初めての国際こども図書館~「童画の世界」へ
師走に入って間もなく、上野に出たついでに「国際こども図書館」にはじめて入った。展示中の「童画の世界~絵雑誌とその画家たち」が充実していたし、楽しかった。国立国会図書館に在職中、支部図書館時代に来たことがあるはずなのに記憶が定かではない。樋口一葉も、斎藤茂吉も利用したという帝国図書館(1906年創建)の面影がまだ残る雰囲気であったことが思い出される。「国際こども図書館」としてスタートしたのは2000年だったという。建物の内外の印象はだいぶ違っていて、どの階もとても明るく、展示会場の3階「本のミュージアム」の中央に据えられた二つの円形の木製展示棚も新鮮であった。
博文館の「幼年雑誌」(1891年、明治24年創刊)、「少年世界」(1895年創刊)など明治後半の読み物中心で、絵は添え物、挿絵であった時代から、大正時代に入るとさまざまな「絵」にも重点が置かれた児童向け雑誌が競い合う。大正デモクラシー、自由教育の運動の一つの表れでもあったのだろう。展示の大半は、「草創期」から太平洋戦争下で廃刊を余儀なくされる「衰退期」への流れの中で「子供之友」(1914~1943年 婦人之友社)「コドモノクニ」(1922~1944年 東京社)、「コドモアサヒ」(1923年創刊 朝日新聞社)「キンダーブック」(1927年創刊 フレーベル館)という時代を画したタイトルごとのコーナーであった。初山滋、武井武雄、松本かつぢなどの絵は、私自身の敗戦直後の貧しい読書体験の中でも、リアルタイムで接していたような記憶があり、懐かしいものだった。ちなみに、私の雑誌初体験は、いまから思えば、1949年「少女」(光文社)創刊の頃で、すでに「少女クラブ」(1946年「少女倶楽部」改称、講談社)があり、2誌ともご近所のお姉さんたちから毎月借りていて、私はその代わりに小学館の学年別雑誌を回していたと思う。蔦谷きいちのぬり絵に親しんでいた私には、蕗谷虹児、中原淳一らの絵がとても新鮮で、おしゃれに思えた時代である。マンガでいえば「あんみつ姫」と「サザエさん」の時代でもあった。
また、主要な画家には、各人の展示コーナーがあり、私が初めて知る画家もいて、新しい発見があった。深沢省三・深沢紅子は夫妻だったのか。村山知義はプロレタリ演劇運動のリーダーという認識だったが、大正時代より新興美術運動の旗手として童画には生涯かかわったという。そして、末尾に掲げた、今回の展示会の撮影スポットとして拡大された絵が、彼の「せいの順」(「子供之友」1926年1月号)であった。アイデア、デザイン、色彩的にもすぐれた現代的なメッセージだと私には思えた。彼の妻、村山●子が文を書いた合作を多く発表していることも初めて知った。
なお、日本画家、洋画家が描いた「童画」を紹介するコーナーもあって、恩地考四郎、古賀春江とともに東山新吉(東山魁夷)の「花の下」「オベントウ」(いずれも「コドモノクニ」1931年)が展示されていて、のどかな気分にもなった。
少し遅い昼食だったが、1階のカフェでクラブサンドイッチを食しながら、大正末期の数年間を小学校教師として過ごした母がこんな展示を見たら喜んだろうな、と思わずにはいられなかった。母を亡くして半世紀も経とうというのに。亡父からは、小学校の校庭での体操の時間、「ギンギンギラギラ~」と「夕日」を歌いながら子どもの輪の中で遊戯をする母を、垣根越しに見たのが「見合い」だったとよく聞かされていたのだ。
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