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2009年1月24日 (土)

はじめての靖国神社

靖国神社へ

 『蟻の兵隊』を見て間を置かない新年に、靖国神社へ出かけた。東京に生まれて育ちながら、私は靖国神社境内に入ったことがなかった。10年以上いた職場から決して遠くはないのに、皇居一周のジョギングコース、千鳥が淵、武道館、イタリア文化会館あたりまでは走ったり、歩いたりはしているのに、足を踏み入れたことがなかった。この日は、飯田橋方面からパレスホテル、冬青木坂(もちのきざか)、フィリピン大使館を経て大鳥居をくぐった。

参道の右手に目立つのは「常陸丸殉難の碑」であり、「田中支隊の忠魂碑」である。前者では日露戦争時1904年の玄界灘でロシアに撃たれ沈没、乗員1100名以上が犠牲となったことが分かる。忠魂碑は、1919年のシベリアで、歩兵第72連隊田中勝輔支隊の戦闘で全滅した兵たちのものだ。いずれも九段会館近くにあったものを昭和、平成になってこの地に移転されたという。また、第二の鳥居を経て、右に曲がり、今日の目的地、遊就館近くまで進むと前庭には、軍馬、軍犬の慰霊像があり、東京裁判のパル判事の胸像までもある。

軍馬は、太平洋戦争だけで20万頭、軍犬は1万頭が命を落とした。軍犬の銅像の裏に回ってみると「平成4年(1992)動物愛護の日に」とある。身勝手な人間を思い、複雑な気持ちになった。パル博士は、東京裁判の判事団の一人のインドの法律学者で、「日本無罪判決」の少数意見を書いたとして著名である。この「無罪論」は、日本を戦争責任から解放したい人たちからは金科玉条のように言われるが、事後法は及ばず、戦争犯罪を個人の責任できないというのが骨子で、国家の戦争責任自体を回避するものではないといわれている。靖国神社に顕彰碑が立ったのは2005年と最近のことであった。

遊就館に入る

 閉館までだいぶ余裕をもって入館したつもりだったが、せわしなかった。走り抜けるようにしか見られなかったのところもあって残念ではあった。遊就館の前身は、1882年、靖国神社ゆかりの品を収める絵馬堂、美術館としてスタートしている。以降、軍事博物館としての役割を果たしてきたが、1945年敗戦により閉館、1986年になって再建、2002年に新館建設と大幅な修復を経て、2007年には展示も改まったという。だから「博物館」のディスプレイとしては、最近よく見かける文学館風でもあった。しかし、展示をつらぬくのは「英霊顕彰」、「英霊のまごころを事実に即して伝える場所」という位置づけである。年表を軸に都合のよい「事実」と「歴史観」で綴られてゆくのが歯がゆかった。「事実」の検証は、公文書をはじめ、統計、新聞記事、手紙・遺書など私文書、写真・動画などでなされているかのようだが、いまとなっては、客観性や信ぴょう性に疑問のある資料が多い。とくに、兵力、損害等の数字も示されるもののその根拠や出典が明確ではないのが気になった。私自身が学んできた日本の近現代史との「ぶれ」は大きい。アジア諸国への侵略、植民地化、加害者としての戦争責任を認識しようとする姿勢がないことは、歴史として語り継ぐには、大きな欠陥になるだろう。戦争の歴史は、作戦や武器の歴史ではないはずだ。

私が興味深かったのは、ここに収められている戦争絵画の数々であり、そして展示室の随所に大書された天皇や軍人の短歌、遺書の最後に書かれている母を想う短歌であった。日本人にとっての短歌とは、もう一度、あらためて考えねばと思った。

また、私がもっとも衝撃的だったのは、遺骨収集の際に集められた、大展示室のガラスの陳列棚に際限なく並べられた遺留品の数々であった。兵士たちが肌身離さなかった、飯ごう、鉄兜、家族写真・・・、遺品の一つ一つの傍らに在ったお骨の命を思うと、そしてまだ収集もされていないお骨を思うと、胸が詰まる。神社ではない、宗教色のない、公的な戦死者慰霊の場が欲しいと、切実に思った。そして、ベルリン旅行で出会った「ドイツ歴史博物館」のような、より客観的な史実に基づく「歴史博物館」の出現が待たれるのだった。

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2009年1月19日 (月)

