「Requiem東京大空襲 広瀬美紀写真展」と池袋空襲
「広瀬美紀写真展」
数日前のNHK「首都圏ネットワーク」の特集で写真展のことを知った。東京大空襲による犠牲者たちの仮埋葬地だった公園やお寺を訪ね、その現在を記録し、話を聴いた空襲体験者たちの現在の姿もカメラに収め、東京大空襲を語り継ごうとしている若い女性カメラマンを紹介した番組だった。急遽、会場の銀座ニコンサロンに出かけた。7丁目ライオンビヤホールを入ったところに見つけたニコンプラザ銀座、もちろん初めて足を踏み入れる。連れ合いを待って、カメラの展示室を覗いてみる。高級カメラのその価値もわからないまま、ニコンといえば木村拓哉のコマーシャル、大きなパネルが壁に何枚か掛かっていた。
広瀬さんの写真展の入場者は盛況というほどではないが、途切れることはなかった。やはり年配者が多い。受付では広瀬さんが「こちらからどうぞ」と順路を案内されていた。最初の作品群が、昨年3月9日付けの「戦後補償は軍人軍属だけでなく、民間人の空襲被害者にも」の横断幕を持って東京地裁前に並ぶ原告団や原告の方の写真だった。被害者並びに遺族による原告団は112名に及ぶ。今年の3月10日にも20人が第2次訴訟に踏み切ったという。訴訟に関する情報は、NHKの番組では一切紹介されていなかっただけに意表を衝かれたのだが、この写真展のメッセージはさらに明確となった思いがする。会場を見渡すと、60枚近いすべての作品がモノクロであるのもこのテーマに即しているように思われた。今回の作品は、約6000枚もの中から厳選されたという。
3月10日の大空襲犠牲者の仮埋葬地は、70か所以上に及び、菊川公園・現菊川小学校(仮埋葬者4515人)、猿江恩賜公園(10259人)、墨田公園(3682人)荒川遊園(1662人)などの現在ののどかな風景が撮られている。そして、体験者が当時の罹災現場や思い出の地で語ることばの一部がキャプションに綴られている。繰り広げられただろう残酷な場面が何一つないのに、見る者の心に深く、突き刺さり、突き動かすものがあるのはなぜなのだろう。今回の仮埋葬地の写真には3月10日空襲に限らない犠牲者の仮埋葬地も写されている。荒川、世田谷、新宿区などの仮埋葬地もあったので、池袋空襲の犠牲者の仮埋葬地のことも、広瀬さんに尋ねてみると、そこにもすでに撮影に出かけられた由。というのも次のような経緯があったからである。
池袋空襲、墜落のB 29
私は、去年3月10日、このブログで、私の池袋の生家が空襲で焼け出された翌日、1945年4月14日付のわが家の「罹災証明書」を見つけ出した話を書いた。その後、池袋空襲について調べる中で、池袋東口の南池袋公園の「豊島区空襲犠牲者哀悼の碑」の前で「4・13根津山小さな追悼会」が毎年開かれているのを知った。また、米軍資料によれば、城北一帯に330機のB29が飛来していたという。また、豊島区内の被害だけでも死者778人、焼出家屋34000戸、被害者16万2000人であった。
4月13日夜からから14日未明に掛けて、父と学生だった長兄は、手と手を手ぬぐいで縛って、川越街道を板橋の知り合いの農家まで走って逃げた、と後で聞かされている。母と次兄と私は母の実家のある、千葉県佐原に疎開していた。敗戦翌年の夏、焼け跡に建てたバラックに一家で戻ったので、復興最中ながら焼け跡が生々しい池袋は記憶しているが、空襲の夜の池袋は知らない。
また、「本土空襲墜落機調査」の記録によって、米軍の犠牲者が上記根津山に埋葬されていたことを知った。その部分のコピーをそのまま登載することにする。おそらくは20歳代前半、8桁の認識番号を持つ軍曹たちの最期にも思いはいたる。記録の末尾にはつぎのように記されていた。
夜間単機天候偵察中、豊島区池袋5丁目に墜落、現場から回収された遺体は、池袋本町の重林寺に一端仮埋葬された後、根津山墓地に改葬された。
仮埋葬されたとされる重林寺は、私が疎開先から転校した池袋第2小学校の仮校舎となっており、家からは歩いて5分ほどの川越街道筋にあるお寺(真言宗豊山派)だったので ある。 (2008年3月16日)
搭乗者 機長、副操縦士、航法士、爆撃手、レーダー手、機関士、
無線士、中央火器官制、右銃士、左銃士、尾部銃手
計11名、全員死亡
墜落日時 1945年4月14日
墜落位置 東京都豊島区池袋5丁目189番地
所属 第20空軍第73爆撃団だい497爆撃群第870爆撃機
墜落原因 不明
機体ニックネーム Wheel N Deal
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