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2008年7月31日 (木)

短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(5)戦時下の「短歌朗読」3

さらに、『中等学生のための朗詠歌集』の編者小島清は、「特別の目的をもつて編纂したものでないから、愛国勤皇の歌ばかりをあつめてもゐない」と明言している点で、類書には例がないのではないか。現に、「現代篇・諸家作品」に登場する歌人の人選、選歌は、戦後の私たち世代一九五〇年代の中学・高校の『現代国語』で学んだ教科書の近代短歌と重なる作品が多いのであった。

これまで、当時の朗読用テキストを読んできた限りでは、詩の朗読運動が他に先んじて実施され、盛んであった。短歌が朗読の対象となることについては、一歩遅れたという認識が伺われる。

一九四二年五月に発足した日本文学報国会の機関紙『文学報国』(一九四三年八月一〇日創刊~一九四五年四月一〇日、四八号で終刊か)の朗読関係の記事を追ってゆくと当時の様子がわかって興味深い。

①真下五一「代用品文学の汚名―朗読文学について」5号(1943101日)                                    

②「朗読文学の夕」6号(一九四三年一〇月一〇日)

③寺崎浩「朗読文学委員から―真下五一氏に答ふ」8号(一九四三年一一月一日)

①は、当時なぜ「朗読文学」が提唱されだしたのか、その唯一の理由が「紙の払底」にあるということを誰もあやしまないばかりか、間に合わせ的、代用品的な押売り理由を作者や朗読者までが公言しているのを嘆いた文章である。文化においては、速急な事情的な理由よりももっと大切なものがあるのではないかとの警告めいた発言であった。これに対して、③は、久保田万太郎委員長のもと「朗読文学研究会」を数回開いているが、はかばかしい成果はない。が、放送局の協力、舞台・高座・町の辻々など場所を選ばない可能性、音楽との統合などさまざまな可能性を研究している、という主旨の小文であった。

④「聴覚に訴へる文学―新企画に放送局協力、『朗読文学』懇話会」30号(一九四四年七月十日)

この記事には、七月一一日、情報局放送課・文芸課の斡旋で日本放送協会と文学報

国会との懇談会が開かれ、文学報国会事務局長中村武羅夫はつぎのように語ったとあ

る。「朗読文学は単なる旧作の朗読等の安易な便宜主義は排し、あくまでも正しい日本語の純化を図り、世界に無類の美しい音を持つ国語を効果的に、聴覚を通して真に魂へ伝へ得る文学でありたい・・・」さらに、前年に設置した「朗読文学研究会」を運動強化を期して「朗読文学委員会」に改編する予定であると伝える。つぎの31号(1944720日)では、「特輯・ラジオと国民生活」が組まれ、川路柳虹が、ラジオにおける朗読について、「文学作品が印刷できない」状況を踏まえて、「間に合せの戦争ものなどより純粋な文芸作品が却つて望ましい。これも精神を高めるのに役立つ」としながら、「詩の朗読」についてはどうも板にのつていないとし、朗読する作品自体の詩人による自作朗読より俳優による朗読が望ましい、などの注文をつけている。

 一九四四年八月一六日、日本放送協会担当部局及び情報局放送課長らを交え臨時朗読文学委員会が開催され、「海の兎」(阿部知二作、八月五日放送済み)「微笑」(円地文子作、八月一九日放送予定)を女優たちに朗読させ、批判研究したと伝える。

この頃から、「報国」の一環としての短歌朗読(朗詠)の活動が具体化していったようである。八月一七日には、短歌部会朗詠研究準備委員会が開かれ、短歌朗詠法の再興と正統朗詠の基礎の確立を企図していた。(『ポトナム』2008年7月号所収)

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2008年7月28日 (月)

短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(6)戦時下の短歌の「朗読」4

(マイリスト「短歌の森」にて、pdf版で読んでいただきましたが、今回からは本文にも掲載することにしました)             

