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2008年6月28日 (土)

見逃せなかった「芸術都市パリの100年展」

 パリには2度しか行ってない。それも合わせて1週間程度だったか。まだまだ訪ねたいところはたくさんあって、できるならしばらく暮らしてみたい。官庁街の退け時、決して疲れてはいないおしゃれな女性たち、墓地のベンチでくつろぐお年寄りたち、日本の事情とは少し違うように思えた。時間に追われることなく、美術館や公園でのんびりしたあと、スーパーで夕食の食材を買込んで、思いっきり日本食を作ってみたい。そんな夢はかないそうにもないが、芸術家たちが見たパリ、暮らしたパリ、それも1830年-1930年の100年に焦点を合わせた展覧会が開催中なのだ。都の美術館は65歳以上がシルバー料金なので、保険証も忘れずに持って来た。JR上野駅公園口前では、呼び込みをやっているではないか。65歳以上の方、本日は無料です、と。

 セーヌ川にかかる橋の名前が覚えられない。隅田川にかかる橋もなかなか覚えられないのだからと、あきらめた。

 「パート1・パリ、古きものと新しきもの―理想の都市づくり」

 最初の作品がカミーユ・コローの「ジェーヴル河岸から眺めたシャンジュ橋」である。シャンジュ橋(両替橋)はシテ島の最高裁判所と市立病院に挟まれた道に通じる。絵の右手奥にはノートルダム寺院の尖塔が見え、左端から高い壁が続き、風景画の構図の基本を見るようだ。作品一覧によれば、1830年頃描かれ、今回の展示では一番古い。大改造前のパリの雰囲気が伝わってくるような一枚であった。進むとクロード・モネ「テュイルリー」(1876年)。ルーブル美術館の広場に続くこの広い公園は、ホテルの近くだったので、よく通り抜けたのだが、むしろ埃っぽい街中の平凡な公園に思えた。作品は、田園の一画のような、新緑が日差しに映えるのどかな公園である。マルモッタンで求めた絵葉書がまだファイルに残っているはずだ。そして、その隣の横長の点描画は、ポール・シニヤックの「ボン・デザール橋(芸術橋)」(1928年)。左手河岸のあざやかな黄葉、橋を渡った右手には、紅葉の間からルーブルの屋根が見え隠れする。パート1の後半は、オルセー美術館のコレクションから、エッフェル塔の建設過程がわかる多数の写真が展示されていた。建設当時、賛否両論があり、1889年完成時も20年後には取り壊されるはずであったのが、今日に至っているという。観光客ばかりでなく、市民にも愛され続けた証かもしれない。

 「パート2・パリの市民生活の哀歓」

 風刺画家として知られるオノレ・ドーミエの石版画が大半を占める。1830年代から50年代の制作だから、日本で言えば江戸時代末期、パリの風俗資料としても貴重なものなのだろう。また、絵画では肖像が多く、ルノアールの上品な「ニニ・ロペスの肖像」(1876年)、藤田嗣治の愛らしい少女像1920年頃)が眼にとまった。

 「パート3・パリジャンとパリジェンヌ―男と女のドラマⅠ」(絵画)

 「パート4・パリジャンとパリジェンヌ―男と女のドラマⅡ」(彫刻)

 この会場で、シュザンヌ・ヴァラドンの絵が5点も見られたことは、想定外の収穫であった。昨年の夏、ユトリロ展にでかけたとき、18歳のとき父親が不明のまま、彼を生み、シャヴァンヌ、ロートレック、ドガ、ルノワールら錚錚たる画家たちのモデルをつとめたが、自らも絵筆を握ったシュザンヌ・ヴァラドンを知った。(当ブログ2007721日「モンマルトルの冬は知らないけれど」参照)ユトリロ独特のくすんだ色調とは違って、輪郭も色彩も明確な、力強いタッチの絵なのだ。若いときのデッサンの自画像(1883)は、18歳、ユトリロ出産の前後か、目元と口元、顎にかけて、意志の強さが感じられる。ロートレックとはモデル以上の関係があったといい、作曲家のエリック・サテイとは半年ほど暮らしたといい、今回、そのサテイの肖像画(189293年)もポンピドー・センターから出品されていた。「もの思いのユトリロ」(1911年)には、わが息子ながら突き放した目でとらえられたユトリロも登場する。波乱に満ちた画家の母と息子、母は1938年に、ユトリロは1955年に没している。

