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2008年10月29日 (水)

短歌の「朗読」、音声表現をめぐって(8)戦時下の「短歌朗読」6

「愛国詩朗読」という番組では、野口米次郎、西條八十、堀口大学、村野四郎、安西冬衛ほか、下記の詩人たちのつぎのような作品が繰り返し放送されている。佐藤惣之助「殉国の歌」「海の神兵」高村光太郎「彼らを撃つ」「地理の書」「最低にして最高の道」尾崎喜八「此の糧」室生犀星「日本の歌」吉田絃二郎「戦捷の春」草野心平「帰還部隊」三好達治「おんたま故山に迎ふ」室生犀星「日本の朝」山本和夫「その母」百田宗治「わが子に」佐藤春夫「撃ちてし止まむ」島崎藤村「常磐樹」長田恒雄「声」など。朗読は、ときには自作朗読もあったが、大方は、和田信賢、館野守男、浅沼博アナウンサーらや丸山定夫、東山千栄子、中村伸郎、山村聡、汐見洋、三津田健、山本安英、石黒達也ら演劇人が動員されている。

詩や短歌の朗読については、「厚生娯楽的な意味も兼ねて」早朝、昼、夜間に、単独ないし総合番組のコーナーでも随時放送され、短歌では「斉藤茂吉、佐佐木信綱、北原白秋、土屋文明、吉植庄亮ら」が活躍したとある(前掲『日本放送史』下巻 五六〇頁)。

「番組確定表」には、詩については題名と作者名が記入されている場合が多いが、短歌は作者名だけでどんな作品が朗読されたかは不明だった。

 以上、戦時下の朗読用のテキスト類及び日本文学報国会の機関誌『文学報国』、『日本放送史』の三つの資料から短歌朗読の実態を探ってみた。もう一つの私の気がかりは、こうした短歌朗読を当時の国民は実際どのように受け止めていたのか、であるが、別稿に譲りたい。

『声に出して読みたい日本語』(斎藤孝 草思社 二〇〇一年)ブーム、今世紀に入っては川島隆太提唱の脳トレに有効という「音読ドリル」がにわかに脚光を浴びている。朗読の実用性と生理的カタルシスが、自らの健康法に留まるならば、それもいいだろう。しかし、選択された「美しい日本語」「名句・名文」の内容による教育的要素は大きく、影響力も無視できない。ちなみに、『声に出して読みたい日本語』は昨年までに5冊刊行されている(二〇〇八年一月、発行元の草思社倒産の報に接した)が、万葉集や百人一首に加えて、近現代の歌人では、正岡子規、石川啄木、釈迢空、坪野哲久、山崎方代、河野裕子、俵万智らの短歌作品が登場していることがわかった。

また、現代の歌壇において、冒頭にあげたように、岡井隆、福島泰樹などによるパフォーマンスの流行は、多分にその歌人の演技、タレント性が評価されているのだろうと思う。現に、岡井隆は、対談で朗読会のことを問われて「自分のことだから言いにくいのですが、どうも声の質、しゃべり方、作品のテーマ、ああ、おもしろいなと思わせるような、ちょっと小説的な構成のしかた、そういったものを含めて、自分は朗読向きの歌人の一人だと思う」という自負の裏側には、岡井自ら否定する「ナルシスト」ぶりを垣間見せていた(『短歌』20088月号)。

声楽家で、地域で音楽教室を開き、子供たちのミュージカルスや大人たちの朗読・ボイストレーニングなどの指導にもあたっている友人から、朗読の教材にと思うので「あなたの人生がたどれるような短歌作品を選んでほしい」との申し出があった。戸惑う私に「歌壇での流行は知らないが、私の試みの一つなのでお願いしたい」と一蹴された。それではと、まず、最近の短歌「朗読」事情と歴史を調べ始めたというわけである。(了)(『ポトナム』200810月号所収)

今回をもって短歌の「朗読」について、とくに戦時下の動向についてのレポートは一応終了します。来月から『ポトナム』誌上にて3回にわたって「竹山広短歌の核心とマス・メディアとの距離」を連載します。

