「新人画会展~戦時下の画家たち」(板橋区立美術館)
久しぶりに池袋の実家に立ち寄るのに、仏壇に花でも供えてもらおうと西口地下通路の花屋に入った。店の前で待っていた夫が、12月いっぱいで閉店だってと張り紙を指す。ああここもなんだと、近頃、池袋に来るたびに、そんなニュースが絶えない。
まだ長兄が元気なころ、「クスリの方は閉めることにしたよ、売り上げは減るし、体もきつい」といって、薬局を閉めたのが10年近く前だった。タバコだけはと、店を縮小、自販機を増やして、続けていた。父が今の平和通りに薬局を開いたのが大正末期、兄が生まれる前だった。空襲で家を焼かれた時も、敗戦の翌年にはバラックで商売を始めた。敗戦の年に薬専を卒業した兄と父母が店を支えた。父母はとうの昔に、兄も2005年の夏に他界した。兄の晩年、板橋の病院に見舞いに通っていたころ、芳林堂書店が閉店し(2003年3月)、東口(確か西口にも)にあった談話室・滝沢が閉店した(2005年3月)。さかのぼれば、結構親しんでいたセゾン美術館が1999年に、東武美術館が2001年に閉館している。
実家に着くと、義姉もタバコのお客で忙しそうで、私たちも仏壇にお線香をあげるのもそこそこに、急いで引き返し東武東上線に飛び乗った。成増で下車、タクシーで5分ほどで着いた板橋区立美術館は雑木林に囲まれ、駅前のにぎやかさからは想像もできなかったたたずまいであった。
「新人画会展~戦時下の画家たち―絵があるから生きている」は、先の「レオナール・フジタ展」の仕掛けとは違う、地味ながら考えさせられる展覧会だった。ここでも、戦争と美術、表現の自由が浮き彫りにされる。「新人画会」は、太平洋戦争下の1943年、いずれも30代の靉光、寺田政明、麻生三郎、松本竣介、鶴岡政男、糸園和三郎、井上長三郎、大野五郎の8人の画家が、描きたいものを描くために相寄り、結成された、という。「大東亜戦争」「陸軍」「国民総力決戦」などを冠する美術展が開かれるなか、1944年にかけて、すでに空襲も始まっていた東京で3回の「新人画会展」を開催したが、画材不足・画廊閉鎖とともにメンバーが入隊・徴用・従軍・疎開などで散らばり、敗戦を迎える。今回の展示は戦時下の作品のみならず、各メンバーの画学生時代の作品から早逝の靉光、松本を除いては、戦後の長い画業をもたどるものであった。とくに1943~44年という短期間に開いた3回の「新人画展」を再現しようと、資料や証言によって作品の特定や収集に努めたという。当時のカタログなどが不明だったり、作品自体の焼失、散逸などが重なったりの困難のなか21点が集められ、合わせて84点が展示されている。
松本竣介(1912-1948)の「新人画会展」出品作である、街路樹の坂道を石塀沿いに登っていく男の後姿を描く「並木道」(1943年頃)、工場街の運河にかかる橋を描いた「Y市の橋」(1943年)など、鈍く暗い色調が特色と思っていたが、1940年28歳の「黒い花」「街にて」では、青を基調に、都会のビルなどを線画で配し、街ゆく人々が自在に描かれており、亡くなる1948年の「彫刻と女」では、うすぎぬをまとう横向きの女性が描かれているのを見て、その若々しいタッチと色調に何かほっとした気分になるのだった。
寺田政明(1912-1989)は、私には、俳優寺田農や寺田史兄妹の父親という情報の方が先ではあったが、戦時下の抽象画、暗い静物画から戦後の自画像までの流れが少しわかってきた。彼の息の長い、積極的な制作活動と画壇でのリーダー的存在は、明るい人柄に支えられていたらしいこともわかる。ちなみに、今回の展覧会の副題「絵があるから生きている」は、戦後、当時を振り返って語った寺田の言葉だったという。
