« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »

2008年11月28日 (金)

シンポジウム「開かれたNHK経営委員会をめざして」に参加して

                                                                               

1122日(土)、「開かれたNHK経営委員会をめざす会」主催のシンポジウムに参加した(千駄が谷区民会館)。全面朱色のかなり目立つシンポジウムのチラシを受け取ったのはいつだったろう。当日までに2週間とはなかったかと思う。NHK問題に取り組む5つの市民団体が共同で、古森経営委員長の不再任と経営委員の公募・推薦制を推進する署名集めが進行しているさなか、新しく結成された「めざす会」は、さらに具体的に、マスコミ研究者の桂敬一さんとNHK問題に関する市民運動の推進役だった湯山哲守さんを推薦する署名を始めるという。身近な関係者には、「立て続けに、似たような署名を集めるのは難しい」と愚痴を言ったものだ。

地元の憲法9条の会関係の集りに署名用紙を持って行ったり、メル友に署名をお願いしたりした。NHK経営委員の話というのは、はじめての人にはかなり分りづらいのではと思う。受信料を下げさせたり、NHKに民間の経営手法を取り入れたりすることのどこが悪い、みたいなことになりがちなところを突破しなければならない。署名の集まり具合をみていて、関西の市民団体の方たちの勢いというか、熱意に後押しをされる形だった。

早々と古森経営委員長が再任を受けないという表明し、シンポジウム前日の1121日には、参議院で政府推薦の経営委員候補者4人中3人の不同意が決まった。NHK経営委員人事が国会の不同意になった、というのは制度始まって以来のことであった。露骨な民間経営者によるたらい回し人事、御用学者の登用が理解されたのだろう。これで、今後、政府側から白羽の矢を立てられた委員候補者たちも少しは躊躇するだろう。市民の声がストレートに国会議員を動かした、数少ない先例となったのではないか。

基調講演は、『NHK』(岩波新書)の著者でもある松田浩さんは「いまなぜ経営委員会か~公募・推薦制推進運動の意義を考える」において、経営委員会の本来の意義、変質と公共放送の危機に触れて、NHK執行部が示した次期経営計画に対して「2012年度から受信料10%値下げ」を強引に盛り込ませたことの重大性を指摘した。NHKの広報番組で、福地会長が受信料値下げという表現はせずに「視聴者に還元する」と表明していたが、なぜもっと明確に異議申し立てをしなかったのか、がもどかしかったのが思い出される。

そのあと、推薦候補者の桂さんと湯山さんの所信表明がなされた。これからNHKがかかえる危機を、桂さんと湯山さんならば視聴者、市民の目線で乗り切ってくれるのではないかと、その実績と見識に期待した。

パネルディスカッションでは、最近まで国立音楽大学で音楽史を教え、著名な作曲家ばかりでなく、無名な作曲家を発掘する仕事やジェンダーと音楽に強い関心を持つ小林緑さんの話が新鮮だった。昨年の6月まで経営委員を26年間務め、その中で、かなり踏み込んだ発言をされ、少数意見となることが多かったという。経営委員就任の経緯もまた興味深いことだった。

参加者は80名を超えたといい、兵庫や京都で取り組む方からの報告と提案があったが、なかでも日本各地で、NHK問題に関心のある市民の会を立ち上げるべきという提案や視聴者とNHK幹部やスタッフ、経営委員との意見交換の実績や実態が報告された。視聴者が「経営委員と語る会」の展開や、私自身がかかわった、9月の自民党総裁選挙報道に関し視聴者コールセンターとのやり取りをめぐるNHKの対応も、視聴者の「ガス抜き」の感があり、視聴者の意見を反映するという制度は形骸化し、実質的な機能をほとんど果たしていないのが実情だろう。経営委員人事の透明性とともに、上記のような事態をどう変えてゆくのかを含めて、視聴者からの積極的な意思表示や活動が重要なポイントとなるに違いないと、はや暮れた、原宿竹下通りの賑わいを横目に会場を後にした。

| | コメント (2)

竹山広短歌の核心とマス・メディアとの距離について(2)

   

                

沈黙の十年間

 竹山短歌を語るとき、被爆直後から一九五五年までの十年間の沈黙に言及されることが多いが、自筆の年譜「一九五五年(三十五歳)」の欄には次のような記述が見える。

「三月、多量の喀血をして町内の病院に入院。重篤であったが、ストマイなどの新薬で一命をとりとめる。五月、栗原潔子の「短歌風光」に入会、戦後中断していた作歌を再開し、夢に脅かされて作り得なかった原爆詠を始めて作る」