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2008年10月28日 (火)

ドイツ気まま旅(3)ドレスデン、マイセン

さよなら、ベルリン

ベルリン中央駅12時46分発のIC(0177)で、最後の目的地ドレスデンに向かう。やや重い空のベルリン、もう一度訪ねることはあるだろうか。少し感傷的になって眺める車窓には、やがて草はらが広がり、刈り残された枯れ草色のトウモロコシだろうか、やわらかな午後の日差しを浴びて傾いていた。しばらくするとピアスをつけた男性の車掌が検札に回ってきた。車窓の三枚羽根の風車が林立する風景も珍しくなくなった。なぜ風車が多いかと言えば、ドイツには「再生可能エネルギー法」が2000年にスタートし、市民レベルの風車建設が盛んだからという。発電された電力を電力会社が固定価格で買い取るシステムで、双方採算が取れるらしいのだ。回らない風車を開発した大学が訴えられたというしまらない話がある日本とは大違いではないか。地図を眺めていると、ドレスデンはチェコ国境にも近く、この列車もプラハに向かう。3時近くに着いたドレスデン中央駅からエルベ河畔のホテルまで乗ったタクシーは、今回の旅では初めての女性ドライバーだったが、重い荷物も軽々上げるたくましさだった。エルベ川を渡ってすぐに目についたのが金色の騎馬像(あとでアウグスト強王とわかる)で、左手に曲がると、ホテルのウェステイン・ベルビュー、部屋からは眼下にエルベ川、川向こうにはいくつもの尖塔が重なり合う、墨色の旧市街が迫っていた。ガイドブックの地図を広げるが、どれが教会で、どれが宮殿なのか見当もつかないまま、ともかく出かけてみることにした。

フラウエン教会のパイプオルガン

真っ先に向かったのが、2005年に再建がかなったフラウエン教会だった。1945年2月13日・14日の空襲で壊滅的な被害を受け、戦後は東ドイツにあって、戦禍のモニュメントとして1990年代まで瓦礫のまま放置されていたという。1994年、ドレスデン市民のあるグループが、瓦礫を可能な限り元の場所におさめて復元するという途方もない手法で、この教会を再建することを目指し、活動を始めたという。再建費用の寄付を世界に呼びかけると、総工費1億3000万ユーロのうち、1億ユーロを超え、予定より1年も早く2005年10月に完成したという。こうした壮大なエピソードを読んでから眺める79mの塔は、格別偉大に思えた。周辺には、建設中のビル、修復中の建物も多い。ドレスデン城北側アウグスト通りのザクセンの歴代君主の行列の壁画は、20世紀の初頭、1200度で焼かれたマイセンのタイルに換えたため、先の空襲にも耐えたという。この壁画をカメラに収めようとすると、前にあるヒルトンホテルの看板がどうしても入ってしまうのだった。フラウエン教会では、夜8時からパイプオルガンによるバッハ演奏会があるというので、連れ合いはチケット売り場をようやく探しあて、入手後、夕食に向かった。といっても教会の目と鼻の先の路地ミュンツガッセにある、スペインの小皿料理の店(Las Tapas)で、満席に近かった。ドイツでスペイン料理というのもおかしいが、メニューと格闘しないで済み、バラエティに富んだ料理を楽しめた。まだ日の暮れない街に出て、フラウエン教会に入る。私たちの席は、4階まである座席の3階であった。オルガン奏者は正面の2階の高さくらいだろうか、姿は見えないものの頭が動いているのがわかる。真新しい、ベンチ様の木の座席は必ずしも座りやすいものではなかったが、荘厳なパイプオルガンによるバッハの楽曲は、教会再建の物語に思いをはせ、やがては眠りさえ誘うものとなった。エルベの風に吹かれながら、アウグスト橋にさしかかると、対岸では、野外のロック・コンサートが開かれているらしく、辺りにはすごい音量と光が交錯していた。

