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2008年12月28日 (日)

「新人画会展~戦時下の画家たち」(板橋区立美術館)

久しぶりに池袋の実家に立ち寄るのに、仏壇に花でも供えてもらおうと西口地下通路の花屋に入った。店の前で待っていた夫が、12月いっぱいで閉店だってと張り紙を指す。ああここもなんだと、近頃、池袋に来るたびに、そんなニュースが絶えない。

まだ長兄が元気なころ、「クスリの方は閉めることにしたよ、売り上げは減るし、体もきつい」といって、薬局を閉めたのが10年近く前だった。タバコだけはと、店を縮小、自販機を増やして、続けていた。父が今の平和通りに薬局を開いたのが大正末期、兄が生まれる前だった。空襲で家を焼かれた時も、敗戦の翌年にはバラックで商売を始めた。敗戦の年に薬専を卒業した兄と父母が店を支えた。父母はとうの昔に、兄も2005年の夏に他界した。兄の晩年、板橋の病院に見舞いに通っていたころ、芳林堂書店が閉店し(20033月)、東口(確か西口にも)にあった談話室・滝沢が閉店した(20053月)。さかのぼれば、結構親しんでいたセゾン美術館が1999年に、東武美術館が2001年に閉館している。

実家に着くと、義姉もタバコのお客で忙しそうで、私たちも仏壇にお線香をあげるのもそこそこに、急いで引き返し東武東上線に飛び乗った。成増で下車、タクシーで5分ほどで着いた板橋区立美術館は雑木林に囲まれ、駅前のにぎやかさからは想像もできなかったたたずまいであった。

「新人画会展~戦時下の画家たち―絵があるから生きている」は、先の「レオナール・フジタ展」の仕掛けとは違う、地味ながら考えさせられる展覧会だった。ここでも、戦争と美術、表現の自由が浮き彫りにされる。「新人画会」は、太平洋戦争下の1943年、いずれも30代の靉光、寺田政明、麻生三郎、松本竣介、鶴岡政男、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎の8人の画家が、描きたいものを描くために相寄り、結成された、という。「大東亜戦争」「陸軍」「国民総力決戦」などを冠する美術展が開かれるなか、1944年にかけて、すでに空襲も始まっていた東京で3回の「新人画会展」を開催したが、画材不足・画廊閉鎖とともにメンバーが入隊・徴用・従軍・疎開などで散らばり、敗戦を迎える。今回の展示は戦時下の作品のみならず、各メンバーの画学生時代の作品から早逝の靉光、松本を除いては、戦後の長い画業をもたどるものであった。とくに194344年という短期間に開いた3回の「新人画展」を再現しようと、資料や証言によって作品の特定や収集に努めたという。当時のカタログなどが不明だったり、作品自体の焼失、散逸などが重なったりの困難のなか21点が集められ、合わせて84点が展示されている。

松本竣介(19121948)の「新人画会展」出品作である、街路樹の坂道を石塀沿いに登っていく男の後姿を描く「並木道」(1943年頃)、工場街の運河にかかる橋を描いた「Y市の橋」(1943年)など、鈍く暗い色調が特色と思っていたが、194028歳の「黒い花」「街にて」では、青を基調に、都会のビルなどを線画で配し、街ゆく人々が自在に描かれており、亡くなる1948年の「彫刻と女」では、うすぎぬをまとう横向きの女性が描かれているのを見て、その若々しいタッチと色調に何かほっとした気分になるのだった。

寺田政明(19121989)は、私には、俳優寺田農や寺田史兄妹の父親という情報の方が先ではあったが、戦時下の抽象画、暗い静物画から戦後の自画像までの流れが少しわかってきた。彼の息の長い、積極的な制作活動と画壇でのリーダー的存在は、明るい人柄に支えられていたらしいこともわかる。ちなみに、今回の展覧会の副題「絵があるから生きている」は、戦後、当時を振り返って語った寺田の言葉だったという。

