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2008年5月26日 (月)

マティスとボナール展―コート・ダジュールに思いを馳せて

 

リニューアル・オープン間もない川村美術館を訪ねた。オーナーの大日本インキが、この4月に社名をDICに変更した、という。京成佐倉駅前で乗る送迎バスが国道51号線から敷地の広い雑木林へと曲がるとき、いつも少しばかりワクワクするのはどうしてだろう。美術館までのアプローチは季節によってその風景を変える。きょうは、久しぶりの晴れ間に新緑がことのほか美しく、バスから降りれば、たちまち木々の精気につつまれる。

 

庭園の散策にも心動かされるのだが、きょうは時間がない。お目当ては、会期が残り少ないDIC創業100周年記念展「マティスとボナール―地中海の光の中へ」だ。常設展示室は申し訳ないが、レンブラント、ルノワール、モネ、シャガールもそそくさと、マーク・ロスコ、バーネット・ニューマンやロバート・ライマンの展示構成が変わったようにも思えたが、あそこまではなかなか透徹できないナ、の思いで数世紀を超えて通り過ぎる。

 

どちらかと言えば沈静した風景や静物画しか思い出せないボナールとマチスの接点がわからないまま会場に入る。年表によれば、19世紀半ば過ぎから20世紀半ば、日本で言えば、明治維新から敗戦直後まで、ほぼ同時代を生き、1910年代からともに南仏を拠点に制作していることがわかった。会場の、その拠点が示される地図を眺めていると、数年前、アビニヨンから乗ったTGVの車窓から見え隠れする地中海、マルセイユ、ツーロン、カンヌで乗り降りする人々、ニースのシミエで道に迷い、苦労してたどり着いたマチス美術館すらなつかしく思い出され、今回の展示の「地中海の光の中へ」の副題にも思いを馳せる。

 

第Ⅰ部、ピエール・ボナール(18671947)の初期の作品で、「ジャポニズムのナビ」とも呼ばれ、日本に傾倒していた時代でもあったというが、その影響を直接受けたと思われる作品が見当たらない。妻マルトの裸婦像や親しい友人たちとの交流場面が多いなか、楽譜集や詩集の装丁や挿絵、リトグラフであるが「パリ生活の諸相」シリーズ(1899)が目に止まった。

 

第Ⅱ部、アンリ・マチス(18691954)「フォーブの実験から成熟の時代へ」と銘打たれ、裸婦や踊り子の作品の多いなか、「ニースの室内、マルグリット・マティスとアンリエット・ダリカレール」(1920)は、マチスの娘とモデルがテーブルを挟んで座っている、静かだが不思議な雰囲気を漂わせている作品に思えた。

 

 第Ⅲ部、ボナールの「昼食(マルトとジャン・テラス)」もマルトと行儀のよい青年との組み合わせが興味深い。カンヌ郊外のルネ・カネにアトリエを持つボナールには身近な風景でもあった「カンヌの港」は地味ながら惹かれる作品だった。第Ⅴ部、最晩年の「花咲くアーモンドの木」(194647)はカタログの表紙を飾っている代表作だけあって、ボナールの画風が集約されているようにも思えた。

 

 第Ⅳ部・第Ⅵ部、1930年代後半から40年代は、マチスらしい色調が躍動する作品が並ぶ。「黄色い服のオダリスク、アネモネ」(1937)、「日除けのある室内」(1942)、「赤い室内、青いテーブルの上の静物」(1947)は、朱や黄色などが南仏の明るさを思い起こさせる。同時代ながらモノクロに近い「仰向けに横たわる裸婦」(1946)の力強さや晩年に近い「プラタナス」(1951)の簡明さが、私には快かった。なお、最晩年の切り絵による、ブルー・ヌードや花のデザインは、今回少なかったけれど、ニースの美術館で見かけた数枚の絵葉書を買ってしまった。

 

 カタログの表紙のマチスの作品は「赤い室内、・・・」であったが、今回も買わずじまいだった。このブログを書きながら、ああ、買っておくべきだったと悔やまれもした。会場には、作品リストがなく不便したが、帰宅後、美術館のHPからプリントアウトしたものが、いま、役に立っている。準備不足を反省する1件であった。

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