放送博物館に行ってきました~愛宕山ワールドの不思議~
東京のど真ん中にこんな山があるとは知らなかった。標高26mというが、超高層ビルが林立する中、坂を上りきると、そこには想像もしなかった、樹木に囲まれたのどかな空間があった。
放送博物館への道
かねてよりNHK放送博物館でどうしても確認しておきたいことがあった。このところ、新聞などでの放送博物館の記事を見かけていたし、たしか菊田一夫展もやっていたのではなかったかと出かけてみた。アクセスはいろいろあるようだったが、銀座線虎ノ門で降りる。事前の電話で目当ての資料室はお昼休みの12時から1時間は締め出されると聞いていた。11時半過ぎ、桜田通りのオフィス街からは、胸元に社員証をぶら下げた男女がすでに繰り出していた。後から思えば、ほんとうはどちらの道でもよかったらしいが、交差路で、私が尋ねた女性は確信を持って、愛宕通りから入るゆるやかな愛宕神社への参道の方を教えてくれた。放送博物館は右へという矢印に沿って曲がり、木々に覆われた参道をのぼっていく。
左に田崎ワインサロン
左手に田崎ワインサロンの看板が見えてくる。田崎真也さん、よくテレビに出るソムリエと思っていたら、ネットで見るとスゴイ事業家でもあったらしい。ワインスクール、ワイン輸入販売などを展開し、ここのサロンは、10年前に銀座から移転してきて、もちろんフレンチも和食もあるという。いまは、先を急がねば。
参道を清掃する人に右が博物館、神社は左と念を押されて、のぼったところが博物館前の広場であった。その手前には、神谷町駅近道との下り階段が見えた。広場のベンチでお弁当をひろげるOL、ベビーカーの幼い子と母、車椅子の男性が木陰で本を読んでおり、4階建ての博物館の後ろには何本かの超高層ビルが空を突く。だが、あとわずかで12時なのだ。資料室は午後からにしよう。
愛宕神社は月まいり
まずは神社の境内にはいると、また思いがけずに小さな池に舟が浮び、鯉がとき折跳ねているではないか。神社の沿革によれば徳川家康が1603年に創建、「お伊勢まいりは一生に一度、熊野まいりは三月に一度、愛宕神社は月まいり」と親しまれていたらしい。桜田門外の変、井伊直弼暗殺の刺客はこの神社から発ったということだ。本堂の中はとてもきらびやかで、なぜか浜崎あゆみや海部俊樹のお供え物が目立った。さらに境内をめぐると、突然足元から始まる急な階段には思わずあとづさりするほどだった。橋の下の木陰では高校生がのんびりおしゃべりをしているようだった。
「挙って国防 そろってラヂオ」
ここ愛宕山は、初めてのラジオ放送が発信された地という。1925年7月12日放送が始まった日からの歩みが、博物館1階から展示されている。録音技術がない時代の、大きなマイクロホンと放送スタジオが再現されていた。放送に先立って、1923年12月「放送用私設無線電話規則」制定の折、当時の逓信大臣犬養毅は「放送事業というものは公益性の高いもので、これは営利の手段とすべきではない」とのべたという。私の関心は、2階の「戦時体制とラジオ放送」「放送の民主化と発展」というコーナーであったが、あっさりとした展示に過ぎなかった。このコーナーでは「挙って国防 そろってラヂオ」という大きな文字が目を引いた。1938年の陸軍省・海軍省・内務省・逓信省が名を連ねるポスターだった。NHKの「日本放送史」によれば、同年9月に発表したラジオ標語懸賞入選1等が「挙って国防揃ってラヂオ」(壱岐喜久代作)であったのだ。年末より全国的にラジオ普及運動を展開、上記4省連名のポスターを全国的に配布したとある。2階には、「藤山一郎作曲ルーム」というのがあって、1993年に亡くなった藤山一郎の遺族から贈られたという遺品や資料を集め、書斎が再現されていた。平成元年にNHKが募集した「昭和の歌、心に残る200曲」の1位が「青い山脈」2位が「影を慕いて」であり、他「丘を越えて」「酒は涙かため息か」「長崎の鐘」が入っていたという。戦時中の業績や感謝状などが飾られているのを見て、複雑な思いで部屋を出た。3階では、テレビの時代を中心に、放送と時報、暮らしと時代を伝える、感動を伝えるスポーツやドラマ、教育・学習、伝統文化などをテーマとした展示が続く。
