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2008年10月 5日 (日)

ドイツ気まま旅(2)ワイマール

ワイマールの象

当初、ベルリンに5泊のつもりだったが、その真ん中で、ワイマールに1泊で出かけることにした。今回も欲張る割には事前調査が甘いままの日本脱出だった。私がワイマールについてガイドブックを本気で読んだのは、ベルリンでの前夜であった。まさに一夜漬けだったのだ。

雨も上がり、薄日の射すなか、ベルリン中央駅3番線から1040分発(IC2150)に乗ることになった。出発までには、少し時間があるので、車中の昼食にとおすしのパックを購入する(7.99ユーロ)。スーパーのKAI’SER’Sと雑貨のROSSAMANNを覗いて回り、中央駅の巨大なショッピングセンターを上がり降りし、今回の旅行での初めての有料トイレも利用した(0.8ユーロ)。沿線はしばらく広々とした草原と赤い屋根の集落が続き、12時近くになると工場が目立ち始め、evianなどの看板も見える。HALL駅付近になると再開発ビルの工事現場も何度か通り過ぎる。私たちの座席のテーブルが不具合だったので移ったところ、そこも壊れていたのだが、空席に移って、例のおすしとホテルの朝食から失敬した茹で卵と果物も持ち出す。このおすしは騙された感じで、ばさばさの酢飯、そういえば、店員は、不自由な日本語の東南アジア系の人だったっけ。列車は、まるで昔の四日市のように煙突からどす黒い煙や炎を吹き上げ、大きな石油タンクや送油管が続くなかを走り抜けたとかと思ったら、3枚羽の風車群が遠くに近くに続き、やがてWeissenfelsに到着、次の停車駅Naumburg付近になるとセメント工場や採石場が目立った。

午後1時、ワイマールに到着。荷物が少ないので、ホテルまで歩きはじめるが、左右にいくつかの建物で構成されているのが1999年にできたという新美術館らしい。しばらくすると旧市街に入り、ゲーテ広場に出たらしい。観光客やリュック姿の小学生や中学生で賑わい、バスターミナルにもなっている。さらにマルクト広場を目指し、「エレファント」というホテルを探し、広場を一回りしたところで、ようやく象の絵を見つけた。近頃、カード式が多いなか、渡され鍵には、文鎮のように重い、象をかたどったキーホルダーが付いている。ホテルの受付は、やや狭いながら重厚な趣のロビーであった。奥まった部屋ながら、なかなか快適そうで、ベルリンのホテルよりも広い。マルクト広場に面するホテルは、正面が市庁舎、壁には薬局の文字も見えるクラナハが住んでいた家、インフォメーションと並び、外壁の続きのプレート読むとバッハの住まい跡とあり、先の大戦で焼出されたと記されていた。創業が1696年といい、トーマス・マンやヒトラーなど、歴史上の人物が宿泊しているという。階段の踊り場の壁には、大きくパールバックの言葉が書かれていた。広場にはおなじみの露店は4時には店じまいという。果物でもほしいところだったが、ともかく歩きはじめることにする。

まずはゲーテハウス博物館、当然のことながら、身辺は全部ドイツ語、連れ合いからは「高校からとドイツ語やっていたはずでは?」とからかわれる。たしかに、第2外国語としてドイツ語とフランス語が選択できる学校だった。英語もままならぬのに、ことの勢いでドイツ語の初級だけは履修している。大学でも履修しているはずなのだが、みごとに挫折・・・。

ゲーテの生家、40室近いなかの22室を開放しているというが、順路はまるで迷路だ。庭に出てほっとして、家を眺めると、だいぶ傷んでいることもわかる。建物の写真付きの地図を入手。思えば、街全体が巨大迷路にも思えた私たちには、本当に役立った地図だった。その地図を頼りにバウハウス博物館と向かい合う国民劇場、団体客の去ったところで、ゲーテとシラー像を背にカメラにおさまる。シラー通りの並木はみごとなもので、駅から歩いた時にすでに通っていたが、シラー晩年の家があり、向かいの書店前では、ギターとアコーデオンの演奏に人だかりがしていた。

ワイマールの迷い道

旧市街を抜けて、車の往来の激しい通りに出たかと思うと、右手にはバウハウス大学、左手には広大なイルム公園が広がる。リストが晩年住んだ家、ゲーテの山荘もあるはずだ。リストが最愛の人と逍遥したであろう木陰の道、公園に入ってすぐにリスト像があった。すでに若い女性が、しきりに写真を撮っていた。ピアニストを目指してでもいるのだろうか。奥からやってきたご夫婦から、写真を撮りましょうかと言われ、私たちはリスト像を挟んでカメラにおさまった。リストの愛はみのらぬまま、晩年を一人過ごしたという、リストハウスはどこかと尋ねてみると、このドイツ語のご夫婦は、まっすぐ行くと川にぶつかり、橋を渡ってと教えてくれる。草はらをつらぬく道の両側の森がやがて深まり、人影もなくなる。静かな川の向こうに見えるのは、白壁に木格子の山荘は、写真によれば、まさにゲーテガルテンではないか。橋を渡ると、何組かの観光客、乳母車を引いた家族ずれや自転車の若者たちの姿が見えてくる。ジョギングの人たちや自転車の人たちが走り過ぎても行く。こんなところを走ってみたいね、と私たちはただ羨ましく見送るのだった。20年以上も前になるが、連れ合いは走らない日はない程ジョギングに精を出し、フルマラソンも完走したことがある。私も小学生の娘と5kmの月例記録会や5kmや10mの市民マラソン大会に出場したことなどを思い出すのだった。

