千葉市ゆかりの家・いなげ(愛新覚羅溥傑・浩夫妻旧居)を訪ねて
9月20日、千葉寺、ハーモニープラザでの歌会の帰りに、数名の方と「千葉市ゆかりの家・いなげ」へ出かけた。昔の別荘地、稲毛にある、愛新覚羅溥傑・浩夫妻の仮寓、ということで、お庭は四季折々の花が楽しめるとのことであった。すでに何度か訪れている方もいる。
海岸通りを少し入ったところに、その家はあった。玄関への石段をのぼって、「お邪魔します」と格子戸を開けると、奥にひょいと人影が動いた気がしたが、後は自由に見学できるらしい。L字型の平屋建て、かつての海岸が真正面に見える表の三部屋のひとつには幅広い床の間と段違いの棚、軸は溥傑の来日時の筆になる詩と娘の嫮生さんに贈ったえびの絵の由来書であった。その書体がなんともやさしく、やわらかで、丸みを帯びながら、線の細い特徴のあるものであった。手の込んだ欄間やモダンな照明がとても贅沢さというよりある種の懐かしさを感じさせる。大正末期から昭和にかけての建造で、夫妻が住んでいたのは1937年結婚直後の半年間ほどであった。1000㎡近い庭の先は、おそらく砂浜だったろうに、いまは車の往来が激しい。今年は残暑がきびしかったからか、いまは、わずかに萩が花をつけていた。隣の浅間神社の境内に接した西側の二部屋は、いわば生活空間であったのだろう、質素な造りになっていた。すべての部屋はたたみが敷かれたL字型の廊下でつながっている。西側には離れもあって、思わずサンダルに履き替えて上がってみる。各部屋の壁のところどころには、愛新覚羅家の家族写真が飾られ、また、2003年のテレビドラマ「流転の王妃・最後の皇弟」(テレビ朝日開局45年周年記念、11月29日・30日放映)の大きなポスターなどもある。そういえば、私もこのドラマの一部を見たような記憶もあるが定かではない。溥傑・浩夫妻を竹之内豊と常盤貴子が演じていた。
夫妻の年譜を見ると、十五年戦争期の日中関係、現代中国政治の歴史に翻弄されながらも強い絆で結ばれ、その生涯は波乱に満ちたものだったことがわかる。詳細はここでは触れないが、長女慧生の同級生との天城山心中事件は、私にとってはリアルタイムで接したニュースであった。両親の過酷なまでの生涯は、後に知ることになる。当時は、事件のヒロインは幼少から思春期までを両親と離れて日本で暮らした「由緒ある家柄のお嬢様」との認識で、その背景を知らなかった。彼女も日本の侵略戦争、満州国の悲劇の犠牲者の一人ではなかったかと思う。夫妻を思うとき、やはり頭をよぎるのは、「日鮮融和」の政略による李垠・方子の結婚であり、その生涯であった。
稲毛海岸は、すでに開通していた総武鉄道が「稲毛停車場」として開設した1900年、大正期になって開通した京成電車が「稲毛駅」として開設した1921年(大正10年)あたりにかけて、東京の保養地、避暑地の役割が定着したらしい。1911年(明治45年)には遠浅の砂浜を利用した民間飛行場が開設されていたことなど今回はじめて知った。
私にとって、稲毛といえば、池袋第五小学校のときの遠足、潮干狩りの思い出がある。といってもその記憶をたどるよすがは、黒いラシャ紙のアルバムに残る、たった一枚のクラス写真だ。写真の余白には「五年 春の遠足 いなげ」と私の文字。月日はないが、1951年ということになろう。遠浅の海のなかの鳥居とさらに沖の何隻かの小船を背に、砂浜の5年生はみんな笑顔で、貝のわずかに詰まった網袋を得意げ掲げてポーズをとっている子が多い。当時、わが家のアルバム係?をしていた七歳違いの次兄の几帳面な字で、「乙黒先生が病気で休んでいた時」と台紙に書き込んである。なるほど、担任の姿が写っていなかった・・・。
「ゆかりの家・いなげ」見学後、近くの回転すし屋さんで昼食を済ませ、稲毛駅前で車を下ろしていただく。閑散としたホームのベンチに腰をおろし、少しばかり充実した気分で、京成の上り電車を待つのだった。(2007年9月23日記)
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