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2008年8月 3日 (日)

やはり気になる「働く女たち」,ウィーン美術史美術館所蔵「静物画の秘密展」(国立新美術館)

                                                                                                             

  昨秋のアムステルダム美術館所蔵「フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展」(国立新美術館)に続き、この夏のフェルメール展も始まったが、会期の終りが近い「静物画の秘密展」に出かけてみることにした。連れ合いは、帰路の買い物の方が目的のようだし、前日に誘った娘も東京についでがあるとかで、久しぶりの3人での展覧会となった。

 ウィーン美術史美術館の静物画といえば、何だろう。花や果物の、ときには残酷な鳥の死骸が転がっているような精密画だろうか。やはり、第1室の最初の作品は、切り落とされた頭が脇に置かれ、引き裂かれ、吊るされた「解体された雄牛」だった。日常のすぐ裏側の市場や台所に見る人間の残忍さがここまで精緻に描かれると、厳粛な気持ちにもなる。「魚のある静物」(Sebastian Stokoskopff1650年頃)は、高橋由一の「鮭」を思い起こさせる構図である。静物画の一つジャンルとしての花束の図も、どれも決して明るくはない。その命のはかなさをメッセージとして秘めているからなのか、「青い花瓶の花束」(Jan Brueghel the Elder1608年頃)の花瓶の周辺には、萎んで散った花片がいくつか描かれている。「朝食図」というジャンルもあるらしく、今回も何点か出品されている。また、肖像画と風俗画に属する作品も数多いが、これらの作品のリアルさとそこに秘められた「寓意」についていくつかの作品の解説に付されていたが、私には、「そこまでは読み取れない!」という部分があった。たとえば「農民の婚礼(欺かれた花嫁)」(Jan Steen1670年頃)の事細かな解説は放棄した。あの猥雑な人物群像と一人一人の表情が実にいきいきとしていることが読み取れることができれば、十分ではないかと。

 今回の展示で、もっとも気になったのが、「台所道具を磨く女」(Martin Dichtl1665年頃)であった。整理されて重ねられた鍋や金物、その一つを根気よく磨いている表情には、時代を支えた働く女たちの、多くは決して若くはない働く女の自負がにじみ出ている作品に思えた。時には揶揄的に描かれる厨房で働く女たち、散らかし放題の食堂や台所の絵を見すぎてしまったためだろうか、清涼感さえ漂う作品に思えたのだ。残念ながら絵葉書にはなっていなかった。

 今回の美術展の「看板作品」の一つはベラスケスの「薔薇色の衣裳のマルガリータ王女」(1,65354年頃)らしい。あの王女の愛らしさが、のちの悲劇的な物語の序章のようにとらえられるからだろうか。2002年の「ウィーン美術史美術館名品展」(東京芸術大学美術館)では、「青いドレスのマルガリータ王女」(1659年)がやはり評判であった。そういえば、「魚のある静物」「農民の婚礼」、「青い花瓶の花束」、「朝食図」(de Heem166069年)「楽譜、書物のある静物」(Bartolomeo Bettera17世紀後半)などは、このときにも出会っているはずなのだが。

 

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2008年8月 1日 (金)