日本文学報国会に、一九四四年八月一七日に設置された短歌部会朗詠研究準備委員会では、前田夕暮、頴田島一二郎、木俣修、山口茂吉、鹿児島寿蔵、松田常憲、大橋松平、中村正爾、長谷川銀作、早川幾忠の一〇人の委員が決められた(『文学報国』三四号、一九四四年九月一日)。九月一四日には第一回「短歌朗読研究会」を開催し、前田夕暮短歌部会幹事長によって「愛国百人一首」の朗読の試みが行われたとある。委員は、上記の松田、鹿児島、大橋、中村、早川と原三郎を現幹事とする記事もある(三六号、九月二〇日)。一一月二五日には、朗読文学研究会による第一回「朗読文学の夕」が開催され、前田夕暮の短歌朗詠、水原秋櫻子の俳句朗読、尾崎喜八の詩朗読、塩田良平の平家物語朗読、河竹繁俊の浄瑠璃脚本朗読、長谷川伸、船橋聖一の小説朗読がなされた、との記事もある(四〇号、一九四四年一一月一〇日)。記事の見出しには「決戦文学界に於ける新機軸」と題され、一二月開催予定の第二回「朗読文学の夕」も翌年に延期されたとある。また、同号・次号にわたって、富倉徳次郎「朗読古典への要望―朗読用古典の資料蒐集の報告上・下」が連載されている。「書物入手の困難」や「時間的余裕の無さ」を要因とする古典朗読の現実的な効用を否定しないところに戦時下の過酷さが滲み出ている。具体的には収集のため提出された古典のテキストや注解書などのリストが掲げられ、提出者には五味智英、志田延義、塩田良平、久松潜一らの名がみえる。また、河竹繁俊は、文学者の余技程度の朗読ではなく、朗読技法の研究の重要性を説き、放送の普及により「言葉による適正な芸術的発現が、いかに国民生活を浄化し、芸術化し、ひいては大和一致の精神の助長に資する」か、を強調し、「出版や発表の拘束打開」のためだけであってはならない、とする(「論説・朗読と技法」四一号、一九四四年一一月二〇日)。

一九四四年一二月一二日に開かれた「朗読短歌研究会」と短歌部会幹事会では「銀提供」に資する短歌を会員四三名に依頼したとある(四四号 一九四五年一月一〇日)。『文学報国』も遅刊が続き、一九四五年四月一〇日付け謄写印刷の四八号をもって途切れることになり、「主力を戦争への協力に」とする「二〇年度事業大綱決まる」の文字も復刻版では文字がつぶれて読みにくい。その一項目に「朗読文学運動」とあるのが判読できるのだが、もはや日本全体が力尽きた痛ましさが伝わってくる。

日本文学報国会の会報によって太平洋戦争下の文学朗読運動についてたどってみた。短歌朗読については、端緒についたばかりの感もある。

当時、国家の国民への広報戦略といえば、活字メディアが主力ではあったが、ラジオ、の普及は目覚しかった。一九三二年、聴取契約者数が、一〇〇万突破という中で、一九三七年九月、内閣情報委員会が廃され、内閣情報部が設置されると、政策放送の定例化が促進された。一九三八年一月からは、毎日一〇分間の「特別講演の時間」という重要政策発表の場を新設した。また、同年一二月には、全国的なラジオ普及運動を展開、陸海軍・内務・逓信四省連名の、ラジオ標語懸賞入選作一等「挙って国防揃ってラジオ」を配したポスターが作られ、私も放送博物館で現物を見ている。一九四〇年に入ると、契約者数が五〇〇万を越え、一世帯六人平均として三〇〇〇万人、内地人口の約四割以上の聴取が可能になったのである。

(『ポトナム』20088月号所収)

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2008年7月25日 (金)

『竹内浩三詩文集―戦争に断ち切られた青春』(小林察編 風媒社 2008年)を読む

 名古屋に11年間暮らしていたご縁で、私の旧著『短歌と天皇制』(1988年)『現代短歌と天皇制』(2001年)は風媒社の稲垣喜代志さんにお世話になった。といっても前著が出版されたのは、名古屋を離れた半年ほど後のことだった。その後は、稲垣さんに自著や関係するミニコミ誌などをお送りすると、風媒社の新刊本をお届けいただいたりして、恐縮することがたびたびあった。

