竹山短歌の核心とマス・メディアとの距離(3)
沈黙の後
昭和三〇年代の古い『短歌研究』を読んでいて、竹山の「ルルドの水」(一九五九年六月)に出会ったときは感慨深かった。病の死の底からの生還を静かに詠んだ二〇首だった。
⑬高き空襞をつらねて暮るるとき息をつながむ喉ひらきをり
(「ルルドの水」『とこしへの川』一九八一年)
⑭奇跡呼ぶ信仰になほ遠くして胸にルルドの水はつめたし(同上)
⑮投げ上げしごとくに合歓の花うかぶ生きて一夜の朝明けしかば(同上)
そして、同誌八月号には、「ポトナム」の小崎碇之介の「焱と死者の街」が、「原爆の生き残りの作者が十四年間、筺底に秘めた広島挽歌」として発表された年でもあったからだ。ちなみに、広島の原爆を、小崎は「骸となりし童の指の天を指すわれのみ生きて坐る目の前」「国を愛すといへどるいるいと殺されて無辜のみが負ふ罪かと思ふ」とうたった五三首は、反響を呼んだが、現時点から「追憶」としてうたった作品の常識性が指摘されていた。
マス・メディアとの距離
竹山は、この『短歌研究』への登場後、作歌は断続的となり、再び歌壇に名を見せるようになるのは、一九八一年、六一歳にして出版された第一歌集『とこしへの川』以降である。この間、仕事に追われながらも、年譜の一九八四年には「この年から、市民による核実験反対の座り込みに参加」とあり、市民運動へのかかわり方の相違も如実にあらわれ、マス・メディアへの姿勢もおのずから明確になっていく。現場にいたものしか理解できない取材カメラへの違和感、距離というものが、浮き彫りにされる。
⑯涙すすりて黙禱に入る遺族らを待ち構へゐしものらは撮りぬ
(「一年のうちのいち日」『とこしへの川』一九八一年)
⑰黙禱の我らを撮りしカメラマンらすぐに去りゆきて躰くつろぐ
(「ばらばらの列」『残響』一九九〇年)
活字メディアに心寄せたかつての自分を振り返るのが、次の作品だろうか。
⑱綜合誌の巻頭にもかかる歌ありと諳んじたりし歌も忘れき
(「白鳥の脚」『残響』)
さらに、今世紀に入ると、湾岸戦争以降の戦争報道に象徴されるような、報道の、あるいはメディアの裏側、仕組みのようなものをしだいに、肌で感じるようになるのだろうか。つぎのような詠みぶりになる。
⑲テレビジョンにこよひ公憤のごときもの湧きて用なき机を灯す
(「眇歌」『射禱』二〇〇一年)
⑳映すゆゑ見る戦争の映さざる部分を思ひみることもせず
(「茶の間の戦争」『遐年』二〇〇四年)
21原爆をわれに落しし兵の死が載りをれば読む小さき十六行
(「詞書・二〇〇二年七月二十日二首」『空の空』二〇〇七年)
また、歌人として、「ナガサキ」の証言者として、幾度か、マス・メディアの取材の対象となることも増えていったのだろう。
22深仕舞ひせるかなしみを取り出だすごとくに語るカメラに向きて
(「詞書・テレビ収録のため原爆公園に入る」『空の空』)
23かがやきて声あぐる水この川のかの日の死者をわれは語るに(同上)
原爆報道やいまも続く戦争報道を通して、マス・メディアの裏も表も知ってしまいながらも、そのことを踏まえて、なお、その取材に応じている誠実さがにじみ出ている作品である。
24原爆を特権のごとくうたふなと思ひ慎しみつつうたひきぬ(『空の空』)
なお、近年の竹山短歌の読まれ方として、まるで自らの「免罪符」のように賞讃する傾向が見てとれる場合があるのは残念なことである。(完)
(『ポトナム』2009年1月号所収)
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