「番組確定表」を読む
4階の番組公開ライブラリーを覗く。過去6000本ほどの番組が見られ、利用者も結構多かった。目当ての「図書・史料ライブラリー」は午後1時再開、担当が一人だから昼休みがあるといい、ライブラリーながらコピー機がない、というのも、NHKのすることかな、と思いつつ。ともかく、きょうは、戦時中のラジオ放送番組を知る手立てとして、ここでしか公開していないという「番組確定表」を見るしかない。この確定表の存在を知ったのは、坪井秀人『声の祝祭』だった(名古屋大学出版会 1997年)。最近になって、NHKへ何度か問い合わせた結果、放送博物館のライブラリーにあること分かった。1935年1月から1945年8月15日までの番組表がたった1枚のCDに収まっていた。1日分が数頁に及ぶときもある。その内容をチェック、コピーがとれないからメモをとることになり、大変な作業となった。約3時間、利用者は、一人いた利用者が出ると私一人になった。拾い読みをした限りでは、「番組確定表」は原則的に縦書きのタイプ印刷と思われたが、場合によっては謄写印刷であったり、手書きの走り書きのようなものであったりする。1941年12月8日分は、番組表は突然簡単なものとなり、画面では薄くて読めないが、「天気通報」がすべて縦線で消されていた。この日から「天気通報」は放送されなくなったのだ。この日、朝7時の臨時ニュースで太平洋戦争開戦が伝えられた。この日だけで臨時ニュース12回、定時が6回だったという。前年1月から紀元2600年記念番組が大々的に繰り広げられていることはわかったが、どのような番組が、どんな風変わっていったか、微妙なところがなかなか捉え難い。私が調べようとしていた、詩歌朗読の番組の中で、「短歌朗読」はどうだったのか、誰の作品がどんな形で電波にのったのか、については分からない。全貌が分からなければ、細部も分からない。ただ、1941年12月14日以降、午前7時30分から30分間、番組タイトル「愛国詩」が新設され、詩歌の朗読を行う番組が始まった。年内はほぼ毎日放送されていた。そして12月25日から、その番組の中に「愛国和歌」のコーナーもできて、ときどき放送されているがその詳細は明らかではない。詩作品にはタイトルがつくが、「和歌」の場合、タイトルはつかないので、朗読された作品が特定できないし、作者の歌人名がときたま、「番組確定表」に出て来る程度なのである。録音が普及していない時代のラジオ放送は消えてしまうもの、その実態を知ることは難しい。いずれにしてももう少しこのライブラリーには通う必要がありそうだ。
階段とトンネルとエレベーター
閲覧は3時間で切り上げた。帰りはあの階段を下りて神谷町から日比谷線茅場町経由にしてみよう。その階段は、木材で作られたような感触、螺旋というよりは昼なお暗い、うっそうとした樹木の間を自在にくねって下りる感じなのである。降り立った路上の脇には、愛宕山を貫通する200mほどのトンネルがある。そしてその脇には、放送博物館の真横に着くエレベーターがある。つぎはこのエレベーターに乗らねばと、楽しみが一つ増えた。街中の野外のエレベーターといえば、ブリュッセルの最高裁判所前の広場の端から湧き出してくる人群れに驚いたことがあった。段差のある下町マロール地区から人を運んでくるエレベーターがあったのを思い出す。地元の人々の重要な交通機関であったのである。神谷町駅の方が虎ノ門よりよほど近そうだ。地下鉄駅の人ごみの中に立つと、階段と坂道を登りきったところに広がる、あの小さな、不思議な世界が懐かしいように思い起こされるのだった。
| 固定リンク
コメント