短歌の「朗読」、音声表現をめぐって1~6

 短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(1)朗読・朗詠・披講とは

「歌壇で近頃流行るもの」の一つとして「朗読」がしばしば話題になっている。最近の短歌雑 誌では、つぎの特集が目についた。 ①特集「体験的朗詠・朗読・絶叫の魅力」(『短歌往来』二〇〇〇年一〇月) ②特別企画「朗読の魅力を探る」(『歌壇』二〇〇四年六月) ③特集「音読して心に残る短歌」(『短歌』二〇〇七年三月) 短歌の世界には、すでに「朗詠」という音声表現があり、正月のテレビでもなじみとなった、 独特の節回しによる歌会始での「披講」というものもある。披講の歴史や実態は、最近『和歌を 歌う―歌会始と和歌披講』(日本文化財団編 笠間書院二〇〇五年)が出て、かなりの内実がわ かるようになった。また、「朗詠」は「十世紀前半以降までに成立した歌謡の一種で、もっぱら 『漢詩文』に節をつけて吟誦するもの」で、「和歌の朗詠」の歴史は近年にできた新しい言い方 であるという(青柳隆志「朗詠と披講について」上記『和歌を歌う』所収)。 朗詠とも、もちろん披講とも異なる、福島泰樹の絶叫短歌と吉岡しげ美の与謝野晶子の短歌の 弾き語りを聴いたことがある。いずれも三十年以上の実績をもち、音楽性とタレント性が高いの で、これらのエンターテイメントとは一線を画することにして、「短歌の朗読」の魅力と問題点 を探ってみたい。そして、その歴史にみる危うさにも迫ってみたい。 朗読の体験者たちは次のように語る。岡井隆の朗読は(一)さらりとした口調(二)自作、で きれば新作の連作(三)基調の文語を聞くだけで分からせる工夫、を念頭に一九九八年あたりか ら始めたという(「朗読する歌人たち」①所収)。穂村弘は、作者が自作を読むことによって「一 人の人間の総体としての魅力や存在感のようなもの」が示され、発見するところは大きい、とい う(「『人間力』が分かってしまう」①)。ニューヨークでの朗読体験を持つ石井辰彦は、短歌の 朗読によって、その「音楽性」が再認識でき、短歌の「解釈」の可能性を広げることもできるこ とを強調する(「義務の楽しみ」①)。そして、吉村実紀恵は「言葉と空間、あるいは言葉と肉体 のリンクによって生み出される短歌の新しい可能性」を観客とともに体感できるという(「町を 出る歌人は出会いをつくる」①)。さらに、もっと若い世代の黒瀬珂爛は「朗読者と観客空間と の融和がもたらす空間宰領に短歌の朗読の特殊性」を見い出し、「定型音読が本来持つ(同時に 嵌りやすい陥穽としての空虚な)、『心地よさ』を越えた、朗読の核を空間から引き出す」のでは ないか、と指摘する(「朗読、その空間」②)。さらに、彼は「こえにだしてよんでみると、いみ はわからなくてもきもちがいい」という谷川俊太郎の発言(『詩ってなんだろう』筑摩書房二〇 〇一年)と辺見庸の「押しつけがましい情緒」と言えるこの「気持ちよさ」こそが「国民士気の 昂揚」という国策に沿った「詩歌朗読運動」を促進した、戦前・戦中期を忘れてはならない(『永 遠の不服従のために』毎日新聞社二〇〇二年)という発言を紹介する。黒瀬は、現代の短歌朗読 とかつての「詩歌朗読運動」とは完全に次元をことにすると断言しつつも「情緒」の魅惑、陶酔 感から抜け出せないことも否定はしない(ウェブマガジン『ちゃばしら』二〇〇四年九月)。 この黒瀬の指摘は重要で、私もかねがね現代の「短歌朗読」とかつての「朗読運動」に通底する ところがほんとうにないのかが、気になっていた。戦前・戦中期の詩などの朗読運動についての 優れた先行研究にならって、「短歌朗読」の歴史をたどりたい。(『ポトナム』2008 年3月号所収) 

