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2007年11月27日 (火)

連休前、フェルメールとオランダ風俗画展

六本木交差点にて

連れ合いは午後遅めに水道橋に所用があるといい、天気のよさも手伝って、フェルメールを見に行こうか、ということになった。六本木の国立新美術館は黒川紀章設計という、その外観や使い勝手はどんなものだろう。「フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展」の混雑が予想されるので早めに家を出た。久しぶりの六本木、というより麻布や表参道あたりまでは来ているものの、この六本木交差点に立つのは何十年ぶりか。たしかに角のアマンドは健在だ。その店を背に交差点から少し進んだところに「国立新美術館近道」とある。飲食店や古いマンションの間に「六本木7丁目プロジェクト」なる再開発のビル工事が続く。路地を抜けると、まず「政策研究大学院大学」の看板、右手が、目当ての国立新美術館である。

 

展覧会、ちょっとその前に

 かつては、東京大学生産技術研究所・物性研究所があったところと聞いている。前者は、駒場キャンパスに、後者は柏キャンパスに移転しているはずだ。文部省がらみの国有地なので政策研究大学院と新美術館に転用したことになる。それにしても、この大学院大学、大田弘子が教授を務めていたことでも知られる大学、埼玉大学に設置されてスタートした大学がいつの間にか、こんなところに移転していたのだ。設置が取沙汰されて、目的がいま一つ分からなかったし、そして、現在何をやっているのかも分かりにくい。かつての中教審大学、筑波大学の大学院版にも思えたのだ。官・産・学に政治が一体となった、短期集中・実務重視、学問の国際化・多様化に備え、社会人・外国人歓迎の研究・教育機関というのが「看板」らしい。だが、国費を投じて新設した意味は何ほどなのか。既存の大学で十分機能は果たせたのではないか。御用学者や審議会メンバーの養成所や待合室にならなければよいが。

 一方、国立新美術館にも、開館までの紆余曲折があるらしいのだ。当初の「ナショナル・ギャラリー」構想は後退して、収蔵品は持たない、学芸員はわずか、貸し展覧会会場という、ハコモノに近いコンセプトになった。たしかに、都美術館のどの企画展に出かけてみても、団体公募展などがびっしりという状況だったから、こうした貸し会場も必要だったには違いない。ハードの後追いにはなるが、ソフトを考え、変えていくのは利用者の当事者意識がカギになるのだろう。

 

フェルメールと「風俗画」

オランダには出かけたことはないが、ベルギーの美術館で出会ったフランドル絵画やルーブル、ウィーンの美術館でのフェルメールに思いを馳せながら、会場に入る。入り口の混雑をひとまず通り抜けると、「牛乳を注ぐ女」の遠近法、光線、絵の具の下まで細部にわたって分析したコーナーがしばらく続いて、ようやく本体が遠くの壁に見える第2室に入った。絵が浮き立つ、かなり強い照明に意表を衝かれたが、「ゆっくり見たい」コースと「遠くから眺めるだけでよい」コースに分かれているのにも驚いた。混雑緩和の便法なのだろうけれど、少々味気ない思いで通り過ぎる。たしかに「本邦初公開」なのかもしれないが、鑑賞者にとって、科学的な解説もコース分けも少し「やりすぎ」で、押し付けがましい感じもする。フェルメールは、この一点のみなのだが、展示の大部分は、展覧会の表題のように、宗教画でもない、歴史画でもない、静物画でもない、室内で働く女性を丹念に、精密に、描き続けた「風俗画」であった。窓からの日差しに微妙な翳を落とす、女使用人たちの服の大きな襟のしわ、大鍋の底のへこみ、籠の少し歪んだ網目、そこここに登場する幼子や犬、猫にも思わず近寄りたくなる親しみを覚える。少なくともここに集められた絵には、酔っ払っている男や女に言い寄る男などが登場するが、働いている男にはお目にかかれなかった。男は外で働き、女はもっぱら家事にいそしむという分業が確立していたのだろう。一方では、ヤン・ステーンの描く乱雑で放埓な室内や家族たちや眠り込んでしまった主婦や女使用人の姿もしばしば描かれているのには、興味を抱かせられる。17世紀の半ば、独立新興国となったオランダの一面への風刺や警告になっているのだと思う。また、「女の仕事」という連作版画は、当時の働く女の姿が克明に描かれているが、カタログの解説によれば、作者は、当時では珍しく女性だったということで、いっそう印象深いものとなった。

