« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

2007年10月30日 (火)

「夏目漱石展」、江戸東京博物館へ

どうしても行きたかった、江戸東京博物館  開館してすでに15年という。1025日、病院の帰りに、ぜひと思い立ったのが、漱石展だった。数ヶ月ごとに通院する病院へは、東西線早稲田から箱根山通りと夏目坂通りの二通りがある。夏目坂、喜久井町といい、この界隈は、漱石とも縁が深い。今日は、若松河田駅から大江戸線で両国へ。深い地下ホームからエレベーターで上がると、目の前が日大一中・一高、元気な声が路上にまで届く。広い通りには街路樹が立派に育って、桜の時期は見事かも知れない。すぐに巨大な博物館の構内に入る。観光バスが数台並んでいる。長いこと手帳にはさみ込んでいた一枚の招待券。思えば、東京女性財団の助成金による『扉を開く女たち―ジェンダーから見た短歌史』(阿木津英さんたちとの共著、砂子屋書房 2001年)刊行後の報告会で報告をしたとき、担当者が申し訳なさそうに差し出したお礼の1枚だったのだ。当時、財団からいただいた90数万円の出版助成金は、私たち共著者3人にとってほんとうにありがたいことだった。その年を最後に、東京都は、その助成制度を廃止したという。そんな思い入れもあって、折り畳んだ招待券を受付に出すと、「これは常設展の招待券です」とのこと。特別展「文豪・夏目漱石―そのこころとまなざし」は、シルバー割引550円での入場となった。入場者に、熟年男性が多かったのが特色だったろうか。

 漱石展は、漱石が育った時代・異郷に降り立つ漱石・作家漱石の誕生・漱石が描いた明治東京・漱石山房の日々・晩年の漱石とその死、の6章仕立てになっていた。以下は、それにはとらわれない、気ままなレポートである。

今回の漱石展―自筆資料、書き込み蔵書など初公開資料も多い 江戸東京博物館・東北大学・朝日新聞社の共催で、東北大学は、戦時中、漱石旧蔵図書などの東大による受け入れがかなわないところ、東北大教授であった小宮豊隆・阿部次郎の尽力で購入したといい、朝日新聞社は、今年、漱石の入社100年にあたるという由縁である。なぜ東北大学の図書館に「漱石文庫」があるのか、というのが、図書館勤めが長かった私にはちょっと疑問に思えた。漱石旧蔵資料を東京大学図書館がその寄贈の話を拒んだという経緯が興味深い。夏目家は、蔵書以外の他の資料も含めて「漱石文庫」として別置・収蔵することを望み、東大側は他の一般図書と同様、分類の上、配架する方針だったため折り合いがつかなかったという。

ちなみに、私の経験からも、寄贈資料を受け入れる図書館にとって、いつも悩ましいのが、この問題だったのだ。大学と縁のある方が亡くなったり、退職されたりしたとき、寄贈を申入れられることが多いのだが、たいていは「○○文庫」として別置きしてほしい、というのが、ご本人やご遺族の意向なのだ。たださえ手狭な書庫の利用が分断され、その管理に手間がかかる、というのが図書館側の言い分で、事務的すぎるといえばそれまでだが、すでに所蔵している資料と重複している副本、書き込みや傍線の多い「汚れ本」や雑誌の形態をとらない資料類の扱いも難しい。和綴じの仏教関係資料の受け入れに立ち会ったときは、難儀したことを思い出す。多くの場合、ある程度の取捨を任せいてもらい、蔵書印のほかに寄贈者氏名を付し、寄贈資料受入目録か寄贈資料分類目録などを冊子にして渡し、一般書架に配置するのが零細図書館のできることだったのだが。

 今回の展示の東北大学図書館所蔵「漱石文庫」蔵書は、書き込みが多いのが特色で、その書き込みが大事だという漱石研究者の分析もあるくらいだ。研究者の時代と小説家となった時代とでその書き込みが大きく異なるという。また、日記やノート、学生時代の答案、教師時代の試験問題などもあり、私が思わず、覗き込んだのは、図書貸出簿であった。漱石山房に出入りした弟子たちの木曜会メンバーらの知性と賑わいを彷彿とさせるし、金銭貸付簿や何冊もの印税覚書帳からは、漱石自身の几帳面さを伺い知らされるのだった。