短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(2)戦時下の「愛国詩朗読」への道

坪井秀人『声の祝祭―日本近代詩と戦争』(名古屋大学出版会一九九七年)は、 明治期から湾岸戦争まで、日本の詩人たちが戦争にどうかかわったのかを検証す る労作である。第Ⅰ部序章では、詩の持つ「音声性への志向」の様態を民衆詩派 の詩の考え方と明治期の『新体詩抄』のそれと比較検討する。第Ⅲ部第九章「声 の祝祭―戦争詩の時代」第十章「朗読詩放送と戦争詩」では、<大東亜戦争>下、 モダニズムが衰微してゆく過程で、「朗読詩運動などに代表されるように音声性が 視覚性を駆逐していく過程」、「日本近代詩の表現が戦争詩にゆきついてしまうこ との意味を表現史的問題として考察」する。さらに、戦争詩の朗読が「ラジオ放 送というメディアとどのように連携していたかについて」も検証する。巻末の「朗 読詩放送の記録(表)」は圧巻であり、その物語るところは深く、重い。 坪井によれば、明治期の「朗読」の嚆矢は、一九〇二年八月、与謝野鉄幹、平 木白星、児玉花外、蒲原有明らによる朗読研究会(於新詩社、後に韻文朗読会と 改称)であり、一〇月の会には鴎外、涙香、信綱らも加わり、九〇〇名の来会者 があったが、詩吟的「朗詠」が主流であったという。一九二〇年代に入ると、口 語自由詩運動を展開した白鳥省吾・福田正夫ら民衆詩派詩人と幅広い詩人たち、 小山内薫らの演劇人、山田耕筰らの音楽家との朗読会が開催されるようになり、 一九二五年三月に放送を開始したラジオが大きな役割をはたすことになる。 最近、手にした照井瀴三『詩の朗読―その由来・理論・実際』(白水社 一九三 六年。著者は読み手としても著名だった声楽家)によれば、「詩の朗読」とは、新 体詩の朗読、(漢詩の)詩吟とも異なり「詩藻の美と力と諧調とを表出して、その 詩の精神と情趣とを聴者が十分に味解し得るやうに明瞭に読み上げることであ る」と定義し、「とりわけ、散文詩、口語で書かれた自由詩等に於て、朗読が最も 効果的であり、かつ最も適切であると謂はざるを得ない」とする。一九二〇年代、 関西では、著者らが中心になって「詩と音楽の会」が続けられ、放送開始後は、 単発的に大阪中央放送局(JOBK)の「詩の朗読放送」が始まっている。島崎藤 村、西条八十、三木露風、高村光太郎、北原白秋らの詩が、著者照井をはじめ、 富田砕花、岡田嘉子、東山千恵子らによって朗読されていることがわかる。本書 では、朗読技術としての発声・発音・心理を基盤に抑揚・間合い・句切りなどを 作品に即して詳説する。朗読に適した詩のアンソロジーが付され、藤村「椰子の 実」、白秋「落葉松」、春夫「秋刀魚の歌、」賢治「永訣の朝」などが並び、戦時色 は薄い。NHK「番組確定表」によれば、「詩の朗読」は時間帯を変えながら、オ ーケストラによる伴奏や歌唱とともに放送されることが多かった。では、戦争詩 の朗読運動の理念となった「国語醇化」「戦意高揚」への道筋をたどり始めたのは 何時ごろからだったのだろう。 一九三六年一一月には、上記 JOBK は退廃的な歌謡曲を浄化しようと「国民歌 謡」番組の放送を開始した(一九四一年二月「われらのうた」、一九四二年二月に は「国民合唱」と改称。参照「年表」『日本放送史・別巻』一九六五年。櫻本富雄 『歌と戦争』アテネ書房 二〇〇五年 三〇頁)。一九四〇年「紀元二六〇〇年奉 祝」、一九四一年一二月八日「宣戦布告」を経て、詩歌朗読運動も大きく転換を迫 られることになる。高村光太郎「十二月八日」は次のように始まる。 記憶せよ、十二月八日。 この日 世界の歴史 あらたまる。 アングロ・サクソンの主権、 この日 東亜の陸と海とに 否定さる。 (内野光子『ポトナム』2008 年4月

