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2008年3月31日 (月)

「考える街。ユーカリが丘」って、ディベロッパーは何を考えているの?

佐倉市の開発行政は誰のためなのか

私が住むのは京成沿線のユーカリが丘なのだが、開発を一手に引き受けてきた地元開発業者は、このところ、カンガルーのキャラクターを使って「考える街。ユーカリが丘」のダジャレ宣伝を展開している。3月半ばには、TBSのワイド番組でも「人口の減らない街、年取らない街、子育ての街」として発展を続けている街として紹介されたらしい。「素晴らしい町なんだね」と番組を見た知人からの電話に、私は戸惑うばかりだった。安心・安全・福祉の街づくり、環境との共生を標榜しながら、地域住民への配慮のない開発を目の当たりにしているからだ。

国の道路行政において、道路特定財源が官僚や道路族議員・国交省天下り先業者により好き勝手に使われている実態が次から次へと、議会の質疑や報道などにより連日明らかにされている。もう税金は払いたくないというのが正直な感想だ。

また、「新銀行東京」への都からの追加出資の顛末を見ていると、都民でなくとも腹立たしい。あの都知事の指示を天の声?とし、銀行新設・追加出資に賛成した議会の責任も大きい。

身近にも、似たようなことが起っている。ちょうど10年ほど前から、近くの雑木林が突然伐採されることになり、土地区画整理組合による開発事業の実態を知り、佐倉市の都市計画行政を少しばかりウォッチすることになってしまった。住民の想像をはるかに超えて、行政や開発業者は実に「えげつない」ことをしていることがまた、一つわかったのだ。

開発行政は、まるで業者の言いなりなの?

 このブログでも、すでに2006617日「区画整理組合への助成金は、やはり業者への後押しだった」で触れているように、「土地区画整理事業の助成に関する条例施行規則」33項で、不動産業者・開発業者が、土地区画整理組合事業による開発区域の3分の1以上を所有している場合は助成対象からはずすことになっていたのを、20063月末日付で、この項を削除した。そして規則修正により、8m以上の道路の歩道部分用地取得費相当額の2分の1を助成できることにした。つぎの19年度早々に、私の住まいにも近接する「井野東土地区画整理組合」による開発事業に約5700万円の助成が実施された。その組合による開発区域の約72%が、組合の業務代行となっている地元の開発業者「山万」の所有であったのだ。施行規則の条項削除・修正は、条例ではないから、市議会の議決を要しない。行政、担当部課による事務的な手続きで可能なのである。

 この規則改正直前の20062月市議会において、改正の動きを察知、質問した議員もいた。条例施行規則に「3分の1条項」が盛り込まれたのは、19983月。その趣旨は、営利目的の事業者の所有する土地の割合が一定以上越える場合、公金を支出することは好ましくいないとするものであった。

では、その規則を改正してまで、7割以上もの土地を一開発業者で占めている土地区画整理組合に助成するのはなぜか、の質問に、当時の市長は、土地ブーム時の先買い業奢が特別の利益を受けるのは望ましくないけれど、「非常に、もう沈滞化しているという、いわゆる土地が動かなくなっているという社会的な情勢の中では、今度はそういった事態に対応して土地をきちんと活用できる方向に施策を進めていくべきであろう」と区画整理事業をきちんと進める必要があるという判断に基づいた措置である、と答えていた。

 さらに、この規則改正では、同時に「井野東土地区画整理組合」事業区域に隣接の「井野南土地区画整理組合準備会」へも、本組合認可準備のための助成と称して平成19年度・21年度の2度にわたって計5400万円助成の予算措置がとられた。10年前までは、二つの組合区域一帯は「山万」の第3期開発の予定区域だったのだから、当然その所有割合は3分の1どころか6割を越えている。これは、紛れもなく、公金による営利目的の事業者を利する措置にちがいないのだ。規則改正直後の6月市議会では、業者からの要請があったかの質問に対して、市長は、土地区画整理組合からの「強い働きかけ」はあったが、最大地権者の開発業者(山万)からの要望があったかは「記憶」にない、と答弁していたのだ。

 そして、さらに驚くべき方向に事態は進む。上記二つの組合への助成措置が完了後、目にも止まらない速さ、1年数ヵ月後の昨20071217日付けで、上記条例施行規則の一部改正によって再び「3分の1条項」を復活させ、200811日施行となったのである。佐倉市都市整備課HPには、その改正趣旨にはつぎのように書かれていた!?