 竹山は、一九四五年八月九日、浦上第一病院で被爆後、帰郷、療養の歌を作り、原爆の歌も作り始めた。後、三枝昂之のインタビューにおいて次のように述べている。原爆の歌は、総体的なものとなりがちで、自分自身物足りなく「自分が作りたいのはそういう歌ではない。一人一人の死者がありありとしているわけですから、それをうたおうと思ったのです。ところがそれをうたいだしたら、その夢を見るんです」と(「竹山広」『歌人の原風景』)。そして、うたに作ろうとするシーンを夢に見るようになり、恐ろしくなって原爆は歌わなくなったという。同時にほかの歌も歌う気力がなくなった、と語っている。それが、一九五五年、結核の奇跡的な回復を機に、『短歌風光』に入会、「目にありありとしているシーンの一つ一つを拾いあげるような感じで詠んだのですが、夢を見なくなったのです」という経緯を経て、前述の「悶絶の街」一連の原爆詠が発表されたことになる。この間の状況を、佐藤通雅はつぎのように分析する。「長い間、被爆体験を歌いえなかったのは、既成の言葉では原言語の坩堝に触れることすらできないと、直感したからにほかならない。無理にも言葉化すれば、既成のコードに腑分けされ、自分でない自分へと解体されてしまう」と。さらに、この人類未曾有の体験を何とか語らなければという思いから、体得してきたのが「徹底して個に立ち、徹底して見る」という歌い方であったとする(「竹山広『空の空』論」『路上』一〇九号 二〇〇七年一二月)。

 歌えなかった十年間の前半、一九四五年九月~一九四九年一〇月、日本は米軍の占領下にあり、GHQによるきびしい事前・事後検閲という言論統制を受けていたことは、現在こそ、よく知られるところとなった。竹山自身の沈黙に、こうした統制が影響していたのかどうかについては、先の三枝のインタビューにおいて「広島と長崎に関する占領軍の情報統制はとくに厳しかったと読んだことがあります。そのことについて竹山さんの記憶に残っていることがありますか」の質問に「私はまったくないですね。私はその後、ずっと田舎に引っ込んでいましたから。新聞はとっていたような気がしますが、広島と長崎に関してそういう統制があったということだけは知っていましたけれど、べつにそれについてどうこうというのは直接関係がないものですから・・・」と答えている。

その統制の実態は、プランゲ文庫コレクション「占領期新聞・雑誌記事情データベース」にもあらわれている。検閲対象の記録として残されているのは一万タイトルを超える雑誌(小冊子も含む)、二百万件に及ぶ記事である。二百万件うちの約一・二パーセントの二三七〇〇余件が検閲により何らかの変更が迫られている。長崎を発行地とする雑誌の記事一五五〇〇件中一〇〇余件が検閲で公表禁止、一部削除、保留などの処分がなされている。思ったより少ないように思われたが、実は、この数字の背後には「表現の自由」への抑止力が機能して、夥しい自主規制がなされていたと見るのが正確であろう。    (続)(『ポトナム』200812月)

                                                                                                                              

| | コメント (0)

ワイエス展、Bunkamuraへ

やはり見逃すわけにはいかないと、思い切って出かけた。       

渋谷駅の通路では公開間もない岡本太郎の壁画「明日の神話」に出会った。そういえば、つい23日前の新聞報道(20081117日)にも出ていた。30年ほど前に、メキシコの新築ホテルの壁画として描かれながら、ホテル建築が頓挫して、作品が行方不明になっていたところ、今世紀に入ってメキシコの資材倉庫で発見、その修復と展示が計画され、ようやく日の目を見たのだ。このプロジェクトを推進していた岡本太郎記念館の館長だった、岡本敏子さんはこの日を迎えず、急逝している。5.5m×30mという巨大壁画は、ずいぶん昔からあったというような感じで、行き交う人たちを見下ろしていた。時たま、ケータイやデジカメを構えている人が目立つ程度である。

Bunkamuraへの道中はいつもながら、おのぼりさんのようで、きょろきょろとせわしない。きょうは、ソフトバンクのビルの壁に、あのCMで人気のおとうさん犬がマフラーをしている絵が描かれていて、街の喧騒を見守っている風でもあるのが微笑ましかった。