 短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(3)戦時下の「短歌朗読」1

一九四一年一二月八日を受けて一四日より、夜七時のニュースの後に連日「愛国詩」の朗読が 放送され、年を越しても月に一〇日前後は放送されるようになった。私も、愛宕山の NHK 放送 博物館で当時の「番組確定表」を見ることができた。それらを眺めていると、一二月八日を境に、 詩人たちとラジオというメディアの間に国家権力が露骨に介入してきた、というより国家権力の 傘下に置かれたという方が正確かもしれない。というのも一二月八日未明に日本軍は真珠湾攻撃 を始めたが、夜の午後八時二〇分から「ニュース歌謡」と称して「宣戦布告」(野村俊夫作詞・ 古関裕而作曲・伊藤久男歌)「太平洋の凱歌」(日本詩曲連盟作詞・伊藤昇作曲・霧島昇歌)が放 送されている。大本営から発表される「大戦果」の都度作詞・作曲家を待機させて対応し、国民 の士気を鼓舞していたことになる(前掲『歌と戦争』四二頁。「年表」『日本放送史・別巻』)。 その証左として、大政翼賛会から朗読詩(歌)集の類が立て続けに刊行されていることをあげ てよいだろう。国立国会図書館の目録では、次のような冊子(いずれも五〇頁前後)が確認され た。 a『詩歌翼賛・朗読詩集―日本精神の詩的昂揚のために』第一輯・第二輯 大政翼賛会文化部編 目黒書店 一九四一年七月・一九四二年三月 b『大東亜戦争愛国詩歌集』(『詩歌翼賛・特輯』)大政翼賛会文化部編 目黒書店 一九四二年三月 c『大詔奉戴・愛国詩集』大政翼賛会文化部編 翼賛図書刊行会 一九四二年一〇月 d『内原の朝・青少年詩集』大政翼賛会文化厚生部編翼賛図書刊行会 一九四三年一一月 e『軍神につづけ・和歌三十三首・俳句五十七句・詩十九篇』大政翼賛会文化部編 大政翼賛会 宣伝部刊 一九四三年 f『朗読文学選・現代篇(大正・昭和)』大政翼賛会文化部編 大政翼賛会宣伝部刊 一九四三 年五月 私の手元には、(a)の第一輯改版(『朗読詩集・地理の書他八篇』修正再版(一九四 二年一〇月、五万部)と(b)(f)がある。いずれも仙花紙の粗末なものだが、実態とし てどのように編集され、どのように利用されていたのだろうか。 (b)の「跋」には、一二月八日を受けて「文字を通じて詩を味ふばかりでなく、言葉を通じ てこれを味到することを予てから提唱してゐた文化部では、早速これらの詩を音声を通して国民 に聞かせることを放送当局者に進言し、他方このやうな詩を献納して貰ひたいと詩人団体を通じ て詩人各位に愬へた」ところ、一九四一年末までに約三〇〇篇の詩が集まり、すでに、若干のも のはラジオで放送され、レコードに吹き込まれ劇場で朗読された、とある。野口米次郎「宣戦布 告」、西条八十「戦勝のラジオの前で」、堀口大学「戦ひて死する幸」高村光太郎「必死の時」な どが収録されている。また(b)の巻末には「大東亜戦争短歌抄」として五一首が収録されてい るが、短歌については、歌人に献納を呼びかけたものではなく、日本文学者愛国大会やラジオで 朗読されたものなどを中心に集めたという。そこでは「正直に告白すれば、短歌をいかに朗読す べきかの技術について、まだ十分の確信がわれわれになかったからである」とも書かかれ、(f) の「はしがき」にも、詩の朗読運動は反響を呼んでいるので「これを更に拡充し、短歌の朗詠と 散文の朗読へと幅をひろげ」ていきたい旨の記述があり、「短歌朗読」の位置づけがわかろう。 (『ポトナム』2008 年 5 月号所収)

