上野の森美術館「レオナール・フジタ展」~<欠落年表>の不思議
師走とは思えない
朝の太極拳の折、六段錦で天を突くときに見上げた空には、いわし雲が広がり、師走とは思えない暖かさだった。一人思い立って上野に出かけることにした。
閉幕が近いフェルメール展は40分待ちの行列とのこと、上野駅のチケット売り場の人が繰り返していた。予想はしていたので、今日は、数年前に見逃してしまった藤田嗣治展、最近発見・修復まもない大作があるということで、上野の森美術館での「没後40年 レオナール・フジタ展」(産経新聞社・フジテレビ共催 2008年11月15日~2009年1月18日 230点)に寄ってみることにした。今回の呼び物は、1992年にパリ郊外の倉庫で発見された1928年制作のライオン、犬と人間群像の「構図」、「闘争」と名付けられた3m×6mの4点の連作は修復後の初公開であるという。不確かな予備知識は若干あるものの、ともかく白紙に近い入館である。
年表の空白
展示は、第1章スタイルの確立―「素晴らしき乳白色の地」の誕生、第2章群像への挑戦―幻の大作とその周辺、第3章ラ・メゾン=アトリエ・フジタ―エソンヌでの晩年、第4章シャぺル・フジタ―キリスト教への改宗と宗教画、とに分かれる。会場に掲げられたパネルの年表によれば、第1章は、1886年生まれの藤田が1913年渡仏以降まったく売れない時代から自らの手法を確立する1920年代までが対象である。深い交遊のあったモジリアニによるデッサン「フジタの肖像」(1917年)も出品されていた。1917年作の若いカップルと乳児を描いた「家族」は、色使いもあわせて、モジリアニの人物画を思わせる。閑散としたパリの風景、細く縁取りされた乳白色の裸婦像が多い。第2章は、第1次大戦後のパリ画壇での成功、私生活での華やかさも加わって、前掲大作制作後の1929年17年ぶりに日本に帰国、東京と大阪での展覧会開催に至るまでの作品が主である。第3章は、晩年を過ごしたエソンヌのアトリエの品々が展示されている。第4章では、まさに最晩年、1959年73歳でカトリックの洗礼を受け、手掛けたランスの平和の聖母礼拝堂のフレスコ壁画の部分的な習作が多数展示されていた。
今回の展示で見る限りでも、「乳白色の裸婦」から、タッチの荒々しくも精緻な男たちの肉体や動物たちの生き生きした表情が顕著な群像大作への変化、さらに晩年の宗教画への変容は、私には理解しがたい面があると同時に、豊かな可能性をも知らされたような気がする。同時に、展示の区切りに配される年表のパネルから垣間見る画家の残した足跡や行動、なかでも交友関係、モデルとの関係、女性関係は、正直なところ、いささか奇異に感じられないこともない。その年表で、私が最も知りたいと思っていた、藤田が2度目の帰国1932年から、敗戦後日本を離れる1949年までの動静だった。今回の展示構成からいえば、いわゆる「戦争画」がないのは予想されたが、年表のパネルは「1886-1922」「1923-1931」「1955-1968」の3枚しか見つからず、なぜか「1932-1954」の部分が会場にはない。当初見落としたかと思って何度か引き返すが見当たらない。会場の係員に尋ねたところ、どこかに問い合わせた後、「今回の展示は、藤田の初期と晩年に焦点を当てたので、その部分の年表は作成していない」との説明があった。普通、画家の年譜や関係年表は、会場の入り口か出口付近に掲げられていることが多い。1枚の年表で、画家の生涯を知ったり、確かめたりできることは、素人の私には鑑賞の手立てにもなっていて、しばし眺めることも多い。年表を分けて展示するのも一つの方法だと思うが、まったくある時代を省略してしまうというのは、どういうことだろうと不思議に思った。しかも、日本とのかかわりが深い時代、十五年戦争期の藤田の足跡が、この展示会ではまったく見えないことになる。たしかに、この時期の藤田嗣治を語るとき、ついて回ってくる「戦争画」については、その公開や芸術性をめぐってさまざまな見解があるのは読んだことがある。そのことが今回の年表の欠落と関係があるのだろうか。1955年にはフランス国籍を取得、1936年来一緒に暮らしていたという君代夫人と正式に結婚、1941年以来の帝国芸術院会員を辞任して日本国籍を抹消している。
戦争画の時代
日本に帰国していた時代は、外務省に協力して国策映画を手がけたり、軍部に協力して戦争画を描き、戦後はGHQの依頼により戦争画の収集に協力したりした時代であった。
藤田自身の手記によれば「この恐ろしい危機に接して、わが国のため、祖国のため子孫のために戦わぬ者があろうか。一兵卒と同じ気概で外の形で戦うべきでなかったのか。平和になってから自分の仕事をすればいい。戦争になったこの際は自己の職業をよりよく戦争のために努力して然るべきものだと思った」(近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社文庫 2006年 323頁)とあり、戦争画も自らの芸術と固く信じていたことは明らかなようだ(前掲書322頁)。そして、遺族の君代夫人も、その考え方を継承しているというのであれば、「1932-1954」の痕跡を消そうとする必要は少しもないはずではないか。主催者の意向がそうさせたのであろうか。私にはどうも納得できないところであった。
美術館を出たところに古い碑があり、よく見ると「明治天皇日本美術協会行幸所阯 昭和18年建立」とある。「日本美術協会」って?と、帰宅後調べてみると、前身の龍池会の発足は1879年(明治12)といい、総裁は皇族が務め、1943年に休眠状態になったとある。現在は財団法人日本美術協会上野の森美術館となり、フジサンケイグループにより運営されているというから、展覧会もそのポリシーが反映するのだろうか。
東京文化会館の裏に回ってみると
摺鉢山古墳の案内板がある階段を上って、見降ろすとなんと紅葉や銀杏の黄葉の枝が重なる先に「正岡子規野球場」のアーチが見えるではないか。そういえば、この辺は歩いたことがなかった。野球場の際に人だかりがしているので近づいてみると、そこにはまだ新しい「春風やまりを投げたき草の原」の句碑が建っていた(2006年)。松山から上京した子規は勉強の傍ら上野公園で野球を楽しみ、本名の「のぼる」とかけてベースボールを「野ボール」と称したという。案内板には「正岡子規記念球場」の愛称の謂れと子規のユニホーム姿の写真が焼き付けられている。ガイドの説明を受けていたグループは、「東京私学退職者の会」の赤い幟を先頭に離れていった。次はどこへと行くのだろう。思わずついていきたくなったのだが。
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