1974年のワイエス                                                                                                               

アンドリュー・ワイエスとの出会いは、手元のカタログによれば、1974年「アンドリューワイエス展」(46日~519日 東京国立近代美術館 日本経済新聞社共催)だったのである。どういう脈絡で出かけていったのか。当時は、わかりやすいという、その一点でアメリカ絵画に関心があったのかもしれない。当時の私の短歌には出自が違っても、アメリカで活躍していたモンドリアンやベン・シャーンが登場する。池袋の生家から一人住まいとなって間もなくの頃だった。アメリカの農村の暮らしや人物を克明に描いた画家として、新鮮ながら、強烈な印象がよみがえる。荒涼とした北の海や枯野、身近な隣人たちを描いた人物像は、1970年代のアメリカからは想像できなかったからだ。86点の展示だったのだが、小ぶりのカタログでは、12点のみがカラー印刷で、近年のカタログと比べるといかにも質素ではある。

1990年の「ヘルガ」シリーズ

2度目の出会いが1990年だった。連れ合いの転勤に伴い、名古屋から現在の地に転居して間もなくのことだ。この展覧会で、あらたなワイエスに出会ったような気がしたのだ。池袋西武にあったセゾン美術館が会場だった。「ワイエス展 ヘルガ 静謐な生命の肖像」(12日~225日 セゾン美術館 読売新聞社共催 126点)は、隣接の農場に働く農家の主婦であるヘルガを15年もの間、描き続けたといい、その作品の存在は、妻にも気付かれなかったという、不思議な暮らしの中での作品群であった。当時、そんなことがあるのだろうかと、ミステリアスな画家の一面を見たような気がしたものである。

ヌードもあるが、シープスキンのコートを着込んだ座像やケープを羽織ったうしろ姿、長髪をしっかりと三つ編みにした横顔、解かれた髪、ときには花の冠つつけた髪、ページボーイという内巻きの髪型のヘルガを、荒れ野や農道、果樹園、樹木を背景に描き続けたものだ。作品はヘルガの背後からや斜めから描かれることが多い中、ときどき見せる表情や視線は、まさに大地に根付いた、たくましさや意思の強さをうかがわせる。38歳から53歳までの女性の年輪も思わせ、背景がたんなる背景ではなく、ヘルガの存在や人生を描く画家の心象を届けてくれるような気がした。

2008年のワイエス展

今回の「アンドリュー・ワイエス 創造への道程」展(118日~1223日 Bunkamura 東京新聞共催 150点)では、はじめて自画像を見た気がする。1938年から1945年頃までに描かれた自画像と「幻影」と名付けられた自画像数枚は、1949年、メイン州の家で描かれている。今回の展示は、描いた場所~一年のうち、季節によって住み分けているペンシルヴァニア州とメイン州とに大きく分けられている。「オルソンハウス」シリーズは、一年のうち半年近くを過ごすというメイン州で、クリスティーナ、アルヴァロ姉弟を30年にわたって描き続けた作品群である。あらためて画家の魂や視線が強固なものであったことを思い知らされた。1940年代から、1967年、68年に姉弟二人が相次いで他界した後まで描き続けている。中でも、障害を持ちながらも強靭な精神で自然や暮らしに立ち向かうクリスティーナを描くデッサンや水彩画の習作は、その創作過程での昂りや迷いがわかって、胸に迫るものがあった。

 また、卵の秤や収める箱、ブルーベリーを計る青いボール、馬具、ストーブ、いす、テーブル、納屋の壁、窓、樽、バケツ、籠など、何の変哲もない「ものたち」は執拗に描き続けられた。その精緻で、時間が止まったような世界から立ち上がるものは何なのか。今回は、何枚もの習作と完成作品と思われるものとが連なって展示されているのだが、多くは鉛筆書きの習作にもそれぞれ少しづつ違ったメッセージが込められているようで、水彩やテンペラの作品との境界って何だろうとの思いもよぎる。