 短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(4)戦時下の「短歌朗読」2

前記(b)、朗読用『大東亜戦争愛国詩歌集』の巻末に置かれた「大東亜戦争短歌抄」におけ る収録歌人二三人の中、歌数が一番多いのは斎藤瀏六首、次いで四首が斎藤茂吉、北原白秋、吉 植庄亮、川田順、三首が逗子八郎、斎藤史であった。当時の「歌人勢力図」からいっても、瀏、 八郎(井上司郎)、史の登場には突出しているという感を免れないでいる。 ・神のゆるしたまはぬ敵を時もおかず打ちて止まむのおおみことのり (斎藤茂吉) ・一ルーズヴェルト一チャーチルのことにあらず世界の敵性を一挙に屠れ (土岐善麿) ・忍ぶべき限りしのべり今にして一億の皇民 起たざらめやも (斎藤史) こうした朗読用の詩歌集の現実的な役割について、坪井秀人は、その主題から戦意の昂揚、戦 捷の祝賀、敵への侮蔑、英霊への讃歌などのため、一つは学習教材として、一つは出征兵士や帰 還兵士(英霊)たちの送迎歌のテキストとして使用されたする(前掲書一九四~一九五頁、二一 五頁)。 一方で、『地理の書他八編』の巻頭「詩の朗読について」において高村光太郎は、日本語は「諸 外国語とは違って「上品で、こまやかでな表現の陰影があり、心のすみずみまで響く弾力性のあ る言葉」であり、「詩の朗読は、この国語の真の美を愛する心に根ざすのである。(中略)国語の 美と力とに信頼しそれをどこまでも純粋に伸ばし、またそのなかから未発見の魅力を発見し、わ れわれ各自が国語を語ることに無二のよろこびと、気持ちよさを強く自覚するところまで進まね ばならない」と記す。巻末「詩歌の朗読運動について」の岸田国士は、一片の詩の朗読が、「名 士の愛国的訓話」、「高官の弔辞」よりも荘厳で、感動的な印象を与え得る、と記す。続けて、詩 歌朗読運動は詩歌を広める運動であると同時に詩歌を生み出し、「詩歌の正しい肉声化を通じて、 日本語を暢びやかにし、豊かにし、純粋にすることに役立ち得る」と述べる。両者は、共通して 日本語を「純粋」にすることを強調している点に注目したい。 今回、『ポトナム』会員としても興味深い書物に出会った。当時の朗読ブームの中で刊行され たアンソロジー、小島清編『中等学生のための朗詠歌集』(湯山弘文堂 一九四二年一〇月)で ある。上世・中世・近世・現代篇の四部構成で、万葉集の舒明天皇の国見の長歌から始まる。現 代篇は「諸家作品」「大東亜戦争五拾首」に分かれ、前者は天田愚庵で始まり、茂吉の次の歌で 終わる、二三人七〇首であった。 ・美しき沙羅の木のはな朝さきてその夕には散りにけるかも (天田愚庵) ・むかうより瀬のしらなみの激ちくる天竜川におりたちにけり (斎藤茂吉) 後者は、「戦地篇」三五人三五首と「銃後篇」一五人一五首で構成されている。「戦地篇」には 故・渡辺直己、衛生兵・酒井俊治、ノモンハン・松山国義、山西・小泉苳三、中支・酒井充実、 「銃後篇」には茂吉、白秋、順、空穂、善麿と並んで頴田島一二郎、福田栄一、森岡貞香、板垣 喜久子の名があった。「ポトナム」同人小島清の思い入れが過ぎる面も垣間見えるのだが、私が 着目したのは「小序」であった。「日本精神の昂揚といふことは、いつの時代にあつても盛んで あつたが」と始まり、その中段で、純日本的なものを見出すための学問の方法とは別に、日本の 歴史を振り返れば「外国との交渉がすでに古い歴史をもつてゐる」という事実の中から純日本的 なものだけを抜き取るのは容易でなく、抜き取ったとしても、それがその時代の日本精神のすべ てではない、と説いている部分である。先の「国語を純粋」にすることとは対照的な言ではない か。 (『ポトナム』2008 年 6 月号所収

