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2008年2月24日 (日)

「イル・ポスティーノ」を見ました

「イル・ポスティーノ」(1994年)~詩人ネルーダと郵便配達夫の交情

         ―ことばの海に揺れる船は―

 ナポリ沖の小さな島に亡命してきたチリの国民的詩人パブロ・ネルーダと郵便配達夫のイタリア青年との交流が、地中海と小さな漁村を背景に、丁寧に描かれてゆく。「愛と革命」の詩人ネルーダの俗っぽい一面も、仕事は詩人宛ての郵便物を届けるだけという配達夫の純朴さ、共産党員という一途さを垣間見せながら、国を超えた、老若を超えた友情、詩を通じての師弟関係がほほえましく、展開される。

ネルーダに届けられるファンレターを運ぶ青年が、詩人が口にする「隠喩」とは何かと尋ねる。「別の言葉で説明すると詩ではなくなる」との答えに戸惑いながら、いつしか詩における「隠喩」を体得していく過程が興味深かった。港の郵便局から岬の丘の上のネルーダの家まで、自転車での往復、時には詩人を案内、散策し、詩作の教えも乞う。時には、青年の発するナイーブな、鋭い質問に詩人が頭を抱える場面もある。やがて、この少し晩生の青年も食堂の娘と恋に落ち、詩人の力を借りながら結婚にこぎつける。島の下水道工事をめぐる政治家の利権なども絡み、港町が翻弄されるさまなども淡々とユーモアもって語られる。ネルーダは、母国での逮捕命令が解かれ、あわただしく帰国してしまう。青年にはこれまで濃密だった時間の空白をなかなか埋めることができない。彼は、上司であり、ネルーダを尊敬してやまない郵便局長と新聞切抜き帖を繰りながら詩人のその後の活躍に思いを馳せ、島を讃えていた詩人の言葉を懐かしむ。詩人の家に残されていた録音機で、二人は、打ち寄せる波、木立の風、巻き上げられる魚網、夜のしじま、果ては身ごもった青年の妻のもう一つの心音にいたるまで、島にまつわる「音」を採取、それをネルーダに送ろうと思いつく。録音に添えられる簡明なナレーションは、一つの長編詩のようにも聞こえ、美しい「映画詩」を見るようでもあった。

数年後、ネルーダは、突然、この島に立ち寄って、青年との再会を果そうと港の食堂を訪ねるのだが、その妻と幼子から思わぬ成り行きを知らされる。妻の出産を間近に控えていた青年は、イタリアの共産党大会に参加し、自らの詩を朗読するために島を離れたのだが、その集会で警官たちの挑発にのった群集が逃げ惑う中、事件に巻き込まれ、すでに死亡していたのだ。思いがけないラストではあったが、二人の男の物語は、優しく胸に迫るものがあった。

ネルーダのイタリア亡命時代と1970年人民連合のアジェンデ政権のもと駐仏大使として赴任、71年にはノーベル文学賞受賞などの活躍の時期が、映画ではうまくつながらないのであるが、彼が島に再訪したのが、1972年フランスで病を得て、帰国する途上ではなかったか、と思う。帰国後、癌と闘病中であった1973911日、ピノチェットの軍事クーデターによる精神的ダメージも大きく、924日に、69年間の波乱の人生を閉じる。彼の詩集も読んでみたいが、スペインでの人民戦線支援、反ファシズムのためのソ連支援、1945年チリ共産党入党、ベトナム戦争ではアメリカを批判し続けた、強靭で、不屈の精神にも分け入ってみたいと思う。

青年を演じたマッシモ・トロイージは、もともと喜劇俳優だったが、この映画の撮影終了直後に持病の心臓病で急逝、彼にとって、まさに命をかけての最後の仕事となった。ネルーダの先鋭的というよりはむしろヒューマンな、親しみやすい一面をたくみに演じていたフィリップ・ノワレも2006年に76歳で亡くなっていた。

            2008221日、NHK衛星映画劇場放映)

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2008年2月23日 (土)