最も年長の井上長三郎(19061995)が、新人画会結成の声を上げたらしい。フランス帰りの井上は、シュールレアリズムの洗礼を受けたはずである。第1回展(19434月)出品の「スエズ」「トリオ」は不思議に引き込まれる絵だ。前者は砂漠と運河を前に休息をとる男たちの群像を後ろから描き、後者は、岩山の迫った草も生えない平地に、コントラバス、バイオリン、ピアノを奏する3人をバラバラに配し、また離れた所に23人聴衆が立っているという、赤茶けた灰色の世界に、人間はかすかな青い光りをまとっているという、確かに暗示的な絵ではある。そして、同じ雰囲気を持つ「漂流」は、雲に覆われた暗い海の小舟に67人が膝を抱えているという群像であるが、「国民総力決選美術展」(19439月)に出品されるやただちに「厭戦的」ということで会場から撤去されることになったという。井上は、敗戦後、すぐにも「東京裁判」(1948年)を、さらに1960年代には「復古調」(1966年)、「白い椅子」(1969年)など、社会的なテーマをシニカルに描いた画家だった。

糸園和三郎(19112001)の「犬のいる風景」(1941年)の幻想的な静寂さは、別世界に引き込まれるようであった。第1回展に出品の「夜の公園」は現存していないが、当時制作された1枚の「絵ハガキ」だけが見つかったといい、テーマも雰囲気も同様のものであった。戦後間もない作品「老夫」(1946年)「風船と少女」(1949年)や力強い人物像にも思える「鳥をとらえる女」(1953年)「像」「架」(1955年)への変容には興味深いものがあった。

鶴岡政男(19071979)は、戦前から前衛的な絵画を牽引し、戦後は油彩のみならず、パステル画、デッサン、彫刻と精力的な活動してきたが、今回は、敗戦直後の、よく知られた作品「重い手」を見ることができたのは収穫であった。

靉光(19071946)は、夭折の孤高の画家としてつとに有名であるが、目を凝らし遠くを見つめる「白衣の自画像」(1944年)はコピーでしかなかったが、「梢のある自画像」(1943年)という作品に出会った。これらの自画像の直前の作品である雉や魚の頭を描いたものは中世の鳥獣の精密画を連想するが、同時期の「ダリア」「グラジオラス」など花の連作もあり、多様な関心は、戦後どのような活動になったか見極められなかったのは残念なことだった。2007年、生誕100年の回顧展が開催されたのを見逃してしまっていたので、わずかながらまとめて見ることができたのは運がよかった。 

メンバーたちは、基礎を学んだのが、川端画学校(糸園、大野、靉光)、太平洋画会研究所(靉光、麻生、井上、鶴岡、寺田、松本)であり、独立美術協会(展)に参加、のち美術文化協会の結成などにかかわり、交友を深めていった仲間だった。何人かは、長崎、板橋など「池袋モンパルナス」周辺に暮らしていたという共通体験がある。それに、その画風や生き方に個性が光るのは、あの時代、自分たちが「新人画会」に寄ったことを淡々と客観的に語れる自負があったからではないかと思う。自らを過大に評価するでもなく、隠ぺいもせず、言い訳もしない、少しでも「自由に」描くことを喜びとした表現者であったことに尽きるのではないか。逸見猶吉を兄に持ち、詩人たちとの交流も深かった大野五郎(19102006)は、当時のことを「暗い谷間に小さく細くなったローソクを消さないために、ただ黙って静かに語り合ったのだ。そしてみんなそれぞれの暗いアトリエで、あたえられた道を画家としての誇りを少しでも持続させようとしたのだ」と語っているという(「新人画会のころ」『三彩』19631月、原田光「失われたものを思う」カタログ119頁)。

「活字として残す」ことは、どんな戦禍に遭おうとも、どこかで残る可能性を持つが、「画布を残す」ことの物理的な難しさが、戦争という愚行でいっそう浮き彫りになったことも銘記すべきだろう。この時期の作品は、東京のアトリエで空襲などに遭い焼出している。夫、麻生三郎(19132000)の作品3点の画布を巻き、幼子をおぶって、疎開先からさらに疎開先に移動したという、麻生美智子さんの言葉が重い。麻生には人物画が多いが、夫人みずからがモデルとなっている第2回展出品の「うつぶせ」(1943年)の画布にいまだ残る折れ目は、その時のものだという(弘中智子「麻生美智子さんに聞く『新人画会の時代』」カタログ117頁)

会場を出ると、辺りはすでに暮れていて、美術館は、木立のシルエットに包まれていた。

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2008年12月23日 (火)

初めての国際こども図書館~「童画の世界」へ

                                       