エルベ川遊覧

 翌日の朝食は、これまでのホテルと若干雰囲気が異なり、ドリンクには紅茶のパックに加えて3種類ほどの緑茶も混じっていて、思わず飛びついてしまった。北インド産の表示がみられるが、まあいいか。ハムやソーセージ類が豊富で、迷うのだが、ほどほどにしなければと、通院先の医師の顔が目に浮かぶ。外は快晴で、つば広帽子がほしいくらい。週末とあって、河畔や旧市街の賑わいは相当なものだった。10か所位に分かれている遊覧船乗り場にも行列が出来ていて、チケット売り場をのぞいてみると、早めの出発はすでに満席となっている。少し焦ったのだが、11時出発90分の遊覧コースを予約(11.50ユーロ)、ツヴィンガー宮殿に向かう。アルテマイスターなどは10時開館なので中庭から王冠の門をくぐってお堀端に出てみる。国民劇場前広場から大聖堂前に戻り、大階段からブリュールのテラスを経て、修復中のノイエマイスター、中国美術館など川沿いを散策する頃に、ようやく旧市街の概略がおぼろげながら頭に入る。船では2階のデッキに座席がとれた。左手の斜面にはブドウ畑が見え始め、右手の道路にはサイクリングの人たちの列が続き、河畔の牧場で牛や馬が草を食むのどかな風景を楽しんだ。Blasewitzの橋をくぐり、Pillnitz宮殿を左に見て、Pirnaまで下り、折り返す。途中のBlaues wunderと呼ばれる大きな鉄橋は、1893年の建設当時、橋脚のないつり橋構造の橋として注目されていたという。日差しは暑いくらいで、腕は一気に日に焼けた。船上からの旧市街の眺望も格別で、下船が惜しまれるのだった。  午後からは、再び向かったツヴィンガー宮殿、中庭は、夜のコンサートの準備か椅子が並べられているさなかでもあった。磁器博物館は省略し、ようやくのアルテマイスター入館である。1階の入り口近くでは、カナレットのドレスデンの風景画に迎えられるが、クラナハ、デユーラー、ライスダールはじめレンブラント、ルーベンス、ジョーダンスらの16世紀から17世紀のドイツ、オランダ絵画に圧倒されるのだが、その展示室が、メインの中央室の両脇に細長い画廊があり、入り組んでいるので、まんべんなく見るのが難しい。中央の部屋からは、何室か先のいちばん奥の突き当りに、ラファエロのマドンナの絵があるのが見通せる。3部屋ほど進み階段を降りたところにホールがある。ここも6角形の展示室となっている。再び階段を上がると、ティトレット、カレッジョ、ティツィアンなどイタリア絵画が続き、ラファエロにたどり着く。ラファエロのマドンナは、この絵もやさしげで宗教臭がほとんど感じられないので、親しまれるのではないか、とひとり納得する。絵の下の方に描かれている二人の天使がなんとも愛らしかった。2階は、時代が下り18世紀のヨーロッパ各地の画家たちの作品が多い。しかし、ガイドブックによれば、ここでもフェルメールや地下に特設された工事中で休館のノイエマイスターの作品を見逃してしまっているのである。  少し並んで入館した城内の宝物館は、これでもか、これでもかという、贅を極めた工芸品などが並び、最後には、むしろ疲労感だけが残るのだった。

心やすらぐ新市街の街路樹  

夕食までには時間があったので、ホテルのある新市街側を歩いてみる。幅広い道の中央の緑地帯には、プラタナスの並木が続き、緑の少ない旧市街と比べて、何かほっとする空間である。彫刻あり、噴水ありで、ベンチありの細長い公園になっていて、まだ、日差しの強い噴水の辺りでは、子供たちが濡れるのもいとわず、走り回っていた。新市街の方が街としての成り立ちは古いということで、ややこしい。緑地帯の木陰から眺める街並みは、一部バロック形式の建物が残っていて、おしゃれな店も多い。つきあたりがアルベルト広場になっていて、何本もの放射線状の道はどれも緑が豊かでゆったりとしており、歩いてきた道はどれだったか錯覚を起こすほどだった。この広場にも立派な噴水が二つもあり、広場の端には、ドーム状の屋根と4本の支柱で囲まれた掘り抜き井戸があって、大事にされているようだった。帰路には、旧市街からも尖塔が見えていた古い教会に寄ってみる。18世紀初め建設のドライケーニッヒス教会であった。 夕食は迷ったのだが、せっかくだからとドレスデン風ザワーブラーテンということで、探し当てた店はなんときのうの店の近くだったのである。

