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2007年12月30日 (日)

喫茶店の思い出はめぐる~その閉店の軌跡

銀座「ルノアール」からコピー機が消えた
 12月半ば、短歌の小さな集まりの会場は、銀座6丁目ルノアールのマイ・ルームだった。歌集の批評会だったので、A4一枚のメモを用意し、出席者の数を確かめてから店内でコピーを取るつもりだった。一階に降りてコピー機を探すが、「なくなりました。近くにコンビニがあります」とのこと。

ルノアールは、「喫茶室」の冠称がつき、ゆったりとしずかに話せる雰囲気の店で、ビジネスマンにも好まれ、店内にはコピー機が設置されているのが特色だったのに!知らない間に様変わりしていたのである。

「談話室滝沢」の閉店

 様変わりといえば、せんだって、池袋の実家に近い、池袋東口の「談話室滝沢」を探したのだが見つからないことがあった。「滝沢」は20053月、なんと全店閉店していたことをつい最近知った。池袋店と新宿店は、銀座の花椿通り「椿屋珈琲店」の経営になっているという。銀座の「椿屋珈琲店」には、買い物帰りに、一度連れ合いと寄ったことがあるが、格調高い、落ち着いた空間ではあったのだが、池袋も新宿もまだ新しくなってからは訪ねるチャンスがない。新宿の「滝沢」は、1970年代、まだ知り合ったばかりの連れ合いと入ったことがある。当時の店内には、琴の音が流れ、足元の流水と飛び石が印象的だったことなどが思い出される。「滝沢」の店内はあくまで明るく、ウェイターやウェイトレスはアルバイトでなく、全員が社員で徹底した接客教育がなされているという評判だった。いまやスタバやドトールに押されてしまったのだろうか。当時は、うっかり知らない店に入ると、暗い照明の、仕切りの高い「同伴喫茶」なる店が結構多かったのである。

 

大学歌人会と「カスミ」「大都会」
 大学の最寄り駅だった茗荷谷は、たしかに学生街ではあったのだが、安保闘争の真っ盛りで、正直なところ、近くの喫茶店の名前など思い出せない。むしろ、ラーメンや天丼、いなりずしの店などに出入りしていたことの方が記憶に残っている。当時の地下鉄丸の内線は池袋-赤坂見附間しか走っておらず、全線使えた定期券で、そのパスを使って集会や国会への請願デモに時々出かけたものである。ノンポリ学生の日常でもあった。

 現在の茗荷谷は、結構おしゃれな、マンションが建ちならぶ街となって、1978年閉学の母校のおもかげはない。大方は公園になり、残された古い校舎には文科省関係団体がおさまっているようだった。

 大学では、新聞部と短歌会に入ってみたが、新聞部の部室では、相当の猛者たちがケンケンガクガクの議論をしていることが多く、訳がわからないまま、23回、出版社に広告取りに行かせられたくらいで、退会してしまった。短歌だけは今でも続けているというわけだ。当時は、都内の大学横断の大学歌人会というのがあったが、もはや風前の灯で、参加者といえば私たちの大学の故林安一さん、野地安伯さん、津田正義さんや国学院の故岸上大作さん、高瀬隆和さんの名前を思い起こす程度だ。歌会には、渋谷道玄坂の「カスミ」を何度か使っていた。その「カスミ」も、暖簾わけの「CASUMI」(元住吉)のホームページによれば、1983年には閉店したという。高田馬場の「大都会」の一室を借り切って、国学院のOBだった故阿部正路さんら歌集合同出版記念会「明日を展く会」があったことはかすかに覚えているが、最後列に私もおさまっている記念写真が最近出てきた。

「田中屋」か「ボストン」か―目白界隈のスイーツは
 大学卒業後、学習院大学に2年間勤めていたことがある。目白界隈の喫茶店といえば「田中屋」なのだが、当時、清水幾太郎教授が贔屓にされていた「ボストン」のケーキにはファンも多かった。昼食は、輔仁会館の食堂で済ますことが多かったが、教授たちはよく「華天園」の出前も利用していた。私が勤務していた共同研究室に面した窓からは大学本部棟と1960年竣工のピラミッド校舎が見下ろせ、前川国男設計のその中央教室は、当時の斬新な発想が話題を呼び、映画やテレビドラマなどにもよく登場していた。そのピラミッド校舎が、キャンパス再開発のため、2008年には解体されてしまい、来月1月には「懐かしの<ピラ校>にさよならを!」の見学会が開かれるというではないか。私の在職中に学習院は85周年を迎え、天皇・皇后を迎えて記念行事が行われ、職員として後列に並んだことも思い出す。なお、上記の喫茶店「田中屋」はすでに10年も前に閉店し、同じ場所のビルの地下1階に、今は「目白田中屋」という洋酒専門店になっていることが分かった。品揃えでも一目おかれている店とのことだ。


 当時、ポトナム短歌会や「閃」短歌会の<若手>会員だった私は、歌会や上京会員の歓迎歌会の会場係をやらせられ、下落合に近い「きかく寿司」をよく使ったものだったが、健在なのだろうか。

 