青葉の森公園の紅梅がもうすぐ満開です

~別れと出会いの季節がまた~

 21日、千葉市ハーモニープラザでの歌会のあとは、青葉の森公園の観梅へということになった。公園の階段をのぼりきると、ちょっと先には満開に近い紅梅の幾本が続き、その合い間に、白梅がほころび始めていた。青竹を利用した品種表示の札も新しい。それを頼りに梅林を進むと八分咲きの紅梅は「八重寒紅」とあり、だいぶ咲き始めた白梅は、「竜峡小梅」「玉牡丹」「新冬至」などの優雅な名前を持っている。なかでも枝振りが立派で、花片がやや緑がかかっている「青軸」という品種も見かけた。

メンバーが持ち寄ったおやつをベンチでつまみながら、文字通り雲ひとつない青空の下、いつになくのんびりと過ごしたのだった。この歌会は、細々ながら五年ほど続いているが、幾人かはすでに辞められたし、あたらしく入会された方もいる。この三月をもって辞められるSさんは、植物の生態にめっぽう強く、足元の雑草の小さな花も見逃さない。千葉市立動物園でのボランティア活動も長いというだけあって、短歌は、いつもやさしくて、読む者を和ませてくれた。近頃話題になるのは、一昨年の秋までメンバーだったWさんで、一番若かったのにもかかわらず文法や仮名遣いにもきびしかったが、県の短歌大会やNHK短歌で上位入選されているということだった。

歌会の作品をみると、自らの病いや身内の介護などに取材するものが多いが、旅行や家族を歌った作品に、一同ほっとすることもある。少女期を過ごした戦中・戦後を歌い続ける方もいらして大いに刺激を受け、思わず襟をただすこともある。毎回、近現代の歌人研究を行っているが、この頃はメンバーの自発的な発表もあって、前回は青森高校の後輩でもあるHさんの寺山修司、きょうはTさんの山田あきだった。山田あきの歌は難しいという人が多かったが、明治の女の挑戦や限界にも話は及んだ。そのTさんは農繁期になると、山梨県の別荘暮らしとなり、会はしばらく休まれる。

春は、別れと出会いの季節という。あたらしい短歌との出会いの季節かもしれない、ささやかな期待を秘めて青葉の森公園を後にした。(2008223日記)

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2008年2月10日 (日)

「NHKetv特集・禁じられた小説」を見て

    『禁じられた小説~7000枚の原稿に見る言論統制』

2008127日夜10時~ NHK etv特集)

 番組に登場した、元改造社の編集者だった高杉一郎さん99歳の姿と発言は鮮烈なものだった。放映の直前、19日に亡くなられたという。言語は明瞭だが、時に言いよどみながらも、当時の編集者としての苦渋と誇りを語りおおせた後の表情を忘れることができない。

 また、番組の中で紹介された一枚の集合写真。改造社が廃業に追いやられた1944年7月31日、会社の屋上ででも撮影されたのだろうか、前列中央の山本実彦を囲んだ社員一人ひとりの沈痛な面持ちと悔しさを画面は映し出していた。その表情のたとえようもない暗さと重さには圧倒されてしまった。直後に応召した若い高杉さんも後列に立っていた。

表題にある、7000枚の原稿というのは、改造社の創立者山本実彦の遺族が1999年、出身地の鹿児島県川内市まごころ文学館に寄贈した、作家たちの生原稿だった。『改造』『女性改造』『短歌研究』『文芸』などの執筆者90人余りの原稿であった。会社の設立が1919年、改造社の廃業が1944年、敗戦直後1946年までの原稿ということは、さまざまな言論統制の果てに活字となった「作品」とは異なる、執筆者自筆のメッセージと編集者の朱筆に苦渋を読み取ることができるのだ。

番組では、若い女子アナウンサーと日本近代文学専攻の紅野謙介日大教授が案内役をつとめる。紅野教授は、当時の言論統制・出版統制にはa)伏字 b)頁削除(切取り) c)未発表、の3パターンがあったとして、次のような事例をあげていた(書誌的事項は、2007年発売の雄松堂書店のDVD版『山本実彦旧蔵「改造」直筆原稿』の原稿一覧表により補った。発行年が前後するが、番組への登場順である)。