最近、頂いた『竹内浩三詩文集』で、私は初めて竹内浩三の全貌を知ることになった。これまでは、その名前と「戦争やあはれ」「ひよんと死ぬるや」の詩句が記憶に残る程度であった。その詩は、かねてより大いに啓発されていた今村冬三『幻影解「大東亜戦争」―戦争に向きあわされた詩人たち』(葦書房 1989年)において、紹介されていた「骨のうたふ」の一節であった。実証的な戦争詩、愛国詩(詩人)批判に貫かれたその著作の中で、詩として自立した、兵士たちの戦争詩の一つとして論じられていたのだ。その詩はつぎのように始まる。

骨のうたふ

戦死やあはれ/兵隊の死ぬるやあはれ/とほい他国で ひよんと死ぬるや/

だまつて だれもゐないところで/ひよんと死ぬるや/ふるさとの風や/

こひびとの眼や/ひよんご消ゆるや/国のため/大君のため/死んでしまふや/

その心や                (小林察編『竹内浩三全集Ⅰ』)

 

 竹内浩三は、1921年三重県伊勢(市)の裕福な呉服商の家に生まれ、母親は佐佐木信綱に師事、和歌を詠んだ。宇治山田中学校を経て、日本大学専門部映画科に入学。中学時代の友人たちで「伊勢文学」を創刊し詩や小説を発表、マンガも好んで描き、世相風刺の回覧雑誌が発行停止になったこともある。1942年繰り上げ卒業し、10月入営、その後筑波の滑空部隊に転属、19454月、フィリピン、ルソン島より移動したバギオ北方で戦死している。

 今回の『詩文集』の編者小林察が、遺品の中から、数年前に「伊勢文学」7号(発行年月日が不明ながら、6号が19435月発行)とともに原稿用紙に書きつけられた(小林察「竹内浩三の詩精神―その作品拾遺」『環』22号 2005年夏)「うたうたいが」という作品も収録されている。

 

うたうたいが

うたううたいが/うたうたわなくなり/うたうたいたくおもえど/くちおもくうたうたえず

 (中略)

うたうたいが/うつうたわざれば/うたうたわざれば/しぬるほかすべばからんや

うたうたいは/うたうたえずともしぬることもかなわず/けぶりのごと うおのごと/あぼあぼいることこそかなしけれ

 

 また、北川冬彦編集によるアンソロジー『培養土』(1941年)の余白に書きつけられていたつぎのような作品もある。

 

 詩をやめはしない

たとえ巨きな手が/おれを、戦場につれていっても/たまがおれを殺しにきても/

おれを、詩をやめはしない/飯盒に、そこにでも/爪でもって、詩をかきつけよう

 今回の『詩文集』は、読者の若者を意識してか、すべて新かな表記になっている。太平洋戦争下の22歳の兵士が書きつけていた、これらの作品を、戦中、戦後を生きのびて、その間隙もなく、うたい続けた詩人や歌人は、どう読むのだろうか。

 この『詩文集』には、竹内浩三自筆の、ときにはベンシャーンのような強いタッチのデッサンが、ときには夢見るような童画の世界を描いたマンガも随所に収録されている。

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2008年7月20日 (日)

<竹山広20・8・9以降>アンケートに答えました  

「短歌往来」8月号の竹山広特集の私のアンケートの回答です。

評論は三枝昂之と森本平の2本と年譜(馬場昭徳)と50首抄(佐藤通雅)でした。

①竹山広の3首を上げて下さい。

核反対の立看板を引き倒す風あれば風を敵として坐る(『葉桜の丘』)

無用なる天皇制といふ論にこころ傾きて七十となる(『残響』)

傲る者を無力なものとなしたまふ神よと讃ふ日日の祈りに(『遐年』)

竹山短歌の魅力について自由に記して下さい。

 竹山短歌の鑑賞に欠かせないキーワードである「核」「天皇」「神」について直截的なメッセージが込められている三首をあげた。竹山の原爆詠の背景として長い沈黙と決断があったことはすでに知られている。長崎での被爆以来、作歌自体を中断していたが、一九五五年以降は断続的に原爆詠を詠みつづけている。年譜には、一九八四年「この年から、市民による核実験反対の座り込みに参加」とあり、実践する者の底力を見せ、同時期に「うすにごる反・反核の歌にあそぶ岡井隆もさびしかるべし」がある。一九六一年に天皇の巡幸を迎えたときの「現つ神にあらず人民にまたあらず機関車二輌みがきつらねて」(『とこしへの川』)以来、天皇(制)を繰り返し詠み続ける。また、佐藤通雅は、竹山の信仰について永井隆との比較で言及するが、私も永井の通俗性と原爆投下「神の摂理」論、「長崎の鐘」出版をめぐる米占領軍との経緯を知り、竹山の「神」との距離が貴重なものに思えた。