 「宅地及び公共施設の整備や保留地売却など、土地区画整理事業の性質にかんがみ、これに類する業を行う営利目的の事業者を不当に利することを防ぎ、助成制度の一層の適正化・公平化を図ったものです」

 佐倉市の厳しい財政状況から、補助・助成制度の廃止・整理・統合、基準の見直しの一環としての改正だったという大義名分も付されている。その見直しのさなか、井野東・井野南土地区画整理組合(業務代行山万)からの強い働きかけで、規則改正による助成を佐倉市は断行したと判断されても仕方ないだろう。

 佐倉市における土地区画整理事業には、清算にたどり着けずに、行政のテコ入れを余儀なくされているところもある。千葉県は開発行政の見直しで、あらたな土地区画整理事業は認めないことになっているが、佐倉市の「井野東」「井野南」への助成は、3分の1条項をはずしての最初で最後の公的助成となったのである。
 自由自在の規制緩和、用済みの後は、また規制?

似たようなことといえば、最近こんなこともあった。20082月市議会を前に、佐倉市が「市街化調整区域の宅地開発許可基準(区域指定制度)の廃止について」の意見書、いわゆるパブコメを募集しているのに気がついた。すでに形骸化している悪名高い「パブコメ」なのだが、ナニナニ?ドーイウコト?数年前、200310月のことだったのだが、条例改正により、一定の条件さえクリアすれば市街化調整区域の中の宅地開発が可能になった。市議会少数会派の議員たちは、いわゆるミニ開発、乱開発が野放しになることで反対していたのだが、議会を通過してしまったのだ。

いわゆる市街化調整区域の規制緩和は、4年ちょっとで、その緩和を廃止して元に戻そうというものだ。パブコメ募集時のコメントを見て、またあきれるのだが、つぎのように書いてある。

「佐倉市では、平成15年10月1日から、条例により市街化調整区域でも一定の条件を満たす土地について住宅地の開発を可能なものとしました(区域指定制度)。しかしながら、道路・排水施設などの公共施設が不十分な地区においての住宅地開発が次々と行われるようになりました。
 このような住宅地開発が行われると、隣接する地区に流入する自家用車等の交通量が増大し、交通渋滞や事故を発生させる危険性を生じさせ、また、農地や緑地が失われて自然環境が損なわれることが懸念されています。」

 こんなことは、都市計画行政に素人でも十分わかっていることだった。何をいまさらと思う。4年余りの規制緩和による乱開発の例をいくつか聞き、近くの知人の家の隣接でも目の当たりにしている。20軒から100軒くらいの規模の宅地造成が突然、近隣との脈絡なく行われ、建売住宅が販売されるケースが多い。ほとんどが雑木林や畑地であったところだ。ループ状の道路が一本団地を巡るだけの袋小路的な形状であったり、既存道路との接続が危険であったり、盛り土・排水・調整池の不備に隣接住民は不安を抱えることになる。市内の各地でトラブルが頻出することになった。大きくはない開発業者による場合が多く、法令や行政指導を潜り抜け、行政や近隣住民へ脅迫まがいのことが発覚、市議の利権が絡む例も知った。行政としては、当然予想できる事態であるのにもかかわらず、なされた拙速な規制緩和はいったい誰が責任をとるのだろう。