浅井忠・樋口五葉・津田青楓 今回の展示では、かなりのスペースを割いて、漱石の美術への関心と著作の挿絵や本の装丁に心砕いていた様子が分かるようなものが多かった。「吾輩は猫である」の『ホトトギス』連載に際しては、浅井忠、中村不折には挿絵を、単行本の装丁は樋口五葉に依頼している。浅井は正岡子規に絵を教えているし、漱石と浅井も留学先で交流を深めている。樋口は、熊本五高の教え子の弟でもあり、漱石は終生、その才能に信頼を置き、彼の装丁は、1908年『虞美人草』(春陽堂)をはじめ高い評価を得ているものが多い。漱石自身も『心』(岩波書店 1914年)の装丁を手がけ、朱色の地に中国の石鼓文の拓本を使い、その装丁は現在も利用されていて馴染み深い。晩年には、漱石に南画を教えていた津田青楓も装丁を手がけ、その芸術性が評価されている。漱石が留学中に触れたアールヌーヴォーや購読していた美術雑誌、購入したが図鑑・画集・絵本などにも影響を受けていたこともわかってくる。雑誌の広告や本の表紙や挿絵など気に入ると切り抜いていたらしいものも、かなりの点数にのぼり、なかなか楽しい展示だった。

松山・熊本・ロンドン・東京 漱石が生まれたのは慶応3年(1867年)、翌年、明治改元だから、明治時代をそっくり生き、大正に入ってまもない1916年に49歳で亡くなっている。生まれてまもなく、里子に出されたが戻され、養子に出されたら養親が離婚したりで、幼少時代は、家庭的には恵まれなかったようだ。22歳、第一高等中学校本科時代に同級の正岡子規と知り合うわけだが、28歳で松山の愛媛県尋常中学校に赴任し、わずかな期間ではあるが、子規と同宿する。「坊ちゃん」の舞台となった松山は一年で離れ、熊本の第五高等学校の教員となるときの句に「わかるるや一鳥啼て雲に入る」があり、軸が展示されていた。

33歳、1900年には文部省給費によりイギリスへ留学する。途上、パリの万国博覧会にも立ち寄ったりしている。ロンドンでは、生活を切り詰めてまでも図書の収集にあたっていた。留学後、長女とともに実家に身を寄せ、次女を出産した鏡子夫人には、産後の経過や入れ歯、フケ止めにいたるまで心配し、ときには「当地には桜といふものなく、春になつても物足りぬ心地」などと望郷の念をつづるなど(1901122日、1902417日)せっせと書いていたらしいが、返事がないことに苛立ったり経済的不安も重なったりで神経衰弱に悩むこともあったらしい。

また、漱石は、日本を出発する直前、病床の子規を見舞っている。子規はロンドンからの消息を喜び『ホトトギス』に掲載、子規には「柊を幸多かれと飾りけり」「屠蘇なくて酔はざる春や覚束な」の句などを送っている(19001226日)。しかし、子規からは、「僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シ・・・」が届き(1901116日)、翌年には、919日没の訃報が届く。

 19031月、帰国した漱石は4月より東京大学講師となるが、徐々に創作活動も活発になり、1907年には請われて朝日新聞社に入社し、いわば専属作家として、作品は朝日新聞に連載されていくことになる。最初の仕事が6月からの「虞美人草」連載であった。1910年、43歳、胃潰瘍のため入院、修善寺の大患、いわゆる危篤に陥ったこともあったが、その後「彼岸過迄」「行人」「心」「道草」などの大作を連載、「明暗」は未完のまま、191612月に胃潰瘍で他界する。

博士と喪章と墓石と

 この間、1911年は、文部省からの一方的な博士号授与・辞退事件、朝日新聞社入社に尽力した池辺三山の辞職、「朝日文芸欄」廃止、プライベートでは、五女ひな子の死などが重なる。漱石の肖像写真では、もちろん口ひげを蓄え、右ひじをついて視線をやや落としている肖像はあまりにも有名だが、よく見ると左腕には喪章をつけている。1912年の夏、明治天皇の死の直後の写真だ。明治時代の終焉については、たしか「心」でも触れていたと思うが、高校の読書感想文以来のことで覚えていない。今回の展示の中に、天皇の病状悪化に伴い両国の川開きが中止になったことを受け、いわゆる「自粛」ムードを批判している日記の一部分があった(1912720日)。漱石の博士号辞退に見る、権威主義や事大主義への批判、また「自粛」批判は、現代にも通じる興味深いものがあるが、過大評価も過小評価もなく、もう一度、漱石を読み直そうかな、とも思うのだった。