最も年長の井上長三郎(1906-1995)が、新人画会結成の声を上げたらしい。フランス帰りの井上は、シュールレアリズムの洗礼を受けたはずである。第1回展(1943年4月)出品の「スエズ」「トリオ」は不思議に引き込まれる絵だ。前者は砂漠と運河を前に休息をとる男たちの群像を後ろから描き、後者は、岩山の迫った草も生えない平地に、コントラバス、バイオリン、ピアノを奏する3人をバラバラに配し、また離れた所に2・3人聴衆が立っているという、赤茶けた灰色の世界に、人間はかすかな青い光りをまとっているという、確かに暗示的な絵ではある。そして、同じ雰囲気を持つ「漂流」は、雲に覆われた暗い海の小舟に6・7人が膝を抱えているという群像であるが、「国民総力決選美術展」(1943年9月)に出品されるやただちに「厭戦的」ということで会場から撤去されることになったという。井上は、敗戦後、すぐにも「東京裁判」(1948年)を、さらに1960年代には「復古調」(1966年)、「白い椅子」(1969年)など、社会的なテーマをシニカルに描いた画家だった。
糸園和三郎(1911-2001)の「犬のいる風景」(1941年)の幻想的な静寂さは、別世界に引き込まれるようであった。第1回展に出品の「夜の公園」は現存していないが、当時制作された1枚の「絵ハガキ」だけが見つかったといい、テーマも雰囲気も同様のものであった。戦後間もない作品「老夫」(1946年)「風船と少女」(1949年)や力強い人物像にも思える「鳥をとらえる女」(1953年)「像」「架」(1955年)への変容には興味深いものがあった。
鶴岡政男(1907-1979)は、戦前から前衛的な絵画を牽引し、戦後は油彩のみならず、パステル画、デッサン、彫刻と精力的な活動してきたが、今回は、敗戦直後の、よく知られた作品「重い手」を見ることができたのは収穫であった。
靉光(1907-1946)は、夭折の孤高の画家としてつとに有名であるが、目を凝らし遠くを見つめる「白衣の自画像」(1944年)はコピーでしかなかったが、「梢のある自画像」(1943年)という作品に出会った。これらの自画像の直前の作品である雉や魚の頭を描いたものは中世の鳥獣の精密画を連想するが、同時期の「ダリア」「グラジオラス」など花の連作もあり、多様な関心は、戦後どのような活動になったか見極められなかったのは残念なことだった。2007年、生誕100年の回顧展が開催されたのを見逃してしまっていたので、わずかながらまとめて見ることができたのは運がよかった。
メンバーたちは、基礎を学んだのが、川端画学校(糸園、大野、靉光)、太平洋画会研究所(靉光、麻生、井上、鶴岡、寺田、松本)であり、独立美術協会(展)に参加、のち美術文化協会の結成などにかかわり、交友を深めていった仲間だった。何人かは、長崎、板橋など「池袋モンパルナス」周辺に暮らしていたという共通体験がある。それに、その画風や生き方に個性が光るのは、あの時代、自分たちが「新人画会」に寄ったことを淡々と客観的に語れる自負があったからではないかと思う。自らを過大に評価するでもなく、隠ぺいもせず、言い訳もしない、少しでも「自由に」描くことを喜びとした表現者であったことに尽きるのではないか。逸見猶吉を兄に持ち、詩人たちとの交流も深かった大野五郎(1910-2006)は、当時のことを「暗い谷間に小さく細くなったローソクを消さないために、ただ黙って静かに語り合ったのだ。そしてみんなそれぞれの暗いアトリエで、あたえられた道を画家としての誇りを少しでも持続させようとしたのだ」と語っているという(「新人画会のころ」『三彩』1963年1月、原田光「失われたものを思う」カタログ119頁)。
「活字として残す」ことは、どんな戦禍に遭おうとも、どこかで残る可能性を持つが、「画布を残す」ことの物理的な難しさが、戦争という愚行でいっそう浮き彫りになったことも銘記すべきだろう。この時期の作品は、東京のアトリエで空襲などに遭い焼出している。夫、麻生三郎(1913-2000)の作品3点の画布を巻き、幼子をおぶって、疎開先からさらに疎開先に移動したという、麻生美智子さんの言葉が重い。麻生には人物画が多いが、夫人みずからがモデルとなっている第2回展出品の「うつぶせ」(1943年)の画布にいまだ残る折れ目は、その時のものだという(弘中智子「麻生美智子さんに聞く『新人画会の時代』」カタログ117頁)
会場を出ると、辺りはすでに暮れていて、美術館は、木立のシルエットに包まれていた。
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