短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(8)戦時下の「短歌朗読」6
「愛国詩朗読」という番組では、野口米次郎、西條八十、堀口大学、村野四郎、安西冬衛ほか、下記の詩人たちのつぎのような作品が繰り返し放送されている。佐藤惣之助「殉国の歌」「海の神兵」高村光太郎「彼らを撃つ」「地理の書」「最低にして最高の道」尾崎喜八「此の糧」室生犀星「日本の歌」吉田絃二郎「戦捷の春」草野心平「帰還部隊」三好達治「おんたま故山に迎ふ」室生犀星「日本の朝」山本和夫「その母」百田宗治「わが子に」佐藤春夫「撃ちてし止まむ」島崎藤村「常磐樹」長田恒雄「声」など。朗読は、ときには自作朗読もあったが、大方は、和田信賢、館野守男、浅沼博アナウンサーらや丸山定夫、東山千栄子、中村伸郎、山村聡、汐見洋、三津田健、山本安英、石黒達也ら演劇人が動員されている。
詩や短歌の朗読については、「厚生娯楽的な意味も兼ねて」早朝、昼、夜間に、単独ないし総合番組のコーナーでも随時放送され、短歌では「斉藤茂吉、佐佐木信綱、北原白秋、土屋文明、吉植庄亮ら」が活躍したとある(前掲『日本放送史』下巻 五六〇頁)。
「番組確定表」には、詩については題名と作者名が記入されている場合が多いが、短歌は作者名だけでどんな作品が朗読されたかは不明だった。
以上、戦時下の朗読用のテキスト類及び日本文学報国会の機関誌『文学報国』、『日本放送史』の三つの資料から短歌朗読の実態を探ってみた。もう一つの私の気がかりは、こうした短歌朗読を当時の国民は実際どのように受け止めていたのか、であるが、別稿に譲りたい。
『声に出して読みたい日本語』(斎藤孝 草思社 二〇〇一年)ブーム、今世紀に入っては川島隆太提唱の脳トレに有効という「音読ドリル」がにわかに脚光を浴びている。朗読の実用性と生理的カタルシスが、自らの健康法に留まるならば、それもいいだろう。しかし、選択された「美しい日本語」「名句・名文」の内容による教育的要素は大きく、影響力も無視できない。ちなみに、『声に出して読みたい日本語』は昨年までに5冊刊行されている(二〇〇八年一月、発行元の草思社倒産の報に接した)が、万葉集や百人一首に加えて、近現代の歌人では、正岡子規、石川啄木、釈迢空、坪野哲久、山崎方代、河野裕子、俵万智らの短歌作品が登場していることがわかった。
また、現代の歌壇において、冒頭にあげたように、岡井隆、福島泰樹などによるパフォーマンスの流行は、多分にその歌人の演技、タレント性が評価されているのだろうと思う。現に、岡井隆は、対談で朗読会のことを問われて「自分のことだから言いにくいのですが、どうも声の質、しゃべり方、作品のテーマ、ああ、おもしろいなと思わせるような、ちょっと小説的な構成のしかた、そういったものを含めて、自分は朗読向きの歌人の一人だと思う」という自負の裏側には、岡井自ら否定する「ナルシスト」ぶりを垣間見せていた(『短歌』2008年8月号)。
声楽家で、地域で音楽教室を開き、子供たちのミュージカルスや大人たちの朗読・ボイストレーニングなどの指導にもあたっている友人から、朗読の教材にと思うので「あなたの人生がたどれるような短歌作品を選んでほしい」との申し出があった。戸惑う私に「歌壇での流行は知らないが、私の試みの一つなのでお願いしたい」と一蹴された。それではと、まず、最近の短歌「朗読」事情と歴史を調べ始めたというわけである。(了)(『ポトナム』2008年10月号所収)
今回をもって短歌の「朗読」について、とくに戦時下の動向についてのレポートは一応終了します。来月から『ポトナム』誌上にて3回にわたって「竹山広短歌の核心とマス・メディアとの距離」を連載します。
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