結局、リストハウスはわからないまま、公園のなかを通って旧市街へと戻れば、公園の端が、ワイマール宮殿であった。この美術館は明日にしようと、ホテルに戻り、入浴を済ませてから夕食に出ることになった。7時を過ぎてもまだ明るい。しかし、ホテルから34分も歩けばつくはずの、お目当てのビアハウスまで行くのに何と30分近く迷ってしまった。ゲーテ広場に立ち戻ればわかるかもしれない、といいながら、ヘルダー教会前に2回も出てしまい、店頭でじゃがいもの籠を持つおばさんの人形の前を2回も通ることになる。途中で聞いても英語だと首を振られる。乳母車を引いた若いお母さんに尋ねて、ようやくゲーテ広場を囲む緑地を大回りして、たどり着いた。“とりあえず”の黒ビールのおいしかったこと。ソーセージ、ジャガイモ、川魚の揚げもの、酢漬けの赤キャベツなど素朴な味ながら、食も進んだ。

再びのイルム公園

翌朝は、快晴、落ち着いて地図を見直すと、イルム公園のリストハウスは、幹線道路沿いであって、どうも見過ごしたらしいことがわかった。もう一度訪ねようということになった。なるほど、きのう、私たちが公園の入り口で見ていた地図、公園事務所の隣がリストハウスだったのである。まだ、開館していない時間だったので、今度はバウハウス大学のキャンパスを抜けてみることにした。ちょうど、抜け切ったところに、画材屋さんが店を開いていた。店頭には絵葉書などが見えるし、ちょっと覗いてみると、奥行きのある、それは立派な店で、文房具はもちろんキャンバスや額、絵具、紙類、木材と実にさまざまな素材が揃えられていた。絵葉書とカレンダーを買って、道路を隔てた児童公園に入ってみる。その向かいには、石塀に囲まれた公園があるので、のぞいてみると、何と墓地であった。そういえば、このあたりにゲーテの墓所があるはずと思わずガイドブックを開いてみる。入口には案内板があって、墓地をつらぬく道の正面は、ゲーテとシラーの墓所である。お参りしないわけにはいかない。朝日が差し込む、中央の人けのない道を進めば、木立のなかにリスが走り、思わず声を上げると、慌てて木に登り去ってしまった。ゲーテもシラーもこの墓地に落ち着くまでには、複雑な経緯があったことを知ったのは、帰国後であった。

クラナハに会う

旧市街につながる三叉路から、今度はワイマール宮殿へと引き返す。石畳の坂は車の往来が激しく、ぼんやりと歩いてはいられない感じであった。入口から砂利の中庭を通り抜けた美術館の1階は、1517世紀の宗教画や肖像画のコレクションで、ルーベンスやティントレット、ハールレムの画家たちの作品が目を引く。が、やはりルーカス・クラナハの作品が多いし、親友だった若き日のルターの肖像画、後にザクセン選帝侯となるヨハン・フリードリヒ(23歳)と14歳のシビレー・フォン・クレーベの肖像画の視線に魅せられた。いずれも1520年代の作品であり、描かれた人物の確かな意志とドイツルネサンス美術の中核をなした画家の自負に満ちたまなざしが思われた。また、シビレー・フォン・クレーベの肖像は、クラナハとともにドイツ美術を担ったデューラーの「若いヴェネチア女性の肖像」(1502年、ウイーン美術史美術館)の構図を思い起こさせるものだった。つい水性ボールペンでメモを取っていると、美術館の巡回係が後をつけているような気がして、途中から鉛筆に慌てて変えたりした。3階の展示では、時代が下って、18世紀のヤコブ・フィリップ・ハッケルトの風景画と19世紀のゲオルク・フリードリヒ・ケルスティングの机に向かう人物の室内画などが印象的であった。これは、帰国後、持ち帰った市内イベントのパンフレットからわかったことながら、ハッケルトの特別展がワイマール新美術館とシラー博物館で、824日から開催されていたのである。残念なことだった。日本の美術館のように混雑するわけでもないので、ゆっくりと回れるのだが、ベルリンへと戻らねばならない時間が近づいてきた。なにしろ、今夜は、シャルロッテンブルグのコンサートが控えているのである。帰路の列車は、その理由がわからないままLutherstadt Wittennbergでの停車が30分近かったのだが、ベルリン中央駅には、だいぶ遅れを取り戻して到着したのだった。

(イルム公園入り口)

2008_076_2 

2008_065 (ワイマール市庁舎)

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