 市民からの意見書は21通あって、すべてが緩和の廃止を可とするものであった。

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2008年3月27日 (木)

マイリスト「短歌の森」に「短歌の朗読、音声表現をめぐって―戦時下の『愛国詩朗読』への道」を登載しました。

前回は、歌壇や歌人の「朗読」への関心をめぐってたどってみたが、今回は、明治期から太平洋戦争下までの文学作品、特に詩の朗読の歴史について触れ、「朗読」とラジオの普及とのかかわりに言及する。画面左下の「短歌の森」の該当表題をクリックしてください。

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2008年3月16日 (日)

「Requiem東京大空襲 広瀬美紀写真展」と池袋空襲

 

 

「広瀬美紀写真展」

 数日前のNHK「首都圏ネットワーク」の特集で写真展のことを知った。東京大空襲による犠牲者たちの仮埋葬地だった公園やお寺を訪ね、その現在を記録し、話を聴いた空襲体験者たちの現在の姿もカメラに収め、東京大空襲を語り継ごうとしている若い女性カメラマンを紹介した番組だった。急遽、会場の銀座ニコンサロンに出かけた。7丁目ライオンビヤホールを入ったところに見つけたニコンプラザ銀座、もちろん初めて足を踏み入れる。連れ合いを待って、カメラの展示室を覗いてみる。高級カメラのその価値もわからないまま、ニコンといえば木村拓哉のコマーシャル、大きなパネルが壁に何枚か掛かっていた。

 

 広瀬さんの写真展の入場者は盛況というほどではないが、途切れることはなかった。やはり年配者が多い。受付では広瀬さんが「こちらからどうぞ」と順路を案内されていた。最初の作品群が、昨年39日付けの「戦後補償は軍人軍属だけでなく、民間人の空襲被害者にも」の横断幕を持って東京地裁前に並ぶ原告団や原告の方の写真だった。被害者並びに遺族による原告団は112名に及ぶ。今年の310日にも20人が第2次訴訟に踏み切ったという。訴訟に関する情報は、NHKの番組では一切紹介されていなかっただけに意表を衝かれたのだが、この写真展のメッセージはさらに明確となった思いがする。会場を見渡すと、60枚近いすべての作品がモノクロであるのもこのテーマに即しているように思われた。今回の作品は、約6000枚もの中から厳選されたという。

 310日の大空襲犠牲者の仮埋葬地は、70か所以上に及び、菊川公園・現菊川小学校(仮埋葬者4515人)、猿江恩賜公園(10259人)、墨田公園(3682人)荒川遊園(1662人)などの現在ののどかな風景が撮られている。そして、体験者が当時の罹災現場や思い出の地で語ることばの一部がキャプションに綴られている。繰り広げられただろう残酷な場面が何一つないのに、見る者の心に深く、突き刺さり、突き動かすものがあるのはなぜなのだろう。今回の仮埋葬地の写真には310日空襲に限らない犠牲者の仮埋葬地も写されている。荒川、世田谷、新宿区などの仮埋葬地もあったので、池袋空襲の犠牲者の仮埋葬地のことも、広瀬さんに尋ねてみると、そこにもすでに撮影に出かけられた由。というのも次のような経緯があったからである。

 

池袋空襲、墜落のB 29

私は、去年310日、このブログで、私の池袋の生家が空襲で焼け出された翌日、1945414日付のわが家の「罹災証明書」を見つけ出した話を書いた。その後、池袋空襲について調べる中で、池袋東口の南池袋公園の「豊島区空襲犠牲者哀悼の碑」の前で「413根津山小さな追悼会」が毎年開かれているのを知った。また、米軍資料によれば、城北一帯に330機のB29が飛来していたという。また、豊島区内の被害だけでも死者778人、焼出家屋34000戸、被害者162000人であった。

 

