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2008年11月 8日 (土)

ドイツ気まま旅(4)ベルリン

雨のフランクフルト 

(連載中の紀行(1)~(3)とは前後することになったが)

フランクフルト空港は雨。乗り換えの長い通路の窓には雨滴が勢いよく流れている。私は、今回、はじめてのドイツ入り、ベルリンの地に立った。成田では小物入れのハサミが没収、フランクフルトでは成田で買った未開封の「空水」が没収され、数年前より審査は格段に厳しくなった感じがする。

ホテルはケンピンスキー系列のブリストルで、ツオー駅(動物園前)とサヴィニー広場の中間あたりに位置する。「クーダム」と略されるKurfurstendammの大通りからFasanen St.に曲がる角にある。地下鉄の駅も近いのだが、どうも現在は工事中のため閉鎖されているらしかった。その日の夕食の目当ての店も閉店中で戸惑ったのだが、結局サヴィニー広場近くの家族づれで賑わっている店(mar y sol)に飛び込んで、ほっとするのだった。まだ暮れることのない帰路はウインドーショッピングである。クーダムは西ベルリン一の繁華街だったという。もちろん現在でも、ブランド店が軒を連ね、歩道が広く、その中央には四角いショーウインドーが等間隔に並ぶ。ホテルの横の角はスタバで、私たちの部屋からもよく見える。そして階上のいくつかのフロアは、Ahavaというリビング用品、家具などを扱う店らしい。

 

壁とホローコースト記念碑

翌日は、地下鉄でポツダム広場に出ようとするが、工事のため不通個所があって、当初路線図がのみこめず、だいぶ苦労することになる。ポツダム広場のソニーセンターは、近辺の復興・再開発の象徴的な存在であったらしい。中央の吹き抜けの天井は透明な富士山のような形をしている。近くには東西を分けた壁がわずかに残されていて、壁をめぐる沿革や監視塔、東独から命がけで脱出する市民たちの写真などが掲示されていた。たった20年前のこと、日本でいえば昭和から平成に代わった頃まで存在していた壁なのだが、正直なところ、なかなか想像しがたいものだった。ソニーセンターの横の広い通りを北に向かえば、ブランデンブルク門に出るはずなのだが、右手には突如として灰色の四角い石柱で構成された、巨大迷路のような異様な光景が広がる。石柱の高さが異なるので、遠くからは「石の波」のように見える。これが、ベルリンのまさに一等地に建設されたホローコースト記念石碑「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」(約19,000㎡、20055月完成)なのだ。ドイツ政府の過去の戦争責任・歴史認識の証として、国家自身、国民自身、そして、訪れるすべての人々へのメッセージとして、じつにわかりやすい形なのではないだろうか。石柱群の間を縫う95㎝の通路、身の丈を超える石柱の間からそっと笑顔をのぞかせる幼い子供たち、真横の石碑の陰から突然現れる手をつないだ若者たち、寄り添いながらゆっくりと通り過ぎるお年寄りたち、だれもが不意に目の前に現れるのだが、なぜか交わす視線のやさしさが印象的だった。この石柱群の地下には情報センターがあり、犠牲者や収容所、ユダヤ人政策の沿革などを示す資料が公開されているというが、雨も降り出したことなのでブランデンブルク門へと急いだ。

 

行列のできる議事堂

「石の波」の左手の遠くに見える透明なドームが、新しい連邦議会議事堂らしい。ブランデンブルク門周辺は、ガイドの説明を聞いている団体ツアー客の輪がいくつも見渡せる。雨の降りが激しくなると、それが傘の輪になった。大道芸人のパフォーマンスに気を取られていると、中東の民族衣装の女性が物乞いに寄ってくるのも観光地の証だろうか。門の前の広場を過ぎて、議事堂の方に渡ろうとする角の木陰には、いくつもの十字架が立っていた。その一つ一つに、19618月、東西ベルリンを分けた壁の出現以降、西への脱出を図って犠牲となった人々の名前、生没年、簡単な生い立ちと肖像写真が掲げられていた。多くの若者たちの理不尽な死を悼む気持ちが滲みでている墓名碑である。