①荒畑寒村「紀伊国屋文左衛門」:共産主義的思想への言及部分の数行が伏せ字に

 なる。                   (『改造』講談号1927年7月)                          

②武田無想庵「『真生活』へ」:編集者による200字の伏せ字、さらに100字の伏せ字。内務省警保局による内検閲が慣例化していた。発刊後警視庁から発売禁止処分を受ながらも、内検閲を経ていたため発禁処分が解除になった。(『改造』現代支那号 19267月)

③武者小路実篤「雑感」:「朝鮮人暴動化」のデマについての見解部分、朝鮮人関係箇所の伏せ字多数。          (『改造』震災特輯号192310月)

④中里介山「夢殿」:内検閲済みのあった「日本書紀」に由来した天皇暗殺場面の印刷・配本後の頁の切り取り処分を受け、連載中止にいたる。(『改造』19277月)

⑤織田作之助「続夫婦善哉」:未掲載。       

伏せ字をめぐっては、①②において、『改造』編集者の遺族のもとにあった父親の未発表原稿「発禁談義」から、「内検閲」の実態、編集者と内務省警保局実務担当者との阿吽の呼吸(?)や警保局と警視庁との関係などが浮き彫りにされた。 

③では、関東大震災後の戒厳令下、デマや噂を前提にした当局の朝鮮人検挙や虐殺については、自警団を利用した実態を姜徳相元一ツ橋大学教授は指摘していた。自警団に朝鮮人を見分ける方法として「君が代」を歌わせたり、濁音の多い単語を教えたりしたのは国家権力の組織的な手法であったと断言、これらがきっかけになって、民衆自身の批判力が徐々に失われていったのではないか、と述べていた。

 ④においては、内検閲済みで、事前の広告でも大々的に扱っていた部分が印刷後頁切取り処分となった、出版社側の経済的打撃も大きく、以降は、内検閲廃止とあいまって、出版社側の安全第一主義の自主規制が主流となっていったという。

 ⑤の正編「夫婦善哉」は1940年『文芸』に掲載され、売春を暗示する箇所の伏せ字があったという。これまでも続編の存在を示す紙片はあったというが、いわば「幻の」完全原稿であったわけである。番組の最後の方で、沢地久枝は、国家や軍を批判する作品でもなく、ひたすら庶民の暮らしを描いたにすぎない、風俗的な、時には情痴的な作品すらも統制の対象になることの恐ろしさを語り、最初の自主規制がやがては自縄自縛につながることを警告していた。

 しかし、文学者や執筆者たちも昭和初期には、菊池寛や久米正夫らによる「発売禁止防止同盟」などの動きもあったが、言論統制、出版統制は過酷さを増していった状況が語られる。紅野教授は、抵抗できずに追いつめられていった彼らをどこまで批判できるか、と問題提起しながら、自主規制と統制との戦いの実態を検証する、現代的な意義を説いていた。また、成田龍一日本女子大教授からは、言論統制は、自主規制という形で創作者のイマジネーションを萎縮させ、読者との信頼関係も損ない、現代の人々の損失も大きい、という趣旨の発言もあった。

冒頭で触れた高杉さんは、敗戦後4年間シベリアに抑留され、帰国後一年かけて書いた『極光のかげに』(目黒書店 1950年、後岩波文庫)は、シベリアの人々への温かいまなざしも伝える、貴重な体験記だったし、もともと英文科卒業のエスペランティストで、加えてロシア語をマスターした、国際的な教養を身につけた、理知の人であった。戦後の創作活動、翻訳活動には目を見張るものがある。スメドレー『中国の歌ごえ』、『エロシェンコ全集』3巻はじめ、英米・ロシア児童文学の翻訳、なかでも、私にとってフィリッパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』(岩波書店1967年)は忘れがたい。傍ら、静岡大学、和光大学で後進の指導にも当たっていた。高杉さんが編集者時代を顧みて、とつとつと語った「生きるために、国の立場を考慮しながら編集を続けたこともある。デリケートな問題で簡単には言えないが、戦争に入ってからは自由に発表できなかったこともある。コントロールされたというだけでなく、自身のうちの問題もあった。発売禁止を避けたい、発禁を避けながらも自分たちのやった仕事には<誇り>を持っている」という趣旨のことばの重みは、戦後の高杉さんの生き方に裏づけられているのではないかと、私は思う。

