39号)。「不思議」の一言で安易に受容している歌壇が抱える問題は大きい。

 私は、三枝の評論や評伝における精力的な資料探索と緻密な分析に敬意を表している。第七歌集『甲州百目』の「あとがき」で自著『前川佐美雄論』に触れ、短歌の戦中戦後を考えるにあたって、次のように語る。

「敗戦期の<時局便乗批判>から歌人たちの戦中をもう少し自由にしたい、と願うのである。戦中に悲哀を感じる目は、敗戦期にも同じ悲哀を感じる目でありたい」

さらに、いわゆる「被占領期」における歌人のあり方にも着目し、『昭和短歌の精神史』(2005年)では、「大東亜共栄圏」の神話も戦後民主主義の神話も排して、戦争期と占領期を一つの視点で描き通すこと、を心がけたという。さらに、次のようにも述べる。

「振り返って思うに、歌人たちは困難な時代をよく担い、そして嘆き、日々の暮らしの襞を掬いあげて作品化した。まず昭和の初期にタイムスリップしてし、当時の新聞や文献を傍らに置きながら歌を読み継ぎ、私はそのことを痛感しつづけた。本書はそうした歌人と作品への共感の書でもある。(中略)通史の緻密さには欠けるが、歌人たちがなにを願いなにを悲しんだか、その精神の太い軌跡は提示できたと思う」

また、第九歌集『天目』(2005年)の「あとがき」では、さらに分かりやすい形で示す。

「戦中の歌人と向き合うときに心しなければならないのは、平成の安全地帯で<彼らは時局に呑まれた、便乗した>といった訳知り顔をしないことである。既存のフィルターを排して、自分に見える風景をあるがままに描くことこそ、先達と向き合うときのわが心構えである」

歌人たちの残した著作や行動を丹念に跡付ける作業をしたことがある者にとって、世に溢れる「史実」の歪みにいらだつことは否定しがたい。体験にもとづく三枝の言説は一面において説得力がある。残された作品、散文をはじめ、日記、手帳のメモ、自らのインタビュー記録など、刊行・未刊も問わず資料を博捜し、駆使している努力は、評価したい。しかし、ここには「<時局便乗批判>から歌人たちの戦中をもう少し自由にしたい」、「平成の安全地帯で<彼らは時期に呑まれた、便乗した>といった訳知り顔をしないことである」の言にあるように、自らの<フィルター>を通してしまっていることである。フィクションであろうと、ノンフィクションであろうと表現者が残したものに接するときの心構えは、「白紙」であってほしいのだ。最初から一つの結論を、仮説を持って臨むことは、相当の弊害があることは自覚しなくてはならない。仮説こそが研究の原動力という見方もあるが、データを読み込むときの謙虚さが要求されるのではないかと思う。

一人の表現者の著作や発言を読むとき、心がけるべきは、断片的に読むのではなく、時系列で、そして同時横断的に、トータルに接するよう努めることだと思っている。そしてその整合性に着目したい。さらに、出来うるかぎり、というよりその表現者が、その当時、どのような行動に出たか、出なかったのか、の軌跡をたどることが鍵だと思っている。残された著作や発言の評価に大きくかかかわる要素、というよりその表現者の「すべて」が集約されているからだ。「作品や書いたものだけではアテにならない」というのが、幸か不幸か、私のわずかな体験から得た教訓でもある。

三枝が強調するように、「戦争期・占領期」を一つの視点で描き出すことの重要性が問われる。私はかつて「敗戦・815日」を境に、歌人たちがどう変わったのか、変わらなかったのかを見極めたいという思いから、女性歌人たちを中心に、著作を読み込んだことがあった。私は、自戒しながらも一つの思い入れをもって読み進めた記憶があるのだが、結果は見事に裏切られて、思いがけない結論となったのである(「女性歌人たちの敗戦前後」『扉を開く女たち―ジェンダーからみた短歌史194519532001年)。

とにもかくにも、「平成という<安全地帯>で」、三枝は「歌会始」選者という選択をしたことになる。私たちはいま、生活者としても、表現者としても、さまざまな選択を迫られている日常にあって、現代が<安全地帯>という認識には、いささか驚いたのだが。(2007823日)

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2007年8月10日 (金)

マイリスト「野の記憶―日記から」に「憲法改正論議、最近の世論調査に見る」を載せました

目次
「読売」の結果の<意外性>
「NHK」、ほんとうに「まっすぐ、真剣」なの
「朝日」の世論調査への批判いろいろ

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マイリスト「短歌の森」に「戦後における昭和天皇の短歌―その政治的メッセージとは(7)」を載せました

このエッセイも7回目に入りました。今回は前々月から引き続き「退位をめぐる状況」の三回目で昭和天皇退位論の推移をたどってみました。現在では想像もつかないほどの活発さでした。なお、ちなみにこれまでの内容をふりかえってみると次のようになります。
1.天皇の短歌が山形「県民の歌」に
2.天皇は平和主義者だったか
3.敗戦後天皇が詠んだ四首の行方
4.昭和天皇の「松上雪」をめぐって
5.貞明皇太后の短歌が皇后の歌集に
6.昭和天皇退位をめぐる状況の推移

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2007年8月 4日 (土)

佐倉市「マンション紛争あっせん条例」ってこんなもの?

組合清算前、業務代行によるマンション着工あり?