 師走に入って間もなく、上野に出たついでに「国際こども図書館」にはじめて入った。展示中の「童画の世界~絵雑誌とその画家たち」が充実していたし、楽しかった。国立国会図書館に在職中、支部図書館時代に来たことがあるはずなのに記憶が定かではない。樋口一葉も、斎藤茂吉も利用したという帝国図書館(1906年創建)の面影がまだ残る雰囲気であったことが思い出される。「国際こども図書館」としてスタートしたのは2000年だったという。建物の内外の印象はだいぶ違っていて、どの階もとても明るく、展示会場の3階「本のミュージアム」の中央に据えられた二つの円形の木製展示棚も新鮮であった。

 博文館の「幼年雑誌」(1891年、明治24年創刊)、「少年世界」(1895年創刊)など明治後半の読み物中心で、絵は添え物、挿絵であった時代から、大正時代に入るとさまざまな「絵」にも重点が置かれた児童向け雑誌が競い合う。大正デモクラシー、自由教育の運動の一つの表れでもあったのだろう。展示の大半は、「草創期」から太平洋戦争下で廃刊を余儀なくされる「衰退期」への流れの中で「子供之友」(19141943年 婦人之友社)「コドモノクニ」(19221944年 東京社)、「コドモアサヒ」(1923年創刊 朝日新聞社)「キンダーブック」(1927年創刊 フレーベル館)という時代を画したタイトルごとのコーナーであった。初山滋、武井武雄、松本かつぢなどの絵は、私自身の敗戦直後の貧しい読書体験の中でも、リアルタイムで接していたような記憶があり、懐かしいものだった。ちなみに、私の雑誌初体験は、いまから思えば、1949年「少女」(光文社)創刊の頃で、すでに「少女クラブ」(1946年「少女倶楽部」改称、講談社)があり、2誌ともご近所のお姉さんたちから毎月借りていて、私はその代わりに小学館の学年別雑誌を回していたと思う。蔦谷きいちのぬり絵に親しんでいた私には、蕗谷虹児、中原淳一らの絵がとても新鮮で、おしゃれに思えた時代である。マンガでいえば「あんみつ姫」と「サザエさん」の時代でもあった。

 また、主要な画家には、各人の展示コーナーがあり、私が初めて知る画家もいて、新しい発見があった。深沢省三・深沢紅子は夫妻だったのか。村山知義はプロレタリ演劇運動のリーダーという認識だったが、大正時代より新興美術運動の旗手として童画には生涯かかわったという。そして、末尾に掲げた、今回の展示会の撮影スポットとして拡大された絵が、彼の「せいの順」(「子供之友」19261月号)であった。アイデア、デザイン、色彩的にもすぐれた現代的なメッセージだと私には思えた。彼の妻、村山●子が文を書いた合作を多く発表していることも初めて知った。

 なお、日本画家、洋画家が描いた「童画」を紹介するコーナーもあって、恩地考四郎、古賀春江とともに東山新吉(東山魁夷)の「花の下」「オベントウ」(いずれも「コドモノクニ」1931年)が展示されていて、のどかな気分にもなった。

 少し遅い昼食だったが、1階のカフェでクラブサンドイッチを食しながら、大正末期の数年間を小学校教師として過ごした母がこんな展示を見たら喜んだろうな、と思わずにはいられなかった。母を亡くして半世紀も経とうというのに。亡父からは、小学校の校庭での体操の時間、「ギンギンギラギラ~」と「夕日」を歌いながら子どもの輪の中で遊戯をする母を、垣根越しに見たのが「見合い」だったとよく聞かされていたのだ。

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2008年12月15日 (月)

エセル・スマイスは何と闘ったのか

エセル・スマイスの名を初めて知った 

 

 去る1211日(木)、千駄が谷の津田ホールでの「エセル・スマイスの室内楽」に出かけた。エセル・スマイスEthel Smyth18581944)は、私には初めて聞く女性作曲家の名前であった。コンサートには「闘う作曲家にしてフェミニスト、その生誕150年を記念して」という副題がつき、「津田塾大学創立110年記念」という冠もついている。

このコンサートを企画したのは、つい先日126日「開かれたNHK経営委員会をめざして」のシンポジウムの折のパネリストの一人、小林緑さんだった。このブログのシンポジウム報告にもあるように、小林さんは、ヨーロッパ音楽史を専攻する研究者で、近年は、「ジェンダーと音楽」の講座を持ち、従来の音楽史では評価されてこなかった女性作曲家の発掘や紹介を続けている。26年間、NHKの経営委員として視聴者のスタンスからきちんと発言をしてこられた方でもある。