 彫刻は、ロダン、ブールデル、マイヨールのブロンズが15点ほどあった。ロダンによるカミーユ・クローデルの肖像を見ていると、ロダンと別離後のカミーユ・クローデルの過酷な半生を思い起こし、ユトリロの母のような強靭さがないと、女が自立した芸術家として生きにくい時代を思わずにいられなかった。

 「パート5・パリから見た田園へのあこがれ」

 ここでは、モーリス・ドニのプチ・パレ美術館天井画の下絵ながら「フランス美術の歴史」シリーズは、各時代の代表作の特徴を捉えていて楽しそうだ。

会場の一画にあった、パリ市街のパノラマの模型が結構楽しめたし、総じていつになく時間がかかった展覧会だった。

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2008年6月27日 (金)

『象徴天皇の現在』(世織書房)に書いています

数年前に、再校を返送してから音沙汰がなかったので、半ばあきらめてもいたのだが、一昨日『象徴天皇の現在』(五十嵐暁郎編 世織書房)が届いた。2008年6月28日が発行日となっている。編者の五十嵐先生の「あとがき」にもあるように、この論文集の始まりは十二年前にさかのぼる。当時、私は、30余年の勤めを退き、立教大学社会学部の院生であった。指導教授の一人、服部孝章先生の紹介で、法学部の五十嵐先生が立ち上げたばかりの象徴天皇制研究会に参加することになった。10人近いメンバーが交代でレポートをする研究会が、私には毎回新鮮で楽しかった。ほとんどが研究職に就かれている方たちなのに、なぜかリラックスして通ったことを思い出す。若手では、最初の頃は原武史氏も参加されていたし、川島高峰氏は皆勤ではなかったか。五十嵐先生は、松本三之介門下だったので、数十年前同期生に誘われて参加したゼミ旅行でご一緒したこともある。同世代の高橋紘氏は、当時MXテレビにいらしたが、共同通信社時代は、宮内庁記者クラブに長かったこともあって、とても紳士的な方であった。今は、大学教授として、皇室問題ではテレビにもときどき登場されている。記者駆け出し時代は、池袋警察が担当なこともあり、昔の池袋界隈に詳しく、話が盛り上がったこともある。研究会の2次会「放課後」の多くは、池袋西口の「がんぴ」だった。

今回の論文集に、私はつぎのようなテーマで執筆している。このブログでも紹介済みのように、『ポトナム』という短歌結社誌にその一部をすでに発表している。

第6章    昭和天皇の短歌は国民に何を伝えたか―象徴天皇制下におけるそのメッセージ性と政治的機能(239255頁)

はじめに

1.天皇の短歌発信の場としての歌会始

2.天皇の短歌は国民の天皇像形成にどれほど役に立ったのか

これを執筆していた頃は、ちょうど『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)のまとめにかかっていた。もちろん、上記の論文は収録されていない。私の書くものに「天皇の短歌」作品自体がまったく登場しないのはなぜか、の指摘をよく受けていたので、この論文では、昭和天皇の短歌作品に即した形で、論を進めるようつとめた。これまでの著の繰り返しの部分もあるが、歌会始戦後史における選者と歌壇の関係、選者と国家権力の関係などにも言及している。関心のある方は、ぜひ身近な図書館にリクエストしてほしい。それに、以下の収録論文は、天皇周辺における知らなかった出来事、知っている事柄でも、脈絡をたどって分析している論文が多く、あらためて読み返し、興味深かった。服部先生、原氏、高島氏の論文がないのは寂しいけれど、ぜひ一読をお勧めしたい。

序論   現代日本と象徴天皇(五十嵐暁郎)

第1章              象徴天皇と政権党(五十嵐暁郎)

第2章              胸に一物―評論家における「昭和天皇の戦争責任」論(ボブ・T・ワカバヤシ)

第3章              天皇制文化の復活と民族派の運動(ケネス・J・ルオフ)

第4章              皇太子訪米と60年安保―外交文書にみる「皇室外交の政治利用」(高橋紘)

