エセル・スマイスは何と闘ったのか
エセル・スマイスの名を初めて知った
去る12月11日(木)、千駄が谷の津田ホールでの「エセル・スマイスの室内楽」に出かけた。エセル・スマイスEthel Smyth(1858-1944)は、私には初めて聞く女性作曲家の名前であった。コンサートには「闘う作曲家にしてフェミニスト、その生誕150年を記念して」という副題がつき、「津田塾大学創立110年記念」という冠もついている。
このコンサートを企画したのは、つい先日12月6日「開かれたNHK経営委員会をめざして」のシンポジウムの折のパネリストの一人、小林緑さんだった。このブログのシンポジウム報告にもあるように、小林さんは、ヨーロッパ音楽史を専攻する研究者で、近年は、「ジェンダーと音楽」の講座を持ち、従来の音楽史では評価されてこなかった女性作曲家の発掘や紹介を続けている。2期6年間、NHKの経営委員として視聴者のスタンスからきちんと発言をしてこられた方でもある。
コンサート当日は、開演に先立ってスマイスについて、小林さんの講演があった。スマイスのさまざまな肖像写真・楽譜などの映像や彼女自身の指揮による自作のオペラの視聴をしながら、その生涯が語られた。
スマイスはなにと闘ったのか
イギリスの中流階級の家庭に生まれたスマイスは、10代ではライプツィヒ留学を果たすため親と闘い、30代から40代にかけては自作の演奏の機会を求めて闘い、50代では女性参政権獲得のために闘い、議会への投石により投獄され、晩年は自らの聾と闘ったという行動的な作曲家だった。ドイツでは、オーストリアの作曲家ハインリッヒ・ヘルツォンベルグに師事、チャイコフスキー、クララ・シューマン、ブラームス、ドヴォルザーク、グリーグらと親交を結んでいる。当初はピアノ曲が多く、デビューは1890年管弦楽作品「セレナーデ二長調」であったが、チャイコフスキーの勧めもあって、女性作曲家としては珍しいオペラを手掛け、親しいアメリカ人作家ヘンリー・ブルースターの台本を得たりして「難船略奪者」などの作品を残している。自作の売り込みや上演にあたっては自己主張が強かったという。1910年、スマイスは、イギリスにおいて、パンクハースト(1858-1928)が率いる女性社会政治同盟が参政権獲得運動を展開していた。目的のためにはデモもハンストも辞さないリーダーの行動力に魅せられ、同盟歌「女たちのマーチ」を作曲、活動にのめりこみ、55歳にして逮捕・投獄されることにもなる。1910年5月にはロンドンで1万人規模のデモがなされている。これらの活動に並行して、スマイスは、女性音楽協会において、女性作曲家の上演推進などにも以降尽力する。
日本では、明治末期、1910年の大逆事件で管野スガが投獄され、翌年死刑が執行されている。1911年9月には平塚らいてう等が「青鞜」を創刊している時代でもあった。
生涯独身を通し、愛犬をパートナーに、スーツにネクタイ姿、ゴルフ・乗馬・登山が趣味だったというスマイスの写真を何枚か見ていると、日本でいえば、市川房枝を彷彿とさせるのだが。
勇壮で力強く、ときには優しくこまやかに
この日の曲目と演奏者は、甲斐摩耶さんの「ヴァイオリン・ソナタ イ短調 作品7」、加藤洋之さんの「ピアノ・ソナタ第2番 嬰ハ短調」、ヴァイオリンと阿部麿さんのホルンとの「二重協奏曲」などであった。もちろん初めて聞く曲ばかりであったが、「女性らしい」という意識も感覚も生じなかった。女性作曲家といえば「乙女の祈り」のバタジェフスカくらいしか知らなかったので、また一つ異なる世界に招き入れられた感じがしている。コンサートには珍しく、司会の小林さんは演奏者の生の声もとマイクを向けると、誰もが作曲者が女性という意識はなかったと語っていたのが印象的であった。
小林緑さんは、当日のプログラムに、スマイスの生き方は「現実社会への意識が希薄なクラシック音楽界に強烈な印象を与えずにはおきません。私にはあらゆる面で危機的状況が進む今の世で、最後まで一徹に闘い信念を貫いたこの女性の存在がいかにも貴く眩いものに感じられます」(「今こそ聴きたい、広めたい、エセル・スマイス」)と記していた。
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