 雑司が谷霊園の漱石の墓をずいぶんと前に訪ねたことがあるが、あのとき、墓石が立派だった印象があるが、もう一度確かめたいような気もする。

たまたま出会った、遊行七恵氏のブログ(20071011日)にも、この展示会のカラフルでユニークなレポートがあった。 (http://yugyofromhere.blog8.fc2.com/blog-entry-946.html

                          (20071030日)

| | コメント (0)

2007年10月27日 (土)

マイリスト「短歌の森」に「戦後における昭和天皇の短歌―その政治的メッセージとは(10)を登載しました

| | コメント (0)

2007年10月22日 (月)

「水野昌雄と現代短歌を語る会」に参加して―水野昌雄の評論、<短歌と天皇制>の軌跡、を話してきました

このところ立て続けに歌集や評論集を出版している水野昌雄さんを囲んで短歌を語る会のようなものを企画しているのでと、発起人の森山晴美さんからお誘いいただいた。水野さんには、20数年前、『風景』にて歌会始についての連載を始めた頃より励ましていただいていた。近頃すっかりご無沙汰しているので、思い切って参加することにした。案内状には、1020日(土)午後、「水野昌雄と現代歌を語る会」(於フロラシオン青山)、プログラムによれば、15分のスピーチが数人に割り当てられ、私の名もあって慌てた。

水野さんの3冊の評論集を引っ張り出してきて、相変わらずと嫌われそうなテーマだが、問題提起のつもりで、当日私の原稿を載せた。ご覧ください。

スピーチは、筑波杏明、雁部貞夫、小石雅夫、久々湊盈子、今井恵子、三浦槙子の各氏で、私は3番手だった。「もう時間です」の警告を出されなかったのは、そういえば女性だけだったのではないか。皆、話したいことが有り余ってという感じだった。私も17分で危うくセーフというところだった。家で最初用意したものは20分をだいぶ超えていたから、かなり端折った結果ではある。

 司会の森山さんと日野きくさんの努力にもかかわらず、結局、休憩時間をとらないまま続行、100人ほどの参加者の中から、穂積生萩、内田紀満、生野俊子、柳川創造、横田晃治、山本かね子の各氏らも指名され感想を述べられた。皆さん、私にはほとんど初めての方ばかりだった。内田さんが、きょうは会いたい人があって群馬からやってきたと、私の本と名をあげてくださったのには驚いた。散会後は、初対面の何人かとお話ができたのがうれしかった。こんなことは久しぶりのことで、正直すっかり疲れてしまった。

 水野さんは、いつまでも万年青年の感があって、お元気そのものだった。NDL-OPAC、国立国会図書館の蔵書目録と雑誌記事索引からパソコンで打ち出した「著作目録」はお持ちではないということなので、お渡しできてほっとした。

*************************************

水野昌雄の評論の一断面―<短歌と天皇制>の軌跡   

 こんにちは。水野さんお久しぶりです。

このたびは『硬坐』『百年の冬』2冊の歌集、そして評論集『続歴史の中の短歌』の出版おめでとうございます。きょうは発言の機会をいただきありがとうございます。気の利いたお話もできませんので、私自身にひきつけたテーマとなり、恐縮です。水野さんが、早くより、20代より取り組まれていた「短歌と天皇制」関係評論の軌跡をたどりながら、紹介をさせていただきます。