28日、朝日新聞夕刊「惜別」欄の高杉さんの記事でシベリアから帰国後、故郷の家族のもとに戻ったその日に撮った家族写真を目にした。穏やかな表情のなかにも、それからの戦後を生きる強固な意思が感じられるのだった。NHK放映の前日の126日が葬儀であったという。

いま、私は、戦時下の詩歌朗読運動について調べている最中で、「大東亜戦争」が始まった頃から、指導的な詩人・歌人たちが「国語醇化」「戦意昂揚」の名のもとに動員されていく様相を垣間見た。この番組からのメッセージを銘記しながら、言論統制の実態を検証し、現代の表現者やメディアの問題を考える手立てにしたいと思う。

2008210日記)

                   

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NHK夜の7時のニュース、おかしくないですか

きょう、NHKの地域スタッフと当地の支局職員が集金に来た。昨年受信料支払い再開にあたって、集金時には職員を伴ってほしいと申し入れていたためだ。その折、最近の夜7時のテレビニュースの放送内容・放送時間の配分に偏向があるのではないか、と伝えた。

折も折、278日の2日間の夜7時のニュースを丸ごと見る機会があったからだ。7日のトップニュースは時津風部屋元親方逮捕が間近というニュースだった。そのニュースが異常に長いのに気がつき、以後、他のニュースも所要時間を記録してみた。ストップウォッチではないので正確を欠くかもしれないが、なんと、そのトップニュースは711分過ぎまで続いた。2番目が中国製餃子事件であり、3番目が北京オリンピックに最高齢で出場が決まった馬術選手のニュースだった。8日のトップニュースも元親方逮捕関連のニュースで6分半、2番目が中国製餃子事件、3番目が衆院予算委員会の質疑だった。その他のニュースに費やされる時間といえば、長くて3分余12分、なかには秒単位の配分もある。

相撲が「国技」だからといって、NHKが独占中継をしているからといって、海老沢元NHK会長が横綱審議会委員長だからといって、特別扱いなのだろうか。一人の若い力士の命にかかわる痛ましい事件ではあるが、事件当初から今日に至る相撲協会や愛知県警の対応こそが問題ではなかったのか。これまでの相撲界の体質をこそ問題にしなければならないはずなのに、警察発表を追うような内容を連日報道する必要があるのだろうかと疑問であった。それに時間配分があまりにも偏りすぎてはいなかったか。この2日間は、衆院での予算委員会が開催されていて、ガソリン税、道路特定財源などについて、与野党のきびしい質疑が続いていたのである。国会関連のニュースはともに3分余に過ぎなかった。民放のワイド番組ですら、8日のトップニュースは、元親方逮捕ではなかった。公共放送を担うNHKにこそ、ニュース番組編成にバランス感覚が要請されるのではないか。

こうした状況は、いまに始まったことではなかった。野球のシーズンでは、メジャーリーグでのイチローや松井、松坂の活躍ということでずいぶんと時間がとられ、うんざりしたこともある。宮里藍だ、横峰さくらだとやたらと丁寧な報道が続いたこともあった。基本的にスポーツはスポーツニュースでやってもらいたいし、重要な試合というならば結果だけで十分ではないか。7時のニュースは、気象情報を除けば、28分間という枠しかない、全国放送なのである。

最近のNHKは職員のインサイダー取引で揺れ、それがきっかけで会長や副会長まで代わり、報道もそれに傾いているが、NHK人事への政治介入が露骨になってきたことを見逃してはいないだろう。

ついでながらと、訪ねてきた職員には、視聴者センターの電話が通じにくいし、開設時間が短く、視聴者の声を聴く姿勢に欠けるではないかと話し終わった途端、「制度が変わって、訪問集金は無くなり、引き落としになりますので」というではないか!受信料は取られっぱなし?簡単に引落としに移行できるなどと考えていることこそ視聴者軽視も甚だしい。いっぺんに体の力が抜けてしまった。(200829日記)