エルベ川の花火

この日は朝から欲張った上、夕食の白ワインがまわってしまって、早々に寝込んでいた。そして、地響きとともに爆発音?に起こされたのだが、何事かと窓を開けてみると、眼下の河原から花火が打ち上げられている。ライトアップされた川向こうの旧市街の尖塔よりはるか上空にひらくさまざまな仕掛け花火、河原や水上をいくつもの輪が追いかけるように転がる花火、思わず声をあげてしまう。東京の花火はもちろん、今の住まいに近い印旛沼の花火もこんな近くから見たことはなかった。すでに10時半を回っているではないか。こんな遅くからの花火、日本だったら許されないだろう。もっとも8時をだいぶ回らないとあたりは暗くならないのだから、仕方がないのかな、とも。旅先での思いがけない花火にいささか昂ぶり、しばらくは眠れない夜となった。

マイセンの小さいミルク入れ

翌朝、チェックアウトを済ませ、荷物だけ預かってもらい、当初の予定にはなかったマイセンに出かけることになった。ドレスデン中央駅から30分ほどでマイセンだ。駅の売店で日本人ご夫妻から磁器製作所へタクシーで行くので、よかったら一緒にと誘われた。お二人ともやきものが好きで、念願のマイセン来訪のようだった。国立の磁器製作所では、白磁の等身大の馬に迎えられた。見学コースは、製作過程を4室ほどに分けて、職人さんが実践して見せてくれる。日本語のオーディオガイドがあって助かった。磁器博物館で丹念に見入るお二人とは別れ、私たちは、売店をひと回りして、その値札に驚きながらも、記念にと小さなミルク入れを購入、アルブレヒト城へと急ぐ。メインストリートは、こぎれいな店やレストランがある一方、空き家も目立つのだ。東ドイツ時代に、マイセンは年を追うごとに人々は町を離れ、廃れていったといい、空き家もその後遺症なのだろう。城壁沿いの階段を登り切って展ける眺望、エルベ川沿いの町はザクセン王朝発祥の地で、ドレスデンより歴史は古いという。18世紀、白磁器の発明者は、技能流出を防ぐため、この城に監禁同様の身であったという。城内は、ヴォールト天井はじめ壁や床に至るまでさまざまな工夫がなされ、装飾的にも優れた床面には思わず目を見張る。城とつながる大聖堂に入るには一度外へ出なければならない。二つの尖塔を背景に白い壁と赤い屋根が映える、その姿の全容を知るには、マイセン駅に通じる橋上から眺めるのがいいかもしれない。エルベの川風も夏の終わりを告げるかのように。

いつかまた、ドイツへ

 ドレスデン空港は、何もないターミナルで、並ぶのは格安航空券の代理店ばかりだ。フランクフルトへ向かい、空港の店は延々と続くが、このころはもう土産のことはどうでもよくなって、ひたすら搭乗口まで歩きに歩いて、この旅行もいよいよ終わりに近づく。遅い搭乗なので、腹ごしらえと思うが、1・2軒のカフェしかない。それでも「ゲーテ」という名のカフェがにぎわいを見せており、店員さんたちも多国籍だ。このフランクフルト空港は乗り継ぎばかりで、まだ、街に出たことがない。離陸までしばらく続く機内の喧騒のなかで、ドイツへの再訪を願うのだった。

(旧市街にて)2008_206

2008_373_3 (新市街にて)

2008_331(マイセンにて)

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2008年10月10日 (金)