 短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(5)戦時下の「短歌朗読」3 

 さらに、『中等学生のための朗詠歌集』の編者小島清は、「特別の目的をもつて編纂した ものでないから、愛国勤皇の歌ばかりをあつめてもゐない」と明言している点で、類書に は例がないのではないか。現に、「現代篇・諸家作品」に登場する歌人の人選、選歌は、戦 後の私たち世代一九五〇年代の中学・高校の『現代国語』で学んだ教科書の近代短歌と重 なる作品が多いのであった。 これまで、当時の朗読用テキストを読んできた限りでは、詩の朗読運動が他に先んじて 実施され、盛んであった。短歌が朗読の対象となることについては、一歩遅れたという認 識が伺われる。 一九四二年五月に発足した日本文学報国会の機関紙『文学報国』(一九四三年八月一〇 日創刊~一九四五年四月一〇日、四八号で終刊か)の朗読関係の記事を追ってゆくと当時 の様子がわかって興味深い。 ①真下五一「代用品文学の汚名―朗読文学について」5 号(1943 年 10 月 1 日) ②「朗読文学の夕」6 号(一九四三年一〇月一〇日) ③寺崎浩「朗読文学委員から―真下五一氏に答ふ」8 号(一九四三年一一月一日) ①は、当時なぜ「朗読文学」が提唱されだしたのか、その唯一の理由が「紙の払底」に あるということを誰もあやしまないばかりか、間に合わせ的、代用品的な押売り理由を作 者や朗読者までが公言しているのを嘆いた文章である。文化においては、速急な事情的な 理由よりももっと大切なものがあるのではないかとの警告めいた発言であった。これに対 して、③は、久保田万太郎委員長のもと「朗読文学研究会」を数回開いているが、はかば かしい成果はない。が、放送局の協力、舞台・高座・町の辻々など場所を選ばない可能性、 音楽との統合などさまざまな可能性を研究している、という主旨の小文であった。 ④「聴覚に訴へる文学―新企画に放送局協力、『朗読文学』懇話会」30 号(一九四四年七 月十日) この記事には、七月一一日、情報局放送課・文芸課の斡旋で日本放送協会と文学報 国会との懇談会が開かれ、文学報国会事務局長中村武羅夫はつぎのように語ったとあ る。「朗読文学は単なる旧作の朗読等の安易な便宜主義は排し、あくまでも正しい日本語の 純化を図り、世界に無類の美しい音を持つ国語を効果的に、聴覚を通して真に魂へ伝へ得 る文学でありたい・・・」さらに、前年に設置した「朗読文学研究会」を運動強化を期し て「朗読文学委員会」に改編する予定であると伝える。つぎの 31 号(1944 年 7 月 20 日) では、「特輯・ラジオと国民生活」が組まれ、川路柳虹が、ラジオにおける朗読について、 「文学作品が印刷できない」状況を踏まえて、「間に合せの戦争ものなどより純粋な文芸作 品が却つて望ましい。これも精神を高めるのに役立つ」としながら、「詩の朗読」について はどうも板にのつていないとし、朗読する作品自体の詩人による自作朗読より俳優による 朗読が望ましい、などの注文をつけている。 一九四四年八月一六日、日本放送協会担当部局及び情報局放送課長らを交え臨時朗読文 学委員会が開催され、「海の兎」(阿部知二作、八月五日放送済み)「微笑」(円地文子作、 八月一九日放送予定)を女優たちに朗読させ、批判研究したと伝える。 この頃から、「報国」の一環としての短歌朗読(朗詠)の活動が具体化していったよう である。八月一七日には、短歌部会朗詠研究準備委員会が開かれ、短歌朗詠法の再興と正 統朗詠の基礎の確立を企図していた。