短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(6)戦時下の短歌の「朗読」4
(マイリスト「短歌の森」にて、pdf版で読んでいただきましたが、今回からは本文にも掲載することにしました)
日本文学報国会に、一九四四年八月一七日に設置された短歌部会朗詠研究準備委員会では、前田夕暮、頴田島一二郎、木俣修、山口茂吉、鹿児島寿蔵、松田常憲、大橋松平、中村正爾、長谷川銀作、早川幾忠の一〇人の委員が決められた(『文学報国』三四号、一九四四年九月一日)。九月一四日には第一回「短歌朗読研究会」を開催し、前田夕暮短歌部会幹事長によって「愛国百人一首」の朗読の試みが行われたとある。委員は、上記の松田、鹿児島、大橋、中村、早川と原三郎を現幹事とする記事もある(三六号、九月二〇日)。一一月二五日には、朗読文学研究会による第一回「朗読文学の夕」が開催され、前田夕暮の短歌朗詠、水原秋櫻子の俳句朗読、尾崎喜八の詩朗読、塩田良平の平家物語朗読、河竹繁俊の浄瑠璃脚本朗読、長谷川伸、船橋聖一の小説朗読がなされた、との記事もある(四〇号、一九四四年一一月一〇日)。記事の見出しには「決戦文学界に於ける新機軸」と題され、一二月開催予定の第二回「朗読文学の夕」も翌年に延期されたとある。また、同号・次号にわたって、富倉徳次郎「朗読古典への要望―朗読用古典の資料蒐集の報告上・下」が連載されている。「書物入手の困難」や「時間的余裕の無さ」を要因とする古典朗読の現実的な効用を否定しないところに戦時下の過酷さが滲み出ている。具体的には収集のため提出された古典のテキストや注解書などのリストが掲げられ、提出者には五味智英、志田延義、塩田良平、久松潜一らの名がみえる。また、河竹繁俊は、文学者の余技程度の朗読ではなく、朗読技法の研究の重要性を説き、放送の普及により「言葉による適正な芸術的発現が、いかに国民生活を浄化し、芸術化し、ひいては大和一致の精神の助長に資する」か、を強調し、「出版や発表の拘束打開」のためだけであってはならない、とする(「論説・朗読と技法」四一号、一九四四年一一月二〇日)。
一九四四年一二月一二日に開かれた「朗読短歌研究会」と短歌部会幹事会では「銀提供」に資する短歌を会員四三名に依頼したとある(四四号 一九四五年一月一〇日)。『文学報国』も遅刊が続き、一九四五年四月一〇日付け謄写印刷の四八号をもって途切れることになり、「主力を戦争への協力に」とする「二〇年度事業大綱決まる」の文字も復刻版では文字がつぶれて読みにくい。その一項目に「朗読文学運動」とあるのが判読できるのだが、もはや日本全体が力尽きた痛ましさが伝わってくる。
日本文学報国会の会報によって太平洋戦争下の文学朗読運動についてたどってみた。短歌朗読については、端緒についたばかりの感もある。
当時、国家の国民への広報戦略といえば、活字メディアが主力ではあったが、ラジオ、の普及は目覚しかった。一九三二年、聴取契約者数が、一〇〇万突破という中で、一九三七年九月、内閣情報委員会が廃され、内閣情報部が設置されると、政策放送の定例化が促進された。一九三八年一月からは、毎日一〇分間の「特別講演の時間」という重要政策発表の場を新設した。また、同年一二月には、全国的なラジオ普及運動を展開、陸海軍・内務・逓信四省連名の、ラジオ標語懸賞入選作一等「挙って国防揃ってラジオ」を配したポスターが作られ、私も放送博物館で現物を見ている。一九四〇年に入ると、契約者数が五〇〇万を越え、一世帯六人平均として三〇〇〇万人、内地人口の約四割以上の聴取が可能になったのである。
(『ポトナム』2008年8月号所収)
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