時代は一挙にくだって、19世紀の風俗画の中で、ひときわ私の目を引いたのは、そこだけにやわらかい日差しが届いているような、窓辺で読書をする少女を描いた「アムステルダムの孤児院の少女」であった。ニコラス・ファン・デル・ヴァーイという名の画家であった。覚えておこう。

 

全面パソコン検索の図書館へ

 東京駅近くでの昼食後、連れ合いとは別れて、国立国会図書館に出かけた、議事堂裏の銀杏並木も、図書館へと渡る交差点の日当たりのいい数本だけが見事に黄葉していた。ここ国会図書館のなかの様変わりは、出かけるたびに目を見張る。あの膨大なカードボックスと冊子目録が後退して久しいが、本館も新館も入ったところのホールは、検索用のパソコンの列が何重にも連なる。つい先日は、判例を調べに行ったが、冊子の判例集を見ることなく、画面からの操作で必要なコピーが取れるようになっていた。自宅でのネット検索やCDROMでの検索はやっていたものの、ここでは、さらに、その対象は広く、複写もかさんでしまった。今日は、雑誌記事のコピーを取りにきた。閲覧・複写時間の延長はありがたく、民間委託の効用であろう。かつては、昔の同僚に一寸の間、会うのもの楽しみであったし、館内で偶然出会ったりする後輩職員もいたが、今年の三月、一番若かった友人も定年退職してしまった。

はや、暮れかけて、議事堂も、周辺の高層ビルの壁いっぱいに明かりがともると、何枚もの光りの板に照らし出されるようだ。丸の内線の議事堂駅までの数分、いつも走るように通勤していたのは、三十年以上も前のことになる。

家に帰ってみれば、四隅に本が積まれているかのような居間、買いすぎた生協の野菜が転がりだしそうな台所、まるで「ヤン・ステーンの描く部屋」になりそうな・・・。

                          (20071127日記)

 

 

 

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2007年11月24日 (土)

道路は誰のために―佐倉市はなぜ車輌通行止めを拒むのか

危険な道路から命を守るのは誰なのか
いま、私たちの町で、ある小さな橋の車輌通行止めをめぐって、行政と地元住民がもめている。20073月に、地元自治会から車輌通行止めの要請書を署名つきで提出して以来、協議は5回にも及ぶが、まるで平行線なのだ。 というのも、街中を走るモノレールを跨ぐ短い橋の向こう側に、土地区画整理組合による開発が進み、450戸近いマンションの建設工事が始まり、調整池を巡る親水公園もオープンした。将来はスーパー、有料老人ホーム、ケア付きマンション建設が予定され、この橋の車輌及び歩行者の激増は必至となる。私が住む橋のこちら側は20年来の戸建て住宅街で、歩道のない生活道路につながり、小学生・中学生の通学路にもなっている。住宅街の生活道路が幹線道路につながる交差点では何回かの人身事故が発生している。車両の通行による交通事故の危険、騒音・振動・排気ガスなどがもたらす被害が十分予見されたので、車輌通行止めを要望したのだ。ところが、行政は、一度認定して、供用を開始した道路は、道路法により車輌の通行止めは出来ない。そもそも道路というのは車輌をはじめ通行することが目的で開設されたのだから、止めようものなら、行政は利用者に訴えられて敗訴する、というのが車輌を止められない理由だと繰り返す。
危険が目の前に迫っているのになぜ?の思いなのだが、道路管理者の佐倉市との協議は思いがけず難航している。宅地造成の際の6mの盛り土の引下げは井野東土地区画整理組合と、マンション建設工事の工事協定書は施主の開発業者山万と協議を進めてきたのは、自治会内に立ち上げた対策協議会が中心である。協議の合い間には、初当選の新市長との面談、現地視察の実施、地元市議の議会質問もなされたのだが、「担当者は地元との話し合いを続けなさい」という以上の結論は出なかった。国土交通省が開設している「道の相談室」なるところにも相談してみたが、法令解釈については本省に聞き合わせるだのナンなのと言って、時間ばかり食った上、「そんな小さな道のことは自治体が判断することだから、よく話し合うように佐倉市にも勧めたおいた」などと逃げるのだ。