413日夜からから14日未明に掛けて、父と学生だった長兄は、手と手を手ぬぐいで縛って、川越街道を板橋の知り合いの農家まで走って逃げた、と後で聞かされている。母と次兄と私は母の実家のある、千葉県佐原に疎開していた。敗戦翌年の夏、焼け跡に建てたバラックに一家で戻ったので、復興最中ながら焼け跡が生々しい池袋は記憶しているが、空襲の夜の池袋は知らない。

また、「本土空襲墜落機調査」の記録によって、米軍の犠牲者が上記根津山に埋葬されていたことを知った。その部分のコピーをそのまま登載することにする。おそらくは20歳代前半、8桁の認識番号を持つ軍曹たちの最期にも思いはいたる。記録の末尾にはつぎのように記されていた。

夜間単機天候偵察中、豊島区池袋5丁目に墜落、現場から回収された遺体は、池袋本町の重林寺に一端仮埋葬された後、根津山墓地に改葬された。

 

仮埋葬されたとされる重林寺は、私が疎開先から転校した池袋第2小学校の仮校舎となっており、家からは歩いて5分ほどの川越街道筋にあるお寺(真言宗豊山派)だったので ある。                    (2008年3月16日)

 

搭乗者   機長、副操縦士、航法士、爆撃手、レーダー手、機関士、

      無線士、中央火器官制、右銃士、左銃士、尾部銃手

      計11名、全員死亡

墜落日時  1945年4月14日

墜落位置  東京都豊島区池袋5丁目189番地

所属    第20空軍第73爆撃団だい497爆撃群第870爆撃機

墜落原因  不明

機体ニックネーム Wheel N Deal

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2008年3月14日 (金)

『吉野作造』(松本三之介著 東京大学出版会 2008年1月)を読む

                              五十年目の吉野作造・・・ 

 私の「吉野作造」は、就職時に求めた『政治学辞典』(岩波書店 初版1954年、196310刷)以来、空白である。しかし、その後、短歌史や女性史を読み返すとき、「大正デモクラシー」という明るい響きとともに、吉野作造の名がいつも頭をかすめていた。

 出版元のPR誌『UP1月号に「五十年目の『吉野作造』」を寄せた著者は、自身が「『民本主義』の歴史的形成」を発表以来、吉野作造に取組んで五十年になり、2008年は吉野の生誕130年、没後75年の節目にあたると記している。また、哲学者、山田宗睦が同じく『UP』(200712月)に「五十年ぶりの『近代日本の思想家』完結―職業としての編集者・後遺」を執筆、編集者として企画・刊行したシリーズ第1冊目が、生松敬三『森鷗外』、19589月であり、50年ぶりに本書で完結したという感慨を記していた。

本書の著者は、「あとがき」において、次のように述べている。

「半世紀にわたる時間の経過は、学界での吉野研究を多方面にわたって前進さ

せ、そのデモクラシー論についてもその歴史的意義を積極的に評価する見方がほぼ定着したと言ってよい。たしかに、天皇制国家のきびしい状況のなかで、天皇主権との摩擦を避けつつ明治寡頭政に果敢に挑戦し、「外見的」立憲制の克服と「憲政の本義」の実現に向けて苦闘した吉野のデモクラシー論が、現実政治の視点から歴史的に正しく評価されるに至ったのは喜ばしいことであった。しかし同時にこれからの課題として、現代的な視点から吉野のデモクラシー論の持つ理論的な弱さや問題点を明確にしておくことも必要な作業ではないか。

吉野作造の思想形成―少しだけ近づく

 本書は伝記的な記述はさほど多くはない。吉野の思想形成の背景と「民本主義」が同時代の知識人の思想的動向、国内の政情、外交、社会的な事件のなかでどのように修正や変遷を遂げてきたのかが丁寧に根気よく検証されていく。ときには、吉野自身の混乱ぶりを整理し、系統立てて提示してもくれる。今回、吉野の実像に少しだけ近づけたような気がしている。