 コンサート当日は、開演に先立ってスマイスについて、小林さんの講演があった。スマイスのさまざまな肖像写真・楽譜などの映像や彼女自身の指揮による自作のオペラの視聴をしながら、その生涯が語られた。

スマイスはなにと闘ったのか

イギリスの中流階級の家庭に生まれたスマイスは、10代ではライプツィヒ留学を果たすため親と闘い、30代から40代にかけては自作の演奏の機会を求めて闘い、50代では女性参政権獲得のために闘い、議会への投石により投獄され、晩年は自らの聾と闘ったという行動的な作曲家だった。ドイツでは、オーストリアの作曲家ハインリッヒ・ヘルツォンベルグに師事、チャイコフスキー、クララ・シューマン、ブラームス、ドヴォルザーク、グリーグらと親交を結んでいる。当初はピアノ曲が多く、デビューは1890年管弦楽作品「セレナーデ二長調」であったが、チャイコフスキーの勧めもあって、女性作曲家としては珍しいオペラを手掛け、親しいアメリカ人作家ヘンリー・ブルースターの台本を得たりして「難船略奪者」などの作品を残している。自作の売り込みや上演にあたっては自己主張が強かったという。1910年、スマイスは、イギリスにおいて、パンクハースト(18581928)が率いる女性社会政治同盟が参政権獲得運動を展開していた。目的のためにはデモもハンストも辞さないリーダーの行動力に魅せられ、同盟歌「女たちのマーチ」を作曲、活動にのめりこみ、55歳にして逮捕・投獄されることにもなる。19105月にはロンドンで1万人規模のデモがなされている。これらの活動に並行して、スマイスは、女性音楽協会において、女性作曲家の上演推進などにも以降尽力する。

日本では、明治末期、1910年の大逆事件で管野スガが投獄され、翌年死刑が執行されている。19119月には平塚らいてう等が「青鞜」を創刊している時代でもあった。

生涯独身を通し、愛犬をパートナーに、スーツにネクタイ姿、ゴルフ・乗馬・登山が趣味だったというスマイスの写真を何枚か見ていると、日本でいえば、市川房枝を彷彿とさせるのだが。

勇壮で力強く、ときには優しくこまやかに 

 

この日の曲目と演奏者は、甲斐摩耶さんの「ヴァイオリン・ソナタ イ短調 作品7」、加藤洋之さんの「ピアノ・ソナタ第2番 嬰ハ短調」、ヴァイオリンと阿部麿さんのホルンとの「二重協奏曲」などであった。もちろん初めて聞く曲ばかりであったが、「女性らしい」という意識も感覚も生じなかった。女性作曲家といえば「乙女の祈り」のバタジェフスカくらいしか知らなかったので、また一つ異なる世界に招き入れられた感じがしている。コンサートには珍しく、司会の小林さんは演奏者の生の声もとマイクを向けると、誰もが作曲者が女性という意識はなかったと語っていたのが印象的であった。

小林緑さんは、当日のプログラムに、スマイスの生き方は「現実社会への意識が希薄なクラシック音楽界に強烈な印象を与えずにはおきません。私にはあらゆる面で危機的状況が進む今の世で、最後まで一徹に闘い信念を貫いたこの女性の存在がいかにも貴く眩いものに感じられます」(「今こそ聴きたい、広めたい、エセル・スマイス」)と記していた。

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2008年12月13日 (土)

上野の森美術館「レオナール・フジタ展」~<欠落年表>の不思議

師走とは思えない

朝の太極拳の折、六段錦で天を突くときに見上げた空には、いわし雲が広がり、師走とは思えない暖かさだった。一人思い立って上野に出かけることにした。

閉幕が近いフェルメール展は40分待ちの行列とのこと、上野駅のチケット売り場の人が繰り返していた。予想はしていたので、今日は、数年前に見逃してしまった藤田嗣治展、最近発見・修復まもない大作があるということで、上野の森美術館での「没後40年 レオナール・フジタ展」(産経新聞社・フジテレビ共催 20081115日~2009118日 230点)に寄ってみることにした。今回の呼び物は、1992年にパリ郊外の倉庫で発見された1928年制作のライオン、犬と人間群像の「構図」、「闘争」と名付けられた3m×6mの4点の連作は修復後の初公開であるという。不確かな予備知識は若干あるものの、ともかく白紙に近い入館である。