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2008年2月 1日 (金)

<短歌の森>再録2008年 社会詠の行方(1)(2)

 「社会詠」論議の行方(1)

   2006 年 11 月、青磁社ホームページ上の「週刊時評」(大辻隆弘と吉川宏志が一週間交代で執 筆)において、大辻が小高賢を批判したことから論争が始まり、これらを受けて、2007 年 2 月、 青磁社がシンポジウム「いま、社会詠は」を開催した。私は、WEB 上の論争を途中から覗き始 めたのだが、9 月には、シンポジウムの記録集も刊行され、経緯がたどれる。 小高賢は「ふたたび社会詠について」(『かりん』2006 年 11 月)において、岡野弘彦『バグダ ッド燃ゆ』の次のような作品をあげて、「自分の戦争体験を重ね合わせて、現代に悲劇をうたい あげた岡野作品に共感、同感することは多いが、しかし、どう考えても、対象や主題に対しての 感慨や視線は、外部からのものである」と述べた。さらに「岡野にかぎらず、現代の社会詠は、 外部に立たざるをえない。立たなければ歌えないことも事実なのである。誠実であればあるほど、 そうなってしまう。その難しさをいっているのである」と続けた。 ・ 地に深くひそみ戦ふ タリバンの少年兵を われは蔑みせず ・ 国敗れて 身をゆだねたるアメリカに いつまでも添ひて 世を狭めゆく さらに、「爆撃のテレビニュースに驚かず蜘蛛におどろく朝の家族は(小島ゆかり)」などをあ げ、「爆撃に驚かず、蜘蛛の出現に騒ぐ家族。どこかおかしいのではないかと自省している。誠 実な作品だ。しかしここでも、気になる。その先がないのだ」、「巧緻なゆえに、あるいはうまく できているために、意外にひびいてこない。そのアポリアが私たちの前にある」とした。さらに 若い世代の林和清、松村正直の作品と次の二首をあげて、「一体、社会と自分との関係をどう考 えているのだろうか。危機感がゼロのように見えてしまう」と記し、社会や世界に対する「視点」 と「認識」の重要性を指摘した。 ・ おそらくは電子メールでくるだろう二〇一〇年春の赤紙 加藤治郎『環状線のモンスター』 ・ NO WAR とさけぶ人々過ぎゆけりそれさえアメリカを模倣して 吉川宏志『海雨』 これに対して、大辻隆弘が、小高のいう「認識の正しさ」と歌のよしあしは別次元で、社会詠 とても、あるのは「いい歌と、ダメな歌だけだ」と反論し、吉川宏志は「自分より若い世代に対 しては“危機感がゼロ”と決めつけてしまう」のでは対話は生まれないと、批判した。進む論争 の中、歌や論の丹念な「読み」を説く一方、指摘された自らの不用意な要約、性急な論理展開等 には簡単に謝ってしまう弱気も見せた。 シンポジウムでは、双方の言い分がかなり鮮明になったと思う。しかし、正直言って、私は、 大辻の発言には大きな危惧を抱かざるを得なかった。①「短歌は何を歌うかが問題じゃないと僕 は思う、基本は。斎藤茂吉の歌もたしかに類型的だと思うけど、あの言語芸術としての歌の響き というのは、開戦の歌にしろ、それはそれは豊かだと思いますよ」(七五頁)、小高が、土屋文明 の「大東亜戦争詔勅を拝して」と敗戦直後の「新日本建設」の一首を例に、その短絡の危うさを 指摘するのに対して、②「つまり人間はこうやって変わっちゃうんでよ。日本人はやっぱり愚か なわけ。でも、愚かならおろかなままのものとしてあらわれるのが歌であって、その愚かさを批 判して、主張が一貫していないじゃないか、と批判するのは、歌の本質を間違っているんじゃな いか」(七八頁)とも述べ、斎藤史が全歌集への収録時に戦時下の歌を変更したことについて③ 「それを変えさせたのは誰だと。それは全歌集を出した昭和 52 年時点の歌壇における、いまの 言葉で言ったら左よりの進歩主義的思想ではないかと」(八五頁)という。 表現者としての責任と自負を放棄するような、一種の「開き直り」のルーツは、彼の「師」の岡 井隆あたりにあるのかもしれない。(『ポトナム』2008 年 1 月号所収)

