<短歌の森>再録2008年 社会詠の行方(1)(2)
「社会詠」論議の行方(1)
2006 年 11 月、青磁社ホームページ上の「週刊時評」(大辻隆弘と吉川宏志が一週間交代で執 筆)において、大辻が小高賢を批判したことから論争が始まり、これらを受けて、2007 年 2 月、 青磁社がシンポジウム「いま、社会詠は」を開催した。私は、WEB 上の論争を途中から覗き始 めたのだが、9 月には、シンポジウムの記録集も刊行され、経緯がたどれる。 小高賢は「ふたたび社会詠について」(『かりん』2006 年 11 月)において、岡野弘彦『バグダ ッド燃ゆ』の次のような作品をあげて、「自分の戦争体験を重ね合わせて、現代に悲劇をうたい あげた岡野作品に共感、同感することは多いが、しかし、どう考えても、対象や主題に対しての 感慨や視線は、外部からのものである」と述べた。さらに「岡野にかぎらず、現代の社会詠は、 外部に立たざるをえない。立たなければ歌えないことも事実なのである。誠実であればあるほど、 そうなってしまう。その難しさをいっているのである」と続けた。 ・ 地に深くひそみ戦ふ タリバンの少年兵を われは蔑みせず ・ 国敗れて 身をゆだねたるアメリカに いつまでも添ひて 世を狭めゆく さらに、「爆撃のテレビニュースに驚かず蜘蛛におどろく朝の家族は(小島ゆかり)」などをあ げ、「爆撃に驚かず、蜘蛛の出現に騒ぐ家族。どこかおかしいのではないかと自省している。誠 実な作品だ。しかしここでも、気になる。その先がないのだ」、「巧緻なゆえに、あるいはうまく できているために、意外にひびいてこない。そのアポリアが私たちの前にある」とした。さらに 若い世代の林和清、松村正直の作品と次の二首をあげて、「一体、社会と自分との関係をどう考 えているのだろうか。危機感がゼロのように見えてしまう」と記し、社会や世界に対する「視点」 と「認識」の重要性を指摘した。 ・ おそらくは電子メールでくるだろう二〇一〇年春の赤紙 加藤治郎『環状線のモンスター』 ・ NO WAR とさけぶ人々過ぎゆけりそれさえアメリカを模倣して 吉川宏志『海雨』 これに対して、大辻隆弘が、小高のいう「認識の正しさ」と歌のよしあしは別次元で、社会詠 とても、あるのは「いい歌と、ダメな歌だけだ」と反論し、吉川宏志は「自分より若い世代に対 しては“危機感がゼロ”と決めつけてしまう」のでは対話は生まれないと、批判した。進む論争 の中、歌や論の丹念な「読み」を説く一方、指摘された自らの不用意な要約、性急な論理展開等 には簡単に謝ってしまう弱気も見せた。 シンポジウムでは、双方の言い分がかなり鮮明になったと思う。しかし、正直言って、私は、 大辻の発言には大きな危惧を抱かざるを得なかった。①「短歌は何を歌うかが問題じゃないと僕 は思う、基本は。斎藤茂吉の歌もたしかに類型的だと思うけど、あの言語芸術としての歌の響き というのは、開戦の歌にしろ、それはそれは豊かだと思いますよ」(七五頁)、小高が、土屋文明 の「大東亜戦争詔勅を拝して」と敗戦直後の「新日本建設」の一首を例に、その短絡の危うさを 指摘するのに対して、②「つまり人間はこうやって変わっちゃうんでよ。日本人はやっぱり愚か なわけ。でも、愚かならおろかなままのものとしてあらわれるのが歌であって、その愚かさを批 判して、主張が一貫していないじゃないか、と批判するのは、歌の本質を間違っているんじゃな いか」(七八頁)とも述べ、斎藤史が全歌集への収録時に戦時下の歌を変更したことについて③ 「それを変えさせたのは誰だと。それは全歌集を出した昭和 52 年時点の歌壇における、いまの 言葉で言ったら左よりの進歩主義的思想ではないかと」(八五頁)という。 表現者としての責任と自負を放棄するような、一種の「開き直り」のルーツは、彼の「師」の岡 井隆あたりにあるのかもしれない。(『ポトナム』2008 年 1 月号所収)