年表の空白

展示は、第1章スタイルの確立―「素晴らしき乳白色の地」の誕生、第2章群像への挑戦―幻の大作とその周辺、第3章ラ・メゾン­=アトリエ・フジタ―エソンヌでの晩年、第4章シャぺル・フジタ―キリスト教への改宗と宗教画、とに分かれる。会場に掲げられたパネルの年表によれば、第1章は、1886年生まれの藤田が1913年渡仏以降まったく売れない時代から自らの手法を確立する1920年代までが対象である。深い交遊のあったモジリアニによるデッサン「フジタの肖像」(1917年)も出品されていた。1917年作の若いカップルと乳児を描いた「家族」は、色使いもあわせて、モジリアニの人物画を思わせる。閑散としたパリの風景、細く縁取りされた乳白色の裸婦像が多い。第2章は、第1次大戦後のパリ画壇での成功、私生活での華やかさも加わって、前掲大作制作後の192917年ぶりに日本に帰国、東京と大阪での展覧会開催に至るまでの作品が主である。第3章は、晩年を過ごしたエソンヌのアトリエの品々が展示されている。第4章では、まさに最晩年、195973歳でカトリックの洗礼を受け、手掛けたランスの平和の聖母礼拝堂のフレスコ壁画の部分的な習作が多数展示されていた。

今回の展示で見る限りでも、「乳白色の裸婦」から、タッチの荒々しくも精緻な男たちの肉体や動物たちの生き生きした表情が顕著な群像大作への変化、さらに晩年の宗教画への変容は、私には理解しがたい面があると同時に、豊かな可能性をも知らされたような気がする。同時に、展示の区切りに配される年表のパネルから垣間見る画家の残した足跡や行動、なかでも交友関係、モデルとの関係、女性関係は、正直なところ、いささか奇異に感じられないこともない。その年表で、私が最も知りたいと思っていた、藤田が2度目の帰国1932年から、敗戦後日本を離れる1949年までの動静だった。今回の展示構成からいえば、いわゆる「戦争画」がないのは予想されたが、年表のパネルは「18861922」「19231931」「19551968」の3枚しか見つからず、なぜか「19321954」の部分が会場にはない。当初見落としたかと思って何度か引き返すが見当たらない。会場の係員に尋ねたところ、どこかに問い合わせた後、「今回の展示は、藤田の初期と晩年に焦点を当てたので、その部分の年表は作成していない」との説明があった。普通、画家の年譜や関係年表は、会場の入り口か出口付近に掲げられていることが多い。1枚の年表で、画家の生涯を知ったり、確かめたりできることは、素人の私には鑑賞の手立てにもなっていて、しばし眺めることも多い。年表を分けて展示するのも一つの方法だと思うが、まったくある時代を省略してしまうというのは、どういうことだろうと不思議に思った。しかも、日本とのかかわりが深い時代、十五年戦争期の藤田の足跡が、この展示会ではまったく見えないことになる。たしかに、この時期の藤田嗣治を語るとき、ついて回ってくる「戦争画」については、その公開や芸術性をめぐってさまざまな見解があるのは読んだことがある。そのことが今回の年表の欠落と関係があるのだろうか。1955年にはフランス国籍を取得、1936年来一緒に暮らしていたという君代夫人と正式に結婚、1941年以来の帝国芸術院会員を辞任して日本国籍を抹消している。

戦争画の時代

日本に帰国していた時代は、外務省に協力して国策映画を手がけたり、軍部に協力して戦争画を描き、戦後はGHQの依頼により戦争画の収集に協力したりした時代であった。

 藤田自身の手記によれば「この恐ろしい危機に接して、わが国のため、祖国のため子孫のために戦わぬ者があろうか。一兵卒と同じ気概で外の形で戦うべきでなかったのか。平和になってから自分の仕事をすればいい。戦争になったこの際は自己の職業をよりよく戦争のために努力して然るべきものだと思った」(近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社文庫 2006年 323頁)とあり、戦争画も自らの芸術と固く信じていたことは明らかなようだ(前掲書322頁)。そして、遺族の君代夫人も、その考え方を継承しているというのであれば、「19321954」の痕跡を消そうとする必要は少しもないはずではないか。主催者の意向がそうさせたのであろうか。私にはどうも納得できないところであった。