「やっぱりおかしい、NHK7時のニュース」のその後の結末、新聞、テレビ報道へ

 さきに、NHKからの担当者・監督責任者の処分の連絡があったこと、「東京新聞」の取材を受けたこと、10月9日夕刊で記事になったことはお知らせしましたが、きょう10月10日朝刊の朝日、読売、毎日で記事になっているのがわかりました。また、ネット上では、時事通信からの配信がなされていることも知りました。ただし、「東京」以外の記事は、いずれも、「東京」の後追いと思われ、NHK広報部の取材のみで、当方への取材はありませんでした。
 なお、偶然でしたが、朝食準備中、テレビ朝日「やじうまプラス」7時20分ころ、「東京新聞」の記事をネタに放送しているのを見ました。吉永みち子ら3人のコメンテイターが「NHK職員の本音が出たかもしれない」などと盛り上がっていました。今回のことで、多くのブロガーの方々のご支援をいただきました。ありがとうございます。これらの記事やこれまでの経過については、たとえば、「大津留公彦のブログ2」(10月10日付)に詳しく書かれています。
 私が提起したかったNHKの報道姿勢の問題は改善されたわけではありませんが、これからもマス・メデイアの問題として、注視していきたいと思います。

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2008年10月 9日 (木)

「やっぱり、おかしいNHK7時のニュース」のその後の結末、何が変わったのか ~担当者の処分?決定したというが

   

  表題の910日の「NHK7時のニュース」についての意見へのコールセンターの対応のその後について、107日、今回の謝罪などの窓口となっていたNHKサービス局視聴者センター総括担当部長から電話があった。

「本日、コールセンターの当該対応者、監督責任者の処分が発表されましたのでお知らせします。ただし、対応者への処分は<免職>ではなく、免職より次に重い処分なので、NHKの内規で公表できないことになっています。監督者の処分も公表できない処分です。申し訳ありません、処分があったことだけのお知らせしかできません」

私が「それでは、処分の具体的な内容も、内規もわからない視聴者は、処分が

あったかなかったかも分からないということですね」と言えば、

「職員の懲戒処分の公表基準としてはつぎの通りです。1.免職処分 2.起訴猶予以上の刑事事件に関する処分 3.金品の不正に関する処分についてはすべて」

と、とりつくシマもない。しかし、どうしてもこのままでは、納得できないので、次のような主旨のことを付け加えたが、徒労感が先に立つ。

 1)インターネット上でも多くの反響、関心が寄せられた件なので、こういう機会に、NHKはどう対処したのかを、視聴者に分かりやすい形で、知らせる責任があるのではないか。それだけに、私が危惧したようなあいまいな決着で終わるのは残念です。個人の処分もさることながら、組織として、あのような対応者を野放しにしていたこと、おそらく、同僚や上司が気づいていても何もできなかったことが問題だったのではないか。少なくとも日常的に、視聴者コールセンターのNHKでの位置づけ、予算、スタッフの構成・身分、視聴者の意見の実態、その意見を反映する仕組みなどをきちんとわかる形で公表してほしい。

 2)今回、コールセンターには、ニュースの報道内容、報道姿勢についての意見を伝えたかったのに、その入口で、思いもよらないバリアに突き当たってしまった。本来のコールセンターの機能をはたしてほしい。

 電話から聞こえてくるのは「今回、ご迷惑かけたことを重く受け止めて、スタッフの意識改革をしてしっかり対応します」の決意表明というか、掛け声だけなのだ。

 先日、謝罪の時に手渡された資料「視聴者サービス報告書2008」(日本放送協会 20085月)によれば、番組や経営についての意見や問い合わせが年間で664万件というが、問い合わせが70%、意見・要望が26%なのだ。受付方法では電話が70%、インターネットが15%、その他ファックス、集金時、ふれあいミーテイングという内訳だった。意見・要望を事務的な問い合わせと一緒にしているところがそもそもおかいしい。それに、電話は、午前9時から午後10時まで年中無休、約200人のスタッフが交替であたっているという。なお、聞くところによれば、その200人のうち約30人が「対応責任者」ということで、NHK退職者などを充て、あとはアルバイトらしいのだ。その辺のこともしっかり明らかにしてほしいところだ。なぜ、コールセンターの電話はあれほど通じないのか。受信料相談窓口の電話はタダなのに、コールセンターは待ち時間まで通話料がかかる。報告書は「こんなところを、視聴者の意見で改善しました」「再放送希望番組ランキング」、「地方局でこんな取り組みしています」など、まさに「いいとこ取り」の報告で、例の「職員の株インサイダー取引」問題の経緯と謝罪は、56頁最後の1頁を充てているにすぎなかった。