 今回も、この頃のいつもの流儀で、カタログは購入してない。若干のメモは取っているものの、記憶だけでは頼りない。購入した絵葉書4枚のうちの1枚「三日月」(1987年)、納屋の窓に広がる雪原と山なみの果てにかかる三日月は、目をこらさないと見過ごしてしまいそうにはかなげだ。思わず目を奪われるのは、窓枠の手前の天井からつる下げられた4つの編み籠である。形も大きさも異なり、編み方も、取っ手のつけ方も違い、それぞれ用途が異なるのだろう。この克明さが語りかけるものは何か。軒下からは長い氷柱がさがり光っているにも関わらず、この静寂な風景に対する熱い思いが伝わって来るのである。使い古した桶に収穫したばかりのブルーベリーの青が目に飛び込んできた「パイ用のブルーベリー・習作」(1967年)、オルソンハウスの「早い雪」(1967年)、ペンシルヴァニアの「粉ひき小屋」(1962年)の3枚で、前2作は、なんと日本に在って、「丸沼芸術の森」所蔵であった。

埼玉県朝霞市にある倉庫会社が設立した「丸沼芸術の森」は200点以上のワイエスコレクションを持ち、時どきワイエスフォーラムを開催し、日常的には「ワイエスレポート」というブルーベリーさんのブログまで提供している。とにかく、ワイエス情報が満載なのである。

なお、今回の会場の一角では、ワイエスのインタビューの映像が流されていて、日本のファンへの挨拶も語られている。91歳になる画家が休日もなく絵を描いているという意欲的な一面を伝えていた。

 私のワイエス情報の空白は、20年近くにもなっていたのだ。「丸沼芸術の森」も訪ねたい。こうした大々的なワイエス展、つぎはいつのことになるだろう。

                                                                                                                                 

| | コメント (1)

2008年11月 8日 (土)

マイリスト「すてきなあなたへ」に55号を掲載しました

(目次)
スーパーの24時間営業、あなたなら?私たちの町にもスーパーがやって来る
大地震が来る前に~この頃、ヒヤリとすること多くないですか
ドレスデンの夜、そしてマイセンへ
菅沼正子の映画招待席「リダクテッド 真実の価値」―報道されないイラクの真実

| | コメント (0)

竹山広短歌の核心とマス・メディアとの距離について(1)

 最近、「竹山広の作品から三首をあげよ」というアンケートに答えるため『竹山広全歌集』(二〇〇一年)ほか近著をあらためて通読することになった。(『短歌往来』二〇〇八年八月、参照)。二〇〇八年一月から連載の『ポトナム』の回転扉「一首鑑賞」においても、執筆者は対象の『射禱』のみならず全歌集を読み通し、渾身の鑑賞をされている。執筆者の多くが指摘するように、どの歌集においても見事に貫かれているのは、客観性と情緒の排除であった。その客観性に徹した姿勢をさらに色濃く反映している作品群があった。私は、メディア自体をうたった作品、メディアと作者自身との距離をうたった作品に着目した。戦時下の初期作品 その萌芽は、太平洋戦争下、作者が二〇歳を迎えた頃によんだ作品にも表れている。
①戦争の記事に満ちたる新聞を朝な朝な読む病忘れて (病む日々 昭和十六年九月) ②枕べに近くラジオを持ちきたり軍の動きを昼も夜も (病む日々 昭和十六年九月)
③映画館に昂ぶりしことも儚くてかぎろひの立つ街をきにけり (復職 昭和十七年四月)    いずれも、佐藤通雅の尽力で発表された「全歌集」未収録の初期作品からである(「竹山広初期作品」『路上』九二号二〇〇二年五月)。初出当時、政治権力が検閲統制のもと戦意高揚のために活用したマス・メディアの先端ともいえる新聞・ラジオ・映画との接触、受容がうたわれている。そこには、当時の国民にありがちな「戦勝に胸おどる」「なみだし流る」といったあらわな表現もなく、淡々とうたっているのが特色といえる。
④敵艦に身をうち当てて沈めきと立ち歩くまも身慄ひやまず(南方戦線)   
  「撃沈」の報道に接したときの想像力からきたす生理的な「身慄ひ」に近い、正直な反応が抑制された表現でなされた一首ではなかったか。私には、竹山作品は、パフォーマンスにも思える覚悟や述志に及ばないところが、特色である。三十五年後の第一歌集竹山の長崎での被爆体験は、後世、他人が踏み込める余地のないほどの壮絶さであったろう。十年の沈黙を破って一九五五年以降発表された。『とこしへの川』(一九八一年)という、遅れて編まれた第一歌集はじめ、以後の歌集にも繰り返しうたわれている。被爆以降、沈黙の十年間は何を意味していたのだろうか。
⑤なにものの重みつくばひし背にさへ塞がれし息必死に吸ひぬ
⑥血だるまとなりて縋りつく看護婦を引きずり走る暗き廊下を
⑦傷軽きを頼られてこころ慄ふのみ松山燃ゆ山里燃ゆ浦上天主堂燃ゆ
⑧水を乞ひてにじり寄りざまそのいのち尽きむとぞする闇の中の声
                                                       (以上「悶絶の街」)
⑨夢にさへわれは声あぐ水呼ばふかばねの群に追ひつめられて 
   『とこしへの川』巻頭「悶絶の街」五六首の冒頭には「昭和二十年八月九日、長崎市浦上第1病院に入院中、1400メートルを隔てた松山町上空にて原子爆弾炸裂す」とある。後続の作品は、一挙に一九五五年時の「入院」「療養日日」となり、当時の養鶏による苦しい生計、竹山の病状悪化、ストレプトマイシンによる奇跡的な回復、などの経過が作品としてもあらわれる。
⑩原子爆弾に生きて十四年よひよひの夢に声あぐることもなくなりぬ(「相向ふ死者」)
⑪敗戦ののち十六年立ち直り得たる者らを見むと来給ふ(「奉迎の位置」)
⑫乞ふ水を与へ得ざりしくやしさもああ遠し二十五年過ぎたり(「原爆忌」)                                                             (続)(『ポトナム』2008年11月号所収)