(『ポトナム』2008 年7月号所収) 短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(6)戦時下の「短歌朗読」4 (内野光子) 日本文学報国会に、一九四四年八月一七日に設置された短歌部会朗詠研究準備委員 会では、前田夕暮、頴田島一二郎、木俣修、山口茂吉、鹿児島寿蔵、松田常憲、大橋 松平、中村正爾、長谷川銀作、早川幾忠の一〇人の委員が決められた(『文学報国』三 四号、一九四四年九月一日)。九月一四日には第一回「短歌朗読研究会」を開催し、前 田夕暮短歌部会幹事長によって「愛国百人一首」の朗読の試みが行われたとある。委 員は、上記の松田、鹿児島、大橋、中村、早川と原三郎を現幹事とする記事もある(三 六号、九月二〇日)。一一月二五日には、朗読文学研究会による第一回「朗読文学の夕」 が開催され、前田夕暮の短歌朗詠、水原秋櫻子の俳句朗読、尾崎喜八の詩朗読、塩田 良平の平家物語朗読、河竹繁俊の浄瑠璃脚本朗読、長谷川伸、船橋聖一の小説朗読が なされた、との記事もある(四〇号、一九四四年一一月一〇日)。記事の見出しには「決 戦文学界に於ける新機軸」と題され、一二月開催予定の第二回「朗読文学の夕」も翌 年に延期されたとある。また、同号・次号にわたって、富倉徳次郎「朗読古典への要 望―朗読用古典の資料蒐集の報告上・下」が連載されている。「書物入手の困難」や「時 間的余裕の無さ」を要因とする古典朗読の現実的な効用を否定しないところに戦時下 の過酷さが滲み出ている。具体的には収集のため提出された古典のテキストや注解書 などのリストが掲げられ、提出者には五味智英、志田延義、塩田良平、久松潜一らの 名がみえる。また、河竹繁俊は、文学者の余技程度の朗読ではなく、朗読技法の研究 の重要性を説き、放送の普及により「言葉による適正な芸術的発現が、いかに国民生 活を浄化し、芸術化し、ひいては大和一致の精神の助長に資する」か、を強調し、「出 版や発表の拘束打開」のためだけであってはならない、とする(「論説・朗読と技法」 四一号、一九四四年一一月二〇日)。 一九四四年一二月一二日に開かれた「朗読短歌研究会」と短歌部会幹事会では「銀 提供」に資する短歌を会員四三名に依頼したとある(四四号 一九四五年一月一〇日)。 『文学報国』も遅刊が続き、一九四五年四月一〇日付け謄写印刷の四八号をもって途 切れることになり、「主力を戦争への協力に」とする「二〇年度事業大綱決まる」の文 字も復刻版では文字がつぶれて読みにくい。その一項目に「朗読文学運動」とあるの が判読できるのだが、もはや日本全体が力尽きた痛ましさが伝わってくる。 日本文学報国会の会報によって太平洋戦争下の文学朗読運動についてたどってみた。 短歌朗読については、端緒についたばかりの感もある。 当時、国家の国民への広報戦略といえば、活字メディアが主力ではあったが、ラジ オ、の普及は目覚しかった。一九三二年、聴取契約者数が、一〇〇万突破という中で、 一九三七年九月、内閣情報委員会が廃され、内閣情報部が設置されると、政策放送の 定例化が促進された。一九三八年一月からは、毎日一〇分間の「特別講演の時間」と いう重要政策発表の場を新設した。また、同年一二月には、全国的なラジオ普及運動 を展開、陸海軍・内務・逓信四省連名の、ラジオ標語懸賞入選作一等「挙って国防揃 ってラジオ」を配したポスターが作られ、私も放送博物館で現物を見ている。一九四 〇年に入ると、契約者数が五〇〇万を越え、一世帯六人平均として三〇〇〇万人、内 地人口の約四割以上の聴取が可能になったのである。(『ポトナム』2008 年 7 月号所収)