井野東土地区画整理組合の開発事業は、とにもかくにも、いま、どの工区でも工事たけなわである。その第4工区は、このブログでも再三お伝えしているが、一回り123分の新交通システムの内側は、田んぼや里山、古くからの集落が広がるが、辺りの人々の鎮守の森であった里山の一つ「宮ノ台」のわずかな境内地を残して、宅地造成が完了した。しかし、隣接の住宅街の道路より高さ6m以上の盛り土による造成、産廃処理の不手際、盛り土の崩落などが重なり、近隣住民の怒りが爆発、井野東開発対策協議会が作られ、2年をかけて、20072月下旬には組合・業務代行山万と対策協との「覚書」が交わされた。その第4工区9㌶あまりは、組合の業務代行、地元の開発業者「山万」が清算に先立ち、山万の換地となる特約のもと、マンション建設が始まろうとしている。それだけでも、組合事業と名乗るものの業務代行の恣意がまかり通るものだと驚く。第4工区はもともと市街化調整区域だったのだが、第1種低層住居専用地域に変更されるかなり前から、変更を前提に、宅地造成工事が先行していた。都市計画法によれば用途地域の変更には、縦覧、意見提出、公聴会、都市計画審議会の審議などの手続きが前提となっているが、形骸化も著しく、セレモニー化し、変更案が変更されることはまずないのが、現状である。だから、行政も事業者(組合・業務代行)も前倒しの宅地造成など当然のこととみなしている。私たち住民の「もし変更案が白紙になったらどうするのか」という問いには、行政は、組合・業務代行のリスクで先行しているので、心配には及ばない?!という。要するに、事業者ペースでの進行であって、隣接・近隣住民の声を聞こうというスタンスはなく、住環境保全は二の次なのだ。

そして、さらに、地権者への換地と保留地が決定していない時点でのマンション建築が可能であることなど、私たち素人には分りにくい。保留地処分の価格決定の甘さから頓挫し、清算できないまま解散ができない組合、その過程にある赤字組合は千葉県下でも続出しているというのに。業務代行(業者)のペースでの開発の失敗のツケが零細の地権者に及ぶケースもある。地権者が清算金を拠出しなければならない場合や減歩率が極端に高くなる場合もある。そして、工事途中の荒地のまま放置される例も見聞きするではないか。

マンション建築計画の看板が立った!

私たちの住宅街に隣接する第4工区にいくつかの建築計画を持つ山万は、「覚書」(20072月)において、まず地上13階・地階合わせて14階建て、325戸のマンション建築計画を明らかにした。そして3月のある日突然、「マンション建築計画概要」のたて看板が設置された。一見「覚書」に添った内容の計画と思われたが、戸数、高さ、階数などが微妙に異なっていることがわかった。

佐倉市には、20023月に制定した「佐倉市中高層建築物の建築に係る紛争の予防及び調整に関する条例」「同条例施行規則」がある。あるマンション業者と近隣住民とのトラブルがきっかけになって制定され、紛争解決と予防のための、行政が業者と近隣住民の間に入る、いわゆる「あっせん条例」である。条例では、近隣住民の見やすい場所に建築計画概要を示す「標識」を立てなければならないことになっている。私たちが目にした看板は、日付の欄が空欄になっているものだった(平成193月○日)。

 また、条例では、建築確認申請の20日以上前に、先の標識設置届け出提出後10日間後の期間に隣接住民の場合は説明済み報告書を提出しなければならないし、近隣住民には申し出による説明後の報告書を提出しなければならないことになっている。標識設置日は、これら手続きの起算日になっているにもかかわらず、空欄である上、事業者の隣接住民への説明義務、近隣住民への申し出による説明義務を周知する文言は、看板のどこにも表示されていない(ちなみに、前者は建築物敷地の隣接地の住民、後者は建築物の高さを敷地境界から2倍の距離の範囲内の住民を指す)。条例の標識設置の根拠条文の表示もない。これでは、多くの近隣住民、この標識設置の意味は分からないにちがいない。少なくとも私は、今回、件のマンション建築確認申請が65日になされているにもかかわらず、いまだに確認済み証が下りていないことに端を発して、行政に問い合わせなどして知ったことだった。

建築基準法改正で、確認検査手続きは遅れている

そして、今回のマンション建築確認申請手続きを調べてみると、「建築計画概要」の近隣住民への説明に瑕疵があった。確認申請の取り下げか、やり直しが事業者・行政の「法令順守」と思うのだが、まるで「そんな細かいことまでやってられない」「条例は努力目標だ」といわんばかりの態度なのである。些細な法令違反は補正で処理されるのが従来の慣行であった。

姉歯事件がきっかけで建築基準法が改正され、確認検査業務は厳格化するという。これまでは、確認申請後21日以内の交付であったのが、今後は35日以内と延長された。改正直後だから手間取って交付が遅れているのだろう、交付はその日にならないと分からない、と山万はいう。しかし、新法の適用は620日以降の申請からで、今回の申請は65日だから、旧法でのいわば駆け込みである、といえる。新法ではさらに、高さ20m以上の鉄筋コンクリート造などは専門家チェックが義務化され、審査機関は最大70日まで延長されている。今回の当地のマンションは申請日からしてあくまでも旧法扱いではあるのだが、8月4日現在、申請後60日以上経つが、未交付なのだ。申請内容の実質的な審査で長引いているのか、移行期間で混乱しているのか、私たちはどこまでも、事業者や行政、民間の確認検査機関への不信を拭い切れないでいる。             (20078月4日)                      

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