大正デモクラシーを代表する思想とされる「民本主義」が、体系的、理論的に提示されたのが、吉野による「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(『中央公論』19161月)であった。

以下、私の理解で大雑把ながら要約をしてみよう。デモクラシーの訳語としての「民本主義」に吉野は、つぎの二つの内容があると説く。①国家の主権は法理上人民にある②国家の主権の活動の基本的目標は政治上人民ある。①を民主主義、②を民本主義とし、②は一般民衆の利益幸福・意向に重きを置く政権運用上の方針であって、一般民衆は、賢明な少数の識見を持つ者が政策立案・法律制定・政権運用をする職業的政治家を観察・判定する「監督者」の役割に限って担うとしていた。少数の政治家選出の評価の基準は「政見」よりも「人格」の判断に重点を置く。しかし、2年後には、上記の政治の目的と方法との関係について、「民本主義」は二つの観念によって構成されるとし、結論的に「民主主義」との区別がないものとし、その目的は「一般民衆の利益幸福のため」から「個人的自由の尊重のため」と言い換えられている(「民本主義再論」『中央公論』19181月)。政治の方法は、上記、政治の目的よりも必要不可欠な「絶対的の原則」で、人民の行う政治でなければならないと主張している。具体的には政権運用に当たって民意の尊重、すなわち広く参政権を与えよという主張となり、民衆の力を無視してはいかなる政治理念も実現可能性がなく、国民という集団を基礎とする国民国家では各人が国家的責任を分担する、という根拠を挙げ、徳富蘇峰、上杉慎吉、山川均、北昤吉ら各様の批判も浴び、吉野は国家的組織と個人的自由の調和こそが団体生活の理想であり、政治の目的は国家を強くし、国民を安んずるところにある、と説いた。藩閥官僚勢力の非立憲性を追及しながらも、理論的な混迷を一掃できなかった。

当時の政局は、台頭する政党勢力と藩閥官僚勢力とが拮抗していたが、第一次世界大戦の緊張関係のなかで、山形有朋ら元老推薦で、官僚勢力と政党勢力(立憲同志会・加藤高明、中正会・尾崎行雄ら)を支柱とする大隈重信内閣が成立し、憲政擁護派の政友会を押さえ込もうとした。度重なる失政で大隈内閣総辞職の後は、191610月、山形ら元老の推す、政党主義に逆行する超然主義の寺内正毅内閣が成立していた。ロシアでの革命を期に、19188月にはシベリア出兵を宣言、国内では物価高騰、米騒動が拡大していた。こうした政情に、吉野は、国際的正義尊重と他国の国民に向けられたまなざしから、シベリア出兵には慎重論を、米騒動には、生活の圧迫に抗して起る民衆運動に理解を示しながら、その過激さには反省を求め、基本的には選挙権の拡大を説いた。さらに、『大阪朝日新聞』の言論弾圧事件に抗して「言論自由の社会的圧迫を排す」(『中央公論』191811月)を発表、翌月には、当時の革新的な知識人を結集した思想団体を目指して福田徳三らと「黎明会」を結成、デモクラシー思想の社会的志向性への動きを示した。

吉野自身の視野も、民衆の政治参加拡大による政治制度改革から「国民生活の安固充実」という民衆の実質的な生活問題解決へと広がった。1920年代に入ると、「国家はすべての個人・団体に優位した存在とし、社会と国家を同一視する」という考え方から、「概念的な区別をすることによって、国家の相対化が図られ、富国強兵型の国家から高尚な文化建設を理想とする国家へ」という国家観の転回を見せた。

以上が本書の序章から第3章までの概略なのだが、第4章新しい国際秩序に向けて、第5章政党内閣期の内政と外交、については通読の限りではあるものの、国際情勢の激動に伴う吉野の思想の揺らぎを的確に捉えて解明して見せる。