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2008年7月 2日 (水)

節度を失くした歌人たち―夫婦で選者、歌会始の話題づくりか

選者は若返った?が

71日、来年1月の歌会始の選者が宮内庁から発表された。岡井隆(80)、篠弘(75)、三枝昂之(64歳)、永田和宏、河野裕子ということだ。1979年、戦中派歌人として選者入りした後、今年まで30年近く選者をつとめていた岡野弘彦(84歳)が引退し、あらたに河野裕子が選者になった。一番若い永田が61歳で、河野も同年というから大幅に若返ったことになる。

それ以上に驚いたのが、永田と河野は夫婦歌人で有名でもあった。かつて、私は「夫婦や家族で売り出す歌人たち―そのプライバシーと引き換えに」と題して「永田和宏一家」にも触れ、時評を書いたことがある(『現代短歌と天皇制』2001年 収録)。そこでは、つぎのようにも記している。

 

夫婦で、親子で、そして家族で歌人というのも悪くはないが、途中で妻が夫の結社に乗り換えたり、夫婦で一体となって結社を取りしきったり、主宰者の夫の没後は妻や子どもが結社を引き継いだりするのは、稽古事の家元や老舗の暖簾の世界でもあろう。自立した文学者や文学を志すグループのすることだろうかと、ときどき不思議に思うことがある。(中略)主宰者への貢献度により擬似家族のような「弟子」を育てる例もある。こうした狭い場での「短歌の再生産」が短歌の衰退に拍車をかけなければいいが。

 たかが歌会始の選者に、それほど目くじら立てることもないというのが、「大人」の態度なのだろう。長い間、歌会始の選者人事をおそらく仕切っていた、木俣修、岡野弘彦に続くのは、岡井隆なのだろうか。今回の人事は、御用掛り、選者を退いた岡野の重石が取れた後の岡井の主導権が実を結んだとも見える。木俣、岡野時代は、それでも、選者の出身結社のバランスなどへの配慮も若干目に見えていた。今回の河野登用には、もうそんな配慮は投げ打って、夫婦選者という話題性を優先したと思われるのだ。

しかし、今回の出来事に限らず、歌人に節度を失くしたというのか、節操がないというのか、開き直る傾向が昨今露骨になった事態をどう理解したらいいのだろう。いや、政治家や官僚の世界も同じかもしれない。歌人にも歌人の利権が廻りめぐっているのではないかと思われるのだ。島田修三はかつて歌壇における互酬性とも称した。日常的な短歌の批評や評論の世界でも、歌壇ジャーナルにおける夫婦や結社内での内輪褒めの横行、歌人同士のエールの交歓が顕著なのである。

 「光栄」の裏側 

 一方、選者を引き受けた河野は、コメントで「喜んで引き受けました。大変光栄です」「女性が1人入ることで、暮らしの現場の感じや手触りが反映できれば」と語ったという(『東京新聞』200871日)。ここでの「光栄」発言の背後には、歌会始の天皇制、皇室、国家との親密性が尾を引いている。1993年選者就任の際の岡井隆の弁に、歌会始とて、全国規模の最大の短歌コンクールであって、新聞歌壇の延長に過ぎない旨の発言があったと記憶するが、現在にあっても、決してそうは言い切れない「蜜」が歌会始には潜んでいるのだろう。また、河野は、久しぶりに一席を確保した女性選者の存在をアピールもするが、歌会始の女性選者の役割というのは、歌壇ヒエラルヒーの男社会の「紅一点」に過ぎないのではないか。歌壇人口、結社や歌壇ジャーナリズムを支えている女性たちの絶対数に比べたら、女性選者の数は男性と逆転するかもしれない状況なのだ。 

敗戦後の歌会始の選者に現代歌人が登用されて60年が経つ。それでも、宮内庁という国の機関が主催する皇室行事歌会始の選者というステイタスは、いまだに多くの歌人たちを魅了してやまない、ということなのだろう。短歌の文学としての自立は、ないものねだりなのかもしれない。

 

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