『竹内浩三詩文集―戦争に断ち切られた青春』(小林察編 風媒社 2008年)を読む
名古屋に11年間暮らしていたご縁で、私の旧著『短歌と天皇制』(1988年)『現代短歌と天皇制』(2001年)は風媒社の稲垣喜代志さんにお世話になった。といっても前著が出版されたのは、名古屋を離れた半年ほど後のことだった。その後は、稲垣さんに自著や関係するミニコミ誌などをお送りすると、風媒社の新刊本をお届けいただいたりして、恐縮することがたびたびあった。
最近、頂いた『竹内浩三詩文集』で、私は初めて竹内浩三の全貌を知ることになった。これまでは、その名前と「戦争やあはれ」「ひよんと死ぬるや」の詩句が記憶に残る程度であった。その詩は、かねてより大いに啓発されていた今村冬三『幻影解「大東亜戦争」―戦争に向きあわされた詩人たち』(葦書房 1989年)において、紹介されていた「骨のうたふ」の一節であった。実証的な戦争詩、愛国詩(詩人)批判に貫かれたその著作の中で、詩として自立した、兵士たちの戦争詩の一つとして論じられていたのだ。その詩はつぎのように始まる。
骨のうたふ
戦死やあはれ/兵隊の死ぬるやあはれ/とほい他国で ひよんと死ぬるや/
だまつて だれもゐないところで/ひよんと死ぬるや/ふるさとの風や/
こひびとの眼や/ひよんご消ゆるや/国のため/大君のため/死んでしまふや/
その心や (小林察編『竹内浩三全集Ⅰ』)
竹内浩三は、1921年三重県伊勢(市)の裕福な呉服商の家に生まれ、母親は佐佐木信綱に師事、和歌を詠んだ。宇治山田中学校を経て、日本大学専門部映画科に入学。中学時代の友人たちで「伊勢文学」を創刊し詩や小説を発表、マンガも好んで描き、世相風刺の回覧雑誌が発行停止になったこともある。1942年繰り上げ卒業し、10月入営、その後筑波の滑空部隊に転属、1945年4月、フィリピン、ルソン島より移動したバギオ北方で戦死している。
今回の『詩文集』の編者小林察が、遺品の中から、数年前に「伊勢文学」7号(発行年月日が不明ながら、6号が1943年5月発行)とともに原稿用紙に書きつけられた(小林察「竹内浩三の詩精神―その作品拾遺」『環』22号 2005年夏)「うたうたいが」という作品も収録されている。
うたうたいが
うたううたいが/うたうたわなくなり/うたうたいたくおもえど/くちおもくうたうたえず
(中略)
うたうたいが/うつうたわざれば/うたうたわざれば/しぬるほかすべばからんや
うたうたいは/うたうたえずともしぬることもかなわず/けぶりのごと うおのごと/あぼあぼいることこそかなしけれ
また、北川冬彦編集によるアンソロジー『培養土』(1941年)の余白に書きつけられていたつぎのような作品もある。
詩をやめはしない
たとえ巨きな手が/おれを、戦場につれていっても/たまがおれを殺しにきても/
おれを、詩をやめはしない/飯盒に、そこにでも/爪でもって、詩をかきつけよう
今回の『詩文集』は、読者の若者を意識してか、すべて新かな表記になっている。太平洋戦争下の22歳の兵士が書きつけていた、これらの作品を、戦中、戦後を生きのびて、その間隙もなく、うたい続けた詩人や歌人は、どう読むのだろうか。
この『詩文集』には、竹内浩三自筆の、ときにはベンシャーンのような強いタッチのデッサンが、ときには夢見るような童画の世界を描いたマンガも随所に収録されている。
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