「社会詠」論議の行方(2)
「社会詠」、「時事詠」「戦争詠」などをテーマとするエッセイや論文を長いスパンで検索して みると、いわゆる短歌総合誌で幾度か特集が組まれているのがわかる。国立国会図書館の雑誌記 事索引を占領期プランゲ文庫記事索引と国文学資料館データーベース、手元の現物で補ってみて も、「社会詠」という言い方定着したのは、一九六〇年、安保闘争が盛り上がった年である。「社 会詠の方向をさぐる」「再論社会詠の方向について」「社会詠特集を読む」(『短歌』四月、七月、 一一月号)という特集が組まれ、単発のエッセイも一九六〇年に集中している。その関心の一過 性も興味深いのだが、その後同誌で特集が組まれるのは四〇年後、「現代の『社会詠』はどう変 わるか」(二〇〇〇年四月)、「短歌の『発言力』―社会詠は時代を捉えているか」(二〇〇七年七 月)であった。なお、今回の作業で、「社会詠」の語が最初に見出されたのは一九四八年二月で、 太田青丘「短歌における社会詠と象徴」(『潮音』)であった。 また「時事詠」は「時局詠」などの語とともに戦前から使われていたが、戦後の登場は、「明 日の時事詠を索めて」(『日本短歌』一九五四年九月)という特集で、再登場は、二〇〇一年九月 同時多発テロ事件以降であった。 ・「テロと日本人と短歌」(『短歌現代』二〇〇二年二月) ・「短歌は社会・時事をどう詠むか」(『歌壇』二〇〇二年五月) ・「テロかく詠めり―時事詠の可能性」(『短歌朝日』二〇〇二年八・九月) ・「時事詠の可能性―疾駆する時事詠のいま」(『歌壇』二〇〇三年六月) ・「短歌に見る時代・世相」(『歌壇』二〇〇六年一一月) 『歌壇に』は、一九九五年一〇月「時代と短歌―阪神大震災・オウムを手がかりとして」の特 集もあり、他誌に比べ社会・時事詠への関心の深さが読みとれる。また、「八月ジャーナリズム」 などと揶揄される向きもあるが、次のような特集が貴重である。 ・「渡辺直己と戦争詠」(『短歌』一九八三年九月) ・「防人の歌―古代から現代」(『短歌』一九九四年八月) ・「読みつがれるべき戦争歌」(『短歌研究』二〇〇七年八月) 「社会詠」「時事詠」「戦争詠」などの括り方が適切か否かも問題ではあるが、多くの歌人たちが 社会に目を向け、社会事象を自らにひきつけて作品とする営為やそれを論ずる意味は大きい。日 常的な意見交換や論争の場は大切にしなければと思った。たとえば、一九九一年から続く「八月 一五日を語る歌人の集い」や『短歌往来』のかつての「君が代」特集や毎年一二月号のアンケー ト、同人誌の特集などにも注目した。その一つが加藤英彦「その先に一歩でる―最近の社会詠論 争によせて」『Es』(一三号二〇〇七年五月)であった。「自分なりにある事件を考えぬくという 作業を通して、その事件に触発された初期の感情の波動が微妙にうごく。それは新たな怒りであ ることも、名状しがたい悲しみである場合もあるだろう。そこから何を想像するか。そのときの 感情の強度に支えられてどのような世界をわれわれは見るか。一首のもつ厚みや奥ゆきはそんな 『時代を見る目』の反映であるように思える」は分かり易かった。同時掲載の詩人瀬尾育生「彼 方で円環している」は、「政治と文学」については「棲み分け」を前提に「文学の遂行とはなに よりも『作品』の遂行を意味しており、『作品』は主体の位置がどこにあるのかを明示すること なし」では成立しないとするのだが、韜晦するような論調は私には難解であった。 (『ポトナム』2008 年2月号所収)
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