第5章              戦後日米関係と「天皇外交」―占領終結後を中心に(吉次公介)

6章  (内野光子)*上記参照

7章  日本民族宗教としての天皇制―日常意識の中の天皇制モジュール(栗原彬)

院生時代、法学部の栗原彬先生のゼミにも潜り込み、原書を読んでのレポートはお手上げで迷惑をかけたことがある。ベネデイクト・アンダーソンの『想像の共同体』などもここで知り、基礎学力のない自分を思い知った場所でもある。先生は、現代短歌にも関心をお持ちであることはあとで知った。今回の論文でも、岡野弘彦、上田三四二の昭和天皇追悼歌を俎上にのせている

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2008年6月23日 (月)

旧著『現代短歌と天皇制』が紹介されました

 出版後7年を経た『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)が、最近いくつかの文献で紹介されているのに接し、正直、少し元気も出、うれしいことだった。ありがとうございます。

①大野道夫:短歌と天皇制論議に思う ( 『短歌・俳句の社会学』 はる書房 2008年3月、所収)
 これは出版直後の大野氏執筆の「時評」(『歌壇』 2001年5月号)が著書に再録されたのである。『現代短歌と天皇制』の第2章「歌会始と現代短歌」の中で、私が古橋信孝「短歌形式と天皇制」(『短歌と日本人Ⅱ』岩波書店 1999年)への反論を展開した二つのエッセイを対象に、論評をしている。国文学界、古代文学の「鉄人」とも評されていた古橋氏への私の反論は、無謀にも近かったのかもしれず、この反論に触れる論者は少なかったのだ。古橋氏の批判というのは、私の旧著『短歌と天皇制』(風媒社 1988年)の冒頭の一部を恣意的に取り出して、全体を読もうとしない、「ためにする」批判に思われた。大野氏の時評は、私の<激昂>にも近い反論を真正面から読まれていることがわかり、私をかなり冷静にさせてくれたことなどを思い起こす。

②橋本三郎:短歌と現代(4)天皇制と短歌 (『短詩形文学』 2008年4月号)
 『現代短歌と天皇制』とあわせて旧著『短歌と天皇制』とが紹介されていた。勉強不足で、私は橋本氏の名前を知らなかった。1950年代から60年代にかけて、『現代短歌』や『樹木』で活躍された論客であったことも初めて知った。そしてその主たるテーマは、「前衛短歌」批判であり、岡井隆批判でもあったことは、最近、橋本氏から頂いた著書『いい短歌とは何か』(光陽出版社 2003年)で知った。その著書の「あとがき」で、すでに、私の二つの旧著が紹介されていることも知ったのである。本を出すということは、多くの未知の読者と出会っているというありがたさと責任の重さを同時に味あうことなのだろう。身のひきしまる思いであった。

③鈴木隆夫:『現代短歌と天皇制』 (『短歌研究』 2008年6月号) 
特集<歌人が選ぶ平成二十年間の歌集歌書100>の1冊として選定された。半頁ほどの紹介の後半で、鈴木氏は次のように述べる。「(短歌のもつ)<私性>を、作品・その他の表現活動・生活の三者を貫く姿勢に読み取れる心情と考える著者は、その<私性>の放棄が横行しはじめ、右傾化が著しくなっている現実のなかで、歌人ひとりひとりの<私性>の軌跡の振幅に着目したいと述べている。歌壇の閉鎖性と歌人の時代迎合を撃つこの書は、短歌を詠み、また読むことの意味を改めて考えさせてくれる。巻末の資料もその参考になる」ちなみに、編集部によれば、1889年1月~2008年春までに刊行された歌集歌書で、この時代に残すべきもの、読み継がれるべきものとして、200人の歌人にアンケートをとり、複数回答のあった注目すべき中から100冊を選定したという。

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2008年6月 5日 (木)

マイリスト「短歌の森」に「短歌の『朗読』、音声表現をめぐって―戦時下の短歌朗読2」を登載しました。

前回に続き、太平洋戦争下において、さまざまな形で出版された詩歌朗読用のテキストを紹介し、編者の意図や利用の実態について探ってみました。

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2008年6月 4日 (水)

「考える街。ユーカリが丘」って、ディベロッパーは何を考えているの(2)

これって記事、広告?