今年の歌会始~もう誰も何も言わない

<短歌という文学でないものがあり夫妻でつとめる歌会始>   

これは、歌人、風間祥さんのブログ「銀河最終便」(2008723日)の記事の表題である。一首にもなっているようだ。次のような文章で始まる。

元々短歌そのものが、文学とは何の関係もないものなのかもしれないけど。

世の中驚くことが多い。皇室御用掛、岡井隆氏が、初めて歌会始選者を引き受けたのは何年前だったろう。

あれから何年も経って、来年の歌会始には、短歌結社「塔」の主宰夫婦が揃って歌会始選者をつとめるそうだ。

2009年度、歌会始選者。岡井隆、篠弘、三枝昂之、永田和宏、河野裕子)

大分県の教育委員会も驚くような人事である。(後略)

 昨年、この一文を見つけた時は、正直な感想を「勇気をもって」書いているな、と思った。あとに続くコメントや反響があるかと思って楽しみにしていたが、それもなかったようだし、短歌の総合雑誌やインターネット上でも、この選者人事はほとんど話題にはならなかった。風間さんは、私などと違って、現代短歌に精通していて、溢れ出すような短歌作品をネット上で発表している歌人だ。とくに若い歌人たちを温かい目で見守りながら、ときには「歌壇」や著名歌人にも異議を申し立てる、度量もあるし、気骨の人でもあるらしい。お会いしたことはないのだが。

 この人事が新聞で発表になったのが昨年71日、実は、その翌日の72日に、私も当ブログに「節度を失くした歌人たち―夫婦で選者、歌会始の話題づくりか」と題して一文を書いている。かれこれ10年も前になろうか、ある書評紙の時評に「夫婦や家族で売り出す歌人たち―そのプライバシーと引き換えに」と題して書いた時に、「永田和宏・河野裕子一家」に触れたことがある。家族全員が歌詠みで何が悪い、夫婦で選者のどこが悪い、と言われればその通りなのだが、こと、文芸に携わる者として、やはりどこかがおかしいのではないか、と思ったのだ。短歌結社運営、歌集出版社が絡んだりすると同族経営の短歌ビジネスともなりかねない。短歌作品の評価というのは、究極のところ、スポーツのように客観的な基準というものがない上、短詩型なので、さらに曖昧さを残す。いやな言葉だが、「こて先」や「はったり」がまかり通ることもある。売れるか売れないかは、啄木、晶子、寺山修司、俵万智くらいの高い愛唱性が必要だ。だから歌壇では、仲良しグループ、身内同士で、褒めあったり、さまざまな賞を譲り合ったりすること、あるいは師匠筋の贔屓や覚えが幅を利かす場面が多い。

 しかし、今回の人事の異様さは、これにとどまらず、もっとキナ臭い底流が見え隠れする。宮中行事の歌会始の選者が「御歌所」歌人から民間歌人の手にわたって60数年、日本の戦後史と重なる。以来、選者人事は、宮内庁からの信頼が厚い選者、木俣修、亡き後1979年からは岡野弘彦の発言権が、長い間、大きかったと思われる。その岡野が2008年の選者を最後に退き、1983年来の御用掛(天皇家の短歌指導・相談役)も辞して岡井に譲っている。岡野の置き土産が永田、篠、三枝だったろうか。というのは、岡野弘彦は、文化庁管轄の芸術選奨の選考委員を1985年以来長くつとめていた。詩、俳句、短歌のジャンルからローテーションで毎年12名がつとめるのが慣習らしいので、必ずしも毎年というわけではない。その選考委員を1999年から3年間篠弘が就任し、2003年から再び岡野になった。前者の間に第50回平成11年度には佐佐木幸綱歌集『アニマ』、後者の間に第54回平成15年度には永田和宏歌集『風位』が、第56回平成17年度には三枝昂之『昭和短歌の精神史』が受賞している。選考委員の一時期を岡野から譲られた篠、そして岡野が選考に関与した永田、三枝が歌会始選者に就任している。佐佐木は、岡井が選者になった時、「(歌会始に)俺はいかない」と宣言したこともあって、踏みとどまっているのだろうか。彼は、昨年、部会の推薦で、前登志夫の死去で欠員となった芸術院会員の席におさまった。すでに馬場あき子がなっているので、歌人では、岡野弘彦との3人になった。部会とは、これに、俳句の森澄雄・金子兜太、詩の那珂太郎、中村稔、大岡信による詩歌部会である。となると、国家的褒賞制度ともいえる、歌会始の選者、芸術選奨、芸術院会員のすべてに岡野弘彦がかかわっていたという構図である。裏返せば、国家の文化振興政策がたった一人の掌中に握られていたということではないか。おそらく短歌の世界だけのことではない、と身ぶるいするほど恐ろしくなるのだ。そして、岡野からそのバトンは誰に渡されようとしているのか。それこそ少しばかりのアメをばらまけば、「空気が読める」歌人たちは簡単にすり寄っていく。そのアメが、歌壇ジャーナリズムを媒体に、時評、書評、対談、テレビ出演だったり、出版記念会へのお出ましだったり、受賞・授賞だったりとその手段は限りない。 国家権力は、ほんの一握りの歌人さえ、その気にさせれば「刃物」は要らない、と私自身の物言いがだんだん2チャンネル風になっていくので、この辺でやめることにしょう。