「社会党文化会館」か「憲政記念館」か
 2年の私学勤めの後、私は永田町の国立国会図書館の職員となった。界隈の喫茶店といえば、館内のそれであり、少し足を伸ばすとしても、社会党文化会館、憲政記念館、都道府県会館などのレストランであった。その名も硬い施設だったから、珈琲の味もいま一つだった。さらに昼休みのジョギングコースであった内堀通りには、国立劇場「あぜくら」、東条会館、半蔵門会館などがあり、さらに足をのばすと赤坂プリンス、フェアモントなどがあるが、ホテルでのお茶は、快適ではあるものの、当時の若者には手が届かない値段だった。 私たちの職場は、当時800人以上の職員が働いていたが、職員同士の結婚が多く、少し遠出した店に、意外なカップルを発見して噂になることも多かった。

 

 今では、1年に数回、調べもので通う国会図書館は、出かけるたびに工事中の模様替えがあって不便していたが、このところようやく落ち着いた。昔の目録室からカードボックスや冊子の蔵書目録は姿を消し、検索・閲覧申し込みはすべて機械化され、判例のコピーなども閲覧しながらクリック一つで複写が取れるようになったことはありがたいのだが、それ以上を望むのはたんなる感傷なのだろうか。新館の喫茶室はときどき利用するが、緑茶と和菓子のセットもある。

 

1970年代、神楽坂の「軽い心」、神田の「小鍛冶」
 ポトナム短歌会の月例歌会が、神楽坂赤城神社脇の東京都教育会館で開かれていた頃は、坂下に大きなネオンサインを掲げた「軽い心」という名前の店で、二次会になることが多かった。歌会での論議が足りない気分で、三々五々神楽坂を下ってきたところに、「軽い心」はあった。私の第一歌集『冬の手紙』(1971年)の批評会もこの教育会館だった。批評会には日常的にはあまり寄り付かなかったが阿部静枝先生も出席してくださり、豊島区役所のエレベーターで会った、まだ健在だった頃の私の父に「光子は大丈夫でしょうか」と声を掛けられたという話しをされて、不覚にも涙したことを覚えている。『冬の手紙』を手がけてくれた増田文子さんと選歌や編集の打合せを何度かしたのが、神田北口の「小鍛冶」であった。ショートケーキで有名だった、その「小鍛冶」も、ごく最近閉店したらしいのだ。


名古屋へ、そして千葉
 
結婚した当時、夫の職場は名古屋だったので、仕事を続けたかった私は名古屋に通う一年間を経て、転職・転居が適った。それからは、育児をしながらの短大図書館勤務。幸いにも歩いて5分の職住近接、娘が6年間通った保育園は自宅の斜め前、5年間通った学童保育所は自転車で45分ほどだった。喫茶店でお茶を飲むようなゆとりも必要もなかったような暮らしだった。名古屋で思い出すことがある。短大前の通りに、イート・インのパン屋が開店した。その開店祝いのいくつかの花かごから、店のオープンと同時に待ち構えた主婦たちによって、あっという間に抜き取られてしまうのを目撃した。街で、むき出しの小さな花束を持っている主婦たちに出遭ったら、どこかで美容院が開店したか、レストランがオープンしたか、そんなところである。名古屋の、この慣習には驚いた。何しろ、花かごをビニールでしっかり覆ったり、店内の奥まったところに置いてない限り、たちまち生花は抜き取られてもよいことになっているらしいのだ。名古屋は「お値打ち」かどうかが、判断の基準になるという実利的な風潮の強い土地でもあって、おかげで、保育所・学童保育所がかなり進んでいて、私も勤め続けることが出来たとは思って、感謝するところも大きいのだが。

以降、1988年千葉県に転居した以降も、喫茶店とは縁のない日常となっていた。それでも、自治会で何度か利用した、同じ町内の喫茶店「ホームズ」は二十年以上営業していたのだが、昨年、オーナーの奥様が亡くなって閉店し、カメラマンでもあったご主人が先月引っ越された由、自治会の回覧板で知ったのだった。ケーキは奥様が焼いていたし、1日わずかしか焼かなかった食パンやバタロールはパン屋さんのパンとは一味違っていたのにとさびしいことだった。

 

知らない街のカフェで

近頃では、鑑賞の後の美術館のカフェ、日帰りの小さな旅の地で見つけた喫茶店でのひとときが、私にはうれしい。それに、この10年間、ときどき出かけた海外での、歩き疲れた後のカフェでの珈琲は格別であった。ウィーンのSILK、プラハのカフェ・ミレーナやアヴィニヨンの美術館前の小さなカフェ、ブルージュの旧市街広場のにぎやかなカフェ、もう一度出かけてみたい・・・。

 

「滝沢」閉店で始まった、喫茶店の思い出めぐりでは、思いがけず、多くの店が、すでに前世紀に閉店の憂き目を見ていることがわかった。ささやかな青春の軌跡が消し去られるような寂しさである。喫茶店―経済成長の申し子でもあったのだろうか。景気が下降線をたどり、生活様式の変容、文化の多様化、コミュニケィションの閉塞などと重なり、いわば零細の個性的な喫茶店は消え、チェーンやフランチャイズ方式の店のみが生き残れる時代になってしまったのだろうか。(20071229日記)

 

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