美術館を出たところに古い碑があり、よく見ると「明治天皇日本美術協会行幸所阯 昭和18年建立」とある。「日本美術協会」って?と、帰宅後調べてみると、前身の龍池会の発足は1879年(明治12)といい、総裁は皇族が務め、1943年に休眠状態になったとある。現在は財団法人日本美術協会上野の森美術館となり、フジサンケイグループにより運営されているというから、展覧会もそのポリシーが反映するのだろうか。

東京文化会館の裏に回ってみると

摺鉢山古墳の案内板がある階段を上って、見降ろすとなんと紅葉や銀杏の黄葉の枝が重なる先に「正岡子規野球場」のアーチが見えるではないか。そういえば、この辺は歩いたことがなかった。野球場の際に人だかりがしているので近づいてみると、そこにはまだ新しい「春風やまりを投げたき草の原」の句碑が建っていた(2006年)。松山から上京した子規は勉強の傍ら上野公園で野球を楽しみ、本名の「のぼる」とかけてベースボールを「野ボール」と称したという。案内板には「正岡子規記念球場」の愛称の謂れと子規のユニホーム姿の写真が焼き付けられている。ガイドの説明を受けていたグループは、「東京私学退職者の会」の赤い幟を先頭に離れていった。次はどこへと行くのだろう。思わずついていきたくなったのだが。

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2008年12月 7日 (日)

展示会の様子です

展示会の様子です。

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「短歌ハーモニー」、千葉市女性センターまつりに参加しました

 短歌の勉強会「短歌ハーモニー」は、今年も「千葉市女性センターまつり」(126日・7日 千葉市ハーモニープラザ)に参加、1階の展示室に会員の作品が展示されました。「短歌ハーモニー」は、2002年、千葉市女性センターの入門講座「短歌に挑戦」(講師内野光子)の参加者有志が立ち上げたサークルです。月1回(第3木曜日)ハーモニープラザで歌会や近現代歌人作品の鑑賞を続けています。ときには、会場を飛び出し、吟行や青葉の森公園の散策、美術鑑賞、食事会などを楽しんでいます。2006年には合同歌集『青葉の森』(87頁)を刊行しました。

日頃の歌会のお世話や今回の展示なども、すべて会員の方々の連携のお陰です。私も昨日6日、展示を見てきました。思い思いの色紙や短冊に書いた自作をカラーの壁紙に貼ると、いつものプリントとは異なる、華やかな雰囲気のなかで、個性が光るようです。作品は次の通りです。

昨日、展示室の前で、女性センター名誉館長の加賀美幸子さんとお遭いしました。現役の館長時代に、私を入門講座講師として紹介くださったとのこと、担当者から聞いていましたので、初対面の挨拶をし、展示を見てくださるようお伝えしました。

短歌ハーモニー 展示作品(20081267日 千葉市ハーモニープラザ)           

大堀静江

玄冬のするどき月に真向いてえのきの大樹は魔王のごとし     

 老いがまだ少し遠くに思える日空に一すじ夕茜雲

小山博代

串木野の広きたんぼを野焼きする赤く燃える火夕日の中に     

 庭に咲く梔子の花に風あそびわが窓ごしにかおりを運ぶ

加藤海ミヨ子

素晴しき紅葉に逢いてゴンドラの怖さ忘れる空中散歩     

 なつかしき友の声聞く心地良さ活力のもと食したごとく   

さくらしゅうし

天空に雲海見むと霧深きテラスに着きぬえぞ蕗かほる    

 幾千万逝きし兵らの哀しみの声湧きあがる八月の海

中川とも子   

樹々香りたわわに赤きりんごの実信濃路楽しわが秋の旅     

 比叡山光を放つ紅葉を真青き空もみおろしていん

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藤村栄美子   

蝉の翅足もぎ取りて初物の味とばかりにぱくっとお口に     

 道路にて顔ゆがめつゝはいはいし満足そうに両手を洗う

前田絹子      

完熟の梅を砂糖で煮つめおり風邪の子に鍋のぞかせるため     

 うとみ来し煮炊きに心足らいたり厨に柚子の香り満つれば

美多賀鼻千世 

こうのとり飛び立つ郷の川端に蛍ふたたび闇夜に光る     

 ぼんぼりに紅くてらされ座る雛細き眼をして再会よろこぶ

内野光子

方形の漆黒のやみは積みあげられて夜ごとマンションはそらを狭める

 噴水はふいっと止まりて平らなる水面に夕日のさしとどきたり

クレーンの腕はひたすら空にのび築かるる病棟谷津田にせまる

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