しかし、多くの国民は冷静なのだろう、歌会始の応募歌数はいっこうに増加しそうになく2万首台の前半で低迷している。相変わらず青少年の作品は優遇されているらしく、12名の入選作がことさらに報道される。何のことはない、歌の甲子園よろしく、歌会始に熱心な教師がいる特定の学校が、数百の単位で生徒の応募を促しているようなのだ。「歌わせたい」教師たちと「君が代」を強制されることに年々慣れていく教師たちの姿が重なり、重苦しい年初めになるのだった。

 歌会始は、宮廷行事の一つとして皇族方が楽しんでいただければそれでよい。国民との懸け橋などと思うのは、天皇制を強固にしたい、また、それを利用したい人たちが考えることだろう。

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2009年1月10日 (土)

『蟻の兵隊』を見る

      

 『蟻の兵隊』(池谷薫監督)は、2006年、劇場で見た友人から、ぜひと勧められていたドキュメンタリー映画だ。2008年暮れ近くになって、地元の9条の会のDVD上映会でようやく見られることになった。

 1945年、日本が降伏した後も、中国山西省に残留し、国民党軍として中国共産党軍と戦った日本兵たち、その一人奥村和一が主人公である。残留兵2600人のうち550人が戦死し、700人以上が捕虜となり、日本に引き揚げてきたのは敗戦10年後のことだった。軍の命令で残留した兵たちは、後、国を相手に軍人恩給を求めたが、国は、彼らが自らの自由意思で現地除隊の上、勝手に志願して国民党軍として戦った、としかみなさなかった。最高裁もその訴えは棄却した。奥村は、自らの体に無数の砲弾を残しながらの身で、同僚を訪ね、上官を探し訪ね、中国の裁判所や検察庁、公文書館にまで資料を探索に出かけ、ついに、軍司令官・澄田ライ四郎(ライは貝偏に来を書く。元日銀総裁澄田智の父)が国民軍軍閥・閻錫山と日本兵残留工作の密約を取り交わした文書にまでたどり着く。その内容は、澄田自身の保身が顕著なものであったのだ。しかし、日本政府は、元残留兵たちの軍人恩給は認めてはいない。映画は、さらに奥村と元残留兵たちと力を合わせての法廷闘争、奥村自身が山西省での初年兵時代の残虐な住民虐殺の実態、そうした体験を家庭では話そうとしなかったという妻の証言、重い口を開いて密約の事実を語っていた上官の一人がいまは重篤な病床でなおも奥村らに応えようとする現実を、実写の映像で丁寧に綴り、現在の司法や政府の理不尽な対応と平和への願いを訴えた労作であった。

 さらに、私がこの映画で印象に残っているのは冒頭の靖国神社境内のベンチで、何の屈託もなく屋台からのテイクアウトを食している若ものたちへのインタビューであった。聞き手が連れ立っている奥村さんの履歴や体験を紹介すると真剣な表情に変わっていくシーンである。また、終わりに近いところで、たしか815日の境内で、右翼の一団に囲まれながら演説をし終わった小野田寛郎さんに奥村さんが「あなたは戦争を美化するのか」という主旨の言葉をかけると小野田さんがすごい形相で立ち去る場面があった。また、植物人間のようになった元上官が見舞った奥村さんに懸命に叫んで応え、家族が「わかっているんですね、聞こえているんですね」と語る場面には涙が止まらなかった。

 どんなに言葉を尽くしても伝えるのは難しい。見てはじめて伝わるのが映画なのだろう。

ただ、中国での取材、元上官への訪問、会議などが必ずしも時系列ではなく進行するので混乱する。せめて、画面の端にでもそのつど年月を挿入してもらうと理解の手助けになるのではないかと思った。

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2009年1月 2日 (金)