新任の副市長に期待したのだが

 この膠着状態を打開しなければと、実務担当者との距離が市長よりは近いと思われる鎌田副市長との面談をようやく実現した。副市長は県を退職したばかりだが、この佐倉市に在職したこともあり、その手腕で新市長に招かれたと聞いている。現地視察の帰り際、車の窓から身を乗り出して、いつでも相談に来てくださいと、大きく手を振って去ったのが印象に残っている。私たちが主張する、現在の橋の危険性と将来予測のみならず、担当者が決して踏み込もうとしない供用道路の交通規制の実現可能性を、副市長ならわかってもらえるにちがいない、実務担当者の固い頭を何とかしてもらえるかもしれない、という淡い期待があった。私たちは、かなりのエネルギーを費やして、再度の要望書を提出、訴訟になったら負けるという顧問弁護士の弁は同種の判例から簡単に覆ることなどを調べ上げた資料を取り揃えた。

道路法上、車輌通行止めはほんとうに不可能なのか
 
専門家でなくとも、法律や判例を読んでみると、私たちのようなケースで、道路法上車輌通行止めをしないのは、むしろ行政の法令違反になるという構図も見えてきた。
 
行政は、しきりに、一度供用を開始した道路は車輌通行止めなどの規制をかけることができない(道路法4813項)と譲らない。その理由は、1987年の市議会をへて認定された道路であるからと主張する。今回、開発区域から幹線道路に通ずる新たな跨線橋が開設され、駅への近道も認定されたのだから、当該の橋(道路)の車輌通行の代替道路ができたと見るべきだろう。問題の橋(道路)を一度、廃止処分にして、あらたに車輌通行止めの道路として認定しなおすことも法令上可能なのではないか(道路法102項)。一方、その道路認定当時の事情を調べると、いま私たちが住んでいる街が開発され、宅地が販売された時期で、橋の向こう側は、もちろん市街化調整区域で、古くからの神社がある里山と調整池、それをめぐる農道しかなかった。その区域の道路は、主に旧集落の方々が使用し、新住民の私たちが散歩に出かけたり、新米のドライバーが練習に使ったり、たまに最寄りの駅に通じる近道として使用する程度だった。それに、今回、それらの道路の大部分が、実質的に上記のように供用されながら認定されておらず、問題の橋の部分だけが認定されていたことが分かった。「橋以外の道路が認定されていなかった理由がわからない、たんなるミスだったと思う」というのが行政の言い分なのだ。そんな杜撰な認定ならば、その認定を金科玉条のように言い募るのはおかしいではないか、その橋をめぐる環境も激変したと迫るのだが、“不特定多数”の皆さんが一度通行し始めた橋の車は止められない、の一点張りなのだ。

将来の危険が予見できれば予防策を講じる義務がある
 上段のような難しいことを言わなくとも、道路管理者には、「重大な交通事故が発生することは容易に予見できたところであるから、道路管理者としては、自らの責任において対応改善策を講じるべきであった」、さらに「市街地にあっては一般公衆のように供される道路は老若男女を問わず、健常者・障害者を問わず、利用することが社会生活上通常予測されるような通行者と交通方法に対応し、かつ安全、円滑を確保しうる道路状態を保つのでなければ、義務を尽したとはいえない」を主旨とする判決(岡山地裁、昭和59年<ワ>第643号)があることも知った。さらに、近年の司法制度改革により2004年行政事件訴訟法9条に2項が追加され、法令適用に当たっては、条文上の文言のみによることなく、当該法令の趣旨及び目的を考慮するものとする」という主旨の条文が加わったのだ。
 
この条文を知っているかの問いに、私たちとの協議の窓口になっている都市整備課長の「ナンですかそんなことはたしか噂では聞いたことがある」との回答にはあきれてしまった。行政は、何の調査をするでもなく、副市長以下、部長、係員まで、手ぶらで協議に臨んでいるらしく、「出来ない、止めない」の結論ありきの時間稼ぎに過ぎなかったような気もする。

訴えられたら行政は負けるのか
 半年以上に及ぶ市との交渉で、行政は当初よりこのセリフで、私たちの要請を退けてきた。誰が行政を訴えるのか。近隣の住民?将来マンションを購入した人?マンションを建設しているデベロッパーの山万?とただしてみても答えはいつも返ってこない。つい最近の交渉でようやく「不特定多数の、その道路の使用者」だと言い出した。しかし、この考え方は今や前世紀の遺物なのだ。
 