一寸その前に、

テーマとして「短歌と天皇制」はもはや現代でははやらない、決着済みだ、という声も聞きます。時代は動いている、社会はすでに変わってきているのだから、問題の立て方に無理があるという言い方もあります。というのも、1993年岡井隆が選者に就任して以来、これは岡井自身の言葉ですが、歌会始は「民衆の参加する短歌コンクールとしては本邦最大で、知名度も高い」(朝日新聞夕刊/大阪版199294日、インタビュー)というスタンスを歌壇全体が取り続けてきたように見受けられます。新聞歌壇選者就任の延長線上に位置づけ、いわば選者自身も“平常心”での就任を装い、周辺も黙認するという体制が確立したような気がします。そして今世紀に入り、2004年永田和宏、2006年篠弘、2008年から三枝昂之の選者就任、2007年の夏には、岡井隆が岡野弘彦に代わり短歌御用掛になりましたが、表面上、ほとんど話題になることもなく、歌壇ジャーナリズムで取り上げられることさえなくなってしまいました。しかし、歌会始の選者になるということは、ほんとうに短歌コンクールの選者や新聞歌壇の選者になることと同列に考えていいことなのでしょうか。それだったら、なぜ、近藤芳美や馬場あき子がならなかったのでしょうか。本人が拒否したということも洩れてきませんでした。国家権力による「選別」のシステムがどこかで機能していると思っています。それでも、岡井隆が選者入りしたときは、歌壇の内外で、「前衛歌人がなぜ宮中へ」というニュアンスで話題になりました。そして、現在はどうでしょうか。しかし、戦後の歌会始の歴史の中で、選者就任についてか何度か問題になったことがありました。

①1947年、茂吉や空穂ら、御歌所とは無縁だった民間歌人が就任したとき

②1959年、国文学者であり、白秋門下の歌人であった木俣修が就任したとき、敗戦直後「八雲」を久保田正文らと編集・発行し、いわば戦後歌壇のオピニオンリーダーとして活躍していたのが彼でした。

1979年、いわゆる戦中派といわれた、岡野弘彦、上田三四二が就任したとき

1993年の岡井隆の就任のとき

4回ほどでした。水野さんの4本の論文は、こうした状況を踏まえて、歌会始選者の沿革のターニングポイント1959年、1979年に、ほぼ呼応して発表されています。

(1)「敗北の記録を超えるために」(『短歌研究』 19594月)

水野さんの初期の評論で、文章はやや生硬ですが、論旨は明快でした。発表の『短歌研究』4月号の「読者への手紙」(編集後記)には次のように紹介されています。

「新人水野昌雄氏の『敗北の記録を超えるために』は、周到に用意された論旨を持って、今日の短歌の在り方の根底を探った収穫の、好エッセイです。先月号の『御歌会始をめぐって』と共に、反響を期待します」とあります。もっともその編集後記の冒頭には、「木に花咲き、皇太子御成婚の喜びに昭和の春もたちかえるようです。この4月号はそんな季節に胸ふくらませて編集しました」ともあります。

ジャーナリズム特有のバランスということでしょうか。なお、最初の水野さんの評論集『リアリズム短歌論』(短歌新聞社1970)には、この論文は収録されていません。その辺の事情も、水野さんには伺っておきたいです。

発表は19594月ですから、前年58年皇太子は正田美智子さんと婚約、翌594月に結婚、いわゆるミッチーブームのさなかでした。歌会始周辺にも、57年に女性選者の四賀光子が就任、59年には木俣修と同時に五島美代子が就任、女性選者二人の時代がしばらく続いたりします。二人の女性歌人は、皇室とは深い関係がありました。歌壇では、数年前に中城ふみ子・寺山修司らがデビューし、塚本邦雄、岡井隆の活躍が目覚しい前衛短歌ブームでありました。歌会始は、それまでは、いわゆる歌壇とはなんとなく一線を画していましが、1956年結成の現代歌人協会(初代理事長五島茂で196576年)、日本歌人クラブ、女人短歌会が共催で「歌会始入選者を祝う会」が開かれるようになりました。そして、当時の岡井隆は、その「祝賀会」「現代歌人協会」「歌会始」をつぎのように糾弾しています。

◇「文学であるならば、天皇制と結びついた国家権力に守られたくない。民衆の下からエネルギーで守られてこそ、その資格があるのではないか」(「歌会始は誰のものか」アンケート『短歌研究』 19593月)

◇「本来これ(歌会始)は宮中の一儀式でしかない行事であり、民衆の生活とのつながりから言えば、新聞が特に報じなければならぬほどの行事とは思えぬ。」(『現代歌人』創刊号19605月)  