19151月、大隈内閣が中国の大総統袁世凱に21か条を要求した際、吉野は、日本が、中国の健全な自主独立の支援、列強との勢力範囲拡張競争への参加、というスタンスのもと、日本の侵略的態度には批判的でありながら、日本の要求内容を肯定した。中国における辛亥革命以来成長をつづけていた青年革命派に対する期待もあって、国防的見地のみの中国政策から経済的見地に立つ政策の重要性を強調するようになり、中国の反日的風潮につき日本側に反省すべき点を認めることになる。さらに、五四運動や万歳事件への対応では、吉野の中国留学時代などの人脈を中心とする「国民外交」的な努力がなされたのと同時に、国際社会は国力の強弱にかかわらず、自由平等原則によって規律されるという考え方に立脚し、国家を超えた普遍的正義や道徳の重要性を説いた。

 

その生涯に触れて・・・

 吉野作造は1878年(明治11年)仙台の北45キロ、宿場町の古川で生まれる。環境にも恵まれ、読書好き、投稿好きの文学少年であった。第二高等学校を経て1900年東京帝大に入学、大学では政治学を小野塚喜平次に学び、思想的にはキリスト教牧師海老名弾正の影響を受けた。大学院で研究を続けたが、就職が思うようにならないまま19061月、袁世凱家の家庭教師として中国に渡り、袁世凱失脚までの3年間、中国の現状を目の当たりにした。その前途に失望しながらも、中国近代化の担い手としての民衆への期待が募り、後の彼の中国論の根底となる。帰国後、帝大助教授となった翌年1910年、在外研究を命ぜられ、ヨーロッパ、アメリカでの精力的な研鑽と体験をすることになる。

この時期、私にとって、とくに興味深かったのはつぎの点だった。吉野の在外研究期間、留守宅に残されたのは、妻とまだ幼い5人の娘たちだったという。家族への経済的支援は、海老名弾正の紹介による徳富蘇峰を通じ、当時、初代満鉄総裁を経て、第2次桂内閣の逓信大臣後藤新平が快諾したという。心置きなく、海外での語学習得はじめ、見聞と学識を重ねる日々、積極的に各国の市民や労働者の節度のある集会やデモ行進などに接し、とくに女性の社会や政治への関心と参加の姿に心動かされ、彼の思想形成に大きな影響を与えた点である。一方、後藤や徳富への尊敬の念は生涯続いたといい、ここに、彼の柔軟さや混迷の要素が一つ現れているように思えた。

1920年代半ば以降の足跡は、その生涯との関連で、私はつぎのように理解した。

19245月、いわゆる護憲三派が総選挙で大勝し、憲政会加藤高明による連立内閣は翌年治安維持法と普通選挙法を成立させた。この選挙制度は、選挙・被選挙権も男子のみとする不十分なものであったが、吉野は、政党勢力を基礎に、枢密院・貴族院・軍閥などの旧守勢力の干渉を排除していく自立的な成長を期待した。しかし、ここでも政権をめぐる抗争が繰り返されることを知る。当時結成された無産政党へも、従来からの「一般民衆は政策立案・実現は専門的政治家に委ね、監督者としての役割を果すべき」との持論をあてはめた。人道主義の立場から資本主義自体に反対し、労働階級の解放・独立に賛同するとし、無産政党のうち最も右派とされる社会民衆党(安部磯雄委員長)の誕生には一役買い、最初の普選法よる選挙結果については、情実にも負けない選挙民の道徳的覚醒による無産政党の成長に期待するほかない、との結論にいたる。

19242月、吉野は帝大教授の職を辞し、朝日新聞編集顧問兼論説委員として入社、早速時局問題の演説会を展開、『大阪朝日新聞』に連載した論説が検察当局により問題となり、その圧力によりわずか4か月で退社を余儀なくされている。彼の教職辞職の思惑と覚悟は何処にあったのだろうか。

