ワイエス展、Bunkamuraへ
やはり見逃すわけにはいかないと、思い切って出かけた。
渋谷駅の通路では公開間もない岡本太郎の壁画「明日の神話」に出会った。そういえば、つい2・3日前の新聞報道(2008年11月17日)にも出ていた。30年ほど前に、メキシコの新築ホテルの壁画として描かれながら、ホテル建築が頓挫して、作品が行方不明になっていたところ、今世紀に入ってメキシコの資材倉庫で発見、その修復と展示が計画され、ようやく日の目を見たのだ。このプロジェクトを推進していた岡本太郎記念館の館長だった、岡本敏子さんはこの日を迎えず、急逝している。5.5m×30mという巨大壁画は、ずいぶん昔からあったというような感じで、行き交う人たちを見下ろしていた。時たま、ケータイやデジカメを構えている人が目立つ程度である。
Bunkamuraへの道中はいつもながら、おのぼりさんのようで、きょろきょろとせわしない。きょうは、ソフトバンクのビルの壁に、あのCMで人気のおとうさん犬がマフラーをしている絵が描かれていて、街の喧騒を見守っている風でもあるのが微笑ましかった。
1974年のワイエス
アンドリュー・ワイエスとの出会いは、手元のカタログによれば、1974年「アンドリューワイエス展」(4月6日~5月19日 東京国立近代美術館 日本経済新聞社共催)だったのである。どういう脈絡で出かけていったのか。当時は、わかりやすいという、その一点でアメリカ絵画に関心があったのかもしれない。当時の私の短歌には出自が違っても、アメリカで活躍していたモンドリアンやベン・シャーンが登場する。池袋の生家から一人住まいとなって間もなくの頃だった。アメリカの農村の暮らしや人物を克明に描いた画家として、新鮮ながら、強烈な印象がよみがえる。荒涼とした北の海や枯野、身近な隣人たちを描いた人物像は、1970年代のアメリカからは想像できなかったからだ。86点の展示だったのだが、小ぶりのカタログでは、12点のみがカラー印刷で、近年のカタログと比べるといかにも質素ではある。
1990年の「ヘルガ」シリーズ
2度目の出会いが1990年だった。連れ合いの転勤に伴い、名古屋から現在の地に転居して間もなくのことだ。この展覧会で、あらたなワイエスに出会ったような気がしたのだ。池袋西武にあったセゾン美術館が会場だった。「ワイエス展 ヘルガ 静謐な生命の肖像」(1月2日~2月25日 セゾン美術館 読売新聞社共催 126点)は、隣接の農場に働く農家の主婦であるヘルガを15年もの間、描き続けたといい、その作品の存在は、妻にも気付かれなかったという、不思議な暮らしの中での作品群であった。当時、そんなことがあるのだろうかと、ミステリアスな画家の一面を見たような気がしたものである。
ヌードもあるが、シープスキンのコートを着込んだ座像やケープを羽織ったうしろ姿、長髪をしっかりと三つ編みにした横顔、解かれた髪、ときには花の冠つつけた髪、ページボーイという内巻きの髪型のヘルガを、荒れ野や農道、果樹園、樹木を背景に描き続けたものだ。作品はヘルガの背後からや斜めから描かれることが多い中、ときどき見せる表情や視線は、まさに大地に根付いた、たくましさや意思の強さをうかがわせる。38歳から53歳までの女性の年輪も思わせ、背景がたんなる背景ではなく、ヘルガの存在や人生を描く画家の心象を届けてくれるような気がした。
2008年のワイエス展