歌会始に現選者をそっくり含んでいる「(現代歌人)協会」、入選者の祝賀会を開いている「現代歌人協会」、という風に、岡井自身が入会したばかりの現代歌人協会の機関誌『現代歌人』の創刊号で批判していたのです。こうした状況のなかで発表された水野論文を端折ってまとめます。

戦後の第二芸術論を含む短歌否定論を克服できなかったのは、①戦争犯罪人の復帰、戦争責任を曖昧にするイデオロギーの蔓延 ②歌人自体の非近代的思想性と世界観欠如 ③民主主義短歌運動の統一の困難、力量不足、をあげ、これらに対峙するためには、無名の作品への期待、歌会始の華やかな場より民衆の中に現代短歌の文学的な命がある。

と結論づけています。実はこの時代、勤務評定反対闘争、警職法改正反対運動、安保反対運動激化と沈静を経て、高度成長期へと突入する「助走期間」だったといえます。また、皇室ブームの裏側では、深沢七郎の「風流夢譚」への宮内庁抗議、中央公論社の陳謝、『思想の科学』天皇制特集の発行停止事件などにみる天皇制、天皇かかわる小説や言論、思想統制が同時進行している時代であったことを忘れてはならないと思います。

(2)「現代短歌におけるリアリズム」(『短歌』 1979年2月)

              (『現代短歌の批評と現実』青磁社 1980、所収)

「リアリズムとは何か。それが定義としての問題ではなく、当為の問題である。いかに生くべきかの問題である」として、片山貞美「ふたりの戦中派」(『短歌年鑑』1979年版)に触れて展開するリアリズム論です。戦中派の片山が同世代の岡野・上田選者就任についての批判への共感が出発点です。片山は、現実直視を避け、閉鎖された観念世界に安住している上田三四二、幻想・情念世界を展開し、現実を見ない岡野弘彦、ときびしく批判しています。

日本経済の高度成長期にあって、短歌の大衆化が進みました。カルチャーセンター、テレビでの短歌講座、昭和万葉集刊行、大岡信「折々のうた」の朝日新聞連載が始まり、さらに木俣修・入江相政らによる歌会始応募の手引が刊行される時代でした。水野さんの短歌、歌壇への危機感がひしひしと伝わってくる論文でした。

(3)「日本的抒情と政治性」(『現代文学と天皇制イデオロギー』1988年) 

                (『歴史に中の短歌』 アイ企画 1997、所収)

(4)「短歌と天皇制」(社会文学3号 1989年)(同上)

国際的には、1889年天安門事件、ベルリンの壁崩壊、1991年湾岸戦争開始、ソ連共産党解体など、まさに激動の時代で、国内では、1988年から89年にかけて、天皇の代替わりの時期に発表されています。昭和天皇の病状・死去をめぐる報道は過剰なまでにエスカレートし、「自粛」などという社会現象も起こりました。 大喪の礼、即位の礼、立太子の礼などの国家行事が続き、天皇、皇室、歌会始、天皇の短歌などの政治的役割が顕著に語られ、報じられるようになった時代です。とくに昭和天皇の「御製」によって、天皇の心情を読み解く手法が蔓延し、国民を思い、平和を願う「天皇像」が強調されました。

歌壇ジャーナリズムにおいては、1986年『短歌』天皇在位60年記念特集が組まれ、歌壇にも「天皇」のイメージが深く刻まれるような動きのあった時代でした。

水野さんの論文では、昭和天皇の追悼記事において短歌作品は御製、大御歌、お歌、和歌と称せられてさまざまに利用されていたことを指摘しています。論壇・歌壇において天皇を語ることの難しさがさかしらに喧伝されているが、ほんとうに難しいことなのかと疑問を提示し、坪野哲久の短歌を紹介し、私の旧著198810月刊行の『短歌と天皇制』のあとがきから引用して「近現代史において天皇がさまざまな場で果たしてきた役割を検証した上で、みずからの天皇・天皇制への姿勢を明確にすることの重要性」を指摘しています。