新年のあいさつ

新しい年をいかが迎えられましたでしょうか。

時代は大きな不安を抱えたままですが、目標を見失わず、できることから始めなければと思っています。

昨年は、「やっぱりおかしい、NHK7時のニュース」で、ブログの威力を自ら体験しました。今年も、気ままな報告や感想を綴りながら、少しでもものごとの本質に近づくことができるよう努力したいと思っています

まずは、自分の健康管理でしょう、との声もあって、毎朝の公園の太極拳に遅刻しないようにというのが先決かもしれません。

皆様の健康とご活躍を祈ります。                                                                                 

200911

(書き込んでいるうちに、日付が変わってしまいましたが)

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2009年1月 1日 (木)

竹山短歌の核心とマス・メディアとの距離(3)

 

沈黙の後
 
昭和三〇年代の古い『短歌研究』を読んでいて、竹山の「ルルドの水」(一九五九年六月)に出会ったときは感慨深かった。病の死の底からの生還を静かに詠んだ二〇首だった。

⑬高き空襞をつらねて暮るるとき息をつながむ喉ひらきをり
(「ルルドの水」『とこしへの川』一九八一年)

⑭奇跡呼ぶ信仰になほ遠くして胸にルルドの水はつめたし(同上)

⑮投げ上げしごとくに合歓の花うかぶ生きて一夜の朝明けしかば(同上)
そして、同誌八月号には、「ポトナム」の小崎碇之介の「焱と死者の街」が、「原爆の生き残りの作者が十四年間、筺底に秘めた広島挽歌」として発表された年でもあったからだ。ちなみに、広島の原爆を、小崎は「骸となりし童の指の天を指すわれのみ生きて坐る目の前」「国を愛すといへどるいるいと殺されて無辜のみが負ふ罪かと思ふ」とうたった五三首は、反響を呼んだが、現時点から「追憶」としてうたった作品の常識性が指摘されていた。

マス・メディアとの距離
 竹山は、この『短歌研究』への登場後、作歌は断続的となり、再び歌壇に名を見せるようになるのは、一九八一年、六一歳にして出版された第一歌集『とこしへの川』以降である。この間、仕事に追われながらも、年譜の一九八四年には「この年から、市民による核実験反対の座り込みに参加」とあり、市民運動へのかかわり方の相違も如実にあらわれ、マス・メディアへの姿勢もおのずから明確になっていく。現場にいたものしか理解できない取材カメラへの違和感、距離というものが、浮き彫りにされる。

⑯涙すすりて黙禱に入る遺族らを待ち構へゐしものらは撮りぬ
(「一年のうちのいち日」『とこしへの川』一九八一年)
⑰黙禱の我らを撮りしカメラマンらすぐに去りゆきて躰くつろぐ
(「ばらばらの列」『残響』一九九〇年)

 活字メディアに心寄せたかつての自分を振り返るのが、次の作品だろうか。

⑱綜合誌の巻頭にもかかる歌ありと諳んじたりし歌も忘れき
(「白鳥の脚」『残響』)

 さらに、今世紀に入ると、湾岸戦争以降の戦争報道に象徴されるような、報道の、あるいはメディアの裏側、仕組みのようなものをしだいに、肌で感じるようになるのだろうか。つぎのような詠みぶりになる。

⑲テレビジョンにこよひ公憤のごときもの湧きて用なき机を灯す
(「眇歌」『射禱』二〇〇一年)

⑳映すゆゑ見る戦争の映さざる部分を思ひみることもせず
(「茶の間の戦争」『遐年』二〇〇四年)

21原爆をわれに落しし兵の死が載りをれば読む小さき十六行
(「詞書・二〇〇二年七月二十日二首」『空の空』二〇〇七年)

 また、歌人として、「ナガサキ」の証言者として、幾度か、マス・メディアの取材の対象となることも増えていったのだろう。

22深仕舞ひせるかなしみを取り出だすごとくに語るカメラに向きて
(「詞書・テレビ収録のため原爆公園に入る」『空の空』)

23かがやきて声あぐる水この川のかの日の死者をわれは語るに(同上)

 原爆報道やいまも続く戦争報道を通して、マス・メディアの裏も表も知ってしまいながらも、そのことを踏まえて、なお、その取材に応じている誠実さがにじみ出ている作品である。

24原爆を特権のごとくうたふなと思ひ慎しみつつうたひきぬ(『空の空』) 

 なお、近年の竹山短歌の読まれ方として、まるで自らの「免罪符」のように賞讃する傾向が見てとれる場合があるのは残念なことである。(完)

                 (『ポトナム』2009年1月号所収)

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