| | コメント (0)

ドイツ気まま旅(4)ベルリン

雨のフランクフルト 

(連載中の紀行(1)~(3)とは前後することになったが)

フランクフルト空港は雨。乗り換えの長い通路の窓には雨滴が勢いよく流れている。私は、今回、はじめてのドイツ入り、ベルリンの地に立った。成田では小物入れのハサミが没収、フランクフルトでは成田で買った未開封の「空水」が没収され、数年前より審査は格段に厳しくなった感じがする。

ホテルはケンピンスキー系列のブリストルで、ツオー駅(動物園前)とサヴィニー広場の中間あたりに位置する。「クーダム」と略されるKurfurstendammの大通りからFasanen St.に曲がる角にある。地下鉄の駅も近いのだが、どうも現在は工事中のため閉鎖されているらしかった。その日の夕食の目当ての店も閉店中で戸惑ったのだが、結局サヴィニー広場近くの家族づれで賑わっている店(mar y sol)に飛び込んで、ほっとするのだった。まだ暮れることのない帰路はウインドーショッピングである。クーダムは西ベルリン一の繁華街だったという。もちろん現在でも、ブランド店が軒を連ね、歩道が広く、その中央には四角いショーウインドーが等間隔に並ぶ。ホテルの横の角はスタバで、私たちの部屋からもよく見える。そして階上のいくつかのフロアは、Ahavaというリビング用品、家具などを扱う店らしい。

 

壁とホローコースト記念碑

翌日は、地下鉄でポツダム広場に出ようとするが、工事のため不通個所があって、当初路線図がのみこめず、だいぶ苦労することになる。ポツダム広場のソニーセンターは、近辺の復興・再開発の象徴的な存在であったらしい。中央の吹き抜けの天井は透明な富士山のような形をしている。近くには東西を分けた壁がわずかに残されていて、壁をめぐる沿革や監視塔、東独から命がけで脱出する市民たちの写真などが掲示されていた。たった20年前のこと、日本でいえば昭和から平成に代わった頃まで存在していた壁なのだが、正直なところ、なかなか想像しがたいものだった。ソニーセンターの横の広い通りを北に向かえば、ブランデンブルク門に出るはずなのだが、右手には突如として灰色の四角い石柱で構成された、巨大迷路のような異様な光景が広がる。石柱の高さが異なるので、遠くからは「石の波」のように見える。これが、ベルリンのまさに一等地に建設されたホローコースト記念石碑「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」(約19,000㎡、20055月完成)なのだ。ドイツ政府の過去の戦争責任・歴史認識の証として、国家自身、国民自身、そして、訪れるすべての人々へのメッセージとして、じつにわかりやすい形なのではないだろうか。石柱群の間を縫う95㎝の通路、身の丈を超える石柱の間からそっと笑顔をのぞかせる幼い子供たち、真横の石碑の陰から突然現れる手をつないだ若者たち、寄り添いながらゆっくりと通り過ぎるお年寄りたち、だれもが不意に目の前に現れるのだが、なぜか交わす視線のやさしさが印象的だった。この石柱群の地下には情報センターがあり、犠牲者や収容所、ユダヤ人政策の沿革などを示す資料が公開されているというが、雨も降り出したことなのでブランデンブルク門へと急いだ。

