「夏目漱石展」、江戸東京博物館へ
どうしても行きたかった、江戸東京博物館 開館してすでに15年という。10月25日、病院の帰りに、ぜひと思い立ったのが、漱石展だった。数ヶ月ごとに通院する病院へは、東西線早稲田から箱根山通りと夏目坂通りの二通りがある。夏目坂、喜久井町といい、この界隈は、漱石とも縁が深い。今日は、若松河田駅から大江戸線で両国へ。深い地下ホームからエレベーターで上がると、目の前が日大一中・一高、元気な声が路上にまで届く。広い通りには街路樹が立派に育って、桜の時期は見事かも知れない。すぐに巨大な博物館の構内に入る。観光バスが数台並んでいる。長いこと手帳にはさみ込んでいた一枚の招待券。思えば、東京女性財団の助成金による『扉を開く女たち―ジェンダーから見た短歌史』(阿木津英さんたちとの共著、砂子屋書房 2001年)刊行後の報告会で報告をしたとき、担当者が申し訳なさそうに差し出したお礼の1枚だったのだ。当時、財団からいただいた90数万円の出版助成金は、私たち共著者3人にとってほんとうにありがたいことだった。その年を最後に、東京都は、その助成制度を廃止したという。そんな思い入れもあって、折り畳んだ招待券を受付に出すと、「これは常設展の招待券です」とのこと。特別展「文豪・夏目漱石―そのこころとまなざし」は、シルバー割引550円での入場となった。入場者に、熟年男性が多かったのが特色だったろうか。
漱石展は、漱石が育った時代・異郷に降り立つ漱石・作家漱石の誕生・漱石が描いた明治東京・漱石山房の日々・晩年の漱石とその死、の6章仕立てになっていた。以下は、それにはとらわれない、気ままなレポートである。
今回の漱石展―自筆資料、書き込み蔵書など初公開資料も多い 江戸東京博物館・東北大学・朝日新聞社の共催で、東北大学は、戦時中、漱石旧蔵図書などの東大による受け入れがかなわないところ、東北大教授であった小宮豊隆・阿部次郎の尽力で購入したといい、朝日新聞社は、今年、漱石の入社100年にあたるという由縁である。なぜ東北大学の図書館に「漱石文庫」があるのか、というのが、図書館勤めが長かった私にはちょっと疑問に思えた。漱石旧蔵資料を東京大学図書館がその寄贈の話を拒んだという経緯が興味深い。夏目家は、蔵書以外の他の資料も含めて「漱石文庫」として別置・収蔵することを望み、東大側は他の一般図書と同様、分類の上、配架する方針だったため折り合いがつかなかったという。
ちなみに、私の経験からも、寄贈資料を受け入れる図書館にとって、いつも悩ましいのが、この問題だったのだ。大学と縁のある方が亡くなったり、退職されたりしたとき、寄贈を申入れられることが多いのだが、たいていは「○○文庫」として別置きしてほしい、というのが、ご本人やご遺族の意向なのだ。たださえ手狭な書庫の利用が分断され、その管理に手間がかかる、というのが図書館側の言い分で、事務的すぎるといえばそれまでだが、すでに所蔵している資料と重複している副本、書き込みや傍線の多い「汚れ本」や雑誌の形態をとらない資料類の扱いも難しい。和綴じの仏教関係資料の受け入れに立ち会ったときは、難儀したことを思い出す。多くの場合、ある程度の取捨を任せいてもらい、蔵書印のほかに寄贈者氏名を付し、寄贈資料受入目録か寄贈資料分類目録などを冊子にして渡し、一般書架に配置するのが零細図書館のできることだったのだが。
今回の展示の東北大学図書館所蔵「漱石文庫」蔵書は、書き込みが多いのが特色で、その書き込みが大事だという漱石研究者の分析もあるくらいだ。研究者の時代と小説家となった時代とでその書き込みが大きく異なるという。また、日記やノート、学生時代の答案、教師時代の試験問題などもあり、私が思わず、覗き込んだのは、図書貸出簿であった。漱石山房に出入りした弟子たちの木曜会メンバーらの知性と賑わいを彷彿とさせるし、金銭貸付簿や何冊もの印税覚書帳からは、漱石自身の几帳面さを伺い知らされるのだった。