「社会詠」論議の行方(2)

  「社会詠」、「時事詠」「戦争詠」などをテーマとするエッセイや論文を長いスパンで検索して みると、いわゆる短歌総合誌で幾度か特集が組まれているのがわかる。国立国会図書館の雑誌記 事索引を占領期プランゲ文庫記事索引と国文学資料館データーベース、手元の現物で補ってみて も、「社会詠」という言い方定着したのは、一九六〇年、安保闘争が盛り上がった年である。「社 会詠の方向をさぐる」「再論社会詠の方向について」「社会詠特集を読む」(『短歌』四月、七月、 一一月号)という特集が組まれ、単発のエッセイも一九六〇年に集中している。その関心の一過 性も興味深いのだが、その後同誌で特集が組まれるのは四〇年後、「現代の『社会詠』はどう変 わるか」(二〇〇〇年四月)、「短歌の『発言力』―社会詠は時代を捉えているか」(二〇〇七年七 月)であった。なお、今回の作業で、「社会詠」の語が最初に見出されたのは一九四八年二月で、 太田青丘「短歌における社会詠と象徴」(『潮音』)であった。 また「時事詠」は「時局詠」などの語とともに戦前から使われていたが、戦後の登場は、「明 日の時事詠を索めて」(『日本短歌』一九五四年九月)という特集で、再登場は、二〇〇一年九月 同時多発テロ事件以降であった。 ・「テロと日本人と短歌」(『短歌現代』二〇〇二年二月) ・「短歌は社会・時事をどう詠むか」(『歌壇』二〇〇二年五月) ・「テロかく詠めり―時事詠の可能性」(『短歌朝日』二〇〇二年八・九月) ・「時事詠の可能性―疾駆する時事詠のいま」(『歌壇』二〇〇三年六月) ・「短歌に見る時代・世相」(『歌壇』二〇〇六年一一月) 『歌壇に』は、一九九五年一〇月「時代と短歌―阪神大震災・オウムを手がかりとして」の特 集もあり、他誌に比べ社会・時事詠への関心の深さが読みとれる。また、「八月ジャーナリズム」 などと揶揄される向きもあるが、次のような特集が貴重である。 ・「渡辺直己と戦争詠」(『短歌』一九八三年九月) ・「防人の歌―古代から現代」(『短歌』一九九四年八月) ・「読みつがれるべき戦争歌」(『短歌研究』二〇〇七年八月) 「社会詠」「時事詠」「戦争詠」などの括り方が適切か否かも問題ではあるが、多くの歌人たちが 社会に目を向け、社会事象を自らにひきつけて作品とする営為やそれを論ずる意味は大きい。日 常的な意見交換や論争の場は大切にしなければと思った。たとえば、一九九一年から続く「八月 一五日を語る歌人の集い」や『短歌往来』のかつての「君が代」特集や毎年一二月号のアンケー ト、同人誌の特集などにも注目した。その一つが加藤英彦「その先に一歩でる―最近の社会詠論 争によせて」『Es』(一三号二〇〇七年五月)であった。「自分なりにある事件を考えぬくという 作業を通して、その事件に触発された初期の感情の波動が微妙にうごく。それは新たな怒りであ ることも、名状しがたい悲しみである場合もあるだろう。そこから何を想像するか。そのときの 感情の強度に支えられてどのような世界をわれわれは見るか。一首のもつ厚みや奥ゆきはそんな 『時代を見る目』の反映であるように思える」は分かり易かった。同時掲載の詩人瀬尾育生「彼 方で円環している」は、「政治と文学」については「棲み分け」を前提に「文学の遂行とはなに よりも『作品』の遂行を意味しており、『作品』は主体の位置がどこにあるのかを明示すること なし」では成立しないとするのだが、韜晦するような論調は私には難解であった。 (『ポトナム』2008 年2月号所収)

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