 

行列のできる議事堂

「石の波」の左手の遠くに見える透明なドームが、新しい連邦議会議事堂らしい。ブランデンブルク門周辺は、ガイドの説明を聞いている団体ツアー客の輪がいくつも見渡せる。雨の降りが激しくなると、それが傘の輪になった。大道芸人のパフォーマンスに気を取られていると、中東の民族衣装の女性が物乞いに寄ってくるのも観光地の証だろうか。門の前の広場を過ぎて、議事堂の方に渡ろうとする角の木陰には、いくつもの十字架が立っていた。その一つ一つに、19618月、東西ベルリンを分けた壁の出現以降、西への脱出を図って犠牲となった人々の名前、生没年、簡単な生い立ちと肖像写真が掲げられていた。多くの若者たちの理不尽な死を悼む気持ちが滲みでている墓名碑である。

あたらしい連邦議会の議事堂見学ができればと人の流れに沿って進むと、大きな芝生の広場に出た。議事堂正面の階段には行列が出来ていて、列は直角に曲がって広場を横切る形で数十メートル続く。小雨にはなったが開いた傘も並ぶ。この開放的な議事堂前の広場の真ん中に立って、日本の国会議事堂を思うのだった。がんじがらめに塀がめぐらされ、門や出入り口には衛視が立ち、周辺の道路には装甲車が停まっている。1960615日国会構内に突入したデモ隊の一人樺美智子さんが南通用門で圧死した事件以降、南通用門は開かずの扉となっている、この違いは何なのだろう。並んでの見学はあきらめ、娘から頼まれている土産は早く入手しておこうとハッケンンシャーの店へ行くことにした。留守宅の犬の世話などで、週末には帰省してもらっている娘の注文の品、ビルケンシュトックのスニーカー。ウィーンマイスター通りにようやく見つけた店は意外に構えが小さかった。スニーカーのダーリントンをまずカタログで見つけ、サイズと色を確認(99ユーロ)。ひとまず安心はしたものの、そのあと、大きなビニールの袋を提げて歩く羽目となった。レトロっぽいテレビ塔を目当てにアレキサンダー広場に戻って、昼食に予定していた店を探すが、またもや発見できず、結局マリエン教会の尖塔と朱色の大屋根を望む店でピザの昼食となった。一帯は、レストランやファッションの店などがひしめき、大きな袋を持ったインターナショナルな買い物客の往来が激しい。

 

シナゴーグからユダヤ人収容所跡へ

スケッチブックを広げるいとまがないまま、午後からはウンター・デン・リンデンを博物館島へと歩き始める。左手にマリエン教会を間近に見上げ、広場を隔て「赤い市庁舎」を遠望する。右手の威容を誇る青いドームの大聖堂を一回りして、小さな橋を渡る。この辺りの博物館は修復中で埃っぽい。島の突端にあたるボーデ博物館の鉛色のドームにも惹かれるが、ベルリンのシナゴーグにもと足を伸ばす。ここでも警備は厳しいが、入口には、1938119日、ナチスにより多くのユダヤ人が虐殺された事件が記されたプレートがあり、クリスタル・ナハト(水晶の夜)と呼ばれていることも初めて知った。この辺りは先の大戦前まではユダヤ人街であったといい、北に入ったところにあった老人ホームは、大戦中アウシュビッツやテレージェンの強制収容所に送られる前のユダヤ人の一時的収容所となっていた。その跡地には、現在、やせ細った幼子も混じった老若男女10人ほどの黒い群像が立てられ、犠牲者を追悼する碑がある。また、付近は、数百年にわたって守られていたユダヤ人墓地(約12,000基)が、1943年ナチスによって破壊された跡地でもある。1778年作曲家メンデルスゾーンの父であるモーゼス・メンデルスゾーンが創設したユダヤ人学校も近くにあったそうだが、現在は、創設者の記念碑がひっそりと建つのみで、訪れる人と出会うこともなかった。

 