 「毎日新聞」の企画特集「役立つ住宅情報」は、首都圏を対象にしている広告記事で占められる。住宅メーカーやマンション業者の販売広告や情報記事が載る。紙面1頁分の構成としては一般記事と紛らわしいのが“特徴”といっていい。だから、唯一署名入りである住宅事情の時評的な「櫻井幸雄の住アドバイス」が特定業者を褒め上げる記事を書いても話し半分で読み流すことが多い。 

2008529日「櫻井幸雄の住アドバイス」の見出し「ユーカリが丘 まれに見る個性・先進性」が目を引いた。末尾の肩書きは「住宅ジャーナリスト」となっている。ユーカリが丘に20年も住んでいる者にとっては、ああ、「また山万がガンバッチャッテ」の思いが先に立つ。山万の開発手法やイメージ先行の広告を間近で見ている住民にはやや食傷気味のフレーズなのだ。

森と水に囲まれたァ~♪

このブログでも、何度か触れているのだが、私が住んでいる住宅街は、この業者が7割近く所有していて、業務代行を務める土地区画整理事業による開発区域に隣接している。宅地造成が完了した工区に、いま、14階のマンションが建設中で、日に日に積み上がるコンクリートの物体は、工事の騒音や振動とともに周辺の住民を不安に陥れている。私たちが住み始めた20数年前、マンションが建つあたり一帯は、戦国時代の井野城跡、鎮守の森に続く雑木林で、市街化調整区域だった。事業組合が認可されると、森は伐採、山は切り崩され、その切り土はくぼ地に盛られ、八社大神の境内の杜だけがお椀を伏せたように取り残され、造成された。その造成過程では、トラック800台分の産業廃棄物が持ち出されたという経緯も発覚した。30度に近い盛り土の傾斜地が2度にわたって崩れ落ち、幹線道路からのこの街区への導入路は傾斜10度に近い危ない橋だった。この盛り土の上に建設中のマンションは、ゴールデンウィークから「森と水、都市機能を備えた、環境共生・子育てを考えた」をキャッチフレーズに販売を開始した。周辺に残る森や水田は、30年以上前、ニュータウン開発当初、山万の買収に応じようしなかった農家の集落と田んぼだったのである。その農家の当主の一人は「われわれが守ってきた森と田んぼなのに、よく言うヨ」と苦笑するのだ。

スーパーがいつのまにコンビニに!

さらに、このマンションの西に位置する私たちの家並みの多くは、日照時間が大幅に短縮されるのは必至。また、マンション入居者には、近接商業施設が必需だが、その建設が、狭い斜面地に私たち住宅街側に寄せて計画され、屋上に駐車場を設置するという。私たちの生活道路や通学路は、500戸以上の新マンション入居者や商業施設・新設公園などを利用する車輌の抜け道となり危険にさらされる。また、数年前、別のマンションの完成時にオープンした近接スーパーがすぐに撤退、コンビニに変わってしまったのを目の当たりにしている。入居者のお年よりは、スーパーがなくなるなんてだまされた、コンビニなんか用がない、と。そんなこんなで、私たち既設住宅街の自治会は環境保全のために、さまざまな要望を行政や山万に提出するのだが、都市計画や開発関係法令を楯になかなか応じようとしないのが実態である。脱法にも近い、法令をギリギリ、クリアすれば事足りるのか、そんな場面を何度も見せつけられている。かつての顧客だった私たち旧住民をこんなにもないがしろにしていいものなのだろうか。このディベロッパーのやることなすことに信頼が置けなくなっているのだ。

評論家って?

先の新聞の広告記事の執筆者「住宅ジャーナリスト」は、業者の宣伝文句そのままに「ニュータウンを何十年もかけて1社で開発するのは、私が知る限り日本ではユーカリが丘だけ」、保育所から老人ホームまで、住宅販売からリノベーションまで、「生涯不安なく生活できる街をというのも先進性の表れ」と書く。マンション販売開始にあわせて、55日に、山万は「住宅評論家櫻井幸男先生と巡る<街の見学会>と<マンション見学会>、櫻井先生がこっそり教えるマンション購入のためのセミナー」を実施したことを後で知った。ああ、やっぱり。

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