あたらしい連邦議会の議事堂見学ができればと人の流れに沿って進むと、大きな芝生の広場に出た。議事堂正面の階段には行列が出来ていて、列は直角に曲がって広場を横切る形で数十メートル続く。小雨にはなったが開いた傘も並ぶ。この開放的な議事堂前の広場の真ん中に立って、日本の国会議事堂を思うのだった。がんじがらめに塀がめぐらされ、門や出入り口には衛視が立ち、周辺の道路には装甲車が停まっている。1960615日国会構内に突入したデモ隊の一人樺美智子さんが南通用門で圧死した事件以降、南通用門は開かずの扉となっている、この違いは何なのだろう。並んでの見学はあきらめ、娘から頼まれている土産は早く入手しておこうとハッケンンシャーの店へ行くことにした。留守宅の犬の世話などで、週末には帰省してもらっている娘の注文の品、ビルケンシュトックのスニーカー。ウィーンマイスター通りにようやく見つけた店は意外に構えが小さかった。スニーカーのダーリントンをまずカタログで見つけ、サイズと色を確認(99ユーロ)。ひとまず安心はしたものの、そのあと、大きなビニールの袋を提げて歩く羽目となった。レトロっぽいテレビ塔を目当てにアレキサンダー広場に戻って、昼食に予定していた店を探すが、またもや発見できず、結局マリエン教会の尖塔と朱色の大屋根を望む店でピザの昼食となった。一帯は、レストランやファッションの店などがひしめき、大きな袋を持ったインターナショナルな買い物客の往来が激しい。

 

シナゴーグからユダヤ人収容所跡へ

スケッチブックを広げるいとまがないまま、午後からはウンター・デン・リンデンを博物館島へと歩き始める。左手にマリエン教会を間近に見上げ、広場を隔て「赤い市庁舎」を遠望する。右手の威容を誇る青いドームの大聖堂を一回りして、小さな橋を渡る。この辺りの博物館は修復中で埃っぽい。島の突端にあたるボーデ博物館の鉛色のドームにも惹かれるが、ベルリンのシナゴーグにもと足を伸ばす。ここでも警備は厳しいが、入口には、1938119日、ナチスにより多くのユダヤ人が虐殺された事件が記されたプレートがあり、クリスタル・ナハト(水晶の夜)と呼ばれていることも初めて知った。この辺りは先の大戦前まではユダヤ人街であったといい、北に入ったところにあった老人ホームは、大戦中アウシュビッツやテレージェンの強制収容所に送られる前のユダヤ人の一時的収容所となっていた。その跡地には、現在、やせ細った幼子も混じった老若男女10人ほどの黒い群像が立てられ、犠牲者を追悼する碑がある。また、付近は、数百年にわたって守られていたユダヤ人墓地(約12,000基)が、1943年ナチスによって破壊された跡地でもある。1778年作曲家メンデルスゾーンの父であるモーゼス・メンデルスゾーンが創設したユダヤ人学校も近くにあったそうだが、現在は、創設者の記念碑がひっそりと建つのみで、訪れる人と出会うこともなかった。

 

戦禍の記憶

再び大聖堂に戻って、夕刻6時のミサの鐘の音が響きわたるなか、ミュージアム・カフェで一服、本日これまでの万歩計の歩数は、3万を超えた。ホテルに戻り、KaDeWeに出直すことにしていた。ホテルのドアマンからは近いといわれ、歩きはじめたが、はじめての道は遠くに感じられる。ようやくたどり着いた入口には各国語のフロアガイドが置かれていた。ここでは、いわゆるデパ地下にあたるのが6階で、ワイン、チョコレート、ハム・ソーセージ類など、どれをとっても、売り場の眺めは壮観であった。ワインを船便で送ってもらおうと、5階のサービスカウンターに寄るが、閉店の8時まで30分以上もあるというのに、受け付けてもらえなかった。ワインの専門店でも知っているとよかったのだが、後日、もう一度出直すことになった。5階には、書店、土産物コーナーもあって、クマの縫いぐるみも欲しかったのだが、そこそこの値札を見て、あきらめもした。 

