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2007年10月22日 (月)

成田で、「近代文学の至宝―永遠のいのちを刻む」展を見る

成田で「近代文学の至宝 永遠のいのちを刻む」展をみる

1010日、思い切って成田山書道美術館まで出かけた。目当ては、日本近代文学館の成田分館開館記念展覧会なのだが、会場は成田新勝寺の書道美術館なのだ。当地からは近いはずなのに、近年の尾上柴舟展も見逃している。数年前に一度だけ訪ねているが、京成成田駅からずいぶんと歩いた記憶がある。まだ10時前だからか、表参道の商店街は、開店準備中の店も多い。シャッターを下ろし、いかにも廃業らしき店舗も何軒か見受けられる。お寺の本堂裏からだいぶ奥まった処に美術館が見えてきた。

今回の展示は、1962年近代文学館創立以来、収集してきた125万点に及ぶ資料の中から、文学者直筆の生原稿、書簡、書画などの名品をあつめている。次のようなコーナーに分かれる。

至宝中の至宝/「文明開化」の時代/「文学界」とその周囲/和歌革新の港/

巨きな山・漱石と、それを支えた人々/「不安」の文学―芥川龍之介を中心に/

「白樺」―直哉の草稿と原稿/社会文学、革命文学の流れ/美の実験・伝統への回帰/大衆文学のひろがり/戦中・戦後―「記憶」の伝承/戦争の重い影/同時代の文学の旗手たち/近現代詩を代表する詩人たち/成田ゆかりの文学者

「呼子と口笛」ノート

最初の「至宝中の至宝」には、樋口一葉「たけくらべ」、漱石「明暗」、多喜二「蟹工船」、太宰治「人間失格」など13点が別置されている。私にはどれもはじめての逸品であるが、目を見張ったのは、石川啄木「呼子と口笛」ノート(土岐善麿寄贈)の、1911615日付の詩稿「はてしなき議論の後」「ココアのひと匙」であった。ノートというよりは横罫の便箋様の紙に、端正な字で清書され、自筆の表紙絵と詩集名のレタリング、挿絵のデザインも色も、詩稿の内容に反して、むしろ明るく若々しく思え、その丹念な筆づかいが伝わってくるようだ。これらは『創作』の7月号に発表されたが、死後1913年、友人土岐善麿の手により『啄木遺稿』に収録されている。

ココアのひと匙     1911615 TOKYO

われわれは知る、テロリストの

かなしき心を――

言葉とおこなひとを分ちがたき

ただひとつの心を、

奪はれたる言葉のかはりに

おこなひをもて語らむとする心を、

われとわがからだを敵に擲げつくる心を――

しかして、そは真面目にして熱心な人の常に有つ

かなしみなり。

 

 はてしなき議論の後の

 冷めたるココアのひと匙を啜りて、

そのうすにがき舌触りに、

われは知る、テロリストの

かなしき、かなしき心を。

「和歌革新の港」というには、やや・・・

 このコーナーの構成は竹西寛子によるが、与謝野寛・晶子、佐佐木信綱、空穂、牧水、白秋、啄木、勇ほか「明治生まれの近代歌人の仕事と日常を偲ばせる品々」を集めたという。「日本の近代短歌がどのような人々に支えられ、現代短歌はこの人達の仕事をどのように享け継ぎ、拒み、発展させているのかを促す仕組みになっている」と「図録」の解説にはあるが、やや総花的過ぎた感があり、「革新」に焦点を絞れなかっただろうか。解説にあるとおり「寛という強烈な個性と非凡な才能によって維持された『明星』が、歌人の垣を払って広く時代の文化人にも稿を求め」た、とあるが、展示を見る限り、徹底していないように思えた。晶子が、夫寛の渡航費用捻出のため書いたという「百首屏風」の方が、妙に生々しかった。近現代短歌史に造詣の深い歌人などによる構成だとやや異なった展示になったかもしれない。<「不安」の文学コーナー>では、「斎藤茂吉が芥川龍之介に与えた処方箋」など貴重なものに思われ、興味深いものもあったが、1936年の永井ふさ子宛の斎藤茂吉書簡(持参便)が突然まぎれこんだりする、その違和感は拭いきれなかった。ふさ子への抑えがたい感情が筆づかいや文面によくあらわれてはいるが。

成田ゆかりの文学者

 今回の展示会の「ご当地」付録のような存在だが、このコーナーが意外と面白かった。私もこの地に20年住んでようやく千葉県民になったということだろうか。

展示は詩人・歌人・小説家として活躍した水野葉舟(18831947)に絞ってはいるが、彼の生き方や交友関係が魅力的に思えた。『文庫』投稿少年は『明星』の鉄幹に拠り、詩や短歌を発表した。ここで知る窪田空穂、高村光太郎を生涯の友とし、1906年詩文集『あららぎ』、空穂との合同歌集『明暗』を出版する。以降発表する小説・小品などは若者に人気が高かったという。関東大震災後1924年に成田郊外の駒井野の開墾地に入り、地域の文学青年や国語教師らの指導にあたり、地方文化の向上に貢献し、その地で没する。印旛郡の木下小学校、船穂小学校の校歌なども作詞する。次男水野清とそれを継いだ孫養子水野賢一(中尾栄一次男)は、この地の保守党議員である。衆議院選挙のたびに、首相と握手している大きなポスターが幹線道路の沿道に続くのは見苦しかったが、文学館へ資料をまとめて寄贈したのは次男清氏と四女澄子氏らしい。「我はもよ野にみそぎすとしもふさのあら牧に来て土を耕す」の歌碑が三里塚記念公園にあるという。

葉舟宛の書簡に水町京子の1通が展示されていた。京子は香川県出身だが、東京女子高等師範学校で尾上柴舟の指導を受けた後、『水甕』創刊、北見志保子らと『草の実』創刊に立会い、1935年自ら『遠つひと』を創刊し、1945年以降の活躍も目覚しかった。葉舟との縁は、京子の夫甲斐重吾が旧制成田中学校教頭を勤めた時期に、成田に2年ほど住んでいたことによる。京子は、夫との暮らしに悩みを抱えながらも教職を続け、晩年は桜美林学園で教鞭をとっていたことなどを思い出す。また、成田中学といえば、新勝寺が経営する学校だが、現在でも、学費も公立校に近く、特色のある私学として地元でも定評がある。成田山公園の書道美術館までの途上には、鈴木三重吉の碑「古巣はさびても小鳥はかよふ 昔忘れめ屋根の下」というのがあったが、彼も成田中学での教頭在職中に「小鳥の巣」を『国民新聞』に連載している。

成田空港へと素通りしがちな、この成田の地に近代文学館ができたこと、成田山新勝寺周辺のかつての文学的な空間に思いを馳せながら、見終わろうとしたとき、階下の入り口が急に騒がしくなったと思ったら、中学生たちがどっと会場に押し寄せてきた。付き添いの先生は「一般のお客さんもいらっしゃるので、静粛に」とさかんに叫んでいた。この種の展覧会に中学生を連れてくるなんて、なかなかやるね、と感心し、出口で係りの人に尋ねると、成田中学校の生徒さんですよ、とのことだった。

                           (20071022日記)

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