浅井忠・樋口五葉・津田青楓 今回の展示では、かなりのスペースを割いて、漱石の美術への関心と著作の挿絵や本の装丁に心砕いていた様子が分かるようなものが多かった。「吾輩は猫である」の『ホトトギス』連載に際しては、浅井忠、中村不折には挿絵を、単行本の装丁は樋口五葉に依頼している。浅井は正岡子規に絵を教えているし、漱石と浅井も留学先で交流を深めている。樋口は、熊本五高の教え子の弟でもあり、漱石は終生、その才能に信頼を置き、彼の装丁は、1908年『虞美人草』(春陽堂)をはじめ高い評価を得ているものが多い。漱石自身も『心』(岩波書店 1914年)の装丁を手がけ、朱色の地に中国の石鼓文の拓本を使い、その装丁は現在も利用されていて馴染み深い。晩年には、漱石に南画を教えていた津田青楓も装丁を手がけ、その芸術性が評価されている。漱石が留学中に触れたアールヌーヴォーや購読していた美術雑誌、購入したが図鑑・画集・絵本などにも影響を受けていたこともわかってくる。雑誌の広告や本の表紙や挿絵など気に入ると切り抜いていたらしいものも、かなりの点数にのぼり、なかなか楽しい展示だった。
松山・熊本・ロンドン・東京 漱石が生まれたのは慶応3年(1867年)、翌年、明治改元だから、明治時代をそっくり生き、大正に入ってまもない1916年に49歳で亡くなっている。生まれてまもなく、里子に出されたが戻され、養子に出されたら養親が離婚したりで、幼少時代は、家庭的には恵まれなかったようだ。22歳、第一高等中学校本科時代に同級の正岡子規と知り合うわけだが、28歳で松山の愛媛県尋常中学校に赴任し、わずかな期間ではあるが、子規と同宿する。「坊ちゃん」の舞台となった松山は一年で離れ、熊本の第五高等学校の教員となるときの句に「わかるるや一鳥啼て雲に入る」があり、軸が展示されていた。
33歳、1900年には文部省給費によりイギリスへ留学する。途上、パリの万国博覧会にも立ち寄ったりしている。ロンドンでは、生活を切り詰めてまでも図書の収集にあたっていた。留学後、長女とともに実家に身を寄せ、次女を出産した鏡子夫人には、産後の経過や入れ歯、フケ止めにいたるまで心配し、ときには「当地には桜といふものなく、春になつても物足りぬ心地」などと望郷の念をつづるなど(1901年1月22日、1902年4月17日)せっせと書いていたらしいが、返事がないことに苛立ったり経済的不安も重なったりで神経衰弱に悩むこともあったらしい。
また、漱石は、日本を出発する直前、病床の子規を見舞っている。子規はロンドンからの消息を喜び『ホトトギス』に掲載、子規には「柊を幸多かれと飾りけり」「屠蘇なくて酔はざる春や覚束な」の句などを送っている(1900年12月26日)。しかし、子規からは、「僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シ・・・」が届き(1901年11月6日)、翌年には、9月19日没の訃報が届く。
1903年1月、帰国した漱石は4月より東京大学講師となるが、徐々に創作活動も活発になり、1907年には請われて朝日新聞社に入社し、いわば専属作家として、作品は朝日新聞に連載されていくことになる。最初の仕事が6月からの「虞美人草」連載であった。1910年、43歳、胃潰瘍のため入院、修善寺の大患、いわゆる危篤に陥ったこともあったが、その後「彼岸過迄」「行人」「心」「道草」などの大作を連載、「明暗」は未完のまま、1916年12月に胃潰瘍で他界する。
博士と喪章と墓石と
この間、1911年は、文部省からの一方的な博士号授与・辞退事件、朝日新聞社入社に尽力した池辺三山の辞職、「朝日文芸欄」廃止、プライベートでは、五女ひな子の死などが重なる。漱石の肖像写真では、もちろん口ひげを蓄え、右ひじをついて視線をやや落としている肖像はあまりにも有名だが、よく見ると左腕には喪章をつけている。1912年の夏、明治天皇の死の直後の写真だ。明治時代の終焉については、たしか「心」でも触れていたと思うが、高校の読書感想文以来のことで覚えていない。今回の展示の中に、天皇の病状悪化に伴い両国の川開きが中止になったことを受け、いわゆる「自粛」ムードを批判している日記の一部分があった(1912年7月20日)。漱石の博士号辞退に見る、権威主義や事大主義への批判、また「自粛」批判は、現代にも通じる興味深いものがあるが、過大評価も過小評価もなく、もう一度、漱石を読み直そうかな、とも思うのだった。
雑司が谷霊園の漱石の墓をずいぶんと前に訪ねたことがあるが、あのとき、墓石が立派だった印象があるが、もう一度確かめたいような気もする。
たまたま出会った、遊行七恵氏のブログ(2007年10月11日)にも、この展示会のカラフルでユニークなレポートがあった。 (http://yugyofromhere.blog8.fc2.com/blog-entry-946.html)
(2007年10月30日)
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