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2008年11月 8日 (土)

竹山広短歌の核心とマス・メディアとの距離について(1)

 最近、「竹山広の作品から三首をあげよ」というアンケートに答えるため『竹山広全歌集』(二〇〇一年)ほか近著をあらためて通読することになった。(『短歌往来』二〇〇八年八月、参照)。二〇〇八年一月から連載の『ポトナム』の回転扉「一首鑑賞」においても、執筆者は対象の『射禱』のみならず全歌集を読み通し、渾身の鑑賞をされている。執筆者の多くが指摘するように、どの歌集においても見事に貫かれているのは、客観性と情緒の排除であった。その客観性に徹した姿勢をさらに色濃く反映している作品群があった。私は、メディア自体をうたった作品、メディアと作者自身との距離をうたった作品に着目した。戦時下の初期作品 その萌芽は、太平洋戦争下、作者が二〇歳を迎えた頃によんだ作品にも表れている。
①戦争の記事に満ちたる新聞を朝な朝な読む病忘れて (病む日々 昭和十六年九月) ②枕べに近くラジオを持ちきたり軍の動きを昼も夜も (病む日々 昭和十六年九月)
③映画館に昂ぶりしことも儚くてかぎろひの立つ街をきにけり (復職 昭和十七年四月)    いずれも、佐藤通雅の尽力で発表された「全歌集」未収録の初期作品からである(「竹山広初期作品」『路上』九二号二〇〇二年五月)。初出当時、政治権力が検閲統制のもと戦意高揚のために活用したマス・メディアの先端ともいえる新聞・ラジオ・映画との接触、受容がうたわれている。そこには、当時の国民にありがちな「戦勝に胸おどる」「なみだし流る」といったあらわな表現もなく、淡々とうたっているのが特色といえる。
④敵艦に身をうち当てて沈めきと立ち歩くまも身慄ひやまず(南方戦線)   
  「撃沈」の報道に接したときの想像力からきたす生理的な「身慄ひ」に近い、正直な反応が抑制された表現でなされた一首ではなかったか。私には、竹山作品は、パフォーマンスにも思える覚悟や述志に及ばないところが、特色である。三十五年後の第一歌集竹山の長崎での被爆体験は、後世、他人が踏み込める余地のないほどの壮絶さであったろう。十年の沈黙を破って一九五五年以降発表された。『とこしへの川』(一九八一年)という、遅れて編まれた第一歌集はじめ、以後の歌集にも繰り返しうたわれている。被爆以降、沈黙の十年間は何を意味していたのだろうか。
⑤なにものの重みつくばひし背にさへ塞がれし息必死に吸ひぬ
⑥血だるまとなりて縋りつく看護婦を引きずり走る暗き廊下を
⑦傷軽きを頼られてこころ慄ふのみ松山燃ゆ山里燃ゆ浦上天主堂燃ゆ
⑧水を乞ひてにじり寄りざまそのいのち尽きむとぞする闇の中の声
                                                       (以上「悶絶の街」)
⑨夢にさへわれは声あぐ水呼ばふかばねの群に追ひつめられて 
   『とこしへの川』巻頭「悶絶の街」五六首の冒頭には「昭和二十年八月九日、長崎市浦上第1病院に入院中、1400メートルを隔てた松山町上空にて原子爆弾炸裂す」とある。後続の作品は、一挙に一九五五年時の「入院」「療養日日」となり、当時の養鶏による苦しい生計、竹山の病状悪化、ストレプトマイシンによる奇跡的な回復、などの経過が作品としてもあらわれる。
⑩原子爆弾に生きて十四年よひよひの夢に声あぐることもなくなりぬ(「相向ふ死者」)
⑪敗戦ののち十六年立ち直り得たる者らを見むと来給ふ(「奉迎の位置」)
⑫乞ふ水を与へ得ざりしくやしさもああ遠し二十五年過ぎたり(「原爆忌」)                                                             (続)(『ポトナム』2008年11月号所収)

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