「水野昌雄と現代短歌を語る会」に参加して―水野昌雄の評論、<短歌と天皇制>の軌跡、を話してきました
このところ立て続けに歌集や評論集を出版している水野昌雄さんを囲んで短歌を語る会のようなものを企画しているのでと、発起人の森山晴美さんからお誘いいただいた。水野さんには、20数年前、『風景』にて歌会始についての連載を始めた頃より励ましていただいていた。近頃すっかりご無沙汰しているので、思い切って参加することにした。案内状には、10月20日(土)午後、「水野昌雄と現代歌を語る会」(於フロラシオン青山)、プログラムによれば、15分のスピーチが数人に割り当てられ、私の名もあって慌てた。
水野さんの3冊の評論集を引っ張り出してきて、相変わらずと嫌われそうなテーマだが、問題提起のつもりで、当日私の原稿を載せた。ご覧ください。
スピーチは、筑波杏明、雁部貞夫、小石雅夫、久々湊盈子、今井恵子、三浦槙子の各氏で、私は3番手だった。「もう時間です」の警告を出されなかったのは、そういえば女性だけだったのではないか。皆、話したいことが有り余ってという感じだった。私も17分で危うくセーフというところだった。家で最初用意したものは20分をだいぶ超えていたから、かなり端折った結果ではある。
司会の森山さんと日野きくさんの努力にもかかわらず、結局、休憩時間をとらないまま続行、100人ほどの参加者の中から、穂積生萩、内田紀満、生野俊子、柳川創造、横田晃治、山本かね子の各氏らも指名され感想を述べられた。皆さん、私にはほとんど初めての方ばかりだった。内田さんが、きょうは会いたい人があって群馬からやってきたと、私の本と名をあげてくださったのには驚いた。散会後は、初対面の何人かとお話ができたのがうれしかった。こんなことは久しぶりのことで、正直すっかり疲れてしまった。
水野さんは、いつまでも万年青年の感があって、お元気そのものだった。NDL-OPAC、国立国会図書館の蔵書目録と雑誌記事索引からパソコンで打ち出した「著作目録」はお持ちではないということなので、お渡しできてほっとした。
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水野昌雄の評論の一断面―<短歌と天皇制>の軌跡
こんにちは。水野さんお久しぶりです。
このたびは『硬坐』『百年の冬』2冊の歌集、そして評論集『続歴史の中の短歌』の出版おめでとうございます。きょうは発言の機会をいただきありがとうございます。気の利いたお話もできませんので、私自身にひきつけたテーマとなり、恐縮です。水野さんが、早くより、20代より取り組まれていた「短歌と天皇制」関係評論の軌跡をたどりながら、紹介をさせていただきます。
一寸その前に、
テーマとして「短歌と天皇制」はもはや現代でははやらない、決着済みだ、という声も聞きます。時代は動いている、社会はすでに変わってきているのだから、問題の立て方に無理があるという言い方もあります。というのも、1993年岡井隆が選者に就任して以来、これは岡井自身の言葉ですが、歌会始は「民衆の参加する短歌コンクールとしては本邦最大で、知名度も高い」(朝日新聞夕刊/大阪版1992年9月4日、インタビュー)というスタンスを歌壇全体が取り続けてきたように見受けられます。新聞歌壇選者就任の延長線上に位置づけ、いわば選者自身も“平常心”での就任を装い、周辺も黙認するという体制が確立したような気がします。そして今世紀に入り、2004年永田和宏、2006年篠弘、2008年から三枝昂之の選者就任、2007年の夏には、岡井隆が岡野弘彦に代わり短歌御用掛になりましたが、表面上、ほとんど話題になることもなく、歌壇ジャーナリズムで取り上げられることさえなくなってしまいました。