 短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(6)戦時下の「短歌朗読」4

 日本文学報国会に、一九四四年八月一七日に設置された短歌部会朗詠研究準備委員 会では、前田夕暮、頴田島一二郎、木俣修、山口茂吉、鹿児島寿蔵、松田常憲、大橋 松平、中村正爾、長谷川銀作、早川幾忠の一〇人の委員が決められた(『文学報国』三 四号、一九四四年九月一日)。九月一四日には第一回「短歌朗読研究会」を開催し、前 田夕暮短歌部会幹事長によって「愛国百人一首」の朗読の試みが行われたとある。委 員は、上記の松田、鹿児島、大橋、中村、早川と原三郎を現幹事とする記事もある(三 六号、九月二〇日)。一一月二五日には、朗読文学研究会による第一回「朗読文学の夕」 が開催され、前田夕暮の短歌朗詠、水原秋櫻子の俳句朗読、尾崎喜八の詩朗読、塩田 良平の平家物語朗読、河竹繁俊の浄瑠璃脚本朗読、長谷川伸、船橋聖一の小説朗読が なされた、との記事もある(四〇号、一九四四年一一月一〇日)。記事の見出しには「決 戦文学界に於ける新機軸」と題され、一二月開催予定の第二回「朗読文学の夕」も翌 年に延期されたとある。また、同号・次号にわたって、富倉徳次郎「朗読古典への要 望―朗読用古典の資料蒐集の報告上・下」が連載されている。「書物入手の困難」や「時 間的余裕の無さ」を要因とする古典朗読の現実的な効用を否定しないところに戦時下 の過酷さが滲み出ている。具体的には収集のため提出された古典のテキストや注解書 などのリストが掲げられ、提出者には五味智英、志田延義、塩田良平、久松潜一らの 名がみえる。また、河竹繁俊は、文学者の余技程度の朗読ではなく、朗読技法の研究 の重要性を説き、放送の普及により「言葉による適正な芸術的発現が、いかに国民生 活を浄化し、芸術化し、ひいては大和一致の精神の助長に資する」か、を強調し、「出 版や発表の拘束打開」のためだけであってはならない、とする(「論説・朗読と技法」 四一号、一九四四年一一月二〇日)。 一九四四年一二月一二日に開かれた「朗読短歌研究会」と短歌部会幹事会では「銀 提供」に資する短歌を会員四三名に依頼したとある(四四号 一九四五年一月一〇日)。 『文学報国』も遅刊が続き、一九四五年四月一〇日付け謄写印刷の四八号をもって途 切れることになり、「主力を戦争への協力に」とする「二〇年度事業大綱決まる」の文 字も復刻版では文字がつぶれて読みにくい。その一項目に「朗読文学運動」とあるの が判読できるのだが、もはや日本全体が力尽きた痛ましさが伝わってくる。 日本文学報国会の会報によって太平洋戦争下の文学朗読運動についてたどってみた。 短歌朗読については、端緒についたばかりの感もある。 当時、国家の国民への広報戦略といえば、活字メディアが主力ではあったが、ラジ オ、の普及は目覚しかった。一九三二年、聴取契約者数が、一〇〇万突破という中で、 一九三七年九月、内閣情報委員会が廃され、内閣情報部が設置されると、政策放送の 定例化が促進された。一九三八年一月からは、毎日一〇分間の「特別講演の時間」と いう重要政策発表の場を新設した。また、同年一二月には、全国的なラジオ普及運動 を展開、陸海軍・内務・逓信四省連名の、ラジオ標語懸賞入選作一等「挙って国防揃 ってラジオ」を配したポスターが作られ、私も放送博物館で現物を見ている。一九四 〇年に入ると、契約者数が五〇〇万を越え、一世帯六人平均として三〇〇〇万人、内 地人口の約四割以上の聴取が可能になったのである。(『ポトナム』2008 年 8 月号所収)

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