遡っては、明治期における御歌所批判、歌会始批判を紹介しています。

最後に、水野さんからは、近年の歌会始の動向や選者就任についての考えをぜひお聞きかせいただきたいと思っています。(20071022日)

      

| | コメント (0)

成田で、「近代文学の至宝―永遠のいのちを刻む」展を見る

成田で「近代文学の至宝 永遠のいのちを刻む」展をみる

1010日、思い切って成田山書道美術館まで出かけた。目当ては、日本近代文学館の成田分館開館記念展覧会なのだが、会場は成田新勝寺の書道美術館なのだ。当地からは近いはずなのに、近年の尾上柴舟展も見逃している。数年前に一度だけ訪ねているが、京成成田駅からずいぶんと歩いた記憶がある。まだ10時前だからか、表参道の商店街は、開店準備中の店も多い。シャッターを下ろし、いかにも廃業らしき店舗も何軒か見受けられる。お寺の本堂裏からだいぶ奥まった処に美術館が見えてきた。

今回の展示は、1962年近代文学館創立以来、収集してきた125万点に及ぶ資料の中から、文学者直筆の生原稿、書簡、書画などの名品をあつめている。次のようなコーナーに分かれる。

至宝中の至宝/「文明開化」の時代/「文学界」とその周囲/和歌革新の港/

巨きな山・漱石と、それを支えた人々/「不安」の文学―芥川龍之介を中心に/

「白樺」―直哉の草稿と原稿/社会文学、革命文学の流れ/美の実験・伝統への回帰/大衆文学のひろがり/戦中・戦後―「記憶」の伝承/戦争の重い影/同時代の文学の旗手たち/近現代詩を代表する詩人たち/成田ゆかりの文学者

「呼子と口笛」ノート

最初の「至宝中の至宝」には、樋口一葉「たけくらべ」、漱石「明暗」、多喜二「蟹工船」、太宰治「人間失格」など13点が別置されている。私にはどれもはじめての逸品であるが、目を見張ったのは、石川啄木「呼子と口笛」ノート(土岐善麿寄贈)の、1911615日付の詩稿「はてしなき議論の後」「ココアのひと匙」であった。ノートというよりは横罫の便箋様の紙に、端正な字で清書され、自筆の表紙絵と詩集名のレタリング、挿絵のデザインも色も、詩稿の内容に反して、むしろ明るく若々しく思え、その丹念な筆づかいが伝わってくるようだ。これらは『創作』の7月号に発表されたが、死後1913年、友人土岐善麿の手により『啄木遺稿』に収録されている。

ココアのひと匙     1911615 TOKYO

われわれは知る、テロリストの

かなしき心を――

言葉とおこなひとを分ちがたき

ただひとつの心を、

奪はれたる言葉のかはりに

おこなひをもて語らむとする心を、

われとわがからだを敵に擲げつくる心を――

しかして、そは真面目にして熱心な人の常に有つ

かなしみなり。

 

 はてしなき議論の後の

 冷めたるココアのひと匙を啜りて、

そのうすにがき舌触りに、

われは知る、テロリストの

かなしき、かなしき心を。

「和歌革新の港」というには、やや・・・

 このコーナーの構成は竹西寛子によるが、与謝野寛・晶子、佐佐木信綱、空穂、牧水、白秋、啄木、勇ほか「明治生まれの近代歌人の仕事と日常を偲ばせる品々」を集めたという。「日本の近代短歌がどのような人々に支えられ、現代短歌はこの人達の仕事をどのように享け継ぎ、拒み、発展させているのかを促す仕組みになっている」と「図録」の解説にはあるが、やや総花的過ぎた感があり、「革新」に焦点を絞れなかっただろうか。解説にあるとおり「寛という強烈な個性と非凡な才能によって維持された『明星』が、歌人の垣を払って広く時代の文化人にも稿を求め」た、とあるが、展示を見る限り、徹底していないように思えた。晶子が、夫寛の渡航費用捻出のため書いたという「百首屏風」の方が、妙に生々しかった。近現代短歌史に造詣の深い歌人などによる構成だとやや異なった展示になったかもしれない。<「不安」の文学コーナー>では、「斎藤茂吉が芥川龍之介に与えた処方箋」など貴重なものに思われ、興味深いものもあったが、1936年の永井ふさ子宛の斎藤茂吉書簡(持参便)が突然まぎれこんだりする、その違和感は拭いきれなかった。ふさ子への抑えがたい感情が筆づかいや文面によくあらわれてはいるが。