翌々日、ポツダムまで出かけた日の夕方、再訪のKaDeWeでワインの発送を済ませ、最上階のセルフサービスのレストランで夕食をとった。すでにこの「気まま旅」の(1)でも触れたが、料理は多国籍で、好きな量を皿にとり、レジで精算、ドリンクもコップの大きさを選ぶ仕組みとなっていた。値段はそれほど安いとも思えなかったが、旅行者には手軽でありがたい。外へ出てもまだまだ明るく、近くのヨーロッパセンターやカイザー・ヴィルヘルム記念教会近辺は、賑わいを見せていた。この教会は19世紀末に建てられたが、先の大戦で焼け残った塔だけがそのまま記念碑として保存されているので、ベンツのマークをてっぺんにいただく、隣の超高層ビル、ヨーロッパセンターとの対照は、戦後ドイツ史を象徴しているかのようだった。日本では広島のドームこそ残されているが、東京のど真ん中に戦禍をとどめようという発想が日本にはなかったのだ。テーゲル空港からホテルまでのタクシーで、この残骸の塔を目にしたときは、ドキリとする異様な光景に思えたものだった。

 

博物館の中の「戦争」

 ベルリン滞在最後の半日は、フンボルト大学近辺にもう一度と出かけてみることになった。大聖堂を背にシュプレー川にかかるシュロス橋に立つと、河畔とオペラ座付近一帯は、大がかりな工事中で、クレーンが何基もたち、ブルドーザーが点在している。今日は午前中しか使えないので、ドイツ歴史博物館の企画写真展ヘンリー・ライズというジャーナリストの[BRENNPUNKT DIE BLOCKADE 1948/49 BERLIN]というベルリン封鎖期の写真展を見るつもりで入場した。チケットの代わりに、胸に小さな紫色のシールを貼るように言われ、中庭を横断して、まず常設展会場に入った。ドイツの歴史、とくに第1次大戦以降、ナチスの歴史が詳細で、克明なのにも驚いた。膨大な当時の文書・写真・絵画・ポスター・映像ほか、さまざまな「もの」によって、たどれるようになっていて、そのインパクトは大きい。もう少し丹念に見ていきたいのだが、時間があまりなく、焦るばかりだった。ノーフラッシュなら撮影も可ということだったので、連れ合いはデジカメに収めようと必死である。各地でのナチス勃興と猛威の経緯が明らかにされていく。なかでも、画家の抵抗を示したと思われる、1930年のドレスデンの労働者群像を描いた「インターナショナル」(Otto Griebel,18951972)、1943年のブランデンブルク門前の隻脚の傷痍軍人を描いた絵画が印象に残った。また、写真展も時間がなく、会場の新館をまるで走り抜けるようなありさまだった。現在は緑ゆたかな広大な公園、ティアガーデンのほぼ中央にある戦勝記念塔、その塔のわきを荷車を曳いている敗戦直後の市民、ベルリン封鎖期に救援食糧を届ける航空機を歓迎する市民の姿などをとらえた写真を忘れることができなかった。

 

 この稿はこれで終わるが、書いているさなかに、歌人正古誠子さんの個人誌『言葉』20号(20081017日)が届いた。そこには「紀行Ⅰ・ベルリンを歩く2006102日~1218日」が掲載されていた。3か月近くベルリンに滞在しての戦争の記憶をたどる記録であった。たんなる旅行者の目からのではなく「滞在」された強みと日常的な歴史認識の深さがいかんなく発揮されている紀行であった。連載とあるので、これからの楽しみとなった。

 

上:ベルリン中央駅 

中:ナチス収容所跡

下:ポツダム広場、ソニービル

 

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