今回の「アンドリュー・ワイエス 創造への道程」展(11月8日~12月23日 Bunkamura 東京新聞共催 150点)では、はじめて自画像を見た気がする。1938年から1945年頃までに描かれた自画像と「幻影」と名付けられた自画像数枚は、1949年、メイン州の家で描かれている。今回の展示は、描いた場所~一年のうち、季節によって住み分けているペンシルヴァニア州とメイン州とに大きく分けられている。「オルソンハウス」シリーズは、一年のうち半年近くを過ごすというメイン州で、クリスティーナ、アルヴァロ姉弟を30年にわたって描き続けた作品群である。あらためて画家の魂や視線が強固なものであったことを思い知らされた。1940年代から、1967年、68年に姉弟二人が相次いで他界した後まで描き続けている。中でも、障害を持ちながらも強靭な精神で自然や暮らしに立ち向かうクリスティーナを描くデッサンや水彩画の習作は、その創作過程での昂りや迷いがわかって、胸に迫るものがあった。
また、卵の秤や収める箱、ブルーベリーを計る青いボール、馬具、ストーブ、いす、テーブル、納屋の壁、窓、樽、バケツ、籠など、何の変哲もない「ものたち」は執拗に描き続けられた。その精緻で、時間が止まったような世界から立ち上がるものは何なのか。今回は、何枚もの習作と完成作品と思われるものとが連なって展示されているのだが、多くは鉛筆書きの習作にもそれぞれ少しづつ違ったメッセージが込められているようで、水彩やテンペラの作品との境界って何だろうとの思いもよぎる。
今回も、この頃のいつもの流儀で、カタログは購入してない。若干のメモは取っているものの、記憶だけでは頼りない。購入した絵葉書4枚のうちの1枚「三日月」(1987年)、納屋の窓に広がる雪原と山なみの果てにかかる三日月は、目をこらさないと見過ごしてしまいそうにはかなげだ。思わず目を奪われるのは、窓枠の手前の天井からつる下げられた4つの編み籠である。形も大きさも異なり、編み方も、取っ手のつけ方も違い、それぞれ用途が異なるのだろう。この克明さが語りかけるものは何か。軒下からは長い氷柱がさがり光っているにも関わらず、この静寂な風景に対する熱い思いが伝わって来るのである。使い古した桶に収穫したばかりのブルーベリーの青が目に飛び込んできた「パイ用のブルーベリー・習作」(1967年)、オルソンハウスの「早い雪」(1967年)、ペンシルヴァニアの「粉ひき小屋」(1962年)の3枚で、前2作は、なんと日本に在って、「丸沼芸術の森」所蔵であった。
埼玉県朝霞市にある倉庫会社が設立した「丸沼芸術の森」は200点以上のワイエスコレクションを持ち、時どきワイエスフォーラムを開催し、日常的には「ワイエスレポート」というブルーベリーさんのブログまで提供している。とにかく、ワイエス情報が満載なのである。
なお、今回の会場の一角では、ワイエスのインタビューの映像が流されていて、日本のファンへの挨拶も語られている。91歳になる画家が休日もなく絵を描いているという意欲的な一面を伝えていた。
私のワイエス情報の空白は、20年近くにもなっていたのだ。「丸沼芸術の森」も訪ねたい。こうした大々的なワイエス展、つぎはいつのことになるだろう。
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コメント
内野さん、はじめまして。ワイエス展私も見てきて、とても感動しました。丸沼へはこれまでも行っているので、すこしお知らせします。丸沼では毎年4月にワイエス展とフォーラムが開かれています。展示室はほんとうに小さなところです。瀟洒な美術館をイメージしていくと、現実との落差にびっくりされることと思います。なんといっても展示されているのがワイエスなのに、展示室はプレハブですから。でも、ここは若い作家を支援することを目的に設立されたところで、作家にアトリエを提供しているのです。近年世界的に有名になった村上隆もここの作家の一人です。作品はいつ行っても見られるわけではないので、よく確認してから行かれることをおすすめします。またワイエスを見たくなったら、文化村、愛知県立美術館、福島県立美術館と来年の5月までは追っかけができます。(笑)私もまた見たいなあ。
投稿: みな | 2008年11月29日 (土) 18時09分