しかし、歌会始の選者になるということは、ほんとうに短歌コンクールの選者や新聞歌壇の選者になることと同列に考えていいことなのでしょうか。それだったら、なぜ、近藤芳美や馬場あき子がならなかったのでしょうか。本人が拒否したということも洩れてきませんでした。国家権力による「選別」のシステムがどこかで機能していると思っています。それでも、岡井隆が選者入りしたときは、歌壇の内外で、「前衛歌人がなぜ宮中へ」というニュアンスで話題になりました。そして、現在はどうでしょうか。しかし、戦後の歌会始の歴史の中で、選者就任についてか何度か問題になったことがありました。
①1947年、茂吉や空穂ら、御歌所とは無縁だった民間歌人が就任したとき
②1959年、国文学者であり、白秋門下の歌人であった木俣修が就任したとき、敗戦直後「八雲」を久保田正文らと編集・発行し、いわば戦後歌壇のオピニオンリーダーとして活躍していたのが彼でした。
③1979年、いわゆる戦中派といわれた、岡野弘彦、上田三四二が就任したとき
④1993年の岡井隆の就任のとき
の4回ほどでした。水野さんの4本の論文は、こうした状況を踏まえて、歌会始選者の沿革のターニングポイント1959年、1979年に、ほぼ呼応して発表されています。
(1)「敗北の記録を超えるために」(『短歌研究』 1959年4月)
水野さんの初期の評論で、文章はやや生硬ですが、論旨は明快でした。発表の『短歌研究』4月号の「読者への手紙」(編集後記)には次のように紹介されています。
「新人水野昌雄氏の『敗北の記録を超えるために』は、周到に用意された論旨を持って、今日の短歌の在り方の根底を探った収穫の、好エッセイです。先月号の『御歌会始をめぐって』と共に、反響を期待します」とあります。もっともその編集後記の冒頭には、「木に花咲き、皇太子御成婚の喜びに昭和の春もたちかえるようです。この4月号はそんな季節に胸ふくらませて編集しました」ともあります。
ジャーナリズム特有のバランスということでしょうか。なお、最初の水野さんの評論集『リアリズム短歌論』(短歌新聞社1970)には、この論文は収録されていません。その辺の事情も、水野さんには伺っておきたいです。
発表は1959年4月ですから、前年58年皇太子は正田美智子さんと婚約、翌59年4月に結婚、いわゆるミッチーブームのさなかでした。歌会始周辺にも、57年に女性選者の四賀光子が就任、59年には木俣修と同時に五島美代子が就任、女性選者二人の時代がしばらく続いたりします。二人の女性歌人は、皇室とは深い関係がありました。歌壇では、数年前に中城ふみ子・寺山修司らがデビューし、塚本邦雄、岡井隆の活躍が目覚しい前衛短歌ブームでありました。歌会始は、それまでは、いわゆる歌壇とはなんとなく一線を画していましが、1956年結成の現代歌人協会(初代理事長五島茂で1965~76年)、日本歌人クラブ、女人短歌会が共催で「歌会始入選者を祝う会」が開かれるようになりました。そして、当時の岡井隆は、その「祝賀会」「現代歌人協会」「歌会始」をつぎのように糾弾しています。
◇「文学であるならば、天皇制と結びついた国家権力に守られたくない。民衆の下からエネルギーで守られてこそ、その資格があるのではないか」(「歌会始は誰のものか」アンケート『短歌研究』 1959年3月)
◇「本来これ(歌会始)は宮中の一儀式でしかない行事であり、民衆の生活とのつながりから言えば、新聞が特に報じなければならぬほどの行事とは思えぬ。」(『現代歌人』創刊号1960年5月)
歌会始に現選者をそっくり含んでいる「(現代歌人)協会」、入選者の祝賀会を開いている「現代歌人協会」、という風に、岡井自身が入会したばかりの現代歌人協会の機関誌『現代歌人』の創刊号で批判していたのです。こうした状況のなかで発表された水野論文を端折ってまとめます。