供用道路廃止処分を受けて、一般公衆の通行者、近隣の住民や事業者が行政を訴えた裁判で原告適格が認められない判例はすでに定着しているといっていい。
①昭和41.6.29 水戸地裁  昭和41年(行コ)第3
②昭和42.7.26 東京高裁  昭和41年(行コ)第37
③昭和621124 最高裁   昭和62年(行ツ)第49
④平成 6 131 京都地裁  平成 4年(行ウ)第29
 いずれもさまざまな理由で供用廃止処分になった県道や市道を従来から利用していた一般通行者・近隣住民・事業者などが行政を訴えたケースで、「県道や市道、公の道路を自由に使用する個々人の権利や利益は、法的な利益ではなく反射的な利益に過ぎず、道路法10条による供用廃止処分があった時点で、消滅してしまう」が、「その道路の利用がほとんど唯一の通行手段であり、生活上著しい支障をきたす特段の事情がある場合の利用者に限って、原告適格は認められる」とする判例だった。
 このように長い時間をかけて形成されてきた判例を行政はどのように受け止めたのだろう。ただただ不特定多数の誰かに訴えられるので、さらに将来の交通量を見てからでないと「車輌通行止め」の判断が出来ない、というのは、幻影に恐れをなした問題先送りに過ぎない。たしかに、千葉県大網白里の道路供用廃止処分の無効確認訴訟では、自分の住んでいる家の唯一の出入り口がふさがれて日常生活に重大な支障をきたした者に原告適格を認めた(⑤東京高裁 昭和34年(ネ)第2678号)。私たちが問題にしている跨線橋の実態とはかけ離れている事実関係であることが分かった。

市のかたくなまでの態度の背景は
 
以上のようなことを、私たちは、副市長に対し、現地でも、書面でも、そして今回、口頭でも説明したのだが、次の会議の準備があるからと中座しかけた彼は「道路というものは、車や人間が通行するために建設されたものであるから、今すぐに止めるわけにはいかない」とうつろな目で、ボソッと言うのだ。わが耳を疑ったのだが、そんな幕切れだった。数日前に、彼が地元の市議を呼んで、「問題の橋は将来交通事故が多発しない限り、車輌通行止めは出来ない」と説明したそうだ。こんな回答や説明しかしないからこそ、役人を続けられるのだろう。
 
協議終了後や連絡の電話口でふともらした言葉に、行政の本音が飛び出すことがある。問題の跨線橋の車輌通行止めは、橋の向こう側で、いま地元デベロッパー山万から売り出し中の40軒ほどの建売住宅、一年後には売り出すマンションへのアクセスを気にしているらしいことが分かる。山万と市とは、こと開発、街づくりなどに関して、加えて指定管理者制度の委託先としてかなり濃密な関係であることが顕著なのだ。今回、行政側のかたくな態度には、どうもこの業者への配慮が見え隠れする。そうでないならば、毅然とした態度を見せてほしいところでもある。

道路行政、これでよいのか
 さきに、私は土地区画整理組合内の都市計画道路建設に絡み、行政が用地買収費用として組合側に支出する「公共施設管理者負担金」の算定経過・基準への疑問を呈した(当ブログ「道路用地費11億円はどのように決まったか―公共施設管理者負担金の怪13200633日・7日・10日)。今回の問題の橋(道路)も、1980年代の開発時にデベロッパー山万が建設した道路の一部なのである。道路建設に国や自治体が直接関与するより買収工作から完成までを事業者に投げて、後は管理するだけという道路が多い。
 先ごろ、国交省が道路整備計画素案を発表した。その財源がこの先10年間で68兆円という巨額なのだ。その使途として、高速道路の整備、渋滞解消と並んで取ってつけたように、「通学路の安全確保」などとある。笑って済ませるには、ことは深刻すぎる。要するに、財源のうち60兆円は国・自治体からの税収、あとが高速料金なのだが、財源はすべて使い切ろうという数字合わせで、一般財源へ回す分はないとした計画である。天下り人事のもとにおける水増し事業・手抜き事業が強化される仕組みである。目的税の怖さはここにある。消費税の福祉目的税化、年金保険料みたいに湯水の如くに使った上に、杜撰な管理。私たちは、どこまで搾り取られるのだろう。
 いま取組んでいる、わが町のこのささいな交通安全対策ですら、行政の壁は厚いのだ。

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