後、帝大講師に復帰するが、以降、力を注いだのが、年来から取組んでいた明治文化研究であった。本書「補論・吉野作造と明治文化研究」によれば、すでに1921年から明治文化研究のための資料収集を始めていたが、その動機の一つは、明治維新の変革と明治国家による西洋文化、とくに近代立憲制の採用経過について事実に基づいた検証の必要性であったが、のち研究の対象は、洋学の発達、キリスト教の受容、近代化に貢献した外国人の紹介、知識人の役割、憲法制定経過など多分野にわたった。1924年に設立された明治文化研究会(石井研堂、尾佐竹猛、小野秀雄、宮武外骨、柳田泉、木村毅ら)を根拠地に、民間史家の力をも結集して、編集刊行した『明治文化全集』全24巻は、彼の晩年の貴重な仕事となった。この全集については、私が図書館司書として働き始めた頃、先輩から、明治期研究の基本的なレファレンスブックとして叩き込まれ、面白いように回答に導かれることがあったことを思い出す。

憲政会単独による第2次加藤高明内閣の幣原喜重郎外相の進めた中国政策は協調的な内政不干渉主義であったが、1920年代後半になると、日本の軍部の関心は満蒙の「特殊利益」に注がれ、中国軍閥間の内戦激化に乗じ、内政・武力干渉が進んだ。1928年にかけて、山東出兵、済南事件、関東軍による満州某重大事件を経て、中国の抗日・排日運動の激化、国内での世界恐慌の影響によるが打撃が深刻化する中、1931918日柳条湖事件を口実に満州における関東軍の一斉攻撃が開始、十五年戦争へと突入する。吉野は、これを受けて「民族と階級と戦争」(『中央公論』19321月)では、満蒙における日本の既得権益は一端中国に返還の上、円満な交渉を通して合意を得るべきだとし、侵略行動を戒めたが、検閲による伏字が時代の厳しさを物語っていたが、翌1933年、50代の若さで生涯を閉じたのだった。

吉野のデモクラシー論への反論はたやすい。「天皇主権との原則的衝突を避けながら近代立憲主義への道を切り開こうとする」吉野の苦心を指摘する著者のメッセージが熱い。少なくとも当時よりは言論の自由を手にしている、現代の私たちが学ぶものは大きいのではないかと思う。

松本先生を囲んで・・・

 本書の著者、松本三之介先生とは、大学でお会いして五十年になろうとしている。政治思想史関係の講義の多くは聴講していたもののゼミ生ではなかった。松本ゼミでは、出身の在京OBによって先生を囲む会が開かれていたらしい。このゼミ出身で研究職に就いている同期のWさんや退職後通った大学のIさんから声を掛けられて、近年、時々お邪魔するようになった。今年も、1月末、『吉野作造』を出されたばかりの先生を迎え、池袋に集まった。新著を読了していなかった私は、もっぱら、先生やOBの方々の話を拝聴することになった。まだ、若い頃、ゼミOBの東北研修旅行へも誘われるままに参加し、夜はメンバーの研究報告を聞かせてもらったり、予定になかった斎藤茂吉記念館をコースに入れてもらったりしたことなどを思い出す。浮田和民論を報告されたEさんとは今回30数年ぶりの再会であった。 

 松本先生は、お元気で「80歳を超えて新著を刊行したことに皆は驚かれるようだが、そうした反響に自身も励まされることが多い」と感慨深げだった。お一人暮らしになって長いながら、食事作りにも精を出されている由、その自立ぶりに感心してしまう。都心に出てデパ地下などを巡ると、すぐに一万歩になってしまうとも話されていた。その折、徳富蘇峰の研究書を持つWさんの感想に触れて、先生は「吉野作造も、もう少し長生きをしていたら、その思想が時代の流れに抗し切れたか、わからない」という趣旨のことをポツリもらされていたこと、原稿用紙に書けといわれたら新著の完成はなかっただろう、パソコンのおかげかも知れない、とのお話も、私には印象的であった。