成田ゆかりの文学者

 今回の展示会の「ご当地」付録のような存在だが、このコーナーが意外と面白かった。私もこの地に20年住んでようやく千葉県民になったということだろうか。

展示は詩人・歌人・小説家として活躍した水野葉舟(18831947)に絞ってはいるが、彼の生き方や交友関係が魅力的に思えた。『文庫』投稿少年は『明星』の鉄幹に拠り、詩や短歌を発表した。ここで知る窪田空穂、高村光太郎を生涯の友とし、1906年詩文集『あららぎ』、空穂との合同歌集『明暗』を出版する。以降発表する小説・小品などは若者に人気が高かったという。関東大震災後1924年に成田郊外の駒井野の開墾地に入り、地域の文学青年や国語教師らの指導にあたり、地方文化の向上に貢献し、その地で没する。印旛郡の木下小学校、船穂小学校の校歌なども作詞する。次男水野清とそれを継いだ孫養子水野賢一(中尾栄一次男)は、この地の保守党議員である。衆議院選挙のたびに、首相と握手している大きなポスターが幹線道路の沿道に続くのは見苦しかったが、文学館へ資料をまとめて寄贈したのは次男清氏と四女澄子氏らしい。「我はもよ野にみそぎすとしもふさのあら牧に来て土を耕す」の歌碑が三里塚記念公園にあるという。

葉舟宛の書簡に水町京子の1通が展示されていた。京子は香川県出身だが、東京女子高等師範学校で尾上柴舟の指導を受けた後、『水甕』創刊、北見志保子らと『草の実』創刊に立会い、1935年自ら『遠つひと』を創刊し、1945年以降の活躍も目覚しかった。葉舟との縁は、京子の夫甲斐重吾が旧制成田中学校教頭を勤めた時期に、成田に2年ほど住んでいたことによる。京子は、夫との暮らしに悩みを抱えながらも教職を続け、晩年は桜美林学園で教鞭をとっていたことなどを思い出す。また、成田中学といえば、新勝寺が経営する学校だが、現在でも、学費も公立校に近く、特色のある私学として地元でも定評がある。成田山公園の書道美術館までの途上には、鈴木三重吉の碑「古巣はさびても小鳥はかよふ 昔忘れめ屋根の下」というのがあったが、彼も成田中学での教頭在職中に「小鳥の巣」を『国民新聞』に連載している。

成田空港へと素通りしがちな、この成田の地に近代文学館ができたこと、成田山新勝寺周辺のかつての文学的な空間に思いを馳せながら、見終わろうとしたとき、階下の入り口が急に騒がしくなったと思ったら、中学生たちがどっと会場に押し寄せてきた。付き添いの先生は「一般のお客さんもいらっしゃるので、静粛に」とさかんに叫んでいた。この種の展覧会に中学生を連れてくるなんて、なかなかやるね、と感心し、出口で係りの人に尋ねると、成田中学校の生徒さんですよ、とのことだった。

                           (20071022日記)

| | コメント (0)

2007年10月 3日 (水)

マイリスト「短歌の森」に「戦後における昭和天皇の短歌」(8)(9)を登載しました

七.地方視察で何を歌ったのか
1946年元日の天皇「人間宣言」を経て、以後、精力的な地方視察が展開されていく。視察先では、何が歌われ、詠まれたのか。
八.文化への傾斜現在では想像もできないが、当時の市販の、総合雑誌『改造』に天皇の短歌7首が発表された。・・・

| | コメント (1)

2007年10月 2日 (火)

マイリスト「すてきなあなたへ」に52号を登載しました。

目次
地域密着型介護施設と「ひまわりの里」―いつまでも自宅で暮らすためのサービスを提供
共同募金・日赤への寄付、自治会費上乗せ無効判決に寄せて―自治会、自治会費ってなんだろう
菅沼正子の映画招待席24「エディット・ピアフ 愛の賛歌―歌と愛に生きたピアフの壮絶な生きざま
編集後記

| | コメント (0)

« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »