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2008年9月12日 (金)

ドイツ気まま旅(1)ポツダム

ポツダムの傘

8月下旬、今回のドイツ行きは、私にとっては初めての街ばかりだ。それに7泊機中2泊というこれまでで一番長い旅だった。順序も気ままに書きあがったところから・・。

出発前の週間予報では、ベルリンの気温20度前後、晴れ間が続くはずだった。着いてしばらくは、やや曇りがちで、長袖のジャケットを羽織っていた。ポツダムに出かけた日は、とうとう雨になった。ホテルから地下鉄一駅分、サヴィーニ広場の駅まで歩いて、REGIOに乗った。連れ合いは家から持って出た傘が役に立つことになったが、天気予報を信じた私は、ポツダム中央駅構内のスーパーで7ユーロ近い傘を買うはめになった。

 まず、ポツダム会談が開かれたツェツィリエンホフ宮殿に向かうことになるのだが、トラムやバスの路線図を見ずして乗ってしまった92番、乗り換えの駅を見過ごしてか、とうとう20分以上先の終点(kirschallee)まで連れて行かれてしまった。乗客は私たちだけとなって、運転手は不思議そうに近づいて来る。路線図の前での説明でようやく私たちも納得、また同じ路線で戻ることになった。途中、ナウエン門近くで下車した頃はかなりの本降りになってしまったが、今度はバスで宮殿に向かう。町では選挙が近いらしく、やたらにポスターが目につく。長い石の塀が続く狭い通りに入ると、塀の中はもう宮殿らしい。降りた客は私たちだけなので心細く進んでいくと、右手の入り口からは駐車場には車も観光バスも多く、遠くには人の賑わいも見えるではないか。

 1945年夏、イギリス・アメリカ・ソ連の首脳が集まった宮殿、というよりは、木枠の壁と格子窓、煙突群など、立派な山荘のようなたたずまいである。宮殿は、1917年、当時ヴィルヘルムⅡ(1918年退位)の皇太子夫妻の住まいとして建てられたという。日本語のオーディオガイドを端折りながら聞いて進む。そのガイドでは、世界史の教科書に出てきたような、英米ソ3国首脳の写真や史料など展示物の解説から、会談のため、ロシアから取り寄せられた円卓、首脳やスタッフの並び方、各国の控室などのさまざまなエピソードまでが語られる。この宮殿は皇太子妃ツェツィリエンの名をとり、彼女の書斎は庭に張り出し、4人の子供が庭で遊ぶのに目を配りながら、読書に励んだといい、数か国に通ずる知的な女性であったらしい。近づくソ連軍を前に、19452月、彼女は子どもたちを連れてこの地を後にしている。

 会談の地がなぜポツダムとなったのか。すでにベルリンの街は爆撃のため廃墟となっていた。ソ連の勢力下にあったポツダムは警備もしやすいとして、道路から会議場の宮殿、宿舎など、すべてソ連軍兵士によって整えられたという。そういえば、フランス首脳が参加していないポツダム会談、チャーチルは会期中の総選挙で大敗、帰国し、アトリー首相に代わっている。ルーズベルトもテヘラン、ヤルタ会談後に倒れ、4月に死去、ポツダム会談に参加したのは、トルーマン大統領だった。三つの会談を通して出ていたスターリンの主導で会議は進んだ。717日から82日まで続き、「ポツダム協定」が公表された。この間、726日、日本の無条件降伏を勧告する「ポツダム宣言」が発表されたのだが、日本はただちに拒否。原爆投下が86日、9日であったから、アメリカの外交上の一手段としてなされたのであるならば、その犠牲はあまりにも大きかった、言わざるを得ない。

この宮殿の庭園はユングフェルン湖とハイリガー湖に囲まれている広大なものだ。小雨の中をしばらく歩いてみたが、それは、ほんの一画にすぎない。降りたバス停の一つ先が、遊覧船の船着場になっていた。帰りはそこから、バスで市内に戻り、今度はサンスーシ宮殿に近い停留所をしっかりと教えてもらう。それでも運転手は心配だったのか、降りた私たちに、そちらに歩いて行けと、大きく手を挙げているではないか。

サンスーシ宮殿、棺の行方

 ポツダム一番の観光地、この宮殿は見逃せないと向かったのが、二つの噴水が見通せる並木道だった。サンスーシ公園の地図によれば、遠く正面に見えるのが新宮殿、2km位先らしい。まず右手に見えてくるのが最初の噴水前の絵画館、さらに進むと、いっそう高く水を吹き上げる大噴水とその右手には、ガイドブックでもおなじみの階段状の巨大な葡萄棚とサンスーシ宮殿、近づいてみてようやくその造りがわかってくる。大きな6つの段ごとに植えられているのは、葡萄ばかりではないらしく、よくのぞいてみると、いちぢくの木と交互に植わっていた。さらに扉も付いていて閉じれば温室になり、チェリーやプラムが植えられている段もあるらしい。踊り場もかなり広く、段差を私たちは階段で登ることになる。見上げてみても、登りきって見下ろしてみても、壮観な眺めである。宮殿の裏手のこれも巨大な風車が気になるが、宮殿の中ではなく、ご近所の粉ひきやであったらしい。今は修復されて博物館になっている。宮殿内部の見学は、裏手の入り口からで、ちょっとした行列ができていた。入場制限をしているらしい。順番がきたので入ろうとすると、チケットを見せろという。打刻の順番ということで、後に回される。

18世紀の半ば、フリードリヒⅡ(大王)が夏を過ごすレジデンスとして、大王自らが意を尽くしたロココ調建築で、「憂いのない」宮殿と命名、ギャラリー・図書室・バッハも訪れ、自らもフルートを奏したコンサート室など、その華やかさだけが印象に残っている。床も天井も壁も調度も、ゆっくり鑑賞できないもどかしさがあった。共通券で見学できる絵画館に移る前にと、大王と11匹のグレーハウンド犬の墓地に参る。大王は生前から愛犬とともにこの地に葬るように墓地を作らせているが、大王自身の棺は、別の父王の墓地に埋葬されたことにはじまり、第2次大戦末期からは、時代に翻弄されながらも、教会を転々として守られ、ドイツ東西統一を迎え、1991年にようやく、没後200年以上もたって、自身が望む地に眠ることになったというドラマも大王らしいと、今回の旅の収穫の一つであった。

ギャラリー、走り抜けるように

 入り口では英語版の展示作品リストが借りられ、130点近くが見られるらしい。しかし、天井までの壁いっぱいに大作が2段、3段と展示されると、時間を急いでいる身には何となく落ち着いた雰囲気とはほど遠く、走り抜けるようなことになってしまった。そう簡単には再訪できないというのに。フリ-ドリヒⅠの時代からのコレクションというが、ルーベンス、ファン・ダイク、カルヴァッジョ・・・、多くの宗教画や食材の鳥獣や果実を綿密に描いた絵画の物量に圧倒される。それでも「テーブルを囲む犬と家族」、「老婦人像」など作者を確かめることもなく、通り過ぎながらも印象に残ったいくつかの作品があった。

 道草を食った分、当初の計画よりだいぶ遅れてツオー駅に着いた。やれやれ小さな旅も終わった。

aDeBeのワイン売り場

 今日のうちに、娘にも頼まれているお土産のワインを買いに行かねばと、一休みしてまたホテルを出る。案内係から歩いても5分といわれて、歩きはじめたものの、目的のデパートにはなかなか着かない。途中、空港からの車でも見かけた、カイザー・ヴィルヘルム記念教会の廃墟とそれに寄り添う高層ビルを仰ぐことになる。大戦の惨禍の象徴として残されたといい、広島のドームのような役割を果たしているのだろう。

 食品売り場は6階で、地下というわけではないらしい。もう、どのコーナーも目をみはるばかりで、チーズ、ソーセージ、パンなど買い込みたくなるのを我慢して、ワインを目指す。ここもかなりのスペースで、棚には、国別・メーカー別のプレートがついている。白の辛口と店員にいえば、ドイツワインは白がほとんどで、赤は稀だという。目当てのボトルをとにかくゲット、加えて数本を見繕い、別送を依頼すると、サービスカウンターにつれて行ってくれた。3階に下りて、免税分を日本円で受取り、一件落着。世界各国のチョコレートの売り場、ベルリン土産の定番、熊の人形にも未練を残しながらも7階のビュッフェで夕食とする。バイキング方式なので、メニューと格闘することもない。レジでの計量で値段が決まる。デザートのケーキの二人分はやはり残してしまった。ただ、後から計算してみると、割高感があり、カフェかレストランの方がよかったかな、とも思う。勤め帰りの人たち、お年寄り夫婦、おばあちゃんと息子、小さな子ども連れ、ひとり者と庶民的な雰囲気で、ドリンクのみという人たちも結構いる。旅行者風情は少ないように思えた。

こうして長い一日がようやく暮れた。

(ツエツィリエンホフ宮殿)

2008_131

 




(サンスーシ宮殿からのぞむ)

2008_150



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