 今回、先生の著書を読みながらノートを取っていると、大学時代に戻ったような錯覚にとらわれた。なかなか進まなかったのだが、先生の新著をものにされた精神力に、少しはあやかりたいと、小文を綴ってみた。出来れば出版元あたりが中心に「吉野作造展」など企画できないものだろうか。優れた活動を展開している、生地、古川(宮城県大崎市)にある吉野作造記念館は、今の私にはやはり遠い。

吉野作造没後75年の命日の318日も近い。      (2008314日)

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2008年3月 4日 (火)

大賀ハスはどこへゆくのか

34日、今朝の『朝日新聞』千葉版に、検見川にある東京大学緑地植物実験所の多摩農場への移転をめぐって地元の千葉県・千葉市が大学側に異を唱えている、との記事があった。1951年、検見川キャンパスの当時農場(現在、総合運動場)の地下から、植物学者の大賀一郎博士が2000年前のハスの種を発見、その発芽に成功させ、いまでは、この地をはじめ移植先の数か所で毎年花を咲かせている。いわば、古代のロマンをかきたてる大賀ハス発祥の地でもあるのだ。緑地植物実験所には、230種のハスを育てている見本園もある。

毎年実験所内で開催されるには、開花時の朝5時から地元の人で賑わい、親しまれているという。実は私も、地元の友人に連れられて、昨年、この「観蓮会」直後の7月中旬に訪れたことがある。運動場に近い「大賀ハス発祥の地」の池に花を見ることはなかったけれど、見本園では、直径1m近い大きなハスの鉢が数百と並んだ光景をまのあたりにして、壮観でもあった。種類によって開花の時期は異なるし、開花期間が4日間と短く、開花時間となるとさらに数時間に限られるという。その日は、ややぬかるんでいた見本園の鉢の間をめぐり、昼下がりながら、その優雅な名づけとみごとに開いた何種類かの花を楽しむことができた。同じ紅ながら微妙に異なる色合い、神秘的な白蓮の幾鉢にも出会うことができた。実験所はもちろんハスばかりではない。大温室や樹木の見本園もある。

その実験所を多摩(西東京市)に移して、大学が手離す、その跡地をめぐって、千葉県が買い取るか民間の手での再開発になるのか。買い取る財政的な裏づけがない千葉県と地元は困惑している、というわけである。堂本千葉県知事は、県の天然記念物としての大賀ハスを守るためにも施設保存を、民間による開発は貴重な緑地を失う、と大学側に訴えている。

記事によれば、大学側の移転計画も2003年の方針では、他の施設を検見川キャンパスに移すはずが、2007年の計画見直しで実験所が移転する方針に一転したという経緯がある。すでに大学の役員会で決定済みの計画だというが、地元としては腑に落ちないところもあるのではないか。大学・文部科学省側は、さらに意見交換の上、地元の意向を踏まえたい、といっているというのだが、地元県民として私も、国は、大学施設の統廃合先にありきではなく、不必要な道路をつくる無駄遣いをやめて、貴重な緑地を保存し、市民にも開放的な大学施設として残すことを考えてほしい。土地を売ったとしても4.7ヘクタール、数十億の世界である。

なにせ、この文科省側の視察が26日に行われたという、1か月遅れの記事なのだ。この1か月といえば、千葉県は、中国冷凍餃子事件とイージス艦と漁船の衝突事故の地元であったわけだから、後回しにされたのか。ちなみに地元紙の『千葉日報』は、2月12日の社説で、大賀ハスは発祥の地で継承すべきだと訴えていた。(200834日)

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短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(1)

近頃、ちまたに流行るもの、「朗読」、歌壇も例外ではなく、「朗読会」はきょうもどこかで開かれているかもしれない。近代詩歌の朗読の歴史を少し振り返ってみようと思う。まずは、短歌の朗詠、朗読、披講とは。

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