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2008年11月28日 (金)

竹山広短歌の核心とマス・メディアとの距離について(2)

   

                

沈黙の十年間

 竹山短歌を語るとき、被爆直後から一九五五年までの十年間の沈黙に言及されることが多いが、自筆の年譜「一九五五年(三十五歳)」の欄には次のような記述が見える。

「三月、多量の喀血をして町内の病院に入院。重篤であったが、ストマイなどの新薬で一命をとりとめる。五月、栗原潔子の「短歌風光」に入会、戦後中断していた作歌を再開し、夢に脅かされて作り得なかった原爆詠を始めて作る」

 竹山は、一九四五年八月九日、浦上第一病院で被爆後、帰郷、療養の歌を作り、原爆の歌も作り始めた。後、三枝昂之のインタビューにおいて次のように述べている。原爆の歌は、総体的なものとなりがちで、自分自身物足りなく「自分が作りたいのはそういう歌ではない。一人一人の死者がありありとしているわけですから、それをうたおうと思ったのです。ところがそれをうたいだしたら、その夢を見るんです」と(「竹山広」『歌人の原風景』)。そして、うたに作ろうとするシーンを夢に見るようになり、恐ろしくなって原爆は歌わなくなったという。同時にほかの歌も歌う気力がなくなった、と語っている。それが、一九五五年、結核の奇跡的な回復を機に、『短歌風光』に入会、「目にありありとしているシーンの一つ一つを拾いあげるような感じで詠んだのですが、夢を見なくなったのです」という経緯を経て、前述の「悶絶の街」一連の原爆詠が発表されたことになる。この間の状況を、佐藤通雅はつぎのように分析する。「長い間、被爆体験を歌いえなかったのは、既成の言葉では原言語の坩堝に触れることすらできないと、直感したからにほかならない。無理にも言葉化すれば、既成のコードに腑分けされ、自分でない自分へと解体されてしまう」と。さらに、この人類未曾有の体験を何とか語らなければという思いから、体得してきたのが「徹底して個に立ち、徹底して見る」という歌い方であったとする(「竹山広『空の空』論」『路上』一〇九号 二〇〇七年一二月)。

 歌えなかった十年間の前半、一九四五年九月~一九四九年一〇月、日本は米軍の占領下にあり、GHQによるきびしい事前・事後検閲という言論統制を受けていたことは、現在こそ、よく知られるところとなった。竹山自身の沈黙に、こうした統制が影響していたのかどうかについては、先の三枝のインタビューにおいて「広島と長崎に関する占領軍の情報統制はとくに厳しかったと読んだことがあります。そのことについて竹山さんの記憶に残っていることがありますか」の質問に「私はまったくないですね。私はその後、ずっと田舎に引っ込んでいましたから。新聞はとっていたような気がしますが、広島と長崎に関してそういう統制があったということだけは知っていましたけれど、べつにそれについてどうこうというのは直接関係がないものですから・・・」と答えている。

その統制の実態は、プランゲ文庫コレクション「占領期新聞・雑誌記事情データベース」にもあらわれている。検閲対象の記録として残されているのは一万タイトルを超える雑誌(小冊子も含む)、二百万件に及ぶ記事である。二百万件うちの約一・二パーセントの二三七〇〇余件が検閲により何らかの変更が迫られている。長崎を発行地とする雑誌の記事一五五〇〇件中一〇〇余件が検閲で公表禁止、一部削除、保留などの処分がなされている。思ったより少ないように思われたが、実は、この数字の背後には「表現の自由」への抑止力が機能して、夥しい自主規制がなされていたと見るのが正確であろう。    (続)(『ポトナム』200812月)

                                                                                                                              

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