 また、ホームページ上の「週刊・お客さまの声」(200898914)では、総括の1項目として、「自民党総裁選」関連番組については、次のようにまとめられてしまうのだ。

“総理になったら具体的に何をやるのかにについて聞いてほしい”“一般の人が投票できない自民党総裁選について、これほど時間をかけて放送するのはいかがなものか”などさまざまな意見・要望が寄せられました。(2243件)」

 

さらに、「反響の多かった番組」として棒グラフで示されているのだが、「ニュース」(1368件)「NHKニュース7」(919)「ニュースウォッチ9」(741)などと日付別ではないものと「自民党総裁選公開討論会」(605)「ためしてガッテン」(597)「歌謡コンサート」「NHKスペシャル」とか個別番組が混在し、もう一方で「主な個別番組」の反響として日付入りの番組がいくつか示されるのだが、「反響」の内容が全く示されていない。反響の実態がわざと分からないようにというのか、内容を薄めた形でしか報告されていないこともわかった。「すべては視聴者のみなさまのために」「NHKまっすぐ真剣」のキャッチフレーズが空々しい。

 NHKからの電話があったその日、「東京新聞」から取材の電話が入った。NHKへの取材もして、109日の朝刊の記事になるという。

(9月9日追記) 

 お騒がせしました。載っていなかったです。社会面といってましたので、ノーベル賞で飛んだかもしれません。

(9月9日、夜)

 9月9日、東京新聞、夕刊、社会面で次のような見出しで載りました。

「総裁選報道への質問電話に NHK<自民のPR> 対応責任者ら処分」

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2008年10月 5日 (日)

ドイツ気まま旅(2)ワイマール

ワイマールの象

当初、ベルリンに5泊のつもりだったが、その真ん中で、ワイマールに1泊で出かけることにした。今回も欲張る割には事前調査が甘いままの日本脱出だった。私がワイマールについてガイドブックを本気で読んだのは、ベルリンでの前夜であった。まさに一夜漬けだったのだ。

雨も上がり、薄日の射すなか、ベルリン中央駅3番線から1040分発(IC2150)に乗ることになった。出発までには、少し時間があるので、車中の昼食にとおすしのパックを購入する(7.99ユーロ)。スーパーのKAI’SER’Sと雑貨のROSSAMANNを覗いて回り、中央駅の巨大なショッピングセンターを上がり降りし、今回の旅行での初めての有料トイレも利用した(0.8ユーロ)。沿線はしばらく広々とした草原と赤い屋根の集落が続き、12時近くになると工場が目立ち始め、evianなどの看板も見える。HALL駅付近になると再開発ビルの工事現場も何度か通り過ぎる。私たちの座席のテーブルが不具合だったので移ったところ、そこも壊れていたのだが、空席に移って、例のおすしとホテルの朝食から失敬した茹で卵と果物も持ち出す。このおすしは騙された感じで、ばさばさの酢飯、そういえば、店員は、不自由な日本語の東南アジア系の人だったっけ。列車は、まるで昔の四日市のように煙突からどす黒い煙や炎を吹き上げ、大きな石油タンクや送油管が続くなかを走り抜けたとかと思ったら、3枚羽の風車群が遠くに近くに続き、やがてWeissenfelsに到着、次の停車駅Naumburg付近になるとセメント工場や採石場が目立った。