戦後の第二芸術論を含む短歌否定論を克服できなかったのは、①戦争犯罪人の復帰、戦争責任を曖昧にするイデオロギーの蔓延 ②歌人自体の非近代的思想性と世界観欠如 ③民主主義短歌運動の統一の困難、力量不足、をあげ、これらに対峙するためには、無名の作品への期待、歌会始の華やかな場より民衆の中に現代短歌の文学的な命がある。
と結論づけています。実はこの時代、勤務評定反対闘争、警職法改正反対運動、安保反対運動激化と沈静を経て、高度成長期へと突入する「助走期間」だったといえます。また、皇室ブームの裏側では、深沢七郎の「風流夢譚」への宮内庁抗議、中央公論社の陳謝、『思想の科学』天皇制特集の発行停止事件などにみる天皇制、天皇かかわる小説や言論、思想統制が同時進行している時代であったことを忘れてはならないと思います。
(2)「現代短歌におけるリアリズム」(『短歌』 1979年2月)
(『現代短歌の批評と現実』青磁社 1980、所収)
「リアリズムとは何か。それが定義としての問題ではなく、当為の問題である。いかに生くべきかの問題である」として、片山貞美「ふたりの戦中派」(『短歌年鑑』1979年版)に触れて展開するリアリズム論です。戦中派の片山が同世代の岡野・上田選者就任についての批判への共感が出発点です。片山は、現実直視を避け、閉鎖された観念世界に安住している上田三四二、幻想・情念世界を展開し、現実を見ない岡野弘彦、ときびしく批判しています。
日本経済の高度成長期にあって、短歌の大衆化が進みました。カルチャーセンター、テレビでの短歌講座、昭和万葉集刊行、大岡信「折々のうた」の朝日新聞連載が始まり、さらに木俣修・入江相政らによる歌会始応募の手引が刊行される時代でした。水野さんの短歌、歌壇への危機感がひしひしと伝わってくる論文でした。
(3)「日本的抒情と政治性」(『現代文学と天皇制イデオロギー』1988年)
(『歴史に中の短歌』 アイ企画 1997、所収)
(4)「短歌と天皇制」(社会文学3号 1989年)(同上)
国際的には、1889年天安門事件、ベルリンの壁崩壊、1991年湾岸戦争開始、ソ連共産党解体など、まさに激動の時代で、国内では、1988年から89年にかけて、天皇の代替わりの時期に発表されています。昭和天皇の病状・死去をめぐる報道は過剰なまでにエスカレートし、「自粛」などという社会現象も起こりました。 大喪の礼、即位の礼、立太子の礼などの国家行事が続き、天皇、皇室、歌会始、天皇の短歌などの政治的役割が顕著に語られ、報じられるようになった時代です。とくに昭和天皇の「御製」によって、天皇の心情を読み解く手法が蔓延し、国民を思い、平和を願う「天皇像」が強調されました。
歌壇ジャーナリズムにおいては、1986年『短歌』天皇在位60年記念特集が組まれ、歌壇にも「天皇」のイメージが深く刻まれるような動きのあった時代でした。
水野さんの論文では、昭和天皇の追悼記事において短歌作品は御製、大御歌、お歌、和歌と称せられてさまざまに利用されていたことを指摘しています。論壇・歌壇において天皇を語ることの難しさがさかしらに喧伝されているが、ほんとうに難しいことなのかと疑問を提示し、坪野哲久の短歌を紹介し、私の旧著1988年10月刊行の『短歌と天皇制』のあとがきから引用して「近現代史において天皇がさまざまな場で果たしてきた役割を検証した上で、みずからの天皇・天皇制への姿勢を明確にすることの重要性」を指摘しています。
遡っては、明治期における御歌所批判、歌会始批判を紹介しています。
最後に、水野さんからは、近年の歌会始の動向や選者就任についての考えをぜひお聞きかせいただきたいと思っています。(2007年10月22日)
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