「NHKetv特集・禁じられた小説」を見て
『禁じられた小説~7000枚の原稿に見る言論統制』
(2008年1月27日夜10時~ NHK etv特集)
番組に登場した、元改造社の編集者だった高杉一郎さん99歳の姿と発言は鮮烈なものだった。放映の直前、1月9日に亡くなられたという。言語は明瞭だが、時に言いよどみながらも、当時の編集者としての苦渋と誇りを語りおおせた後の表情を忘れることができない。
また、番組の中で紹介された一枚の集合写真。改造社が廃業に追いやられた1944年7月31日、会社の屋上ででも撮影されたのだろうか、前列中央の山本実彦を囲んだ社員一人ひとりの沈痛な面持ちと悔しさを画面は映し出していた。その表情のたとえようもない暗さと重さには圧倒されてしまった。直後に応召した若い高杉さんも後列に立っていた。
表題にある、7000枚の原稿というのは、改造社の創立者山本実彦の遺族が1999年、出身地の鹿児島県川内市まごころ文学館に寄贈した、作家たちの生原稿だった。『改造』『女性改造』『短歌研究』『文芸』などの執筆者90人余りの原稿であった。会社の設立が1919年、改造社の廃業が1944年、敗戦直後1946年までの原稿ということは、さまざまな言論統制の果てに活字となった「作品」とは異なる、執筆者自筆のメッセージと編集者の朱筆に苦渋を読み取ることができるのだ。
番組では、若い女子アナウンサーと日本近代文学専攻の紅野謙介日大教授が案内役をつとめる。紅野教授は、当時の言論統制・出版統制にはa)伏字 b)頁削除(切取り) c)未発表、の3パターンがあったとして、次のような事例をあげていた(書誌的事項は、2007年発売の雄松堂書店のDVD版『山本実彦旧蔵「改造」直筆原稿』の原稿一覧表により補った。発行年が前後するが、番組への登場順である)。
①荒畑寒村「紀伊国屋文左衛門」:共産主義的思想への言及部分の数行が伏せ字に
なる。 (『改造』講談号1927年7月)
②武田無想庵「『真生活』へ」:編集者による200字の伏せ字、さらに100字の伏せ字。内務省警保局による内検閲が慣例化していた。発刊後警視庁から発売禁止処分を受ながらも、内検閲を経ていたため発禁処分が解除になった。(『改造』現代支那号 1926年7月)
③武者小路実篤「雑感」:「朝鮮人暴動化」のデマについての見解部分、朝鮮人関係箇所の伏せ字多数。 (『改造』震災特輯号1923年10月)
④中里介山「夢殿」:内検閲済みのあった「日本書紀」に由来した天皇暗殺場面の印刷・配本後の頁の切り取り処分を受け、連載中止にいたる。(『改造』1927年7月)
⑤織田作之助「続夫婦善哉」:未掲載。
伏せ字をめぐっては、①②において、『改造』編集者の遺族のもとにあった父親の未発表原稿「発禁談義」から、「内検閲」の実態、編集者と内務省警保局実務担当者との阿吽の呼吸(?)や警保局と警視庁との関係などが浮き彫りにされた。
③では、関東大震災後の戒厳令下、デマや噂を前提にした当局の朝鮮人検挙や虐殺については、自警団を利用した実態を姜徳相元一ツ橋大学教授は指摘していた。自警団に朝鮮人を見分ける方法として「君が代」を歌わせたり、濁音の多い単語を教えたりしたのは国家権力の組織的な手法であったと断言、これらがきっかけになって、民衆自身の批判力が徐々に失われていったのではないか、と述べていた。
④においては、内検閲済みで、事前の広告でも大々的に扱っていた部分が印刷後頁切取り処分となった、出版社側の経済的打撃も大きく、以降は、内検閲廃止とあいまって、出版社側の安全第一主義の自主規制が主流となっていったという。
⑤の正編「夫婦善哉」は1940年『文芸』に掲載され、売春を暗示する箇所の伏せ字があったという。これまでも続編の存在を示す紙片はあったというが、いわば「幻の」完全原稿であったわけである。番組の最後の方で、沢地久枝は、国家や軍を批判する作品でもなく、ひたすら庶民の暮らしを描いたにすぎない、風俗的な、時には情痴的な作品すらも統制の対象になることの恐ろしさを語り、最初の自主規制がやがては自縄自縛につながることを警告していた。
しかし、文学者や執筆者たちも昭和初期には、菊池寛や久米正夫らによる「発売禁止防止同盟」などの動きもあったが、言論統制、出版統制は過酷さを増していった状況が語られる。紅野教授は、抵抗できずに追いつめられていった彼らをどこまで批判できるか、と問題提起しながら、自主規制と統制との戦いの実態を検証する、現代的な意義を説いていた。また、成田龍一日本女子大教授からは、言論統制は、自主規制という形で創作者のイマジネーションを萎縮させ、読者との信頼関係も損ない、現代の人々の損失も大きい、という趣旨の発言もあった。
冒頭で触れた高杉さんは、敗戦後4年間シベリアに抑留され、帰国後一年かけて書いた『極光のかげに』(目黒書店 1950年、後岩波文庫)は、シベリアの人々への温かいまなざしも伝える、貴重な体験記だったし、もともと英文科卒業のエスペランティストで、加えてロシア語をマスターした、国際的な教養を身につけた、理知の人であった。戦後の創作活動、翻訳活動には目を見張るものがある。スメドレー『中国の歌ごえ』、『エロシェンコ全集』3巻はじめ、英米・ロシア児童文学の翻訳、なかでも、私にとってフィリッパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』(岩波書店1967年)は忘れがたい。傍ら、静岡大学、和光大学で後進の指導にも当たっていた。高杉さんが編集者時代を顧みて、とつとつと語った「生きるために、国の立場を考慮しながら編集を続けたこともある。デリケートな問題で簡単には言えないが、戦争に入ってからは自由に発表できなかったこともある。コントロールされたというだけでなく、自身のうちの問題もあった。発売禁止を避けたい、発禁を避けながらも自分たちのやった仕事には<誇り>を持っている」という趣旨のことばの重みは、戦後の高杉さんの生き方に裏づけられているのではないかと、私は思う。
2月8日、朝日新聞夕刊「惜別」欄の高杉さんの記事でシベリアから帰国後、故郷の家族のもとに戻ったその日に撮った家族写真を目にした。穏やかな表情のなかにも、それからの戦後を生きる強固な意思が感じられるのだった。NHK放映の前日の1月26日が葬儀であったという。
いま、私は、戦時下の詩歌朗読運動について調べている最中で、「大東亜戦争」が始まった頃から、指導的な詩人・歌人たちが「国語醇化」「戦意昂揚」の名のもとに動員されていく様相を垣間見た。この番組からのメッセージを銘記しながら、言論統制の実態を検証し、現代の表現者やメディアの問題を考える手立てにしたいと思う。
(2008年2月10日記)
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