午後1時、ワイマールに到着。荷物が少ないので、ホテルまで歩きはじめるが、左右にいくつかの建物で構成されているのが1999年にできたという新美術館らしい。しばらくすると旧市街に入り、ゲーテ広場に出たらしい。観光客やリュック姿の小学生や中学生で賑わい、バスターミナルにもなっている。さらにマルクト広場を目指し、「エレファント」というホテルを探し、広場を一回りしたところで、ようやく象の絵を見つけた。近頃、カード式が多いなか、渡され鍵には、文鎮のように重い、象をかたどったキーホルダーが付いている。ホテルの受付は、やや狭いながら重厚な趣のロビーであった。奥まった部屋ながら、なかなか快適そうで、ベルリンのホテルよりも広い。マルクト広場に面するホテルは、正面が市庁舎、壁には薬局の文字も見えるクラナハが住んでいた家、インフォメーションと並び、外壁の続きのプレート読むとバッハの住まい跡とあり、先の大戦で焼出されたと記されていた。創業が1696年といい、トーマス・マンやヒトラーなど、歴史上の人物が宿泊しているという。階段の踊り場の壁には、大きくパールバックの言葉が書かれていた。広場にはおなじみの露店は4時には店じまいという。果物でもほしいところだったが、ともかく歩きはじめることにする。

まずはゲーテハウス博物館、当然のことながら、身辺は全部ドイツ語、連れ合いからは「高校からとドイツ語やっていたはずでは?」とからかわれる。たしかに、第2外国語としてドイツ語とフランス語が選択できる学校だった。英語もままならぬのに、ことの勢いでドイツ語の初級だけは履修している。大学でも履修しているはずなのだが、みごとに挫折・・・。

ゲーテの生家、40室近いなかの22室を開放しているというが、順路はまるで迷路だ。庭に出てほっとして、家を眺めると、だいぶ傷んでいることもわかる。建物の写真付きの地図を入手。思えば、街全体が巨大迷路にも思えた私たちには、本当に役立った地図だった。その地図を頼りにバウハウス博物館と向かい合う国民劇場、団体客の去ったところで、ゲーテとシラー像を背にカメラにおさまる。シラー通りの並木はみごとなもので、駅から歩いた時にすでに通っていたが、シラー晩年の家があり、向かいの書店前では、ギターとアコーデオンの演奏に人だかりがしていた。

ワイマールの迷い道

旧市街を抜けて、車の往来の激しい通りに出たかと思うと、右手にはバウハウス大学、左手には広大なイルム公園が広がる。リストが晩年住んだ家、ゲーテの山荘もあるはずだ。リストが最愛の人と逍遥したであろう木陰の道、公園に入ってすぐにリスト像があった。すでに若い女性が、しきりに写真を撮っていた。ピアニストを目指してでもいるのだろうか。奥からやってきたご夫婦から、写真を撮りましょうかと言われ、私たちはリスト像を挟んでカメラにおさまった。リストの愛はみのらぬまま、晩年を一人過ごしたという、リストハウスはどこかと尋ねてみると、このドイツ語のご夫婦は、まっすぐ行くと川にぶつかり、橋を渡ってと教えてくれる。草はらをつらぬく道の両側の森がやがて深まり、人影もなくなる。静かな川の向こうに見えるのは、白壁に木格子の山荘は、写真によれば、まさにゲーテガルテンではないか。橋を渡ると、何組かの観光客、乳母車を引いた家族ずれや自転車の若者たちの姿が見えてくる。ジョギングの人たちや自転車の人たちが走り過ぎても行く。こんなところを走ってみたいね、と私たちはただ羨ましく見送るのだった。20年以上も前になるが、連れ合いは走らない日はない程ジョギングに精を出し、フルマラソンも完走したことがある。私も小学生の娘と5kmの月例記録会や5kmや10mの市民マラソン大会に出場したことなどを思い出すのだった。