戦禍の記憶

再び大聖堂に戻って、夕刻6時のミサの鐘の音が響きわたるなか、ミュージアム・カフェで一服、本日これまでの万歩計の歩数は、3万を超えた。ホテルに戻り、KaDeWeに出直すことにしていた。ホテルのドアマンからは近いといわれ、歩きはじめたが、はじめての道は遠くに感じられる。ようやくたどり着いた入口には各国語のフロアガイドが置かれていた。ここでは、いわゆるデパ地下にあたるのが6階で、ワイン、チョコレート、ハム・ソーセージ類など、どれをとっても、売り場の眺めは壮観であった。ワインを船便で送ってもらおうと、5階のサービスカウンターに寄るが、閉店の8時まで30分以上もあるというのに、受け付けてもらえなかった。ワインの専門店でも知っているとよかったのだが、後日、もう一度出直すことになった。5階には、書店、土産物コーナーもあって、クマの縫いぐるみも欲しかったのだが、そこそこの値札を見て、あきらめもした。 

翌々日、ポツダムまで出かけた日の夕方、再訪のKaDeWeでワインの発送を済ませ、最上階のセルフサービスのレストランで夕食をとった。すでにこの「気まま旅」の(1)でも触れたが、料理は多国籍で、好きな量を皿にとり、レジで精算、ドリンクもコップの大きさを選ぶ仕組みとなっていた。値段はそれほど安いとも思えなかったが、旅行者には手軽でありがたい。外へ出てもまだまだ明るく、近くのヨーロッパセンターやカイザー・ヴィルヘルム記念教会近辺は、賑わいを見せていた。この教会は19世紀末に建てられたが、先の大戦で焼け残った塔だけがそのまま記念碑として保存されているので、ベンツのマークをてっぺんにいただく、隣の超高層ビル、ヨーロッパセンターとの対照は、戦後ドイツ史を象徴しているかのようだった。日本では広島のドームこそ残されているが、東京のど真ん中に戦禍をとどめようという発想が日本にはなかったのだ。テーゲル空港からホテルまでのタクシーで、この残骸の塔を目にしたときは、ドキリとする異様な光景に思えたものだった。

 

博物館の中の「戦争」

 ベルリン滞在最後の半日は、フンボルト大学近辺にもう一度と出かけてみることになった。大聖堂を背にシュプレー川にかかるシュロス橋に立つと、河畔とオペラ座付近一帯は、大がかりな工事中で、クレーンが何基もたち、ブルドーザーが点在している。今日は午前中しか使えないので、ドイツ歴史博物館の企画写真展ヘンリー・ライズというジャーナリストの[BRENNPUNKT DIE BLOCKADE 1948/49 BERLIN]というベルリン封鎖期の写真展を見るつもりで入場した。チケットの代わりに、胸に小さな紫色のシールを貼るように言われ、中庭を横断して、まず常設展会場に入った。ドイツの歴史、とくに第1次大戦以降、ナチスの歴史が詳細で、克明なのにも驚いた。膨大な当時の文書・写真・絵画・ポスター・映像ほか、さまざまな「もの」によって、たどれるようになっていて、そのインパクトは大きい。もう少し丹念に見ていきたいのだが、時間があまりなく、焦るばかりだった。ノーフラッシュなら撮影も可ということだったので、連れ合いはデジカメに収めようと必死である。各地でのナチス勃興と猛威の経緯が明らかにされていく。なかでも、画家の抵抗を示したと思われる、1930年のドレスデンの労働者群像を描いた「インターナショナル」(Otto Griebel,18951972)、1943年のブランデンブルク門前の隻脚の傷痍軍人を描いた絵画が印象に残った。また、写真展も時間がなく、会場の新館をまるで走り抜けるようなありさまだった。現在は緑ゆたかな広大な公園、ティアガーデンのほぼ中央にある戦勝記念塔、その塔のわきを荷車を曳いている敗戦直後の市民、ベルリン封鎖期に救援食糧を届ける航空機を歓迎する市民の姿などをとらえた写真を忘れることができなかった。

 

 この稿はこれで終わるが、書いているさなかに、歌人正古誠子さんの個人誌『言葉』20号(20081017日)が届いた。そこには「紀行Ⅰ・ベルリンを歩く2006102日~1218日」が掲載されていた。3か月近くベルリンに滞在しての戦争の記憶をたどる記録であった。たんなる旅行者の目からのではなく「滞在」された強みと日常的な歴史認識の深さがいかんなく発揮されている紀行であった。連載とあるので、これからの楽しみとなった。

 

上:ベルリン中央駅 

中:ナチス収容所跡

下:ポツダム広場、ソニービル

 

2008_057berurin

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2008_160

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2008_022sonibiru_2 

| | コメント (0)

« 2008年10月 | トップページ | 2008年12月 »