結局、リストハウスはわからないまま、公園のなかを通って旧市街へと戻れば、公園の端が、ワイマール宮殿であった。この美術館は明日にしようと、ホテルに戻り、入浴を済ませてから夕食に出ることになった。7時を過ぎてもまだ明るい。しかし、ホテルから34分も歩けばつくはずの、お目当てのビアハウスまで行くのに何と30分近く迷ってしまった。ゲーテ広場に立ち戻ればわかるかもしれない、といいながら、ヘルダー教会前に2回も出てしまい、店頭でじゃがいもの籠を持つおばさんの人形の前を2回も通ることになる。途中で聞いても英語だと首を振られる。乳母車を引いた若いお母さんに尋ねて、ようやくゲーテ広場を囲む緑地を大回りして、たどり着いた。“とりあえず”の黒ビールのおいしかったこと。ソーセージ、ジャガイモ、川魚の揚げもの、酢漬けの赤キャベツなど素朴な味ながら、食も進んだ。

再びのイルム公園

翌朝は、快晴、落ち着いて地図を見直すと、イルム公園のリストハウスは、幹線道路沿いであって、どうも見過ごしたらしいことがわかった。もう一度訪ねようということになった。なるほど、きのう、私たちが公園の入り口で見ていた地図、公園事務所の隣がリストハウスだったのである。まだ、開館していない時間だったので、今度はバウハウス大学のキャンパスを抜けてみることにした。ちょうど、抜け切ったところに、画材屋さんが店を開いていた。店頭には絵葉書などが見えるし、ちょっと覗いてみると、奥行きのある、それは立派な店で、文房具はもちろんキャンバスや額、絵具、紙類、木材と実にさまざまな素材が揃えられていた。絵葉書とカレンダーを買って、道路を隔てた児童公園に入ってみる。その向かいには、石塀に囲まれた公園があるので、のぞいてみると、何と墓地であった。そういえば、このあたりにゲーテの墓所があるはずと思わずガイドブックを開いてみる。入口には案内板があって、墓地をつらぬく道の正面は、ゲーテとシラーの墓所である。お参りしないわけにはいかない。朝日が差し込む、中央の人けのない道を進めば、木立のなかにリスが走り、思わず声を上げると、慌てて木に登り去ってしまった。ゲーテもシラーもこの墓地に落ち着くまでには、複雑な経緯があったことを知ったのは、帰国後であった。

クラナハに会う

旧市街につながる三叉路から、今度はワイマール宮殿へと引き返す。石畳の坂は車の往来が激しく、ぼんやりと歩いてはいられない感じであった。入口から砂利の中庭を通り抜けた美術館の1階は、1517世紀の宗教画や肖像画のコレクションで、ルーベンスやティントレット、ハールレムの画家たちの作品が目を引く。が、やはりルーカス・クラナハの作品が多いし、親友だった若き日のルターの肖像画、後にザクセン選帝侯となるヨハン・フリードリヒ(23歳)と14歳のシビレー・フォン・クレーベの肖像画の視線に魅せられた。いずれも1520年代の作品であり、描かれた人物の確かな意志とドイツルネサンス美術の中核をなした画家の自負に満ちたまなざしが思われた。また、シビレー・フォン・クレーベの肖像は、クラナハとともにドイツ美術を担ったデューラーの「若いヴェネチア女性の肖像」(1502年、ウイーン美術史美術館)の構図を思い起こさせるものだった。つい水性ボールペンでメモを取っていると、美術館の巡回係が後をつけているような気がして、途中から鉛筆に慌てて変えたりした。3階の展示では、時代が下って、18世紀のヤコブ・フィリップ・ハッケルトの風景画と19世紀のゲオルク・フリードリヒ・ケルスティングの机に向かう人物の室内画などが印象的であった。これは、帰国後、持ち帰った市内イベントのパンフレットからわかったことながら、ハッケルトの特別展がワイマール新美術館とシラー博物館で、824日から開催されていたのである。残念なことだった。日本の美術館のように混雑するわけでもないので、ゆっくりと回れるのだが、ベルリンへと戻らねばならない時間が近づいてきた。なにしろ、今夜は、シャルロッテンブルグのコンサートが控えているのである。帰路の列車は、その理由がわからないままLutherstadt Wittennbergでの停車が30分近かったのだが、ベルリン中央駅には、だいぶ遅れを取り戻して到着したのだった。

(イルム公園入り口)

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2008_065 (ワイマール市庁舎)

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